真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十一話 御前会議

 御前会議である。

 絢爛豪華な目抜き通りを北に抜ければ、天子が鎮座まします大宮殿。李岳は正装をして謁見の間へ賈駆と共に向かった。李儒は官位が低く謁見叶わない身分である。今は別室で陳宮と打ち合わせを行なっているだろう。

 大火を招いた『洛陽の最も長い夜』から三ヶ月。復興の足取りは緩やかだが着実であった。宮殿の中には焼け焦げた跡など一切残ってはいなかった。

 李岳は古式に則って拝を捧げ、剣を預けて『血の間』を抜けた。宦官率いる武装兵団を撃破したあの間である。何のためらいもなく李岳は進むので特に注目されることはなかったが、中には彼を認めてギョッとする者もいた。李岳は未だ宮中の中では恐怖と混乱の対象であった。

 中常侍が最後を迎えた円卓が、約束の場所である。既に李岳と賈駆以外の全員が居並んでいた。三公として国家の行政の最上位に位置する太尉張温、司空董卓、司徒は空位であり席のみ空いていた。そして国家の藩屏とも言うべき二将軍、皇甫嵩に朱儁――そして皇帝。

 この国の最高権力者たちが、一同に会している。

 平伏する李岳と賈駆に向かい、皇帝の声が響いた。

「久しいな。河南尹。羽林中郎将もよく参った。面を上げよ」

「はっ」

 貫禄が出てきたな、と李岳はどうにも嬉しく思った。皇帝という在り方が板についてきた。それもこれも賈駆と董卓の功績だろう。利用しようとする外戚も宦官も巧妙に排除した。孤立することも煩雑であることもなかったはずだ。

 皇帝のすぐ近くの席で董卓がこちらに向かって、机の上からちょこんとだけ手のひらを覗かせてヒラヒラ振っている。ニコニコと満面の笑顔だった。李岳は彼女にわかるようにだけちらりと一度だけ手を振った。悪い気はしなかった。

「さて、これで全員揃ったというところでございましょうか」

 皇甫嵩がたおやかな声音で言った。老将軍だが声には艶があり老いは見えない。

 場には大長秋、尚書令は臨席していない。軍事に特化した面々による極秘の会合であった。この面々を招集したのが李岳である。隠然たる影響力を及ぼしている、と警戒されるのも当然だな、と半ば自嘲的に思った。こんなはずではなかった、という感覚はどうにも拭いがたい。

「うむ。皇甫嵩将軍よ、此度の会合の主旨はなんじゃったかのう。述べてみよ」

「畏れながら陛下。朱儁将軍と李岳将軍の賭けの結果を精査する場であったかと記憶しておりまする」

「そうであったな」

 

 ――李岳と朱儁の賭け。

 

 それは果たして本当に『反董卓連合』などというものが成立するのか、ということであった。李岳は必ず成立すると説き、朱儁はそんな馬鹿なことなどあるはずがないと否定したのである。それが二ヶ月前のちょうどこの場所であった。

「賭けの内容を述べよ」

「臣が」

 手をあげたのは賈駆であった。

「一つ、李岳は反董卓連合が起こることにその位人臣の全てを賭ける。二つ、朱儁は李岳の言い分が正しかった場合迎撃戦における指揮権の全てを董卓に一任する。三つ、この賭けは天子の預かるところとする」

 賈駆の言葉にうむ、と頷きを返して劉弁は腕組みをした。

「で、あったな。李岳よ、結果はどうじゃ」

「先日、証が届きましてございます」

 李岳は懐にしまったままであった文書を取り出した。明瞭簡潔な文が綴られている一枚の紙でしかないが、そこに綴られている中身は正気の沙汰とはいえない代物であった。

 

 ――檄文である。この檄文が届いた時が、李岳が洛陽に戻る合図であった。反董卓連合結成の何より明白な宣言である。今頃全土に飛び交っているであろうこの書が、巨大な地響きを立てて歴史を動かす燃料なのである。

 

 ちらりと朱儁がこちらを見た。賭けに負けた怒りではなく、実際に反旗を翻した者たちへの怒りの炎でその瞳は燃えていた。人生の大半を戦場で生きてきた真っ赤な気性の老将軍だが、根っこのところはいつでも性善説に立ちたがる善人なのである。

 帝の命により李岳がその場で朗読した。途端、場には重い静寂がのしかかった。

「董卓、天を欺き地を晦まし、君を(かた)らせ国を滅ぼす。 今、王の望みを奉じ、大義の兵を挙げて群凶を誅滅せん」

 

 ――皇帝劉弁は偽帝である。直ちに即位すべきは陳留王であり、董卓の陰謀により洛陽を逃げ出さなければならなかったその不忠不遇を雪ぐことこそ忠臣の役割である、全土の英雄はただちに決起し集うべし、とのことであった。

 

「なるほどのう」

 劉弁が趣深くつぶやく。誰も相槌すら打てない。

 不敬不忠という言葉をこれ以上体現したものもそうあるものではなかった。正統後継者である劉弁に対して、貴様は皇帝を騙っているなどと、舌が腐っているとしか思えなかった。

「袁家のクソ娘が、跳ねっ返りおって! 四世三公だか何だか知らぬが、ただでは済まさぬ! 絶対に許さぬぞ……陛下を侮辱するなど、漢室を侮るなど、臣下の分際で正統に疑義を問うなどと!」

「静まれ」

「ですが、陛下! 臣は、悔しゅうございます!」

「静まれ、と申したぞ」

「……はっ」

 恐らく、皇帝の一言がなければ朱儁は収まらなかっただろう。顔を真っ赤にしており激昂も甚だしい。漢の平和を双肩に宿して戦い抜いてきた老将が、晩年に直面するにはあまりに屈辱的な文であろう。

 皇甫嵩はその怒りに便乗することなく黙念と瞳を閉じているが、こめかみには青筋が立っていた。好々爺然とした張温も頭を抱えている。董卓は銀色の前髪の下で、卓の一点を見つめるばかり。

 その中で、李岳だけが奇妙な符号を面白がっていた。

(面白いもんだな。反董卓連合は、史実じゃ董卓が劉弁を廃したことを理由に旗を挙げた。それが見ろ、劉弁が生きたままだと今度はその不当性をなじって決起している。理由なんてどうでもいいんだな……つまり、何一つ遠慮しなくていい、ってこと)

 李岳の冷たい笑いに気づく者はいなかった。その前に皇帝の哄笑によって静寂が破られたからである。天子劉弁はさも痛快であるとばかりに笑った。しばらくその笑いが広間で不気味なまでに響いた……

「やるではないか。のう、李岳」

「逆臣、ここに極まれりといったところでしょうか」

「いや、袁紹ではない。そちのことじゃ。賭けはそちの勝ちのようじゃな」

「畏れながら……」

「朱儁?」

「はっ……」

 朱儁は面目次第もない、とその場で深く頭を下げた。反董卓連合結成を促す檄文は、これ以上ないはっきりとした証拠であった。

「臣は己の不明を恥じ入るばかりでございます!」

「よい。朕とて半信半疑であったのだ」

 さて、と劉弁は気を取り直したように穏やかな表情を浮かべた。李岳はその面影に彼女の成長を見た。もう、おどおどするだけの少女ではないのだ、董卓も、皇帝も。

「河南尹。この事態を予測したのはそちだけじゃ。当然方策も用意しているのであろう?」

「はっ」

「許す。述べよ」

 李岳は椅子から立ち上がると中央に移った。全員の視線が李岳に釘付けになる。この場でしくじれば到底指揮権は得られないだろう。論理でもって勝算を説き、味方を折伏できずして軍権など得られない。

 李岳は朗々と述べた。

「ではこれより、反乱軍への対抗策を申し上げます。此度の反乱、生半可な規模ではございません。当然、我々はこの反乱軍を徹底的にたたきます。断固たる膺懲の鉄槌を下すべきなのです。そのために、少なくともこの場においては認識の共有が求められると愚考いたします」

 しばらく待ったが、誰も否定はしなかった。皇帝に軍事作戦の説明をする、というのはここ近年稀にみる話だ――李岳はただ余計な混乱を招きたくなかっただけであるが、これが結果として漢における新たな伝統となっていく。頷いて李岳は中央の卓に寄った。李岳の視線に気づいて賈駆が卓の上に地図を広げる。

「基本方針は一つです。我々は精鋭を編成し、祀水の関を守りて連合軍を撃破します」

 李岳は地図の一点を指した。要害・祀水関。

「守りて撃破……意味深長な物言いでございますわね」

 皇甫嵩の言葉に李岳は強く首肯した。

「撃破します。我々は守るだけではありません。敵を叩き、勝つのです」

「敵の兵数予測は? 十万は下りますまい」

「袁家の頭領である袁紹、その異母妹袁術、曹操、孫策、陶謙、張貘、鮑信、そして劉岱と劉遙……決起するであろう群雄の動員兵力を鑑みるにおよそ二十万に上るのではないかと思われまする」

 議場がどよめいた。二十万! およそ信じられない、という顔をしたのは皇帝劉弁でさえも。

「まことか? いや、まことなのだろう。並大抵の兵力ではないな……不届き者共が! この朱儁が素っ首並べて全部刎ね飛ばしてくれるわ!」

「李岳将軍や。二十万となればなるほど大敵じゃが、祀水関、虎牢関の二段構えであれば防ぎきれると?」

「太尉様。既に防備は整えております。一歩も引きません」

「……破られた時はどうする」

「もちろんそれについても備えております。ですがその前に一つよろしいでしょうか」

 怪訝そうに首をかしげた面々に向かって李岳は一つ深呼吸を挟んだ。

 おそらく、この会議で全てが決するだろうということは李岳も理解していた。重鎮を納得させずして前線が安定するはずがない。後顧の憂いを断つことこそが勝利への第一歩だ。

 李岳は自らが手にしている指し棒でパシンと手のひらを叩いた。

「絶対の信任がいります。政治上の不安が前線においては最たる弊害となりまする」

「というと?」

「戦線は膠着するでしょう。何ヶ月もの攻囲戦になることが予想されます。一進一退の攻防になった場合、敗戦を恐れて安易な手段を提案する者も出てくるやもしれません。いずれ、長安へ遷都せよ、という者が現れるでしょう」

 ほう、と張温が面白げにつぶやいた。豊かな白髭を撫でながら李岳の言葉に興味を示した。

「遷都は下策かのう?」

「最低の悪手でしょう。それは即、漢室の滅亡になります」

「滅亡などと」

 張温の怒声を皇帝は手で制した。

「よい」

「陛下、恐れ入ります……じゃが、李岳将軍。餓狼が如き反乱軍に陛下をみすみす差し出すわけにもいくまい」

「そして街に火を放ち、民を放逐し、全てを奪われ、洛陽に落日が訪れる、と」

「む」

 賈駆が言葉を引き継いだ。

「太尉様。絶対に洛陽を手放してはならないのです。絶対に洛陽を守る。その覚悟を、共通認識としてお持ち頂かなくてはなりません。この都を手放して漢の先はないのです――良いですか皆様。これは漢の危機なのです。勝利なくして延命はありません。認識を改めてください。敗れれば終わるのです」

 賈駆の実力は董卓の懐刀として皆が認めるところである。彼女の説得は李岳とは違い剣幕を感じさせずに染み入った。張温がむぅ、と唸る。

「賈駆殿、軽はずみな発言は控えられよ」

「畏れながら皇甫嵩将軍、ボクは……それがしは軍参謀としてこの作戦に臨みます。見栄を張って虚偽を申すことはできません」

「背水の陣である。それを肝に銘じよ、ということであろう? 羽林中郎将」

「痛み入ります。陛下」

 董卓が補足をするように相槌を打つ。

「詠ちゃん……いえ、羽林中郎将どのと河南尹どのは……その、覚悟が必要なのだと言っているのです。他人事ではないのだと……私たちは、後手を打ってます。逃げれば、きっと挽回できません」

 流石に月はよくわかっているな、と李岳は頷いた。

 そう、逃げてれば終わりなのだった。

 

 ――李岳は『三国志』において、最も重要な局面は『董卓』による帝位の挿げ替えと、そしてこの『反董卓連合』だと考えていた。この戦において敗北したからこそ漢の魂というべき首都・洛陽は陥落し、全土の群雄が己の野心を解放させた。そして漢は痩せ細り、袁家の兄弟喧嘩に翻弄され、曹操の台頭を招く。

 

 漢の踏ん張りどころはここだった。ここが、歴史の分岐点なのである。李岳は再び言い含めるように説いた。

「まさに。この事態を、一部の不届き者の狼藉などという認識をお持ちの方がいらっしゃいましたら、即刻改めて頂きたい。届いた檄文は、ただの同盟の呼びかけではありません。弓引いた相手は董卓様であると同時に、ここにおわす陛下なのです。これは、明々白々な宣戦布告であり、反乱の宣言なのです。危機なのです。負ければ、滅びるのです。断固たる決意で臨まなくてはなりません。皆々様にはその覚悟がおありか? 未だ日和見気分の方がいらしたら、今すぐご退室を」

 問いに返答はなかった。誰も立たない。その沈黙を李岳は肯定と受け取った。

「ご理解ください。これは総力戦なのです。単なる反乱の局地戦などではない、絶対に負けられない戦いがあるのだとすれば、まさにこの戦いを指すのです……その前提をもって、共通認識、と申し上げました」

「朕はよくわかった。皆はどうじゃ、この洛陽を死守する気はあるか?」

 張温、皇甫嵩、朱儁は声をそろえて異議などないことを述べた。それはもはや勅命であった。洛陽を死守せよ。絶対の題目がいまここに据えられた。

「これでよいか、河南尹」

「畏れ多くも」

「では続きじゃ。ここまで言質を取ったのじゃ。半端な策では朱儁が暴れるぞ?」

 はっはっは、と劉弁は心底楽しそうに言った。痛々しい強さだった。自分の帝位を、これだけ多くの群雄が否定し、二十万人もの人間が鉄剣を握って殺到してくるのだ。自分の命一つのために戦争が起きようとしている。その事実を正面から受け止め、笑い飛ばそうとしている。

 誰が暗愚か、と李岳は思った。李岳だけではない、この場にいる全員が感服していた。

「では皆様方、非才の身ながら此度の陣容、ご説明申し上げます。まずは朱儁将軍」

「……なんだ」

 このとき、朱儁は自分が先鋒を務めることを覚悟していた。李岳を侮り賭けに負けた。先鋒として兵力を損耗させられることは、朱儁の中では自然な予測として成り立っていた。が、李岳は全く別の指示を述べた。

「西の守りについていただきたい」

 李岳は広げた地図の一点を指した。西。洛陽を挟んで西である。東からの敵を迎え討つというのに、朱儁には長安以西の防備を任せると李岳は言っている。

 朱儁は侮辱を受けたと思い声を荒げた。

「なぜだ! この朱儁は前線で邪魔だとでも言うのか!」

「連合に馬超の名前を確認しました」

 議場がどよめき、そして直ちに騒然となった。思わず腰を上げたのは太尉張温。馬一族を相手に遠征軍を組織し最前線で戦い続けた男であった。

「錦馬超が、ですじゃと?」

「はっ」

「……確かか」

「間違いありません」

「ぐ、むぅ」

 長安以西は度重なる反乱により勢いづいたまま、張温率いる鎮圧部隊が幾度勝勢を以て制圧すれど反乱の芽を摘み取ることはできていない。その盟主たるは韓遂と馬騰だが、その二人を凌ぐほどの名声をほしいままにしていたのが馬騰が娘、馬孟起――人呼んで錦馬超である。

「その馬超が、なぜか東から参戦を試みております」

 議場はさらに騒然とする。朱儁が卓を激しく叩いた。

「馬鹿な! どこから兵を導いた!?」

「不明です」

 李岳の持つ指し棒が地図をなぞる。西の涼州からぐるりと回って洛陽の東を指す。大長征である。張温の顔色が見る間に青ざめていった。

「お分かりいただけましたか。馬超が参戦するということは西が不穏であることを示します。馬騰、韓遂が東方の連合軍に呼応して同時決起することもありえるのです。此度の戦、西方守備は東方の守りに比肩する要所です。朱儁将軍、将軍にはただちに長安守備の大権を拝受し後顧の憂いを断っていただきたい。これが最善なのです。何卒お願い申し上げまする」

「……李岳。貴様」

「お願い申し上げまする」

 深々と頭を下げた李岳には何のてらいもなかった。朱儁は自らの胆力が問われている、という忸怩たる事実を思い知った。

「この朱儁に二言はない、侮るなよ小僧」

「よろしくお願いします」

「わたくしはどうすればよろしいのかしら?」

 次は自分だろう、とばかりに皇甫嵩がニコリと笑っていった。李岳も負けじと満面の笑みを浮かべて返す。

「左将軍閣下には南方守備を」

「荊州が動くと?」

「ありえます」

 皇甫嵩は特に躊躇うことなく頷きを返した。

「そうね、ありえないことなどないのでしょう」

 李岳の持つ指し棒が祀水関をぐるりと回って河内から洛陽までの道を示した。

「連合が数を恃んで関を迂回した場合、緊密な連携を求められることになります」

「早馬の準備はできているの?」

「河南の要所二十箇所に設置しております。狼煙台もありますが、こちらは天気と時間にも左右されますので」

「重畳でございます。常時臨戦態勢にて控えましょう。兵糧の共有も適宜にて」

 皇甫嵩の着眼点はさすがとしかいいようがなく、ひやりとするものがある。兵糧の共有や連携は何よりも肝要となる。

「よろしくお願いいたします。さて、この配備にはもう一つ意味があります。前線が敗北し、祀水関、虎牢関が破られた時の備えでもあります」

「敗れた場合のことなど、考えたくないですわね」

「考えるだけならタダです」

「……うふふ。タダ、か……そうね。タダね」

 李岳は次いで張温に視線を移した。白鬚を優雅になでる老人は、李岳の視線に首をかしげて答えた。

「先程申し述べました通り、洛陽にいかほどの危機が訪れようと長安への遷都は下策です。それがしが敗北した場合、敵軍は洛陽まで一直線に駆け上がるでしょう。その時、陣頭指揮を執るのは太尉様をおいて他にいらっしゃいません」

「しかしのう、籠城といっても」

「敗れるにしても最悪半年は持ちこたえてみせます。二十万の敵軍を支える兵糧は尋常な量ではありません。洛陽が盤石の態勢で籠城戦を行えば悲鳴を上げるでしょう」

「敵もまた盤石ならばどうする」

「その時は南と西から包囲します」

 あ、と声を上げたのは皇帝だった。なるほど、と立ち上がり李岳の側まで寄った。面白そうに地図を眺めながらフンフン、と頷く。

 気づくか、と李岳も興が乗った様子で皇帝を見た。劉弁はやがて、合点がいったという風にはしゃいで声を上げた。

「そのために朱儁と皇甫嵩を西と南に離したか!」

「ご明察、感服仕りました」

 ガタリ、と皇甫嵩と朱儁も立ち上がる。そして劉弁の許しを得て地図に寄った。指でなぞり諸々を確認する。朱儁が息を呑み、皇甫嵩がとうとう頬を紅潮させた。

「そう、これは巨大な包囲網なのです。洛陽が包囲された場合、さらにその大外を包み込みます。西からは朱儁将軍、南からは皇甫嵩将軍。北からは并州兵が出陣します。張楊どのは信頼出来る方。国境を死守してきた騎馬隊を率いて猛然と喉笛を噛みちぎりにやってきてくれるでしょう」

「なんと……」

「これは」

 

 ――これが、李岳の出した一つの答えであった。たとえ自らが破れても反乱軍を撃滅する洛陽を中心とした大包囲網である。固く城門を閉ざした洛陽に手をこまねいている隙に、南北西の三方向から一斉に押し包んで殲滅する。連合軍はひとたまりもないだろう。

 

「傷つき疲弊した軍です。精鋭たる二将軍の突撃を、并州の騎馬隊の突撃を支えることはできますまい。その場合、我々が敗れた場合ですが、総大将は皇甫嵩将軍に後任をお願いすることになるでしょう」

「……」

「将軍?」

「……李岳どの、一つお聞かせ願いたいのだが」

「なんでしょう」

「そなたは、もとより負ける気なのか?」

 肝心なことを忘れていた、と李岳はあっけらかんに笑った。話しすぎて喉がつらいので、一杯だけ水を飲んで間をおいた。ふぅ、と息を吐いて答える。

「当然勝つつもりです。申し上げました通り、一歩も引きません。包囲作戦もあくまで念の為です」

「では、最前線で敵軍を防ぐ方策もあるのですね?」

「はい。うまくいけば半ばを撃滅できるでしょう。ただ一つ、陛下のご助力を頂戴できれば、でございますが」

 皇帝が怪訝な表情を示して先を促した。李岳は背後から一本の書を手にした。正式な書式のものである。それを皇帝に捧げながら、李岳は己の企みを口にした……『亜号作戦』の真髄を。場は水を打ったように静まり返った。賈駆はその時の様子をのちに陳宮に語っている。曰く「生きた心地がしなかった」と。

 長い長い沈黙があった。それを破ったのは皇甫嵩であった。

「正気ですか?」

「正気です、左将軍」

「いや、正気ではないでしょう。李岳どの、貴方はお疲れの様子」

「将軍、他に代案があるなら是非お聞かせ願いたい。より安全で、より効果があり、より徹底的な作戦があるのならば、是非お聞かせ願いたいのです。それがしは喜んでそちらの策を選択するでしょう」

「河南尹……」

「わしに否やはない」

 張温であった。ほっほっほ、と好々爺の様子を取り戻しながら、嬉しそうに李岳を見て笑った。

「なるほど、それで『亜』とな。実に痛快」

「太尉様! ですがこれはあまりにも……(エンジュ)! そなたも何か言ったらいかが?」

 皇帝の前で真名を呼び合うのはぞんざいな行いとして褒められたものではない。皇甫嵩はそれほどに動揺しているということだった。槐、と真名で呼ばれたのは朱儁である。朱儁はフン、と鼻息を荒くして答えた。

瑪瑙(メノウ)、私は賭けに負けたんだ。元々グダグダいうつもりはない」

「けれど、これは……」

 皇甫嵩の様子に、うむ、と唸って張温は劉弁に打診した。

「もはや、この期に及んでは陛下のご真意を頂戴する他方策を臣は存じませぬ。陛下の大御心あれば、皇甫嵩将軍、汝も迷うことはあるまい」

 水を向けられた皇甫嵩は躊躇うことなく頷いた。内心は葛藤と恐怖に満ちていたが、同時にこの場の趨勢が決していたことも知っている。張温は諦めやすいように手助けしてくれたのだ。

 その様子を見て、劉弁は立ち上がった。幼い。だが皇帝だった。最後はすべて、この少女が決さなくてはならなかった。

「李岳」

「はっ」

「朕の力が必要と申したな」

「畏れ多くも」

「朕の意志があれば、いま、多くの民草を助ける力となるのだな」

「天意でございますれば」

 竜の紋様が刻まれた真っ赤な皇衣。それを翻し、劉弁は一人ずつ声をかけた。

「朱儁。何か申すことはあるか」

「臣は賭けに負けました。もとより異論はございません」

「皇甫嵩、そちはどうじゃ」

「臣もまた己が愚昧さに恥じ入るばかり……陛下のお覚悟の前で何の異論がございましょう。一毛の否やもございませぬ」

「太尉はどうじゃ」

 次いで名指しされた張温は穏やかに首を振った。

「我が非才は陛下の最もよくご存知なるところでございましょう」

「何を言う、そちの如き忠臣がいなければこの漢は根本より揺らぐではないか」

「なんとありがたいお言葉。ですがこの老骨にできることはすでに多くはございませぬ。今求められるは迸る若き力。董卓殿と李岳将軍にならば不可能はございますまい。陛下がご決心されたのです。臣はただ身命を捧げるのみ」

「うむ。司空よ、李岳の考えはそちの考えであろう。何か述べてみよ」

 董卓は皇帝の言葉にわずかにまごついた。だが、はっきりとした声音で宣言した。

「臣は、軍事に疎く、その、みんなの助けがないと、何もできません……ですが、臣は、李岳将軍に全幅の信頼を置いています。お聞きの通りです。李岳将軍なら、きっと大丈夫です!」

 董卓の瞳ははっきりと李岳に注がれていた。月、と内心李岳はつぶやいた。階があるとして、今、彼女は間違いなく李岳の隣にいた。その視線を受け、李岳はそっと頷いた。

「河南尹」

「はっ」

「聞いての通りじゃ」

「身に余るお言葉ばかりでございます」

「勝てるか?」 

「勝ちます」

 返事に迷いはなかった。

「良い。ならばそれをよこせ」

 劉弁は恭しく差し出された巻物を受け取った。

 たった一本の書。

 これが連合軍を瓦解させ、刺し貫く鋭利な『矢』となる。どのような反動が起こるかわからない、危険に満ちた作戦であった。だが、皇帝はそれを受け取った。広げ、そして盛大な音を立てて、叩きつけるように玉璽を押した――『矢』は放たれたのである!

「『亜号作戦』の発動を認めよう。皆の者、これは勅命である!」

 その玉声に応えるために、全員その場で立ち上がり膝をついた。手を組み合わせ、最大の賛意と敬意を表明する。忠誠を誓う朱儁の絶叫が響いた。

「陛下! 畏れながらこの朱公偉、長安の防備を万全なものにしたいと強く願い出る次第でありまする!」

「そなたの力と働きに朕は何一つ不安はない」

「ありがたきお言葉! 我が大剣『赤骨』にご期待あれ!」

 皇甫嵩もまた、やおら居住まいを正すと美しい声音を響かせた。

「皇甫義真、身命を賭してもこの洛陽と陛下の御身をお守り致します。どうか大御心を大安となさいますよう……」

「左将軍がいれば恐れることなど何もない。河内を頼むぞ」

「そのお言葉あらば百人力。天下無双と謳われた双槍『碧瀑布』の輝き、玉座にて安んじ御覧じろ」

 張温もまた、己の覚悟を示した。

「天子様。この老骨も、いざとなれば往年の戦働きをお目にかけますぞ」

「太尉……頼む」

「ホッホッホ。ばったばったとなぎ倒して見せましょう」

 そして董卓もまた、自分の戦いを劉弁に誓った。

「陛下。臣はお側にいることしかできません……」

「司空」

「お側にいることしかできません……だから、絶対に、お側を離れません」

「よい。それでよいのだ」

 決した、と李岳は思った。

 大戦になる。だが反撃の時だ。作戦はようやく第一歩を踏み出したばかりではあるが、だがある意味最大の難関を乗り越えた。信頼に値する味方がいる。李岳は決して負けられないという覚悟を自らも新たにした。後は戦うだけだ……そう思い定めた瞬間、意外なところから再び声が上がった。朱儁である。

「陛下! 臣に一つお許しを願えませぬか!」

「なんじゃ、申してみよ」

 片膝をついたままの朱儁はそのまま振り返るとキリッ、と李岳を睨みつけた。何が気に触ったのか、と思うほどの怒りがその瞳に宿っていた。思わず後ずさりする李岳。作戦に不備があったか? それともやっぱり若造に指揮権を任すことは許しがたい、とでも……だが予測は両方外れた。

「臣は賭けに負けました! そして河南尹の立てた作戦に不満があるわけではありません……ですが! 何卒、何卒! あの李岳の野郎をボコボコに殴りまくるお許しを!」

「うむ?」

 李岳はあんぐりと口を開けた。朱儁はいたって本気であった。眼光鋭く李岳をにらみながら、この野郎ぶっ殺してやる、と目で語っている。

 全然意味がわからない。

「河南尹の立てた作戦お見事! ですが、この、こいつの、勝利を確信したときの、この! 勝ち誇っているのに! そうせずに! したり顔で! 気持ちよさそうなこの顔が! 無性に癪に障ってならぬのでございまする!」

「朱儁将軍、こういう顔のことですね、并州の方では『ドヤ顔』と呼ぶようですよ」

「詠さんまでなにいってンスか」

 してやったりと笑いをかみ殺している賈駆。何か悪いことしたか俺、と李岳は内省してみたが思い当たるフシなど出会った頃から山盛りで、なるほど意趣返しの時は今かと決断した賈駆の戦機の見極めが見事だというだけの話。

「ほう、よいことを教えてくれた賈文和……陛下、何卒このドヤ顔を殴らせてくださいますようお願い申し上げまする!」

 劉弁は朱儁の訴えに、どうしたものか、と顎に手をあて考えた。あうあう、とわけがわからないまま流されている李岳の表情にクスっと笑い、あいやわかったと名裁きを気取る。

「うむ、朱儁将軍。朕も多少だがイラついておった。会議ののち、このドヤ顔を殴りまくってよいぞ」

「ありがたき幸せえええ! テメエ覚悟しろ李岳!」

「んなアホな……」

「はっはっは。これ、これ! 誰か酒をもて」

 劉弁が言うと、程なく侍女が人数分の盃をもって現れた。そしてひとりずつに注いで回った。勝利を祈願する献盃である。全員に行き渡ったのを確かめると、帝は李岳に一言を命じた。

「李信達。この戦はそなたが脚本を書いた。後は踊るだけぞ。ほれ、開幕前に威勢のいいことを申せ」

「威勢、でございますか……トホホ。陛下はご無理ばかりおっしゃいます。このようにご無体の後で威勢だなどと」

「朕を何と心得る? 皇帝ぞ? 無茶を言うて臣下を困らせるのが務めではないか……見事な威勢で(かぶ)いてみせよ。場合によっては朱儁への許可を取り消してもよいぞ?」

「なるほど。お見事な名君ぶりでございます」

 はあ、とため息を吐いて李岳は立ち上がった。まったく、格好良くしめようと思ったというのにいつでも三枚目でピリッとしない――とはいえこういうやり取りは大歓迎だ。切った張ったに比べてなんと気楽で心地いいか。全身全霊を傾けて、守るに値する空気である。

 李岳は宣言した。

「我々は備えておりまする。我々は侮らず、おごらず、耐え忍び、謀り、挑みます。我々は反乱を許しません。我々は混乱を鎮め、天下泰平を希求し、天下を私しようとする者どもの野望を必ずや打ち砕きます」

 東の窓を見た。気づけば夕暮れが近づきつつあり、光は暖色めいてきて洛陽の街路に連なる屋根を明るく染めている。

「あの山の向こう、遠くに祀水関があり、そこを打ち破らんとして全土から英雄気取りが集まるでしょう。群雄は野心と大望を胸に愚かにもこの洛陽に挑もうとしております。その浅慮と無謀を、骨の髄まで思い知らせて差し上げましょう――来るなら来い」

 李岳は盃を掲げた。皇帝はじめ全員がそれに続いた。そして一息で飲み干すと、うむ、と満足げに劉弁は頷いた。

「うむ、見事なドヤ顔じゃ! 朱儁将軍、殴るのは勝利の酒席まで延期せよ。勅命である!」

「ははあ! 畏まりましてございまする! 李岳、陛下の御声に免じてここは引き下がってやる……いいか、必ず勝て! 勝って私に殴られろ!」

「当然。勝っても殴られるんですから、負けたら何されるかわかりませんからね」

「応。ここにいる全員、また揃っての勝利の宴だ、私の拳でボッコボコに腫れ上がった貴様の顔面はいい余興になるだろう! 楽しみにしておけ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――この後、東方で反董卓連合結成が大々的に宣言されたとほぼ同日、御前会議にて取り決めた通り洛陽は戦時体制となる。董卓は帝より軍権を預かるとただちにそれを李岳に委託した。李岳は統合幕僚本部をこの洛陽に据え、その最高責任者として賈駆を指名。補佐に李儒、陳宮を据える。朱儁は京兆尹を拝命し長安へ入城、西の要害・大散関を掌握した。南は皇甫嵩が左将軍として陣地を築く。李岳自らは河南尹の地位のまま最前線となる祀水関に赴くことを決した。麾下の幕僚には張遼、赫昭、華雄、廖化、李確、郭祀、楊奉、徐晃。総勢六万八千の軍勢であった。

 陳寿は云う。『祀水関の戦い』の結果が、この後の天下の行方を決することになった、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――その日の夜。

 

 全てが終わり寝静まった後、李岳は再び宮殿に上った。夏の近しい気配がする湿った空気。皇帝劉弁と司空董卓がその夜風に当たっていた。李岳の姿を認めると、皇帝は微笑んで手招きした。

「ご苦労じゃったな、李岳」

「何ほどのことも」

「楽にせよ」

「はい」

 董卓も小さくお疲れ様でした、と李岳を労った。

 御前会議は終わったとはいえ、それからまた決め事は多い。日が没しても会議は続き、ようやく先ほど終わりを迎えた。軍事と吉兆は切っても切り離せない時代である。有史以来の恵日を占った官僚たちが喧々諤々するなど、全ての議論が李岳にとって有意義というわけではなかったが、しかし疎かにもできない。

「皆には悪いことをしておるな」

「いえ」

「嘘は、慣れぬ」

 嘘。皇帝も李岳も、昼間の御前会議で嘘を吐いた。決死の覚悟を示した皆に明白な嘘を吐いたのである。皇帝劉弁の本音は、もっともっと他愛の無いものであった。

「洛陽も帝位もどうでもよい……妹を助けて欲しい。朕の願いはそれだけだ」

「承知しております……殿下は必ず、お助けします。ですが陛下。陛下の御身も、この洛陽も、同じく守ります。その覚悟は変わりません」

「すまぬ……」

 包囲作戦も、亜号作戦も、全ては表面上の作戦でしかない。本当の目的は一つ。陳留王奪還作戦であった。それこそがこの戦の目的であった。劉協を取り戻す。そのためになら全てを利用する、と。

 劉弁は董卓と李岳を伴って物見の舞台を歩いた。点々とした灯りが連なり絵のような洛陽市街。

「見よ、神々しいな。灯りというのはホッとさせる。妹にも見せてやりたい」

「必ず、再びお見せします」

「そなたには、おらぬのか?」

 帝の言葉に李岳は首を傾げた。

「と、申しますと」

「朕にとっては妹の劉協が日常の象徴であった。妹の平安が朕の平安であった。そなたにはおらぬか? 慰めとなるような人が」

 

 ――日常。

 

 ふと、李岳の中にも湧き上がるものがあった。一度自覚すればその想いはたやすく溢れて、李岳を苦しめた。孤独感。切なさは胸を軋ませた。この想いを癒せる人に、李岳は思い当たる節があった。笑顔が浮かんだ。不機嫌な表情も浮かんだ。それが、切なく傷ついた表情になる――帝にとっての妹のような存在が、自分にもかつていたことを李岳は思い出した。

「……いました」

「どこにおる」

「もういません。置いて来ましたから」

 并州の北、匈奴が住まう原野に置き去りにしてきた、日常の象徴。

「私は怖かったのです。その人を守れるか、わからなかったのです。自信もなかった。だから傷つけて、遠ざけました」

「怖かった?」

「……不思議なものですね。その人は私より何倍も強く、何倍も逞しい人でした。そして何倍も優しかった……私は怖かった。きっと一緒にいたかったのに、置いてきぼりにしました。今頃私を恨んでいることでしょう……申し訳ありません。このような戯言を」

「よいではないか。朕はそなたの主じゃ。配下の悩みを聞いてやるのも、君主の務めであろう」

「ありがたき幸せでございます、我が君」

「そなたにも怖いものがあるのだな。意外であった。そう思わぬか、董卓」

「あ、はい」

「月、あとでお仕置き」

「えっ、えぅ……」

 小さな笑いが漏れた。

 風が吹き、湿った夏の香りを運んできた。李岳は北を見た。月がかかっている。城壁の向こうは原野だった。果てまで行けば長城があり、その向こうには再びの原野。そしてどこまでも行った先に、きっと彼女はいる。

 瞳を閉じて、李岳は月明かりに祈った。祈る言葉も忘れたが、ただ祈った。幸いと無事と、そして平安を。


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