真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

29 / 184
第二十九話 閲兵式 その二

 その日、歩哨の任についていた男は貧乏くじを引いたと朝から嘆いていた。

 洛陽から程ない郊外の生まれで土地もなく、生きるためにやむなく兵卒に志願した。幸いにも大きな戦に駆り出されることのないまま見張りと使い走りの日々ではあるが、食いっぱぐれる心配だけはなく、つまらなくも特に大過ない日々を男やもめで暮していた。

 だが年に一度もない――あるいはこの先二度とないかもしれない催事の日にさえこうしてあくびをかみ殺さなければならないとは、ほとほと自分には運というものがない、と男は誰(はばか)ることなく嘆息を漏らした。

 皇帝陛下直々に将軍を名乗り、天下に平安をもたらすために鎮撫に乗りだす。そのための直属兵力としての西園軍が本日披露される。

 話題はもう何か月も前からもちきりだった。めでたいことこの上ない、天下はこれからきっとよくなっていくであろう、蒼天は再び煌めくような美しさを取り戻すに違いない――

 皆、これ以上嬉しいことはないと称賛した。近年滅多になかった祝い事である、天子の御膝元で暮らす民草もかなう限りの事でもって盛り上げなければなるまい、と意気揚々。出店に見世物、興行に博打。春節でさえかくも華々しく飾り付けられるだろうかという街路の賑わい――

 それを横目で見守らなければならないこのもどかしさ! 振る舞い酒の一杯もなければ暴動さえ起こりかねんぞ、と男はぶつぶつぶつぶつ、誰にも届かぬ小声で愚痴をこぼしては天を仰ぐのだった。あとどれほど意味のない見張りをせねばならないのだろう、こんなところに忍び込んでくるものなどいるはずがない、誰もが西園軍の勇姿をひと目見ようと目抜き通りに押しかけているはずだ――彼がそんなことを考え、あくびのために滲んだ涙を拭おうとしたその時、不意に一陣の風がその背後を掠めた。

 風は音もなく疾く走り、男の頸部に強かな一撃を加えた。痛みにさえ気づくことはないまま男は意識を失い倒れこむ。あわれ、彼が目を覚ますのはこのあと一日を待つことになるのであるが、そのときには全ての事が終わった後であり、お祭り騒ぎもその後の騒乱も直接お目にかかることはなくただただ伝え聞くばかりであったという。

 

 ――倒れ伏した彼のそばを悠々と歩きゆくのは中華最強の盗賊集団、黒山賊。

 

 先頭を行くは名高き『飛燕』であり、付き従うは百戦錬磨の黒ずくめの者たち。

 盗めぬものなどこの世にない、その生きざまを表すかのように彼女は挙句皇帝の膝下に立った。周到で綿密な手引きの果てにとうとう宮殿の宝物にまで手を伸ばさんとする一味郎党にはもはや臆するところなどない。この仕事ののち、黒山賊の悪名は時代を席巻する勢いで人々の口の端に上っていくだろう。一歩を踏み出す張燕の脳裏には、この計画を持ち込んだ男のやり取りが鮮明に浮かび上がっていた。

「……かかりな」

 合図と同時に黒ずくめの男たちは襲撃に臨んだ。宝物殿は普段は十重二十重の防備に包まれているが、今日は皇帝が洛陽を練り歩くということで人手は減じている。壁伝いに影は『敵陣』に浸透していく。略奪にしてはあまりに鮮やかな手口でもって、漢帝国の輝かしい歴史を何よりも雄弁に物語る財宝を攫いつくしてしまうだろう。

 その先頭で、張燕はこの計画の端緒を思い返していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――西園軍の閲兵式に紛れて、歴代皇帝の財宝と宦官の不正蓄財を強奪する。

 

 李岳が持ちかけた企みを、張燕は二つ返事に快諾した。面白そうだ、それが理由の全てであった。

 洛陽にて警護の任についている李岳である。どこに誰の屋敷があり、どれほどの大きな倉を建てているのか、調べ上げるのは造作もないことであった。誰が賄賂や汚職によって不正に富を蓄えているか、その詳細を李岳は余すことなく張燕に伝えた。

 計画実行は西園軍の閲兵式当日。主力の張燕は防備の手薄となった漢朝皇帝の宮殿の宝物殿を襲撃し、代々受け継がれてきた高貴な財宝を盗み出す。別働隊は朝廷にのさばる業突張りの屋敷を同時多発的に襲ってはその財を頂戴する。

 なるべく静かに、なるべく人死にを出さず。そして全ての盗みが達成されるや否や、盛大に狼煙を上げて洛陽城外に遁走するのである。

 洛陽のしがない居酒屋、その一角で二人は膝を突き合わせて事の次第を打ち合わせていた。周囲は全て配下の者が固めている、誰に聞き咎められることもない。

 張燕は李岳の提案を全て聞き終えると、杯を飲み干してから聞いた。

「取り分は?」

 張燕の言葉に李岳は興味はないとばかりに肩をすくめた。

「全部差し上げますよ。お金はいりません」

「豪儀だこと! ただ、アタシの耳にゃ金以外のもんをねだってるように聞こえるんだけどね」

 元より隠すつもりはない、と李岳は真正直に答えた。

「そのとおり。差し上げるのは不正蓄財だけです。皇室の財宝は返却してもらいます」

「その心は」

「奪い返した、という形で私の功績にします」

「……しばらく見ない間にふてぶてしくなったじゃないか」

 愉快愉快、と張燕は手にした杯を飲み干した。

 黒山賊を用いて皇帝の財宝を盗み出す。皇帝、宦官、諸侯、民草全ての視線が集まる閲兵式当日に起こる大事件だ、その場で功を立てたのなら何一つ異議の出ないまま出世することが叶うだろう。報酬は宦官が売官によってせっせと蓄えた金銭である、千万銭は下るまい。

 悪巧みを持ちかけられるのは二度目であるが、規模の桁が違う。張燕はしばらく見ない間にこの男に一体何があったのか、と目を瞠る思いであった。闇塩の売買が可愛らしく思えるほどの悪辣さである。

「天子様の覚えも目出度くお成りあそばして御出世が目当てかい?」

「はい」

「位は」

「宮廷を含む洛陽全域の治安維持の長――執金吾」

 執金吾とは実力を備えた治安維持部隊の筆頭であるが、名誉職でもある。なるほど、李広の子孫で戦は強い。腰を低くしての洛陽暮らしで御しやすしと皆には思われている。後は目に見える形での功績が必要、というわけだった。

 現職の執金吾は軟禁中とはいえこの少年の母、丁原である。彼女の釈放のためにここ数ヶ月尽力してきたことを張燕は知っている。彼女の身柄の自由と同時に職責から解任させ、その後任を自らが襲う――張燕には理解しがたいまどろっこしさであった。

「よくわからないわね。自分の母を蹴落としてまでその地位が大事なのかい? なぜ桂を追い落とそうとする」

 杯にチビリと口をつけながら、李岳は沈黙を守った。答える気はない、何より雄弁な所作だった。一筋縄ではいかない図太さに育った少年である、張燕も元より全てを聞きだせるとは思っていない。

 

 ――張燕の疑問は当然だった。どうして執金吾の地位に李岳がこだわるのか、理解できるはずもない。この先起こるであろう宮中の動乱に一目散に乗り込むために都合がよいと、説明したところでより一層理解できないであろう。李岳の沈黙もまた当然なのであった。

 

「……聞いても答えそうにないね。わかった。いい、それはいい。ただ一つだけ聞かせな。自分の母親の桂――丁原を一体どうするつもりなんだい」

 ここだけは譲れない、と張燕は食い下がった。丁原とは犬猿の仲である。李岳が生まれるずっと以前からの付き合いであり、一晩では語り尽くせぬ程の繋がりがあることを目の前の少年はどれだけ知っているか。

 心配しているわけではない。没落を望んでいるわけでもない。ただどうするつもりなのか、それだけは聞いておかなければならないと思った。

「母は……丁原は暗殺される可能性があります」

 ただごとではない。李岳の瞳には強い光が宿っていた。

「根拠は」

「匈奴の侵入を防いだ……この洛陽に潜む何者かの手引き、陰謀、企み……それを打ち砕いてしまったんです。恨みを買っている」

「それはアンタだって同じじゃないか」

「私は兵権は持っていませんよ、それにこの洛陽に来てから腰を低く低く暮らしてきました。最低限の仕事はしながら、ね。まぁ扱いやすく見えたでしょう」

 媚を売ったのも、世渡りが下手そうに見せたのも、浅はかな男に見せかけてきたのも、この男には一貫した目標があってのこと――その目的が一体何なのか、手段は、方法は――聞いてもやはり答えることはないだろう、それを見届けることさえできればよいと、張燕は質問を胸にしまいこんだ。

「……母さんは強すぎる。執金吾の地位、并州という盤石な地盤、掲げた功績、付き従う将兵……及ぼすことの出来る兵力は実際群を抜いています。この洛陽からの距離を考えれば涼州を地盤とする董卓よりも潜在的には脅威と考えるものもいるでしょう」

「敵のあたりはついているのかい?」

「――さしあたり、中常侍」

 恐怖や怯えといった感情から離れて久しい張燕だったが、いつ以来となるか、肌を怖気がふるった。この漢の頂点に位置する都の洛陽、皇帝の玉座を取り巻く宦官の最上位を戴いたものたちが匈奴の誘引を企み、この中原を乱そうと策動したというのか。

 そうであるならば確かに丁原は危険と言えた。入獄ののち、董卓預りという形で軟禁されてはいるが、李岳はその状態が最も安全だと考えたに違いない。確かに最大兵力を付き従える董卓をおいそれと向こうに回すことを決断できるものは少ない、その庇護下に置かれていれば身の安全の保証にはなる。

「……この洛陽にいる限り付け狙われ続ける。その前に失脚してもらう必要があるんです、より執金吾に相応しい人間が登場するという形で」

「それが……」

「李岳、というわけです」

 張燕は店の親父を呼んで酒のおかわりを頼んだ。小瓶を二つである。

「その後はどうするんだい、桂の話だよ」

 李岳は臆面もなく言い放った。

「……父の元へ戻ってもらうよう、説得するつもりです」

 途端、張燕は手にしていた杯を取り落とした。杯はコロコロと卓の上を皿にもたれかかるまで転がった。わずかに残っていた酒が卓にしみを作る。張燕は笑った。腹の底からしぼり出すような声で笑った。そして再び店の者を呼んだ――おおい、おおい! 親父! 小瓶二つじゃあ物足りねえ、かめごと持っておいでな!

「あの桂が隠居ってえわけかい!」

「……何がおかしいんですか」

「いやいや感心しただけさ、考えつきもしなかったよ! 親想いだねえ」

 腰の曲がった老店主がえっちらおっちら担いできた酒のかめに直接杯を突っ込んで、がぶがぶと口の端からこぼれるのも気にせず張燕は酒を飲んだ。一向に酔う様子もないまま思い出したようにケラケラと笑う。

「共白髪になるまで、か……ふふ、ふふふ」

「何がおかしいんですか」

 笑ってばかりの張燕に機嫌を損ねたのか、李岳は口を尖らせている。酒も一向に減っていない。どうして自分がこんなにも笑ってしまうのか、李岳には見当もつかないのだろう、それがなおさらおかしくてたまらないのだと、張燕は自分の呼吸が落ち着くのを待ってから告げた。

「李岳の坊や、アンタの悪い癖だ。大事な人を遠くに、遠くに置き去りにしようとする。今回だけじゃないだろう、察するにアンタ、今までも誰か大事な人を傷つけまいとどこかで捨ててきたんじゃないだろうね?」

 よくもまあ、図星を突かれたとそんなにもあからさまに表情に出して、今まで洛陽の海千山千を騙し通すことが出来たものだ、と、内心張燕はその素朴さを微笑ましく思った。

 誰かを守るために自分から遠ざける、誰かを守るために自分が最も危険な場所に立つ。この調子でいけばいつかこの男は一人になるだろう、孤立して路傍の石のように朽ち果てるだろう――張燕の心に予感めいたものがよぎった。

「アンタは賢い。目端も利く。けどその聡さでもって人を思うがままに動かそうとするのは悪い癖だ。命の危険、死の恐怖、切った張ったの危なっかしさ――それら全部を飲み込んで場に立つ者の覚悟を舐めちゃあいかん。人の道を勝手にずらそうとするのはとんでもない傲慢さよ」

「それでも、私は……」

「年の割に大人びてると思える時もあるのに、肝心なところではヒヨっ子だねえ――まぁいい。好きにしな。仕事は承った。出世でもなんでも好きにするがいいさ。アタシゃアタシのヤマをこなす。この張燕の名を洛陽にて轟かせるさ。それがアタシの生きる道なのだから」

 反論の糸口さえないというように、俯いてはもごもごと口を動かすだけの李岳に張燕は酒のおかわりをなみなみと注いだ。話すことがないのなら、お顔に引っ付いている口の仕事は一つしかないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 張燕とのやり取りを思い返して、李岳は馬上で口内に苦い味を思い返した。あの日は結局朝まで飲んで、うんざりする程の二日酔いに襲われた。しばらく酒はいらないと思えるほどの苦痛であった。

(張燕にはどうにも頭が上がらない……説教受けるみたいになっちゃうんだよな、いやはや。しかしまあ嫌なこと言ってくれるよ、恋の顔が浮かんで消えなかったんだからな……)

 とはいえ張燕の気持ちもわかる。李岳とて彼女の立場であれば説教の一つでもしてたしなめようとするだろう――そう、歴史さえ知らなければ。

 丁原がどれだけ切羽詰まった状況にあるか、李岳にはわからないのが事実だ。実は見向きもされていないのか、想像以上に切羽詰まっているのか……しかしどうしても脳裏から離れないのは史実における丁原の末路であった。

 并州刺史として歴史に登場し、洛陽において執金吾を拝命した『三国志』の『丁原』は、子飼いの将軍であった『呂布』によって討たれている。『董卓』にそそのかされたと歴史には書かれているがどこまで真実かは疑わしい。はっきりしていることは『丁原』は暗殺された、というそのことである。

 仮にも洛陽を守護する治安維持部隊の責任者である執金吾である、その地位を戴いたものが易易と暗殺されるのだ、尋常な事態ではない。その異常さ、突拍子のなさ――果たして今この世界の洛陽が、史実の中の『洛陽』よりもましなのかどうか、李岳には判別がつかなかった。事実丁原は捕縛され獄に繋がれたのである、恩赦によって自由の身になったのち職務に復帰すれば、再び陰謀の手が伸びてくるであろうことは想像に難くない。

 李岳が知る董卓が丁原を殺すようには思えない、やるならとっくに始末はつけているだろう。だが陰謀の糸を手繰るものが他にいないとは誰にも言えないのである。

(……暗闘は母さんには無理だ。根っからの武人だ、水が合わないなんてもんじゃない。だからって自分の職責を放棄するとも思えない……この手しかないんだ)

 雲ひとつ無い晴れ間を疾駆する。部隊は既に洛陽城外に出ており、砂塵を巻き上げて南南東に進撃を続けている。まるで自分に言い聞かせるような言葉を内心で繰り返しながら、李岳は手綱を緩めることなく黒狐を走らせた。

 先頭には張遼、続いて李岳。殿には赫昭が詰めている。中塁校尉麾下八百騎。并州兵より極秘裏に引きぬいた精鋭部隊である。風のような進軍速度、追撃を逃れ得るものはいないように見える。部隊は冬のわびしい田園を突っ切り直進を続けた。

 どれほど進んだか、やがて古よりこの地を潤し、時にその気まぐれであらゆるものを押し流す、人と物の行き交いを際限なく助けてくれる偉大な河――黄河が見えてきた。

「張燕はこのあたりから船に乗ったと思われる。用意周到な盗賊だ、既にかなり先に行っているかもしれない」

「どないするんや」

 張遼の質問に李岳は小首をかしげて答えた。

「あたりを捜索してみましょう」

 李岳の言葉に張遼はてきぱきと指示を出し始めた。部隊を三隊に分けて船着場を中心に上流と下流である。矢継ぎ早に声をかけては自らが先頭となって駈け出していった。さっさと済ませて酒を飲みたい、その欲望が背中からにじみ出ている。張遼は上流に、赫昭が下流に向かった。船着場は李岳が受け持った。

 おざなりの指示を下してから李岳は黒狐から降り、黄河の(ほとり)に立った。手筈では張燕はこのあたりに荷を置いて去ったはずだ。彼女らが乗り込んだ快速船は河の流れにまたがって、はるか彼方の下流に運び去られているであろう。

(自分で描いた絵面とはいえ、ひどい自作自演だな……まあでもこれで出世の足がかりになるのなら、上等上等)

 勝負の見えた戦い程つまらないものはない、李岳は束の間思う存分羽を伸ばすことにした。目前に横たわる雄大な流れ。乾季であるというのにこの水量――李岳は実は初めてこの大河を間近に見た。岸辺の岩に腰を下ろしてじっくりと流れを見やった。

 小石を拾って投げてみた。ポチャリと間抜けな音を立てて石は河に飲まれた。駆け通してきたので汗をかいてはいたが、冬の冷気は心地よいくらい、日差しの下で李岳は久しぶりに穏やかな時間を束の間味わった。

 よく考えてみれば誰にも見られることなく一人っきりになるのはいつ以来のことであっただろうか。雁門の北ではいつもこうした時を過ごしていた。山や野でのんびりと仰向けになっては昼寝をする時間――洛陽に来てからはそんな暇はほとんどなかった、毎日神経を張り詰めて生きていた。

 自覚はなかったが無意識のうちに疲れていたのだろう、誰にも見られていないということもあり肩や背中にぐったりとした疲労がのしかかってきた。大きく息を吸っては吐いた。のんびりとした時間だった。

 

 ――だから、その者の接近を李岳は許してしまった。

 

「失礼します……」

 その声に李岳はハッとして振り向いた。今まさに馬上から降り立った男は真っ青な顔で汗みずくになりながら、荒い呼吸を何とか静めようと深呼吸を何度も繰り返している。はぁ、と長いため息を吐いて男は李岳の隣に立ち、まるで瀕死の力を振り絞るかのようにしてかすかな笑顔を浮かべた。

 痩せた男だった。背は高いがひょろりとしており見るからに体力はなさそうである。疲れているようだが顔は上気せず、白を通り越して真っ青になっていた。袖から覗く腕は細くとても武人には見えない。どこかの文官か何かだろうか、と李岳は立ち上がりながら考えた。

「大丈夫ですか」

 男は恥ずかしそうに頭をかいては、いや面目ない、と言い訳をした。

「馬には慣れないのです。どうにも……その、体力もなく」

「ご無理なさらず、お座りになっては」

「いや、座ると次に立てるかどうか」

 流石にそれは冗談だろうと思ったが、男は至極曖昧な顔で首をかしげるのでひょっとしたら本気で言っているのかもしれない、と李岳は思った。自らが携えていた竹筒を差し出すと、男は初めは固辞したがやがておずおずと受け取り中の水を勢い良く飲みはじめた。相当にこたえているようで、しばらく飲んだ後にようやく血色がよくなってきた。

「面目次第もない……」

「いえ」

「あんまりに急いで駆けてきたのですが……いやはや、無理はよくない」

「お体を冷やすとよくないですよ、冷たい風はすぐに体温を奪う」

「なるほど……」

 半分ほど残した水筒を李岳に戻すと、男は途端に神妙な面持ちとなって汗を拭き始めた。体力によほど不安があるのだろう、至って真剣な様子がどこか滑稽さすら感じさせる。こけた頬、頬骨もわずかに浮いている。気だるげな表情ではあるが、瞳には意志の強さがあるように思えた。

「素晴らしい騎馬隊ですね」

「いえ」

「并州兵ですか、李岳将軍」

 半ばわかっていが、李岳ということを知ってこの男は近づいてきた。

「ご芳名をお伺いしても」

「田疇。字は子泰と申します」

「田疇どのは何用でこんなところにまで」

「李岳将軍の勇姿をこの目で直接拝見したいと思い……」

 そう言うと田疇は組んだ手を掲げて礼をした。訝しげな思いではあったが、内心を吐露することなく李岳は礼を返した。

 田疇は意外なまでに饒舌であった。雁門での活躍、洛陽での仕事ぶり、寝物語で聞かされた李広と李陵の話、自分が生きているうちにその子孫に会えるとは夢にも思わなかった、張燕の逃げ足がこれほどでなければ活躍ぶりをこの目で見ることが出来たというのに――

 朗らかで、無難、他愛もないが、しかし針の筵のような会話をどれほど続けだろう、やがて一人の兵卒が駆け足でやってくると、張燕が荷の一部を置き捨てていったことを報告した。

 輜重隊を伴ってはいないので近くの村で荷車を買い求めてくること、すぐに行動に移れるように荷支度をすることなどを命じた。船着場の側に打ち捨てられていた荷は装いも豪華な代物で、ひとめで皇室のそれとわかる。

「楽しいお話でしたが、お時間のようですね」

「こちらこそ」

「御出世、おめでとうございます」

「いや、そのような……」

「李岳どのの迅速な行動が、一部とはいえ盗まれた荷の奪還を成したのです。立派な功績でありましょう」

 誉めそやす田疇に頭を下げて、李岳は黒狐にまたがった。

「またいつかお会いできるでしょうか」

 李岳の言葉に田疇は小さく頷いた。

「ええ、近いうちにきっと」

 にこりと笑うと、黒狐の胴をももで締めあげた。いななきを上げて黒狐は走り始める。田疇が追いかけてくる様子はない。しばらくそうして走り、姿がようやく見えなくなったのを確かめてから李岳は手の汗を拭った。背にはびっしりと鳥肌が立っている。

 穏やかであった、憂鬱そうだが優しげでもあった、武術の腕が立つわけでもないだろう。それでも李岳は死を垣間見、殺人を決意しかけていた。逡巡と当惑の狭間で刃傷沙汰が起こらなかったというのは僥倖という他ない。

 確信のない悪寒に苛まれながら、李岳は集合し整列している部隊の元へと急いだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 去りゆく李岳の姿を見送りながら、田疇は魂までこぼれ出てしまうのではないかという程の大きなため息を吐いた。

 容易く殺せた。手の中で握り締められたままの丸薬を地に放り捨てながら田疇は思った。だが殺せなかった。竹筒を返すときに一粒放り込めばそれで始末はついたはずだったというのに――

 人懐こい笑顔、理知に輝く瞳、そして怯え……遠目に見たことはあったし、於夫羅を始め彼を知る多くの者からその為人を聞いて場に臨んだ。けれども田疇が受けてきた説明のそのどれもに李岳は当てはまらなかった。臆病、冷酷、陳腐、惰弱……そのどれとも違う、何かが違うと思わせるような不思議な人物だった。幼さと透徹、沈着と闊達、そういった相反するものが同居しているような、二つの魂が混在しているような奇妙な印象を田疇は李岳に抱いた。

 田疇が関わった企てを二度までも阻止し、今再び眼前において目障りな動きを始めようとしている。長年関わってきた遠大な計画の成就のためには一縷の躊躇もなく排除すべきであったのかもしれない。事実、場を抜けだして張燕の追撃を開始した李岳の背を追いながら、田疇は暗殺を決意していた。

「いつかまた、ですか……」

 敵か味方かわからない、無自覚ではあるが、そう考えたがために自分の身体は動かなかったのだろうと田疇は考えた。幽州でも、雁門でも味わうことのなかった敗北の苦味が田疇の口内に広がった。意外に悪くない。渋く、歯軋りしてしまうような味だが、決して悪くない。今ここで毒殺に及んでいたのであれば、より一層不快な勝利の旨みが満ち満ちていたであろうから――

 味方になってもらえればいい、と思った。殺さずに済めば――輝かしい蒼天に照光を受けながら、田疇は憂鬱極まる表情で俯き苦渋を噛み締めた。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。