真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十六話 李確と郭祀

 ――時はわずかに遡る。

 

「は、半端ねぇ……」

 洛陽の城門をくぐって一歩目、李確はドサリと自分の荷物を取り落として呟いた。

 天下の中枢――その実態は想像の遥か上を行った。涼州東部北地郡に生まれた李確にとって、大都市といえばもちろん長安であった。古の神秘の国『周』に起源を発し、逆賊王莽の蛮行さえなければ今なお以って中華の中心であり続けたはずの歴史ある由緒正しき旧都――それが長安。

 だがこの洛陽はそれらの全てを上回った……見渡す限りの人、人、人! 李確は目を回すような気持ちになった。長安に初めて訪れた時も人に酔っ払ってしまっていたが、今回は当然それを上回る。町の規模は確かに長安も巨大であったが、活気の桁が違った。長安が成熟した静謐さを称える古老とするなら、洛陽は未だ成長途中の逞しい快男児である。溢れ出る喧騒、忙しく走り回る人びとの息遣い、立ち昇る昼餉の煙はまるで目を覆わん程!

「……こらぁ、とんでもねえとこに来ちまっただなす」

「なんだ、怖気づいちまったのかよ砂雁」

「馬鹿抜かすでね。怖気づいたのはおめさの方だ」

「けっ……でも、本当に良かったのか? 俺なんかについてきちまってよ」

 李確の言葉に郭祀は笑った。包帯の隙間から覗く口が意地悪そうにつり上がっている。

 

 

 

 

 

 ――涼州は半ば未開の地であり、長安や洛陽では非現実的とされるまやかしや神秘がまことしやかに語られ、信じられている。風習それ自体に罪はない。が、中には度重なる偶然がために生まれる不幸な犠牲者もいた。

 郭祀はその『不幸』の一人であった。生まれた年月日が忌日とされ、誕生したちょうどその瞬間に頭上の日輪が欠けたのである。以来郭祀は不幸の子とされ、忌を祓うための呪符を全身に巻きつけられたのち、実の親の手によって野山に捨てられたのであった。

 免れ得ぬ死……だが郭祀は生き延びた。その山には頑固だが慈悲深い山師が住んでおり、罪科なく打ち捨てられた赤子を不憫に思い拾い育てることにしたのであった。李確の父もまた同じく山師であり二人は知己であった。以来李確と郭祀もまた、自らの親と同じように出自は違えども血を分かった実の兄と妹のようにして育ったのである。

 李確と郭祀の父は彼らが十四の頃流行り病がために揃って死んだ。他に身寄りもなくやむなく二人だけで生き延びなければならなかったが、李確と違って郭祀は不当な差別を受け続けた。二人は野山に出て獣を取って日銭を稼いではいたが、郭祀の場合は相場の半分でも支払いがあればいい方で、その度に屈辱にまみれた――李確の他には、誰一人として彼女を人間扱いしなかったのだ。

 親さえ(なげう)った忌み子の郭祀――だがその武術の才は天与のものだった。あるいはそれは被差別の代償だったのかもしれない。郭祀は誰にも師事せず、独りで創始し、練り上げた我流の武門である峨流・無慚糸を操る。凄絶としか言う他ない技を、郭祀は呪符の描かれた包帯の下、やはり笑みを浮かべながら自在に手繰った。

 練達した技を以って、今では誰にも屈することなくどこでも生きていける郭祀だったが、李確の上洛の意志を聞くやいなや一顧だにせずについていくことを決めた。李確が唖然とする程の呆気なさであった。

 

 

 

 

 

 郭祀は笑う。自らを地面に(なげう)った孝に値せぬ親からの最初で最後の贈り物――呪符の包帯を身にまきつけたまま、笑う。

「おら、おめさと一緒におると決めただ。あの町に未練さねえ」

「……ふん」

 それに、と呟いて郭祀は続けた。だらりと李確の肩に持たれながらその細い目を覗きながら言う。

「弱っちいおめえを放ったらすのもおっがなくっでなあ」

 プチン、と李確の中の何かが容易く弾ける。郭祀の武術の腕は確かに尋常の域を超えている――だが、こちらも只者の枠に収まる者ではない、という誇りはある。郭祀や自分を馬鹿にしてきた者は残らず叩き伏せてきた。『猫目の李確』といえば聞くところでは聞く勇名である。いくら幼馴染で親友の郭祀とは言え、弱っちいなどと吹かれては沽券に関わる。

「いい度胸じゃねえかこのアマ。決着つけるかおうコラ?」

「やるがあ?」

「おう、こいよコラ。いい加減白黒つけるぞオラ」

 その場で腕まくりをした李確――だがそういう行動原理がやはり田舎者なのであった。天下の洛陽、その往来の中心で喧嘩をはじめるなど正気の沙汰ではない。たちまち交通は渋滞し怒号が舞った。

 

 ――邪魔だ、城外でやれ!

 ――こっちゃ急いでんだ!

 ――おどきよ、騎都尉呼ぶわよこのお上りさん!

 ――どけかっぺ!

 

「……一旦預けとくぜ」

「……んだな」

「……都会はこええなあ」

 田舎者の非常識は都会では通じない。それをしみじみと痛感した二人であった。

「先に目的を果たしにいくか」

「んだな」

「さあて、と」

 コキリ、と李確は首を鳴らした。郭祀と離れないようにその手を引いて歩き出す。目指すは徴兵管理を行う軍の詰所であった。めでたくも司空に就任した董仲穎の軍だ、司空直轄の部門で間違いないと大きく足を踏み出した。

 

 

 

 

 

 ――李確。彼は軍属を求めて上洛したのである。

 彼が生まれ育った涼州を出奔し、軍人を目指そうとしたのは先に起こった『涼州の乱』がきっかけであった。

 涼州は東西に広大で、何かで一括りに出来るほど単純な土地ではない。漢人、匈奴、羌族、官僚に軍、豪族――数多の人びとがそれぞれ乾いた風の中で生きる荒野である。当然利権はぶつかり時にせめぎ合いになる。黄巾の乱や賊の横行によって弱体化した中央政府に対抗して、独立心旺盛な地方豪族が決起するのはある意味自然な流れであった。

 反乱を率いたのは老獪、執拗にして熟慮と英断を巧みに使い分ける涼州の妖怪――韓遂。

 羌族や馬一族を結託させ、涼州を席巻する一大反乱に育て上げたのは間違いなく頭目である韓遂の手腕によった。李確が暮らしていたのは長安に近い東部であったが、官軍の抵抗ままならず戦乱の暗雲はやがて逃れようもなく覆いかぶさってきた。

 李確の安全以外には全く興味を示さない、町の誰が死のうがどうでもいいと割り切っている郭祀と違い、李確は指を咥えて見ているだけではなかった。町の者に対して愛憎半ばする複雑な思いはあったが、無駄に死なせることもあるまい……それに名を挙げる機会だ、と思った。こんなところでくすぶっていたくない、と思い徴兵に応じたのだった。

 だが、羌族の猛攻に長安に駐留する京兆尹直属部隊は為す術もなく瓦解した。分断され、追い討ちに討たれるだけ討たれた。韓遂の戦略眼は官軍の上を行った。逃げた先の支城は既に容易く包囲され、水は絶たれ、孤立を強いられた。李確が所属していた第一攻撃部隊は、一両日のうちに半数まで討ち滅ぼされ、全滅する他ない死地に籠城する他なくなったのである。李確もまた、死を決意した一人であった。悔しいのは、自分について同じように犬死する幼馴染の郭祀のこと……

 窮余の策さえ浮かばない絶望的な状況の下、聞こえるのは城外で乱痴気騒ぎをはじめる羌族の歓声だけ。このままでは嬲り者にされるか、あるいは干上がるまで放ったらかされるか……いいやそれならいっそ打って出て討ち死にしたほうがマシだ! ――悲観に包まれた絶望的な城内を救ったのは、翌朝現れた一本の旗であった。

 長安を出撃後一路西進、誰よりも先に駆けつけた紫紺の(スミレ)色。艶やかな銀糸で刻まれた『董』の字。司空張温の号令一下、招集された対涼州戦線の最先鋒――董卓軍である。

 飢え、疲れ、死さえも覚悟した李確の眼に映ったその旗の美しさは全てを捧げるに値した。烈火のごとく打ちかかって行く騎馬隊、油断した敵を蹂躙していく歩兵隊――だが李確はずっとその旗を見ていた。本陣の中央、悠然と進む菫色。牙門旗は誇る、輿に身を預けた美しい銀髪の少女の姿を。

 その姿に、李確は我知らず涙を流していた――

 

 

 

 

 

「あー、悪いんすけど」

 詰所の前まで来ると、李確は目の前の衛兵に声をかけた。女性だが腕には戦いでついた傷があり、きっと歴戦の勇士なのだろう。ゴクリと息を呑んだが、強面の衛兵は意外な気さくさで答えた。

「ん。何用だ?」

「えーっと、なんつったらいいのかな。その、仕官したいんスよ……董卓様の旗に」

 李確はポリポリと頭をかきながら照れくさそうに言った。意を決してここまで来たものの、どうにも照れて仕方ない。

「ああ、そうか。見上げたやつだ。だが……」

 兵士が面倒くさそうな表情で頬をかいた――そのとき、不意に李確は自分が恥ずかしくなった。照れてる場合か! 断られることもあるだろう。仕方ない。どこの馬の骨とも知らない男がのこのこ仕官したいと出てきたところで袖にされるのは当然のこと。それでもここしかないと思い極まって駆けつけたのだ。今ここで全力で頼まずしてどうする。はるばる涼州から一ヶ月。歩む度に、日が暮れる度に思いは募った。もう後戻りなどできはしない!

 菫色の銀の旗に生きると決めたのだから! 李確はその場で膝をつくと、決死の思いで訴えた。

「頼む! いや、お頼み申します! この李稚然、骨を埋める覚悟でやってきた次第っス! 飯炊きだろうが便所掃除だろうが何だろうとこなします! どうか、どうか董卓様の軍勢にお加え下さい!」

 おおお、とどよめきが起こった。李確の声に辺りの兵士も眼を剥いた。

 

 ――今時あれほどの覚悟をしてやってくる者がどれだけいるだろう。

 ――食い詰めての入隊とは眼の色が違う。

 ――見事な男子の覚悟。

 ――だが……

 

 李確の言葉に喉をつまらせたような表情をした衛兵は、やがて申し訳ないように首を振った。

「申し訳ない……董卓軍は解体されたのだ」

「かいた……はいぃ!?」

 さらなる頼みの言葉が喉で待機していたというのに、それら全て吹っ飛んで李確は目玉が飛び出る思いであった。

「正確に言うと再編中でな……いま董卓様は軍兵を募集されていない。求めてらっしゃるのは専ら文官なのだよ」

「そ、そんな……」

「どうだろう、故郷に戻られて学を積み、孝廉を求められては」

 孝廉……そのような悠長な手段を取っていては、この胸に宿った熱い思いは死んでしまうだろう。李確は目の前が真っ暗になった。絶望とはこのことを言うのだろう。支城に取り残された時のような暗雲が目の前に広がった。

 衛兵の申し訳なさそうな声ももう耳に入ってはいない。李確はフラフラとその場を離れると、町の隅でへたり込んでしまった。

「石椿……」

「わり、砂雁。いまちょっと、そっとしてくれ」

「……ん」

 付き合いの長い郭祀も、このように落ち込んでしまう李確などついぞ記憶になく持て余した。本音を言えば仕官などどうでもいいと思っている郭祀だったが、李確の思い入れは普通ではない。やはり気の毒で胸が痛い。

 どうしよう。途方に暮れた。路銀もさして残っていない。入ればなんとかなると思って失敗したことのことなど考えていなかった。まさか募集さえしていなかったなど、想像さえしていなかったのだ。

 

 ――その時である。

 

「お二人さん。困りごと?」

 声はすぐ目の前から聞こえた。李確は顔を上げない。少女の声はどこか面白がってる風に聞こえたからである。盛大に声を上げた田舎者を笑いにでも来たのか? きっとたちの悪い悪戯か、よくて物売りだろう――ここ十年で一番機嫌が悪いのだ、今の自分は何をするかわかったものではない。

「失せろガキ」

「私は単福」

「失せろっつったろーが」

「董卓様にお仕えする方法、教えてあげようか?」

 

 ――李確は弾けるように顔を上げた。

 

 目の前には単福と名乗った少女。真っ茶色の髪をお団子のように編み上げている。その瞳には冗談や商売っ気は見えなかった。李確は思わず聞き返した。

「……なんだって?」

「董卓様にお仕えしたいんでしょ? 聞こえたよ」

「その後だ、ボケ」

「教えてあげようか? 董卓様に仕える方法」

「……そったら嘘、おめぇ死にてぇだか」

「待て」

 嘘と決めつけている郭祀を李確は抑えた。藁にもすがる思いとはこのことであろう。少女の顔には面白がった風な様子は一つもない。真面目な顔だ。気の強そうな表情である、軽々しい冗談を言うようには見えなかった。

「聞こう」

「条件があるの」

「……言ってみろ」

「一生懸命頑張ってくれること。逐一情報をくれること」

「……あん?」

 妙な提案だった。李確は束の間考えたが、やがて郭祀が溢した見せかけの殺気ではなく、本物の殺意を放った。

「テメエ……どこの暗部だ! 俺に草になれってか!?」

 李確の声に、少女はぱちくりと眼を瞬かせると大笑いを始めた。

「あー、確かに。そう取られるよね。うん。ごめんなさい。私が悪い。確かに敵対勢力の諜報員みたいだ」

「ああん?」

「……本音。一生懸命頑張って欲しいの。それだけ」

 要領を得ない。だが少女の様子に嘘や冗談は見えない。李確はもどかしい思いを押し殺して、立ち上がると真っ直ぐ単福を見下ろして言った。

「……詳しく言え。それがこっちの条件だ」

 うん、と少女は頷いた。訥々と語りはじめる声は利発さが隠しようもなく溢れている。

「人に迷惑をかけたときってのはさ、償いをしなきゃいけないと思うの。でも、自分にはどうしようもないことがある……直接にはね。それでも、どうにかしてお返ししたい罪がある時は、誰かを利用してでもお力にならなきゃいけない、と思ったの」

「……ちっとも詳しくねえぞ」

「ここから先は、私の条件を飲んでもらってから」

 差し出された手は幼く、ちっとも信用できそうにないが、これを手放せば意気消沈のまま故郷に戻る道しかない。藁にもすがりたいこの思い。さきほど決死の覚悟でやってきたと確認したばかりだ。それを忘れたのか、李確――

 李確はその手を、しっかりと握りしめた。

「いいぜ。俺が入隊したら、そのままお前に情報を流して、一生懸命戦えばいいんだな? それだけなんだな? それは決して、董卓様の不利益にはならないんだな」

「誓います」

「いいぜ。その線で行こう。だがもしを俺を謀った時は(くび)り殺す」

「構いません」

 どっかと座りこんだのは同時であった。いい度胸だこのガキ、と李確は思った。この俺の殺気にびくともしやがらねえ――

「ではお伝えします。貴方は今から、もう一度任官を求めて門を叩いてもらいます」

「断られたろうが……まさか何度でも行けってことか?」

「いいえ。叩く門が違うんです。貴方が訪ねる先は時の司空董卓様の下ではなく、今の河南尹、李岳様の軍門なのですから」

 

 

 

 

 

 その日、華雄は非番であった。仕事がない時など本来はない。が、華雄は昨今努めて休みを取るようにしていた。それは先の大火の日からであった。あの大火、正確にはあの戦いの時から――

 華雄は手に握った大斧を力任せに振り回した。目の前に置かれていた岩は粉々に打ち砕かれただの石塊になっていった。手には心地よい快感が残る……そして舌打ちをする。力任せでどうする! 技だ! 技を極めなければあの武人には勝てない――

 華雄の脳裏に敗北の苦い味が広がった。増長していたのだ、華雄。最強だと自負するばかりで、本当の強者との対決に臨むことなく井の中の蛙に甘んじていたのだ。恥ずかしくないのか、華雄。恥ずかしくないのか華雄!

 太史慈。それが宿敵の名だった。途端にズキンと鼻が痛みで疼いた。一度へし折られた鼻は、もう完治しているが傷は残った。戦いで得た傷は殊勲だ、女の幸せなど考えていない華雄にとってそれは別段屈辱でもなんでもない。

 屈辱はあの敗北それ自体である。完全に負けた。最強を自負してきたこの華雄が、あの鉄棍に手も足も出ずにみすみす陳留王の誘拐を許した……李岳は一言たりとも責めなかったが、陳留王が拐かされた一件、それだけは自分の責任だと華雄は痛感していた。あの場で太史慈を倒していれば、陳留王を守ることができたし、洛陽を大火に遭わせることもなかった。

「畜生!」

 たった一度の敗北――それが華雄の自尊心を粉々に打ち砕いた。だから完治したというのに、この疼きは止まらないのだろうと思った。煩わしいこの痛み――きっと、この疼きを止めるにはあの女に勝つ他ない、と華雄は思い定めていた。

「太史慈ぃい!」

 必ず勝つ。最強の武人としての矜持を取り戻す――華雄が休みを取る理由は、その燃え上がるような闘志のままに自分を鍛えあげる時間を確保するためだった。息を荒げながら華雄は金剛爆斧を振り回した。もっと鋭利に、素早く、重く、どんなものでも両断できるような一撃を求めて――もう二刻にもなるというのに、息も絶え絶えなまま華雄は己の武技の研鑽に余念がなかったが、彼女の動きを止めたのは訪いの声であった。

「御免。御免!」

 休日に訪れる知り合いなどいただろうか……と華雄は汗を拭いながら首をかしげた。だがとにかくも無視するわけにはいくまい。華雄は門に向かって返答した。

「誰か!」

「姓は李、名は確。字は稚然。天下の英雄、華雄将軍に一目お目通り願いたく参った者です」

 ふむ、と華雄は首を傾げた。聞いた覚えのない名前だが、敵意はないようだとぼんやり考えて門を開けた。

「入れ」

「ありがたき幸せ!」

 見れば客は二人であった。李確と名乗った男が主人なのだろうか、後ろに控えているのは従者のようである。

「天下の英傑にお会いすることができて、感無量でございます」

「て、天下の英傑……だと」

 うううん、と華雄は正直むず痒いいい気分になった。傷心の時ほど人の優しい言葉が染みる。確かに自惚れは自分の敵だと思い定めたものの、気持ちいいことは気持ちいい。

 だが、と華雄はきりっと笑みを殺した。この程度で浮かれていては武将は務まらないのだ。

「貴殿は何者だ?」

「実は……実はですね。自分は、涼州から出てきた者っス」

「何をしにだ」

「仕官を求めてです」

 ふむ、と華雄は首をかしげた。

「ならばなぜ私を訪ねてきた。屯所の場所を知らんのか」

「俺はただ官軍になりたいんじゃないっス! 董卓様に、董卓様に命を助けてもらったんっス! 華雄将軍、貴方にもっス!」

 どういうことだと聞き返した華雄に、李確は先ほど衛兵に話した時と同じように自分の思いを語り始めた。涼州での乱で自分がどういう境遇に陥ったのか、それを助けに来てくれた董卓軍への感謝の気持ち、身命を捧げて忠誠を誓おうとやってきたのが今日この日だということ。

「だが董卓軍は……」

「それも、聞き及んでるっス! ですから、こうして華雄将軍の元に参った次第っス」

 華雄は困った風に小さく首を振った。

「……どうしろというんだ? あるはずのない董卓軍に所属させることなど不可能だろうが」

「――李岳将軍にお仕えさせて頂きたいんっス!」

 

 

 

 

 

「どういうことだ? なんで李岳って男に仕えなきゃなんないんだ?」

 李確の疑問に単福は明快に答えた。

「董卓様のためになりたいのなら、李岳という人に仕える他ないんだよ。董卓軍は今解体されて再編されてるけど、それは新たな防衛体制を形成するために取った措置なんだ。再編計画の頂点にいるのはもちろん董卓様だけど、幕僚として計画を編纂したのは李岳」

「……けどよ、その李岳ってのは信用できるのかよ」

「できる。李岳がこの前洛陽で何をしたかは」

「馬鹿にすんな、そんぐれえのこと、わかっとるだ」

 田舎者、と散々馬鹿にされてむかついていたのだろう。苛立つ郭祀の声に、よし、と単福という少女は頷いた。面白いものだ、と李確は思った。知れず郭祀も単福の話術に飲まれている。

「李岳が宦官を無力化できたのは董卓様の力添えがあったから。なければもちろん出来やしないよ、執金吾とはいえ政治力は全然足りないんだから」

「けどよ、執金吾下ろされたじゃねぇか。いま河南尹だろ?」

「本当に罰を下されたのなら、とっくに死んでるよ」

 そりゃそうだ、と李確は頷いた。確かにそうだ。つまり李岳は自分が死ぬことはないと確信していた、ということになる。

「董卓様がかばってくれるって、信じてたのか?」

「二人はね、協力体制にあるんだ。この国で最も強固な同盟を組んでるといっていい」

「李岳と、董卓様が、同盟関係?」

「そう。李岳軍に入ることが、すなわち董卓様のお力に直結するということなんだよ」

 正直なところ李確には複雑な政治の力学がわからない。だが単福の言葉は自信と論理を十分に備えており、あやふやだった政治の中枢の姿が李確にもおぼろげとはいえ垣間見えた。

「……言い分はわかった」

「どうする?」

「大体わかった」

 だが、と李確は付け足した。

「李岳という男が信用なるかどうかわからん。同盟してるならそれでいい。李岳を助けて董卓様の力になるのなら万々歳だ――が、もし、李岳が董卓様を裏切って牙を剥こうとしたのなら、もちろん俺は旗色を変えるぜ」

「……どうする気?」

「言わずもがなだろう」

 単福はしばらくじっと李確の目を見つめた。李確は本気だった。いざとなれば李岳の首を取り、それを手土産に董卓の旗に走る。李確にとっては当然の判断であり、それを事前に了解を得ようとするのは協力を申し出た単福への義理以外の何物でもなかった。

 やがて、うん、と頷いて単福は応諾の意志を見せた。

「それでいいよ」

「いいのか。お前が力になりたい相手ってのは、董卓様じゃない。李岳だろう?」

「……大丈夫。二人の同盟は決裂しない」

「なぜ断言できる」

「私がそれをさせないからさ。貴方を上手に操ってね」

 

 ――上等!

 

「ハハハ! 気に入った!」

「石椿、おらぁよぐわがんねぇけどもよ」

「まぁまぁ、ここは任せろ……じゃあさっさと出世しないとな。まずは雑兵からだろうけど」

「ダメ」

 頑張るか、と前向きになり始めた李確に釘をさしたのは、やはり単福。そんな怠慢は許さない、とばかりに眼光は鋭い。

「あん?」

「とっとと出世してもらう。とにかくも一軍くらいは率いてもらわないと」

「……無茶言うぜ。李岳軍ってのはそんなに人材不足なのか?」

「まさか」

「……つまり、方策があるってことだな?」

 単福は、謀略家が胸に秘めた企みを明かす時にだけ見せる、あのニヤリという笑みを見せてから李確にささやいた。

「まずね、君たちは今から華雄将軍の下へ向かってもらう。そして正直に、さっき衛兵に言ったことと同じように言うんだ。董卓様のためにやってきた。けど解体されて残念だ。李岳様のもとならきっと本意を遂げる事ができる、って。華雄将軍は今日は非番で自宅にいるはず。難なく会えるよ」

「それだけでいいのか?」

「華雄将軍の武力を褒めて上げて。ちょっとは聞く耳を持ってくれるはず」

 一体何者だ、と李確は不意に背筋に冷たいものが走るのを感じた。李岳軍の詳細を知るにしても、そこまで詳しいことをどうやって知り得たというのか? 将軍の休みの日までを把握するだと?

「……それで、それだけで俺は雇ってもらえるのか?」

「ま、七分三分といったところかな。けど、これはまだまだ第一段階……ただね、そのままサクッと次の段階に行けるといいんだけど、ひょっとしたら貴方たちを試してくるかもしれない」

「試す?」

「華雄将軍は叩き上げの軍人だから、試す方法は一つしかないよ」

 単福の言葉に、さすがに李確もピンときた。望むところである。

「その試験を突破出来なかったら……この話は、お互い忘れたほうがいいと思う」

「よく言ったぜガキ」

 李確の腕に力が入る。ようやく自分にもわかりやすい話になった。なまくらを引っさげて恥をかきにきたとでも思ったのか、この女は。

 

 

 

 

 

 李確の返答に満足した華雄は、よし、と言うと邸内に入ることを許した。華雄の身分は現在都尉である。洛陽の中心に堂々たる屋敷を構えてもよいのだが、生来そういうことに興味のない武人である彼女は、得物を振り回すには十分という程度の庭があるというだけで、大して広くもない官舎に満足していた。

 その庭の中央で李確は仁王立ちした。華雄が自分に何を求めているのかはおのずと知れた。

「構えてみろ」

「……は。よいので?」

「ああ、構えてみろ。武器は何を使う」

「自前のものを……」

 李確は一礼すると、懐から自らの得物を取り出した。

 取り出したのは『潤芭燐(ジュンバリン)』という名の鉄爪である。左右にそれぞれ四本ずつ、拳の上から突き出る。一種の暗器であるが李確はこの扱いに長けた。猫のように体をしならせ、虎のように切り裂くのである。その切れ味は鎧の上からでも人体を両断出来るほどであり、なまくらであれば鉄さえ両断した。

 腰を落とし、李確は構えた。郭祀と取っ組み合ううちに武技は磨かれていき、敗走したとはいえ『涼州の乱』では単騎で五十を超える首を落としている。だが果たして中央の武人にはどう評価されるか――

 気を充実させる。一層腰を落とした。細い目がわずかに見開かれれば鋭い殺気が矢のように華雄を射抜いた。

 対峙は束の間であった。やがて満足したように頷くと、華雄は背を向けた。

「……ついて来い」

「じゃ、じゃあ!」

「私は登用とか採用は任ではないのでな、他のものを紹介することしかできんが……お前は見込みがありそうだ。陳宮というやつがいる。そいつが上手く取り計らってくれるだろう」

 束の間、李確は押し固まった。ん? と華雄がどうしたという風に目を細めたが、李確は慌てて首を振った。

「も、もちろん、構わねえっス! 陳宮様! うん! はい! よろしくお願いしますっス! あ、こいつは俺の無二の親友で」

 申し訳程度に李確は郭祀を紹介しようとしたが、郭祀は自らペコリと頭をたれた。

「わだすは郭祀。わだすは、石椿……この李確っつー男に救われたもんだす」

 ん、と李確は面を上げて郭祀を見た。呪布に包まれているが、今まであまり見たことのない真剣な表情でいることがわかった。

「わだすは、李確を守るんだす。そんだけだす」

 そうか、と満足そうに華雄は頷くとあごをしゃくった。

「親友というわけか……まあいいだろう。二人まとめて付いて来い」

 李確はその場で声をあげんばかりであった。嬉しい! そして同時に戦慄していた。正夢でも見ているかのような気色の悪い錯覚に陥りそうであった。驚くべきは単福の慧眼……まさかここまで完璧に的中させるとは。李確は空恐ろしい思いを抱かずにはいられない。

 

 

 

 

 

「武技に満足したなら、ひょっとしたらそのまま任官、ということには行かないかもしれない。いや、そのまま任官になると地位が低いままだから、面白くない。望むならそのまま第二段階に行って欲しいの」

「第二段階?」

 面倒くさいな、と李確は頭をかいた。自慢ではないが気は短い方である。武力が十分ならそれでいいじゃないかと。

「うん。きっと華雄将軍はこう考える。いいやつらだ、見込みもある。だが自分の裁量で勝手に認めてもいいものか? って。以前なら違ったけれど、李岳との協力体制を築いてから董卓様の陣営は優秀な文官が増えている。その者に決済を任せよう、と思うはず。華雄将軍は戦場で戦うことが出来ればそれで良い人だから、手続きとか裁可とかは面倒だとも思うはずだろうし……出てくるのは多分、陳宮という人だね」

 単福の声には半信半疑といったような曖昧なところは一分もなかった。明瞭明快、快刀乱麻を断つかの如く断じている。だがそれでも、出てくる文官まで的中できるものなのだろうか?

 いよいよ疑い深げな李確に単福は続けた。

「李岳軍の兵糧手配を一手に担う秀才だよ。李岳軍の生命線とも言っていい……華雄将軍もやはり武官、懇意な文官は少ない。その少ないうちの一人が」

「陳宮、ってわけだな」

 人名にも政治にも疎い自分が何を言おうと説得力などない、ということを李確はもう単福と話して腹一杯に痛感していた。もうここまで来れば毒食らわば皿まで、言われる通り最後までやり通す決心でいた――だがどうにも第二段階とやらは手強そうである。李確もやはり武官志望、頭でっかちの文官や官吏の相手は不得手であった。

「そうか、陳宮ね、なるほど……けど、くそ。文官相手だなんて、面倒だな……」

 しかし、バカ言うな、とばかりに単福は呆れ顔。

「なにいってんの」

「へ?」

「そうなりゃこっちのものじゃないか」

 

 

 

 

 

 華雄の後ろを、李確は胸に吹く風を感じながら歩いた。何かが始まる気がした。いや、もうはっきりと分かった。ここから俺の人生が始まるのだ――単福はとうとう次に紹介される官吏の人名まで当てた。薄ら寒いを通り越して、もう笑ってしまいたくなる。もう単福の助言に疑いはない。李確は知れず全幅の信頼を置いていた。

 やがて通された部屋には意外な喧騒が満ちていた。騒ぎの原因は卓で書類を舞い散らせている一人の少女であった。長い髪を振り乱して叫びまくっていた。怒鳴りまくる先には、恐縮して縮こまってしまっている官吏が一人。

「でーすーかーらー! とっとと去年の収穫量の算定を済ませてもらわないと、来年分の年貢の算定が出来ないのです!」

「いえ、ですが、その……みな渋っておりまして」

 汗をかきかき、官吏は今にも泣き出さんばかりであるが、陳宮の威勢は増すばかりである。

「そのケツを叩くのが貴方の仕事なのです! いいからとっとと、手で数えるなり何なりして帳面整えて持ってくるのです! 名前は何を使っても構わないのです、司空だろうが河南尹だろうが、必要なら玉印だって押してきますですよ!」

「そ、そのような、そのような!」

「だったらとっとと行って来るのです! すってもむいても期日は今月末なのですよ! 間に合わなかったときは、そのときは……うがー! ねねの必殺拳が火を吹くのですよ!」

 ダン! と卓に片足を乗せて拳を振り上げた陳宮に、ひえー、と悲鳴を上げて官吏の男は李確の隣を走り去っていった。

 男を追い出したのはやはり少女であった。緑がかった長髪を二つ結びにしている。恐ろしい剣幕を見せているがまだ年端も行かないだろう。しかし無能な者がこの洛陽で人を使えるはずもない。きっと優秀な人材なのだろうな、と李確は思った。この、単福よりさらに小柄な少女が陳宮――李岳軍の兵糧を一手に管理する能吏と聞いたが、洛陽では早熟の天才がひしめいているのだろうか? とんでもないことである。

「陳宮、陳宮!」

「誰なのです、このクソ忙しいときにぃぃぃ……って、華雄どのではありませんか。これは失礼しましたなのです」

 苛立ちのあまり、ムキー! っと声を上げていた少女は自分一人ではないことにようやく気づいたようで、コホン、と場を取り繕うように咳払いをして卓から足を下ろした。

「何用ですか、華雄殿? ねねはこう見えても頭がはじけ飛ぶくらい忙しいのです。冬至どのがさっさと人員を増やしてくれないからもうしっちゃかめっちゃかなのです」

「頼むから私には当たるな」

「……むむむん!」

 はぁー、と一際大きなため息を吐いて、どうやら平常心に戻ったらしい陳宮はクルンと卓から出てくると小さな体で精一杯ふんぞり返りながら言った。

「で、ご用向きは?」

「任官志望だ。李確と郭祀という者でな、私が見たところ中々骨がありそうだ」

「ふむ?」

 その声に李確は我を取り戻して言上した。姓名、士官の意、経緯と覚悟……陳宮という名の少女は、華雄とは違ってその瞳に冷静な判断力の膜を貼り付けて李確を見ただろう。それを肌で感じながら李確は思いの丈をぶちまけた。

「どんな任務でも務めるっス。覚悟は誰にも負けないっス!」

 最後まで聞いた後に、陳宮はついっと視線をずらして隣の郭祀を見た。

「隣の、郭祀どのでしたか? 貴女も同じ思いなのですか?」

「そうだす」

「――ふうん? ま、いいんではないですかね」

 さらさら、と文章を書きながら陳宮は興味を失ったように頷いた。おそらく、あれは軍の屯所への紹介状か何かだろうと李確は見た――もちろんそれも単福が事前に推察したとおりである。

 単福から授けられた必殺技……それを抜くのはまだだろう、と李確は見た。慎重に機を見る必要がある。

「ではいくつか確認したいのですが、字は書けますか?」

「はいっス」

「では、こちらに記名を」

 父は死ぬ前に字と数を李確に仕込んだ。書けなければ騙される、読めなければ損をする、というのが父の信仰であった。それは間違いなかった、と今にして痛感する。李確は誇りを込めて自分の姓名を記した。問題は字の書けぬ郭祀であったが、陳宮は特にこだわることなく李確の代筆を認めた。郭祀、とやはり己の名と遜色ない誇りを込めて親友の名を記した。

 二人の名を見ると、陳宮は先ほど自分が書き込んでいた書に何やら付け加えた。字が読めるので雑兵にするには惜しい、とでも書き加えているのだろうか――そうはさせるか、と李確は口を開いた。必殺技を叩きこむのは今ここを置いて他はあるまい。

「兵糧、上手くいってないようっスね」

「……え?」

 予想外の一言だったのだろう、陳宮は筆を取り落としかけた。

「大変っスね。いまこの時期に数字を算出できなければ、次の収穫までは税の計算が間に合わない。そうなると軍は大打撃っス。徴税から軍への支出を決めるんっスから、それがままならないとなれば軍は飢えてしまう」

 陳宮は筆を止めて訝しげに李確を見た。

「……幸い、去年は豊作だったのです。今転戦してる本隊への補充は十分なのです」

「またまた」

 李確のもったいぶったような態度が気に障ったのだろうか、陳宮はその場で苛立たしげに足を細かく揺らし始めた。早く先を言ってみろ、という意図だと李確は受け取った。

「もうすぐ大きな戦になるというのに、急がねば」

「……大きな戦?」

「――虎牢関で、飢えては困るっスからね」

 

 ――李確の放った一撃は、陳宮の急所を直撃した。

 

 陳宮は取り乱したように後ずさった。華雄が不審げに眉根を寄せるが、無論そんな様子など陳宮の目には入らない。

 虎牢関。確かに目前の男はそういった……李岳軍秘中の秘、いずれ起こるであろう対反董卓連合軍への兵站戦略をなぜこの男が!

「何者、なのですか?」

 陳宮の混乱は極まっていた。李岳軍の軍事目標の一つを容易く見抜かれるようなことがあってはならない! 幾重にも迷彩をかけ、決して悟られぬように厳重に秘してきた軍略である。それを目前の男が看破したとでもいうのだろうか?

「どこで知ったというのです。最高軍事機密なのですよ!」

 

 ――これは華雄も知らないことであったが、いまいる部屋の天井裏には李岳軍が抱える隠密集団『永家の者』が控えていた。陳宮の安全を守るための護衛であるが、緊急時には陳宮の刃にもなる。いま一声上げれば目の前の男には必殺の矢が放たれる。

 

 半ば本気で陳宮はその手段を選択肢に置いた。策略を見ぬかれるなど、危険すぎる。ゴクリと唾を飲む音が部屋中に響くような気がした。

 李確はふぅ、と息を小さく吐き出すと、その場に跪いた。

「何卒信じていただきたい。この李確、決して李岳どのに危害を加える者ではないっス」

「……信じろと?」

「存分に試して頂いて結構。李岳どのが董卓どのを守る限り、この李確、絶対服従の覚悟。ただ名を挙げるなんて意味がないことはもう思い知っているっス。この生命の使い所はただ一つと思いを決めてここまで来たっス。董卓様のために粉骨砕身の覚悟だ、どんなことでも耐えてみせるっス!」

 最後は本心――それもまた単福が授けた策だった。結局のところ見られるのは為人(ひととなり)であり、虚言は通らない。李岳という男のことはよくわからない。だが中途半端な人間を董卓が信任するだろうか? 李確の中の盲信が李岳を信じろと囁いていた。

 陳宮の黙考はどれほどであったろう。もどかしい程の沈黙の後で、陳宮は静かに答えた。

「李岳将軍に紹介状を書くので、すぐに向かってもらえますですか?」

 

 

 

 

 

「上手くいったぜー! 単福!」

 紹介状を手に、李確は街路を走り抜けて単福が待つ辻へと向かった。単福は安堵と、当然の結果だと誇るような表情を混ぜこぜにしたような笑顔を見せた。

「おめでとうございます、どうやら李岳将軍直々に会えるようですね」

 顛末など全部見抜いている……もう李確は驚くことすらしなかった。

「おめぇ、何者だべ」

 郭祀が呆れたように言う。迷信や神秘を嫌悪している郭祀でさえ迂闊なことを言ってしまいそうな気分であった。

「別に、推理だよ。そうなるだろうな、ああなるだろうな、っていう予測を一個ずつ積み上げれば当然の帰結に至る。それだけのこと」

「ま、いいじゃねえか」

 難しいことはわからん、とにかくめでたい! 李確は一杯飲みたい気分であった。愉快の極み。洛陽に来た甲斐があったというものである。

「ところで、約束の方なんだけど」

「応! 逐一報告を入れるということだな、任せろ任せろ!」

「うん。あ、いい忘れたけど漏洩したらまずいような情報はいらないから。そんなこと書いた竹簡が奪われたらとんでもないことになっちゃう」

「まんず」

 そりゃそうだ、と李確も郭祀に続いて笑おうとした。だがそこでようやく、自分が恥ずかしくなってしまうほどにようやく、当然の疑問に行き着いた。

「単福」

「なに?」

「お前はなんで、仕官しないんだよ」

 これだけの知略、こんなところで埋もれさせる手はない。李岳の手伝いをしたいというのなら直接自分が名乗りを上げればどれほど事は簡単に進むであろう。女だろうが年格好だろうが李岳が差別をしないことは陳宮を見ればはっきりしている。何も恐れることはないというのに。

 単福は、俯きながら、やがて搾り出すように一言だけ溢した。

 

 ――これは償いなんだよ、と。

 

 

 

 




郭祀の方言は適当です、ご寛恕下さい。

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