真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第三十四話 会議は踊らず、ただ決す

 地に転がり、全身を這いずり回る痛みに李岳は呻いた。

「立て」

 口の中に混じった砂を吐いたが、かすかに血が滲んでいた。李岳は取り落とした木剣を手に立ち上がると、よろよろと起き上って目の前を見た。

「打ち込んでこい」

 母――桂の顔には同情も苦痛もなかった。ただ淡々となすべきことをなす、とばかりに無表情である。

 一撃を取るまで終わらないのが桂の稽古だった。だがどんなに懸命になっても一本など取れた試しはない。同情で隙を見せたり、自信を付けさせるためにわざと打たれるといったことなどない。李岳がどんなに疲労困憊であっても手を抜かないのであった。

 この世界に新たな生を受け、薄ぼんやりした意識が明確になり、前世の記憶も現在の状況もしっかり考えられるようになって未だ数年。時折現れるこの母の調練だけが李岳にとっての恐怖であった。

「くっ」

 立ち上がり、大上段を牽制に腹部を狙って突いた。が、その突きが伸びきる前に李岳の手の甲は桂によってしたたかに打たれた。

「腹を使え、歩法を覚えるのだ」

 再び木剣を取り立ち上がろうとした刹那――李岳はそのまま地面を這うように駆け抜け桂の脛を狙った。麦穂払い。桂が放てば麦どころか一抱えある木を根から絶ってしまう技であるが、李岳の技も鋭く、当たり所が悪ければ脛骨はへし折れてしまうだろう。

「甘い」

 だがそれも当たればの話。桂は易々と防いでしまうと、無防備な李岳の体を掴みあげて地面に叩きつけた。

「今日はこれまで」

 ――もんどりうち、李岳はとうとう立てなくなった。そう、一撃を入れることが出来ないのであるから、こうして真に身動きが立てなくなってようやく手ほどきは終わる。

「最後の一撃は、悪くなかった」

 李岳は遠ざかる意識の中で、自分を介抱するために抱き上げる母の腕の温もりを感じていた。調練は恐怖だった、間違いなく。だがそれさえ終わればこうして母の温もりを感じることが出来る。

  わかる、ということはわからぬことより時に怖い。第二の生を受けて既知という未知の恐怖に日々苛まれている李岳にとって、数少ない安穏がこの瞬間だった。

 だから、李岳は母に会うのが、決して嫌ではなかった。むしろ待ち遠しいほどだった――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づいた時、日は中天にさしかかろうとしていた。少し仮眠するつもりが半刻は寝てしまったようである。ここ数日、よく眠れないまま動き続けてきたのでその無理が祟ったのだろうか。李岳は椅子の背もたれから起き上がると、一度大きく伸びをした。

 この頃、幼い頃の夢ばかり見る。本当に自分が過ごした幼少期の思い出もあれば、まるで嘘のような架空の話もあった。直前に見ていた夢の内容を李岳は既に忘れかけていたが、どこか甘い夢のような気がする。自分に都合のいい夢などないから、きっとこの脳が捏造した架空のものなのだろう、と思った。

 起き上がり、身支度を整え自室から執務室へ向かった。執金吾ともなれば豪勢な居室が与えられかねなかったが、それは固辞して粗末なものを使い続けている。部屋には既に廖化がいて、李岳をまだかと待っていた。

「……寝ておられたんですか」

「ちょっとだけ仮眠をね、すまない」

「ちゃんと眠られた方がよいのでは?」

「そんなことより、話を聞こう」

 手に負えない、と廖化は肩をすくめている。

「喰らいつくのは中々骨が折れます。幽州の劉虞を探った時と似たような手応えだ。深入りしちまえばこっちの尻尾を掴まれかねない」

「そうか……」

 先帝との謁見以来、李岳は劉岱への接近を命じていた。臣にして不遜な態度、帝の明らかな動揺、それを正さぬ蹇碩――中華の影で蠢く陰謀に一枚噛んでいると考える方が自然だった。

 永家の者さえ近づけない防諜態勢、それが整っているというだけである種の推測が成り立つ。ここはそれだけでよしとするべきだった。無理攻めはするな、と李岳は念を押した。

「報告は以上? それじゃそろそろ捜索隊を進発させないと」

「いえ」

 外に出ようとする李岳を呼び止めて、廖化は後ろ手に隠していた一本の剣を取り出した。

「これは」

 血塗れの剣――李岳はハッとして掴み取ると、まじまじとその刀身を見た。間違いなく丁原が肌身離さず携えていた一振りだった。

「先ほど、届けがありまして。広間に連れてきております。皆もそこに」

 廖化はそう言い残すと先に戸の向こうへと消えていった。李岳は受け取った剣をしばらく見つめたあと、それを卓に置いて広間へ向かった。放した後も、なぜか温もりが掌に感じられ李岳はわずかに動揺した。両手に吹き出してきた汗を執拗に拭いながら広間に向かった。張遼、赫昭、陳宮も揃い踏みであった。

 その中に一人、見慣れぬ少女がいた。聞けばこの子が知らせを届けてくれたのだという。連日の捜索の芳(かんば)しくないことで人相書きを手配したのだが、それを見て屯所に連絡をくれたのだという。福という名の少女であった。

 落ち着かなげにかわるがわる視線を移す少女に、李岳は腰を落として視線の高さを合わせた。

「何か知ってることがあれば、何でも言って欲しい」

「はい」

「……って、立ったままというのもね」

「自分が」

 赫昭が手を上げて部屋の外へ向かった。

「ごめん。お茶も用意してもらおうかな」

「はっ」

 まるで逃げ出すようにして赫昭は戸を出ていった。張遼と陳宮が所在なさげに咳払いをした。この部屋で普段通りの立ち居振る舞いをしているのは、李岳ただ一人だった。

「福殿は……お腹は空いてない?」

「は、はい。大丈夫です」

「遠慮なく言ってね」

 赫昭が人数分の胡床を持って戻ってくるまで少女の身の上話になった。

 何度も何度もつぎはぎしたのだろう、みすぼらしい着物に身を包んだ少女だった。洛陽の郊外で父と二人で住んでいるとのこと。おどおどと、落ち着かない様子であたりを見回している。執金吾の執務室は宮殿の一角にある、生まれてこの方このあたりに足を踏み入れたことは当然無いだろう。

 李岳は福が話す度にうん、うんと頷いては時折笑顔さえ見せた。福も落ち着いたのだろう、李岳の冗談に笑顔さえ見せ始めた。二人を間に置いて赫昭が卓を置き茶を入れる。張遼も赫昭も結局座ることを辞したので椅子は余り、二人だけで真向かいに座った。

 ひとしきり歓談し、お茶がわずかにぬるまった頃、李岳は居住まいを正して切り出した。

「さて、大丈夫? 話せる?」

「あ、はい」

「じゃあ、詳しく話してくれるね」

「はい」

「丁原様は、今どちらに?」

 少女は李岳の瞳をじっと見つめた。聡明さと、いたたまれなさと、優しさと、臆病さと――様々な色がその瞳に見えた気がした。李岳は少女の肩に手を置き、優しく言い含めるように繰り返した。

「丁原様は、今どちらにいらっしゃるのかな?」

「……ここから少し、南です」

「うん」

「川沿いの、梅の木のあたり……」

「うん」

「十日前に、埋めました」

 福という少女は胸を突かれたような表情でうつむいた。福だけではない、張遼はじめ皆、眉を寄せて今にもうめき声をあげんばかりであった。

 

 ――あの宴の日、丁原はふらりと居なくなり、そのまま消息が途絶えた。

 

 数百人規模の捜索隊が連日洛陽をくまなく探し、その先頭にはいつも李岳がいた。その努力は実を結ぶことなく最悪の結果として今こうして突きつけられている。人相書きを見て少女が守兵に連絡をくれたのはつい半日前のこと。委細調査したのは廖化であり、間違いないと確信した後にここに案内している。

 突然の悲報に誰もが硬直し、身じろぎさえ憚られる重い空気の中で、岳はまるで平静な様子である。それが何より、痛ましかった。

「ご遺体を、埋めた?」

「はい……あの、川べりで……血を流していて……」

「誰かに斬られたのだろうか」

「た、多分……頭とお腹から血を……」

「そう。じゃあ斬り殺されたんだな」

 聞いていられない! そう言わんばかりに陳宮が部屋を飛び出していった。唇を固く噛み締めて赫昭は耐えるように俯いている。

 

 ――捜索の際、李岳は主だった者の前で頭を下げて告白していた。自分は丁原の子であり、どうしても母を助けたい。親孝行をしたいのだ、と。

 

 いまその願いが無残に打ち砕かれ、絶望の帳に落ちてしまった。だが李岳はあくまで平静のまま――平静を装ったまま母、丁原の最後の様子を聞き取っている。言葉には言い表しがたい痛ましさだった。

「丁原様は、一人で倒れておられたのかな?」

「いえ、隣に男の方が」

 背後から廖化が一枚の書簡を手渡してきた。勅、と記されている。朕から始まる命令文であった。曰く、朕亡き後即位すべき帝は長子である劉弁ではなく、次女の劉協である、と。宛名にははっきりと蹇碩と書かれてあった。余白の部分は凝固した血でひどく傷んでいた。

 沈黙が粘質な重さで全員の肩にのしかかった。李岳は詔勅を見つめたまま俯いてまんじりともしない。穴が空くのではないか、という程にその紙を見つめ続けたあと、李岳は丁重に折りたたんで懐にしまった。そして、ああ、と天を仰いで呟いた。

「お会いしたい」

 呟きは部屋を冷やし、乾かせた。李岳は立ち上がると、福の手を掴んだ。

「案内して欲しい」

「えっ」

「会いたいんだ」

 墓に参る、というような言い方ではない。当然尋常な様子ではない。耐え難くなった張遼が福を掴んでいる李岳の腕を、押しとどめるようにして掴んだ。

「……埋葬は済んだんやで」

「お会いしたい」

「――何を言うとんねん」

「掘り起こそう」

 張遼の背中を怖気が走った。赫昭は既に滂沱の涙を流して李岳を後ろから掴んでいる。李岳の正気がどこかへ飛んでしまおうとしている、それが実感として、恐怖として迫っている。

「お会いする」

 本当にやりかねない――助けを求めるような少女の瞳に、とうとう張遼は怒鳴り声を上げた。

「十日も経ってんねんで!」

「だから?」

「わかるやろ!」

「はっきり言ってもらおう」

「――傷んでるやろ」

 その言葉に、李岳はようやく福の手を離して再び着座した。赫昭が慌てて涙を拭いて離れた。張遼はそのまま部屋を辞去するように勧めたが、赫昭は首を振って何度も唾を飲み込んでは泣き止んだ。そして張遼と二人で福の隣に寄り添うように立つ。それはまるで李岳という脅威から彼女を守るかのようであった。

「……ごめん。取り乱した」

「あの、もう、いいですか?」

 一刻も早く帰りたい、と少女の顔には書いていたが、李岳はまるで凍りついたような笑顔のまま首を振った。

「いや」

 そう言って李岳は福に近づいて見下ろした。途端、福の顔は血の気が引いて見る間に真っ青になった。焦ったように張遼と赫昭が間に入る。今の李岳は誰に対しても、どんな凶行に及ぶかわからない、そんな恐ろしさがあった。

 周りの様子など目に映らないとでもいうように、李岳は構わず部屋を出て間を置かずに戻ってきた。そして福に近寄り、袖から一つの包みを取り出した。それを受け取れば死ぬ、というようにまで怯えていた福。だがその手を強引にとって、李岳は渡す。

「知らせてくれてありがとう。これは少ないけれど」

「え」

 銭であった。それもずっしりと重い――

「う、受け取れません」

「丁原様は俺の母なんだ」

「……」

「母の埋葬をしてくれた。子としての、礼儀だ」

「け、けど」

「最後の親孝行」

 受け取ってくれるね、と言って李岳は強引に握らせると、赫昭に福の見送りを頼んだ。廖化も合わせて部屋を辞した。何度も何度も振り返りながら少女は部屋を出ていったが、後ろ姿がようやく見えなくなった瞬間、その場に膝から崩折れた――張遼が抱きしめていなければ、本当に倒れこんでしまっていただろう。

「……放せよ、霞」

「あかん」

「胸が当たってるよ」

 上背のある張遼が正面から抱きしめているので、李岳の顔は真っ直ぐ張遼の豊かな胸に埋まっている。李岳は無抵抗であったが、張遼は構うことなく力いっぱいに抱きしめた。

「柔らかいやろ」

「想像以上」

 不味い冗談だ、何もうまくない。どうしたってやぶ蛇であり、何をしても墓穴を掘るだろう――構うか! 張遼はどうあがいても李岳を離すつもりはなかった。今ここでこの男を一人にしたならば、取り返しのつかないことに成る。どうしようもない事態に陥る、と不愉快なまでの確信があった。

「……俺が、何かするかと思ったかい? 八つ当たりで」

「いや?」

「嘘つけよ。みんな、焦ってたじゃないか」

「焦ってへんし。なんぼ渡すんか気になっただけやし」

「生ぐせえな」

「なんぼ入れたん?」

「言えるか」

 胸に顔を埋めたまま、李岳はまるで棒きれのように立ち尽くしたまま言葉を続けている。下手な冗談も途絶え、吐き気を催すような沈黙が、こんなにも密着している二人の間を大河のように横たわっている。

「泣け」

 張遼の言葉に李岳はかすかに首を左右に振った。

「泣けない」

「こういう時は泣くねん」

「泣き方が、わからない」

「冬至」

「何?」

「慰めて欲しい?」

 張遼の言わんとする所は李岳にもわかった。それが張遼の不器用な優しさなのだということもわかった。自分がその優しさに微かに感謝し、そしてその何倍も煩わしく思っているということ。そんな李岳の心中を、本人以上にはっきりと張遼が理解しているということが、李岳には嫌というほどはっきりわかっていた。

 岳は張遼から離れると、かすかな笑みを浮かべて誘った。言葉もなく二人並んで廊下を歩いた。李岳は部屋に入ると上着を脱ぎ、上半身裸になった。もう一度悔しそうに笑うと、李岳は張遼を庭に誘った。張遼もまた、同じように笑い、張遼も羽織っていた服を放り投げさらしだけになった。

 両者、手には木剣。明確な合図などないまま、二人の姿は激突した。やがて騒ぎを聞きつけ、涙で目を腫らした赫昭も加わる。打ち合いは夜になっても続き、煌々と燃え盛る篝火の中、揺らめく影はぶつかり合い続けた。

 一つ一つ思い出すように、決して忘れることはすまいと李岳は技を繰り出し続けた。母との思い出を確かめるように、自らの身体に宿った母の面影を手放すまいとするように。

 脈動するこの血肉と技に、武人・丁原の魂は宿っているのだと確信するために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 洛陽の北方に御座する漢朝宮殿。その中の一室にこの国を実効支配する宦官が相対するように座していた。

 張讓、趙忠の筆頭以下、列侯として封ぜられ絶大な権勢を誇る重鎮の集会は、百二十間四方の広大な議場にて行われ、その周囲は重装歩兵が幾重にも守備につき暗殺を万全の態勢で防がんとする。

 あるいは皇帝よりなお厳重な警護の中、朧げな明かりを頼りに中常侍の面々は国の行く末を決定してきたのである。

 その中央、最高齢がために自然と議長の役割を果たす趙忠が煩わしそうに言った――その目はただ一つ空いた空席に注がれている。

「それで、蹇碩殿の行方が知れないとはどういうことじゃ」

 広い議場に重い沈黙が流れ、もどかしげな咳払いがいくつか響く。趙忠の言葉に答えたのは不機嫌さを隠そうともしない段珪であった。

「お言葉通り、蹇碩殿は行方知らずです」

「段珪殿、わしが欲しいのは相槌じゃあないんじゃがな」

「それがしも、わかりきったことの確認はくだらないことと存じます」

 二人の視線がまとわりつくようにぶつかった。同じ中常侍の位にあるとはいえ、権力とは手放した瞬間に猛毒へと転ずる諸刃の剣である。最早この地位にまで至るとさらなる栄華ではなく、ただ自らの防衛意識のために力を得なくてはならなくなる。一蓮托生の同卓であるが、同時に自らの背中を刺し貫く刃を隠し持った敵でもあるのだ。

「ま、ま。そのようにいがみ合うことこそが時間の無駄というものでしょう」

「左様。蹇碩殿の安否を確認することこそが急務」

 周囲の取り成しに、二人はようやく視線をずらした。しばらく蹇碩の安否についての議論になった。宮中より人を派遣して捜索に当たらせているとのこと、しばらく前に侍女などに暇を出しては孤立していたこと、部下の前にもあまり姿を見せなくなっていたことなどが報告されたが、宮中には依然として出仕していたので自身の決断で失踪したという見方は信憑性が低い。

 喧々諤々の議論の中、不意に発せられた畢嵐の訝しげな問いが議場を沈鬱にした。

「というより、確認する必要がおありかな?」

 趙忠は長い眉に手をやりながら聞く。

「何が言いたいのかな、畢嵐殿」

「我ら中常侍、その重責の自覚があればそう易易と行方を(くら)ませ国家の不安を煽るような愚挙には及びますまい。蹇碩殿は寡黙で控え目な性格ではあれ、己の責任は最後まで全うする御方でしたぞ」

「つまり?」

「既に、亡き者と考えた方が自然でしょう」

 失踪などという形で中常侍から欠員が出るのはいつ以来か。党錮の禁を初め、宦官は誰に害されることなどないままこの朝廷を牛耳り漢を左右してきた。それを快く思わないものがいずれ牙をむくのではないかと、皆が皆可能性という形では考えていたものの改めて言葉にしたことによって明確に具体化した緊張が全員の心に走った。

「蹇碩殿は先帝陛下の遺勅を預かっておられたと聞いておりますが」

「うむ。陳留王殿下こそが即位に値する、というな」

「殿下の聡明さ……先帝陛下はそのご慧眼により見ぬかれておられた。あいや、もちろん今の陛下とて素晴らしいお方ではあるが」

 攻撃されている――危機感は中常侍のわだかまりを打消し、連帯を強いた。渦を巻いていた議論ははっきりとした着地点目掛けて走り始めていた。

「討手は誰じゃ」

「只者ではあるまい、蹇碩殿は名うての達人よ」

「丁原もまた行方知れずとのことじゃが」

 中常侍の一、孫璋が丁原の略歴を簡単に述べ始めた。武人上がりで戦に強く、前并州刺史であり前執金吾。朝廷の命に背いて刺史に固執し匈奴を討ち、獄に落とされた後に先日恩赦で釈放された。

「ありうるな」

「丁原はいずこへ行った」

「相討ちか、逃げたか。重要なのは誰の差し金か、ということであろう。丁原が自ら決断したということはあるまい」

「彼奴は金では動かぬ」

「ならば忠義か?」

「……勅が出たか?」

 大きなため息が議場にいくつもこぼれた。不安や落胆などではない、面倒な仕事が増えてしまった、という煩わしさのためのため息であった。

「であるのならば、なおさら由々しいのう。陛下がそのようなことに興味をもたれては困る」

「それこそ、先帝陛下のお言葉が正しかったことになる」

「陛下と丁原をつないだものがおろう」

「今の帝を唆した者とも言える。誰ぞ心当たりがある者はおるか?」

「董卓はどうじゃろう」

 ここしばらく、勢力の伸張を見れば明確に台頭したものは数えるほどしかいない。その中でも董卓は涼州の強兵を携えながら、獄に落とした丁原を庇いその恩でもって并州の騎馬隊も手中にしたという。

 丁原への恩赦においても声高に主張をしていた一人だ、そのとき丁原への伝手を築いたのかもしれない、と議席の面々は深く頷いた。

「なるほど、合点がいく」

「帝にはいつ近づいた?」

「さての。いかようにでもやりようはあろう」

 中常侍の危機意識はここにおいて閾値を飛び越えた。議場の沈黙は決断までの前置きに過ぎない。それぞれが目配せし合い、頷き、覚悟を確かめ合った。血を見ることになるだろうが、それを望んだのは相手である。この中常侍に歯向かったのだ、滅びを甘受する覚悟はとうにできておろう、とばかり。

「邪魔じゃな」

「邪魔になった」

「黙って侍っておればよいものを、田舎生まれの小娘が」

「涼州に并州。二州の武力を纏め上げていると聞くが」

「故に」

「故に、今」

 殺意は凝固を始めていた。だがそれに更なる添加をせんとにじり寄ったのは段珪。 

「待たれよ。何進殿の指図、ということは考えられませぬか?」

「ふむ」

「なるほどの」

 妙案、と趙忠はうなずいた。

 大将軍という立場でありながら西園軍では宦官である蹇碩の下に甘んじていた。その一事だけでも怒髪天を衝いたであろうに、あまつさえ蹇碩は何進の権力のただ一つのよりどころである劉弁の廃位を目論んだ――此度の一件、何進が裏で動いたという絵面は容易く想像できる。

 真偽は定かではないが、重要なのは動機があるということだ。排除する理由としては十分といえる。

「決まったな」

「ああ」

「外戚が権力を(ほしいまま)にすることは傾国の端緒となる、それは史実が指し示す通りじゃ」

 これを奇貨とし外戚を排する。明言せずとも全員の意見は一致していた。何一族と董卓を一息に誅滅すれば帝とてつまらぬ事を考えるようにはなるまい。

「行動に移さねばならぬな」

「異存はありませぬ」

「右に同じく」

「護国の為に」

「護国の為に……」

 

 ――香炉煙る宮殿の大議場。殺意は合意を獲得した。陰謀は鼓動し、もはや制止叶わぬ勢いで疾走を始めるであろう。


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