真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第三十七話 洛陽の最も長き夜

 李董同盟が結成されたこの夜を境に、李信達はそれまでの純真無垢な英雄の仮面を脱ぎ去り己の野心を明らかにし邪道に堕ちた、とは陳寿の評である。

 曰く「丁原のくびきを脱し董卓の助力を得、既存の政治体制に反旗を翻し己が力を示さんと跳梁す。一夜にして中常侍を抹殺し漢皇帝の懐中に取り入り、洛陽に大火を放ってはその権勢を一気に平らげた」と。

 しかしこれより数百年後、南北朝時代は宋の文帝に仕えた裴松之は全く逆の評価を与えた。

 曰く「外戚を排し権勢を思うがままにしようと欲したのは中常侍を筆頭にした宦官であり、権力の独占を阻止せんがために李岳は董卓と手を組んだとしか考えられぬ。漢の再興を心に期した行いであり、でなければ以後晩年に至るまでの李岳の生き方に真っ当な筋道がつけられぬ」と。

 どちらにせよ、この一夜が後の漢の運命を大きく左右することになったとの意見は多くの史家が言を一致させるところである。

 幾度となく議論を醸したこの夜。その真偽はいかに――後に云う「洛陽の最も長き夜」は未だ帳に過ぎぬ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岳の頭の中にはいくつかの案が同時に進行していた。

 漢を転覆せしめんとした劉虞へと至るかすかな糸口が、匈奴誘因に同調した宦官であった。すなわち段珪と畢嵐。その二人を確保するためには絶対的な好機が一つだけあった――袁紹による宦官虐殺である。

 劉弁即位後、幅を利かせた外戚の何進を排除する十常侍。その暴虐を良しとしなかった清流派の名士、袁紹は兵を上げ宦官の虐殺を行う――『三国志』において決して見逃せぬ重要な事件である。平素より警備が厳しく隙を見せない宦官を拉致するにはこれ以上ない好機といえた。そのために岳は雌伏し、屈辱に甘んじ、とにかく宮殿に近い地位を得るために執金吾を欲したのである。

 董卓邸にやってくる前、李岳は董卓と賈駆の二人を犠牲にするつもりであった。母である丁原の死に対して何も思っていなければ、である。その場合、李岳は董卓の死を宦官に献上し、その功績によってより宮中で信頼を得る方向へと進んでいただろう。近々に起きる袁紹の暴動を息をひそめてじっと待ちながら。

 だが李岳は董卓を救い、手を組むと決めた。もはや袁紹の決起を指をくわえて待つ時間はないのである。董卓を擁し、宦官を廃し、漢を立て直し国の混乱を鎮めるのは今この夜に全てを成し遂げる他ないのだ。必要なのは先手であった――そう、歴史さえ置き去りにする程の、激流のような先手!

 

 ――李岳は皆を集めていった。

 

「これより、宮中を制圧する」

 董卓、賈駆、張遼に華雄、廖化までもが絶句した。李岳は皆を見回してから静かに続けた。

「宦官たちは大将軍を殺した……このまま放っておけば彼らの思うがままに宮中は操られてしまう。それは帝でさえも例外じゃないだろう。外戚が幅を利かせたのは皇帝にも責任があると考えるだろうからね……脅すだろう、何進の首でもぶら下げて」

「そんな……そんな不敬を……!」

 董卓の悲鳴に李岳は肩をすくめた。

「なんでもするさ、あいつらは。それに脅し程度で今の帝が済むとは思えない」

「まさか……(しい)すると?」

 畏れに震える董卓の肩……それを抱きしめながら賈駆は李岳を見た。

「いや、いきなりそれはしないだろう。まずは協皇女に禅譲させる……そんなところだろうな。そしてどこかの王として移封した後に事故か病に見せかけて始末する」

 言い募ろうとする皆を李岳は手の平を突き出して制した。

「そこまでの覚悟だ。大将軍を殺したということは、外戚派を根絶やしにする気なんだ。その最大の障壁は今の帝だよ。そのまま生かしておくはずがない……時間はない、動くなら今夜だ。宦官を討ち、帝をお救いする」

 誰一人異存はなかった。異存があろうはずがない。この漢に住み、帝の危機となれば救わずにおれようか!

 李岳は皆の目に本物の覚悟が宿っていることをしっかりと確認して頷いた。自らの心の内には忠誠とはまた別の企みがあるとは知られまいと、決意という表情を顔に貼り付けたまま李岳は張遼に言った。

「霞、なんで俺が何度も何度も緊急出動、と称して夜中に宮殿へ向かう訓練をさせてきたと思う?」

「……あんた、初めからいつかこうする気で」

「城内には五百の騎馬隊が残っている。この屋敷を脱出した後、訓練通りに騎馬隊を招集。大通りを真っ直ぐ北上し宮殿に押し入る。宮中には執金吾の指揮権に属さぬ宦官直属の私兵が数百いるはず。その全てを蹴散らして皇帝陛下と劉協皇女殿下をお救いする」

 壮絶な作戦であった。この洛陽において、よもや宮を標的に定めて進軍を指示する人間がいようとは――それも時の執金吾が!

 賈駆も董卓も李岳の言葉についていけない。だが張遼と廖化だけが久しぶりだ、懐かしい感じがするな、と意地悪そうな笑みを浮べている。賈駆は舌打ちをこらえるのに精一杯だった。これが本当の李岳――確かに、猫をかぶってたのだ、この男は! 

「これがあんたの素顔ってわけ?」

「お気に召しませんでしたか?」

 全てが憎たらしく、許されるのならばその頬を張り倒してやりたかったが、ぐっとこらえて一歩近づくと、賈駆は自らとさして目線の変わらぬ少年に向けて言った。

「詠よ……ボクの真名は、詠!」

「冬至です」

 冬至――! 悪くない真名だ、と賈駆は内心痛快なほどだった。こいつの本質は、真冬のような冷徹に違いないのだ!

 さて、と李岳は頭を切り替えるように声を出すと、その場にいる全員を集めてから言った。

「とにかくも、脱出だな」

「脱出?」

 問い直した賈駆に李岳は頷く。

「この屋敷は囲まれている。網の目のような監視だ、蟻の這い出る隙間もない。だろう?」

 そばに控えていた廖化がすっと闇から現れると、少なくとも二十人、手練がこちらを油断なく窺っている、とささやいた。その言葉にまさか、というような顔をした賈駆だったが、すぐに表情をあらためた。自らが置かれている状況に慌てふためくのは日に一度でも多すぎる。

「……なるほど。それもまた中常侍の差し金、というわけね」

「呼び出して来ればよし」

「来なければ始末、というわけ?」

 はっ、と賈駆はあきれたように笑った。中常侍の悪どさに呆れたのか、己の不甲斐なさに笑ったのか、李岳には判別できなかった。

「そんな監視の中、貴方たちはどうやって入ってきたのよ」

「ま、蛇の道は蛇ってことで……」

 廖化の意地の悪そうな笑顔に賈駆は眼鏡の奥で眉をしかめた。よくはわからないが、さてもいやらしい手段を使ったに違いない、と脳裏に不明瞭だが不潔な想像が浮かぶ。

「とにかく、すぐにでも脱け出す。何か策は」

 李岳の言葉に廖化はささやくように答えた。

「董卓殿の馬車を使う、というのは」

「囮か」

「ええ。その馬車に釣られた隙に逃げるのです」

 李岳は賈駆を見たが、彼女もまた異存はない、という風に頷いた。

「廖化。月と詠は洛陽の西門から逃がしてくれ。赫昭が陣を張っている」

「……読んでいたというの?」

 不審げな賈駆に李岳は曖昧な笑顔を浮かべた。

 董卓邸に侵入する前、すでに赫昭に兵を任せて派遣していた。最悪の場合大規模な武力衝突になるかもしれない、と考えていたためである。今はその兵力が董卓と賈駆の二人を無事に脱出させるための盾の役割を果たしてくれる。

 作戦会議はすぐに終了するように思えた。廖化をはじめ永家の者たちが董卓の馬車を用いて二人が宮廷に向かっていると偽装をはかり、のちに脱出する。最優先は無論董卓と賈駆の安全である。その護衛には華雄が直掩すべしと李岳が言う。

 だが意外なところからその作戦に対して拒否が出た。

「いやです」

 董卓が、小さな冠を揺らしながら首を振ったのである。

「私も、宮中へ向かいます」

「バカ言うな」

「ば、バカじゃありません……私が、一番宮中の仕組みをわかってます……お、お役に立てます!」

 董卓はなおも食い下がろうと、李岳の袖を掴んだ。自分がまだ李岳から信頼を得ていない、ということは身にしみて理解している。信頼を得るには多くの時間と、自分が今まで避けていたような頑張りが必要だろう、ということも理解している。今ここが最も辛い戦いの場だ、そこから逃げて信頼など得られようはずがない――頑張らなきゃ、と董卓は恐怖に打ち勝つまじないのように何度も何度も呟いた。ここが血の階の一段目なら、なおさら逃げることは許されないのである。

 しかし、悪い冗談を聞いた、とでも言うように董卓の方さえ見ずに李岳は指示を続けようとした。さらに言い募ろうとする少女から背中さえ向けて歩き出そうとする。

「さ、行こうか……って、わっ! えっ? あっ? なに?」

 董卓を袖にし、真っ先に飛び出そうとした李岳の首根っこをむんずと掴んだのはやれやれ、と盛大にため息を吐いている張遼であった。

「……ここでうちが、あんたももちろん一緒に逃げるんやんな? って言うたらどうする?」

 張遼の一言に、あー、とあからさまに言い訳を考えている声を出しながらばつの悪そうな顔で誤魔化すように笑う。やっぱりか、ともう一度ため息をこぼしてから、張遼は董卓と賈駆に言った。

「よう覚えといてや。こいつ、実はあほやから」

「ひどいぞ、霞」

「ひどないわ――あほはあほでも真正やから。自分らに来るな、っていうたくせにやで、自分の立ち位置もわからずに一番しんどいとこ行こうとすんのはこいつも一緒やねん」

 じろりと睨み付ける張遼に、李岳は首を引っ掴まれてぶら下がったまま言い訳を探している。

「……あんたはうちらの頭や。下手なことがあったら丁原様に申し訳が立たん。けどな、それでもあんたは来なあかん。頭やからな」

 けど! と一際大きな声を出して張遼はずいっと李岳の顔に近づいて続けた。

「同じように覚悟を示してついてこようとする仲間を置いてきぼりにすることは、頭であってもでけへんねんで」

「左様。李岳殿は意外と人の機微がわからぬ御方で困る」

 廖化が口の端を釣り上げて意地の悪そうな笑みを浮かべた。李岳がやりこめられているのが面白いようだ。

 董卓と賈駆も、その格好が先までの様子とはあまりにかけ離れていたのでどうにもおかしくなってしまい、くすくすと笑みをこぼす。

 張遼の手から自由になると、岳は皆を順繰りに眺めた。どうやら反対だったのは自分一人だけだったようである。董卓と目があった。その瞳には確かに覚悟と呼ばれるものが宿っている。確執がある、納得出来ない思いもある――だが共に生きようといったのは自分なのであった、今更な対応をしてしまったと李岳は自らの過ちを認めた。

「ちぇっ、結局三枚目か……いいよ、わかった。皆で行こう……いいんだな、月」

 董卓は静かに頷いた。しかし、彼女の首肯をかき消すような大声で、おう、と張り上げたのは張遼の戒めから解かれた後の華雄であった。全員の目が彼女に向く。フン、フン! と鼻から息を吹き出しながら華雄は大声で宣言した。

「よくわからんが、敵をぶっ飛ばせばいいんだろう? だったらこの華雄に任せろ! なぎ倒してくれるわ!」

 組み敷かれ、脅され、危害を加えられそうになったというのになぜだか和解して共に手を取り戦おうということになったここしばらくのやり取りが、まだうまく頭で理解できていない。敵が来ているので倒す、ということになってようやく華雄は自分の力が発揮できる状況になったと思った。

「おー、猪武者がよう吼えたもんやで」

「張遼! 貴様とは後で絶対に決着をつけるからな!」

「楽しみにしとんで」

 ひひひ、と心の底から楽しそうに笑う張遼である。

「いっちょ暴れたろうか。宮中ではっちゃけられるなんて、歴史の英雄でもやったことあらへんやろうな。にゃはは!」

「この華雄の力を見せつけてくれる!」

「ああもうわかった。全員で行こう……廖化が出発してから三百を数えた後だ。廖化、あとはよろしく頼む……くれぐれも、ね」

「承知しております」

 李岳の言葉に意味深な頷きを見せると、廖化はただちに動き始めた。ここに揃った永家の者は二十人。そのうちから五人の手練れを選ぶと李岳と董卓、賈駆の護衛に任じる。脱出の手筈を手短に話し合った。ほとんどは廖化の立案であったが、さすが諜報部隊『永家の者』たちを束ねる男と納得する内容だった。廖化は手下を従え外に向かい歩を進めた。が、それを張遼が呼び止めた。

「……ちょい待ち。ええんか、冬至。廖化っちばっかきつい任務やで」

「こいつは戦なんでさ」

 李岳の言葉も待たずに答えたのは廖化当人である。

「より多く謀り、より多く敵を倒さなくちゃなんねえ。じゃなけりゃ味方の被害が増える一方だ。それを躊躇うなら、大将は失格でしょう。李岳殿はやれ、とだけおっしゃった。どうやり、どうこなすかは言わなかった。それは俺らの仕事だ……残念ながら敵は手強い、正攻法じゃとてもじゃないが勝てん。ですから、こちらもそれ以上の策を講じなけりゃならんってわけで……時には汚い策も」

 張遼も頭では理解していた、暗闘と呼ばれるような後ろ暗い策動や工作が行われているということ。それに関わる人間が味方にもいるということ――悔しいのはその役割を担った者たちが栄光や名誉からははなはだ遠いところにいる、というところだった。名も顔も知られぬまま死んでいく味方が、なんと多いことだろう。

「これからはこういったことも増えるでしょう。暗闘こそがそれがしらの仕事。我々を使うというのは、そういうことなのです。李岳の旦那はよくわかってくれてます。それでいいんです」

「……わかった。ただ、礼は言うで」

「それで十分です。ついでに、今度一杯おごってもらえりゃ」

 ははは、と笑って張遼は手を上げた。束の間ためらった後に、廖化はその手に自分の手を合わせるようにはたいた。パン、といい音がなる。一つ頷き、見上げんばかりの長身の男は手下を引き連れ囮として屋敷の外へ向かった。旨い酒を呑むためには生きて帰らねばなるまいな、と思いながら。

 

 

 

 

 

 

 

 馬車はゆっくりと走り始めた。御者は廖化その人。しんと静まり返った深夜の洛陽の大通りを、一路宮殿に向かって北上する。わずかに距離を空けて並走してくる物騒な集団を廖化は正確に把握していた。追跡してくる集団の誰もが相当な使い手であった。もとよりそこにいる、とわかっていなければ気配を察することはできなかったに違いない。黒山賊が長年苦戦している劉虞相手の情報戦――あの時のしびれる感じを思い出した。

 馬車は行く。仄かな明かりが点々とするしんと静まり返った洛陽の大通りを急ぐこともなく――だが、それも終わりをむかえる。

「さて……いくぜ」

 宮殿に至る前の最後の十字路のことであった。廖化は手綱をぐいっと引き絞ると馬車を急速に曲げた。突然の仕業に驚きいななきを上げる馬たちになど目もくれず、廖化は尻を叩いた。

 加速し、南北路を急左折したのちに一路西への脱出を図る馬車は洛陽の街路を恐ろしい勢いで駆け抜けていく。そのまま西門へ至るのではないかと思えるほどのものであったが――突如闇から放たれた無数の飛刀が馬の眉間に突き立つ! 断末魔を上げて倒れこむ馬、それに引きずられ車もまた横転し、耳を覆いたくなるような音を立てて民家の壁に激突した。

 横転した馬車からは誰の気配もしない。悲鳴も、呻き声も怒声もなく、馬車の中は無人であるとただちに知れた。ただ一人、御者を務めていた廖化だけがゆるりと砂ぼこりの向こうから姿を現した。

「へっ、驚いたかい?」

 廖化の声に反応するものはいない。だが相手方の微かな動揺を廖化は敏感に把握した。その動揺が立て直される前に背を向けて一目散に裏路地へと逃げだす。官軍を向こうに回して幾たびも戦い、その度に見事に逃げ切ってきた彼の足の速さはその体躯の大きさに似合わず敏であった。しかし周囲を取り囲んだ暗殺部隊の機動性は決して廖化を包囲の網から取り逃すことはなく、徐々に円を狭めるように追い立て、とうとう彼を袋小路へと追い込んだ。

 背後には壁。向こうには全身黒ずくめの男が二十人あまり。その中の頭領とおぼしき男が一歩前に出た。内心謀られた屈辱ではらわたが煮えくり返っているはずが、そのような激情などおくびにも出さずに男は言った。

「董卓をどこへやった」

 廖化はにやりと笑うと勝ち誇ったように言う。

「とうに逃がした。てめえらの飼い主はさぞご立腹だろうよ」

 その言葉に男たちは無言で答えた、抜刀という形で。深い闇の中で、刃は微かな光さえ集めて嫌な光を射す。

 廖化は背に隠していた変節矛を抜き出した。カシン、カシンと音を立てて組み上がる虎口狼眼が鋭く敵を威圧する。廖化は矛の先端を低く構えた。振り回すよりは刺し貫く技が適していると判断しての構えである。

 敵もさるもの、決して臆さず油断もなかったろう。影は蠢くように三方より迫った。だが――

 ほとんど同時に飛びかかってきた三人の敵を、廖化は振りぬいた矛で同時にいなした。右の敵を正面の邪魔になるように押しのけ、矛の石突を飛ばして後頭部を穿つ。その隙に三人目の手首を切り飛ばし、返しで一人目の腹を突いた。うろたえた正面の男の首を綺麗にかき切れば、(おびただ)しい量の鮮血が顔に降りかかった。その血を獰猛な仕草で舐めとるや、廖化は前に出る。敵は引く。廖化の笑顔はいよいよ常軌を逸し始めた。

「英雄になんざなれやしないが、これでもいっぱしなんだ、あまり舐めん方がいいぜ」

「貴様、何者だ……」

 影の声に、廖化は笑った。

「さてな。だが一つだけ教えといてやる、追い詰められたのはてめえらだ。一人も逃さんぜ」

 体勢を低く保ったまま廖化は走った。振り下ろされる一撃をすり抜けるように躱して、体をひねりながら独楽のように跳躍する、その勢いのまま体を切りもませ巻きつけるように矛を振り抜いた。分解された変節矛は三本の鋭い爪と成る。飛翔回転してからの剣舞は(ましら)を思わせた。その鋭き爪は敵の喉元をズタズタに破壊し、上空に噴出した血が雨のように降り注いだ。

 すかさず、男が取りこぼした刀を拾うと闇に向かって投擲する。ずぶり、と音を立てて太ももに突き刺さる。死体を抱えたまま肉薄、押し付けるように投げ飛ばすと壁を伝って二人目の胸、三人目の手首を切り落とす。上下左右、前後を問わぬ廖化の術は闇夜の決闘においてその威力を十分に発揮し、黒山賊第二位の名に恥じぬ壮絶さを存分に見せつけた。

「久しぶりの血だ。楽しませてもらうぜ」

 

 ――どうも李岳とともにいると平和ぼけするのではないか、と廖化は日々不安になっていた。

 

 居心地がよいのだ。張燕が肩入れするのもわかるような気がした。だが己の本分を忘れたことなど一度もない。闇に生まれ、闇に生きてきた一匹の餓鬼が己である。骸の狭間に立ち、廖化は死を突きつけるように構えた。忘れかけていた熱い血が体の中を駆け巡る。人殺しの中でしか生きられない醜さと、血を求めては降りかかるそれに酔いしれる快感の狭間で、廖化は笑った――そう、黒山の孤狼とはまさにこの男のことである。

 このとき、初めて敵は畏怖した。いいように(たぶら)かされた上に相手の力量を見誤った。驚愕したように数歩退いて長柄物を突きだす。容易い任務と侮っていた自らの浅はかさを恥じていた。が、ここでこの男を生きて捕えればまだやりようはある、と部隊を率いる男はまだ諦めることが出来ぬ。

 部隊の頭の男は廖化には悟られぬように左手の指を二本、三本、二本と動かした。声を出さずに意思を疎通させる技に関して彼らは大陸で他の追随を許さない。諜報、隠密、工作……洛陽という巨大な修羅場で鍛えられた彼らの技に隙はない、頭領の合図に従い一斉に打ち掛かれば決着は瞬時であろう……やはり、敵が廖化が一人であればだが。

 そのとき、廖化もまた声を出さずに合図をしていたのである。路地を覆っている四方の家屋の上空はすでに永家の支配下であった。無数の飛刀が雨のように敵の身体を穿ち抜いていく。弓矢のような貫通力は持たぬが、投剣術は確実に人体の失血を誘い死へと近づける。

 ついで、敵の後方より挟み撃ちをするように第二の部隊が突っ込んだ。廖化に及ばぬまでも、闇夜の戦いになれた彼らの剣筋は確実に敵の戦力を無力化していく――とうとう、暗殺部隊もなりふり構わぬ形での撤退を決断した。

 未だ十人を超える人数であるが、それこそ蜘蛛の子を散らすように全員が四方八方に飛び出した。誰か一人でもこの場を逃げ出すことが出来ればという算段である。しかし廖化を筆頭にした永家の者たちは逃走を許さない。飛刀が足を貫き、その背中を刃が刺し貫く。流血と悲鳴が交換され続けてどれほど経ったか、気づいた時には死屍累々。廖化の宣言通り、誰一人として殺意から無傷で逃れたものはいなかった。

 凄惨な刃傷沙汰になってしまった街の一角に、ざわざわと人の気配が増え始めた。本格的に人の目が集まる前に脱出しなければならない。味方にも負傷している者、死者が出ていた。負傷者は数人で抱えれば済んだが、死者は捨て置く他ない。人に知られてはならない暗部の戦闘に名誉も誇りもない、死ねば打ち捨てられるのが宿命だ。

「……だが、忘れねえぜ」

 呟き、廖化は血に塗れた得物をしまうと永家の者たちに指示を下し始めた。横たわっている敵の一団の中に微かに息をしている者が何人かいた。廖化の技は戦闘力を削いではいるが命を奪う程ではなかった。生け捕りにしたまま聞くことがある――そしてそれこそが、廖化の目的でもあった。

 一体何をどうするつもりなのか、それを問うても廖化は応えないだろう――言葉には出来ない闇の技、というものは確かに実在するのだ。息のある者たちを抱え上げ、さらにいくつかの死体を引きずり起こして廖化たち永家の者は証拠を手早く始末していく。

 もはや興奮は過ぎ去り、虚しい思いだけが胸に広がり出そうとしている。それを懸命にこらえて廖化は走りはじめた。まだまだ明るむには早い夜の闇が廖化の表情を隠す。

 ひとしきり駆け抜け、永家が拠点としている隠れ家の一つに辿り着くと廖化は自分に付き従う永家の者たちを招集した。まだまだしなければならない任務は残されている。

 廖化は部隊の者の数人を伝令に走らせた。そして自らも手下を連れて洛陽の闇の中へ走りはじめる。誇りも誉れもない戦いへ。守るべき仲間のための戦いへ――


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