真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十五話 二龍の胎動

 十五を数える戸をくぐり抜けて田疇はようやく彼らの居室にたどり着いた。焚き染められている香は人の正気を失わせるとさせる天竺で産出された極上の麝香(ジャコウ)であり、一摘みの粉末で屋敷が買えるとさえ言われるほどの貴重品――それがまるでただの埃のような粗末さ、豪儀さで扱われていた。

 まだまだ残り香が濃く漂っており、袖で鼻と口を隠して田疇は奥へと進む。その顔にはいつも以上の憂鬱さが眉間のしわとして刻まれており、窒息しているのではないかと思えるほど蒼白な表情をしている。煌めく黄金、眩しいほどの銀細工、むせ返るような香り――敦煌から出立した旅団が持ち帰った西域の絹をめくると、ようやく屋敷の主たちへの目通りが叶った。

 部屋には眼にしてはならないものがあることを田疇は理解している。自らの精神安定のために決してそれを視野の端にすら入れまいと心で念じながら、田疇は膝を突き頭を垂れ、最上級の礼を捧げた。

「御無礼仕ります……劉岱(リュウタイ)様、劉遙(リュウヨウ)様」※

「あっ、田疇! 久しぶりだね」

 姓は劉、名は岱、字は公山。

 高祖劉邦より連綿と受け継がれる高貴な『劉』の血の継承者は大陸に数多かれども、彼の者を凌ぐ血統が天子直系を除いてどれほどあるだろう――偉大なる劉邦の嫡男でありながら母親の身分卑しく天子の座から遠ざけられた不遇の士、悼恵王・劉肥(リュウヒ)……『呉楚七国の乱』において決して反逆を良しとしなかった至仁の王――斉王・劉将閭(リュウショウロ)……牟平共侯・劉渫(リュウチョウ)を経て、平原郡の劉本を祖父、山陽郡太守である劉興を父に持つ、いみじくも侍中の地位を戴く世に知らぬ者のない名士の筆頭である。

「本当だ、田疇だ!」

 続いて声を上げるは姓は劉、名を遙、字は正礼。

 劉岱の弟でありながら兄の盛名にあやかるばかりではなく、盗賊の跋扈を許さず、劉の血を啜ろうとする羽虫が如き取り巻きを良しとせず、不正を(ただ)し、義を保ち、郷挙里選においてはただの一つの不可もなく満場一致で奏上され、麒麟児の弟もやはり麒麟児であるとして天下にその名を兄に並び立たせた。月旦評の許劭と並ぶ人物鑑定の大家、陶丘洪をして宗室に連なる高貴極まる兄弟に対して口を極めての賛辞を与えた。

 

 ――世は云う。山陽に『二龍』あり、と。

 

「顔を上げなよ」

 劉岱の声に従い田疇は面を上げた。寝台に腰をかけている二人の兄弟は齢三十をとっくに超えているというのに、どう見ても十かそこらに見える幼さであった。傷ひとつない白磁が如き肌に絹衣を一枚纏っただけのあられもない姿。顔立ちも声音も瓜二つ、区別は冠の色でもってでしか叶わないだろう。

 青い冠の劉岱がはだけた衣服を直すこともなく笑った。

「君だけだよ、恥ずかしがって顔を背けないのは」

「はぁ、畏れ入ります」

「褒めてないんだけどね」

 劉遙は赤い冠を左右に揺らしておかしそうに笑った。やはり衣一枚で帯も締めていないので全てが露わになっている。田疇は気にもせずに言葉を続けた。

「ご無沙汰申し上げておりました……」

「そうだね。でも忙しかったんでしょ?」

 劉岱の言葉に劉遙が続いた。

「行ったり来たりしてたらしいじゃない」

 田疇は困惑したように眉根を寄せた。劉岱も劉遙も面白おかしそうに笑っているが――骨身を削るような日々であった。洛陽と晋陽、雁門関に迫った匈奴の本陣との間を決死の思いで往復したのだ。元々体が丈夫ではなく馬の扱いにも長けていない。役目を終えて洛陽に戻った頃にはそのまま二日も寝込んでしまった。今も尻の痛みはわずかに残っている、あんな思いはこりごりだと田疇は『二龍』の笑顔から顔を背けた。

「またやったらいいじゃない」

「真っ平でございますよ……」

「そんなに頑張ったのに負けちゃったんだ! 田疇ったらおっかしい!」

 声さえ似ているのでどちらが言ったのかは判別つかなかったが、どちらにしろ二人の笑いは見事な和音となって響いている。頭痛さえ催すようなその哄笑に田疇はしばらく忍耐を試された。

 匈奴は敗れた。中原に争乱を催すための壮大な計画はその端緒に付く前に無残に崩壊した。於夫羅の計画は事前に并州の軍兵に漏れ、長城は雁門関を突破することもなく無様に敗残した。匈奴の中の穏健派は死んだ於夫羅の咎を単于に追及し、とうとうその地位を廃した。新たな単于は未だ立てず老王による協議で政を行なっていると聞いている。

 於夫羅をその気にさせるのにすら四年を費やしたのだ、今この時機に陰謀を食い込ませる間隙はないだろう。

「でもさ、并州兵が動いたこと、於夫羅も気づいていたんでしょう?」

「……ええ」

「影の者も貸してあげたじゃん。不意打ちしてくることはわかってた。だってのに負けちゃうなんて、情けないんだあ」

 雁門関に篭るだけではなくあえて伏兵を忍ばせ、長く伸びた戦列の中央を食い破るための奇襲を催す――その情報を田疇は晋陽に残っていた刺史丁原の部下、張楊から聞き出していた。張楊の口を割らせたのは劉岱、劉遙の手下である影の者。血なまぐさい行いは避けたかったが、張楊の口は固く、時間は一刻を争うためやむなく彼らの応援を頼んだのだが、家族を人質に取っての苛烈な責めは田疇の直視し得る限度を超えていた。

 得た情報はすぐさま於夫羅に届けたが、結果はさらなる上手を取った并州兵の勝利に終わった。不意打ちを目論んだ二万の軍を包囲殲滅しようとした匈奴軍――勝利を手繰り寄せたかに思えたが、突如として現れた烏桓の戦車隊によって散々に蹴散らされ始め、とうとう大将於夫羅の首を献上する事態にまで至った。匈奴軍の完敗といってよいだろう。

 五分五分の戦、勝負を決めるは運否天賦と田疇は考えていたが、それは過ちだと引き上げていく匈奴兵を見て考えた。并州の者たちがより多くを謀っていた。それゆえに策は打ち崩され手駒を毀してしまった。

「ほら、あの男のせいでしょ、最近すっごく話題になってる」

 劉岱の言葉に田疇は一人の男の姿を思い浮かべた。名前を知って既に数ヶ月も経つが、未だにその顔を直に見ることはかなっていない。何年にもわたって仕込んだ匈奴への陰謀を容易く瓦解させた侮らざる者――男の名は李岳と言った。

「飛将軍ねえ」

 劉岱のつぶやきに劉遙は眉根を寄せた。

瑠晴(ルセ)兄様、あの男が気になるの?」

「気にならないといったら嘘だな、紗紅(シャク)

「どういう男だい、田疇?」

 二人の問いかけに田疇は束の間考えを巡らせた後、苦渋をこぼすように答えた。

「……測りかねます」

「ふうん。珍しいね、君が適当な返事をするなんて」

「畏れ入ります」

「だから褒めてないってばさ!」

 どうしようもなくおかしい、なんともたまらない。そう言わんばかりに劉遙は笑った。

 事実、田疇は李岳への評価を定めかねていた。飛将軍李広の子孫であり、匈奴において対鮮卑の戦にて初陣を飾りその知勇を示した、と於夫羅から聞いたことがある。はじめは匈奴の先鋒として漢に侵攻する手先となるはずだったが、漢に寝返り匈奴を挫く策を練り於夫羅の首を取った。齢二十に届かぬ若輩者に見えるが、油断ならぬ者として田疇の脳裏にその名は刻まれていた、が――洛陽に上ってからはその才の片鱗をのぞかせることもなく日々宴会に明け暮れているという。仕えていたはずの丁原を獄に落とされても知らぬ顔、忠義に厚き先祖の面影は胡北の地にてすっかり薄まったか、と洛陽の一部からは嘲笑さえ上がり始めていた。

 田疇の思索を知ってか知らずか、劉岱は不意に厳しい視線を田疇に注いだ。直視していなかったとはいえその矢のような眼光を田疇も感じた。まだまとまりきっていない彼の者の印象を一粒一粒拾い上げるように口にした。

「……まず、此度の匈奴誘引を図った際に丁原に対して并州における軍権を手放しすぐさま上洛せよとの勅命を出しました。戦の功あれどその勅命に従わなかった旨を重く受け止める、という名目により獄に落としております」

「誰を使った?」

畢嵐(ヒツラン)段珪(ダンケイ)です」

 あっそ、と二人はつまらなさそうに相槌を打った。宮中にて比類ない権勢を振るう中常侍の筆頭でさえ『二龍』にかかれば足元の落葉に等しい。

「そのまま首を刎ねてしまうべきだと声が上がったのですが、匈奴防衛の功が大、また勅命に従わなかったのも賊に遭遇したためやむなく北上、のちに匈奴の陰謀に気づいたという経緯を重く見て、現在謹慎中に置いております」

「殺さないの?」

 どこから取り出したのか、真っ赤な林檎をかじりながら劉遙は聞いた。

「何進が反対しているようですね」

「ああ、お肉屋さん。がんばるんだね」

「西園軍の設立を前に大将軍としての存在感を出しておきたい、というところでしょうか」

 だが、不思議なことに丁原の釈放を訴える者の中に李岳という名前が一切出てこない。謁見は叶わずとも皇帝の傍に侍る主だった者たちとは面識が通っているはずだ。祝勝の宴会においても丁原など元よりいなかったかのように喜び勇んでやってきたと聞いている。その場で声を大にして釈放せよと論じた、という話も聞かない。ただ飲食しては武勇を誇って帰ったという。

「主であるはずの丁原を容易く獄に落とさせました。それに特に反対することはなく、出世や栄達を仄めかせば喜び、賄賂を渡せば受け取ります」

「ふうん」

「でもさ、なんでそれで測りかねるの? こっちの思惑通りじゃん」

「そうだよ。扱いづらい丁原じゃなくて代わりを立てたいってことで、宦官に言うこと聞かせるように働きかけたんでしょ」

 丁原の処遇は、結局董卓の圧力により獄にて謹慎という措置にて落ち着いた。年が明ければ恩赦が出て釈放となるだろうが、官位がどうなるかはまだ読めない。

 執金吾以前の丁原は幷州刺史であったが、その後任として選ばれたのが先だって起こった『涼州の乱』において武功を立てた董卓であった。匈奴侵入の一事でもってさらなる軍権が求められるとして牧に昇格されての就任である。その際、本来手放すべき涼州兵の軍権を未だに保持したままになっていることが問題として浮き上がり始めているが、匈奴再侵入に備えるとの名目で董卓はその一切を手放さずにいる。

 劉焉の提言により復活した牧の座――益州牧劉焉、荊州牧劉表、徐州牧陶謙、そして幽州牧劉虞――あらたに就任した顔ぶれの中でも董卓の所持兵力は飛び抜けている。また李岳の身分の預かりも董卓に属した。そのため司隷周辺において彼の者の所有兵力は多勢を大きく引き離す規模にふくれあがっており、何進との距離が近いこともあり宦官並びに他の位階の者も及び腰となっているのが実状だった。

(李岳……絶妙な地位にいる。何進の膝元で董卓の管理下だが今はまだ丁原の部下……誰にも嫌がられず、誰からも使われにくい……)

 その名前を田疇は今度こそ念頭から外さないものとして記憶にとどめた。あのときもう少し注意を払っていれば鴈門でしくじることはなかっただろう、兆候は一度で捉えきりその芽を摘みとらねばならない。その教訓をこれ以上ない形で学ばせてもらったが、嫌になるほど高い授業料となってしまった。

「んで、次どうすんの?」

 途中で飽きたのか、食べかけのりんごを放り投げて劉遙は聞いた。

「そうだよ、折角準備した兵が遊んじゃってる」

「折角喜び勇んで暴れてる匈奴を血祭りに挙げられると思ったのにさ」

 青冠と赤冠が田疇を取り囲んでくるくると回った。幼さと妖艶さが同居したような歪さに田疇は吐き気を催しかけたが、そのような粗相を犯せばこの場にて首が飛ぶ。

 

 ――匈奴を血祭りに。

 

 仮に於夫羅が雁門関を突破した場合どうなっていたか。匈奴兵は漢の支援に来たという名目をかなぐり捨てて洛陽の城内に殺到し皇帝を弑し奉り新たな皇帝を立てようとしただろう。だが哀しいかな、劉岱が口にしたようにその願いが叶えられることはどの道なかった。洛陽に殺到し程良く破壊と略奪を堪能してもらった頃合いを見計らって、(エン)州、荊州、揚州、幽州、豫州の軍が殺到し包囲殲滅する計画となっていたからである。十八万の兵であるが、糧道を絶った後に囲んでしまえば生殺与奪は思うがままであっただろう――つまるところ、於夫羅の野望はどの道挫かれ遠からず死ぬ手筈となっていた。遅いか早いかの違いでしかなかったが、もとより謀られていたと思い知らされて絶望の内に朽ちるのではなく、匈奴の戦士として堂々と討ち果たされた方が本望であっただろう、と田疇はぼんやりと考えた。

 洛陽および帝室の権威は失墜し、その残りかすを貪ろうと司隷は荒れる。目端の利く群雄は地方にてその勢力を伸ばし独自の行動を取り始めただろう。未だ鎮圧定まらぬ黄巾賊に賊の氾濫、未曾有の混乱がこの中原を覆ったはずだった――だが既にその計画は端緒にて躓き、修正を余儀なくされている。しばらくの時と策が必要とされるだろう。

「――田疇?」

 わずかに込められた稚気混じりの殺気を田疇は的確にかぎわけていた。憂鬱さが腹の底からこみ上げて全身を気怠さで冒した。それを察知されまいと田疇は跪き、面を伏して言上した。

「……我が主より指示を仰せつかっております」

 その声に、劉岱と劉遙の二人はピタリと動きを止めて、田疇の前に居直った。

「申せ」

 田疇は幽州より持ち帰った指示を、一語ずつ静かに口にした。

「次代の皇帝を乱せ、と」

 劉岱も劉遙もぴくりと眉を動かした。次代の皇帝――いずれ衰え死ぬであろう現在の帝ではなく、その次代を乱す。後継者問題に手を入れる、ということを二人は間を置かずに察した。計画は頓挫したが、全てが崩れ落ちたわけではない。外敵の侵入は防ぐことは出来たとしても内憂は健在なのだ、その最たるものが未定のまま放置されている今上皇帝の後継者である。

「具体的には」

「陳留王を立てます」

「誰を使うの?」

「遺勅を蹇碩に授けます」

「……えげつないなあ」

 現在、後継者として最も有力なのは何太后とその兄である大将軍の何進の元で育った劉弁である。その即位を待ってから、宦官の蹇碩を用いて混乱を発生させる――先帝は劉弁ではなく、陳留王に封ぜられる劉協を指名していたと!

 先帝の信頼厚い蹇碩の言葉、しかもその手にはなぜか遺勅があるのだ――生前指名しなかった後継者を遺勅として残すという不可思議さを何進は訴えるだろうが、哀しいかな本物である。確実に混乱は宮中を席巻するだろう、宦官と外戚は士人と群雄を巻き込んで対決し、世は再び混迷を深める。双方の勢力どちらが勝とうとも、である。

 皇帝の憐れな様、そしてそれに尽くす蹇碩の献身ぶりを思い浮かべて劉岱は笑った。皇帝の側にてその世話を仰せつかる侍中の地位――その立場を利用し、思うがままに勅令を発布させていることを知っている者はこの大陸において五指を超えまい。クスクスと笑いながら劉遙が飛び跳ねた――わあい、争いだ、殺し合いだ!

「皇帝はいつ死ぬかな」

「こればかりは。まだ数年先になりますか……」

「五年生きることはないね」

 劉岱は自信を持って断言した。田疇はあえてその由を深く聞こうとはしなかった。陰謀渦巻く宮中とはいえ、皇帝の側に至ればその陰惨さは想像を絶する。耳にするだけで毒されるようなおぞましさに、田疇は吐き気を催し目頭を抑えた。

「……さあて、じゃあどうなるんだろうね? 中央は放っておいても勝手に乱れてくれるって感じだけどさ」

「紗紅。時機を見て外に出るか――指示は遂げる。だがそれ以外は自由にさせてもらうよ、田疇」

 田疇は黙って伏して頭を垂れた。

「――何か悪いこと考えてるね、瑠晴兄様」

 劉岱は答えることはせずにただその口元を歪めた。

「まあ良いけどさ。瑠晴兄様――(エン)州刺史様が何の憂いもなく田舎に引っ込もうとする気持ちはわかるよ? 曹操が勢力下にいるんだもんね。あの娘、とっても可愛いじゃない」

「何を言うんだ紗紅。お前の地盤が生きてる揚州なんて、孫策がいるじゃないか。あの娘、とっても可愛いだろう。僕が欲しいくらいだよ」

「やあだよ、孫策は僕のだもん! いっぱい遊ぶんだもん!」

 戯れにくるくると追いかけっこで遊びながら『二龍』の兄弟は田疇に興味を失ったように去っていった。

 既に自分など視野の端にすら映ってはいないだろう、田疇は礼をすると部屋を辞去した。そのとき不意に限界が訪れ、口元を抑えながら足早に麝香でむせ返る部屋を脱出した。十五の扉をくぐり、宮中の離れの渡り廊下に出た時ようやく生きた心地を取り戻した。高い身長を何度も折り曲げて深呼吸を繰り返す。真っ青な額には脂汗が玉となってにじみ出ていた。

 迫り来る冬がもたらす冷たい風、それが心地よく田疇の体を冷やしてくれた。まだかすかに麝香の残りが残っているが、しばらく日光を浴びれば薄れていってくれるだろう。血塗れの部屋、散らばった人体、おぞましい程に垂れこめた血臭を曖昧にするための麝香の臭い――




※劉遙の「遙」は機種依存文字のため当て字です。

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