真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第二十話 露見

 公孫賛は目が回るような日々を送っていた。

 西涼の乱からこちら、その功績によって元々の所領である琢郡の他に、代、上谷の二郡を任せてもらうことになったはいいものの、元々軍人上がりで政が得意とは言いがたい公孫賛である、赴任してすぐの頃は文字が読めればそれだけでいいとばかりに町には札を立て文官を補充せんと躍起になっていた。三郡でこの有様である、せっかく経営も軌道に乗ってきたのだからと欲張って中山郡を手放さずにいたらどうなっていたか、想像するだけでもぞっとした。

 休みも満足に取れず、古参の者にも負担をかけてばかりで申し訳ないと思う。だがそれでも成果は着実に上がっており、公孫賛は日々が楽しかった。賊の討伐を円滑に行うために街道を整備すれば民がそれを用いて三郡を行き交い始め、物が動き、町は栄え、人も集まる。『護烏桓校尉』の位官を正式に賜ってからは武官、文官問わずにさらに人も集まってきた。異民族との軋轢がないとなれば田畑の拓きも増え、北方特有の物産も徐々に町に流れ込み始めた。

 烏桓との付き合いは徐々に密さを増し、公孫賛の求める騎馬隊の充実も日を追う毎に成されていった。なにせ遠く并州に求めずとも同じくらい馬に馴染んでいる隣人がいるのである、金と物とで分けあう事ができるのならばそれに越したことはないし、双方の益となる。烏桓は匈奴に比べて馬を用いた戦法、戦術の中身を異にするが、多くの駿馬を産出するのに変わりなかった。

 烏桓への防衛対策として下賜される秩石二千石のほとんどが烏桓へと渡っているという事実を朝廷が知ればいかに思うだろう、だが矛を突き立て合うよりも手を取り合う方が百倍も優れた防衛政策なのだ、と公孫賛はしみじみと実感していた。

 とうとう公孫賛の持つ兵力は一万四千を超え、三郡の相としては抜きん出たものとして『北方の雄』の名を欲しいままにしたが――凶報は、そんな折にこそよく届く。

「なに、趙子龍……星が戻ってきただと?」

 知らせにやってきた程緒(テイショ)――最近文官に雇った男で、中肉中背の特徴のない男ながらよく言えば公明正大、悪く言えば毒舌吐きの堅苦しい頑固親父――の言葉に公孫賛は目を丸くした。趙雲は李岳という男の本質を見極めなければならないとして先日ここを発った。あれから一月も経っていない、無事に目的地へ辿りつけたか、あるいは見つからなかったか、見つかったとしてもとんぼ返りとして戻ってきたか――だがどちらにしろ『朋有り遠方より来る』に相違はない。

「また楽しからずや、か……よし、すぐに連れてきてくれ」

 朝から昼まで未だ慣れない文官仕事にかかりっきりだったのだ、頭も痛ければ肩も重い。まさにこの窮状を察し救出せんとして来訪した友である、散らかった部屋を見せることはできないと公孫賛はいそいそと書類を片付けてから、程緒による諫言と言う名の小言さえも強引に聞き流して押し付けた。

 趙雲はいつものように飄々と現れた。

「元気そうだな、星」

「白蓮殿こそおかわりないようで」

 二人は笑いあうとお互いの無事を喜んだ。この時勢である、いつ何時死に臨むことになるやらわからない。朝に五体満足でありながら夕暮れには埋葬されていたとして不思議なことなどない。旅だった友が無事にまた会いに来てくれた、これ以上の喜びがどこにあるのだろうか。

「どうだった、旅は」

「中々得るものが多く、積もる話も山とあるのですが……実は時があまりない」

「時がない? 少しゆっくりしていってもいいだろうに」

「そうも言ってられないのですよ。火急の時、というやつでしてね。実は白蓮殿には助力を願いたく参上いたした次第なのです」

 親しい友の頼みだ、どんな類のものであろうと応えるにやぶさかではない。水くさいことは言うな、と公孫賛が頷いたのを認めて、趙雲はフフフ、と笑いながら言った。

「これは助かる――それでは二、三千ばかり騎馬隊を引き連れてちょっと出陣と参りませんか」

「出陣? なんだ、賊でも出たのか」

「うむ、賊と言えなくもないですな。とんでもないものを盗みとろうとしている」

「わかった。この公孫賛、相として応えなくちゃな。で、相手はどこの誰かわかっているのか? 黄巾か?」

「いいえ」

「じゃあ黒山か?」

「いえいえ」

 そんな大層なものではない、と趙雲は首を振るので公孫賛ははてなと思った。黄巾でもない、黒山でもない、どこぞの新手が流れてきたか、だがそうであるならば自分が聞き及んでいないはずもない。趙雲はにんまりと意地の悪そうな笑みを浮かべると種を明かした。

「匈奴の精鋭二十万、漢の天下を盗み取らんと南下をしているのです」

「そっか。匈奴が二十万」

「ええ」

「――おえあ?」

 あまりにも現実離れした回答に、口からわけのわからない声が漏れてしまった。趙雲は愉快そうに笑うばかりで、あるいは冗談なのかと公孫賛も笑みを浮かべようとしたが、途端唇を固く結んで言った。

「右賢王於夫羅を総大将とした二十万の匈奴兵、長城を乗り越え洛陽を掌中にせんと蠢いております。まさに火急の時。三郡相におかれましては今この時を置いて立ち上がる機はありませんぞ」

「待て、二十万の敵に数千でどうするというんだ!? 他の諸侯も立ち上がったのか? こちらの兵力はいくらなんだ」

「并州刺史、丁原率いる兵およそ三万」

 公孫賛は趙雲がさらに名と兵力を連ねるのを待ったが、それでしまいだとばかりに口を固く引き結んでいる。公孫賛の手に汗が滲み、喉の渇きに呻いてつばを飲み込んだ。

 中華の歴史において最も巨大な災厄とは内乱でも、大雨でもいなごの大群でもない――それは北方騎馬民族の攻撃に他ならない。今までどれほどの数の激戦を繰り広げてきたのか、そしてどれだけの被害が出たのか――そんなもの、何百里、何千里に及ぶ長城を見れば万言を尽くすよりも早い。

「無茶だ、無謀だ!」

「無茶、無謀……確かにそうでしょう。ですが白蓮殿、時は無いのです。今すぐ騎馬隊を率い、出陣しなくてはなりません」

「だが数千ばかりで何ができるというのだ」

「できるのです。この戦は貴女と、貴女が率いる『白馬義従』の働きこそが肝なのです」

「……一体、何をさせようというのだ」

「――匈奴の都、単于庭へ。敵の後背を扼し匈奴の結束を瓦解させる矢となっていただきたい」

「馬鹿な!」

 なんという策なのだろう! 二十万の匈奴が漢を狙って南下を企てるというのならその正面を食い止めなくては、となる。だが側面、あるいは背後を狙うとは――しかし戦法としては正しいだろう。敵の弱点である兵力の薄くなった首都を狙うのは兵法としても理にかなっていた。『囲魏救趙』という言葉もある。古の戦国時代、魏国に取り囲まれた趙国を救わんとして、斉国は囲みではなく魏本国を狙い、見事目的を果たした。『孫子』の名を受け継いだ偉大な軍略家、孫臏(ソンビン)の献上した策であった。

 とはいえ、たかだか数千で都を落とすことなど出来はしないし、三万でも四万でも予備兵力を差し向ければそれでお終いなのだ。やはり無謀だと公孫賛は首を振った。

「趙を救った斉の将軍、田忌になれとでも? だがあまりにも兵力が違いすぎるぞ、それに都など落とせるわけがない」

「それが出来るのです……それを成し遂げんとする男がいるのです。匈奴の野望を食い止めんとして立ち上がった、たった一人の男の頼みで私は参ったのですよ」

「……誰の話をしてるんだ」

「この秘策を考えた、この時代に蘇った孫臏――姓は李、名は岳。懐中の秘策を携えてこの趙子龍、まかりこした次第でござる」

「李岳……!」

「彼は言っておりましたよ。公孫賛殿なら大丈夫、と」

 そして趙雲は述べた、李岳が述べた救国の策を。公孫賛は見る間に顔色を変え、気づいた時には興奮に歯を食いしばっていた。

 脳裏には小柄で柔和な笑みを口元にたゆたえた男の姿が浮かんだ。李岳は公孫賛の脳裏でわずかに顔を伏せると、いつか見せたあの酷薄な笑みを浮かべている。

 偶然立ち会ったというそれだけの理由で公孫賛を貶めんとした陰謀を暴き、烏桓との軋轢を解きほぐしてしまった男。李岳があの場にいなければ現在のように三郡を治めることなど出来るわけもなかったし、烏桓の反乱により血と泥に塗れて駆けずり回っていたかも知れない。

 その恩人が立ち上がった、趙雲に必殺の策を預けて寄越し、公孫賛の力を頼みにしている――借りを返せと言葉に出すことすらなく。

「ふふふ……相も変わらず意地の悪い男だ」

「さて」

 とぼけているが、趙雲も同じようにおかしく笑った。公孫賛は立ち上がると麾下に服す田楷と従妹の公孫範を呼んだ。留守を預けるための命令を下すのだろう。公孫賛は策を飲んだ。趙雲は満面の笑みを浮かべてきびすを返し――そこでふと思い出したように付け足した。

「ところで白蓮殿、頼みついでにもう一つばかり」

 怪訝な顔を浮かべる公孫賛に、趙雲は李岳に負けじと自らの悪巧みを嬉しそうに打ち明けた。

 

 

 

 

 

 

 

 日は中天にさしかかったが、公孫賛率いる騎馬隊は速力もそのままに北上を続けた。幽州を進発し二日が過ぎた。既に三つの領城を抜いている。匈奴の城は漢のものとは違い簡易な柵を組み合わせた関所のようなものでしかなく、守兵も五百そこそこで問題などなかった。三千の『白馬義従』はその全てを瞬く間に抜き去り、一路匈奴の都、単于庭を脅かさんと疾駆していた。陰謀に耽溺し中華の平和を乱さんとする匈奴を食い止めるために。

 曰く、黄巾賊の討伐の要請に応じる振りをして長城を越えすかさず矛を洛陽に向けるや天子の身柄を侵し華北を掠奪せしめんとするという恐るべき陰謀で、既に出撃したであろう匈奴の兵は二十万にも上るという。

 趙雲の要請に公孫賛は自らが指揮する騎馬隊の出陣を決断した。周囲の刺史、太守、令を始め軍権を持つもの全てに押し黙っての緊急出撃だった。胸中には李岳より携えられし策――匈奴はもちろん漢さえも欺いて敵将於夫羅を討ち取り匈奴の進軍を押しとどめる、まさしく必殺の策が秘められていた。

 三千の騎馬隊は公孫賛を先頭に戴き、両脇に趙雲と呂布を置いて背後に続く。

 呂布、という娘は李岳の馴染みの娘らしく、必ずや役に立つとして趙雲が推した。三千の『白馬義従』の中で、呂布の馬だけが異様な程に大きな馬体で並々ならぬ存在感を放ち、そして何より鮮烈な赤毛が目に痛い程……紅一点と呼ぶにふさわしかった。

 馬の扱いが達者であることはすぐにわかったが、武器を扱わせるとその比ではなく、もはや唖然とするほどであった。五百の兵が守る領城の突破、そのどれもが呂布の功績といっても差し支えないだろう。趙雲と二人で騎馬隊を駆けるやいなや、戟の一振りで十人余りを弾き飛ばし、返しの一撃でさらに十人――それを間断なく続けるのだから敵はたまったものではない。趙雲の槍も相変わらず目を見張る程の冴えを見せたが、呂布の活躍はそれさえ霞ませた。

 仮に呂布と趙雲が一対一で戦えばどうなるか、公孫賛は想像してみたが勝敗を決するのは時の運としか思えなかった。だが数千、数万の軍勢同士の衝突の場合、より強大な攻撃力を発揮するのは間違いなく呂布だろう、と思った。

 武芸者としての趙雲の戦法は根が対人であり、一騎打ちなら天下第一を競えるだろう。だが呂布はもはや対陣、対軍のそれである。味方でさえ怖気を覚える程の武力……だが話してみれば稚気の塊みたいな娘なのがまた公孫賛を驚かせた。

「呂布殿……疲れてないか」

「大丈夫」

 公孫賛は気遣ってみたが、呂布はフルフルと首を振って馬の首を撫でた。趙雲の言葉によると李岳と親しく、同じように匈奴の地を出奔してきたとのこと。李岳は安全な集落に残るよう言い含めたようだが、趙雲は思うところがあって連れだしてきたらしい。公孫賛も知己の武芸者の気持ちがよくわかった。呂布の持つ武力、天下の片隅に逼塞させておくのはあまりに惜しい。万夫不当、天下無双――どのような修辞でさえ足りるということはない。

 出立の際に部族の族長から詫びとして受け取ったという馬も見事なもの。呂布はなぜかその馬を『二号』と呼んでいたが、愛しそうに撫でるのを見ると含みがあるわけではないようだった。

「申し上げます、前方に敵兵、約三千!」

 はっとして前を向いた。およそ前方四里、横に広がる砂塵が見える。目算では匈奴の本拠地と言える地域まで残り五十里まで迫った。二十万もの兵を興して攻勢に出ているのだ、あの三千がなけなしの防衛線というところなのだろう。抜けば相当な動揺を与えられるに違いない。

「皆、臆するな! 李岳の策の成否はこの一戦にかかっているといっても過言ではない! あれを蹴散らし……って、おいちょっと待て!」

 公孫賛の指示もそこそこに呂布が飛び出していき、苦笑して趙雲が続いた――公孫賛も慌てて号令をかけた。同数の相手だ、本来ならば慎重を期さなくてはならないだろうが……しかし公孫賛は勝利を確信していた。呂布と趙雲、この二人が見る間に敵を打ち取っていく光景がありありと思い浮かぶからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 於夫羅は血まみれで己の営舎に戻った。全て返り血である。

 急報が本陣に届き、それに対処せんが為の緊急動議が催された。その軍議の折、撤退を進言した二人の長を己の剣で刺し殺した。敵前逃亡を促したとして、庇い立てするのならば同様に血祭りに上げる、と声を上げるとようやく場は静まり返った。

 

 ――幽州にその名を轟かせる『白馬長史』公孫賛急襲、宮廷を目指し一路北進!

 

 早馬の知らせは匈奴の全軍に衝撃をもたらした。

 今回興した漢攻めのための二十万は総力を上げたものである、本国にはその十分の一にも満たない兵しか残っていない。予想だにしていなかった幽州兵の急襲はものの見事に匈奴の間隙を突いた。騎馬隊のみ数千の兵力だというがその勢いは水際立ったもので、瞬く間に砦や城を抜き、同数の軍勢でさえ目ではないと蹴散らしたという。

 於夫羅もそれを看過するわけではなく、すぐに手勢の五万を差し向けると宣言した。たかが数千の部隊である、五万もあれば十二分に防ぎきることは可能であろう――軍議の途中であるにも関わらず、左大将を筆頭に五万の軍はただちに進発した。郷里を守るための出陣に皆喚声を上げたが、撤退の声はそれでも上がった。

 曰く、公孫賛の時期を見計らったような攻勢を見るまでもなく、丁原の防衛部隊をはじめ既に漢軍は匈奴の計画に気づきその対策をこしらえていた。これは作戦が筒抜けであったことを示すものでもある。漏れた計画を推し進めるのには無理がある、出撃した兵が公孫賛のみとは限らない、迂回路を通って他の大部隊が後背を狙っているとも限らない。

 まともに聞くに値しない惰弱な言葉であり、於夫羅は鼻で笑い反論した。

 

 ――匈奴の計画を知らせたのは李岳という小狡い小男に相違ない。やつが漢に逃れ出ての時間を考えると鴈門の部隊を動かし、公孫賛に知らせを届けるのが精々でしか無い。仮に大軍が催されているのならば今頃本陣であるここが襲撃されている。遠く離れた匈奴の都に数万の軍を派遣するなど、補給路を断ってくれと言わんばかりのもので、そのような愚策を取るはずもない。数千の幽州兵などただの陽動部隊に過ぎず、数万の軍勢を戻して公孫賛を防ぎ、本隊は計画そのまま長城を越えることを目指すべきなのは明白である。

 

 それでも執拗に上がった撤退、帰参の声に於夫羅の堪忍袋の緒は断裂し、連名で撤退を進言した二人をその場で手打ちにした。

 いま、於夫羅は一人である。怒りは収まらず、血に濡れた剣を放り投げるや憚ることなく怒声を上げた――だが営舎に一人でいる、というのは於夫羅の錯覚でしかなく、その声は部屋の片隅から確かに於夫羅に届いた。

「お怒りのようで……」

 幽鬼のような青白い顔、憂鬱そうな瞳、気だるげに結ばれた唇……田疇はいつものようにゆらりと現れた。

「田疇、貴様!」

 於夫羅の恫喝に竦むこともおびえることもせず、田疇は悩ましげに眉根を寄せた。

「李岳という男……手強いですな。丁原を丸め込み、執金吾就任の勅さえ無視させた」

 朝廷に働きかけ打った手が無駄になった。并州での軍権を直ちに手放さなければ反逆者として処分する、というこれ以上ない脅し文句を添えたというのに、丁原は李岳の言葉を選んだ。

「丁原が動いたこと、なぜ気づかなかった! 初戦であのような無様な敗戦を喫しなければまだやりようはあったぞ!」

 雁門関は音に聞こえし頑健な砦なれど、二十万に対するは二万に過ぎない軍勢である。露見したとしても圧倒的な物量で蹂躙し押し潰せるはずだった。それが初戦に完膚なきまでに叩きのめされたことにより味方の士気が著しく萎えていた。

 個人的な怒りもあった。李岳の一撃により無様に落馬し、這々の体で遁走したのだ。今頃城中で笑っているのではないかと考えるだけで怒髪天を衝く。

 その後の敵方は意気も高く、防衛する指揮もこちらが臍を噛む程に的確で攻略の糸口すら見えない。

「ええ……まあ、言い訳ですが……洛陽に向かうと南下したが、途中で折り返したのですよ。黄巾賊の一団が晋陽を狙っているとして……偽装工作だったのですな」

 田疇は人差し指をくるくると動かし、晋陽から鴈門に駆け抜けた并州兵の動きを表現した――だが、その動きが於夫羅の怒りの火に油を注いだ。先程放り投げた剣を再び手に取ると、於夫羅はこの痴れ者の生命を断たんと振り下ろした。手に走る手応え――しかしそれは見事な程に空虚で、霞を斬るよりもかすかであった。

「貴様!」

「お怒りはごもっとも……ですが、お鎮まりください……」

 武術などとても身につけた気配のない男であるが、於夫羅の一撃を見事に躱した身のこなしはまるで柳の枝、流水のそれであり、押せば倒れそうな顔色の悪さからは想像できないほど流麗であった。怖気を震う程の静かな技だった。

「せめてもの詫びですが、一報をお届けします……并州兵は別働隊を組織しました。およそ二万の軍勢が長城を越え、山を迂回し本陣を狙っています」

「なんだと!」

 田疇は再び指先を動かした。両手の人差し指を二つにわけるように動かし、半円を描いた右の指で自らのこめかみをトン、と突いた。

「於夫羅殿、貴方の首級を挙げようとしているのです……貴方を仕留めれば匈奴は引く、と……」

 脳裏の地図に別働隊の動きと自陣の配置が浮かぶ。於夫羅は笑った。

「フフフ……よくぞ知らせた。でかしたぞ。これで返り討ちにできる……あるいはあの李岳とかいう餓鬼もおるかもしれんな……いや、やつは必ず居る! 不遜にもこの於夫羅を討たんとするはずだ! 俺にはわかる!」

「……撤退はいたしませんか」

「笑わせるな! 千載一遇の好機とはこのことよ。舞い上がったか、馬鹿が、吠え面をかくが良いわ……!」

 陣幕を飛び出して於夫羅は出ていくと、再びの軍議の招集を連呼した。これより策を練り敵を討ち取ろうとするのだろう。確かに二万もの軍勢を動員しての奇襲である。それを挫き全滅させることが出来れば雁門関の守兵の士気は衰え、寄せるだけで散り散りに逃げ去るだろう。田疇は於夫羅の計画を英断とも愚かと断ずることは出来ず、果たして成るかどうかはわからぬと保留した。

 二万の軍勢も決死である、もはや運否天賦の争いとなるだろう。お互いの企ては露見し、知の羽はもがれた。より天に愛されているどちらかが再び翼を授けられて舞い上がるだろう。敗れた方は虫のように地を這いつくばったまま、あわれ踏み潰されることになる。

「さて、匈奴の王か、今飛将軍か……『天下蠱毒の計』……成るや成らざるや……」

 田疇の表情にはただ憂いがあるのみであった。




(^q^)おえあ?

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