李岳将軍、天子の財物を山と積んだ飛燕将軍を疾風の如く追撃す。神速の張遼に鉄壁の赫昭、率いる騎馬隊は並ぶものさえないという。
神仙の技を極めた飛燕といえど、三千貫の宝の重荷によりまさに這々の体。千里を駆ける名馬、黒狐の嘶きは張燕に付き従う黒山賊が騎馬たちを悉く怯えさせ、とうとう遙かな黄河を眺望する丘の上で李岳将軍は盗賊に追いついた。
かの飛将軍李広の子孫である李信達。身の丈八尺三寸、岩をも両断する切れ味の天狼剣を掲げ、盗賊に向けて轟かせた大喝は黄河を渡り河南は孟津の町にまで届いたという。
「やあやあ、そこな盗賊。天子様の宝物を私しようなどとは不届き千万」
飛将軍李広より受け継ぎし剛弓は、早くも背を向けて逃げ去る盗賊の背中を次々と射抜いていった。これは敵わぬ、と飛燕が財物の大半を放り捨てて舟に飛び乗るまでに、李岳の矢は百の盗賊を射倒してしまっていた。宝も味方も見捨てては尻尾を巻いて逃げ去る張燕に向かい、李岳は最後の一矢を放った。矢は風よりも早く走り、長い髪を結わえていた張燕の頭巾をものの見事に射抜いてしまった。
「次はその頭を射抜いてしまうぞ。この李岳の目の黒いうちは決して洛陽に戻るな」
腰を抜かして逃げ去る張燕は、それから二度と洛陽に近づくことはなかったという。(劇『孟津口』より)
洛陽に住む人々による歓喜の爆発たるや、帰還した李岳が戸惑い思わず足を止めてしまうほどであった。
辻という辻、戸という戸、窓という窓。全ての隙間から人々は顔を出し、天下の誇りを死守した李信達の顔を一目拝まんと押し合い
洛陽の民の心中如何ばかりか、さても聡明な曹孟徳でさえその色合いは真には察せまい。誇り高き栄光の漢朝の中心地に住んでいるというのに、先細る豊かさの中で日々暗く寂しい知らせばかりを耳にして生きる人々である。宦官の横暴、外戚の専横、荒れ狂う権力対立の中で愛する皇帝の存在感は影と薄れ、外には盗賊が溢れ黄巾党なる不埒な輩まで現れる始末。官軍の戦績も振るわず、戦々兢々とする毎日なのである。
そんな中、春節も遠くはないといえ祝い事が催された。皇帝直率の軍が発足し、そのお披露目が大々的に催されることになると聞くや人々はみな喜び準備に励んだ。だというのに――
荘厳な趣さえある閲兵式が始まって半日、喝采と期待の眼差しは争乱と落胆によって塗り替えられた。
漢の権威は剽窃され、尻尾を巻いて逃げる盗賊に西園八校尉は追撃さえまともに出来ない。事情など知らぬ。指を咥えて敵を見送る軍隊に一体何が出来るというのだろう――数刻が経ち、意気消沈した人々の間を夕暮れの赤い光が薄暗い影を伴って長々と差し込んで来た頃合い、暗く翳った皆の顔をハッとさせる知らせが飛び込んできた。
――李信達どの、賊より財宝を奪還し只今帰参!
その知らせはさざ波のように人々に伝わった。李信達が、今飛将軍の李岳が漢の威信を取り返して戻ってきた――誰もが誰かに知らせなければならぬと喚き立て、洛陽全域にその声が届くまでさしたる時はかからなかった。誰もが通りに飛び出した。あの李岳! 匈奴を討滅した飛将軍の生まれ変わり、そいつが今度はこの洛陽で武名を上げた!
男は腕を掲げ、女は花を散らした。歌が聞こえる、舞が繰る、この街に誇りが取り戻された音がする……ああ、これはきっと物語になるだろう!
――その様子の只中で、主役とも呼べる一団は呆然と押しやられるままに歩を進めるほかなかった。
「うわ、こらすごいな!」
「いくらなんでも……」
張遼と赫昭が隣でほぼ同時に呟いたが、李岳はその呟く言葉さえ見つけられずにいた。
財宝を奪わせたのも、それを取り返すことが出来たのも前もって打ち合わせていたからで、こうして祭り上げられたり感謝の言葉を捧げられると、心のささくれを剥ぎ取るような罪悪感で胸が痛む――しかし李岳は笑った。手を振り、人々の歓喜に応えた。
迷わないと決めた。逡巡も葛藤も内心で済ませるだけでよい。事実、胸のすくような光景でもある。戦いは始まっているのだ、とうに。洛陽の目抜き通り――朱雀大路は道を開けて自分を待っていた。その先には荘厳な宮廷が控えており、喝采を従えた李岳を遮る者はもはやいない。棹立ちになった黒狐を御し、天狼剣を夕日に照らしながら李岳は敢然と声を上げた。
「大漢に幸あれ!」
岳の声に答え、人々は繰り返し繰り返し同じ言葉を叫んだ――幸あれ、大漢に幸あれ――その声の中を李岳は進撃した。無人の野を行くかの如く、しかしひしめき合う人々に包まれて真っ直ぐ宮殿に。
正門をくぐれば出発時と同じように円陣を組んだままの西園軍が控えていた。李岳が一歩進めばその防備は容易く打ち砕けた。李岳はゆっくりと歩いた。それが最も重厚な攻撃であるとでもいうように。それを黙ってみている他ない諸侯、宦官、官僚の姿――李岳はその中に一際厳しい目があることに気づき、ちらりとそちらを見た。
燃えるような強い眼差し、固く閉ざされた唇、背後から立ち上る覇気が何よりも彼女の意志を雄弁に物語っていた――曹孟徳。
だが李岳は一顧だにせず進んだ。嫌われてもよい、敵対しても構わない。乱世の奸雄を向こうに回そうとも構わぬという決意こそ不退転。
とうとう最後の防備までも突破した先には、西園八校尉の筆頭、蹇碩が控えていた。
「名乗れ」
「姓は李、名は岳、字は信達。飛将軍李広の末裔」
どよめきが周囲を打った。李広の末裔! やはり噂は本当であった。いや証拠などどこにもない、どこの馬の骨ともつかぬ。しかし事実功を上げた――周りの関心も動揺も李岳には何の影響も及ぼさない。
「張燕より財を取り返したか」
「はっ」
「……陛下が直々の拝謁をお許しになられた」
どよめきはとうとう悲鳴じみたものにまでなった。大将軍何進を筆頭に外戚を成す何一族、圧倒的な権力を誇った十常侍に地方の諸侯、新たに功績を上げては都に招かれた若き将軍に名家の御曹司――こと袁紹に至ってはその場で失神しかねないほどの衝撃で、脇から咄嗟に支えにやってきた側近である顔良と文醜の二人がいなければ床にへたりこんでいたやもしれなかった。
背中に痛いほどの視線を感じながら、李岳は蹇碩に導かれるままに進んだ。道は豪華絢爛。進めば進むほど薄暗く、壮麗で、寂しい。人に緊張を強いざるを得ない不可思議な空間、皇帝にだけ許された最後の砦であった。
通されたのは本宮ではなくなぜか離宮であった。一目にはわからないであろう狭い戸をくぐったので、正式な謁見と言うよりはお忍びということなのだろうか、と李岳は考えた。通された控えの間でしばらく待ち、念入りな身体検査を受け、いくつかの教えを李岳は賜った。岳に謁見の作法を教えたのは誰あろう董卓であった。
「……野暮用って言ったのに……」
董卓らしからぬふくれっ面であった。ちょっと赤く染まった頬を膨らませこちらを見上げている。思わず指でつついてしまいたくなったが、馬鹿なことを考えている、と李岳は苦笑した。目の前にいるのは董卓なのだ。
「あの……な、なにがおかしいんですか……」
「いや、他意はないんです」
「……ほ、ほんとですか?」
「そんなに睨まないで下さい」
「に、にらんでなんか……」
「ほら、にらんでる」
「え、えぅ……」
おっとりした口調で、怒りや憤りといった感情からは最も遠そうな人ではあるが、李岳の行いには不満を持っているらしい。当たり前だ、と李岳は思った。この事態に及んで笑い声を上げるのは張燕や趙雲のような根性悪だけだろう。
「あんまり月をからかわないでほしいわね」
「からかってなんかいませんよ、賈駆殿」
どうだか、と賈駆は肩をすくめた。
董卓が戸惑いふくれているのなら、賈駆は呆れてものもいえないという表情で立っている。まさか張燕と繋がりがあり、あえて宝を奪わせ奪い返すなど、狂言もいいところだ。それを洛陽を含める全土の有力者の耳目が集まる西園軍の閲兵式で行うとは、バカ度胸だとでも思っているのだろう。いや単なるバカとしか思っていないのかもしれない。
どこに目があり耳があるかもわからない宮中である、賈駆は黙って目で李岳を責め、李岳も目でしらを切った。
「ふん、まあいいけどね。そうそう、丁建陽殿は先程自由の身になられたわ」
「――痛み入ります」
深く、深く李岳は頭を下げた。駆け引きをした、取引もしたが、それでも感謝の念が止めどなく湧いてくる。
無事を祈らない日はなかった、会いたいと思った。そのために媚びへつらい、手柄を横取りし、嘘をつき、歓心を買った。何ほどのこともない、何ほどのこともない――この日を迎えることが出来たのだから、積み重なった負い目など既に溶けて消えてしまった。
賈駆も腰に手をやり、ふっ、と小さく安堵の息を吐いている。危ない橋を渡ったのかもしれない、感慨もあるのだろう。
「丁原様を、本当にお大事に思われてるんですね……」
「あの人がいなければ、私はいません」
嘘ではない、これ以上の真実もないだろう。
「ま、上手くいってよかったわ」
「まあここまでは」
「問題はここから、という顔をしているけど」
李岳は曖昧に微笑んだ。
「そうね、まだ最後まで成功したわけではないものね。それにこれで貸し借りもなし、と……ま、けれど、一応、その、なによ……お、お、おめでとう! と、い、言っておくわ!」
「……ありがとうございます」
意外な言葉に李岳はいよいよ照れたが、それは賈駆も同じようで二人してそっぽを向く始末。そのやり取りが嬉しいのか、董卓だけがふふふ、と声を漏らして笑っている。
「よかったね、詠ちゃん」
「……なにが」
「だって、ずっと李岳様のことを心配してたもの……」
「ちょっ!」
ばかばかそんなこと心配なんてしてないボクは自分の仕事をちゃんと全うできたかどうかというその事だけが心配でそりゃ初めは受け入れがたいしやる気もなかったけど丁原様を心配する気持ちはちゃんとあるんだなって思ってそれは痛いくらい理解できたから片手間にやるんじゃなくてしっかりと頑張らなくちゃって――
「そこらへんでかんべんしてください」
心が死んだ虚ろな表情で告げる李岳に、賈駆はようやく我に返りただでさえ赤かった顔をさらに赤くしてブンブンと手を振った。
「えっ、あっ、違うの、違うの!」
「かんべんしてください。ゆるしてください」
羞恥が過ぎると虚脱する李岳。渦巻きのように目をぐるぐるさせて言い訳に忙しい賈駆……二人を微笑ましく見守る董卓。三人の間には奇妙に居心地のいい空気が漂っているが、それを自覚しているのはおそらく董卓一人だけだろう。
コホン、と気を取り直してから賈駆は言った。
「いずれにせよ、貴方には栄達の道が開けた。逼塞の時は終わり、飛躍の時ね……この魔宮の瘴気に毒されないように、と忠告しておく――」
「おめでとうございます、李岳様」
「ありがとうございます、お二人とも。あのところで……様付けはやめてください」
李岳の心中など考えたこともないだろう。董卓は何が不思議かわからない、と首を傾げて聞き返した。
「じゃあ、なんとお呼びすれば……」
「様じゃなければなんでも」
呼び捨てのほうが一万倍ましだ、と心の底から思う。
「じゃあ、李岳くん……」
「……はぁ、まぁ、じゃあそれで……」
「えへへ」
全くもってこの人はやりにくい……岳は頬をかいてあさってを見た。
同じように照れくさそうにそっぽを向いていた賈駆が急に不機嫌になり、いいから早く行きなさいよ、となぜか怒気を込めて言った。
ほどなく李岳は席を辞すると奥の扉へと向かった。ちょうど呼び出しのものがやってきていたのである。戸を一つ二つと抜ければもう帝の御前である。いやでも緊張感は高まった。岳は案内された先の部屋で自分を先導したものに促され指し示されるままの姿勢で待った。佩剣は許される身分ではないので二振りとも預けている。不思議なことに蹇碩以外には誰もいない。人払いは済んでいるということなのだろう。
十常侍の一人でもある蹇碩と二人で待つという時間が奇妙に重苦しく感じたが、不意に蹇碩の方から声がかかった。
「よくやった」
「……はっ」
「我らの務めは帝を御守りすることにある。不用意に動けんところを突かれた」
そう、そこを突いた。西園軍は必ず微動だに出来ない、と李岳は確信を持っていた。宦官が筆頭なのである、皇帝の安全を守るためにまずは警備を厳重にするだろうと読んだ。蹇碩はその企みを李岳が主導したとは夢にも思っていまい。そのためか、声音には意外なほどの親密さがあった。
「帝を守れ。李信達。宮中には虫が多い、吐き気を催すような虫がな。それをいずれは焼き払い、帝の平安を取り戻すことこそが臣下の務めでもある」
軍部の訓示を頂いている、と程無くして李岳は気づいた。蹇碩の瞳は真剣そのもの、李岳は深々と頭を下げた。
(虫……)
真意を問いただそうと思わず顔を上げかけた李岳を制するように、蹇碩が一際大きな声で宣言した。
「――皇帝陛下出御」
蹇碩の声と同時に李岳ははっと跪き、最上級の拝礼を行った。あっけないものだった、皇帝は眼前にいる。この世界の頂点に位置する人間が、目前に座している。一年前は山で狩りにいそしむ猟師でしかなかったというのに、今こうして皇帝の御前にいる。その奇妙な運命の悪戯に李岳は内心苦笑せざるを得なかった。場違いなことを考えている岳、だがその心中を察することの出来るものはいない。伏したままの表情もまだ誰にも覗かれることはない。
「面をあげよ」
女性の声。穏やかで、潤いに満ちた声だった。
「はっ」
「此度はよくやった」
おざなりとも言える言葉が続いた。
宝物殿の財宝を取り戻したことを労われ、謙遜を返し、忠臣ぶりを褒められるややはり謙遜を返し、望みはあるかと聞かれ、それも固辞した。私心なきことを褒められ、やはり何か褒美を与えねばならぬ、いずれ追って沙汰があろうという皇帝の言葉に李岳は感謝の意を示し、身に余る光栄というお決まりの言葉を返した――このまま脚本通りに終わるのか、とホッとしていたのも束の間、意外な台詞が李岳に降りかかってきた。
「……小さい、わね」
聞き返すことは無礼に当たるので李岳は口を閉じたままだったが、内心ではいく種類もの疑問符が飛び出ていた――小さい?
「……いま少し、面をあげよ」
「……しかし、臣は」
「よい」
皇帝の言葉を固辞しきれずに李岳はまたわずかに顔を上げた。常識的な儀礼として、直接皇帝の顔を見ることは不遜に値する。が、皇帝がそれを許せば限りではないだろう。
天子は女性であった。年は四十を超えたあたりであろうか、重そうな冠と玉の向こうに穏やかそうな表情が見える。
龍の血のように赤い瞳。金色の刺繍に彩られた纏いまでもが真紅。翡翠と瑪瑙で埋め尽くされた玉座に腰を下ろしたまま、帝はとぼけたような声を上げた。
「……やっぱり小さい」
「……はっ」
「……それに、若い、ね」
「……はぁ」
玉座に座ったまま、帝は右に左に身体を揺らしながら李岳をじろじろと見回し始めた。岳は眼前の女性の声色が変わったことに気づいた。皇帝のそれから、人の血色を帯びたような生気を感じさせる声である。
特別若いわけでも、特別美しいわけでもない。豪華絢爛な衣装に艶やかな化粧を施されてはいるが、気だるげな様子からはただの仕事着にしか見えなかった。一人の母、一人の女、一人の人――話すごとに何層もの張りぼての権威がどんどんと剥がれ落ちてその素顔が露わになっていく。
「朕の子らとそう変わらぬ。いくつになる」
「はっ。十五でござりまする」
「なんと弁より下かえ。協と同いか」
「恐れ多くも」
「まことに李広将軍の血筋であるのか?」
「はっ。父はそう申しておりました」
「そうか。父の名はなんという」
「……」
「なぜ言わぬ」
「恐れながら、父の名は僭越にも……弁と」
儒の教えにより上下の秩序を徹底的に定めた中国において、目上の者と同じ名を名乗ることは無礼に値するとされる。先に名付けられていたとしても、即位した皇帝が同じ名を付けられているのであれば進んで改名をしなければ不忠に値するとされる。それを
だが、帝は李岳と李岳の父、李弁を非難することはせず、面白そうに目を丸くするばかりであった。
「なんと。それはまた、我が子とそなたの父は名を同じくするか」
「并州の最北に住み、都の知らせにも疎く、名を変えることをせぬ不忠を」
「よいよい」
気にするな、と手を振る帝を李岳は意外な思いで見た。謁見の可能性を予見して拝謁のための手順や言葉のやり取りなど、十分に予習し予想もしていたが、その全てを裏切る穏やかさだった。眼前の女性はどこか嬉しそうに自らの娘たちについて語った。そこには陰惨な権力闘争の悲嘆さはない。
妹思いで心優しい義務感の強い姉の劉弁と、大人しく聡明で勉強熱心な劉協――嬉しそうに二人のことを語るその姿は、漢朝第十二代皇帝劉宏の姿ではなく、ただの母親の姿であった。
それからひとしきり二人の娘の話を繰り広げた。岳はただ相槌を打つばかりであったが、決して悪い気はしなかった。むしろこの眼の前の帝を好ましいとさえ思った。
「いやしかしそうか……これも何かの縁じゃのう」
「光栄の至りでございます」
「父に尽くすように、我が娘にも尽くしてくれるか」
「はっ」
「――望みを申せ」
人の声から帝の声に戻った、と李岳は思った。再び面を下げ、視線を床に釘付けにした。追って沙汰などという上っ面の言葉ではない、今ならば本当の望みが通るであろう。
「そなたの先祖には不義を働いた。朕はそれに報いねばなるまい。」
「……恐れながら申し上げます。此度の騒動、臣が今少しの兵を率いることが出来ておりましたのなら、張燕を取り逃がすことなく捕縛することが叶いました」
「兵か、物騒なことを言うの」
「申し訳ありません」
「いや、それでこそ飛将軍の血であろう」
「叶うのならば、執金吾の空位を埋め陛下をご守護する栄誉を賜りたいと」
ふふふ、と帝は袖に顔を隠しながらもはっきりと笑いを漏らした。
「ふてぶてしいやつじゃ、もそっと下積みをしようという気はないのか?」
「長く逼塞していた血筋なもので、早く出世しては名を挙げよと先祖の声が聞こえます」
帝は再び蹇碩を見たが、蹇碩はやはり同じように小さく頷くだけだった。御意のままに、という意味の仕草なのかもしれなかった。
「……丁原には赦しを与えたのじゃが執金吾の位は返上しおった。朕の慰留も頑なに拒みよった。牢屋に放り込まれたままの執金吾などいない、火急の時に帝を守れぬ執金吾など案山子にも劣る、と」
母らしい豪儀な言葉だった。皇帝に対してこの物言い。不遜一歩手前だが、逆に清々しくさえある。
「西園軍もまだまだ整いきってはおらぬ。張燕め、中郎将の地位をやったというのに、小憎らしいことをしてくれる。じゃが、それゆえにより西園軍への補強の理由もついた。征伐はいずれじゃな。しかしまあ、そちがもう少し早く現れておれば、西園九校尉となっておったかもしれぬの」
「恐れ多いことです」
「ふふふ、禁軍統括の地位を望んだものが心にもないことを……まぁよい、今日この場よりそちがこの洛陽を守護する執金吾じゃ」
「――はっ!」
成った――総身に鳥肌が立っていた。執金吾……宮中に最も近い武力を持つ者! これで母はお役御免で無事に洛陽を脱出できる、今更利用しようと寄り付いてくる宦官もいないだろう。これから自分が狙われる立場になる。防備に訓練、暗殺の警戒だってしなくてはならないかもしれない。立ち位置を明確にせよと迫ってくる者もあるだろう。やらねばならない仕事は山ほどあるに違いない。
「なに、礼には及ばぬ――そちには洛陽の民を安堵に導いたという恩も」
不意に言葉が途切れた。
帝は急に言葉を区切ってしまい、それきり音を発さなくなった。不審に思った李岳は顔を上げた。皇帝は目を見開き、口をわなわなと震わせながら一点だけを見ている。
――その者は、いつの間にやら李岳の背後の戸口に立っていた。
「うふふ、僕に黙って内緒話?」
男は皇帝の前だというのに跪きもせず、礼もせず、まるで己が主人かのように御前を歩いた。それを皇帝も蹇碩も見咎めようとしない。皇帝はただ首を振るばかりであり――だが、蹇碩がただの一瞬だけ殺気を漏らしたことを李岳は見逃さなかった。
「ねぇ陛下。僕にご相談もなくこんな謁見開いちゃうなんて、ひどいや」
「違う、違うの――劉岱!」
劉岱。その名を李岳は心の中に刻んだ――劉岱。
李岳よりさらに一回りは低い背、青を基調とした豪奢な衣。にやにやと口元に浮かべた笑みは無邪気で明るく子供らしいが、どこか陰惨な影も見える。後ろ手のまま劉岱は皇帝の隣にまで行くと、その顎に手をやって優しく、限りなく優しく撫で始めた。
「落ち着きなよ、陛下。臣下が見ているよ」
「え、ええ……落ちついているわ、落ち着いている……」
「そう、いい子だね……」
「ええ! そうよ、何も、何も悪いことは……」
劉岱は跳ねた。悪巧みが成功したことが嬉しいのだとばかりに。
「う・そ! 悪い子だ、陛下は。うふふふ。僕に黙ってこそこそするなんて――お仕置きが必要だ」
その言葉を聞き終わらない内に、帝はまさに乱心としか言い様のない有様だった。
「違うの! これは違うの! あああ!」
劉岱の哄笑が響き渡る。背を向けて歩き去る少年、その姿が消えるや否や蹇碩は皇帝に駆け寄り肩を揺すった。李岳という男などもう意識の外であった。うなだれて呻きを上げる皇帝は、そのまま力なく支えられた格好で部屋を出ていった。李岳は唖然とし、言葉にすらならない悪寒を御するのに精一杯であった。
中華の最上位に位置する人間が、あんな少年の一言で取り乱すとは……劉岱。一体どのような存在なのか、そしてこの宮中に巣食う闇の深さとは――虫、という言葉が脳裏について離れない。
暗黒の宮中で、自我さえ失いつつある哀れな天子。今上皇帝でさえこの有様であるというのなら、漢王朝の神髄はもはや――
(劉岱……調べなくちゃな……)
だがその決意さえ、今の異常な光景を拝んだ後では固く結び切ることができない。李岳は呆然とした思いで前を見つめていた。
蹇碩に抱きかかえられて去っていく天子の背中――それが李岳が見た劉宏の最後の姿であった。
――その日から年を隔てて二月後、朝からしんしんと静かな雪が舞い降りるある朝、漢朝皇帝劉宏は何の前触れもなく虚血のために崩御した。享年四十三。孝霊皇帝と諡され、天下はその死に涙した。三日三晩雷雪が吹き荒れ、天すら泣いたと人々は囁いた――乱世が始まるのだと囁き合った。