真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十四話 賢狼、未だ顧みず

 未明から雨が降った。柔らかい、単調な雨だった。夏。草木はとみに喜ぶだろう、土地を耕す民は言うまでもない。屋根を叩く音を聞きながら司馬懿は書に目を通していた。

 

 ――姓は司馬、名は懿。字は仲達。朗、懿、孚、馗、恂、進、通、敏……『八達』と謳われる当代司馬家の八人娘、司馬懿はその内の次女であり、巷では司馬家の最優だともてはやされていたが、当人は馬鹿な話だと思っていた。姉の司馬朗、妹の司馬孚。共に自らの才を軽々と凌駕している。

 非才が一体何を成そうというのか。仕官を求める声もあったが、司馬懿はその度に嘘八百を並べ立てて断ってきた。

 そのような司馬懿の生き方をせせら笑う者もいた。司馬懿は背丈が六尺に至らんとする程の長身で、癖のない真っ直ぐな茶色い髪が背中にまで伸びている。その姿格好でいると首が特に長く見えるようで、いつでもどこでも問題に出くわせばすぐに明察を叩きだす彼女を皮肉って、名士出の若者たちは『司馬懿の首は後ろにまで回る』と揶揄したが、司馬懿は相手にせず黙念と素通りしてきた。『狼のようなやつだな』という陰口を耳にしたのも一度や二度ではない。

 

 雨は優しく司馬懿の心を慰めた。何に傷つけられたわけでもない。苦しんでいるわけでももどかしく思っているわけでもないが、それでもいま、自分は慰められてるのだ、と司馬懿は思った。

 手元の書は『史記』である。武帝の御代、衛青と霍去病が匈奴と死闘を繰り広げる時代である。そして名将・李広。勇壮で夢があり、だがどこか無邪気な時代だと司馬懿は思った。数百年後、今この時代を記した書が残っているとして、それを読む者は果たして同じような感想を抱くだろうか。

 戦乱が近づいている、この史記に描かれたような戦乱の暗雲が、司馬懿の時代にも訪れつつある。それでも司馬懿は自らが歴史の立役者になるなどという夢は抱かなかった。身の程はわきまえている、わきまえられない人からはしゃいで飛び出て死んでいく。

 

 ――この国の行く末など、落ち着いて見渡せば全て明らかだというのに。

 

 漢は滅ぶ。帝を手にした者が次代の御代を築くだろう。始めは緩やかに帝を利用しながらも、やがて王位を得て次いで禅譲を迫るに違いない。

 名士と実力者たちがその位を求めて相争うだろうが、才を重んじる者がいずれは勝つ。長くて五十年。それだけの時を経た後、漢ではなく他の国名にてこの世は新たな舵を切ることになるだろう。

 答えがわかりきっている問題にかかずらう気など起きない。その気力が司馬懿にはなかった。故に彼女は自らの姉妹より才にて劣ると思っていた。実行力のない人間など、何の役にも立たないのだから。

 気づけばもう昼から一刻半が過ぎていた。雨は何の変調もなく降っている。司馬懿は茶をもう一杯淹れようと立ち上がった。

 侍女も下男も屋敷にはいなかった。父の司馬防は治書御史の位にあるが、娘には辛辣とも言える程に厳格であった。働かざるもの食うべからず。仕官せず日がな書を貪っているばかりの司馬懿を口酸っぱく叱り、家事の一切を自身が行うことを命じた。が、司馬懿は特に苦に思わないのでそれがまた怒りに油を注ぐことになり、怒号が舞い飛び司馬懿は憮然とし、妹が慌てて姉が取り成す……それが司馬家のいつもの光景になってしまっていた。

 茶の薫りが立つ。物価が上がっており贅沢は慎んでいるが、茶だけは質を維持していた。司馬懿は熱い茶を手に再び席に戻ろうとしたが、その時訪いが入った。

「御免。どなたかいらっしゃいませんか」

 雨宿りだろうか、と司馬懿は思ったがわざわざこの家を選ぶ理由はないだろう。屋敷にはいま誰もいない。やむを得ず司馬懿は茶を置いて玄関へ向かった。

 戸の外には一人の小柄な男が立っていた。まるで商人のような出で立ちであったが、体躯に似合わぬ大振りの刀を下げていた。しかし物騒な気配はあまり感じず、柔和と言えた。しっとりと上衣が濡れている。

 男は司馬懿の姿を認めると、ニコリと笑って礼をした。

「これは、急なご訪問失礼します」

「どなたか?」

「はい、姓は李、名は岳。字は信達と申します」

 まさか、と思った。だが司馬懿は目の前で起きている現実を疑うほど、あざとくはなれなかった。

 

 ――宦官虐殺の下手人、極北の地よりやってきた冷血校尉、李岳。

 

「これは……李将軍。ようこそお出でに。司馬家の次女、懿。字は仲達と申します」

「存じております。ようやくお会いできた。お加減、よろしいようで何よりです」

 三度の訪問失礼します、と李岳は再びぺこりと頭を垂れた。どっ、と司馬懿の背中に汗が浮いた。

 司馬懿は過去、この李岳から二度の訪問を受けていた。一度目は外出中だと居留守を使い、二度目は仮病を用いて帰ってもらった。地位を考えれば父の司馬防を通じて強引に召し上げることももちろん可能であったろうが、礼儀を重んじてか李岳は司馬懿に出仕を命じなかった。とはいえそのような斟酌など知らないとばかりに、司馬懿は突っぱね続けていた。

 二度目の訪問が二月前になる。まるで意表を突かれたような思いであった。まさか三度にも渡って直接訪問されるなど、前代未聞である。

「ようこそおいでに……さ、中へ」

「かたじけない」

 雨中に訪問されて追い返す訳にもいかない。ましてや三度目だ。背を向けて李岳を中に案内した。供もいない。洛陽を武力で牛耳る董卓、その股肱の臣筆頭である李岳が誰一人伴わずに来訪していることの意味を司馬懿は考え続けた。何かを疑われている? 探りに来たというのなら司馬懿に思い当たる節などない。だがただの茶飲み話で来るような人物でもないはずだ。

 席についた李岳は、まず急な来訪を詫びた。

「ご迷惑ではありませんでしたか?」

「いえ、そのようなことは」

 自分の声を司馬懿は確認した。異常はないはずであった。

「将軍こそ、このようなお忙しい時に拙宅においでいただき、歓待もできずお恥ずかしい限りです」

 司馬懿の声に李岳は照れくさそうにはにかんだ。雨に濡れて額に髪が張り付いている。冠が左右に揺れた。年相応の少年にしか見えないが、この洛陽きっての武断派なのは間違いない。

 

 ――反董卓連合軍、立つ。その知らせはとうに司馬懿の元にも届いており、当然すぐに洛陽の誰もが知るところとなった。二十万とも三十万とも言われる大軍が一路この洛陽を目指して集結しているとのこと。その迎撃の大将として抜擢されたのが、河南尹の位にある李岳という男であった。

 

「ところでその、厚かましいようですが温かい茶をそれがしも頂戴できれば大変ありがたく」

 李岳は司馬懿の手元にのみ置かれた湯のみを指さして、恥ずかしそうに笑った。

「これは気遣いが至らず」

 見ればまだ雨滴が輝いている。慌てて手拭いを渡しながら司馬懿は台所で茶を淹れた。司馬懿は自らのいい加減さをおそらく人生で初めて恥じた。

「あったかい……いや美味しいです」

「大した代物ではありませんが」

「いえ、とてもあったまりました」

 このような無邪気に笑う男なのか、と司馬懿は意外な思いであった。聞いた話では匈奴の血を受け継いでいるが故にその性格荒々しく、酒肉と女を何よりも好む暴虐な男という印象であったが、実態とはかなりかけ離れた噂であったのだと認めなくてはならないだろう。

「少量ですが酒もあります」

「いや、それは御遠慮させてください。実は今日中に陣へ発たねばならないのです、お酒はもう控えねばなりません」

 出陣前にわざわざ時間を割いて訪ねてきた、ということを暗に示してきた。意外にしたたかな男なのだな、と司馬懿は警戒を強めた。

「戦陣では飲まれないのですか?」

「当然でしょう」

 戦陣で景気づけに酒を呷る者もいると聞いたが、李岳はその類ではないようだ……そこでふと、司馬懿は自らが目の前の少年にいささかの興味を抱いていることを自覚した。

 李岳は嬉しそうに茶の続きを楽しみ始めたが、やがて思い出したように包みから茶菓子を取り出した。洛陽では名の知れた店のものである。二人で交互に手を伸ばした。

 司馬懿は茶を飲み干すのを待って話題を切り出した。

「御用向きをお伺いしてもよろしいでしょうか」

 李岳はしげしげと司馬懿を見つめた後、静かに頷いてから答えた。

「お話をしたいと思いまして」

「お話?」

「ええ。司馬仲達殿と、是非一度話してみたかった」

 洛陽はおろかこの中華全土で知らぬ者のない新進気鋭の将軍が、たった一人の在野の書生と話をしたい――司馬懿は李岳の正気をいささか疑わずにはいられなかった。

「お話、ですか。失礼ですが将軍はご多忙の身、私などと話すよりよほど大事があるのではありませんか」

「司馬仲達殿と話すこと以上に大事なことなど、そうそうありませんよ」

 おべっかを使う、と思ったが李岳の瞳は真摯そのものであった。司馬懿が思わずたじろぐほどその表情は真剣そのものであった。間を取るように、茶菓子に口をつけて誤魔化した。お口に合いますか、という李岳の問いに司馬懿は素直に頷いた。

「史記、ですか」

 手持無沙汰を慮ってか、やおら李岳が司馬懿の手元を覗きこんで言った。仕舞い損ねていた書であった。

「ええ。愛読しております」

「ああ、そうですね。それはそうだ」

「……はい」

 史記を読まない者などいない、という意味だと司馬懿は受け取ったが妙な応答の齟齬があった。李岳の方はそれに気づかないようで話を続けた。

「その書についても、司馬仲達殿とお話ししたかった。我が先祖李陵を庇い立て頂いた御恩があります」

「……えと、何の話でしょう」

「ですから、李陵をお庇い頂き」

「……ん?」

「え? あれ?」

「もしや」

 そこでようやく、司馬懿は李岳の間違いに気付いた。

「将軍、何か取り違えがあるようですが」

「……ええ、実は薄々そうなのではないかと気づき始めているところです。願わくばこのまま脱兎のごとく逃げ出したいのですが」

「それはそれで私は面白く思います」

「ですよねぇ……!」

 そして李岳はそのまま頭を抱えて机に突っ伏し、恥ずかしい! とみっともない声を上げた。

 

 ――李岳は、司馬懿の祖先がこの『史記』を著した司馬遷その人だと思っていたのだ。司馬遷は李岳の先祖、李陵が匈奴に囚われた時に彼を庇った。が、それを逆手に取られて糾弾され、宮刑に処されている。李岳はその先祖の恩を子孫である司馬懿に直接謝辞しようと思っていたのだろうが……『史記』を著した歴史の始祖、司馬遷は姓を同じくするも家系としては司馬懿とは全く別の流れであった。

 

「ぐうう……! 格好つけてやってきた挙句の有様がこれか……!」

「将軍、そのような」

「な、情けは無用です……!」

 この間違いを犯したのは何も李岳が初めてではないので、そこまで恥ずかしがる必要はないのだが、目の前の少年の悔しがりぶりが面白く司馬懿はそのことを口にはしなかった。同時に、初めて人間らしい顔を見た、とも思った。

「……すっかり思い込んでおりました」

「まあ、そういうこともあるでしょう」

「笑っていいんですよ」

「そのような、笑うなど」

「ですが口元がだいぶと緩んでおられる様子……」

「……にやり」

「ひどい!」

 司馬懿の冗談にしばらくビクビクと悶え苦しんだあと、李岳は鼻をスンと一度すすって平静を取り戻した。涙ぐむほど恥ずかしがるとは――

 冗談など何年振りに口にしたのかさえ、司馬懿には定かではなかったが、やっぱり悪い気はしない。

「もっと格好良く決めるはずが、これですよ……今までの人生、すんなり事が運んだことが一度たりとてない! そろそろ天にもご容赦頂きたいものです」

「天に愛されているのですよ。だから色々な事が起こる」

「全く、司馬仲達殿に言われたらその気になってしまうから困ってしまう。ですけど、司馬懿殿と話して嬉しいのは本心ですからね?」

 話していて、司馬懿はなぜか李岳の喜びを知った。この男は本当に自分に会うためだけにやってきたのだ、と確信できた。打算などない。李岳は司馬仲達と話して、感動を覚える程に喜んでいる……自分になぜそれほどの価値をこの男が見込むのか、司馬懿には全くというほど理解が出来なかった。

「司馬懿殿がいれば」

「え?」

「……司馬懿殿、お力を貸しては頂けませんか」

 李岳の突如の切り出し。司馬懿は居住まいを正した。李岳の瞳は真っ直ぐ司馬懿を射抜いており、先ほどとは違い半端な答えは許されそうもなかった。他愛のない失敗で顔を赤らめていた少年の面影はもうなかった、そこには武を負う将の横顔があった。

 助力。

 何を題目に置いた問いか、考えるまでもない。何より司馬懿にも矜恃があった。司馬懿はためらわなかった……

「お断りします」

「なぜです?」

 斬られてもおかしくはないが、司馬懿は己の言葉を止められなかった。

「無駄な努力だからです。彼我の戦力差は圧倒的です」

「おっしゃるとおり、正攻法ではとてもではないが持ちこたえられません。ですがそれではみすみす群雄にこの洛陽を蹂躙されてしまう」

「ですがそれもまた漢の選択です。この事態を回避するための手はいつでも、いくらでも打てた。だが混乱から目を背け事態の悪化を指を咥えて見ていたのがこの国の権力者たちです。その報いがいま反乱という形で表に出ているのです」

「今からでも遅くはありません。この洛陽に反乱軍の侵入を許せば、最早後戻り出来ない程の混乱がこの国に訪れてしまう」

「混乱は既に極まっています。それを治めようという者たちが東に集まっているのです」

「――司馬懿殿は、それがしが負けると思っているのですね?」

 唐突に、司馬懿の中で罪悪感が膨れ上がった。沈黙のまま、それを抑えつける術を司馬懿は知らなかった。

「官軍には、万に一つの勝ち目もありますまい」

 李岳はそっと瞳を閉じて、空の湯のみを手の中で転がした。沈黙が重かった。雨の音がなければ司馬懿は窒息していたかもしれない。自分自身の行いが不思議だった。こんな饒舌になってまで真実を、自分の思いをぶち撒ける必要があったのか? だが司馬懿には止めようもなかった、李岳が本当に、自分と話していて楽しそうだったから……

 再び目を開けた時、燃え上がらせていいはずの怒りさえおくびにも出さず、静かに言った。

「貴方が仮に官軍の軍師ならどうされますか?」

「献策してみよ、と?」

「はい」

「なぜです?」

「居留守を見逃して差し上げるからです」

 この男! だが司馬懿は愉快であった。李岳との会話は楽しかった。知的な豊かさを感じる。

「官軍が対抗するには、逃してはならない二種類三つ、計六の要諦がありましょう」

「二種類三つ、ですか」

 李岳の反復に司馬懿ははっきり頷いた。

「軍事の肝要として天地人があると申します。すなわち天の時、地の利、人の和。帝国の苦境を時とするなら反乱軍に天があり、要害祀水関を盾にするなら官軍に地がありましょう。残るは人の和。これが戦の趨勢を決めることになります」

 司馬懿は目をつむり戦場の様相を思い浮かべた。陣柵と兵、軍馬に武具がまざまざと浮かび上がる。

「……まずは初戦。奇襲でもって出鼻を挫くことです。敵方は数を恃んでやって来ます。気の緩みはあるでしょう。初戦の勝利をもって御味方の士気を奮い立たせます。これは寡兵が勝利を目指す上での絶対条件と申せましょう」

 戦もまた人の心。勢い込んでやってきた初戦に痛い目を見れば大軍とはいえ小さなひびくらいは付けられる。

「二つ。地の利を生かして相手を干上がらせることです。大軍は百の作戦に勝る絶対的有利です。が、弱点もあります。それが兵糧です。連合軍ともなれば兵糧の持ち数もそれぞれにて違い、連携を崩すきっかけにもなります」

 大軍を揃えているというのに攻めても攻めても砦は落ちず、兵だけが損耗していく。率いる将としてはこれほど苛立つことはない。生まれたひびは容易いことで亀裂になる。それを拡大させるためには内憂と不和が必要だった。

「三つ目が連携を崩す工作です。先の二つの策を達成すれば内部から綻びがあるやもしれません。そこを突き、離反を促します。一度瓦解すれば利を求めて手を組んだ連合軍、再びの結束は不可能でしょう……」

 一気にまくしたてた。司馬懿は荒げた息を落ち着かせるように一度深呼吸をした。そして李岳の顔を恐る恐る見た。きっと怯えている。あるいは正気を疑われていると、司馬懿は思った――そしてやはり、李岳の表情は半ば青ざめかすかに震えていた。今まで自分の周りにいた名家の嫡男たちと同じように。

 

 ――彼が、感動で打ち震えていることなどつゆ知らず。

 

「……とんでもないですね。本当にとんでもないことだ」

「くだらないことを申しました。忘れて下さい」 

「……忘れられるわけないでしょう? 何か月も考えてきた策が、このように見事に看破されて、忘れられるはずがないではありませんか。そうでしょう?」

 司馬懿は自分の失策を後悔した。李岳が連合軍に対峙する際に用いる計略の多くが司馬懿の言葉の中に含まれていたのだろう。間諜として疑われれば面倒なことになる。

「まるで心の内を見透かされた思いです」

「偶然です。失礼を申しました」

「偶然と言われる方が失礼です。これは必然でした。出立前に貴方に会えてよかった。本当によかった……」

 この時になってようやく李岳の声に険のないことを司馬懿は悟った。李岳は頬を紅潮させて、目にはかすかに涙を浮かべているようにすら見えて司馬懿はたじろいだ。

「えっ、えっと……」

「あはは、これは失礼」

 笑いながら李岳は何かの間違いでこぼれた涙を拭った。そして立ち上がり、司馬懿の隣に立ってその手を握った。

 生まれて初めて、異性に手を握られていた。

「えっ、えっ」

「司馬懿殿、お見事です。貴方は確かに天下に誇るべき才女です」

「い、いや、そ、そのような。わ、わたくしごときが」

「ご謙遜なさいますな」

 李岳が手を放すと同時に、司馬懿はぎゅっと自分の手を握りしめた。まるで李岳の温もりがまだ残っているかのようにその手は熱かった。李岳はというと、平然と窓まで歩いて雨空を見ている。

 胸の動悸が収まるのを待って、司馬懿は隣に並んだ。

「……この策が全て炸裂したとしても、連合軍の勝ちは揺るがないでしょう。やはり万に一つの勝ちもありません」

「そうでしょうね。厳しいでしょう。ですがこの洛陽は必ず守ります」

「……洛陽に引き寄せ、包囲しますか? 自らが身代わりとなって」

 手を叩いて李岳は笑った。気にした様子は毛ほどもなかった。だが既に出立した朱儁と皇甫嵩の動向を予測すれば容易く成立する推論の一つだ。

「本当に、本当に貴方は全てを見抜いてしまうのですね」

「それでよく嫌われます」

「才ある者は嫌われます。お墨付きをもらったようなものでしょう。私や董卓様など、嫌われまくった末にこの国全土を敵に回して連合まで組まれてしまった。私の目から見れば司馬懿殿は大分マシな方です。孤高でもある。まるで狼のような方だ」

「狼、ですか?」

 一瞬侮辱されたのかと思ったが、そうではなかった。李岳は疑いなく信頼の眼差しで司馬懿をまっすぐ見つめていた。

「貴方は狼です。知の狼だ……戦場に立てば、その智謀の牙でもって敵の喉笛を一撃の元に食いちぎるでしょう。その知は千里を走り、その遠吠えは敵を震わせる……」

「褒めすぎです」

「足りないくらいです」

 狼。

 あれだけ陰口を叩かれていたその言葉が、急に気高いもののように思えてきた。確かによくよく考えれば悪くない。知の牙で全てを噛み砕く――

「さて、帰ります。すっかり遅くなってしまった。もう出立しなければ。雨もやんだようだ」

 見れば雨は確かにやんでおり、遠くに虹をかけて空にもわずかに晴れ間が覗いていた。李岳は丁寧に謝辞を述べて出口に向かった。司馬懿も礼として見送りに外へ出た。玄関には見事な黒馬が李岳を待っていて、主人とともに現れた長身の女を理知に富んだ瞳でしげしげと見つめた。

「やはり、来ては頂けませんか」

 黒馬の首を叩きながら李岳は言った。

「申し訳ありません」

 残念です、と言葉に似合わぬ笑顔を浮かべて李岳は黒馬に颯爽とまたがった。様になっていた。惜しい、と司馬懿は思った。

 ここで死ぬにはあまりに惜しい。これも天運か、と司馬懿は内心目の前の少年を哀れに思った。天の時は、やはり李岳の元にはない。万に一つの勝利など、十中八九負けだという言葉と大差ないのだ。三つの献策が全て当てはまったとして勝ちは遠い。しかもその一つ一つを成すことさえ決して容易くはない。

 その司馬懿の心を、今度は李岳のほうが見透かしたように言った。

「司馬懿殿、私は勝ちますよ」

 人の心の内を見透かしたことはあっても、覗かれたことなどなかった。司馬懿はわずらわしさと心地よさを同時に思い知る、という人生で初めての経験をした。

「万に一つの勝ち目を手繰り寄せると?」

「はい」

「容易い道ではありません」

「でしょうね。それでも、それでもなお勝たねばならないのです」

「気持ちだけではどうにもなりません」

 壮絶な戦場に向かおうとする将に向ける言葉ではない。気性の荒い人間であれば無礼討ちをされても言い訳がつかない。だが、李岳は楽しそうに微笑むのみだった。

「一つ、お願いしてもよろしいでしょうか。いや、賭けですね。賭けませんか?」

「何を、でしょう」

「私がこの戦に勝ち、生きて戻ったのなら、私の仲間になって欲しい」

 

 ――仲間。

 

 司馬懿は李岳の言った言葉を反芻した。思ってもみなかった言葉だった。

「臣下になれ、ではなく?」

「はい。仲間です。力の貸し借りではなく、仲間。司馬懿殿と話して私は楽しかった。そしてその才に畏怖しました。仲間になって欲しいと思ったのです」

「ありがたいお話ですが、私がその賭けに乗らねばならない理由は?」

「仮病」

 司馬懿はとうとう吹き出してしまった。自分の愚かさが何とも可愛い。風邪をこさえて何が知の狼よ! ――あっはっは、と司馬懿は大口を開けた。

「……全く、下らない嘘をつくものではないですね。大変勉強になりました」

「ええ。おかげでこんな根性悪のチビに付け込まれることになってしまった」

 不快ではなかった。李岳もまた笑った。

「わかりました。乗りましょう。ご武運をお祈りしておきます」

 ためらいはなかった。万に一つもないような死地に飛び込む男がいて、その最後の頼みを聞かない理由はない。負けるはずのない賭けでもある。

 

 ――しかしきっと、最初から最後まで、この瞬間までの全てが、李岳の策略だったのだと、司馬懿はついぞ気づかなかった。

 

 李岳はにこりと微笑むと、約束ですよ、と念を押した。

「……それと司馬懿殿。私は何も万に一つしかない賭けに突っ込むわけではありませんよ。貴方は一つ見逃しておられることがある」

「見逃している?」

 そんなことあるはずがない、という言葉を司馬懿はなんとか飲み込んだ。

「私には、四つ目の策があるのです」

 

 ――四つめの策。司馬懿が思いつきさえしなかった罠。

 

「……それは」

「答えはいずれ、結果としてお見せします。謎解きは決戦の後で。勝利の凱歌を奏でながら語るとしましょう」

「……それまでにきっと、解いてみせます」

「その意気です。一つ助け舟を出しましょう。四つ目の策の肝」

「別に聞かなくてもわかりますが、どうしても言いたいのなら止めません」

 ははは、と李岳は黒馬を操って道に出た。パシャパシャと蹄が水たまりを跳ねさせる。まるで狐のようにコーン、といななきを上げると、とうとう黒馬は大きく地を蹴った。

「それは、私が李岳だということですよ!」

 それでは、と手を上げて李岳は馬腹を蹴った。雨上がりの街路を颯爽と黒馬が駆けて行き、突如の進撃に出くわした子供たちが歓声を上げる。空には早すぎる凱旋を謳うような虹がかかっている。

 司馬懿は去りゆく李岳に背を向けて、その挑戦を受けようと思った。いつまでも見ていたいと思えるような疾駆する黒馬から目を背け、そのまま振り返ってしまいたいという気持ちにも抗って、司馬懿は頭を回転させ始めていた。わかりきった結末をなぞるだけだった人生に、初めてと言ってもいい程、理解し難い謎が現れた。

 四つ目の策、と李岳は言った。ならば三つ目までは全く同じ作戦を用いる、ということだ。先制攻撃、籠城、内部工作――その後に、勝利を手繰り寄せる四つめの策を、司馬懿が思い描けなかった作戦をあの男は練り上げたというのか。

「面白い」

 悔しくて、振り向けるわけもなかった。司馬懿は長い髪を左右に振りながら屋敷に戻った。口元に獰猛な笑みを浮かべていた。私を仲間にしてみろ、と司馬懿は思った。

 謎と不思議が、司馬懿の心から薄闇を払っていた。




狼顧の相でぐぐってください。

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