真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十八話 閲兵式 その一

 酒と香水、そして淫らな香りが充満した部屋の中で、廖化は呆れたように溜息を吐いた。

「破目、外しすぎでしょう」

 部屋の主は寝床の中からむくりと起き上がると、隣で寝息を立てたままの娘たちにそっと衣をかぶせた。その一部始終を何とか見まいと廖化はわずかにあさっての方を向いている。

「堅いこたぁいいっこなし。久方ぶりの洛陽なんだ。遊べるときに遊んどかなきゃ損ってもんだろう?」

 さんざっぱら飲んだ後、女楼に入っては片っ端から女を買い漁って可愛がるのが張燕のいつもの遊びだった。張燕はいつでもどこでも、春を売って生計を立てる女を買い上げては一晩慰めるように抱く。そして本人が望むのであれば身元を引き受けて黒山へと連れて行くのだ。

 畑を耕し獣を飼い、米を挽いて柿を干す。天下の洛陽で叶わぬ暮らしが盗賊の砦で叶うといってもおよそ誰も信じない。誰もが初めは半信半疑で、またぞろ売り飛ばされるのではないかと戦々恐々する日々がおよそ一月は続くが、やがて慣れれば何も考えずに日々の生活に汗みずくになる。苦労はあっても侮辱はない、人間らしい誇りのある暮らしを過ごすことができる稀有な場所の一つが黒山だった。

 だが今回は仕事をしに洛陽へとやってきている。女を連れて帰ることは出来ないが、その分多目の金を握らせているだろうということを廖化は知っていた。

「さて、じゃあそろそろ打ち込むかい」

 寝ぼけ眼をこすりあげて張燕は立ち上がった。派手な(つむぎ)が翻り裏地の黒が表になる。黒地に赤で燕と書く、天に唾する大盗賊の仕事着がこれだった。

 間借りした『永家』名義の屋敷は広く立派で、晋陽の商人が洛陽で新たな商売を進めるための仮の住まいと聞けば誰も疑問を挟むまいが、その正体は洛陽における諜報、工作などを行う黒山賊の拠点なのだった。

 全ては李岳の手引きによって今夏より整えられた。活動資金は李岳の得た賄賂や扶持であり、常日頃は副頭目の廖化がまとめ上げているのだが、大仕事ということも相まって張燕が直々に陣頭指揮を取ることとなった。階下に下りていくと既に手下が控え揃っていた。洛陽の流行の最先端を取り入れた見事な作りの屋敷ではあるが、そこに集う者たちの素性はまったくそぐわない。

 百戦錬磨の黒山賊、その中でも選りすぐりの手練が五十ばかり出張ってきていた。李岳より持ち込まれた一世一代の大仕事……皆その瞳は爛々と輝き、天下を轟かせる(かぶ)き仕事を今か今かと待ち望んでいた。

 張燕はニヤリと笑って宣言した。

「さぁ行くよ――天子のケツの毛まで盗んでやる」

 下卑た笑いが鬨の声代わりに広がった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 天は快晴、風もなく! 洛陽の上空は大漢の永劫を寿くかのような蒼天であり、閲兵式に参列したほとんどの者たちが感嘆の溜息で鼻先を白く曇らせた。眼下、居並ぶ西園軍の威容は見事の一語に尽き、天子の御威光未だ衰えずと思わせるには十分な程の豪勢さである。

 今は中軍校尉である袁紹が黄金色の武装に身を包んだ兵を率いて皇帝の眼前を進んでいる。金色に輝く美しい巻き髪だが、その表情は緊張で常になく固くなっており頬には赤みが差していた。漢の頂点でありこの大地の絶対者――劉漢の旗がはためく真下、そこに御座する皇帝の前を進み行くのだ、袁紹の内心には三公を排出し続けてきた名門袁家の領袖に相応しき栄誉にあやかったという誇り高き思いで一杯なのかもしれなかった。

 皇帝は天幕と御簾の奥に控えており顔を誰にも見ることは叶わないが、直視すれば目を焼かれ死んでしまうという龍顔なのである、天子の配慮と皆が皆考えていた。

 岳は宮中の広間を練り歩く西園軍の行軍を最前の特等席で拝観していた。行軍はこのまま洛陽の町中を練り歩くのであるが、辻々ごとで喝采と歓声、声援が飛び交っている。

 始点はここ宮城の大広場。呼び出しと名乗り、決意の奏上を述べた後に天下を守護せよという詔勅を賜るという儀式が行われている。確かに中々の見物であり、あと半日もこうして見続けなければいけないことと、隣に董卓が座っていることを除けば李岳に不満はなかった。

「あ、あの……」

 耐えろ、と思っても顔が引きつってしまう――李岳は自分で自分を褒め殺してしまいたくなるような鉄の意志でもって、何とか笑顔を浮かべて応答した。

「はい、なんでしょう」

「いえ、その……お寒くありませんか? お茶……お淹れしましょうか?」

 

 ――董卓に茶をつがせる!

 

 思わず李岳はのけぞり倒れかけた。暴れだしてしまいそうになる表情筋をねじ伏せることに何とか成功したが、声はわずかに裏返ってしまった。

「お構いなく……」

「そうですか……あ、じゃあ、なにか……お菓子でも」

「本当にお構いなく」

「えと、えと……」

 諸侯からはどのように見えるだろう、あの最近名を上げ始めた飛将軍が天子の雄姿を拝謁するのに女児を側に侍らせる増上慢と映るだろうか、あるいは、董卓と李岳は世間の評判とは真逆に実際のところ後者がより力を持っており董卓の庇護下にいるように見えるのは擬態ではないのか――どちらにしろうんざりするような売名の仕方である。皆が西園軍のお披露目に夢中になってこちらなど見向きもしないことを願う他ない。

(『三国志』一の大悪党が……まさかだよな。何がきても驚くことはないと覚悟していたけど……無理)

 天子を廃し、傀儡を据え、臣従せぬ者は殺し、戯れに殺し、税を上げ、悪銭を蔓延(はびこ)らせ、洛陽を焼き、民を苦しめ天下を狂わせた悪名の権化とも言える董卓――中華の歴史においても有数の暴虐さを発揮した男は、王允の策略に乗せられた呂布の裏切りによって死を迎えるのであるが、史実とは相反した眼前の『董卓』に李岳ははじめ開いた口が塞がらない思いであった。

 丁原は入洛前「董卓は悪いやつではない」と言っていたが、それは嘘や冗談などではなく本当のことなのだったと、李岳は半信半疑であった己を恥じた。

 李岳の素っ気無い態度に俯いてしまった董卓の側には、いつも控えている賈駆の姿はない。賈駆の位階、序列ではこの場への列席を許されることはない。名だたる名士に将軍、新進気鋭の太守や令ばかりが肩を並べており、李岳が出席していることでさえも破格のもてなしと言えるのだ。賈駆は公式の場では董卓の私兵扱いしかされないのである。

 涼州でその名を轟かせ、先の乱でも武名を挙げた豪族の雄である董卓――だが実際に軍権を揮っているのは彼女に付き従う配下の中で智謀の士と名高い賈駆であり、李岳の隣に座る小柄な少女が軍事になど携わることなど生を受けて一度たりともなかったに違いない――李岳は断言できた。

 権力闘争と陰謀渦巻く暗闘の舞台である洛陽において、この少女は賈駆に手を引かれておっかなびっくり歩いて来たのである。政治的洞察力がないとは言わないが、いざという時に物を言う決断力などは到底持ち合わせていそうにない。酒家で給仕をしていてもおかしくないような娘なのである。

(賈駆は今の状況にやきもきしてるだろうな。軍権を手に入れたはいいものの、朝廷での発言力がないからいいように使われかねない。それならいっそ兵力なんかない方がいいんだけど、地方出身の豪族には庇護者がいないという事実が焦らせているのか。董卓への入れ込みようは半端じゃないから……あの二人の関係も史実だけではわからないことだったなあ、本当に『三国志』は参考程度にしておいた方がいいみたいだ)

 戦乱の予感が賈駆の選択を導いたのだろう、と岳は考えた。涼州へ戻ったところで豪族として担ぎ上げられることに変わりはない。馬一族や韓遂による乱が再び起きた場合、その矢面に立たされることになる。

 圧倒的な力を得る――賈駆はいくつかある選択肢の中で、董卓を守るための最善が鉄血の道なのだと思い定めたに違いない。悲しい道だった。そして不毛でもある。天上へと続くかのように見える登坂の隘路(あいろ)を、実は奈落に至る道とも知らずに歩んでいるような危うさだった。

(大きな事件が史実のとおりに進むのならば……全土から董卓討つべしで群雄が殺到するわけだからな……)

 恨みはない、哀れみもある。だが李岳のうちに同情はなかった。お陰で動きやすくなったとさえ思っている。無駄に多い兵力は敵をも増やす。虎の子の并州兵、みすみす渡すのは惜しいが維持費もただではない。取り潰されるくらいならば今のうちに董卓に養ってもらっても構うまい、という目論見であった。

 兵一人一人とはあの雁門の戦いからこちら、心が通じあっているとさえ言える程に信頼関係を築いている、いざとなったときに取り返すことは不可能ではないだろう。

 誰もが誰かを利用しあっている。丁原を取り戻し、裏で糸を引いていた者を見つける。その為には手段を選ぶ必要を一切感じることはなかった。

 閲兵式は粛々と進んでいる。そろそろ頃合いである、李岳は立ち上がった。

「少し席を外します」

「……どちらへ?」

 李岳の声に怯えたような表情を見せた董卓。洛陽における陰謀の応酬は身に沁みて知っているのだろう。怯える様子は年相応の娘にしか見えない……ふと手を伸ばして頭を撫でてやりたくなるような、怯えた仔犬のような愛らしさがあって李岳は一瞬妙な気分になった。それを振り払って席を立つ。

「野暮用です。ご心配なく」

「そうですか……行ってらっしゃい」

 小首をかしげて見送る董卓、その姿に李岳は一抹の罪悪感を覚えたが――何かから目を背けるように後ろを向いた。人目を盗んでは群衆からわずかに外れた方へ向かう。路地をいくつも回るとかねてより用意していた騎馬隊が李岳を待ち受けていた。先頭にいるのは張遼である。

「準備はどう」

 李岳の言葉に張遼は頬をふくらませた。

「なぁあにが、準備はどう、や! 散々待たせよって、エエかげんにしいや! こんな祭りの日になんでうちが待機やねん! 酒飲みたい!」

 皇帝の晴れの日も張遼にとって『飲める日』の一つでしかない。

「まぁまぁ、この後存分に飲ませてあげるから」

「ほんまやで! 遠慮せんとよばれるからな!」

「うん、いくらでも」

「……んで、そろそろ言うたらどや。何を企んでんねん」

 珍しく不安げな表情を見せた張遼に、李岳は隠していた計画を耳打ちした。その大胆さ、不遜さ、馬鹿馬鹿しさに、張遼は彼女らしい素直さで驚いた――危うく馬上から転げ落ちかけたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 豪華極まる金色の部隊が姿を消すと、続いて曹操の番となった。率いる兵卒の鎧兜の色は黒で統一している。質実剛健さこそ軍人の本懐とばかりの出で立ちで、実際行進の規律正しさは他を凌駕していると自負していた。

 嘗め回すように見てくる大将軍何進、その隣に控えている西園軍最高指令官の蹇碩はまるで何も興味がないかのような瞳で周囲を見渡していた。高い背、細い腰、微動だにしない唇。これと言って特徴のない男だが、その細く猛禽のような瞳には武断の者特有のぎらついた輝きが潜んでいるように思われた。剣の達人として名高い、諸国放浪の果てに極めた撃剣の腕は、いまだ負けなしという噂を聞いたことがある。

(いつまでも御されるわけにはいかない……けれど宦官といって侮るわけにはいかないわね)

 曹操は続いて皇帝の前にさしかかった。側に控え、皇帝の玉声を代わりに伝える侍中、(エン)州刺史・劉岱の声が響いた。

「下軍校尉、曹孟徳殿――」

「はっ」

「漢の天下の騒乱を治め、天子に捧げることをここに命ずる」

 ニヤニヤとした童顔に、不意に曹操は抑えがたい程の怒りと苛立ちを覚えたが、それをぐっと堪えて膝をついて頭を垂れた。

「この曹孟徳、必ずや陛下の宸襟を安んじ奉り、その御世を御守り申し上げることを誓いまする」

 天子の眼前、控え居並ぶ宦官たちは総勢二千名を超える。曹操の返答を待って、彼らも一斉に頭を垂れて祝辞を述べた。

 

 ――天子の御世に満ちる、永久(とこしえ)の光を寿きまする。

 

 洛陽の辻々から喚声が上がり、その言葉を繰り返し繰り返し誰もが謳った。蒼天の真下、洛陽にどれほどの人がひしめきあっているのだろう。人々の声は波動となり中華全土に至るのではないかと思えるほどだった。いや、事実波及するのだ。『皇帝、無上将軍を冠す』の報は、やがて人づてに十三州全てに届くだろう。

 豪族、官僚、外戚、宦官――その全ての(くびき)から脱さんと欲した天子悲願の西園軍は、抗うことさえ許さぬ堂々振り。権威とはまさにこういうものだ。まるでそういわんばかりの壮大な光景であった。

(張子の虎の西園軍とはいえ……)

 自らが覇者になったとき、こうして直属の武力を保持することは必要不可欠だろうということを曹操は実感していた。だがそれには順序がある。圧倒的な力でもって居並ぶ敵を打ち倒して初めて力は正当性を得るのだ。財と権威を笠に着ての武力などやはり一枚岩とは言いがたい。西園軍の武将の内のどれほどが真の忠誠を誓っていると言えるだろうか――

 曹操が内心、そのような不穏当なことを考えながら場を辞し、続く将が自らの兵のお目見えを行おうとしたとき、突然壮絶な爆発音があたりに轟いた。悲鳴と怒号が行き交う。

「何事だ!」

 緊迫した空気が辺りに満ちる。曹操は夏侯姉妹を叱咤して配下の兵卒の混乱を収めた。だが状況が定まらない。宦官や官僚が慌てふためき逃げ出そうとすることを蹇碩が身体に似合わぬ大きな怒声で抑えつけた。斥候でも何でも放って状況を確かめたかったが、権限が曖昧だった。目の前では飛び出そうとした袁紹がやはり蹇碩によって制止させられている。

「八校尉は集え。混乱は許さぬ。陛下の御身をご守護する。円陣を組め」

「このわたくしは司隷校尉でしてよ! 騒乱の鎮圧はわたくしの責務ですわ!」

「命令権は私にある」

 皇帝から直々に剣を預かっている、その権限は果てしなく強大だった。袁紹が悔しげに唇を噛んでいるが、ここで命令違反し飛び出してしまえば反逆罪に問われかねない。彼女の忸怩(じくじ)たる思いを曹操はおよそ悟った。

 皇帝を中心に西園軍が円陣を張る。緊張感は常の戦場でさえありえない程のもので、皆が皆あり得るかあり得ぬかもわからぬ敵襲に備えて唾を飲んでいる。

 西園軍は一応の落ち着きを見せたが、周囲の文官たちはいまだあわてふためいており、武官たちですら我先に飛び出そうとして混乱していた。蹇碩と何進の決定により、この場にいる者全ての独断専行が禁じられた。

 蹇碩が矢継ぎ早に指示を出す。状況を把握するために斥候が何十人と駆け出していった。情報は逐一届けられるが決定的な知らせはもどかしいまでに届かない。半分の部隊だけでも城外に展開してはどうか、西園軍の部隊ではなくそれぞれの手勢を出撃させてはどうか――袁紹と曹操の献策は全て却下されてしまった。皇帝守護を最優先に掲げる蹇碩の意向は揺るがない。

 憤懣やるかたない、といった風の袁紹。曹操に近寄ってくると怒気もあらわに愚痴をこぼした。

「まったく、何を考えているのかしら! このままではみすみす賊を逃がすことになってしまいますわ」

「どこまで行っても宦官なのよ。儒の精神に縛られている。皇帝の身体を守ることだけに腐心している」

「くだらないですわねまったく!」

 人目を盗んで言葉を交わす曹操と袁紹だったが身動きが取れないことには変わりがない。洛陽の市民の多くは巻き添えを食うまいと自宅に引きこもった、西園軍のお披露目の壮麗さは雲散霧消してしまい祝事の華やかな雰囲気はもはやどこにもない、閑散としたものである。

 もどかしい時間が過ぎた。四半刻の後、事の真相に近いと思われる情報が届けられた。西園軍の武将と主だった重鎮たちが円陣の中心部分に呼び出された。蹇碩と何進を中心にそうそうたる顔ぶれであるが、誰も彼もが身動き一つ取れない滑稽な無様さを晒してばかりであり、そしてそれは己自身も含まれるのだと考え曹操は苦笑した。

「何か面白いことでもおありかな、曹孟徳どの」

 蹇碩が不気味な程の無表情で聞いてきた。

「そんなことありはしないわ。さて、我らを呼んだということは確定情報が入ったのでしょう、お聞かせ願いたいわね」

「うむ。出よ」

 蹇碩の言葉に一人の斥候が前に出て、頭を垂れて述べ始めた。

「騒乱の首魁は盗賊張燕と思われます。宝物殿に忍び込み金銀財宝を略奪、またここに居並ぶ方々のお屋敷に侵入しその財を掠め取ったとのことです」

 そういうと男は一枚の紙を差し出した。『燕』と朱書きされた紙は黒山を根拠地に据える大盗賊・張燕の襲来を示す何より雄弁な証拠であった。

 怒りの声があちらこちらで巻き起こった。色を失う宦官に官僚たちだが、その者たちは誰もが自らが不正に蓄財した金や宝物を心配しているのであろう、やはり滑稽に過ぎる集まりのようだった。その中でも平時と変わらないのは曹操を除けば拠点を洛陽から移した袁紹や一部の諸侯、そして蹇碩くらいのものであった。西園軍の頂点である上軍校尉は金や財宝などどうでもよいと鼻を鳴らした。

 だが張燕――意外な人物だと曹操は訝しんだ。かねてより洛陽を武力で窺わんと幾度か兵を挙げたことはあるが、少数でもって宝物のみを掠め取っていくとはらしくない。その目的と意図はどこにあるというのか。

「陛下の御命を狙ったわけではないのだな」

 意外なまでのほっとした顔を見せた蹇碩だったが、すぐに顔を引き締めた。斥候から戻った兵卒はさらに言葉を続ける。

「現在、場に居合わせた李信達殿が張燕を追撃中」

 あたりを再びどよめきが支配した。命令違反だ、厳刑だ、と声が上がるが、張燕の現行犯をその目で見咎めたために緊急出動したとのことである。独断専行の禁は李岳にまで届いてはいなかった、責めは受けることはない。

「手勢は幾人連れている」

「数百、とのことですが……」

 はっきりした数は戻るまではわからないだろう。だが精鋭として聞こえる李岳の麾下である。迅速な働きを見せるとして名高い騎馬隊が共にあるのであれば、思わぬ戦果を上げて戻ってこないとも限らない。そうなれば李岳の軍功は皇帝の覚えも目出度く庶民の喝采も一身に、というわけだ。

 できすぎている、と曹操は思った。この場の内でどれだけの人数が同じように感じているかは分からないが、曹操は李岳が場に居合わせたことを僥倖(ぎょうこう)だとは考えなかった。この世に満ちる幸運などというものは、そのほとんどは幸運に見せかけた意図なのだ――だが証拠もなく迂闊なことは言えない。曹操は心赴くままに怒り、嫉妬しては歯噛みする袁紹をよそにじっと物思いに耽った。

 情報をあらかた聴き終えた蹇碩は踵を返すと皇帝の元へ向かい、報告をしに御簾の奥へと消えた。再びもどかしい時間が過ぎる。袁紹がイライラし始めその豊かな髪を意味もなく何度も手入れし始めた頃、蹇碩は再び姿を現し、緊急配備の解除、通常警戒への移行、西園軍の披露の続行を宣言した。

 異常事態が終了したことの宣言ではあるが、自らの財物の心配に汲々としている宦官、官僚たちは口を極めて援軍を出すべきだと争ったが、蹇碩のひと睨みでそれも収まった。

 だが、それで収まらなかったのが一人いた。袁紹であった。

「ご進言お許しくださいませ!」

「申せ」

 蹇碩は興味のなさそうに答えたが、袁紹は怯むことなく言葉を続けた。

「西園軍の威光を天下に知らしめるには今このときを置いて他にはありませんわ。天子様――無上将軍御自ら進軍遊ばされ、その御威容を以って賊の悪行を鎮撫されるべきです! 露払いは名門袁家の頭領にして司隷校尉、そしてこの西園軍の中核を担う中軍校尉であるこの袁本初が務めますわ!」

 そうだ、そうすべきだ。今すぐ援軍を! ――袁紹の言葉に何人もの官僚や血気盛んな武将が続いた。だが曹操はそれに便乗せず、一歩引いて場の趨勢を見極めようとした。あまりにも危険だからである。

 蹇碩は袁紹の懸命な訴えを、まるで小鳥の囀りを聞いたかのような興味のなさで却下した。

「ならぬ」

「なぜに! 盗賊の跋扈を許してこの洛陽の安全が守れるというのですか! この西園軍の価値は」

「――控えよ。天子様にご意見申し上げる気か」

 ハッとして、袁紹は悔しげに唇を噛んでは一歩引いた。危ういところだったろう、あと一言余計なことを口にしていれば首を刎ねられていたとしてもおかしくはない。

「……申し訳ありません。差し出口でございました」

 血が滲むのではないか、そう思わせるほどに袁紹は唇を強く噛んで後ろに下がった。彼女を、二人の部下が慌てて抱きとめる。確か顔良と文醜という名の二人であった。そしてその瞬間を見計らったかのように再び斥候が現れ、大きな声で報告を述べた――李信達どの、賊より財宝を奪還し只今帰参!


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