真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十二話 あの草原の風に抱かれて

 怒涛の如く打ち寄せる戦車隊は、勝利を確信していた匈奴の意表を物の見事についた。度肝を抜かれた匈奴兵の統率を決して蘇らすまいと、先頭を駆る主将・楼班は立ちふさがる何某全てを疾風を思わせる剣さばきで次々に切り伏せていく。

「う、烏桓やて……? なんで匈奴を攻めてるんや……」

 訳のわからないまま目をしばたたかせている張遼を置いて、李岳は一人打ち震えていた。その目は戦車隊の先頭に釘付けにされていた。だがすぐに思い直した。感慨に浸るのは後でいい、李岳は張遼の肩を揺さぶって叫んだ。

「烏桓は味方だ、細かい話は後だよ!」

「……そうやな、今は……」

 困惑していた并州兵をまとめ上げると、張遼は烏桓に連動するように走り始めた。死に様ばかり頭にあった一軍に活路が差したのだ、体力も気力も限界に達していたが、まるで戦闘は今始まったばかりだと言わんばかりに力を取り戻す。

 并州兵の死を覚悟した突撃は自滅覚悟の猛攻だっただけに見事なまでの(くさび)となった。開いた間隙をここぞとばかりに烏桓が突いた形になる。実際のところ、匈奴軍は李岳や張遼の想像以上に動揺していた。烏桓族の攻撃を并州の予備兵力だと思い込み、右賢王於夫羅の策のさらに上をいかれたのではと疑心暗鬼に駆られ完全に腰が引けていた。敵の総数を二万だと決めつけ、罠にかけようと防備を薄くしたことも裏目に出た。長く伸びた戦列を舐め回すように烏桓兵が切り刻んでいく。

 楼班は戦況を見るやすぐに馬首を右に巡らせた。敵の左翼を突かんとする構えである。戦車隊の突撃は腰の引けた敵へ飲み込むようにかさにかかって攻め込んだ。張遼がその動きを察知して右方に圧力を向ける。并州兵を包囲殲滅しようとした敵左翼が逆に半包囲の憂き目に遭い散々に討ち減らされていく。大軍故に指揮が行き届かない、突撃と撤退の行動が入り乱れて足は止まり、的に向かって射的をするように烏桓兵は次々と射落としていった。

 張遼率いる別働隊はその乱戦の中、鋭い針のように尖り、牛皮を貫くように匈奴軍に差し迫っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――於夫羅はその様子を見て、拳を振り回して怒った。

 

「なぜ烏桓がここにいる! なぜ漢に与しているのだ!」

 応える者はいない。於夫羅も答えなど求めていない、ただ怒りをぶつける相手を探しているだけであった。

 烏桓とは幾度も干戈を交わし、主力に定めている戦車隊の恐ろしさも、その対処法も於夫羅は知り尽くしていた。勝勢に乗ると手が付けられない猛攻を発揮する戦車隊には、まず騎馬隊の機動力で以って正面から戦わないという方法を取るのが上策だ。右回りで旋回しながら騎射をし続け持久戦に持ち込む。車という重荷を担いでいる分、烏桓の馬がより早く疲労が重なるため時を追う毎にこちらの有利は増して行く。機動力にも自ずと差が出る。於夫羅はその戦法を用いて烏桓の大人・丘力居相手に幾度も五分以上の戦いをこなしてきた。

 だがその戦法ももはや使いようがない。完全に硬直状態に陥った自軍に対して、虎が獲物を食むように烏桓は噛み付いてくる。馬を走らせる空隙も限られている、正面からの戦では分が悪い――前衛がまだ持ちこたえている間に対処を練らなくてはならない。於夫羅は雁門関に攻めかかる振りをしていた陽動の兵に指示を出した。

 山を回り込んだ并州の別働隊を誘い出すために、昨日と同じように鴈門に攻め寄せた手勢は全て偽装であった。別働隊が本陣に雪崩れがかった瞬間に反転し、その左方を塞ぎ退路を絶つというのが指示だ。あまりにひどい混雑を避けるため、圧力をかけろとだけしか指示を出していなかったが、しびれを切らした於夫羅はとうとう并州兵の後背を襲え、と下知した。

 仮にこちらの左翼が烏桓に釘付けになったとしても并州兵別働隊は既に一万近くまで減損している、二方向からの攻撃からは耐えられまい。まず別働隊を打ち滅ぼし、その後は大軍の利でもって烏桓を包囲殲滅する。とっさに打ち立てた於夫羅の対処は一軍の将、一族の王の才覚を存分に魅せつけたが――やがて届いた悲鳴のような報告がその目論見を打ち砕いた。

「て、敵并州兵本隊! 雁門関より打って出ました! 先頭、丁原! 凄まじい勢いです!」

「なに……」

 床机に腰を下ろしていた於夫羅は思わず立ち上がると、丘に駆け上がり遠くを目にした。あれだけこじ開けたいと思い、自らの野望の鳥羽口となるはずだった雁門の関――鉄の扉はこちらをあざ笑うかのように全開しており、そこから吐き出された并州兵によって味方部隊が完膚なきまでに叩きのめされていた。

 於夫羅は叫び声を上げ、目の前のけやきの幹を殴りつけた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁原は関への寄せ手が引き潮のように去っていったのを見るや否や、麾下の全兵に出撃用意をさせていた。

 長年戦場に立った経験と勘がささやいていた。敵の撤退があまりにも早すぎる。李岳の策は露見していたのかもしれない、於夫羅はこちらをおびき出すため常のように攻めかかって来たが、合図を待っていたのだろう、敵は何の動揺もなく整然と撤退を始めているではないか。丁原の背筋に悪寒が走り、それを食い止める術はもはや槍を握る他思い浮かばなかった。

 勘の囁きが正しかったならば敗戦となる。二万の軍はもはや退路を失い散々に弄ばれた後に全滅するだろう。李岳の胴と首が離れる絵が丁原の心中に絵として浮かび上がった。肯んじることはできぬ。そもそも奇襲が失敗となれば兵の大半を失うこととなる、雁門関にこもった所で大した差はなく敗れ去るのだ、乾坤一擲に賭けて於夫羅の首を狙う方がまだ勝算はある。

 雁門関から引き返す敵の後背を突けば、少なくとも別働隊への圧力はいくらか減らせることが出来るだろう。於夫羅の首に刃が届く可能性があるのなら、今すぐ打って出る以外の道はなかった。まともに出撃できる人員は四千に過ぎず寡兵と言えるが、敵はこちらを全く警戒している様子はない。不意は突けるだろう。全滅を見届けるや否や早馬は飛び出す手はずとなっているので後顧の憂いはない。

 残兵の指揮を赫昭に任せて丁原は馬上に控えた。だが赫昭はその命令を肯んじることなく丁原に食らいついた。

「命令に服せ」

 丁原の怒気に歯を食いしばって耐え、赫昭は進言した。

「自分も参ります」

「死地だぞ」

「参ります!」

「……よし、来い」

 指揮は次席の屯長が行うことになった。濃い髭を蓄えた中年の男は頬を赤らめて復唱した。

 騎馬隊と歩兵の入り混じった四千の兵は、その誰もが籠城戦に耐え顔には色濃く疲労を宿していた。だがこけた頬の奥、両の瞳には炯々とした輝きが灯っていた。故郷を守る戦にて果てる。窮地に陥った味方を助ける。大将の後に続いて敵の後背を討つ! ――武人の誉れとしてこれ以上のものがあるだろうか。戦機はかすか、だが皆無ではない。死出の旅と決め込むのはまだ早かった。

 丁原は開門を告げた。数えきれない程の猛攻に耐え、見るも無残にひしゃげた門扉は、しかしまだ健在であり雄々しく軋みながらその手を広げた。匈奴兵はまだ気づいてはいない。鴈門に詰める并州兵の動きなど気にもとめていないだろう。

「これより指示はない。我が後に続き、敵を討て。駆けに駆ける。并州兵の意地を見せよ」

 整然と並んだ四千の兵が腹の底から声を張り上げた。丁原は振り返ると前方に向かって槍を差し出した。出撃。愛馬が棹立ちになり、そして駆け出した。引き返していく匈奴軍が馬蹄の音に気づいた頃には既に遅かった。丁原は馬体ごとのしかかるように突っ込んでいき、振り回した槍で一度に五人を突き落としては敵陣深く突っ込んでいった。赫昭が短戟を振り回して後に続く。寄せた敵兵は二万を超えたが、逆落しと後背からの不意打ちもあり、最初の一撃で千あまりが散った。

「大将首がいらぬか、欲しければ獲ってみよ! 匈奴の大軍なにするものぞ! 并州の丁建陽、ここに在り!」

 過去にない吠え声を丁原は上げた。親不孝など許してなどおらぬ。激情とは裏腹の無表情のまま、槍を振るい血に塗れ、なおも先頭で突き進む将に遅れまいと四千の兵は匈奴軍の只中に埋没していった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁原の攻撃は何ら示し合わせたものではなかったが、結果として別働隊に向かっていくはずの匈奴の右翼四万を完全に足止めすることになった。張遼率いる別働隊と烏桓の戦車隊が左翼四万を壊滅させた頃、とうとう正面の七万を残すのみとなる。全く圧力を失った并州兵別働隊の前に於夫羅率いる中核軍が完全なる無防備でさらされた形になる。

 だが烏桓勢と合わせてもまだ倍以上の兵力を持っている。まともにぶつかり合えば匈奴の勝勢と言えたが――この時機を見計らったかのように、信頼を損ねたとして戦場から離されていた、名目上は戦略予備として控えていていた卒羅宇と醢落率いる四万の軍勢が押し寄せてきた。

「敵の新手現る、味方を救え」

 そう合唱してはいたものの、連絡もなく本陣に押し寄せたせいでさらに指揮系統は千々に乱れる有様、撤退と反抗の指示が交互に部隊長に届けられる始末。戦場は大混乱に陥っていた。指示が行き届かず攻撃目標も定かではない。敵の一軍を包囲殲滅すれば勝てるはずが、あれよあれよという間に自軍が三方から包囲される形になってしまっている。隘路で大軍も容易には動かせず、不意打ちに不意打ちを重ねられ虎の子の騎馬隊も満足に走ることは出来ず、匈奴兵は右往左往するほかなかった。結果各個で散漫な反撃に及ぶ他なく、一丸となっている并州兵の跳梁を許した。

「どけ、どけ! 怖いのがきたでぇ! 張文遠見参! さぁ、死にたいやつから出てこんかい!」

 張遼の名乗りは正しく匈奴を圧倒した。かすかな躊躇を張遼が見逃すはずもなく、すかさず間隙を縫って張遼は疾走した。一瞬怖気を催した左方からの圧力は先程突如として失われたが、訳は後で考える――張遼は偃月刀を振り回しながらそう思った。背後には懸命に付き従う李岳の姿があった。

 烏桓の攻撃に対応しなくてはならないのか、芋洗いのように押し寄せていた敵兵も今や漫然としており張遼の速度についてこれるものはいなかった。あとは正面の半円陣を突き破ることさえ出来れば於夫羅の喉元にこの刃を突き立てる事が出来る!

 騎馬隊を右側から迂回するように突っ込ませた。烏桓の圧力が効いている。先頭を駆ける青い髪の大将は中々の剣さばきを見せている。後で酒の一杯でも奢らねば、と張遼は思った。それもこの戦を勝ち抜き、生き残った後だ。烏桓の攻勢の影に隠れるように并州兵を前衛に食い込ませた。狙いを悟ったかのように烏桓の半数がこちらに合流しては、二頭立て、四頭立ての戦車が揉み潰すように匈奴兵をすり減らしていく。戦車本体が破損しても、その端から牽いていた馬に乗り換えて騎馬として戦場に舞い戻るのだから手に負えない。

「於夫羅はどこや! この張遼と打ち合え! 首ぃ、置いてけぇ!」

 とうとう前衛を破り、本隊に食い込んだ。戦場を駆けまわりながら張遼は叫んだが一向に大将の姿は見えず、やむなく態勢を立て直そうと引き下がっていく匈奴兵に追い討ちをかけながら姿を求めた。

 だがどこを見ても大将首が見当たらない。どこに行った、どこに隠れた――張遼は崩壊しつつある陣中を駆けまわりながら声を張り上げたが、一向に敵将の姿は現れない。

「……逃げたのかも」

 横に並んだ李岳が囁くように言った。まともに刃を受けていたが顔色も元に戻ってきている。瞳にも強い光が宿っていた。

「於夫羅の首がいる。匈奴がもう二度と攻めてこない、不可侵の約を結ぶためにはあの首が不可欠だ。見る限り敵の反攻はもうない。総大将は逃げた、戦意はないはずだ。卒羅宇と醢落の二人の族長が敗残をまとめはじめている」

「ほな最後の仕上げに首一つっつーわけやな……」

「ああ」

「せやけどどこへ」

 李岳は北と南を同時に指した。何を言いたいかは言葉にせずともわかった。張遼と李岳、半数ずつを率いて二手に分かれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 匈奴兵十五万は総崩れとなり、敗走を始めていた。

 まるで描いたような敗残の姿だったが、於夫羅は馬上で怒りながらも冷静に考えを巡らせていた。負けた、それは認めなくてはならない。二十万の匈奴兵のうち討ち取られたのはおそらく三万かそこらだろうが、指揮がここまで分断されている惨状では建てなおすことはもはや出来まい。それに敵は真っ直ぐ己の喉元を狙って突き進んできている。みすみすこの体を晒していい理由などどこにもない。

 最後に自らを守る五百の親衛隊に守られながら、於夫羅は戦場を離脱するべく退路を駆け抜けていた。

 道は二通りある。一つ目はここで撤退する兵をまとめ上げ都に帰還する北上の道だが、成すためには并州の追撃を待ち受けなければならない。それに都に戻った所でこの機に依って於夫羅の命を亡き者にしようという者も現れるやもしれない。敗戦の責を問うといえば大抵のことは通りそうだ。

(望み薄よな。ならば)

 於夫羅はもう一つの道を選んだ――南下である。長城を越え洛陽まで逃げ延び、皇帝に拝し今回の丁原の不埒な真似を糾弾するのだ。恐らく匈奴では、今回の出兵に反対した穏健派勢力は都の羌渠を除いて新たに単于を立てるだろう。それを不忠であり、我が父を殺させた己の不孝を雪がせよと訴える。田疇の手引きもある、彼の者の主に伝手さえ付けば後は如何ようにもやり方は残されているはずだった。

 内心の怒りに比して於夫羅は冷静だったが、それにしても李岳という男への殺意はこれ以上あるのかという程に胸に満ちていた。どこでどう烏桓に渡りをつけたのか、あの奇襲さえなければ関から打って出たたかだか四、五千の守備兵などなんということもなかった。包囲網は盤石だったのだ。本当ならば今頃あの小僧の四肢をもいで車裂きにしていたはずだったというのに。

 鴈門山の西側の隘路を縫うように於夫羅は駆け抜けていた。峠を越え、両側から切り立った崖が狭まり始めた。この先の岩山さえ抜ければなんとかなる――その時、一節の歌が於夫羅の耳に届いた。

 

 ――悲しや悲し。あな悲し。

 

 敵兵が追いついたか、だかあまりにも早すぎる。於夫羅と麾下は足を止め当たりを見回した。されど敵兵の姿はどこにも見えず、艶やかな女声の恋歌が聞こえるのみだった。

 

 ――好いたアンタと白髪になるまで。一緒にいると決めたから。

 

 とうとう於夫羅は剣を抜いて怒号を発したが狭い崖の隙間を通っていたために声は反響し、その出所を明らかにしない。

 

 ――アラ、アンタの釣り糸立派だね。ほらほら魚も寄ってきた。

 

 まるで鈴の音のような涼やかな声音を響かせていたのはやはり女で、頭上を見上げていた於夫羅の眼前、真正面に忽然と現れた。白地に鮮やかな晴天が如き青の刺繍を施した着物。うつむき加減のその顔には薄い絹が秘宝を隠すように垂らされており、ただ血のように赤い紅をさした唇が、いたずらっぽく歪んでいる。

「貴様……何者だ」

 於夫羅の誰何に、ホホホホ、と女は哄笑を上げた。

「あらやだ、アタシの名をお知りになりたいので?」

 そして再び狭い岩壁に跳ねまわるような甲高い声で笑う。その響きが於夫羅の逆鱗に触れた。刀を抜き放つと、もはや興味はないとばかりに振り下ろした――確かに捉えたと思えたはずの一撃は霞を斬ったように手応えなく、ただ女の顔を覆っていた絹を引き裂いただけにとどまっていた。

「強引だこと……そんなに欲しけりゃアタシの名、教えてさし上げてもよろしくてよ?」

 女は着物の左袒を捲ると、肩に焼かれた色鮮やかな紋々をさらけ出した。

 血塗れの梅を一本くわえ、白磁の肌に舞う燕――

「乱世に舞う飛燕――『黒山の張燕』たぁアタシのことよ」

 その名乗りが合図だったか。両側の崖の頂上にいくつもの人影が現れると一斉に矢を放ってきた。針鼠のようになっていく親衛隊の兵士たち。逃げ場も隠れる場所もなく、ただ無残な骸が増えていく中で、於夫羅は再びけたたましく叫び声を上げ、無数に飛来した矢の尽くを打ち払ったが――だがある者は死に、ある者は深手に呻き、手勢は見る間に半数近くにまで減らされた。

「あらお見事」

「黒山の張燕! 聞いたことあるぞ。貴様、一体何の目論見で俺の邪魔をする!」

「ウフフフ、殿方にそう凄まれちゃあ滾っちまうね」

「あばずれが!」

 おっ、と張燕が驚いたように目を見開いた。山脈が鼓動するかのように於夫羅の筋肉は盛り上がると、再び旋風を起こさずにはいられないような猛撃を繰り出してきた。再び迫った巨躯に今度は張燕は避けなかった。一合、二合……舞い踊るかのような双刀の舞に於夫羅の剛剣は噛み付くが、一太刀たりとも燕の翼に触れることは叶わなかった。

「……しゃらくせえ」

 張燕は双刀『銀翼』を交差させると於夫羅の大剣を絡めとり、走りぬけながらその両腿に切り込みを入れる。

 悠々と帯を舞わせながら、張燕は先程口ずさんでいた歌の最後の一節をさえずった。

 

 ――男にゃ意地だけあればいい。他のものなんていりゃしない。

 

 膝をついた於夫羅の前に立つと、煌く双刀を突きつけてから張燕はニコリと笑った。

「勝ち戦に負け戦、勝敗は兵家の常なれど、いくらなんでも年貢の納め時ってものがあらぁな。匈奴の右賢王於夫羅様、粘り強いのは夜伽だけで十分……この先に道はなし。アタシはあの世への道案内。提灯下げて行くことは出来ねども、せめてほろ酔い心地で逝きなっせ」

 鮮やかな輝きを見せる『銀翼』に於夫羅は息を飲んだ。於夫羅はその身体に猛然とした気合を充実させて立ち上がった。この程度の傷など何ほどのこともない、痛痒さえ覚えぬ。匈奴の王は伊達ではない、極寒の吹雪、乾燥した焼けた風、狼の群れ、飢え……苦難の中に生きた我ら匈奴、草原に生きる者の前には恐れるものなどない。

 悲願の南下を遂げて肥沃な大地を手に入れるための策動は未だ潰えぬ。この於夫羅が居る限り、匈奴は何度でも立ち上がり漢の天下を揺るがすのだ――

 だが、その闘気を袖にするように張燕は一歩後ずさるとひらりと背を向けた。

「……どうやらアタシの出番はおしまいのようだ。於夫羅の旦那、アンタの幕引きはあの坊やに任せることにするよ」

「なに!」

「お達者で」

 その声が呼び寄せたかのように、峡谷には突如馬蹄の音が響いた。於夫羅は後方を見た。土煙を上げて迫る漢の旗――二千は超えるであろう騎馬隊の先頭には小僧、と何度も罵倒した男がいた。そして振り返ると先ほど自分を追い詰めていた女は跡形もなく消えており、山上の伏兵も雲散霧消していた。

 李岳は麾下で於夫羅を包囲し、矢を構えさせて言った。

「於夫羅、投降しろ」

 於夫羅の周囲には最後までつき従うとした数百が残されるのみ。そのほとんどが親族であった。自分の身柄を守ろうと円陣を組むその者たちを押しのけて、於夫羅は悠々と前面へ出でた。

「小僧……もう一度言ってみろ」

「投降しろ」

「この於夫羅を侮るか――!」

 於夫羅の大喝は峡谷に弾け、李岳を除いた并州兵のほとんどが息を飲んだ。あれが於夫羅、単騎で漢を脅かそうとしたことさえある匈奴の勇者――李岳はもはや聞くまいとして自らの矢をつがえた。血が流れすぎている、意識も朦朧だった。だが於夫羅の顔ははっきりと見え、構えた矢は的中するだろうという確信があった。そして恐らく、於夫羅も全く同じような確信を抱いているだろう、ということも。

「わかった」

 それ以上言葉はいらない。李岳は一人構えた矢の弦を引き絞った。

 於夫羅は自らの死を覚悟し、それを受け入れた。敵わぬ――敵兵は意気も揚々たる戦勝軍、はたしてこちらは傷だらけの敗残……もはやこれまで。運否天賦もあったろうが、ここで土を付けられるような男に天下を飲み込む器はなかったということなのだろう。眼前に佇む、小僧と蔑んだ男を見て於夫羅はたまらなく愉快な気持ちになった。あれが俺の首をとるか――この於夫羅の首を!

 途端、子供の頃からいつも隣に寄り添っていたあの雄大な大草原の風、果てしない地平線を駆ける勇壮な風が胸に吹き荒れた。母の(かいな)に抱かれて、馬上で悠々と散歩した遠き時の源流……いまその心地良い肌触りを頬に感じながら、於夫羅は歩を進めた――これが誇り! 死への誇り! 再び於夫羅は笑い声を上げると、剣を掲げて走り始めた。

 足元の土を蹴り上げ、堂々と李岳に向かって突き進んだ。騎馬民族匈奴の王、流石の末路を見よとばかりに疾走する。見る間に迫り来るその巨躯、李岳は矢の狙いを定めた。

「その目にしっかりと焼き付けろ! 匈奴を率いて漢を下し、新たな皇帝となって国を興さんとした男の最期を!」

 叫び声を上げながら一路駆け抜けていく於夫羅に、李岳は最大まで緊張していた矢を解き放った。閃光のように迸った輝きは、吸い込まれるように於夫羅の眉間に迫った。

 

 

 

 

 

 

 二十万の匈奴兵を興し、漢の天下を転覆せしめんと企んだ稀代の野心家、剛猛なる群雄、類稀な腕力と野望を誇った戦士――

 梟雄・於夫羅、雁門関にて死す。




 作中、張燕が口ずさんでいる恋歌は前漢時代の美女、卓文君による『白頭吟』をアレンジしたものです。

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