真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第三十五話 史を捨てよ、時を覆せ

 何日ぶりになろうだろう、夢さえ見ない深い深い眠りから覚めると、李岳は自分がいつの間にか自室の寝台の上に運ばれていたことに気づいた。

 篝火まで焚いて、ほとんど夜を徹して張遼、赫昭と打ち合った。おかげで痣だらけ、泥だらけで身体は重いが、その気だるさまでもがどこか心地良い。

(俺の八つ当たりを全部受け止めてくれた……二人に感謝だな)

 窓を刺し貫いて部屋を満たす陽光はこうまでも美しいものだったか……李岳はまぶたを細めてあくびをかみ殺すと、寝台から身を起こした。

 朝などとうに過ぎていて、もう昼にさしかかろうという頃合いだろう。猛烈な空腹を覚えて苦笑した。張遼と赫昭相手に暴れるだけ暴れた、それでスッキリしたのだというのなら思っているよりもお手軽な男じゃないか、李岳、と。

 心にたまった(おり)のようなものが溶けて全て流れでてしまったように気持ちは軽やかだ。哀しみをこうして誤魔化す程度には回復している。

 着替えてから顔を洗い居室を出ると軽く水浴びをした。さて何か腹にでも詰めるか、と思い始めた瞬間何やらいい匂いが李岳の鼻をくすぐった。

 厨房に向かうと、見慣れぬ背中が何やら料理をしていた。服装を見るに女性だろうが、あんな侍女など雇ってはいない。背が高い、短く切りそろえた赤い髪。

「あれ、赫昭?」

「ひゅいっ!」

 妙な返事をして赫昭はバッとこちらを振り向いた。顔を真っ赤にしてあわあわと言い訳をしている。

「ち、違うんです! 自分は! その! よくお休みになっておられたので! 起こすのも悪いと思いまして! お腹が空かれるかと思いまして!」

「……ごはん作ってくれてたんでしょ。別に大丈夫」

 いやいや、そのその、と言い訳する赫昭に笑みをこぼして岳は腰掛けた。李岳に見られて緊張しているからか、ぎこちない動きであったが赫昭の料理の手前は中々のもののようだった。手慣れた様子で二品三品作り終えてしまうと食卓に並べ始める。

 女物の出で立ちでいる姿を李岳は初めて見た。いつでもどこでも在戦場、という風な赫昭であるから、新鮮な趣である。

「な、なんですか」

 じぃ、っと見ていた李岳に対して赫昭は狼狽したように聞いた。

「武者姿以外見るの初めてだなあ、と」

「あまり見ないで頂きたいです……」

「いつもそういう格好すればいいのに」

「……休日の時だけ、たまに着るだけです!」

 問答は勘弁、とばかりに赫昭は必要以上の慌ただしさで朝食の準備に戻った。

 李岳の体調に気を使ったのだろう、滋味あふれたという献立だったが味もしっかりしていた。意外と家庭的なのかもしれない。思えば赫昭とは軍事(いくさごと)に関する話しかしてこなかったような気がする。張遼とは酒飲み仲間だからくだらない話もしてきたが、赫昭はあまりたしなまないのである。

 食後のお茶まで世話になって、岳はようやくホッと一息をついた。

「美味しかった、ごちそうさま」

「おそまつさまです。中々の健啖ぶりですね」

「昨日は俺、ぶっ倒れちゃったからな……迷惑かけた、ありがとう。霞にも礼を言わなきゃ」

「張遼殿は嬉々として訓練に出かけましたよ。熱い戦いができた、と。自分もよいのです、今日は休みですから」

 昨夜のことを思い出すように赫昭はかすかに目線を上に向けて呟いた。

「凄まじい剣筋でした。本気の李岳様を初めて見た、という気がします」

「母さんの足元にも及ばないよ」

 ふと、初めて丁原のことを母さんと呼んだことに赫昭は気付いたが、李岳もまた他人事のように同じことに気づいていた。色々なしがらみから離れつつある。死を、自分は受容しつつあるのだ、と李岳は考えた。

 母から受け継いだ撃剣の技。そして後ろを見ぬ生き様。それを覚え続けていれば自分は誰に恥じ入ることのないあの人の子として立っていられるだろう、と思った。

「赫昭、すまない。せっかくの休日だったろうに」

「よいのです。どうせ自分を鍛えることくらいしかしません。剣を振ってるか、陳宮殿に教えを乞うているか。ですから、よいのです」

「……休みじゃないだろう、それ」

「そんなものです。人の命をあずかる武人ですから……けれど、それをおっしゃるのなら李岳様こそ休んではおられないでしょう。常日頃から考え事されてらっしゃいますし、練兵にも顔を出され、決裁に会議」

「……そんなものです。人の命をあずかる」

「武人ですから?」

 二人して笑った。

 固辞する赫昭を押しのけて李岳は皿の片付けを手伝った。赫昭は一度自宅に戻り食事を済ませているようだった。では、と辞去しようとする赫昭を李岳は呼び止めた。

「これから時間あるかな。ちょっと付き合って欲しいところがあるんだけど」

「……はっ。それでは着替えて参りします」

「いや、そのままでいいよ」

「では剣だけ」

 李岳は黒狐を引いてくると鞍を乗せてまたがった。遅いぞ、とばかりに黒狐は首を振る。窮屈な厩舎での暮らしに黒狐は日々不満を漏らしている。日に一度は場外を駆けさせなければ夜に(いなな)きを繰り返して安眠妨害を働くのだ。

「自分も馬を」

「その恰好じゃあ乗れないだろ。二人乗りで行こう」

「えっ! 無理です! 自分、重いです!」

「とか言ってるけど、黒狐?」

 十人からでも持って来い、とばかりに黒狐は鼻息を荒げた。

 固辞しようとする赫昭を半ば無理やり後ろに乗せて李岳は出発した。やんわりと腰に手が回ってきたが、果たして本当に掴まっているのかどうかというような微かな力加減で、こんな些細なことに対してまさかの緊張ぶりが微笑ましく、クスクスと笑った。

 洛陽の町をゆっくりと進んだ。だが黒狐の馬体は嫌でも目につき、そのような見事な黒馬に乗る小柄な男とくれば洛陽に住むものならば知らぬはずがない。

「これは、飛将軍!」

「やあどうも」

「閣下! お陰様で商売繁盛ですよ」

「私はなんにもしてないよ」

「これをお持ちください、どうか、持ってってください! 今朝とれた新鮮な川の魚です」

「今から出かけるから、家に届けてもらえると助かる」

「将軍! 一度あたしたちのお店に遊びにきてくださいな、たっぷり遊ばせてさしあげますわよ」

「勘弁して!」

 具足も付けず部下もいない。いつもならいかめしい兵団を引き連れて出歩いている李岳である、話しかけたくても遠目に見る他なかった洛陽の人々は、普段着に伴が一人という好機を逃すまいと盛んに声をかけた。

 魚屋に布屋、子供から年寄り、果ては妓楼の娼婦までもが笑って近づいてくる。武芸に優れ戦果も上げた誉れも高き飛将軍とはいえ、見た目は二十にもならぬ少年なのだ。誰もが一度は声をかけたくてウズウズしていたのである。

 苛ついて吠え声を上げる黒狐がいなければ人だかりに身動きさえ取れなくなっていただろう。李岳は一人一人に小さく挨拶を返しながら南の朱雀門へと向かった。門で人の出入りを見守っていた衛兵がギョッとして姿勢をただす前を、洛陽城外へ足を踏み出し小川に沿って行く。

「……さすが、将軍は人気者です」

「洛陽の人たちってなんであんなに物見高いんだろうな……」

「なんだか、不満そうですね」

「別に」

「民に慕われるというのはいいことだと思いますが」

「……背が低いからかな」

「は?」

「威厳が足りないから、ああしてみんな」

「威厳が、欲しいんですか?」

「……うん。ひげでも生やそうかな。どう思う? 似合うだろうか?」

 

 ――李岳が本気でむくれるまで、赫昭は笑い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それからしばらく馬を走らせ、李岳は目当てのものを見つけたという仕草をしてから小川に従って道をそれた。手綱を絞って足を遅らせる。

「この川は……」

「ごめん、なんか言い出しづらくて。待っていても」

「いえ、お供させてください」

 丁原が最期を迎えた決戦場は、福の言葉が正しければこのあたりだった。洛陽周辺の地理は既に頭に叩き込んでいる。大体の目星さえあれば李岳はたどり着けると踏んでいた。

 しばらく小川を下り、やがて見事な梅の木が見つかった。爽やかな香りを放つ赤い花である。しかも折よくそのそばを見覚えのある背中が通り過ぎた。

「福殿」

「あ」

 駆けより、李岳は黒狐から降りると手を合わせた。赫昭がそれに続き、福も慌てて礼を取った。

「り、李岳様」

「よかった、すぐに見つかって。お墓参りをしようにも場所がわからなくて大体で来てしまった。また呼びつけるのも申し訳ないから」

「別に」

 そのとき、はたと何かに気づいた福はバッ、と李岳の前に立ちふさがると、両手を広げて行き先を遮った。キッと口を引き結んで目の周りが真っ赤になっている。何が彼女をここまで興奮させるのか、李岳にははじめ見当もつかなかった。

「断りもなく……お家に来てほしくありませんでした」

「あ、いや。それは失礼を」

 李岳は気にも留めていなかったが、彼女の必死さにただならぬ気配を察し、その背中が守るものに気付いた。

 福の家は貧しかったのだ――川沿い、粗末な小屋とさえ見紛う程で雨風もしっかりと防げるかどうか知れたものではない。福が身に纏っているものから生活が豊かではないということは気づいていはいたが、そもそも洛陽の城壁の外で住んでいるということで分かりそうなものではあった。

 福の行動の理由に気づいた李岳は、自分の非礼を詫びた。

「済まない。急に押しかけてしまい」

「……お墓はあっちです」

 家から遠ざけるように福は李岳の背中を押した。

 川沿いはまるで貧民窟の様相を呈している。治水は万全ではない、耕作にも向かないこのような土地にしか住めない人々はかなりの数に上るだろう。飯も生まず、一度水が溢れれば命の危険さえありうる立地だ。

 そこに住まうのは盗賊の害にあった流民。税を払えず町を追い出された貧民。そして謂れのない差別を受けてまともには暮らせない異民族の人々……

(これが漢の現実、か)

 いつも自分を歓待してくれる洛陽の市民たち。だが多くの人々が太陽の下で暮らしているのに反し、日陰で一生を暮さなければならない人たちもいる。

(……賊がはびこるのもやむなし、か)

 福の後ろを付き従いながら、李岳の内に沸々と怒りが湧きあがっていた。宦官や外戚の権力争いが長引けば長引くほど、このような惨状は加速度的に広がっていくであろう――

 集落から程ない、さっきの梅の木が植わっているあたりであった。茂みに隠れてよく見えなかったが、こんもりとした小さな土の山が二つあった。福は右側をゆびさした。

「ここです」

 人が眠るにはあまりにぞんざいな場所、しかし戦場で生き戦場で死ぬと決めた武人が弔われるにはこれだけで良いという気もする。

 左側には蹇碩が眠っているのだろうか。宦官の頂点に位置していたというのに武骨な武人然とした立ち姿を李岳はまざまざと思い浮かべた。

 李岳はその山の前でひざまずき、自分の中の言葉を探した。何か話さねばならないと思ったのだ。けれど言葉は出てこず、喉の奥が熱く焼け、ただ震えることしかできない。

「李岳様」

 赫昭が心配そうによってきたのを李岳は払いのけた。うずくまって震えているのは自分なのか、世界なのか――それとも事件の経緯の歪さゆえか。

(そうか、俺は悔しいんだなぁ)

 母の面影が瞼の裏を駆け抜けていった。厳しい顔、普段見せない笑顔、馬上姿、雁門での戦い、獄にて鎖に囚われた姿、そして最後、必ず戻ると言った時の顔――李岳は唇をかみしめた。涙など出そうもない。ただひたすら、目の前が真っ赤になっていく。もはや叶わぬ親孝行。母はどれほど無念だったろう、父はどれほど寂しく思うだろう――どれほど!

 それから李岳は両膝を突いたままあらゆる方向に向けて怒りを走らせた。蹇碩に、霊帝に、今の皇帝に、自分に、そして独り戦いに向かった丁原にさえも。

 

 ――懺悔にも似た葛藤は夕暮れが迫るまで続いた。福に謝辞を述べ、二人は帰路についた。

 

 馬上にて二人、沈黙が夕日の中であてどもなくたゆたう。黒狐も焦って走りだそうとさえせず、静かに首を上げ下げする。城外から洛陽の内へと急ぐ人の列は長蛇と言えた。その列に並びもせず、横目で眺めながら李岳は赫昭に呟いた。

「母さんは、俺のせいで死んだようなものだ」

 夕日に染められた顔がふと大人びて――いや、それ以上の年嵩(としかさ)のもののように赫昭には見えて狼狽した。まるで一度人生を過ごしきった者のような表情に思えてしまったのだ。

「そのようなことはありません」

 否定する赫昭に李岳は首を左右に振った。

 じっと待ちすぎたのだ――歴史の流れを知っているという利に頼りすぎた。皇帝が死んだ……後は何進が死に、宦官が一掃されるだろう、と。

 その混乱に乗じるのが李岳の計画だった。宮中で巻き起こる混乱に一目散に乗り込むために、最も近い位置を守護するためだけに執金吾の地位を欲した。

 宦官誅殺を目論んで宮中に乗り込むのは、史実では袁紹だ。それを出しぬいて畢嵐と段珪をさらい、情報を吐き出させる。順調に行けば必ずや陰謀を白日の下に(さら)せるであろう計画だった。

 だが、例えその大きな流れは史実通りに動くとも、細かいひびのように走った歴史の齟齬を読み切ることができなかった。

「暗殺の可能性はあった。それを予感すらしていた。けれど俺は急がなかったんだ。きっともう大丈夫だろう、と。執金吾という地位さえ失えば利用しようとする輩もいなくなるだろうと。それにどこかで母の強さに甘えてすらいた。容易く操られたりはしない、って。母さんの様子だって今思えばおかしかった。それに気づきもせず」

「丁建陽様は、ご自分でお決めになったのです。勅命にはただ討て、とだけありました。一対一の決闘にこだわったのは丁建陽様のご意志です。李岳様の責任ではありません」

「いや、俺のせいなんだ……俺の……漁夫の利ばかりを見ていたんだ……」

 人の列が動いている。黒狐がもどかしそうに首を振る。だが李岳は動かずにしばらく立ち尽くしていた。これからどのように情勢が動いていくのか、今日中に考えを決めなくてはならない。思えば動揺と落胆に任せて時間をいたずらに失してしまった。蹇碩に託された先帝の勅命は達せられることなく潰えたのだ、ならば第二第三と事件は波及するはずだ。

(落ち込んでる時間もないんだな……)

 恐らく、宦官は動くだろう。蹇碩の死は既に把握されているに違いない。中常侍の中でも異端のような男であったが、それでも最高位の一角を占める大御所だったのだ、尋常の事件ではない。一つ読み間違えば怒涛の如き歴史のうねりに飲み込まれることになりかねない。

(考えろ、考えるんだ……蹇碩が死んでどうなる? 蹇碩はどんな男だった? なぜ死なねばならなかったんだ……?)

 皇帝に忠実に侍っていた蹇碩の姿、宦官でありながららしからぬ、劉岱に対して隔意のある様子、霊帝が遺した勅、それを防がんとする今上皇帝劉弁の勅、だが皇帝が一人で事をなせるわけがなく――

 

 ――その時、ほつれた糸が急速に解けるような快感を李岳は覚えた。

 

 丁原が一人で勅命を授けられるはずがない。その間を手引きした者が必ずいるはずで、そのような人間が何人も候補に上がるわけがない。さして取引や駆け引きなどで丁原は陰謀に加担することなどない。

 丁原の釈放に関わることができ、皇帝にも近く、そして中常侍の力を削ぐことによってさらなる力を付けることが出来るたった一人の人物――脳裏には、か弱く小柄で、狭い庭園に舞い散る細雪(ささめゆき)のような印象を抱かせる少女が浮かび上がっていた。その可憐な佇まいが、笑いさえこみ上げる程の怒りで李岳の心を沸騰させた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 赫昭には李岳が何を考えているのかよく理解できなかった。だが自分には及びもつかない高度な駆け引き、騙し合い、読み合いの中で苦闘しているのだということは嫌というほどわかった。それをこの年端もいかない少年が一人で担っている。この小さな肩に全てを預けてしまっている。

 その小さな肩から、まるで暗闇のような、暗黒が如きおどろおどろしい殺意が滲み出ているのを赫昭は知った。冬が明けきらずまだ肌寒い季節――それを束の間忘れてしまうほどの熱が掌に伝わってくる。

 李岳は激怒している。漏れ聞こえるのは、凍えるほどに冷えきった微かな含み笑い――このような怒り、赫昭は未だかつて見たことがなかった。

 普段温厚な者の方が怒りは激しく恐ろしいという。だがそのような一般的な範疇にすら当てはまらない予感を赫昭は危惧した。世界を飲み干すのではないか、洛陽が火炎に没するのではないかという程の怒り! 

(恐ろしいほどの怒気だ……けれど、自分たちはこの人の怒りから逃げてはいけない)

 覚悟が足りなかったと先ほど李岳は言ったが、それは違うと赫昭は思う。覚悟が足りないのは自分だ、自分たちだ……赫昭は自分の前で手綱を握っている李岳の体を、ぎゅっと抱きしめた。

「……赫昭?」

「自分はずっと不満でした」

 腹の底から力を込めて赫昭は自分の想いを吐露した。

「なぜ宦官に媚びへつらうのか、なぜ賄賂を拒まれないのか。正道を歩めばよろしいのに、なりふり構わず売官を厭わないのか。市井の者は貴方を祭り上げ、官位ある者は貴方を侮ります。どうして虚偽の仮面をかぶり、逼塞を選び、盗賊の助力を得て不当な出世を企むのか」

「……見限られてもおかしくないと思う」

 違います、と赫昭は首を振った。そしておかしそうに笑った。

「――ずっと、ずっと不満でした。そのようなことをすることに対してではなく、どうして自分たちにその理由を教えてくれないのか、ということです。貴方は、いつも言葉が足りませんから」

「……それは」

「よいのです。言えないこともおありだということは重々承知しております。けれど、自分たちはもっと頼られる存在になりたいのです」

 そう言うと赫昭は馬上から降りた。李岳も後を追うように黒狐の鞍上から地に降りる。赫昭の方がわずかに背が高いが、その差はかすかに迫ったように思う。まだ背の伸び代さえある少年なのだ、この人は――赫昭はそんな人に、己の全てを捧げることを決心していた。

「一つ、前言を翻してもいいでしょうか」

 癖毛の髪がわずかに揺れる。赫昭は息を一つ吐いた。

「先の調練で、自分は張遼殿に敗れました。あの前日、勝てば願い事を一つ聞いていただけるというお話でした」

「ああ」

「自分は敗れました。ですが、願いを一つ聞き届けてはいただけないでしょうか」

 並々ならぬ思いの籠った瞳だった。李岳は大きく頷いた。その頷きを待って、赫昭は片膝をつき手を合わせ、宣言した。

「貴方様のお力により、今、一人の女が武人として生きています。身に余る大任を頂戴し、生きるための戦場を与えられた果報者の女です。その者の真名をおあずかり下さい」

 拒まれたらどうしよう――ふと、それが何よりも恐ろしいもののように思えた。すがるような気持ちで赫昭は李岳の眼を見据えたが――やがて、李岳は小さく首肯した。

 告げた。

「その者の真名は、沙羅!」

 沙羅――李岳の呟きが赫昭の耳朶を打つ。心地良い響きだった。自分の名前はかようにまで美しい音色を奏でるものだっただろうか。いや、人から呼ばれて初めて美しくなるのだろうと思った。

「――冬至」

 だが、それにも増して李岳の真名は赫昭の胸に響いた。主と決めた人と真名を交わす。武人の誉れとしてこれほどのことはそうはないだろう――冬至! それが自らが捧げる魂の調べ!

「ありがたき幸せ! もはや貴方を疑うことも、貴方の決断に戸惑うこともありません。貴方の盾となり、貴方の剣となりましょう。そのためならば、この命は最後の一片までも燃えるのです」

 一瞬、李岳は悲しげに瞳を細めた。道連れが増えることを(いと)うような眼差しで赫昭を見ている――こんな眼差しで、この人は皆を見ていたのだ。地獄への共連れを惜しむかのような憐憫で! だがもう一人ではない、そのことを自分たちは示さなくてはならない。

「……大丈夫。貴方はお一人ではないのですから」

「赫昭……いや、沙羅」

「お一人ではないのです」

 岳は瞳を閉じた。赫昭の言葉が熱く胸を焼いている。

 自分の中にある怯えは、きっと孤独への恐怖だ。

 二度目の生を受けて以来、ずっと抱えていたどうしようもない疎外感。

 自分だけが異端なのだという疎外感は、とうとう実の親にさえ告げることが出来ないまま幾星霜。未来を知り、世界の行く末を知っている摩訶不思議な自覚は、いつからか李岳を孤独へ孤独へと追いやっていた。

 父にも、母にも言えなかった。そして自分に寄り添ってくれた万夫不当の優しき少女にも打ち明けることが出来ないまま、自分に幾重もの言い訳を施して遠ざけた。だが。

「皆を集めよう」

 赫昭は力強くうなずいた。自らが定めた、自らを見出してくれた主がとうとう決心した。赫昭の胸に熱い興奮が渦巻く。全てが動き始める予感に、赫昭の胸が熱く燃えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 日が落ちて間もない洛陽の街。その間を抜けて李岳と赫昭は帰宅した。張遼、陳宮、廖化の三人を呼びにやって、全員が揃うまでさしたる時はかからなかった。

 李岳が心を許すのは赫昭も合わせてたったの四人。だが、その四人さえ信じることが出来ず、一体何が成せるというのだろうか。

「丁原様の……母さんの墓を見舞ってきたよ」

 しん、と部屋が静まり返った。李岳は一人ずつ顔を見回して微かに微笑んだ。

「粗末な墓だけど、あれで母さんらしいと思う。戦った場で死に、葬られる」

「武人の誉れやな」

 張遼の相槌に李岳も大きく頷いた。

「前に、進まなきゃな」

 前に――

 この数カ月を反芻するように一つ一つ言葉を区切って話した。

「漢を乱す陰謀がある。それを食い止めようとしてここまで来たけど、今ならはっきりとわかる。俺は間違ってた。官位を得て、陰謀の真相さえ見つけることが出来たのならきっと止められる、と。けれどどうやら、それだけじゃダメなんだ」

 匈奴をたぶらかし、中原を脅かそうとした不敵な計画。その背後にちらつく劉虞という名、宦官の存在、劉岱……あるいはその他の勢力。

「この国は、このままでは滅ぶだろう」

 息を呑んだのは、誰だったろう。

「洛陽は豊かだけれど、腐敗は進んで人々は疲れている。邪教ははびこり、賊は増え、能吏は退けられて野望が尊ばれる。いずれは覇者がこの地を治めるだろう……けれどその時、北の匈奴を抑える力はすでに失われてしまっているんだ」

 歴史にはそう記されている。漢は滅び三国が建ち、魏が覇を唱えるも晋が塗り替える――だがその晋もまた、異民族の動乱によって千々に乱れるのだ。

「で、ですが冬至殿! この漢が滅びるなどと、そのようなことがあって良いはずがないのです!」

「……ねね」

 陳宮の無邪気な訴えこそ、李岳の苦悩の神髄だった。

『三国志』――そこに記された歴史を李岳は百を超えて反芻してきた。それをなぞり、それに従い生きていこうと思ったことも一度(ひとたび)ではない。

(歴史では、漢は数十年で滅ぶ……それでいいはずだと思ってた。陰謀さえ食い止めれば、あとはなし崩しの歴史でいいんだと……けどそれは偽善なんだ。俺はもう、この世界の人間だ。この国の人間なんだ……動乱が広がれば犠牲が増える。それを歴史の必然だなんて、もう俺は思えない)

 李岳は心の中の『三国志』を閉じた――それは、孫権への、劉備への、曹操への宣戦布告であった。歴史への挑戦――英雄への挑戦!

「俺も、この国を守りたいよ。ねね」

「冬至殿……」

 李岳は中華全土の広大さを思い浮かべた。広く、大きく、複雑怪奇な世界だ、と李岳は思った。この大地を相手取り幾多もの英雄が戦ってきた。そして今もこの全てを手に入れようと牙を研いでいる者たちが綺羅星の如く要衝で割拠している。

 その全てを打ち破るには一体何が必要なのだろう。武力? 政治力? 運? 大義名分? あるいはその全てだろうか。

 違う、と李岳は考えた。必要なのは確信だ。自分は孤独ではないのだという、確信。そして決意。

「漢が生き残るためには、このままじゃだめだ。俺はこの国を変えたい。匈奴とも、烏桓とも、あまねく全ての人々を網羅した国に作り替えるんだ。それが、二つの血脈を受け継いだ俺の使命だと思う」

 天上天下。森羅万象。その理を変えること、自らが知る歴史の全てを変える決意――。

「皆の力を貸して欲しい」

 燭台のゆらめきが五人の影を躍らせた。

 李岳は瞳を閉じて、十だけ数えることにした。

 その間、誰一人言葉を発しない。

 十。

 李岳は目を開けた。

 四人は皆、微かな笑みを浮かべて自分を見つめていた。

「……ウチ、やーっと冬至の素顔を見た気がすんねんけど」

「ねねもそう思うのです」

「意外と強情でしたね」

「お頭にも見せてやりたかったな」

「……みんな、笑わないのか」

 今更手伝ってくれだなんて言う馬鹿野郎を。

「何をいまさら! 笑うなら、二十万の匈奴兵に突っ込めって言うた時にとっくに笑っとるわ! 国を変える? ええやないか。つまり天下取りやろ? しかも、漢人だけやなくてその外まで見とるとはな! ……ふふふ。この中華の大地を縦横無尽に駆け巡り、立ち塞がる敵をぶっ飛ばす! 敵が大きければ大きいほど武人の血は騒ぐんや! 滾らせてくれるやないか、冬至!」

「……後で後悔しても遅いよ?」

「不敵になりよって!」

 カッカッカ、と張遼は大口を開けて笑った。やはり主席を譲ってよかった……こんな男が部下などとやりにくくて仕方がなかったろう! 

 張遼は携えていた偃月刀を掲げた。

「付き従います。無論、死ぬまで」

「沙羅」

 赫昭もまた、手にしていた盾を掲げる。もはや揺るがぬ。その瞳は何よりも雄弁だった。

「ねねも! 冬至殿のためなら火の中水の中ですぞ!」

 えい! と陳宮は小脇に抱えていた書を掲げた。年端もいかぬその姿で真に優れた頭脳を持つ少女は、きっとこの中の誰よりも道が険しいことを知っているだろう。

 それでも恐れず、怯まず、自分を信じて笑顔を向けてくれる――李岳の勇気を百倍にしてくれる!

「将軍閣下」

「廖化」

「我らが頭領、張燕より言伝を預かっております……貴方が本当の覚悟を見せたとき、お伝えせよとのお言葉です――黒山郎党(ことごと)く、思う存分使ってみせよ、と」

 全てを見透かしたような、張燕の憎たらしい表情が容易に目に浮かぶ。

 黒山賊を本当に死守したいのであれば、李岳よりも有力な者に頼むだろう。気に食わない者に何かを預けるようなことはしないのが飛燕だ。

 思う存分やってみろ、とでも言うつもりか――いつでもどこでも意地の悪い笑みを浮かべる大盗賊は、こんな時でも李岳に一杯食わせてしまう。

「対価は」

「自由と独立、誇りと洒脱!」

「承った!」

 廖化は隠し持っていた仕込み三節を組み合わせ、高々と掲げた。

 残すものはただ一人。李岳は天狼剣を抜いた。

「険しい道になる。人に誹りを受けることもあるだろう。天に唾棄する愚かさと歴史はいうかもしれない。伸るか反るか、分の悪い博打ばかりを踏んでいくことになる。はなから勝ち目なんてないイカサマ勝負かも知れない……」

 それでも――男なら! 女なら! 成さねば成らぬ志があるのだ!

「飛ぶぞ」

 天狼剣を突き上げる。応。合わさった声は李岳の不安を吹き飛ばす素晴らしき風となった。

 これこそが後に『燭台の誓い』と言われる決意式。要職を温めるだけであった李信達が大いなる飛躍を成す契機であり、同時に多大な名声と、それに匹敵する汚名を轟かせる端緒となる始まりの夜であった。

 

 ――志は射出された。後は覚悟と信念を爆発させて突き進むのみ。

 

「時はない。すぐさま動く」

「考えがあるんか?」

「ああ」

 ニヤリと楽しそうな張遼の表情――だが、李岳の次の一言がその笑顔を凍りつかせた。

「今宵、董卓邸に討ち入る」

 兵を揃えろ、と李岳は命じた。




以上にじファン掲載分でした。次話からリスタートになります。存外長かったです。

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