真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十八話 放たれる檄文、洛陽へ戻るは修羅の道

 袁紹は夢を見ていた。袁紹は夢の中で曹操をからかっていた。曹操の幼名である「阿瞞」という呼び名を繰り返しているので、きっと洛陽の頃だろう。袁紹は夢のなかの己を、俯瞰するような視点で思った。

 曹操は素知らぬ顔で、皮肉でもって袁紹に手痛い逆撃を行う。袁紹はその侮辱が受け入れがたく、顔を真っ赤に紅潮させる、それを傍目で見ながら時に諌める張貘――幼い頃、洛陽で繰り返した面白味のない日々だった――あまりに他愛なくも儚い夢。

 目を覚すと、傍らの文醜があられもない姿で寝ていた。そういえば昨日は伽の夜だった、と袁紹は思い返した。そして夜の喜びとともに、夢の中で堪能した甘い味を反芻した。

 張貘――彼女は美しかった。袁紹が自覚したのはしばらく経ってからであったが、はっきりと恋心を抱いていた。同時に曹操が似たような思いを張貘に抱いていたことも気づいた。洛陽で彼女の心を手にするために青春の少なくない時間を真っ赤に燃やした。バカみたいな話である、なんのことはない――袁紹が曹操を毛嫌いしていた理由はただ一つ、決して相容れぬ恋敵だからであった。

 しかしそれも昔の話、と袁紹は半ば割り切っていた。もちろん、半ばは割り切れないままでいることも事実としてあるが。

「んんん、麗羽さまぁ?」

 傍らの文醜が猫なで声で寝起きの第一声を囁いた。

「猪々子さん、(わたくし)はもう起きますわよ」

「んにゃあ……もうちょっと……」

「ほら、髪の毛を整えてもらわないと困りますわ」

「むにゃむにゃ」

「もう」

 いやに目覚めがよかった。普段はこの文醜さえそこのけの寝坊助だったが、年に一度くらいこういう日もあろう、という程にすっきりしている。文醜が寝ぼけたまま袁紹の髪の毛を整え始めた。鼻風船を膨らませているが、手つきは慣れたもので出来栄えを見ても不満はない。

 軽く羽織って表へと出た。良い朝だった。冀州は魏郡、その中心地たる鄴城。袁本初が本拠地を構える大都市である。

 

 ――冀州。人口豊かで富に栄え、司隷さえ凌ぐ栄耀栄華を誇る北方の有力州である。九つの領郡に百の領城を備え、住まう人々は六百万人に上らんとする。

 

 その冀州を実効支配するのが袁紹その人であった。未だ地位は司隷校尉であるが、その影響力はこの州の隅々にまで行き渡りつつある。後は公的な印可さえもらえれば名実ともに冀州牧の位が落手する。実力が物を言い権威の力が失墜しつつある乱世とはいえ、朝廷の許しがなければ支配といっても張りぼての空虚なものでしかない。

 通路を進んで中庭へ向かった。新たに増員した軍兵三万が調練を行っている。威勢のいい掛け声とともに武器を振るっていた。冀州全域、総力を以って兵を催せば十万は下るまい。圧倒的な兵力である。黄金の鎧はその威圧でもって敵の戦意を挫く。まさに天下の大頭目が従えるにふさわしい軍勢だ、と袁紹はにんまりと笑った。

 そのとき、前方から顔良が息せき切ってやってきた。

「麗羽さま! こんなところに!」

「あーら、斗詩さん。どうしたのかしらそんなに慌てて」

「お客様です! と、とんでもないお方が!」

 とんでもないお方とは一体誰かしら、とぼんやり考えながら袁紹は特に急ぎも慌てもせずに向かった。顔良が持ってきた上着をさらに羽織り(それは官位を示す装飾の入った正装であった)袁紹は客の待つ間に入った。全土より袁家の声望に惹かれて集った文武官、合わせて百名が左右に分かれて直立している。全員表情は巌のように固まってしまっていた。

「ああら、みなさんこんなに朝早くからどうしたのかしら。今日は会議でしたっけ?」

 誰も彼もが答えずに押し黙っている。そして進みゆく袁紹を、顔良がばつが悪そうにその手を掴んで壇上に上がるのを阻止した。はて、と袁紹が首をかしげる。なぜ斗詩は自分が正面に立つのを止めるのだろう……構うまい、と袁紹は振り切って壇上に上がって椅子に腰かけた。なぜこんなにも居心地が悪い? それに皆も自分を見ずに広間の中央に視線を注いでいる……

 釣られたように袁紹も正面に目線を移した。そこには幼い少女が、粛然と一人立っていた。袁紹と目が合うや否やかすかに微笑みをこぼした。半瞬、袁紹の思考が空白になった。直後に電流が走り眠気が吹き飛ぶ。あり得ない人物が来訪していた。

 

 ――少女の名は陳留王劉協。雨の兗州で出迎えて以来、二度目の出会いである。

 

「袁本初殿、息災であられたか」

「で、殿下!」

「またお会いできて嬉しい」

 にこりと、花のような笑顔であった。そのとき、ハッ、と袁紹が己の立ち位置にようやく気付いた。壇上に座し、足労した劉協を立たせたまま話し込んでいるのだ。

「な、なぜ殿下を立たせたままでいるのです! 斗詩さん!?」

「で、殿下がこのままで良いと……お、おっしゃられまして……」

「そのような! すぐに椅子と卓を! ほら、急いで!」

「いや、構いなく」

 劉協の固辞に袁紹は血相を変えた。

「構いますわ! 我が血統は代々漢王室の重臣として仕えてきた名家でございます! 殿下にご無礼を働くことは母、祖母、曾祖母の顔に泥を塗ることになるのです!」

 常になく慌てた様子で用意を進める袁紹に、劉協は思わず笑みをこぼした。二人はやがて向かい合うようにして席に着いた。どちらが上座でもない、二人共相手に譲りあった形であった。コホン、と咳払いをして袁紹は聞いた。

「それでこの度はどのようなご用件でいらしたのですか?」

「うん。袁紹殿に会いたいと思い、参った」

「わ、わざわざそのためにいらしてくれたというんですの?」

 はい、と小さな冠がフラリと揺れた。袁紹は有頂天であった。王が、わざわざこの自分に会いに来ている!

 だがやがて劉協はおずおずと自らの真意を伝えた。

「……嘘ではない。しかし、それだけならどんなに気兼ねのないことか。袁紹殿、実は余はご助力を願いたく参ったのです」

「助力、ですの?」

「余は洛陽に帰りたいのです」

「殿下……」

 袁紹は思わず胸が締め付けられる思いに駆られた。洛陽における勢力争いの渦中、清流派を名乗り皇帝の権力の復権を望んだのは虚構ではない。皇族がこのように(ないがし)ろにすらされてしまうことへの潜在的な憤りは、名家の血の訴えであった。

 袁紹が二つ返事に了承の声をあげようとした時であった。

「失礼いたします」

 顔良が申し訳なさそうに進言の様子を見せた。彼女の位人臣では当然発言など許されない。だが袁紹は顔良の言葉を押し殺す気が毛頭なく、さりげなく劉協に同意を求めた。劉協は構わないと小さく頷いた。それを待ち、顔良が言葉を紡ぐ。

「洛陽はいま宦官の勢力を排除し、豊かさを回復させんという正道を進み始めたとうかがっております。殿下の真意に際し、堂々とご帰還叶う様手筈を整えること、拒む我が主ではございません」

 そうですわ、と袁紹が相槌を打つ。顔良が暗に出兵を拒否するという旨を伝えていることには気づかない。

 だが、そこに割って入ったのは田豊であった。某も失礼仕る、と野太い声で拝謁の姿勢のまま参じた。文官にしては大柄で蓄えた髭も見事。一見武官に見えるがその実、頭脳によって天下を動かすと冀州で知らぬ者なき智者であった。姓は田、名は豊。字は元皓。冀州鉅鹿郡の人である。

「左様……今こそ大兵を催し、堂々たる威容でもって陳留王殿下の帰路を盤石とすべきでございましょう。董卓は己の分をわきまえず三公の地位を召しましたが、武力を背景にした愚挙に過ぎませぬ。殿下が洛陽を出奔された由もまた彼の者の邪道によりまする。天下の名家、袁家の頭領が断固たる意志をもってお導きせねばなりませぬ」

 武断派の最右翼が主の意図をくすぐろうと甘言をささやいている、と顔良は優しく美しい顔立ちの下で煮えたぎった。否、と声をあげようとするがその言葉は劉協の一言によって永遠に口から発されることはなくなった。

「冀州殿だけが頼りです」

 

 ――その一言に、場が凍りついた。

 

 顔良の表情が青ざめ田豊は紅潮する。束の間置いて居並んだ全員が騒然とし始めた。袁紹が、わずかに震える声で真意を問いただす。

「い、いま……なんと? なんとおっしゃったのです? 聞き間違いでなければ、冀州殿と……」

「そう、申しました」

 瞬間、袁紹は打ち震えた。冀州の全ての権限が袁紹にあると、皇帝の実妹である陳留王が是認した。その一言は印がないとしても、いや印があろうがなかろうが、皇室が袁紹の影響力を認めたことになる。冀州牧の地位がおよそ確定した瞬間だった。

「……は、はい! この袁本初、冀州を統べる袁本初に全てお任せあれですわ!」

 袁紹は立ち上がると豊かな胸、見事に巻いた金の髪を揺らせて宣言した。

「皆さん、すぐに出兵の準備を進めるのです! ただちに冀州の総力を上げて洛陽に攻め込みますわ!」

 その言葉に、列席している劉協の従者と幕僚のほうぼうから声が上がった。

「袁紹殿、さすがの気概です」

「名門袁家の頭領はやはり並ではない」

「素晴らしい御覚悟でございます冀州殿!」

「冀州殿!」

 こだまする追従に袁紹はすっかり気分を良くした。駆け足にそのような一大事を決めてもよいのかと思案する、あるいは反対する者たちの声も聴く耳持たなかった。股肱の臣と言える顔良の忠言でさえ例外ではなかった。

「麗羽様……そのような重要事をこんなに簡単に決めてしまうのは……」

「斗詩さん、そのような心配は全くの無用ですわよ? 何せこの袁本初、冀州牧となるのがしっかりはっきり明らかになったのでございますから! そうすれば今まで渋っていた郡からもがっつり徴兵可能です。動員兵力はどんどん増えるはずですわ」

「で、ですが、それは皇帝陛下に弓引くことに」

「何のために兵力を整えていたとお思いですの!? 董卓さんは武力で洛陽と宮中を制圧した不届き者なのですよ、どうしてただで通してもらえるとお思いですか。この袁本初、殿下のお言葉に喜んでお応えいたしますわ」

「その通りでございます!」

 顔良の言葉に田豊が野太い声で続けた。もちろん顔良の言葉を利用するためであった。

「多数派を作るのです、多数派を! 董卓の横暴を許さぬ、皇室の権威を守る、世に逼塞する在野の名士英雄を網羅し結束させるのです。その頭領となりて、冀州殿は陳留王殿下を奉戴し洛陽にご帰還なさるのです!」

 田豊の言葉の全てが袁紹の矜持を射抜いた。袁紹は立ち上がり、歓喜に震えながら宣言した。

「誰か、お手紙を書いて下さいまし! 何を勘違いしたのか、どこの馬の骨ともつかない董卓さんと李岳さんが洛陽を牛耳ってしまっている今の情勢、不満に思っているのは殿下や私だけではないはず。そうです、連合ですわ! 大連合ですわ! 私に付き従うお友達の皆さんの力を結集して、あの二人をこてんぱんにやっつけてふん縛って、ペペン! と追い出してしまうのです! 当然盟主はこのわ・た・く・し! 袁家の頭領であり、冀州牧でもある袁本初ですわ! おーっほっほっほっほ!」

 袁紹の哄笑が響く。彼女の決断は早かった。英断と呼ぶか、拙速と呼ぶかは人によってまちまちだろう。幕僚の中でも好戦派の武人は手柄を立てる好機であると色めき立つ者が多かった。文官においても尊皇派、つまり漢王室への忠誠を絶対とする者たちは、混乱極まる洛陽と朝廷、そして皇帝を守り秩序を回復するのだと気炎をあげ早速全土に放つ檄文の手はずを整えようと議論を交わし始めた。

 全ては何も出来ず、顔を蒼ざめさせる顔良の目の前で、止める間もなく決した。一部始終を、陳留王劉協は冷たい眼差しで見つめ続けていた。

 狂乱の決定を見届けた後、劉協はあてがわれた居室へ戻った。袁紹は早くも作成した檄文を全土に飛ばそうと試みていた。劉協のことなどもう頭の中から消えていた。

 部屋にはどこから侵入してきたのか、劉岱が寝台に腰を下ろしていた。棗を口に含みながらにやりと笑っている。

「おつかれさま、殿下」

「図ったのだね」

 劉協が劉岱を睨む。劉岱が嬉しそうな顔を隠そうともせずに劉協に近づいた。その頬をそっと撫で上げて、くつくつと笑みをこぼす。おぞましさに駆られた劉協が払いのけようと手を振ったが、すんでのところで劉岱は躱す。顔には笑みが貼り付いたままである。

「武力を用いるなど、余は認めがたい」

「だがそれしか方法はない」

「詭弁だ」

 劉岱は劉協を上から下へ、舐め回すように視線を這わせてから異様に優しい声で訴えた。

「洛陽に戻ろうよ、ね? そうなればきっと君の望みも叶うさ」

「劉公山、どうして貴方を信じられよう」

「さあね。けど殿下が信じようが信じまいが、もう君は担がれる他ないのさ。祈るがいい、全てを。祈ることだけが君に残された最後の抗いさ」

 ハハハ、と笑いを残して劉岱は部屋を後にした。食べかけの棗を放り投げて微塵の気配も残さず去る。劉協は捨てられた棗を見つめた。入れ替わるように入室した太史慈が側に近寄っても、劉協は微動だにしなかった。

 

 ――太史慈は、劉協が苦手であった。

 

 劉岱と劉遙の命令を、本意ではないといえ遂行し続けるのが自分に課せられた業なのだと思い定めて二年が経つ。既に痛痒も葛藤も覚えることはないが、この陳留王を号する少女の前だとその決心が揺らぐのである。劉協は自らを誘拐した二龍を憎んでいるはずだが、その怒りをなぜか太史慈に向けることはなかった。

 太史慈は劉協を慮った。だがこの幼い少女が何を考えているのか、太史慈にはよく理解が出来なかった。しかし立ち尽くす劉協には神々しさが宿っており、迂闊に触れることは許されないように思えた。不可侵であった。そこには絶対があった。何もないというのに、太史慈は焦りを覚えた。

「太史慈」

「……は」

 やおら放たれた劉協の言葉に太史慈は動揺を押し殺して返事をした。劉協の世話も二龍から授かった命令に含まれているので自らの中で齟齬が起こることはなかった。

「余は最低だ」

「……そのような」

「袁紹殿を利用した」

 棗から目を離した劉協は窓へと向かった。晴れ渡る空。窓は東向き。その果てには洛陽がある。劉協の小さな背中の向こうに、太史慈は茫洋とした覇気を見た。劉協は全てを理解していた。劉岱がどういう目的で冀州へ連れてきたのか、袁紹に救いを求めればどういう帰結に至るのかも。だが劉協はあえて乗った。そしてそれを凌駕しようとしている。

 太史慈は、知れず震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 歩きながら、ふぅ、と張燕はため息を吐いた。ため息は洛陽の喧騒の中で鈍色(にびいろ)に溶けてしまい誰の耳にも止まることはなかった。

 いけない、と思う。気が抜けている。明確に意識できるようになったのは最近のことであったが、もはや如何ともし難いほどに集中力が欠落していた――認めたくはないが、丁原の死が重くのしかかっている。賈駆に暇を乞うたのは、このまま中途半端な心理で切った張ったに臨めば確実に命を落とすと思ったからであった。

 好敵手の死に正面から向き合いたくないという気持ちと、しみじみと友を思い返すしめやかさが、愛憎半ばするように張燕を苛んだ。

 改めて数えてみれば驚く、二十年を超える付き合いだった。何度も何度も、殺し合いと呼ぶほかないような決闘を繰り返してきた。会話も、張燕がまくし立てるような罵倒を投げつけ、丁原が軽蔑したように一言返す。ほとんどそれだけ、そのようなやり取りだけを繰り返してきた二十年だった。

 だが、酒を酌み交わした夜もあった。最も美味い酒が飲める相手だった。もっと、もっと語るべきことがあったように思える。だが全ては永遠に失われ、最早取り戻すことさえ出来ない。

「バカ桂……李岳の坊やが不憫だろうが……」

 隣を歩く部下が、は? と声を出したが関係ないとばかりに張燕は手を振って先を急いだ。もどかしい。本調子ではない、が、言い訳にはならないだろう。子である李岳の方が当然悲しみは深い。泣き言などもってのほかだ。

 

 ――張燕は頭を振って現実に戻った。未だ十分な説明は受けていないがどうにも緊急性の高い事案が浮上している。予想だにしていなかった不測の事態であった。

 

 昨年末の閲兵式、その際に奢侈豪遊の限りを尽くしていた富豪の家から掠め取った金銀財宝はうなりを上げる程であり、向こう二年間李岳からの報酬も十分貯蓄に当てられる程であった。それを元に張燕は商売を充実させ――元手さえあればそこから稼ぐことなど造作もなかった――今や『永家』は洛陽の内でも莫大な富を築き上げた富豪として知らぬ者とてない。押しも押されぬ大富豪、それが表の顔である。しかし裏の顔としての『永家』は表以上に力を持っていた。

 黒山賊の中でも選りすぐりの者で作り上げた諜報組織を増強し、今やその人員は二百名までに増やしている。彼と彼女らを邪魔立てするものは最早ほとんどいない。組織の最大の目標は今や一つに絞られていた。段珪が遺した一言……つまり『天下蠱毒の計』の正体を解き明かすことである。あらゆる資源を投入し、幽州の闇を解き明かすことに血道を上げていた。ようやく楔を打ち込めるようになったほどだった。数名が劉虞の配下として参入できたのだ。組織としての実力が充溢していると言ってもいい。

 だが、その『永家の者』が何と泣き言を上げた。生半可な事態ではない。長きに渡る苦闘により、幽州を中心に暗躍する劉虞の組織の名前が『甲子』と判明している。彼奴らの策動であれば張燕直々に動くのは当然のことであった。

「報告しな」

「は……」

 傍にいた女に張燕は振り向きもせずに言った。話をふられた女――どう見ても下働きの中年女性にしか見えず、事実普段は米屋である――は、汗を拭いながら答えた。

「河南からの荷が解けませぬ」

「荷が?」

「ええ」

 符牒であった。河南からの荷――李岳が逃亡した二龍と陳留王を追撃した際、前職の河南尹、王允の捕縛を命じた。『荷』とはまさにその王允自身を指す言葉だ。それが失敗に終わっている、ということなのだろうか。

 李岳は時に『永家の者』に頼らぬ情報を持ち出して指示を出す。そのうちの一つが「王允は信用できない」であった。張燕でさえ知り得ない情報を、時に無造作に開示する己の主に張燕は首を傾げつつもたまらなく面白がっているのだが、与えられた情報を十分に生かすことのできないまま失態を犯したとなれば沽券に関わる。

 李岳の忠告通り、王允が敵と内通していたという裏は取れている。劉協逃亡の手助けをしたという物証も手に入れ、此度見事に釣り上げた。だがその荷が解けない? 王允の身柄は既に手配されており、護送という形で洛陽に到着するはずであった。口封じをされる恐れがあったので軍から人員を動員してさえいる。それが破られて身柄を奪われたなどと赤っ恥もいいところだが、現実にこの洛陽でそのような武力行使を行える人間がいるのだろうか。言いにくそうに口ごもっている女の様子もおかしい。張燕は釈然としない気持ちを抱えたまま先を急いだ。

「手練が、皆返り討ちにあっております……とんでもない化け物が……」

「案内しな」

「……ですが」

「案内しろと言っている」

「は」

 女に従い通りを北に折れた。

 案内されたのは王允の居宅であった。促されるままに張燕は中に進んだ。大した心の準備もしていなかった。それが張燕の敗因であった。彼女は事態を甘く見ていた。気を引き締めなければと思いつつも、どこか悠長に構えていたのだ。

 普通のことでは動揺せぬと自負する。胆力は並ではないと自信をもって言える。だが張燕ははっきりと硬直していた。目の前に現れた人物の異様な姿に愕然とし、立ち尽くしてしまった――

「ぶるぁぁぁ!」

 

 ――絶叫した声の主はほとんど裸であった。頭髪はなく、頭頂は玉の如く輝く。両耳の隣から編み上げられた揉み上げが垂れるばかり。浅黒い肌に包まれた筋骨は隆々とたくましく、桃色の下着がひときわ目に付く。大きく分厚い唇は下着と同じ桃色であり、そこから漏れ出る声は限りなく野太く、しかし妙に媚びた声色である。

 

 隆起した筋肉を見せつけながら、顔面を唇の紅でめちゃくちゃになった男を二人抱えている。足元には、同じような状態にされた屈強な『永家の者』たちが少なくとも十数人倒れ伏している。耳元から伸びた二本のお下げを振り回して淫らに叫んでいる魁偉――張燕配下の手練れを薙ぎ倒し、びくともしない豪の者。尋常の衝撃ではなかった。抱きかかえた永家の者に接吻を繰り返しながら吠え声を放ち続ける、六尺三寸三十貫、筋骨隆々たる見事な体躯の漢女(おとめ)の名は――

「ぬっふーん! この洛陽一の踊り子であり、漢女道亜細亜方面継承者である貂蝉ちゃんにこの程度の実力で歯向かおうなんざ、とんだアマちゃんだわねん! 罰としておんもいっきりペロペロしちゃうんだからぁん! ほら! ん……どや! ……んんっふー!」

 既に気を失っている相手に接吻を繰り返す。助けに飛び込もうにも腰が引けて身動きが取れない永家の者たち。貂蝉と名乗った巨躯はさらに接吻を続けようとしたが、ぐったりとした腕の中の男はもうまともな反応は返せず、ぐったりとしたまま、時折ビクンビクンと痙攣するのみである。貂蝉はつまらなげに一瞥するとその二人を地に放り投げた。そして油断なく辺りを睥睨する。まるで次の獲物を見定めるかのように……

 そのとき貂蝉は張燕の姿を見つけた。フン! と鼻から息を吹いて小指をくわえて片目をつむる。どうやら性的な魅力を競うように挑発しているらしい。

「あっらーん! 中々趣味のいい淫らな恰好の人が現れたわねん! 女の分際で! んもう、対抗意識で燃えちゃう……!」

 あっはーん、とお下げ髪を振り乱しながら、唯一身にまとっていた腰布を脱ぎ捨てようとする。張燕は止めずにじっと見ていた。あれほど鍛えぬいた部下たちが、動揺のあまり裸足で逃げ出さんばかりに後退りしているが、張燕だけは一歩も動かずに耐えていた。

「……あら、あなた……その冷たい眼差し、なかなかないわね……悪くないわ……ええ、決して悪くない……」

 張燕の冷たい視線がなお良いのだとばかりにくねくねと体をよじる貂蝉。一言でいえば変態だった。どこに出しても恥ずかしい変態だった。

 だがなぜだが張燕はプッ、と笑ってしまった。嫌いではなかった。自由気ままな奔放さと馬鹿さ加減が少し痛快なくらいで、張燕は腰をかがめてしばらく笑いをこらえようとした。が、無駄な努力だった。やがて天を仰いで大笑いを始めた。不思議そうな顔をする永家の者。だが貂蝉だけは張燕の笑いに釣られたように頬をゆるめ、喉を震わせた。やがて往来の中心で二人だけが抱腹絶倒の大笑いを催した。

 その笑いが収まるまでどれほどだったろう。喉をからし、涙を拭いて張燕は貂蝉に向き直って言った。

「はあっ! 笑った! お腹が痛いっての!」

「私も、思わず腹筋が割れそうになっちゃったわよん!」

「とっくにバッキバキだろうが!」

 そのやり取りにまた二人して笑う。張燕は涙を流し何度か咳き込みながら、はー、とため息を吐いてようやく言った。

「王允の身柄を渡してくれないんだって?」

 不意打ちじみた直裁的な物言いに、貂蝉はフッと笑った。もうおどけた様子はなかった。

「出しゃばるつもりはなかったのよ……でもこんなのでも、一応私の親ってことになってるの……捨て置くわけには行かないでしょう?」

 むんず、と貂蝉が背後からブラリと取り出したのは前職の河南尹である王允であった。白目を剥いて口から泡を吹いている。どうやら貂蝉によって昏倒させられてしまったようだ。黙って護送されてたほうが傷は浅かったに違いない。

「親?」

「そ。私もねん、さすがに木の股から生まれるわけにはいかなかったのよん……そこまでムチャクチャできないわけ」

 よくわからない説明だったが、張燕は先を促した。

「ふうん。で、その親とやらをどうするワケ?」

 ブラン、と垂れ下がった王允の体たらく。束の間沈黙した貂蝉の意志を張燕はくみ取った。

「アタシゃ、李岳の坊やの遣いさ。坊やは半端なことじゃ意志を曲げやしない。王允は敵の逃亡に加担した。それを看過するタマじゃあない」

「きっと気が変わるわん」

 小気味良い返事だった。

「代価を払えるってのかい?」

「素敵な情報を差し上げるわよん」

「裏切り者の身柄を上回る価値があるものだなんて、めったにない気がするけどねえ」

「天下蠱毒の計」

 戦慄した。貂蟬はうふふと笑っている。

「あたしもねぇ、この外史で積極的に動くつもりなんてこれーっぽっちもなかったんだけど」

 そういって貂蝉は自分の股間を指さした。張燕は突っ込まなかった。股間に特に意味はなかったようで貂蟬は話を続ける。

「情報はん、もちろん、李岳ちゃんに会わせてくれたら話すわん――んふっ! ずっと会いたかったのよん! たまらなかったわ……よく我慢できたって褒めてあげちゃいたいくらいよん……たぎってね、もう……たぎって……仕方がなかったんだからん!」

 あっはーん!

「……坊やに会いたいのかい?」

「もちろんよん!」

 うっふーん!

「じゃあ、五分五分だね。そっちは坊やに会いたい、だから情報を渡す……王允を見逃すにはもうひとつ何か必要だろうて」

「あらっ、ずっるーい! じゃあもう一つだけ、おまけよ? あなた、最近何か大切なものをなくしちゃったわねん」

「ああ?」

「とても大切なもの……でも大丈夫、それは杞憂なのだからん」

 大切なものを失ったことのないものなどいない。この乱世だ、誰もが肉親の一人や二人を不遇のうちに亡くす。誰にでも当てはまりそうなことをこれ見よがしに言うことで信用を得ようとでも言うのか? その手には乗らん、馬鹿馬鹿しい。

 張燕がそう考え、貂蝉のたくましい肉体を押しのけようとした時だった。貂蝉の言葉が張燕の時を止めた。その囁きに、張燕は慄然とし、立ち止まった。

「丁原ちゃんは生きてるわよん」

 張燕は振り返った。喉がカッとなり、口にするべき言葉を見つけられないまま何かを吐き出そうとした。

 張燕はただ呻くことしか出来なかった。




お久しぶりです。色々忙しく、中々更新出来ませんでした。年度末怖い。


曹操、袁紹、張邈の関係は、本編中に「曹操と袁紹は洛陽で女を取り合った」みたいな記述が元で浮かんだ次第です。三角関係萌え。

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