父と母、その出会いについてです。
(一)
雪解けの水があふれ、草原を濡らす。
朝焼けは地平に至るまでの全ての雫を照らしている。果てしない平原は潤いに芽吹き、ところどころで白い花を咲かせていた。
——そんな美しい春に女はやってきた。
「剣を一振り頼みたい」
名乗りもせず、扉を開けていきなりそう言った。
不躾というものにも限度があるだろうと思った。
「他を当たれ」
李弁の答えは端的だった。日課の散歩を楽しんだ後剣の研ぎにかかろうとしていたところである、訪問者に視線を向ける気さえ起きなかった。
近頃は李弁の名も并州で知られるようになった。
剣、鏃、槍の穂先に包丁まで、刃物であればなんでも作った。大抵の鍛冶屋に負けるとは思わなかったし、洛陽で名の知れた職人の仕事でさえこんなものかと思うほどだった。李弁は己の仕事に自信を持っていた。だが同時に空虚でもあった。
李弁の名を知ってこうして頼みにやってくる者も初めてではない。そして断ってばかりいる。
「見て良いだろうか」
慮外の言葉に初めて李弁は顔を上げた。断ったあとにさらに居座ろうとする者など初めてだった。
一生笑いそうにない女だ、という印象を得た。
「何を見る」
「研ぎを。見事な仕事だ。剣も欲しいが、無理であればせめて仕事ぶりを拝見したい」
李弁は答えず、黙って仕事に戻った。女はそれを許可と受け取ったようで、履き物を脱ぐとすぐ隣に座って覗き込んできた。
気持ちをあらためるために李弁は手元の桶の水を入れ替えた。砥石をざばりと濡らし固定する。
砥石は恒山で十年かけて探し当てたもので、目の粗さが異なる荒、中荒、中、仕上げの四種類を使い分けていた。
今は中砥石を当てている。研ぐたびに鍛えた鉄が剥き出しになるような大胆な手応えがある。しかしここで落胆や興奮を覚えては間違えることを李弁はよく理解していた。
石、水、鉄。それらを擦り合わせるだけの何者かになりきろうと李弁は黙々と作業に徹した。
西日を眩しく覚え、すっかり夕方になったことに気づく。一刻半は作業に没頭していただろう。顔を上げると隣に女がまだいたことに李弁は驚いた。
「明日も来て良いか」
「明日?」
李弁の声ははからずも上ずった。
「近くの集落に宿を借りている。明日も来れる」
「依頼は断ったつもりだが」
「ああ。だがその剣が仕上がるのをどうしても見たいと思った」
しばらくの宿賃も前払いで済ませてしまっているしな、と。
女はやはり笑いもせず、無造作に出ていった。
女は翌日も本当にやってきた。それも朝からである。名を聞くと丁原と言った。并州の州都である晋陽で小部隊を率いているという。二十そこそこの齢であろうか。余程の血筋か腕がなければ無理な地位だが、根拠もなく李弁は後者だと思った。
「なぜ剣が欲しい?」
三日目になってようやく李弁はそう聞いた。白湯を口にしながら丁原は答えた。
「師より皆伝と言われた。しかし遠く及ばないことはわかっている。私は強くなりたいのだ」
丁原の瞳は真っ直ぐだったが、揺れてもいた。
「なぜ強くなりたい」
丁原はしばらくうつむいたあと、らしくなくたじろぐようにポツリと言った。
「野盗がいて」
言葉を切りながら丁原は続けた。心の裡を表す言葉がないのだろう、手繰り寄せるように話す。
「部隊を率いて征伐に行かねばならない。だが敵は多く、こちらの味方は少ない。私が十分に強ければそれで問題ないのだが」
「一人で数百人を斬りたいのか?」
李弁の言葉にまたも考え込む丁原。
やがて首を振った。
「わからない。言われてみれば違うという気がする。私が強くなりたいのは、もっと」
手探りで語ろうとする丁原は、ああそうだ、と答えを見つけたように言った。
「もっと、しっかり立ちたい。そういうものに近い気がする」
李弁は聞き終えると、白湯を飲み干して言った。
「表に出ろ」
言い放つと丁原を待つことなく李弁は先に出た。そして扉の脇に立て掛けていた二本の木剣を握る。遅れて出てきた丁原にそのうちの一本を放り投げた。
器用に掴み取った丁原は流れる水のような自然な動きで構えた。
「打ってこい」
「……覚えがあるのか?」
「扱えもしないものを、作った覚えはない」
李弁が構えると丁原の目の色が変わった。好奇心、向上心、そして稚気のような殺気がぶつかってきた。
丁原もまた構えを取った。
撃剣だ、と李弁は見抜いた。飛剣も使えば奇手や返し技もある難解な剣法だと聞いたことがある。構えは完全に堂に入っていた。
対峙は束の間であった。丁原の踏み込みは深く、速かった。
上段からの振り下ろしが襲ってきた。まるで試すような一撃だな、と李弁は受け止めながら思う。力で押し返した。だがまるでまとわりつくように丁原は離れず巧みに技を繰り出してくる。距離を取ろうとするが丁原はそれを許さない。李弁の袈裟斬りに合わせるように小手を放ってくる。
丁原はまるで遊ぶように動く。力強さの中に繊細な技があった。二度三度と馳せ違い、四度目で李弁の木剣は頼りなく宙を舞った。
「やるではないか、鍛冶師殿。そこらの将より達者に扱うのではないか? もう一本どうだ」
息を弾ませながら丁原は落ちた木剣を拾った。
「もういい。十分わかった」
李弁は丁原に見られないように目の辺りを揉んだ。
速い動きを追うと途端に視界がぼやける。どういう病なのかも知らないが、治し方はもちろん確かめる方法さえわからない。
「強いな。しかし騒がしい」
丁原が不満そうに口を尖らせた。
「師匠からもよくうるさい剣だと言われた。意味がわからない。私は黙って打ち込んでいたはずだ。それとも何か、貴殿らは物と会話が通じるのか?」
李弁は思わず笑ってしまった。
「くっくっく。確かに貴様の剣はよくしゃべる。そなたの師は慧眼であろう」
「……李弁殿も笑うのだな」
丁原はまるで獣が話しているのを見たとでもいうように驚いている。すぐさま李弁は笑顔を引っ込めた。
同じことを考えていた。
李弁は妙な気恥ずかしさに耐えられなくなった。そして自分だけ損をしている気分になった。いつか笑わせてやる、となぜか強くそう思った。
「しかしなぜ急に打ち合おうなどと?」
「使い手の動き、癖、重心を知らねば良い剣は作れない。手を見せてみろ」
要領を得ない顔をしている丁原にしびれを切らし、李弁は半ば強引に丁原の手を取った。左右それぞれの指の長さと手の平の厚みを確かめる。
手の大きさを測ることで、必要になる柄の寸法がおおよそわかるのだ。さらに手の平を重ねて全体の大きさを確認した。掌中に熱がこもる。
「なるほど、よろしい」
「え?」
「手の大きさだ、それを測っていた」
「手? 手か。そうか」
「何だと思ったのだ」
丁原が驚いたように目を丸くしていた。この女も童のように驚くことがあるのか、と思うと李弁はなんだか愉快な気持ちになった。
「ひと月後にまた来い」
「え?」
「それまでには仕上げておこう」
一拍を置いて、本当か? 嘘ではないな? と童のように丁原は飛び跳ねた。
(二)
北辺の地に雨は少ない。夏になればなおさらだ。
涼しく乾いた風が吹くものの、容赦ない日差しが肌を焼く夏——李弁は南から来るはずの人を待ち続けていた。
あれからふた月になる。約束のひと月は無論とうに過ぎており、李弁は鍛え終えた剣を毎日眺めては早く渡してしまいたいと焦るような気持ちでいた。
呼びもしない時には無遠慮に入ってくるくせに、来いと言った時には来ないとはどういうことか。
しびれを切らした李弁は荷支度を済ませると并州晋陽に向かうことにした。この剣のために断った仕事がいくつもある、銭を回収しなければ暮らしが立ち行かない、と己に言い聞かせた。
家を出てしばらくするとちょうど匈奴の一団にはち合わせた。一里ほどの距離があるが、五十人ほどの集団で妙にものものしい。
老いた馬にまたがった男一人くらい気にも留めないだろうと思っていたが、やがて先頭にいた一騎がこちらに疾駆してきた。
大きな体に見覚えがある。卒羅宇であった。
「報元。どうした、何をしている」
黒々とした豊かなあご髭をしごきながら卒羅宇が言った。
「少し出かける」
「珍しいな。長城を越えるのか?」
「晋陽まで」
物売りにしては身軽である。それを見抜いたのだろう、卒羅宇は茶化すように言った。
「女にでも会いにいくのか?」
李弁の様子に我が意を得たりと卒羅宇は笑った。
「ほう? これは面白いことになってきたのう!」
「勘違いをするな。客に会うだけだ。それより貴様らこそここで何をしている」
「鮮卑よ」
卒羅宇は苦々しげに吐き捨てた。
鮮卑は匈奴を従えるほど巨大な勢力に成長し、ともに戦うことが多いもののその横暴は時を追うごとに増大していった。
それも全て若き大人・檀石槐の比類なき力と野心によるものだということは周知である。威を笠に着るように略奪する部族も増えてきた。このまま行けば匈奴が塗炭の苦しみにまみれることは自明であると誰もが見ている。
卒羅宇は鮮卑との無用の衝突を避けるため草原を見回っているのだ。だがいずれ大きく衝突することは避けがたいと李弁は思っている。李弁が考える程度のことに卒羅宇が気づいていないとも思えない。
「苦しいな」
「なに、凍える冬に比べれば」
卒羅宇は鷹揚に笑って部隊に戻っていった。
数少ない友の一人だと思っている。死んでほしくない男だったが、同時に戦士でもある。鮮卑との戦が本格化することはしばらくないにしても、いずれぶつかることは明白。激しい戦になるだろう。
李弁は漢人としての誇りを抱いたまま匈奴の地に生きてきた李陵の末裔である。匈奴と鮮卑の戦いを前にできることは何もなかった。
だが憤怒が風化することもまたない。
火がついたような怒りを抱えたまま、李弁は長城を越え、いくつかの街を経て晋陽へと向かった。年に一度は通る旅路で、どの街にも馴染みはあった。
晋陽の城門では通常よりもものものしい警備が敷かれていた。身分証である割符の確認も、普段は割愛されることもあるというのに例外なく徹底されていた。
おかげで入城するまで一刻もかかってしまったが、待っている間におおよその事情は聞き取ることが出来た。
やはり鮮卑である。幽州を侵したようで、連鎖するように盗賊の襲撃も増えているとのこと。国境に軍が派遣されているため、手薄になった街を狙っているらしい。
晋陽に駐屯している部隊も出ずっぱりとのことで、確かに常にはない緊張が城内を満たしていた。
街を一周した後、李弁は軍令所に向かった。
「丁原殿はこちらか」
身分証を示しながら李弁は歩哨の兵に言った。
明らかに北辺の服装に身を包んでいる李弁を胡散臭く見やってくる。
「……不在だ。既にひと月になる」
「どちらへ?」
「幽州だが」
「具体的には?」
「作戦行動だ。なぜ貴様に詳しく教えねばならん」
口ぶりから察するにやはり賊の討伐に派遣されているようだった。丁原の出撃は卒羅宇が警戒している事態とも連動しているのかもしれない。時期が重なりすぎている。并州兵が幽州まで支援に向かうなどと、厄介な事態であることには間違いない。
「……貴様、匈奴の者か?」
歩哨の目に宿っていた訝しげな視線が、徐々に明らかな侮蔑の色に変わっていった。
「割符は見せた通りだが」
「だからなんだ? おい!」
歩哨が背後に向けて声をかけると、ぞろぞろと兵士たちが集まり始めた。
面倒なことになったな、と李弁は他人事のように思った。叩きのめされ、数日牢屋に入れられるくらいであればまだましな方かもしれない。
さて、と腰の物に伸ばしかけたその時だった。
「あらぁ、旦那!」
急に右手にしがみつく者があった。肘に柔らかな感触がまとわりつく。梅の香りがした。赤い唇が目にも眩しい、外連味のある女がそこにいた。
「旦那、アタシとの約束をすっぽかしてこんな所で油売ってるなんて、ひどいじゃないのさ」
顔なじみのようで、兵の顔から途端に剣幕が剥がれ落ちた。
「なんだ、お前の客か」
「あら、ちょっと揉め事は勘弁してよ。今夜の稼ぎがなくなっちまうじゃないのさ! 今度また若い子揃えておくから見逃しておくれよ。ねぇ?」
女は兵の両手を包み込むように握ると、猫が甘えるような声でささやいた。男はすっかり骨抜きの様子で集まってきた仲間たちをなんでもないと追い返してしまった。
解放された李弁はさっさと来た道を戻った。後ろからは当然のようについてくる足音。二つ目の路地を曲がったところで声がかかった。
「ちょっと、礼くらいあってもいいんじゃない?」
「何の礼だ? 困ってなどいなかった」
「お尋ね者になって困らないとでも?」
この女は気づいている。李弁が兵に向けて抜剣しようとしていたことに。
「礼とならば、何が欲しい」
「さて、何をして頂ける?」
「誰か斬って欲しい者でもいるのか?」
女は一瞬目を丸くして、すかさず大笑いした。
「アンタおもしろいね? アタシは張燕。これは案外、アタシら縁があるかもよ。一杯おごりなよ」
「名乗られても知らん。縁などない。おごらん」
ひひひ、と張燕と名乗った女は笑った。
「じゃあアンタの名前を当ててあげよう。もしご明答ならアンタはアタシに一杯おごる」
返事を聞く前に張燕は李弁の胸を突いて言った。
「李弁だね」
李弁は慌てて懐を探った。割符を抜かれたのだ、と思った。だが上着の上からでも間違いなくそこにあった。取り出しても偽物ではない。盗み見られることもないはずで、であれば答えは一つだった。
「……一杯だけだぞ」
「話のわかる男じゃないか。いいね、行きつけの店があるのさ。なぁに、酔いも回りゃアンタが知りたいことだってこの口から勝手に出てくるかもね」
李弁の腕を強引に引きずって張燕は酒家に向かった。細腕のくせに有無を言わせない力があった。
張燕の顔を見ると、酒家の女将は肩をすくめて奥へ消えて行き、すぐに酒と料理を運んできては所狭しと並べてしまった。
椅子に腰をおろした張燕は女将の気遣いに感謝する様子もなく、おごりの酒ほど美味いものはないと、グイグイ飲み干しながら笑う。
「アンタが知りたいのは丁原の居場所だろう?」
差し出された杯に口をつけながら李弁は頷いた。
「ああ。だがなぜ?」
張燕は煮込んだ豚肉かぶりつきながら言った。
「アタシが国を盗むため。そのために丁原の力が必要なのさ」
「国を盗むだと?」
「アタシ、盗賊ですのよ」
それも頭目、と。さしもの李弁でも面白いと興味をそそるには十分な回答だった。
「……貴様が盗賊の長であることと丁原に何の関係がある。それに、国だと?」
「アタシの目的を成し遂げるためには官軍との繋がりを持つ必要がある。丁原に恩を売ることはとても重要なの」
「丁原はそれほどの人なのか?」
「……貴方、本当にアイツの知人?」
女は突如疑わしげな様子を見せた。
「丁原といえばこの并州で知らぬ者のいない剣客で、無敗の騎馬隊を率いる将として声望も高まっている。武断の地であるこの北方では好かれる性格で、いずれ并州を統括する地位にまで登ると見る者もいるというのに」
「それはおみそれした」
丁原は自己紹介を控えめに伝えていたようだ。
「貴方にはどう見えていたの?」
「おもちゃを欲しがる子ども」
怪訝そうな表情を見せた女に、馴れ初めとあらましを簡単に伝えた。女は目を見開き面白そうに笑った。
「なるほど、そういう関係」
「何を考えているか知らんが、俺は丁原に会えればそれでいい」
「アタシもそう。つまり利害は一致した」
確かにお互いの目的は合致する。まるで示し合わせたかのような出会いではある。張燕も同様の感想なのだろう、笑顔で食って飲んでに忙しい。
「もう一つの問いは? なぜ知ってるか、の方だ」
「ん? んん」
張燕は口いっぱいに放り込んでいた肉を、酒で流し込んでから言った。
「簡単なこと。アタシが丁原に近づこうとしたのは昨日今日じゃないってことさね、鍛冶師殿」
「……尾行したのだな」
「その様子じゃお察しのようだね。頭の切れる男は嫌いじゃない。それに……ねぇ、あんた腕っこきなんだろう? アタシにも一振り剣を打っておくれよ。まぁ二刀使いだから二振りなんだけどさァ」
「知らん」
箸を使うことすらわずらわしく、李弁は手づかみで肉の塊にかぶりついた。
(三)
并州から連れてきた三千騎。
それだけは信用できた。
だが冀州兵たちは丁原の求める水準には一切到達していなかった。脱走も相次いでいるというが、無理に押しとどめたところで意味はないだろう。
はかられたのかも知れない。
太原から東、州境を超えて冀州にまで来ているが、事前情報以上に敵の抵抗が厳しい。さらには州軍の援護さえ満足ではない。丁原が率いる部隊は補給も断たれかけておりかなり危険な状態にあった。
好かれてはいないと思っていたがここまでされるとは。官軍が盗賊と繋がっているのが事実であれば、漢朝の腐敗はほぼ極限まで達していることになる。
そう考えた時、伝令の声が飛んできた。丁原は剣を掴みただちに幕舎の外に出た。朝ぼらけの時間、伝令は息を白く弾ませながら報告した。
野盗が村を襲っている。その数一万。さらに膨れ上がりながら冀州を西になだれ込もうとしている。
「どうされますか」
副将の張楊が不安そうに聞いた。
自分より歳も上で先任だったが、ずっと丁原に敬語で接する男だった。確かに今では軍功から丁原が上位にいるが、一時彼の部下であった頃からそうなのである。これが自然としか思えないので、というのが問いただした時の回答だった。
張楊の不安はもっともだった。敵は強く、援護は心もとない。どう考えても不利である。
しかし丁原は首を振った。
「やるしかなかろう」
「戦うというのですか? 敵はこちらの倍はいるのですよ!」
野盗の一万に対して自軍は并州兵三千に使える冀州兵が精々二千である。
極めて危険な状況。それが丁原の心に火を着けた。
ただの剣客だった頃に抱いていたどうしようもない怒りが鎌首をもたげる。ぶち殺してやる。一人残らず斬り捨てれば問題ないだろうが。
腰の剣の柄に手を当てた。その頼りない手応えが丁原の心を傷つけた。もしここにあるのが、自分が本当に望んだ一振りだったのなら、こんな気持ちにはならなかったであろうに。
迷いを振り切るように丁原は言った。
「出動」
騎馬隊を先頭に丁原は行軍を開始した。
斥候によれば、敵は活動を鉅鹿から清河を越えて、邯鄲にまで迫ろうという勢いのようだ。そうなれば途轍もない被害になるだろう。
邯鄲、鄴に早馬を飛ばしながら丁原は腹をくくった。側面から刺す。うまく行けば清河に追い落とすことができるだろう。
が、間に合う確率は相当低い。
渡河が完了していればほとんど打つ手はない。逆にこちらが反撃に遭い、相当の被害を受けることになるだろう。
祈るように念じながら丁原は街道を突っ切るように駆け続けた。やがて濛々と砂塵が舞い上がるのが見えた。一万にしては多い。さらに増えたか? しかしそれにしても異様な砂煙だった。
「野盗、何者かと交戦中の模様!」
「なに? 友軍か」
問い返しても斥候は首を振るばかりだった。丁原は速度を挙げて接近した。やがて野盗と衝突しているのが官軍ではないことだけはわかった。まるで野盗同士の内輪もめのようですらあった。
その時、一騎の騎馬がこちらに向かってくるのが見えた。剣を抜かずに鞘ごと握って突き上げている。
その顔に見覚えがあった。丁原は攻撃しようとしている部下を大声で制し、一人で前に出た。
李弁だった。まさかと思った。息を荒げている。そしてなぜか怒っているようだった。
「こんなところで何をしている」
李弁は答えなかった。
馬から降りて丁原に真っ直ぐ向かってくる。
李弁がなぜここにいるのか、怒っているのかはわからない。しかし丁原にも怒りがこみ上げてきた。自らも馬を下りて詰問するように再び声を発した。
「今どんな情勢かわかってきているのか。貴殿は何をしに来た。あの連中は何者だ」
「知らぬ。黒山の張燕だとかいう女が貴様に恩を売りたいらしい。が、実のところ興味もない」
黒山賊といえば近年勢力を増している賊だ。元々は単なる野盗だったが、張燕という名の人物が頭目になった頃から、村々を襲わず不正を行った官吏ばかりを狙う義賊になったという噂である。
その黒山賊をこの李弁が導いたというのか。そして自らの危機を救った? 丁原の胸が高鳴った。なぜなのか。そう問いただす前に李弁は握っていた剣を突き出した。
「野盗も、戦も、張燕の思惑も知らぬ。本当のことを言えば君の軍の勝敗も私には興味がない」
だが、と息を弾ませながら、汗を浮かべた赤い顔のまま李弁は言った。
「——私は、私が打った剣を振るう君を見たいだけなのだ」
李弁は押し付けるように剣を渡してきた。
丁原は柄を握り、息を飲んで抜いた。重さはあるのに軽かった。そして透き通っていた。
手に馴染んだ。丁原は溌溂と笑った。
「では、見ててくれ」
満面に破顔し、丁原は透き通るような刃を抜いた。
打たれた銘は未盲剣。丁原はその刃に陽光を照り返させながら馬腹を蹴った。まるで自分の体の一部のような、そんな手触り!
——そして李弁もようやく、なぜ自分がここまで来たのか悟った。丁原の笑顔が見たかったのだ。
丁原を筆頭に戦場に猛然と飛び込んだ騎馬隊は、たちまち野盗を討滅していく。野盗は黒山との挟撃になすすべもなかった。
日暮れを待つこともなく戦場は決していた。
この勝利には張燕率いる黒山賊にも十分功績があるだろう。事実、その援軍がなければ野盗は邯鄲まで迫っていたに違いないのだから。
しかし張燕の強引な戦い方には肝を抜かれた。まさか野盗に合流すると見せかけていきなり背中を襲うとは。本当の盗賊だからこそできる荒業だろう。
だがその動きによって丁原率いる并州兵がたどり着くまでの時間を稼ぐことができたのである。
戦の間、李弁は目を凝らして丁原の姿を求めた。
李弁の剣を手にした丁原は戦場に勇躍した。
今の自分では二度とは打てない一振りになった。
水晶のように透き通った輝きを見せる刃。
それを振るう丁原は美しかった。
刀剣は陽光を照り返し、どこにいても彼女の姿を李弁は見つけることができた。あるいは、こんなにも戦えるのだ、と丁原がはしゃいでいるようにも見えた。
夕暮れが迫った頃、戦は完全に終了していた。
(四)
ふた月が経った。李弁は未だ晋陽にいた。
なぜかあの後、丁原の掃討戦にひと月も同行することになった。張燕による強い引き止めが原因なのであるが、道中危険だからと丁原からも遺留された。
軍に良い印象はなかったが、規律ある集団はその限りではないと思えるには十分な期間だった。丁原により統率された并州兵は見事な組織であった。
面白いことは他にもあった。丁原と張燕の険悪さである。実直な丁原と不真面目な張燕、この二人の馬が合うわけもなかった。
話し合う度に声を荒げ、大喧嘩になり、捨て台詞を吐いて二人とも背を向ける。それでも不思議なことに次の日には夕食を同席して語り合うのだ。
お互いに必要としあっていることを理解しているからであった。
張燕からすれば、冀州から并州の境で影響力を持つためには軍部の有力者の助力が不可欠になる。李弁も気づいたがたしかに丁原は優秀な軍人だった。いずれ并州刺史も夢ではないだろう。
丁原にとっても野盗の力を抑え込むためには張燕の申し出は渡りに舟だった。今回の戦いで冀州の軍が信用できないことは骨身に染みた。州境で連携の取れる組織があれば今後だいぶ動きやすくなる。また張燕の情報網も馬鹿にできなかった。
それはわかっている。それでも性格が合わない。
李弁にとってはまたとない見世物であり、毎晩酒の肴に二人の喧嘩を楽しむことができた。じゃれ合いにしか見えなかったのだ。
そうしてひと月がすぎ、晋陽に戻ってからもあっという間にさらにひと月が過ぎた。
さほど長居するつもりはなかったというのに、何度か仕事で付き合いのあった刃物屋から声をかけられ、間借りした工房で剣や包丁を打った。
それが噂になり妙な依頼が増えたのである。中には胸元があらわな盗賊の頭の姿もあり、結局雌雄一対の曲剣をこしらえた。
仕上がりを渡して数日後、なぜか丁原が現れた。
丁原は無表情ながら、非常に不機嫌な顔で言った。
「あの女に打ったのか」
「あ、ああ」
なぜか寒気がして李弁は口ごもった。
「私はわざわざ出向いて最初断られたのに、あの女の場合はすぐに受けたんだな?」
「なんだ、なぜ怒っている」
「怒る? 怒ってはいない。怒る理由がない。だから怒っていない」
答えにはなっていないだろう、と思いつつも李弁は反論を避けた。なぜか嫌な予感がしたためである。
「……フン。構わんが。誰にでも打つのだな」
未盲剣を撫でながら言うのだから、李弁は待てと言った。
「悪いが違う。お前のそれは特別だ。これまで試していなかった材質、技術を全て費やした。同じことができるとは思えないほどに上手くもいった。ひと月の間心血注いで打ち鍛えた一振りだ。私のこれまでの人生で最も情熱をかたむけた。労力も気持ちも費やした。同じにしてほしくはない」
そう言うと、丁原はなぜか満足そうに笑った。
それから数日後、李弁が荷支度をしていると丁原が再び工房にやってきた。柄の調整を頼みたいとのことだったので対応したが、槌で叩くだけで済むような内容だった。
「どうだ?」
「だいぶいい」
抜身を素振りしながら丁原は頷いた。相変わらず、見惚れるほどに美しい太刀筋だった。
やがて丁原が荷物を見咎めていった。
「枝鶴。どうした、出かけるのか?」
丁原、張燕、そして李弁。三人でさんざっぱら泥酔した夜に真名を交わした。それきり枝鶴、桂と呼び合う仲になった。
「明日、北に帰る」
丁原はなぜか傷ついたような表情になった。
「早いではないか。急ぐのか」
「急ぐわけではないが」
「なら、なぜ」
「……帰るだけだ」
後ろめたい気持ちから目をそむけるように、李弁は再び背を向けて荷物を詰めようと手を動かした。
晋陽の居心地は良かった。いつまでも居てもいい、と思ってしまう気持ちがかすかにでもまぎれこんでくるくらいには。
送る、と丁原が言った。李弁は聞き返した。
「送る、だと? どれほど遠いかわかっているのか」
「わかっている。だから次会えるのがいつになるのか、わからないではないか」
「ああ、だが」
構わないだろう。その言葉を李弁は飲み込んだ。
その返答を許さないほど、丁原は思いつめた表情をしていた。
「別に用事がないわけではない。いずれ雁門まで視察に行かねばならないとも思っていたのだ。ちょうどいい機会が重なっただけだ」
「……わかった。出発は明日の朝だが」
「構わない。それでいい」
頬を赤く染めて丁原は言った。
李弁はわかった、とだけ言った。
翌日、晋陽の正門前で待っていると一軍の将とは思えない軽装で現れた。腰に帯びた剣を、まるで見せびらかして自慢するように下げている。
思わず李弁は笑ってしまった。その笑いの意味もわからないだろうに、丁原も釣られたように笑った。
晴天の下、門をくぐって二人は北を目指した。
それほど長い旅ではない。一度雨が降って九原の街に滞在したが、それ以外はなんの障害もなかった。
雁門の街につくと夜で、さすがに宿を取った。
「明日、長城を越える」
夜、酒を飲みながら言った。もう本当の別れである。丁原もそれをわかっていたようで、うん、と頷いた。
「また、来ていいだろうか」
らしくなく酒に酔った風に丁原は言った。
人の心の機微には疎い。だがその言葉の意味がわからないほど、李弁は鈍くもなかった。
だめだ、李弁はそう言おうとした。身分も住むところも違う。つらく苦しいことになるのは目に見えている。自分はただの鍛冶師なのだから。
お前のためにはならない、そう言おうとした。
しかし丁原は剣を卓に置いて言った。
「研ぎを」
「ん?」
「研ぎを教えてもらわねば」
「研ぎか」
「剣が、泣いてしまうから」
泣かれるのは困る。李弁は静かに頷いた。
その日、丁原は李弁の隣で眠った。
翌朝になると二人はゆっくりと起き、米だけを食ってもう一度まどろんだ。そして夕暮れを一緒に見た。
茜色に照らされた北の山を見る。
「またあの山の向こうに戻るのか」
「ああ、あそこが私の住むところだから」
明日行くと李弁が言うと丁原は黙って頷いた。
もう引き留めるつもりはないようだ。
馬鹿馬鹿しいことに、今度は李弁の方が後ろ髪を引かれていた。
「我々を隔てる山、か」
「違うぞ、枝鶴」
李弁の言葉に丁原は首を振った。そして言う。
「あの丘も、あの山も、我々を繋ぐものだ。あの峰を見る度、私は貴方を思い浮かべるだろう」
丁原はどこか遠くを見ながら言葉を続けた。
「丘と山……岳、か」
「ん? どうした」
「なんでもない。見るな。斬るぞ」
頬を赤らめる丁原が照れ隠しのように拳を振るう。
痛くも何ともないが、李弁は大げさに逃げ回った。
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癖になっちまってな……“直”の感想はDNAに素早く届く。効くんだぜ〜。
なお一巻目もまだ少部数ございますので、もし未入手の方はご検討ください。
https://roukosya.booth.pm/items/3675008
それでは頑張ります(400ページ以上のゲラを一枚ずつめくりながら)