真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十六話 誰が為の位

 少女は頭を下げて自らの主に事の次第を伝えた。主は無表情に窓の外を眺めるだけで、一向に返事をよこそうとはしない。少女は耐えた。主が心中では推し量れないほどの苦悩に苛まれていることを重々承知しているが故に、何も言上することが出来ずただじっと瞳を閉じている他ない。

「余は」

 声は震えていた。少女の瞳に涙が滲んだ。代わりに泣くことが臣下の務めとばかりに。

「余は皇帝にならねばならぬ」

「殿下……」

 今上皇帝が何者かの言いなりのままに勅を遺したという情報を得た。その相手は天子の信頼厚き宦官・蹇碩。未だ存命中に長子ではなく異父妹に帝位を譲るという言葉を遺すとは――まるで火種を撒いて風を送るかの如き所業。常よりその精神に疑問を感じていた少女でさえもおぞましき陰謀の香りを嗅がずにはいられなかった。

「蹇碩を討て……勅を出させてはならぬ」

「はい……ですが……誰に」

 蹇碩は皇帝直属の常備軍『西園八校尉』の筆頭にして剣技の達人である。生半可な使い手では返り討ちになるのが関の山。ましてや大々的に動ける立場でもない。密かに接触ができ腕もたつ、そしてなにより信頼がおける者――

「そなたがいつも言うておったあの者ならば……余はあの者がよい」

 少女は自らの主が挙げた名に驚き、困惑した。その指名の正しさに納得しながらも、心では肯んじがたい。

 だが首を振るわけにもいかなかった。少女は頭を垂れ、委細取り仕切る旨を伝えた。

 季節はずれの雪が降る洛陽――二人は揃って窓の外を見た。牡丹の華が咲いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姓は賈、名は駆。字は文和。涼州武威の生まれ。

 その頃の思い出はあるようでない。どこまでも続くかと思えるような草原、不意に途切れたその先には永遠を垣間見る砂漠、ふとした拍子に現れる岩くれ、乾燥した風、馬のいななき、そして一人の少女の笑顔――

 涼州では(テイ)族※をはじめ多くの部族が混ざり合い、隣りあわせ、手を取り合いながらも時に争って生きてきた。何の天命か、そのような逞しくも雑多な人々を統べる地方の豪族の娘として生まれ育った少女、董卓。賈駆は彼女を守るように、寄り添うように生きてきた。儚く可憐な、まだ咲きもしない白い牡丹の蕾のような女の子……

 いつか咲きほころぶであろうその華、ただ健やかに育ちゆく様を見守り続けることが出来ると思っていた漠然としたあどけない時代は、けれど賈駆の思惑を嘲笑うように潰えた。風雲急を告げて久しい戦国の業風は淡い月光さえもかき消さんと叢雲を連れて遠き涼州にまで吹きすさんだ。

 権力闘争の嵐。破れば死なざるを得ない苛烈な野火は今まさに董卓の運命を焼きつくさんとしていた。それを座して見ているのか、彼女の無残な骸の前にただ何も出来なかったと悔いて涙を流すだけで満足なのか! 否! ――賈駆は決意した。この華を手折らせてなるものか、自分が守らなければ!

 か細い腕である。腕力で彼女を守ることは出来るはずもない。古今東西の兵法書、歴史書などを読み漁り、砂が水を吸うようにその教えを頭脳に叩き込んできた。対匈奴戦、対馬一族戦、対黄巾賊戦――御輿として担ぎ上げられ前線に送り込まれてしまった董卓の行く先行く先で賈駆は華々しい勝利を上げ、自らの主に捧げた。いつか誰も手出し出来なくなるほどに強くなれば、燦々たる月明かりの下で何に脅かされることもなくその美しい花びらを輝かせることが出来ると信じて。

 功名はやがて出世をもたらし、同時に容易く逃げるを許さぬ重責までをも二人に抱えさせた。

 一度勝てば二度目を期待され、三度目は求められ、四度目は勝って当たり前とされた。気づいたときには山のような死体を積み上げて作った軍功の(きざはし)を上りつめ、その名は天下において知る人ぞ知る、あるいは知らぬはもぐりばかりとさえ囁かれるようになった。だがいつまで経っても董卓の顔は晴れず、賈駆の気苦労は終わらない。

 

 ――遠くまで来た。けれどどうしてこんなことに。

 

 夢うつつの中、賈駆はとりとめのない思いにとり憑かれていた己を、こめかみを揉んで覚醒させた。

(昔のことを思い出すなんて)

 賈駆は身じろぎすると体を起こした。徹夜明けにそのまま机に向かっていたが、途中から記憶が曖昧に濁っている。

 いつの間に突っ伏して寝てしまっていたのやら覚えがない。賈駆は腫れぼったい眼をこすって外から漏れ聞こえてくる雀の鳴き声に耳を傾けた。まばゆいまでの陽の光は、整理の行き届いていない部屋を責めるように差し込んでいる。ひどい顔をしているだろう、節々の痛みをこらえて水場で顔を洗おうと賈駆は腰を上げた。

 宮殿からわずかに離れた西方に賈駆の居宅はある。質素と言う他ない。涼州の雄と恐れられる董卓の懐刀として名を知られているが、官位は董卓付きの校尉でしかなく、分相応の屋敷を与えられていると賈駆に不満はなかった。一年のほとんどを主である董卓の屋敷にて寝起きを共にしていたが、仕事に没頭するときたまにこうして掃除さえ行き届いていない自宅を利用する。

 冬も間近で吐き出す息は白く、彼女のかける眼鏡を度々曇らせた。極度の近眼のために日々の生活でさえ苦労を催していた賈駆、主であると同時に友でもある董卓はそんな彼女を慮って八方手を尽くしてこの逸品を贈った。適度に歪ませた硝子細工は見事の一語に尽きる。一体どれほどの値が張るものなのか賈駆は未だに調べることができていない。

 水汲み場で背筋が震えるほどの冷水で顔を洗えば、ぼんやりと靄がかかったような思考も次第に晴れてきた。髪を結い直して簡単な食事を取り、食後には白湯を口にする。よく言えば清貧であるが、人によれば粗末と言えるような日々の暮らし――だが荒涼とした環境で育った彼女にしてみれば何一つ不自由などなかった。

 食事を済ませて再び書斎の扉を開けて腰を下ろし、(うずたか)く積み上げられた眼前の竹簡に目をやってため息をついた。心待ちにしていた知らせは今日届くはずである。それを待つ間書類仕事に没頭しようと決めた。

 そのまま昼過ぎまで集中して仕事に取り組むことができた。おかげで泰山にも等しかった書類の山は、なんとかそこらの岩山程度にはなっていた。新たに并州牧に就任したために下すべき決裁は倍に増え、さらに涼州からの知らせはもちろん、宮中での情報工作や全土から届く情報の全てを合わせれば膨大な量になる。その全てが賈駆に届く。一日のほとんどをそれらの精査に費やしてしまう。

 昨日の夕飯に食べきれずに残した饅頭を蒸しなおして、昼食の代わりにつまみながらさらに夕方まで粘った。岩山も付き崩れ、とうとう机の表面が顔を出した。朝とは反対側の格子から今度は夕焼けの明かりが差し込んできている。一日がわけもわからぬ内に終わろうとしている、しかしそれもいつものこと――

 そのとき呼び声がした。賈駆はがばっと顔を上げると玄関に急ぎ向かった。外にはいつも連絡係に使っている見慣れた男が立っており、黙って竹簡を差し出してきた。居間に戻って封を切る。賈駆は溜息をこぼして外出の支度を整えはじめた。

 夕方に会う約束だったが知らせが届いた以上急ぎ向かわねばなるまい、少し早過ぎるくらいだが気にはしないだろう。

 わずかばかりの支度を終えて賈駆は屋敷を後にした。輿や車などもちろんなく、徒歩にて通りを行く。洛陽の繁華街は食材を買い求める者、帰宅を急ぐ者、一杯飲みに行こうとする足取り軽い者などでごった返しており、それら全てが橙色の夕餉の煙に包まれている。

 それほど歩くこともなく目的の屋敷にたどり着くことが出来た。連日、来客で騒がしい李岳の屋敷は今夜も大賑わいだろうが、日の明るいうちはまだ閑散としており隣家とさして変わりはなかった。

「御免」

 (おとな)いにしばらく待つと一人の少女が出てきた。董卓よりも低いのではないか思うほどの小柄な身長で――事実子供なのだろう、歳相応の快活さが節々に表れている――浅葱色の髪が元気よく揺れていた。目深に被った帽子の奥で、こちらを訝しげに覗いている。

「どちらさまですか?」

 こんな娘がいただろうか、最近雇った女中とか侍女だろうか。そんなことをぼんやりと考えながら賈駆は答えた。

「賈文和。主人の李信達殿とは約束していたはず」

「おおー! 冬至殿から仰せつかっておりますぞ!」

 少女はきびすを返すとズンズンと威勢よく歩いて屋敷の奥へ案内した。賈駆はその後に付き従いながら目の前の少女は一体何者だろうと考えた。真名を交わし合っているということは、家族か心を分け合った臣下か。どうも気に留めてしまうような存在感があった。

 しばらく行くと向こうから一人の男が歩いてくるのが見えた。李岳ではない、はるかに高い身長で不穏な威圧感がある。頬にうっすらと切り傷が癒えたような痣がある。男は傷痕の剣呑さに似合わない柔和な表情を浮かべて愛想よくお辞儀をした。

「廖化殿! もう行かれるのでありますか?」

「急ぐんでね。じゃあな、陳宮の嬢ちゃん――あいや御免」

「いえ」

 男は振り返らずに外の戸に歩いていった。伊達に涼州の懐刀とは言われていない、賈駆は通り過ぎていった男から漏れ出すただならぬ雰囲気を見過ごすことなく感じとっていた。

 陳宮という名の少女にそのまま奥の間まで通された。李岳は椅子に腰を下ろして山ほどの竹簡に埋もれていたが、その光景が他人事のようにようには思えず、不覚にも賈駆は苦笑いを浮かべてしまった。賈駆の存在に気づいた李岳は、おっ、と少し驚いたような顔をして礼を取った。

「いらっしゃいませ。お早いお着きで――散らかってましてお恥ずかしい」

「……どうも」

 賈駆はわずかだけ頭を下げると勧められた椅子に腰を下ろした。

「それでは冬至殿、ねねはこれで失礼しますぞ」

「ありがとう」

「張々と中庭にいるのです!」

 駆け足で去っていく少女を困ったように見送ってから、李岳は頭をかいては弁解するようにいった。

「落ち着きがなくて」

「元気なのはいいことかと……ご親戚とか」

「ううううん」

 やはり困ったように苦笑して、そのようなものです、と李岳は言葉を濁した。

「身寄りがない少女で、飢えているところに出くわしてしまったんですよ。見捨てるには偲びなく」

「……そう」

 李岳の善意が賈駆の虫の居所を悪くする。非の打ち所が無い善行だからこそ、どこか胡散臭く打算的なものを感じさせた。この男が行うことには全て意味がある、あるいは裏がある、そうでなくても含みがある――ここ数カ月の付き合いでしかないが、賈駆は巷で飛将軍ともてはやされているこの男の底意地の悪さを嫌という程思い知っていた。全てを見透かしたような態度に年に似合わぬ落ち着き。知れば知るほど賈駆はこの李岳という男が好きになれなかった。

「先ほど大柄な男性とすれ違ったけれど」

「……并州晋陽に居を構える商人で、永という家がありますが、そこの下の方です」

「この洛陽ではなく晋陽の商人とやり取りだなんて、一体何のために?」

「私には用はありませんよ。あちらからいらしたのです。知らぬ仲ではないですからね……ま、伝手を作って洛陽を経ての商売にありつけたらいいな、ということでしょうか」

「……フン」

 もっともらしい言葉を口にしてはいるがどこまで信用できるか知れたものではなかった。

「そうね、確かに晋陽から人が来てもおかしくないわね。色々と有名になりつつあるもの」

「これは手厳しい。実は最近、私は人を使って自分の評価というものを調べてみたんですが」

「自虐的な趣味ね」

 賈駆の厭味は通じなかったようだ。李岳は嬉しそうに何度か頷いては調査結果を話し始めた。 

「気前のいいやつ、調子のいいやつ、腕は立っても怖くないやつ、兵はあっても使い道のしらないやつ、野心はあっても政治的判断ができないやつ」

 ひどい評価だ、と賈駆は思った。手を変え品を変えながら『馬鹿』と罵っているようなものである。

 だが確かにその評価は的を射ているとも言える。毎夜宴会を飽きずに開いては酒肉を遊び、人からの褒め言葉にはこれ以上嬉しいことはないと手を叩いて喜び、匈奴の王を討ち取った武芸の技は確かと言えども覇気は見えず、この洛陽において最大規模の軍勢に影響を及ぼすことができるというのにそれを有効活用できず、丁原の後釜を狙っていると誰からも見え透いているのに効果的に動きまわることができていない。

 涼州の董卓、并州の丁原。その狭間で宙ぶらりんとなっている李岳という男に対する評価は、その功績に全くそぐわない散々なものだった――賈駆とてもう少し距離を置いていたならばそういう風に思ったに違いない。

 賈駆は不愉快極まりないとして眉根を寄せた。それら不当な評価の全てが想定していた通りなのだと、口には出さずとも、我が意を得たりと微笑んでいる李岳の顔を見れば十二分に知れた。

「毒にも薬にもならない、というやつです。李岳という男はよほどの間抜けのようですね」

「……そうね。半年前に企んだ通り、というわけかしら」

「嫌だなあ、ちょっとは慰めてくださいよ!」

 何がそんなに嬉しいのか、李岳は上機嫌に笑っては立ち上がり、自ら茶をいれ始めた。室内を温めている小さな炉から薬缶を取り出すと葉に落として蒸らす。いい香りが賈駆の鼻をくすぐった。

「毒にも薬にもならないようなやつがまた新たに功を挙げて改めて出世したとする……これは美味しい。皆の私を見る目はがらりと変わるでしょう。物珍しい英雄の子孫から利用価値のある新進気鋭の将軍に位上げです。それに今のうちに評判を落としておけば警戒も薄まる。宮中付近を出入りすることになったとしても弊害は少ないはずです」

「敵の目をそらすための逼塞とやらはもう終わり、ということかしら」

 さて、と李岳は相槌を打ってから賈駆に茶を出した。賈駆はなぜかそれに口を付ける気にならず、ただ掌を温めるだけのものだとでも言うように手にもったまま微動だにしない。

「時機が近づいています。待ちに待った時機が……時は風雲急を告げるでしょう。その前に本当の敵を炙り出す。これからはもう少し目立った方がいいんですよ……涼州と并州を結びつけて洛陽にて名を挙げ始めた男……ようやく執金吾の位に手が届く」

 李岳は腰を下ろそうとはせずに立ったまま茶をすすった。その視線は壁にかけられた河北の地図に注がれていた。顔に浮かべていた薄っぺらい笑いをとうとう引っ込めた。その顔には噂される軽薄な男の顔はどこにもなかった。覚悟を決め、計画を立て、遂行する。強い意志を持った者にのみ宿すことが可能な力で漲っていた。

 執金吾――丁原が保有していた武力のほとんどを継承したのは眼前の李岳だ。執金吾といえば相当な高官だが、だからこそよくわからない者をおいそれと就けるわけにはいかない。昇進するとしたらその後任というのが最も手堅い位階と言える。丁原の兵を掌握したままでいる李岳が今更執金吾に指名された所で実質に名目が追いついたということでしかない、と考える者もいるだろう。

 全ては半年前、李岳が申し述べたとおりになっている。

 だが未だに一つだけ、賈駆の理解が及ばないことがあった。

「新たな功って、一体何するつもりなのよ」

 功績を挙げる。それを口にして容易くなるのであればこれほどお気楽なものはない。立身出世は多くの者の生き甲斐であり夢でもある。金、時間、命――人生の多くの物を賭けたところで郎や令にすらなれないものもいるのだ。敵を炙り出すためには昇進する、大いに結構! だがその昇進こそが肝であり、敵を打ち破るか乱を鎮めるか、そのような大功を立てなければただの画餅でしかない。

「それはまだ……秘密ということにさせてください。八割方は上手く行きそうです」

「残りの二割は?」

「わかりません」

「わからない?」

「そう、わかりません。万全の態勢を整えても意外な所でほころびが出る。それは徹底的に勉強しましたよ、并州の鴈門で」

「よくわからないけれど」

 油断はしない、という程度の意味として賈駆は受け取った。李岳の横顔は賈駆の推測を許さない程に複雑な色を帯びていた。

 とにかく李岳の言葉に賈駆は納得したように頷き、袋から一本の竹簡を取り出しては卓上に広げた。代金は既に受け取っている、あとは商品を引き渡すだけだ。

 竹簡には現在獄中にある丁原への特赦が記されていた。ここ数カ月、高官、宦官、端役の役人に至るまで洛陽の伝手という伝手を駆使し続けた結果である。誇りと自信を持って賈駆は――自慢し見せびらかすような気持ちで――いささか胸を張って李岳を見た。感謝と賞賛が浴びせられると確信して……だがすぐに自らの他愛ない浅ましさを賈駆は恥じることとなった。

 李岳の瞳は赤く腫れぼったくなっていた、まるで涙をこらえているかのように。微動だにしない全身、だが長いまつ毛だけがかすかに震えていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――二人の出会いは夏にまで遡る。

 

 うだるような暑い日、董卓と二人で郊外の小川に涼をとりに来ていた。涼州は暑いが乾いており苦は少ない。だが洛陽は人が多く蒸し、不快さは倍では利かなかった。人が見えなくなる外れまできてようやく一息を付くことが出来た。二人は素足になって小川に足をひたしてのんびりと午後のいっときを過ごしていた。

「気持ちいいわね、月」

「うん、詠ちゃん」

 体が丈夫とは言えない董卓、朝には夏のつらさにうんざりしたような蒼白な表情をしていたが、今は血色も戻り笑顔を浮かべていた。

 こういう時間が一番心地よい。いつまでも続けばよいと思う――

 押しも押されぬ破虜将軍の官位を借り受けた後、中央に招聘され、その武威とどまる所を知らぬとばかりに唸りを上げる。だが力を付ければ付けるほど、何かの引力に雁字搦めにされていくおぞましい感触から賈駆は抜け出すことが出来ずにいた。

 陰謀と暗闘においては百戦錬磨の宦官や宮中の高官に良いように左右される予感をひしひしと覚えていた。懸命に情報を集め己の才覚の全てを賭す日々であったが、おぞましい未来への予感が脳裏について離れず暗澹たる気持ちになった。

「本当、気持ちいいわね……」

 賈駆は笑った。鬱屈や閉塞感を董卓の前で見せるわけにはいかない。日の光を浴びて眼鏡が眩く反射する。光の中で董卓も笑っていた。こんな時間がいつまでも――

 そのとき、目立たないように二人の護衛についていたはずの華雄が姿を現し静寂を終わらせた。

「失礼、何者かがこちらへやってきております。およそ三騎」

「誰?」

「わからないが……先頭の者は見事な黒い馬に乗っている」

 華雄は大斧を構えながら馬を引き寄せた。熱くなり過ぎる猪武者のきらいがあるが、その武勇はどこに出しても恥ずかしくない見事なもので、天下の英雄と並んでも遜色ない。その膂力でもって繰り出される大斧の一撃は何人もの敵兵を一度で薙ぎ払うことが出来る。

 馬蹄の音はやがてはっきりと聞こえる程に大きくなってきた。郊外である。偶然誰かがやってくることなどあるだろうか。そのまま通り過ぎるのならば偶然だろうが――だが馬蹄の音はやがて小さく大人しくなり、静まった。緊張が高まる。やって来た者たちはこちらが……いや董卓が目当てなのだ。

「華雄、あやしいものであれば斬りなさい」

 華雄が瞳をぎらつかせて頷いた。並みの使い手ならば三対一でも華雄の勝利は揺るがないだろうが、手練がいるのならばわからない。賈駆は自分たちが乗ってきた馬にいつでも飛び乗れるように備えた。

 間もなく三人組は茂みを一つ隔てた先まで近づいてきた。姿は見えないが気配ははっきりとわかる。賈駆はおや、と思った。自分にさえ気配を悟ることができるのであれば、あるいは――賈駆ははっきりとした声で誰何した。

「誰か」

 返事はすぐさま戻ってきた。

「失礼仕ります。我が姓名は李岳、字は信達。涼州の董仲穎様に一度お目通り願いたいと無礼を承知しながら馳せ参じました」

 

 ――李岳。

 

 ほんの少し前のこと、黄巾の乱に苦しむ漢への援護を装って匈奴が攻め寄せてきた。それを土壇場で防いだのが当時并州刺史だった丁原である。彼女は執金吾に昇進することが決まっていたが、陰謀を察知したがためにそれを拒んで迎撃に乗りでた。その英断の甲斐あり長城以南の土地は荒らされずに済んだのであるが、その功績を疎まれたかのように丁原は逮捕、投獄された。罪状は勅命に背いた罪。極刑もありえた。

 不可思議な処置だ、そう思うときには必ず誰かの思惑が働いていることを賈駆は十分に学んでいた。不審に思ってすぐ配下の細作を全て動員して調査に乗り出した。激しい情報戦の果てに得た真相は、賈駆の耳を疑わせるに十分だった――匈奴が兵を興したのは洛陽内部の何者かの思惑が働いたから、であるという。

 元来武人肌で政治的野心がなく陰謀には無縁、命令には忠実で戦には強い。そのような為人を持った丁原は都合のいい駒であるはずだった。匈奴の侵入を助けるために并州の守りから引き剥がし洛陽の守護を司る執金吾に就任させる。匈奴はやすやすと長城を突破し河北を席巻するだろう。

 丁原の役割は皇帝を中心とした貴族や高官の命を守り通すことにあったのだろう、まさか彼女が詔勅に叛くとは誰も思わなかったに違いない。

 だが陰謀に気づいたがために丁原は勅令を無視して匈奴に立ち向かい、見事その野望を阻止した。計画を企んだものは怒り心頭であったろう、その多大な功績に本来なら恩賞でもって報いなければならないはずが罰でもって獄に落としてしまった。

 軍は規律を以って成る。如何に功績が大なれど独断専行の果てに得たものであるならば価値はない、ましてや勅命に逆らっての出撃――死罪もありえるのではないか。賈駆自身そう考えていた。

 その丁原の部下であり、陰謀を看破した立役者の名が李岳という男だった。嘘か真か、飛将軍李広の子孫であると名乗っており、匈奴戦において敵の総大将である右賢王於扶羅を討ち取り名を上げた。洛陽において彼の名は一時英雄の登場だともてはやされ位の上下に関わらず様々な噂話が飛び交った。そのどれもが英雄絵巻のように華々しいもので、暗い評判は未だ耳にしておらず、また丁原失脚後誰かに抱きこまれたという話も聞かない。

 賈駆は董卓に振り向き一度小さく頷いた。董卓は全てを任せるという風に頷き返す。

「参られよ」

「はっ」

 茂みをかきわけて三人の人影が現れた。先頭にいる男が李岳だろう。見上げる程の大男という話も聞いたことがあったがやはり根も葉もなかったようだ。小柄な方と言っていいだろう。付き添っている内の一人は知らないが、もう一人はよく見知った顔であった。

「久しぶりやなあ、月ちん。賈駆っちもおひさ!」

 現れたのが張遼ということでほっとしたのだろう董卓ははにかんでは手を振っている。

「張遼……久しぶりね」

「せやな、うちが涼州に援軍に行って以来やな」

 嫌なことを言う、と内心賈駆は舌打ちした。

 確かに丁原と張遼には借りがある。先だって起こった涼州の乱においては無償で援軍を受けている。張遼も武功を上げて勝利に貢献した。ただほど高いものはない、とはこのことだろうと賈駆は気が滅入った。

 賈駆は李岳に向き直って言った。

「飛将軍殿、董卓様は避暑に参られている。無礼であろう」

「平にご容赦を。此度は内密のお願いがあり、人目につかぬよう忍び参った次第にて」

 やはり厄介ごとである。賈駆は露骨に顔をしかめた。

「……用向きを話されよ」

 董卓と賈駆を前にして李岳は居住まいを正すと滔々と話し始めた。

 丁原は救国の英雄であるというのに朝廷は些細な咎を根拠に罰でもって報いようとしている。そのようなことが罷り通れば全土で体を張って反乱を食い止めている英雄たちは背を向けるだろう。大義はどちらにあるか明らかである。また丁原は先の『涼州の乱』において配下の張遼に兵を預けて董卓の助力にならんと派遣した。それを忘れて丁原の不幸を無視しようものなら、天網恢々疎にして漏らさず、その不義は必ず見咎められるであろう、と。

 李岳の言葉には頷くところが多く、賈駆も始めは否やはなかった。しかし、二つ返事に承諾しようとした董卓の口を塞いだのは、天啓が賈駆の頭脳を打ったからに他ならなかった。賈駆の唇は震えを帯びていたが吐き出された声は雷光のような閃きの元、確信に満ち満ちた力強さをたたえていた。

 

 ――万事の責、罪科(つみとが)はこの賈駆が背負おう。乾坤一擲の覚悟の策謀、我が身命を賭すに足ると賈駆は信じた。

 

「貴方が董卓軍の傘下に加わるのであれば、丁原の命は助けてあげるわ」

 その声は真夏の只中、小川から流れ込む爽やかな涼風に乗って人と人との間でくるくるとつむじを描いた。誰一人微動だにしない。額に浮かんだ大粒の汗が顎から滴り、固く握り結んだ自らのこぶしを濡らしたことにさえ賈駆は気づかなかった。

「――詠ちゃん!」

「月は黙ってて」

 不義理に非難の声を上げた董卓を手で制して賈駆は李岳に相対した。李岳は顔色ひとつ変えない。直立不動のまま無表情にこちらを見ている。対匈奴軍事行動における正当性、逮捕理由の不当さ、国家の重鎮である董卓のなすべきこと、以前『涼州の乱』において受けた義理――董卓が丁原の危難を救い出すべき動機を並べ立てたときのまま李岳の顔色は変わらない。

 だからその代わりに私が怒るのだ、そう言わんばかりに激したのは側に控えていた張遼だった。

「おい、ちょ待てや! それどういう意味や賈駆!」

「言葉の通りよ張遼殿。并州兵全軍の指揮権を明け渡すことが条件」

「そんなん通るか!」

「この世界は甘くないのよ……貴方に借りはあるわ、それを返さないとは言わない。本当なら耳も貸さずに追い返しているところよ……本音を言うなら丁建陽殿には同情してるし助かってほしいとも思う。けどそのために危ない橋を月に渡らせるわけには行かないの。本当にボクたちの力を借りたいのなら、その危険に見合った対価を要求することは当然よ」

「そのために兵二万をただで手に入れようってか」

「ボクは月を守る。そのために手段は問わないわ!」

 堪忍袋の尾が切れたと張遼は一歩詰め寄った。見知った顔に言われるからこそ激昂する言葉もある――だが張遼の歩みをそれまで黙って聞いていた華雄が体を分け入って遮った。 

「オイ、そこどかんか三下」

「どちらが三下かわからせてやってもいいぞ」

「猪武者が!」

 戦斧を振りかざした華雄に大して張遼も大刀の柄に手をやった。一触即発の空気が郊外の避暑の雰囲気を一気に緊張させたが――

「――控えろ」

 李岳の言葉は夏の暑さを吹き飛ばすほどの冷たさで居並ぶ人々の耳元を撫でた。怒気は静けさにこそ潜むことがある。張遼は李岳が本気で怒っていると悟るとしぶしぶ引き下がり、それを見て華雄も斧を下げた。

「どうやって丁原様を解放するつもりですか」

「大将軍何進様に言上申し上げる。大きな貸しもあるわ、きっと聞いてくださる」

「いつ」

「来年には」

「だめだ、年内……いや半年で」

 賈駆は様々な手配や根回しの段取りを頭に描いたが、年内になら十分に間に合う。年をまたぐというのは水増しした見積もりに過ぎない。

「いいわ」

「具体的にはいかがせよと」

「并州兵に対する指揮権の放棄、徴兵をはじめとした軍権の委譲、并州に関する情報提示と協力」

「并州牧の内示はただの噂話というわけではないということですね」

「……そちらこそ、まるっきり馬鹿というわけではないのね」

 并州牧の内示は三日前に下されたばかりで、この洛陽でも一握りのものしか知ってはいないだろう。そこそこの情報網は持っているということだ。

 州を管轄していた位は元は刺史であった。だが益州を支配する劉焉の言上により朝廷がより軍権を強大化した牧の地位を復活させたのがついこの前の話である。その第一波として董卓は戦乱を巻き起こしかねなかった并州の防備を頂戴することになった。

 強兵の産地である并州が手に入ればこの洛陽においても発言力は強まる。加えて統率までも両得できたのならその利得は計り知れない。当然涼州兵の軍権も手放すつもりはない。中央に地盤のない董卓と賈駆にとって兵力こそが最初で最後の頼みの綱なのである。

 吹っかけているということは自覚していたので非難めいた罵倒、あるいは譲歩を求める交渉が来るかと思ったが、李岳はそのどちらも口には出さず顎に手を当て思案している。その姿に拒絶の様子はない。

「まず、一つ聞いておきたいことがあります」

「なに?」

「丁原様の投獄を最も声高に叫んだのは誰でしょう?」

「……段珪と畢嵐」

 

 ――十常侍。

 天下を牛耳る宦官の頂点であり、董卓を取り立てて利用しようとしている者たちでもある。その支配力は圧倒的であり影響力の(くびき)から脱することは容易ではない。

 

 段珪と畢嵐。国家を専横し大漢の斜陽を招いた元凶とも言える宦官の二人。その名を聞いて李岳の目が猛禽のごとく細まるのを賈駆は見落とさなかった。李岳はやがて目を閉じて考えに没頭し始めた。長い時ではなかったと思う。百を数えはしないだろう。だが一刻もそうしていたのではないかと思うほど、時間はもどかしいまでに緩やかに過ぎた――再び李岳が目を開いたとき、そこには決断の色がはっきりと浮かんでいた。

「指揮権は渡す、軍権もいいでしょう。ただそのまま素直に董卓様の指揮に服することはまずい。私はあくまで丁原様の幕僚で正式な官位を授かっているわけではないのです――大将軍に通すだけではなく声高に丁原様を擁護してください。それで董卓様に追随する不自然さが消える」

「……わかったわ」

「あと官位も頂きたい。執金吾の位をみすみす誰かに明け渡すのもつまらない。こちらとしても禁軍の兵力をいくらかでも保持しておかないとつらいのです」

「執金吾は無理よ、丁建陽殿は解任されたわけではないのよ」

「執金吾はいずれ自力で取ります」

「自力ですって?」

 人のことは言えないが、唖然とするほどの傲岸さだった。

「まあ、そのあたりはおいおい。とにかく今は次席でよいのです。何とか宮中に近い場所に任官したい。董卓様のお声ならなんとでもなるでしょう」

「近いといっても……かなり中途半端な地位でしかないわよ。役に立つの?」

「妬みも少ないでしょう。それに動きやすい。適当な名前の校尉を。あまり目立ちすぎないもので」

「用意するわ」

 賈駆の怪訝な様子に気づいたのだろう、李岳は何か不審なところでも、と聞いてきた。賈駆は束の間迷った後に正直に言った。

「なぜそんなにも協力的なの、もっと怒るかと」

 背後に控えていた張遼やもう一人の武将でさえも賈駆と同じ気持ちだったのだろう、華雄と合わせて三つの頭がうんうんと頷いている。

「別に、どうでもよいのです。目的を成す為に手放すべき物を手放す時期がきた。それだけでしょう。并州刺史ももう解任されて実権はない。こだわったところで立ち位置が不味くなるだけ、手放す方が利口です……それに、丁原様の命には代えられない。力や権力などいくらでも手放しましょう」

「……そう」

 不意に賈駆に李岳の心が理解できた。企みも狙いもあるだろうが、根底には丁原に対する忠誠があるのだ。ただ助けたいだけ――賈駆は自らの身を李岳に置き換えて考えてみた。きっとあらゆる手段を使い、この身が朽ち果ててでも董卓を助けるだろう。

 男は苦手だ、いい思い出などない。けれど李岳に対してはその類の嫌悪感はわずかに薄まったような気がした。

「賈駆殿、兵力の移譲は即刻行えるように手配します。并州の都、晋陽に張楊殿という方がいて内政を一手に任されています。彼が万事手伝ってくれるでしょう、竹簡一つで徴兵も調えてくれるはずです」

「至れり尽くせりね」

「ただ、しくじれば困ったことになりますので、ご理解ください」

 困ったこと……誰にとって困ったことなのか、李岳はあえて明言しなかった。李岳にとってなのか、丁原にとってなのか、賈駆にとってなのか――董卓にとってなのか。

 嫌な言い回しをする、言葉の節一つ一つにいやらしさが宿っている――やはりこの男は嫌いだ!

 賈駆は一語一語はっきりと区切って答えた。

「約束は果たすわ」

 言質は取った、そう言うかのようなお辞儀を見せて李岳は振り返って去っていった。一顧だにしない。覚悟、という言葉を賈駆は胸のうちで幾度か呟いた。覚悟が必要だ、引くに引けない取引をした。洛陽における最大勢力を得る。たった一人の武将の解放の対価としては破格だろう。

 振り返った先、董卓の表情はすでに蒼白なものになっている。野望を剥き出しにした己を見て幻滅しているのかもしれない。それでもいい、と思った。先ほど口にした通りだ。手段など問わない。

 賈駆は黙って歩みを進めて小川で顔を洗った。手には滴る程の汗が滲んでいた――




※本来の字では【邸】の左のみ。機種依存文字のため当て字です。

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