真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四十四話 兗州の白雨

 南から、熱いと思えるほどに暖かく湿った風が吹いたと思ったら、瞬く間に空に黒雲が広がり間もなく雨になった。激しくはない。柔らかい春の雨だ。西へ続く街道沿いもまだ泥濘(ぬかる)むまでは遠い。

「華琳さま、袁紹軍がこちらに接近しているようです。張貘どのもまたこちらへ」

「そう」

 夏侯淵は曹操の言葉が続かないのを認めて素直に引いた。捨ておけ、ということを言わずとも理解したのだろう。

 三千。それが最大限の動員兵力だった。これ以上多ければ脅威に見え、少なすぎれば無力に思える。対して袁紹は一万二千の兵を動員し、張貘は一千に過ぎない兵しか連れてはこなかった。それぞれの意気込みというものは兵力にこそ如実に表れる、と曹操は何となく考えた。

 注進、と声を上げて斥候が駆け戻ってきた。距離三里。曹操は頷き、振り向きもせずに言った。

「桂花」

「御意」

 曹操の声に、傘を差し出していた荀彧がそのままの姿勢で慌ただしく下知し始めた。ふてぶてしいと思える程の胆力を示して曹操への面通しを果たした彼女でさえ、わずかに緊張の色が見える。

 合図と号令が鳴り響いた。三千の兵が全速力で駆け戻り、隊列を整えた。夏侯惇、夏侯淵の号令が雨音をかき消す程の大きさで響く。兵数は少ないが、付き従えた将兵たちは皆選りすぐりである。陳留郡全域の守備のために曹仁、曹洪といった一族の士官を連れてくることはできなかったが、ここに居並んだのが曹軍の中核ということに変わりはない。

「待機よ」

「はっ」

 雨は依然として柔らかい。曹操だけが荀彧から差し出される傘の中にいるが、他は皆濡れそぼっている。豪雨の中の戦闘もありえる、そのための調練も十分に積んでおり全軍から不満は見えない。

 やがて二方向から馬蹄の音が響いてきた。袁と張の旗が見える。さすがに一万を超える袁紹軍の陣容は見事であるが、自慢の金備えも雨模様の中では輝きを曇らせてしまっている。寡兵ではあるが張貘軍のほうがより優雅であり余裕が見えた。

 都合一万六千の軍が旗を揃えて中牟と俊儀の間の原野に展開していることになる。洛陽で清流派として鳴らした三人がいち早く異常を嗅ぎつけこの場に揃ったのは、確かに運命的なものを感じさせる。袁紹などは特に忸怩たる思いでいるだろう。なにせ、宦官排除を唱えてはばからなかった名士武断派の急先鋒が彼女であったのだから。

 洛陽の変――その真相は未だ明らかになってはいない。

 第一報からのち様々な情報が間断なく持ち込まれたが、その大半を信憑性が乏しいとして荀彧がまず排除した。結果曹操に届く情報は淘汰され、その精度をぐっと増した。が、それでさえも錯綜した情報を吟味するのは至難の業であった。荀彧、夏侯淵と共に夜を徹して分析を行った。

 結果、確たる情報であると断言できるのは以下の五つであった。

 一つ、大将軍何進が宦官の手により殺されたということ。

 二つ、執金吾李岳が麾下を率い宮中を制圧、中常侍を排除したということ。

 三つ、皇帝の身柄は董卓が手に入れたということ。

 四つ、陳留王劉協が宮中より姿を消したということ。

 五つ、洛陽の内かなりの面積が火災に見舞われたということ。

(李岳……おそらく何進が暗殺されることを知っていた。でなければあれほど迅速に行動に移れはしまい。どこで手に入れた情報かはしらないけれど、この曹孟徳さえ知らなかった策動を掴んでいたのね。それを逆手に取って宦官を誅殺、意のままに操れる董卓を担いだ)

 

 ――姓は李、名は岳、字は信達。飛将軍李広の末裔!

 

 曹操のまぶたの裏に、西園八校尉の閲兵式で見た李岳の姿が浮かび上がった。兜の下からのぞくくせ毛、体躯に似合わぬ執金吾の豪奢な鎧、無骨な兵卒を従えて、自らの前を振り向きさえせず凱旋した小男。

 曹操は肩についた水滴を払った。あの男は自分より先んじたのだという屈辱と、面白い、という愉快さが曹操の中で獰猛なものに育っていく。

「華琳さま、両軍が接近して参ります」

 荀彧が耳打ちした。

「捨て置きなさい」

 曹操の答えに荀彧は黙って引き下がった。みれば南北両方向から二将が牙門旗を揺らして曹操の元へやってきた。張貘は気にした風もなく笑顔であったが、袁紹はひどく苦々しそうだ。

「華琳さん! その邪魔な軍をおどけになってくださいまし!」

「なぜ?」

 焦り、飛んできたがために袁紹の顔は紅潮していた。拳を震わせながら大声を上げる。

「なぜもなにも! そのような寡兵でお迎えするなど、恥ずかしいと思わないのかしら!?」

「麗羽、そういうことを言い合ってる場合じゃないのよ」

「いいえ、京香さん! 今こそそういう場合なのですわ! 場合によってはこのまま上洛し、あるまじき大乱を起こした不届き者を征伐せよとの命令がくだされるのかもしれないのですよ? そのための備えをせずに何が清流派ですか!」

 一見尤もな意見だったが、傍目にも袁紹が焦っているのは明らかだった。張貘がため息をついた。曹操は鼻を鳴らす。

「董卓は濁流派の象徴たる宦官を討ち滅ぼした……陛下も無事。今ここで洛陽に矛を向けることに何の意味があるというの?」

「腑抜けたの、華琳さん!?」

 濡れそぼった金色の巻き髪が激しく揺れ動いている。宮中を牛耳っていた宦官を打破し、名士名族を中心とした新進勢力による漢の再興は彼女の悲願であった。それを横からかっさらわれ、しかもその相手が以前も自分に煮え湯を飲ませている李岳というのだからその怒りは甚だしい。

 だが、曹操は取り合うこともせずに視線を前に向けた。

「馬鹿馬鹿しい。どうしても移動して欲しいというのなら、実力に訴えることね」

「なんですって……!」

「貴女は関所を通ってやってくると思ったから北に陣取った。京香は河水から水路をたどると読んだ。私はこの街道で待ち構えた――読み合いに負けた貴女が駄々をこねるのは、みっともないと思わない?」

「この、ちんちくりんが……!」

「そこまでよ」

 激した袁紹を張貘が制した。ハッとして袁紹が前を向き馬上から身を下ろし、張貘も続いた。

 

 ――雨煙の向こう、こちらに向かってくる一団があった。壮麗華美な輿車。突き立てられた青と赤の劉の旗が両翼を守り、儀礼兵が進路を掃き清める。打ち鳴らされる鐘は行く手の邪悪を祓い、高貴な主の栄誉を謳う。

 

「桂花、傘をしまってくれる?」

「……華琳さま」

「二度言わせる気かしら」

 荀彧がどこか口惜しそうに傘を曹操の頭上からどけた。頭上から降り掛かってきた雨滴は予想よりも冷たいものであったが、曹操は気にもとめずに片膝をついた。その様に倣い、背後に居並ぶ全軍が道を開けて同じように膝をついた。

「恐れながら、陳留太守曹孟徳、参上仕りました」

 袁紹と張貘が続く。

「恐れながら申し上げますわ! 袁家が頭領袁本初! 救国の危機に際し微力を尽くさんと馳せ参じた次第でございます!」

「張孟卓まかりこしました」

 三人の名乗りに際し、前方の一段は歌楽をとりやめた。一転粛々と行進を始める。その行軍を曹操は片膝をついたまま迎えた。翻る劉の旗に屈する己を、曹操は内心笑った。自らの無力さと小ささを思う存分堪能した。その味が苦ければ苦いほど、覇王の道を進む己の脚力が強まるというものだ、とばかりに。

 道の端で控えている三人の眼前に輿車が至った。わずかに垂れ幕が開き、異様に白い頬が覗いた。すると、にわかに雨雲が去り、天空に日がのぞいたのである。雨に濡れる曹操の拳に陽光がさす。袁紹がゴクリとつばを飲み込んだ。

「大儀である」

 泥に濡れた自分の膝を眺めながら曹操はその声を聞いた。あまりに幼い声であった。洛陽からの旅路は快適というわけでもなかったろうが、疲れは感じない。曹操、袁紹、張貘同時に返事をした。あの張貘でさえ、かすかに声が震えている。雨は降り続けているのに、晴れ間はどんどんと広がっているのだ。

 

 ――時に春。雨の(エン)州。陳留王劉協、帰国す。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 俊儀に入城した。劉岱、劉遙の命により中牟との間に防衛戦を敷いた。李岳の命により陳留王追撃部隊が放たれてたという名目であるが、州境を越えてここまで攻め込んでくるなど誰も本気にはしなかった。

 陳留王の洛陽出奔は逃亡というのが実態だ。追手がかかっているという劉岱の言葉には真実味があるだろう。事実、洛陽から劉協を追うように東へ出陣した騎馬隊があったという報告もある。だが李岳が本気で追撃していたのなら輿に乗ってのんびりとここまで辿りつけたはずはないのである。となれば、他に協力者がいたと考えるほうが妥当であった。そして誰がその協力者であるかは、既に曹操は見当をつけてもいた。

 袁紹はそもそも俊儀の町に入城することすらなく自領に引き返していった。これ以上屈辱にまみれるのは彼女の矜持の限界だろうと曹操が読んでいたとおりであった。張貘は一泊だけ世話になりたいと要望があり、世話をした。明日帰途につくことになっている。

 宴会も開くことはなく、劉協は早々と用意した寝室へ消えていった。劉協の寝室は劉遙配下の太史慈という武人が不眠で守護している、夏侯惇が手に汗をかくほどの武人であったが、至極大人しいものだった。劉岱と劉遙も特に不審な動きをすることもなく部屋に消えている。劉岱はしばらく滞留したのち兗州の本拠地である昌邑に、劉遙は揚州へ帰還するとのことだ。陳留王は劉岱が伴うとのこと。二人を殺し、陳留王を奪取することを曹操は考えた――が、それは覇王を志す者のなすことではないとして退けた。

 程なく深夜――曹操は自室に主だった者を呼んでいた。微かな明かりを中心に荀彧、夏侯惇、夏侯淵が車座になっている。許緒は部屋の前で誰一人忍び寄らせまいとして護衛に立っている。腹心に限られた極秘の密議であった。

「さて、はじめるわよ」

 曹操の言葉に、はい、と荀彧が立ち上がるとまるで教師のように話し始めた。

「洛陽についての続報が入りました」

「聞きましょう」

「……董卓が司空に就任いたしました」

 ふむ、と曹操は頷いた。想定の範囲内である。武力で宮中を制圧し、邪魔立てするような宦官はもう独りとして残ってはいない。三公を手に入れるに何ほどの障害があろう。

「大火からの復興は順調のようです。董卓軍が主軸となって避難民の仮設長屋を整えているとの報告が」

「ふむ、そつがない」

 夏侯淵の相槌に曹操は頷いた。内政面での手腕は認めなくてはならないだろう。治水はじめ土地の縄張り、建築などは司空の権限に属する。自らの職務を果たしながら洛陽の民からの不満も払拭する、というわけだ。

「司空劉弘を追い出したか……手際がいいわね」

「勅命が下りたとのこと」

「にしても、根拠がなくてはならないはず。何か手引きがあったか、あるいは弱みを握ったか……どちらにしろ、董卓は完全に洛陽を掌握した」

「劉弘は大庶長に封されるとのことです……ですが実態は更迭、軟禁でしょう」

 諸侯王や列侯として封されるわけでもなく、ましてや関内侯にもなれず――大庶長とて多大な名誉を伴う高位であるが、あくまでそれは一般の人間の話であり『劉』の姓を継ぐ者が甘んじてよい爵位ではなかった。反乱の意図ありとでっちあげられて死罪を賜うよりはましだろうが、生殺しの扱いを受け続けることを考えればこれからの後の生は孤独で寂しいものになる。

「惨めなものね」

 だが政争に敗れるとはそういうことだ。命があるだけ儲けものだと考えるか、悲観して自死するか、その選択肢を与えられただけ情け深いというところだろう。

「洛陽では陳留王の出奔についてどう捉えている?」

「行方不明、とだけ」

 曹操はしばし黙考した。弱腰な対応である。劉岱と劉遙が董卓の権力独占に抗って劉協を拉致したのは明白だ。帝位の正当性を盾に挙兵する可能性は低くはない。であるのならばすぐさま反乱であると断定し勅命を下させる方が明快であるが。

 夏侯淵がしばし、と手を挙げた。

「言ってみなさい」

「ひょっとして、天子の御意志ではないでしょうか」

「続けなさい」

「……姉妹で争いたくはない、という」

 夏侯淵は夏侯惇をちらりと見てから囁いた。なるほど、姉妹の絆がために皇帝は劉協追討の命令を下せなかった――それもありうるだろう、と曹操は考えた。だが果たしてそうか? とも。

 夏侯淵の言葉を荀彧がつぐ。

「私も秋蘭と同意見です。後継者争いをしているのならいざしらず、既に帝位は決しているのです。余裕、と見ることもできます……とはいえそろそろ触れが出てもおかしくはありませんね」

「……そうね」

「……華琳さま?」

 洛陽の曖昧な態度はあくまで皇帝の機嫌伺いに過ぎまい。その考え方は一見妥当だろうが、なぜか曹操の喉にひっかかった。嫌な予感がした。帝は、董卓は――李岳はなぜ直ちに全土に触れて劉協を奪還しようとしないのか?

「まぁいいわ……続けましょう」

「はい。董卓はその後触れを出し、大々的な人材登用に乗り出しているとのことです。李確(リカク)郭祀(カクシ)李儒(リジュ)、といった名前が上がっております」※

 人望を失っているわけではないが、されど名士は靡かないといったところである。挙げられた名前はいずれも無名。楊、馬、司馬といったような名門にも声はかかっているだろうがいずれも事態の推移を見守っている段階なのだろう。洛陽は未だ盤石ではなく隙も多い。

「李岳についての情報は?」

「執金吾を退きました」

 不意に、虎の吠え声の幻聴を聞いた気がした。曹操は顔を歪めた。

「……理由は」

「宮中を混乱に陥れた責任を取る、と。河南尹を拝命、即日洛陽を出立したとのことです」

 

 ――河南尹。

 

 曹操は、屈辱に自らの頭蓋が焼けるのを感じた。

「……王允は?」

 曹操から発された意外な名前に荀彧は束の間硬直した。慌てて脳裏を検索し返答する。

「王允、とは……前職の河南尹の、でしょうか? 宮中に召し上げられ、太尉の席が与えられるという予測が立っておりますが」

 望む答えではない。荀彧の返答に曹操は苛立ちを隠さなかった。

「違う、そんな話をしているわけじゃない。王允は李岳に対してどう対応したの? 迎撃? それとも籠城かしら」

「いえ……そのような話は……」

「なんという愚鈍さかしら……王允も、二龍も!」

 曹操は許されるのならば床机を蹴飛ばしてしまいたいところであった。みすみす虎を檻から出して自由に駆け回れる縄張りを与えたということになる、それを誰も理解していない。洛陽で執金吾のままならば檻に入れられた虎に過ぎなかった。飛将軍の末裔とおだてられ、時々顎を撫でられて喉を鳴らすだけの愛玩動物だが――しかし獣は野を得た。自由気ままに駆け回れる戦場という野を――しかも河南尹だと! 

 曹操の口調に荀彧は驚いて後ずさった。秘めたる怒気を敏感に察知したのだが、夏侯淵や夏侯惇も驚きを隠しきれない。一体全体どこで我らが君主の逆鱗に触れてしまったのか、全く身に覚えがなかった。

 自らの言葉に不備があったのではないかと、荀彧は要領の得ないままおずおず申し出た。

「あの……華琳さま、ご説明願えませんでしょうか」

 曹操は手元の茶を一口飲み自らの怒気を払った。小さく息を吐く。

「気づかなかったかしら? 必死になって逃走してきたにしてはあの小綺麗な陳留王の姿、ましてや輿……洛陽からのんびりと行脚してきたわけではあるまいに」

「あ!」

「どうも、現職の河南尹である王允が逃亡の手引きをしたようね。それを李岳は嗅ぎつけ、断罪しに洛陽を出たのよ。知らせがないということは、王允は太尉という官位に目が眩んで、ニコニコと笑顔で城門を開けたのでしょうよ……今頃自らの愚かさを呪っているに違いないわね」

 洛陽から劉協捜索の触れが出なかった理由の一つはそこだろう。つまり、油断させるためだ。言いがかりは何とでも付けれる。なぜ陳留王が入場した際に洛陽に報告しなかったのか、と。

 問題は二つ目の理由にあった。

 中央で得た栄光をみすみす手放し、河南防衛の地位を得たのは何故?

 陳留王拉致を声高に非難しないのはなぜ?

 全土の諸侯が連合を組むと読んだ上で、阻止しようとしないのはなぜ?

「おかしいと思わない? 劉協に対する触れはとっくに出ていてもおかしくはない。即日出てもおかしくないのよ」

 愕然としたように荀彧の目が見開かれるのを曹操は見た。

「董卓……いえ、李岳は、本心はもちろん劉協を逃したくはなかったでしょう。戦乱の種を撒くことになるのだから。何一族の外戚はほとんど無力化され派閥としては脆弱。それにひきかえ董の血を引く劉協は己の正統性を訴えれば支持するものは続出する」

「しかし、逃した以上利用するが得策と考えた……」

「国土は荒れ、諸侯は割拠を睨んでいる。そこに劉協という餌が落ちれば……否、陳留王の号令があれば、諸侯は集まらざるを得ない。連合を組ませるために、劉協に正統性を持たせるために非難しなかった……連合してもらわなければ困ると……! むしろ劉協を帝として即位させてしまったほうが討ちやすい……まとめて討滅してしまえば手間は少ないとばかりに!」

 まともな考え方ではない。夏侯淵ばかりではなく、夏侯惇までもがとうとう事態を理解した様子で呻いた。荀彧は、しかし肯んじられないと首を振る。

「しかし! 乱が起きぬように手配することも選択肢に入るはずです! それをせず、真っ先に下洛して軍備とは……」

「いえ、そうであるなら王允の元へとっくに攻め寄せていたはずよ。劉協の脱出を阻めないとしても、中原全域への脅しにはなった。それをしなかったということは、自由気ままに連合させることを選んだことを示す。そうでなければ、なぜ執金吾という皇帝直属軍最高司令官という地位を放棄することが出来て?」

 河南尹を拝命すれば東からの脅威に立ち向かうのは李岳が一手に司ることになる。中央には董卓を残しているので補給は万全。もはやあの男を煩わせる者も邪魔立てする者もいない。

 口をつぐみ、荀彧は顔を紅潮させた。とうとう曹操の逆鱗の位置に思いが至ったのだろう。

「まさか……全面抗争となれば国土を二分する大乱になります! それを……」

「よしとしたのよ、李岳は」

 荀彧が机を拳で殴りつけた。普段鍛えていないがために、拳骨の皮が剥がれて赤く血が滲む。

 董卓の地位は洛陽で盤石だとて全土では微妙だ。それを補佐する立場である李岳はこう考えたに違いない――宦官を排したものの劉協を逃して漢は危機に立った。何としても劉協の身柄を確保するか、最悪殺害する必要がある。だが逃亡をひたすら追い詰めるのは不毛だ。それよりもおびき寄せる方が効率がよい、と。

「馬鹿な! なんという……傲慢!」

 涼州などという辺境からやってきた董卓に、むざむざ漢の実権の全てを与えるほど諸侯は甘くない。必ずや非難し、抵抗する。董卓は大軍を蓄え盤石の態勢で帝位さえ思うがまま。ならば自然な成り行きとして、諸侯は連合を組むに違いない――いや、組んでもらわなくては困る。連合を組まざるを得ないように仕向けるために、劉岱と劉遙を手配すらしなかった。李岳は自らの失態で逃した劉協を、逆に自らの奇貨としたのである。

 李岳は諸侯の連合に対して勝算があると見ている――自らが指揮すれば、と。そのための準備を既に着々と進めているのだ。

 馬鹿げた戦略だが、誰もが予想していない豪胆さゆえに勝機はある。名声を得んがため、数を恃んで攻め込もうとする諸侯のうち、何人が李岳の半分でも覚悟を決めるだろうか。

 荀彧が声を荒げ、血の滲んだ手を握りしめた。上を行かれた、と考えているに違いなかった。軍師としてその自覚は百の敗戦に匹敵する辱めである。

「私たちは……いえ、この曹孟徳は侮られたのよ」

 小柄な男の、卑屈な笑顔が再び浮かぶ。飛将軍と謳われ、自惚れたか……しかし揺るぎなき自負が眼前の地図から伝わってきたように感じて、曹操は無意識に歯ぎしりした。全土の諸侯に対して不遜にも挑戦状を叩きつけているのだ――それはこの曹孟徳さえも例外ではない。

 拳を震わせながら荀彧は発言を続けた。

「李岳は……恐らく出陣するでしょう……河南尹としての地位を盤石にするため、戦果を上げる必要があるはずです……東からの連合軍を迎え討つために、士気を上げるためにも……洛陽の乱にて不安定になった河南周辺一帯を再平定するに相違ありません」

 その予測は正しいに違いない。己でさえもそうする。そして対連合軍に対しての陣地を構築するための巨大な基地とするのだ。

「華琳さま……対董李戦線の戦略予測、この荀文若にご一任ください!」 

 屈辱のあまり、わずかに涙を浮かべての進言であった。曹操は一歩近寄りその涙を手で拭い、告げた。

「抜かりは許さないわよ」

「御意!」

 手を組み合わせ、荀彧が拝礼した。夏侯惇、夏侯淵もそれに倣って手を組んだ。

 曹操は頷き窓の外を眺めた。雨はそろそろやもうとしている。そしてはっきりと口の中で言葉にした。

 李岳を殺す、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太史慈は言いつけを守るだけの道具に徹していた。今もまた陳留王と呼ばれる少女のためにこしらえられた寝室の前に立ち、一切他人との接触を許すな、という命令に従っていた。なぜ自分がそのようにしか振る舞えないのか、こうなった原因が何だったのか――もはやそういうことに疑問を抱くことすらなくなり幾星霜。

 今宵もまたいつものように太史慈は命令を守る以外のことは考えまいとした。他の感情や気持ちは全て心の隅に押しやってしまった。そうする他なかった。そうするのが一番自分にとって楽だったから。飲食も睡眠も殺人も、皆そうしてこなしてきたのである。

「もし」

 太史慈は声に振り向いた。戸がわずかに開き、少女がこちらを覗いていた。無断外出は許されていない。太史慈は右手で握った棍をかすかに動かそうとした。

「厠へ行きたい」

 ピタリと棍がとまる。太史慈は少女の希望が自らの命令と食い違うかどうか束の間考えた。それを口実に脱走する可能性もあったが、少女の肉体は貧弱であり油断なく見張っていれば問題はないだろうと判断した。

「……こちら」

 太史慈は歩き出そうとした。が、いきなり空いていた左手を握られて跳ね飛んだ。

「暗い。手をつないでもらわねば困る」

「……」

 少女の言葉に理があることを太史慈は認めた。屋敷の中は無用な明かりは全て消されている。夜目が利くように訓練された己は見えるが、少女には厳しかろうと思った。闇に紛れてどこかへ行かれても困る。太史慈は手をにぎることを了承した。

「固い」

 少女の感想は自らの掌に対してのものであると太史慈は判断した。自身は少女に対して逆の感想を抱いていたが、それを口に出すことはなかった。

 ほどなく厠へついた。少女が用を足す間、太史慈は油断なく警戒していたが変事は起きなかった。少女は大人しく言いつけを守り、帰路もまた太史慈の手を握った。

 雨はそろそろやみそうな春の夜。わずかな往復の間、太史慈は奇妙な心持ちになっていた。他人とこうして手をつなぐことは、いつ以来であったろうか――

「誰かと手をつなぐなんて、久しぶり」

「え」

 自らの内心を読まれたのかと思い、太史慈は心拍数を上昇させたがそれは杞憂であった。それは少女の素朴な感想だったのである。

「本当に握ってもらえるとは思わなんだ」

「……なにが、でございましょうか」

「余の手」

「……は」

「母様と姉様の他には誰もいなかった、そなたが三人目」

 このとき始めて太史慈は少女の目を見た。かすかに晴れた雲間から差し込んだ月光が、その青い瞳をありありと輝かせた。

 その目を見た時、太史慈は震えた。震えた理由は、わからなかった。

 突如、そういえばと太史慈の中の乏しくなってしまった理性が働く。この少女は貴人であったのやもしれぬ。それを願われたとはいえ堂々と手をつなぐのは、不敬にあたるのではないか。

「固い手」

「……はっ」

「けど、あったかい」

 そう言って少女は手を離した。既に部屋の前まで戻ってきていたのである。

 太史慈は巨躯であった。ゆえに真下を見下ろすようにして少女を見なければならない――ひざまずき、目線を合わせたことに他意はなかった。少なくとも、太史慈の体は勝手に動いたまでであった。

「名前、教えて?」

 命令の中に自分の情報を開示する許可は含まれていない。本来なら拒否するところである。だが太史慈は、なぜかその少女に抗えなかった。

「姓は太史、名は慈、字は子義にて」

「ありがとう、太史慈」

「……いえ」

「おやすみ」

 少女はそう言うと躊躇うことなく部屋に戻った。彼女の境遇を太史慈は考慮したことはなかったが、理解はしていた。恨み言の一つや二つは出るだろうと考えていたが、少女はなぜか太史慈をねぎらったようであった。

 太史慈は再び任務に戻った。誰にも接触させるな、という命令である。

 しかし太史慈は気づかなかった。既に命令に背いてしまっているということに気づかなかった。

 太史慈と劉協は、手をつなぎ言葉を交わしてしまったのである。




※李『確』は正しくはにんべん、郭『祀』は正しくはさんずいへんですが、機種依存文字のため当て字を使用します。

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