真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第五十話 帰還

 ――白波谷にて。

 

 朝から呼びつけられて、楊奉はムスッとした顔を隠さなかった。

 戦陣には一万の軍勢が駐屯するためのあらゆる物資がひしめき合っており、天幕もまた無数にある。日の出前の薄暗さではあるが、近隣の村から行商にやってきている者の声も響いており、一見戦時の趣はない。だが歩哨に立っている兵たちの動きはキビキビとしており規律は保たれていた。

 その陣の中を縫って楊奉は中央の天幕を目指した。道すがら楊奉の姿を認めた兵たちが大きな声で挨拶をかけてくる。未だに慣れない。ぎこちない仕草で返答しながら楊奉は歩調を早めた。どうにも恥ずかしくてたまらなかった。

 やがてたどり着いた粗末な天幕。八人の兵士が目を光らせて警戒していた。話は通っているようで、楊奉が前に立つと衛兵は黙って道を開けてくれた。やはり慣れない仕草でペコリと頭を下げて、楊奉は中へと入った。

 

 ――李岳は椅子に腰掛けて書に目をやっていた。

 

 優男である。楊奉の目には子どもにしか映らない。この男が権力をほしいままにしていた宦官を鏖殺し、宮中の政変を画策した首謀者などとは到底思えない。

 少し癖のかかった髪、はっきりした目、ひげは生えないようでつるりとしている。李岳は具足ではなく身軽な袍をまとっている。戦陣にはそぐわないし、せいぜい商人にしか見えない。だがこのこまっしゃくれた男がこの河南一体の指揮権を一手に握る行政官であり、この軍勢の総大将なのである。静かだが、纏う雰囲気には普通ではない落ち着きがあり、ゴクリと楊奉は息を飲んだ。齢五十。戦士として戦い続けてきたこの俺が気圧されている……白波賊の頭目であるこの楊奉が……

 

 ――白波賊は河東のいずれでも李岳率いる騎馬隊に撃破され、本拠地である白波谷に籠城した。だが食料も水も絶たれてしまい、包囲されてたった十日で陥落したのが実情である。来訪した使者である廖化の手引きによって楊奉は李岳の軍門に降った。

 元は黒山賊のような義賊を目指していた楊奉である。天下国家の苦境に際して一旗挙げる機会があれば乗じることもやぶさかではない。黒山賊の重鎮である廖化の一声によって帰順を決意したのもそれが理由であった。

 実際李岳の背後には黒山賊が大々的に構えており、寸暇を惜しんで協力していると知って楊奉は驚きを禁じえなかった。非戦闘員には数年間の生活を保証し、仕事も住む場所も与える。そして兵が軍への協力を約束するのであれば誰も処罰しない、と言われれば首を縦に振る他なかった。

 

 それから既に二ヶ月が経っている。

 賊軍が降伏しても李岳は白波谷の包囲網を決して解こうとはしなかった。降伏した賊軍も、包囲している官軍もそのままにしたのである。そして賊の指揮官であった楊奉と、官軍の指揮官であった赫昭という女を入れ替えた。官軍を楊奉に、賊軍を赫昭に指揮させたのである。

 李岳の目的は実戦形式の戦闘訓練だった。官軍には攻城戦の訓練、白波賊に防衛戦の訓練である。李岳は白波賊を丸々戦力として吸収するつもりなのだった。対外的にも『白波賊の抵抗未だに堅固で苦戦中』と報告しているらしい。

(なんちゅうこと考えやがるガキだ……白波賊の二万を丸々自軍に編入するなんてよ……はじめからそれが目的だったのか? 賊の鎮圧に手間取ってると馬鹿にされてもいい。しかし実を取る、と)

 李岳の元には苦戦していることを以って誹謗の書が連日届いているらしい。中央から嫌われているのは嘘ではないようだが、李岳は気にも留めていないようであった。相当肝が太いのか、絶対に更迭されないという自信があるのか……

 だが現実、白波軍はこの二ヶ月で官軍の猛攻を全てしのぎ切り、どこに出しても恥ずかしくない精強さを身に着けている。こと防城に関してはあるいは随一かもしれない。

 しかし当然楊奉は面白くない。それは同時に、砦を攻略できない自分の無能さを意味したからである。

「よ、よう」

 束の間迷った末に楊奉はそう声をかけた。李岳は手にしていた書に目をやったまま、こくりと頷いて答えた。

「……砦はまだ落ちないのかな?」

 開口一番李岳の言葉に楊奉は顔を真っ赤にした。そして同時に自分が切った啖呵を思い出した。だがそれも先手を打つようにして李岳が言った。

「自分の作った砦だ、落とすのに十日もいらねえ……か」

「くっ……」

 無能とそしられてもおかしくはないが李岳は何も言わない。それがなおさら楊奉の神経を逆なでした。叶うなら投げ出してトンズラしてしまいたい、というのが楊奉の本音だった。自信などすでに木っ端微塵である。逃げ出さないのはひとえに意地であり面子だった。

「……くそっ! ああそうだ、大言壮語だったよ! 俺は舐めてかかった!」

「それがわかれば上等。官軍の動きに不満は?」

「ない。見上げた根性だし動きもいい。精兵ってのはこういうやつらを言うんだな」

 途中から副将につけてもらっている李確と郭祀という二人も働きに申し分はない。賊の……元は自分の部下たちの動きがよすぎるのだ。赫昭という女の指揮官と、元は自分の副将であった女。二人の統率があまりに見事なのである。

「赫昭は手強いだろう?」

「ああ……」

 赫昭と白波軍は瞬く間に砦の弱点を補強し、物資を整え配置を変え要塞としての質を三倍は上げてしまった。楊奉も毎日李確や郭祀と意見を出しあって攻め手を寄せたが、結局未だに陥落できずにいる。正直逃げ出してしまいたかったが、是が非でも落としてやろうとムキになっていた。木っ端微塵になった面子をかき集めてこねくり回して作った最後のクソ意地だった。

「恥じることはない。赫昭は私が最も信頼している将の一人だ。それに副将につけた彼女も並ではない」

「それだ!」

 ん、と李岳は首をかしげた。楊奉はまくし立てるように言った。

「教えてくれ! どうしてあいつの才能を見抜いたんだ?」

「あいつ?」

「……徐晃だ!」

 徐晃。それが赫昭の元で副官を務めている女の名前である。元々楊奉の部下だが、彼の目にはただの小娘にしか思えず、大して重用はしてこなかった。

 その徐晃を李岳は何の脈絡もなく抜擢した。白波賊が降った折、所属している将にひとりずつ名前を名乗らせたが、最後に徐晃が自己紹介した途端後で来るようにと呼んだのである。

「……ま、眼力ということにしておきましょうか」

「眼力?」

「実際、指揮統率で才能を示している」

 李岳の言うとおり、徐晃は赫昭の元で目を瞠るような働きを見せていた。逆落しで一挙に三十人を弾き飛ばしたこともある。ひと目でわかる紫色の頭巾が現れる度に、鍛えあげられた官軍がビクリと固まってしまうのだ。

 李岳の強みは人材を見抜く力……ならそれで自分もお眼鏡に適ったというわけだろうか。自問してみたが、少なくとも徐晃より働きでは劣っている。楊奉の中では、既に一軍を率いていた頭目としての自信は跡形もなく崩れ去っていた。

「くそ……でも悔しいぜ。元は俺が作った砦だぞ?」

「赫昭も徐晃もそれを知っていた。だから状況を変えたのです」

「状況を変えた……」

「それが将の仕事でもある。不利な状況を改善するのが能力なのですよ。突撃、突撃と言うだけならいないほうがマシだ」

 楊奉は自分の中の怒りを鎮めて、その言葉を胸に刻むことにした。なるほど、状況を変える。それが出来なかったから白波賊もジリ貧になって苦境に陥ったのだろう。だが赫昭はそれを成した。その差がでた、ということだろうか。

 状況を変える……なら、今の李岳もまたある一つの状況を変えようとしているのだろうか、と楊奉はふと思いたち率直に聞いてみた。

「何を変えようとしている?」

「ん?」

「あんたは、一体何を変えようとしてんだ? 将の仕事はそれだっつったよな。教えてくれよ。何かんがえてんだ?」

「……これを」

 李岳は先程まで読んでいた書簡を楊奉に渡した。楊奉はそこに書かれていた文を目にして、はっきりと青ざめた。慌てて書面から目を離して李岳に視線を戻した。彼はうっすらと笑っていた……

「こ、これは」

「それが敵だ。私たちの相手だ」

「……大将」

 楊奉が手にした書は、檄文であった――

 天下で知らぬ者のない名家である汝南袁氏。その頭領である袁紹が、今の皇帝をなじり、連合を組んで洛陽へ攻め上ろうと呼びかけていた。

 ゴクリとカラカラに乾いた喉を鳴らした。これが敵。天下を二分する大反乱になることは楊奉にだってわかる。その戦いに放り込まれようとしている。

「臆したか? 逃げるのなら今のうちだ。咎められることはない」

 クソ意地よ、出てこい。嘘でも頭目張ってた男が、トンズラこくならまだ少し粘ってからだろう――こんな面白いこと、百年生きてたってそうそう舞い込んで来るはずがないのだ。

「大将……俺に、何かできることはありやすかい?」

 そう聞いた楊奉の目をみて、李岳はうんと頷いた。

「山ほどね。ただ、これから先はもう逃げ道はないよ」

「構わねえですよ……へへへ。はははは! 面白くなってきやがった。血沸き肉踊るってんですか。中々……人生わからんもんですな」

「ああ、全くだ。今頃のんびり山羊を追ってるはずだったんだよ、俺もね」

「何をおっしゃる」

 楊奉は知らぬ間に目の前の男を気に入り始めていた。とんでもなく厚かましいが、とんでもなく太い男だった。

「楊奉。今この時をもって訓練は終了だ。白波谷の陣にも遣いを出した。現刻より李岳軍は次なる作戦行動に移る。貴方は白波部隊を率いて西に布陣している張文遠と合流し、指揮下に服せ。追って指示は届くだろう……状況を変えるぞ」

 楊奉は自分がこれだけ震えることが出来ることを、初めて知った。楊奉は震えていた。目の前の男の豪胆さに目眩がし、途端に仰ぎ見る程の大人物に思えた。

 この男に付いて行こう、と心から思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳はその日のうちに支度を整えると手筈通り立ち寄った永家の荷馬車にまたがって洛陽へ向かった。付き添いには永家の者たちと、李儒一人を伴った。久しぶりの旅である。晴天に祝福された。旅程は快調に消化され滞り無く洛陽へと到着したのだが、李儒は毎日不満を漏らし今でも我慢していない。

 

 ――李儒。

 

 史実では董卓に助言を提供した参謀であり、皇帝位を剥奪された劉弁を毒殺している不届き者として悪名甚だしい人物である。

 李岳は洛陽において多くの人物を捜索し、あたった。不用意に放置するよりも、味方に引き込んでしまったほうがいい、というのが李岳の基本方針である。

 史実という知識で判断するならば最も警戒すべきは王允、李儒、李確と郭祀と考えていた。居所がわかっている端から永家の者を使って「ヒモ」を付けたのである。

 いずれも史実において混乱をもたらした要注意人物であり、願わくば味方に、難しければ監視下に置き最悪の場合非常の手段に出ようと考えていた。

 結果として王允を除いては皆味方につけることが出来た。考えてみれば董卓に味方するという点で李確も郭祀も李儒も一致している。董卓政権に反感を抱いて呂布を使ってクーデターを仕掛けた王允は、李岳が生きるこの世界においてもやはり董卓へ敵意を抱いており捕縛を命じた。今頃張燕がこってり絞っているころだろう。

 李確と郭祀にいたっては自らその才智を披露して仕官してきた。史実以上に能力があるように思え、李岳には嬉しい誤算だった。時折嘘のような閃きを発揮して李岳を驚かせたのである。

 

 ――だが、この李儒は少し違った。

 

 李儒もまた洛陽においてその才智を知られている者であったが、とにかく素行に問題があった。才気に走り名士を瞠目させる知力を誇りながら、口が悪く陰気で、仕官する気は一切無く、なによりとにかく人見知りなのであった。

 人の目を見て話すことが出来ず、洛陽の自宅で引きこもっていたところを半ば強引に李岳と張遼が引きずり出さなければどうなっていたことか。李儒の家族でさえほとほと手を焼いていて、扉を蹴破って寝台から剥ぎ取り、こんこんと説教する李岳をハラハラと涙を流しながら応援する有様だった。

 白波谷への従軍を命じた時など、夜中に荷物をまとめて脱出を計画するほどである。筋金入りの根暗なのであった。

 今もまた李岳の隣でぼやいている。

「うとましい……」

「何が?」

「わ、私は……陽の光に長時間当たっていると浄化されてしまう……私の黄昏色をした魂は闇の眷属の証……夜に生きる種族である私が……昼に外を出歩くのは存在の消滅を誘起しかねない……」

「言い訳多いぞ、雲母(きらら)

「わ、我が魂に刻まれた真名を白昼堂々っ……くっ、これも運命の鎖が戒めし莫逆のさだめか……! 契約の刻印が! う、疼くっ!」

「疼くな馬鹿。行くよ」

 パシンとはたいて李岳は先を促した。李岳より少し低いくらいの背丈であるが。長い黒髪を伸ばしたまま手入れもしていないので、その前髪に邪魔され表情は定かではない。前髪を切って目をさらすと邪神が出るらしいとは本人の弁。詳細は不明。

 李岳が抜擢しなければ屋敷から出ることはなかったのではないかと思えるが、無論このことについて李儒本人は欠片も感謝していない。ある種とんでもない悪童であった、が……しかし、この李儒が抜群の有能さを発揮した。

 滞陣している李岳の元には毎日無数の書簡が届き、中には複雑な案件や容易に決断できない話もあった。困ったとき、李岳は常に李儒に話を求めた。李儒の出す答えはそのほとんどが正鵠を射抜き、時には李岳に新たな視座を与えることもあった。そして、こと謀略戦においては強烈なまでの悪辣さを発揮したのである。あの手この手で数多くの間者を地方に潜り込ませた辣腕、それを最も評価しているのは張燕と廖化でもあった。黒山お墨付きのひきこもりなのである。

「うううう……呪われるがよい。我は地に覇を唱えんという天の邪竜の意志を継ぐ闇の眷属……常闇を掻き消して顕現するであろう邪竜は……眷属であるこの私を無体に使役し続けていることを……決して許しはしない……報復の時は近い……」

「はいはい。ほら、とっとと歩いた、歩いた!」

「じゃ、邪竜さま…! いつかこの者に黄昏よりも昏き神罰にて滅びの海をたゆたわせたもぅ……」

 ぶつくさと言い続ける李儒を無視して李岳は東門をくぐった。ビクビクオドオド、李岳の袖を掴んでおっかなびっくり歩く李儒を引っ張って、李岳は通りを行く。人見知りが爆発している。

 久しぶりの洛陽は、やはり普通ではない活気であった。大火からも立ち直っている様子が見て取れ、李岳は心の底から安堵した。

(……気になってなかったといえば嘘だ。やっぱり人の営みってのはすごいな。みんなもうまくやってくれたようだし)

 久方ぶりの帰還である。堂々と『李岳』として戻ったならば十分に凱旋に値したが、時機ではないと思った。必要なのは『李岳』の評価ではなく隠密と警戒、兵力の隠蔽である。李岳の全ては祀水関に結集されていた。

 一通り様子を見てから李岳は道をそれた。目指す先は宮殿ではなく、まずは訪ねるべき相手があった。李岳はとある屋敷に到着すると、李儒を伴ったまま訪いを入れた。使用人は李岳を見ると二つ返事で中へと入れた。

 案内された先、賈駆は不敵な笑みで李岳を待ち受けていた。書簡のやり取りはほとんど毎日行われていたので、久しぶりに会うというのに奇妙な感じがして、二人ともにおかしかった。

「李岳将軍も意外と無能ね。白波賊ごときにあれほど苦戦するなんて」

 李岳は肩をすくめて答えた。

「いや参ったよ。匈奴の王よりよっぽど手ごわかった」

 その言葉に賈駆はとうとう笑い出した。

 白波谷の攻略があっさり決着していることは当然賈駆も聞き及んでいた。そして賊を吸収し正規兵として鍛えあげるということも当然連絡している。

 

 ――白波賊攻略が苦戦しているように見せかけたのは、反董卓連合への布石であった。

 

 李岳は賊ごときに手間取る男であり、その男が河南を守っている。おそらく洛陽を目指す際にでしゃばってくるであろう男は、我々にとっては与し易い弱腰だ……少しでもそう思わせる必要があった。侮られれば侮られるだけ作戦の幅と効果は増大するのである。

 ちなみに、白波賊との攻防戦が長引いているという欺瞞工作は李儒の発案である。献策した途端、自分の滞陣がさらに長期化してしまうことに遅まきながら気づいて泣き叫んだことは、李岳は笑い話としていつか吹聴してやろうと心に決めている。

 白波谷に世間の目を集中させることによって、祀水関の補強と周囲への工作活動に気づかれる心配を減らすことも目的であった。滞陣が長引いていることを理由に兵糧の備蓄も堂々と集めることができた。全ては反董卓連合への布石であり、其の点においても李儒の献策は威力を発揮しつつあった。

「雲母も元気そうね。だいぶこき使われたんでしょう?」

「う、う、詠さま……わ、私……や、闇の眷属……ううう……」

「……だいぶ虐めたようね」

「社会復帰は順調だよ」

 賈駆も李儒の人となりはよく知っていた。李岳の返答にさもありなんと笑って返した。

「白波軍は使えるの?」

「一万ほどは鍛え直したよ。沙羅がいい仕事をした。防城だけなら十分戦力になる。頭目の楊奉も見どころはありそうだ。すぐにでも一軍を率いることはできるだろうけど、まずは霞の下につけて様子を見ようと思う」

「妥当ね。他には?」

「見どころのあるのを一人見つけた」

「名は?」

「徐晃」

 

 ――姓は徐。名は晃。字は公明。河東郡楊県の人。 

 史実においては曹操麾下として音に聞こえた将軍である。対袁紹。対馬超。対張魯。対劉備……曹操が経験したであろう難敵との戦のほとんどに従軍し、そのいずれにおいても膨大といっていい軍功を欲しいままにした名将である。関羽が死を迎えることになった『樊城の戦い』においても多大な戦果を残した。曹操自身の口からもその偉大な軍才と清廉で朴訥な人柄を合わせて褒め称えられており、漢建国の功臣であり『呉楚七国の乱』鎮圧を全うした名将・周亜夫にたとえてさえいる。

 

(赫昭の下につけてみたけど、非凡なものを持っているといってたし間違いないだろう……こんなうれしい誤算もあるんだな。人がいない、人がいないと嘆いたところであるものでやってくしかない。そんな風に諦めてた所だから、余計気が楽になった。あとは間に合うかどうか、だな)

 さて、と李岳は件の書を賈駆に見せた。賈駆もまたそれを既に手にしていたようで、驚くこともなく頷いた。予想はしていた、用意もしている。

「予定通りというところね」

「思ったより早かったが」

「誤差でしょう。で、李岳将軍の見解は?」

「その前に伝えなきゃいけないことがあってね。良い知らせと悪い知らせがある。詠。どちらから聞きたい?」

 賈駆は迷わず答えた。

「悪い知らせから……っていうのを期待しているんでしょうけど、あいにくボクはひねくれているんだ。良い知らせから聞かせて」

「最後の策がはまった」

 李岳の答えに、賈駆は思わず腰を上げた。

「じゃあ!」

「永家の者の報告だ」

「間違いないの?」

「ああ」

 グッ、と拳を握りしめて賈駆は窓の外を見た。反董卓連合を迎え撃つための策は、この数か月李岳との討議で練り上げた二人の智と英断の結晶だった。いくつもの段階を踏む綿密な計画の名は『亜号作戦』という。この目論見が外れれば滅亡やむなしの決死の計画であったが、最後の一押しが肝であり、同時に難関でもあった。それを李岳は成したという。勝利までの道筋がようやく見えた気がして、賈駆は窓から差し込む輝きに目を細めた。

「……よく、よくぞ成した、冬至」

「だいぶやつれたよ」

 あはは、と笑った李岳の顔には確かに陰があった。痩せたというのは冗談ではなく真実だろう。並大抵の苦労ではなかったはずだ。白波賊に包囲戦を仕掛けながら祀水関の防備を整え、同時に洛陽の体制整備に案を出し続けた。

 人材登用においても生半可な功労ではない。まともに寝ていたかどうかすら疑わしい程の働きぶりだった。しかもそれら全てを敵の間諜に気付かれないように。神経もすり減ったろう。

「……お疲れのようね」

 李岳は肩をすくめた。

「この程度。雲母にもだいぶ助けられたし。詠だって大変だったろ」

「別に……ボクはこのくらい……」

 強がってはみたものの、賈駆とて相当の苦労をした。一番の懸念材料は戦時に政権が動揺することであった。董卓の権力を確固たるものにしておかなければ、戦時において中央で混乱が生じることになりかねない。そんなことになれば勝てる戦も負けてしまう、と李岳は何度も主張した。

 

 ――そして、特に重要なのは洛陽を遷都しないこと。それは徹底的に念押しした。史実における董卓の最大の悪手こそが、洛陽から長安への遷都だと考えていたからである。

 

 そのためには反対派をさり気なく監視下に置き、泳がしながらもいつでも捕縛できるように差配した。謀略を巡らすことは慣れているとはいえ、絶対に失敗が許されない任務でもある。その点において李儒と賈駆の間でもかなりの情報交換があったようだ。

 さて、と賈駆は眼鏡の縁を押した。内心、失敗したな、と少し後悔している。ここまで手応えのある知らせであったのならやはり後で聞いた方が後味が良かっただろうと。

「じゃあ、悪い方の知らせは?」

「開戦前の殿下の奪還は、難しいね」

「……そう」

 反董卓連合軍は、陳留王を錦の御旗にして西進してくることは間違いない。それが行われる前に永家の力で何とか奪還しようかと試みていたのだが、無理筋だというのが廖化の見解であった。

「上手くいかないわね」

「雲母はどう思う?」

「……闇の衣に囚われれし珠玉を取り戻すには、その衣が脱がされた時に奪い取るしかない、というのが(いにしえ)より伝わりし呪法の基礎」

「御輿にされたときを狙うしかない、と」

 李儒はコクンと頷いた。

「やっぱり、正面からやりあうしかないのね」

「二十万か……」

 敵の兵力はおよそ二十万程だろう、というのが李岳と賈駆の二人が立てた予測だった。全くもって馬鹿にならない連合になっている。袁家を筆頭にした豪族名家による漢帝国転覆の危機、それが賈駆の胸に強烈な現実感を伴って押し寄せた。

 対する正規兵はその半分程度。李岳と賈駆、そして陳宮――三人が企画し、董卓の決済を経て行われた徴兵計画の結果、動員可能な兵員は十万をわずかに上回る数字まで至ったが、現実問題として全兵力を前線に投入することはできない。最前線で直接体を張ることになるであろう兵力は無理をして七万、というのが現状であった。それも皇甫嵩や朱儁といった重鎮の管轄兵力を何とか動員しての数字である。

「白波軍の一万で首の皮一枚もったようなものかな」

「ボクたちは本当に官軍なのかな、って毎晩疑ってるわよ。こんな苦労するものだっけ?」

「さてね」

「とはいえ正規軍が二十万……とんでもない数だわ」

「ま、なんとかなるでしょ。怯えても仕方ないよ。やれることをやろう」

 どうしてここまで平常心でいられるのだろうか、と賈駆は思った。確信なのか? いや違う、と賈駆は首を振った。胆力なのだ、と気づいた。そういえば、と賈駆は李岳の戦歴に思いを馳せた。そう、この男は二十万に至る匈奴兵をたった二万かそこらの兵で押し返したのだ。それも自らの手で総大将である右賢王の首級を挙げている。にじみ出る揺るぎなさは死地を潜った人間だけが備える背骨の分厚さを感じさせた。

「……信じてもいいのね」

「信じよう。俺たちのやってきたことを」

「――うん」

 よし、と二人は同時に頷いた。賈駆は立ち上がるとまとめていた資料を持って李岳と李儒を面に導いた。

「そろそろ陛下に言上しなければならないわね。もう集まり始めている頃合いよ」

「時の刻みは押しとどめることは出来ない……」

「雲母のせいだ。城門でずっと粘ったんだからな」

「……血の契約には抗えない」

「やってる場合じゃないわ! ほら、行くよ」

 賈駆の言葉に、李岳も頷いて後を追った。目指すは宮殿であり、そこには帝が今か今かと首を長くして待っていることだろう。




李儒すまん。中二病になってもうた。

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