真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第四話 黒山の砦、頭目・張燕

 光陰矢の如し。日にちは瞬く間に過ぎ去り、とうとう出発の日になった。慌ただしく過ぎ去った日々も終わってみればあっという間に感じるが、付いて来たがる呂布を引き剥がし、諦めさせるまでが最大の難事だったのではないかと思う。決め手は点の世話を頼んだことだったのだが、それでさえ渋々であった。

 旅の身の上となり五日が過ぎた。旅にはいい時期だった。二十四節気でいうところの雨水も過ぎて雨も少ない。新芽が伸び始め(まぐさ)の代わりも困らない。雪解け水はまだ残っており、乾くことはないだろう。

 馬群が大地を引き裂くように突き進んでいる。立ち上る濛々たる土煙は全てを覆い尽くす荒波のようだ。岳はその先頭で馬を駆っていた。日は中天にさしかかり蒼天は見果てぬほど透き通っている。軽快に駆ける黒狐も気持ちよさそうに首を上げ下げしている。

 黒狐。先の戦のとき、部族長の卒羅宇がその勇猛果敢なる戦働き、さらには敵の隊長を自ら一騎打ちの末、見事に首級を挙げた功から、時の左賢王より下賜された汗血馬である。黒毛で、嘶きが狐の鳴き声のように甲高いことからそのように名づけられたのだが、卒羅宇には既に長年連れ添った愛馬がおり、事ある毎に岳が借り受けていた。

 馬の扱いに達者な匈奴の者でさえ滅多に乗りこなせない荒れくれのじゃじゃ馬だったが、岳にはなぜかよく懐いた。いつか貰い受けたいと岳は本気で思っていたが、よほどの功績を立てなければ時折借り受けるのが関の山だろう。

 恒山を迂回し、長城を横目に眺めながら并州をまっすぐ横断している。今までと違い数百頭もの馬を運ぶことになるので、不測の事態に備えて余裕をもって旅程を組んだが、問題は全くなかった。常山を目掛けて快走が続く。そろそろ郡境に差し掛かる頃だろう。

 一頭の馬が最後尾から数百頭を追い抜いてやってきた。馬上の男はピタリと岳に馬体を寄せると、馬蹄の音に紛れぬよう大声で叫んだ。

「そろそろ休憩じゃないかね!」

「この先、半里も進めば小川がある! そこまで行こう!」

「あいよ!」

 威勢よく返事をすると、男は再び殿に戻っていった。

 香留靼(カルタン)という名の生粋の匈奴の男で、岳より二つほど年長になる。匈奴は皆、幼少の頃より馬に親しみ自然その扱いにも長けるが、卒羅宇のもとに集まる部族の中でも香留靼は指折りの達者であった。家族以外、匈奴にも漢人にも上手く馴染めなかった岳にとって、数少ない友であり気の置けない仲間だった。

 ちょうど半里を進んだ頃、目論見通り小川が見えてきた。岳は巧みに馬群を蛇行させ、なるべく急に足を止めないようにゆるゆると速度を落とした。馬は商品である。消耗させずに取引相手に運ぶことが望ましい。

 馬たちは思い思いの体勢で休息を取り始めた。秣ほど上等なものはないが匈奴の馬は逞しく、どんな草でも気にせず口に運ぶ。五百余頭のほとんどが生まれて半年に満たない。軍馬としてしつけるのなら若いほど良いが、あまりに早く町に入れると走りが鈍くなる。大草原で伸びやかに遊ばせてちょうどよいのが半年、という塩梅なのだった。

 届ける先は冀州の最北端、幽州との関所に設営された公孫賛軍の駐屯地である。まっすぐ横切るための旅程であり、おそらく今日にでも山賊のはびこる常山を通ることになる。馬以上にのんびりと骨休みをしていた香留靼を揺すって、岳は黒狐を引き寄せた。

「……起きなよ。そろそろ行こう」

「んんん……? ……ええい、ちくしょう、いい夢みてたんだぜ。岳、殺生なことをするよ」

「どうせいやらしい夢だろう」

「ひひひ」

 香留靼のぼやきを聞き流しながら、はぐれた馬がいないかを確かめてから渡河を始めた。深さはなく一気に渡りきることができた。休みを与えられて馬たちも元気いっぱいといったところだ。

 やがて街道が見えてきたが、馬群を走らせるには無理がある。周りからはのっぴきならない事態に見えるのだろう、度肝を抜かした商隊を横目に一気に常山を目がけた。

「あんまり飛ばすなよ! お前さんがまたがってる黒狐は特別なんだからな!」

 最後尾から笑い交じりの怒鳴り声が大平原にこだました。

「飛ばしてるか? 黒狐」

 黒狐はもどかしいとばかりにたてがみを振った。

「そうだよね、物足りないよな」

 風を感じる。岳は喜びを噛みしめながら、天与の運命に思いを馳せた。

(物足りない。果たしてそれは黒狐だけか? 俺は?)

 思いは取り留めもないまま風にさらわれ、明確に形作られることもなく溶けていく。やがて馬蹄の音が硬く尖ったものに変わったことを知った。柔らかい土ではなく、岩山に足を踏み入れたのである。道は狭まり両脇に森が迫る隘路となった。岳はぴったりとついてくる幾人もの気配に知らぬふりをしながら、馬が足を傷めないようになるべく軽快に闊歩をさせた。

「そろそろか、ご案内はお任せしてていいのかね?」

 香留靼が笑う。岳は答えずに馬群を道なりに進めた。並走する人影は次第にその数を増し、小さな丘を二つ越えたあたりで既に百を超えるに至った。

 前方に一際大きな杉の大木が見え始めると、その下に一人の男が立っているのが見えた。見上げるほどに背が高く、痩せた男で、全身黒ずくめの装束を身にまとい、油断なく気合を充実させている。

 黒ずくめがペコリと頭を下げたのを見て、岳も馬から降りて手を合わせた。

「通行許可の札を」

 岳は竹簡を渡した。ここもまた立派な関所なのだった。

「李信達殿ですな」

「はい」

「お頭がお会いになります。ついてこられよ」

 丁重なこって、と香留靼が舌を出す。黒ずくめは杉を左に曲がり、続いてすぐに左の斜面を下っていった。傍目には崖から落ちたのかと思えたが、木々に隠れて道があり、案内されなければ到底わからなかったであろうと思えた。

「なんだってこんな……手間な道を」

 狭い道で気を付けなければ崖下へ真っ逆さまである。全ての馬を一頭ずつ渡しながら香留靼は愚痴った。

「攻めこまれにくいんだ。罠も仕掛け放題」

「なるほどね。とはいえ手間だぜ」

 全てを渡し終えた頃、日は大きく傾き始め空に赤みがさしてきた。案内されるまま先へ進むと、山の中腹だというのに広大な平野へ出た。何度見ても不思議な光景だ、外から見れば全く気付くことは出来ないだろうと、岳は内心舌を巻き、香留靼は盛大に口笛を吹いた。

「馬はしっかりとお預かりします。ご安心めされよ」

 言うや否や、地から湧き出るように何十人もの男たちが現れ、あっという間に馬囲いの柵を打ち込み始めた。

「安心? あんたら盗っ人だろ」

「香留靼」

 たしなめたが、香留靼は引かなかった。この馬たちは決して安くはない、張燕の為人をよく知っている岳だからこそ特に疑問には思わないが、彼の態度は当然と言えた。

 黒ずくめの男は気を悪くした風もなく答えた。

「かまいません。ええ、(それがし)どもはしがない盗っ人に過ぎません。ですがお頭に生きる道を与えてもらいやした。仁義の名のもとに、堂々たる悪党として生きる道です」

「仁義、ですか」

「我々が狩るのは横暴を成す官軍、そして堅気の衆を付け狙う外道どもだけです」

 黒装束の奥で、男の眼光は鋭く光った。仁義。その言葉はおそらくこの男の誇りなのだろうと思えた。そしてきっと、この山に集った黒山の男女は皆似通っているのだろうとも。

「……ふうん、面白いねあんたら。後で一緒に酒でも飲もうぜ」

「……アンタも変わったお人だ、匈奴の旦那」

 香留靼が愉快そうに黒ずくめの男の肩を抱いた。誰とでもすぐに仲良くなれる才が彼にはあった。

 平原をわずかに逸れ、もう一丘越えるとそこには果てまで連なる広大な家々が並んでいた。

 何千戸で利くだろうか、一つの町が山の中腹に丸々収まっていた。炊飯の煙が幾筋も天に昇っている、ここには確かに生活があり、みすぼらしい野党の砦などとは隔絶しているのだと訴えかける狼煙のようだった。

 一際大きな屋敷に岳だけが案内された。香留靼は一足先に酒家へと向かっていた。何を勘違いしたのか「気にせず楽しんでこいよ」と岳を小突いて。

 

 屋敷の中には目も眩まんばかりの金銀財宝で満ちており、初めて訪れたわけではない岳でさえ息を呑む。

 

 金糸銀糸で編まれた豪奢な絨毯、壁にかかるは都の名工が鍛えたであろう見事な装飾刀、巨虎と大熊の皮はまるで今にも襲いかからん迫力で睨みを利かせており、天竺でしか手に入れることの出来ない楽器が今にも天上の音楽を奏でんと控えている。

 しかし部屋の主は、それら宝物の全てを凌駕する輝きを内包しているかのような、圧倒的な存在感で床机に腰を下ろしていた。

「ご無沙汰じゃないか」

 嬉しそうに哄笑しながら、妙齢の女性は美しく流れるような髪をかきあげた。

「……すみません」

「フフフ。言い訳くらいおしよ。しかし、相変わらず乙女のような顔をしておいでだね。ホント可愛い坊やだ」

「知りません」

 岳が面倒そうにそっぽを向いたのを見て、この山でただ一人『お頭』と呼ばれる女は長い髪を振り乱しながら大笑いをした。

 

 ――其の者、常山一帯を支配する黒山賊と呼ばれる盗賊の頭目であり、姓は張、名は燕。配下の数は十万から二十万と言われ、圧倒的な武力と情報網を背景とした支配力は盤石の一語に尽き、その規模はもはや郡の監督の範疇を遥かに超え、遂に朝廷から官位さえ“盗み取った”という漢の天下で最も傾き、世紀の大盗賊であった。

 

 艶やかな唐草模様の着物は肩口が大きくのぞいており、そこには空を切り裂き自由に羽ばたく燕の刺青が煌めいている。燕の嘴には何者にも縛られない自由の証、血のように赤い梅の花がくわえられていた。

「両親は息災かね?」

「相変わらずです」

「てことはあのアマもくたばってねえってわけ、フン」

 岳自身細かいいきさつは知らないままだが、張燕は李弁とも桂とも古い馴染みのようで、その伝手でもって卒羅宇は岳に馬の輸送を頼むのであった。これまでに二度、岳は少数の馬だけを率いて常山に訪れていたが、それ以前にも上等な鉱石を求める弁に連れられてやってきていた。

 卒羅宇や香留靼などは、知己の情で岳が自由に常山を行き来できると考えているが、現実は彼らの考えと大きくかけ離れており、張燕はいつも岳に無理難題を持ち込んでは困らせるのが常だった。匈奴の者たちが常山を通過できないのはその難題に応えることができないからであって、加減はされたとしても岳とて条件は変わらぬのだった。

「さて、土産もなしにここを通るのは許されんのだが……?」

 不敵に笑う張燕。一度など私服を肥やす官庁への討ち入りへ同行せよなどという条件を突きつけられたことだってある。

(いい顔で笑うよホント……)

 きっとまたひどいことを考えているのだろう、手元の扇子を弄びながらにやにやと笑みを浮かべる張燕を見て岳はうんざりとした。

「吹っかけようってわけじゃないでしょうね」

「さぁ、どうかしら……ね?」

 パチン。

 扇子が軽快な音で鳴った刹那、張燕の姿は霧のように消え去り、三間の距離を一瞬で詰め、岳の腰に手を回していた。

 幽玄の術と見紛う程だが、その神速はれっきとした体術なのだった。この技を以って張燕はいずこなりとも忍び込んで目当てを盗みとってきた。体術は堅実な鍛錬とたゆまぬ努力でしか培われないが、張燕は誰にも苦労の影を見せたがらず誤魔化しがわりに幽玄の技と言いはり続けていた。昔、一度だけそのことを指摘した時、照れ隠しに大暴れされてしまい岳は大いに痛めつけられた苦い思いがある。

 張燕の手がそっと岳の体を這った。

「その体で払ってもらう、ってのはどうかね?」

「……冗談でしょ」

「フフン。筆おろしはお済ませかい?」

 腰を撫でまわしながら、次第に腕は下へ目指し降りていく。甘い吐息が岳の耳にかかった。

「……勘弁してくださいよ」

「アラ? その様子じゃホントにウブなんだねっ」

「なんでそんな嬉しそうなんだ……」

「なぜって……」

 岳の耳を甘く噛み、袍の帯をほどきにかかりながら張燕はまるで子供のように目を輝かせた。

「あんたはまるでキラッキラの宝石みたいだからさ……アタシゃ盗みたくて仕方がないのよ」

 強欲、直載、豪放磊落といえた。貪欲でありながらそれを隠さず、求めるものを得、飛躍し、そのために戦う。盗賊でありながら多くの人から支持され世に名を馳せた理由が岳には垣間見えた。彼女は子供なのだ。欲しいものを欲しいという。そこに理由はない、あるとしても後でついてくるのだろう――彼女こそ、誠に乙女のように純粋なのだった。

 岳は這いまわる手の甲をつねりあげ、何歩か後ずさった。

「チェッ、いけず。つれないのね」

 舌を出して残念そうに拗ねる張燕に、どぎまぎした内心を悟られまいと平静を装いながら岳はきびすを返した。

「体で払うというのは無理ですが……その代わりに面白いものをお見せしましょう」

 屋敷を出て再び平原へと戻る。どれほど面白そうな催しが始まるのかと張燕は至極上機嫌に後に続いた。夕焼けがそろそろ目にしみる。標高の高さでまだ明るさがあるが、下界は既に宵闇が降りてきているだろう。

 岳は自らが率いてきた、柵の内側で思い思いに羽を伸ばしている馬群の中から一頭選んで曳いてきた。

「おまたせしました」

「馬一頭で済まそうって?」

「お気に召しませんか」

「……つまらない真似はおよしよ。アンタのことだ、なんかウラがあるんだろう?」

 張燕はほくそ笑みながら岳の曳いた馬を眺めた。別段代わり映えのしない栗毛だった。駿馬と言えるかどうかは走らせてみないとわからないが、岳のまたがる黒狐ほどではないだろう。

(となると……)

 張燕はしばらくグルグルと馬の周りを回りながら、やがて合点がいったという風に口の端を釣り上げ、腰に両手を伸ばした。

「なるほどね、そう来たか――ハッ!」

 張燕の腰に佩かれた二本の曲刀、その名も『銀翼』が目にも留まらぬ速さで鋭い軌道を描き、馬の腹を切り裂いた。警戒心の強い馬が刃を振り回されたことさえ気づかない素早さであった。切り裂かれた馬の腹からこぼれ落ちたのは真っ赤な臓物ではなく、白く輝く岩くれだった。

「お見事」

 張燕は塊を拾い上げると赤い舌でペロリと舐めとった。

「――岩塩か!」

「并州北部の山から出土します。ほとんど手付かずです」

 塩はこの時代官公が管理、売買を独占しており公の手を経ずみだりに入手したり売買すれば即死罪に処せられるほどの重罪とされた。だが塩は人民の生活になくてはならず、闇塩は絶えなかった。張燕も塩には手を出していたが、官軍の守りが厳しく取り扱いは細々としたものだった。

 それが大量に出土した。恒山付近の小さなハゲ山、巨大な岩石が転がる一角に見えにくいが人一人通れる程度の洞穴があり、中に入ってみるとあたり一面塩だったのだ。卒羅宇にかまをかけ裏をとってみたが、塩洞窟の存在を知っているのは匈奴の中でも一部の者だけだという。また闇で売りさばくにしても匈奴の身分では相手にされず、無理に採掘して官公に睨まれてもつまらず、生活に細々と消費できればいいとする穏健派の意見が大勢とのことだ。ゆえにほとんど掘り返されることはなく、大鉱脈は無傷で残っている。固い岩盤だったが弁にこしらえてもらったツルハシで呂布と二人でようやく掘り返すことができた。洞穴にはまだ三千斤がすぐにでも運び出せる形で隠してある。

 張燕は続いて自らが切り裂いた馬の腹だったものを手にとって検分した。

「なるほど……死んだ馬の皮を縫い合わせて袋に、同じく皮の帯で胴に巻きつけると。んで、たてがみを縒って結び紐にしたわけか」

「せいぜい五十斤といったところですが、まぁ挨拶がわりです。お納め下さい」

 燕は神妙な顔で岩塩を確かめているようだが、岳は質には自信がある、何より張燕は喉から手が出るほどこれが欲しいはずだという確信があった。

「通行料にしては過ぎた額じゃないかしら?」

「貞操を守るためにはやむを得ない出費でしょう」

 張燕は岳の冗談に付き合わなかった。部下合わせ十万を超える一大勢力の頭目の顔で、岳にはっきりと聞いた。

「見返りは」

「これは手付です。三月に一度、同じ方法で一万斤の塩を持ち込みます。売りさばいた額の五割を譲り受けたい」

「……ハッ! よくもアタシにでかい口叩けたもんだ。吹っかけてんのはどっちだい?」

 眉間にシワを寄せて、張燕は早口で文句を並べ立てはじめた。だがそれが懸命に思案している時の彼女の癖だということを岳は既に知っていた。

「悪い話とは思いませんが。飢饉に農民の野盗化。そして黄巾賊……畑の収穫は減り続け一方で米の値段は上がる一方だ。大所帯であればあるほど困ることでしょう。この山で農作も行なっているようだが、あまり実りはよくなさそうだ……匈奴の地には手付かずの岩塩が豊富に残っています。それを掘り返すことは簡単だが、漢の地で売りさばくことは難しい。逆に、漢人が匈奴の土地で大手を振って塩を採るのもまた自殺行為だ」

 両者にとって手が出ない宝をみすみす逃す手はない。岳は双方に旨味があるとして、理で張燕を説いた。

「確かに銭はいる。しかし使われるのは気に入らんな」

「五割で多すぎると? こっちも危ない橋は渡るのだから、折半が妥当でしょう」

 残り五分までなら譲ってもいいが、条件の付け合いになれば有利なのはこちらだ。最悪の場合塩の取引先を西方の豪族に切り替えることをちらつかせれば相手は折れざるを得ない、たとえその苦労は倍では済むかどうかは不明にしても――だが張燕は岳の思惑をあざ笑うように流麗な刺繍の刻まれた袖をひらひらと振った。

「そうゆうこっちゃない、そうゆうこっちゃないんだ……アタシゃね、この歳になるまで修羅場をいくつも渡ってきた、渡世の苦渋もさんざ舐めた……だからじゃないが、人の考えってのが大体はわかるんだよ。けどね、李岳よ、あんたは一体何を考えている? 年に四万斤の塩を売りさばいた銭、その半分があんた一人の懐に入るって? アタシが気になるのはね、その額じゃない。その使い道さ……テメェ、いったいなに考えてやがる?」

「安全です」

 一言、それきり黙りこくった岳に、張燕は鼻を鳴らした。

「安全?」

「金があれば安全は買えます。それで生きる。生き延びることこそが、俺の中の正義です」

 

 ――生き延びること。生きる。死を避ける。命を長らえる。

 

 岳はいつからそういう考えに囚われるようになったのか、自分でも定かではなかった。気づけば四六時中この先どうやって無事に生き延び続けるかを考える日だってある。

 岳の計画は単純なものだった。金をため、金がたまる仕組みを作り、その金でもって争いのない地域に移住することである。幸い岳は三国志の大まかな歴史を知っている。狙い目は曹操の支配する都市だ。いずれ新たな都に制定され発展し続ける許昌に潜り込めればもう安泰である。あるいはそれまで陳留に滞在してもいい、豊富な金銭でわずかながらでも曹操を支援すれば覚えもめでたくなり非常に生きやすくなる。

 塩の密売も最初だけ上手くいけば、ある程度の貯蓄を作ってすぐに誰かに譲り渡してもいい。所詮あこぎな商売だ、いずれ露見することは火を見るより明らかだ。元手さえあれば増やしていくのは難しくはないだろう、なにせ同時代人に比べて知識は豊富で歴史も知り、手抜かりさえなければ外れるはずのない博打を張り続ける事ができる。

 

 ――いつどうやって終わったか定かではない前世。唐突に死んだのか、あるいは覚えてないだけで壮絶に苦しんだのか。いや本当に真実なのか。時折夢に見る思い出さえ実は幻なのか……

 

 やり残したこと、無念と思っていることはあるかと問われても、岳ははっきりと答えを返せるだろうか。むしろそれさえ定かでないことに悲しむだあろう。わけもわからず赤子からやり直すハメになった人生で、今度こそ穏便に生を全うしたいと思う岳の心中を誰が見透かすことができるだろう。だが張燕はまるでそれを成したかのように――ある種の確信をもって――岳に言った。

「さぶっ」

「……はい?」

「つまんねっ。はぁ、さぶいさぶい」

 両手で二の腕をさすりながら、張燕は「さぶいさぶい、つまらんつまらん」とこぼしては不意に神妙な表情に戻り、岳の胸を指でつつきながら言った。

「アンタは怯えてんのさ。ビビってんだ。賢しげに生きていこうとそればっかり考えてやがる。けどね、生きるってのは飯をクソに変えることじゃあないんだよ。アンタは逃げ場のない時代に、逃げを打つにゃ許されない血筋の元で生まれて、逃げることばかり考えてる。それは、不自然なのさ。そういう無理はね、いずれおっつかなくなる」

 張燕の言葉に、岳は束の間我を忘れて剣の柄に手をやっていた。それを左手で押しとどめながら、一語一語はっきりと、張燕に告げた。

「血筋の話は、やめてください」

 殺意が抑えられない、岳は自らの怒りにこそ動揺した。怒りに震えながら目をつむったが、まぶたの裏にはいつか投げかけられた侮辱に耐え忍ぶ父の姿が浮かぶのだった。そして耳には、血にまみれたような震える弁の声……

 

 ――我が不明、汲めども尽きぬ……

 

「フン、大昔に大活躍したお偉いさん、その子孫に生まれたのがそんなに嫌かね? 親父がハマった悩みの迷路にアンタも惑うかい? ……テメエにゃ無理だ。やる気満々の目してるよ。遅かれ早かれ直面する。きっとね、きっともうすぐ、自分の生き様を目の当たりにする時が来るよ――枝鶴だって怒りゃしないさ」

 枝鶴とは李弁の真名である。岳は張燕が父・弁と真名を交換していることをこのとき初めて知った。ひょっとしたらこの二人――あるいは母を含めた三人は――自分が思っている以上に深い関係なのかもしれない。

 その隙を逃すまいと、張燕は岳を正面から抱擁した。

「……話しすぎた。詮索屋は嫌われるのがこの稼業だが……最後にこれだけは言っておくよ……」

「な、なにを」

 張燕は襟を引っ張り、岳の唇を無理やり奪った。

「――フフ。どうだい気分は。これこそが人生の妙味よ。好きなことをし、好きに生きる! それこそ人の生きる道!」

 怪傑、張燕。その目に曇りはなく、その声に淀みなし。この女を侮ってはいけないと、岳はいつも心に念じていたはずだが、もうこうして呑まれてしまっている。乱世の傑物、ただならぬ。世に英雄は多いだろう、だがその中でどれほどの人間が、目の前の艶女のように自由で、どこまでも飛び続けようとしているといえるだろうか。

「考えを変えて外連に染まる気になったのなら真っ先にアタシに言いな。悪巧みをするときはハブんじゃないよ。必ずアタシを誘うこと……い・い・わ・ね? ……そしてもちろん、乙女の唇は安かない。塩の儲けはアタシらが六割で構わんね?」

 最後に一撃。払い腰で勢い良く岳を投げ捨てると、張燕は腹の底からの大声で呼びかけた。

「さぁて、宴だ! 野郎ども! 火をたけ! 酒をもて! 今夜は我が友、李信達のためにしこたま飲むぞ!」

 威勢のいい返事が木霊し、かがり火が焚かれた。今宵は眠るを許されぬ。岳の怒りや動揺さえも酒の肴に、張燕は舞い踊るだろう――全くもって手玉に取られた。負けだ負けだ、大盗賊め。いいさ今夜は勝ちを譲ってやるよ……李信達は諦めて、嘆息と笑いを同時に漏らした。


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