真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十八話 初戦

 并州刺史丁原がその職を返上し、一路洛陽に向かい執金吾に就任するという話は風聞として晋陽の町に流れてはいたものの、いざその日が来たとなると人々は皆渋い顔をした。

 武人肌でとっつきにくく、民草に愛されていたかと言われれば難しいところのある丁原だが、鍛えあげた兵と指揮統率、その武力により町の治安は目を見張る程良くなり、誰もが住みよい所になったと考えていた。

 晋陽は古は趙国の都として栄えたが、北に異民族との国境を抱えるが故に情勢は絶えず不安にさらされ続けている。安全に田畑を耕し商隊を送り出迎え、日々の糧を得られることこそが何よりの喜びである。州全域にわたって決して賊徒の氾濫を許さなかった丁建陽の出立と聞き、人々はこぞって城門まで足を運んだ。春を過ぎて咲き乱れる花を摘んではそれをひらひらと散らして丁原の無事を祈り、その去就を惜しんだ。一万の軍兵を直卒として付き従えて、仰げば見事な武者備え。喝采の中、丁原は南門より晋陽を後にした。

「さて、ここまでは手はず通りだがな」

 晋陽の城門を出て四半刻が過ぎようとした頃、ほっと一息つくように丁原は言った。

 先頭を進む丁原の隣に李岳はいた。既に胡服は下のみで、上着は中華の袍をまとっている。身につけている具足は寸法が合わないのか、袖は余りどちらかというと着られているという風で、出立前は張遼に散々に笑われむくれていたが、機嫌も晴れたのか今は朗らかな笑顔を隠そうともしない。丁原の言葉に李岳は笑顔のまま頷いた。

「何がそんなに嬉しい?」

「いえ、刺史様は皆に慕われているのだと思い、嬉しくて」

「……そうか」

 我が子の言葉と眼差しになんと返したらよいかわからず、丁原は俯いて言葉を濁した。自らが歩いてきた道に後悔などないし、何一つ恥じる所などないのだが、こうして職務に携わる己の姿を興味津々な瞳で見つめられると面映かった。何より無用な心配をして子には隠していた地位なのだ。照れ方など知らない。丁原は振り払うように速力を上げ始めた。苦笑して並んでくる李岳が愛しくも疎ましい。

 

 ――対匈奴防衛戦の配置は方針が示されたその晩に即座に決定された。

 

 総大将丁原、副将に張遼、李岳。鴈門にて敵を防ぐ最前線には二万五千。晋陽の防備には張楊以下五千。事が敗れた場合ただちに知らせが長城より晋陽へと届く手はずとなっており、その際は洛陽、長安を始め河北から河南地域にかけての主要都市全てに援軍を求めるための早馬が飛ぶ。李岳の扱いは客将ではなく丁原の副官とした。実力主義の抜擢を丁原は度々行なってきたので異論はどこからも出てこなかった。

 いま丁原は一万の兵のみを率いての道すがらだが、秘匿こそが計画の肝という李岳の進言を受け入れ、張遼の指揮のもと一万五千の兵を十隊にわけて前日密かに城外に出していた。

「張楊殿の手を煩わせることになりたくはないですね」

「そうだな」

 李岳は遠い目をしていった。

「その時は全滅の憂き目に合っているはずですから」

 仮に策が敗れた場合、撤退する場所などない。勝勢に乗った匈奴の騎馬隊の追撃を振り払う余力などどこにでもないだろう。危険な策と言えた。

 だが并州兵の全てを長城に詰め籠城に徹した所で全滅がわずかに延びるだけでしかないのだ。他州の兵も応援に駆けつけるより先に自領と司隷の防備を固めるに腐心するだろう。匈奴を長城で止めるという事はすなわち并州の存亡を賭けている事と正しく意味を同じくしている。

「いざとなれば単騎で逃げよ」

「嫌です」

「そなたは軍人ではない。誰も笑わん」

「いいえ、私が笑います。お前は本当に誇り高き母から生まれたのか、と」

「……聞き分けのない子に育った、困ったものだ」

 部下に聞こえぬように声を潜めて丁原は言った。だが何を言っても李岳は頬をほころばせる、丁原はやりにくさに歯噛みして、だがどこかで喜びも感じており、同じように口元が緩んでしまうのを耐えた。

(この子は死を覚悟している、投げ遣りな思いでではなく必ずやり遂げねばならないという決意の元に、この私と同じように……もはや戦人か)

 体だけではなく、心までも大きくなったと感じた。李弁に感謝し、丁原は心中で大いに喜んだ。

 その時一人の兵卒が駆けてくると、報告、と声を上げて丁原に寄った。今朝より従事に任じた齢二十歳に届かんとする娘ではある。

 昨夜のことであるが、配下の隊長の名簿が欲しいと李岳が申し出てきた。丁原はその場で許可し張楊に渡しておくよう言い含めた。張楊と丁原は部隊に馴染むために名簿を睨んで名前を覚えるのだろうと思いその意気込みを皆よしとした。

 だが翌朝早くに李岳は丁原の元に一人の少女を連れてきて、優秀な人材と思われるので防塞戦において副官に取り立ててはどうか、と言った。目を丸くする丁原をよそに、この者は孫子に通じ規律に厳しく部下の掌握に長け、必ずや役に立つと太鼓判を押し続けるのである。

 

 ――娘の姓名は赫昭(カクショウ)。字を伯道と言った。※

 

 試しに話してみれば眼光鋭く応答も明快、軍人としての本分もよくわきまえており、丁原はその場で推薦を受け従事として取り立てることにした。後ほど部下の屯長に確かめてみると百人隊長の中でも抜きん出て優秀であるという話であったが、なぜ李岳は名簿一つ、たった一晩でこの者の才を見ぬくことができたのか。丁原は未だ聞けずじまいであるが何やら迂闊に触れられぬただならぬ才を感じていた。

(李広の血、か……あるいは天の御遣いか。枝鶴よ、いずれこの子は私のことなど軽く飛び越えていくぞ)

 いや、そんなことはきっと自分よりずっとよくわかっているだろう、と丁原は思った。常に暮らしを共にしていた父なのである。

「ご報告申し上げます。晋陽の北五十里にて黄巾賊の一団を確認。南進中との知らせです。数一万五千」

 赫昭の言葉に丁原は我に帰った。丁原は即座に行進を停止させると声を上げ、馬を反転させた。

「告げる。我は既に晋陽を治める并州刺史の任を解かれた。だがここで野盗の狼藉を看過してなんぞ執金吾の地位を頂戴できようか。これより北に馬首を巡らし并州を荒らさんとする敵を討つ」

 五千の軍兵が鬨の声を上げる、それに押されるように丁原は馬首を巡らし晋陽の町を大きく迂回するように北上を始めた。街道をわずかに西にそれ、草原を軽快に疾駆する。歩兵も十分についてこれる速度であり、一万の軍勢は一個の塊のようになって進む。

 黄巾賊の首魁は既にわかっている。張遼という名の武芸者で、元々并州兵であった一万五千の兵に黄色布をくくりつけ晋陽を脅かそうとしているのだ。

「……三文芝居ではあるが」

「しないよりマシです。案外欺けるものです」

 李岳は悪巧みがそれほどに楽しいのか、愉快気に馬を駆っている。

 黄巾賊に扮した味方を追うような形で鴈門まで一息に駆け抜ける。黄巾の残党を追い続けて国境までたどり着いてしまっても朝廷の意に反する動きではない、とする発想は唖然とするほど人を小馬鹿にしていて、思わず丁原は何年ぶりになるか人前で声を上げて笑ってしまった。結局総勢二万五千で移動することには変わりないのだ。

「赫伯道はどう思う」

「自分にはわかりかねます」

 興味はないとばかりに赫昭は前だけを向いている。

 この新参の娘には作戦の内容を事細かに伝えてある。ならばこれより死地へ出向くとわかっているはずがこの落ち着き様、この赫昭という女も胆力は十二分ということか――丁原は大きく頷いた。

 武人としての悪癖が思わず顔を出す。勝てるか否か、生か死か。決死の戦いでこそこの血は滾る。丁原はふつふつと湧き上がる血の熱きをまだ早い、まだ早いと押し殺した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 於夫羅の怒りようは天地開闢以来果たしてありえたかと思わんばかりの激しさで、手傷を負った獣の如く荒れ狂い、憤怒と慟哭を数度繰り返してようやく人語を解するまでに落ち着いた。知らせを持ち帰った卒羅宇を打ち殺そうと飛びかかるのも一たびならず、周囲の者全てが体を張って止めなくてはならなかった。

「なぜだ、なぜ呼廚泉が討たれなくてはならない」

 卒羅宇は目を閉じてかすかな嘆息を漏らした。呼廚泉の首のない死体を本陣に直々に届けてきた卒羅宇だが、於夫羅の嘆きぶりは想像を上回る激しさだった。下手人の名は伝えていない、だというのにこの激しよう、名を知ればどれほどのことになるか。

「討ったのは誰だ!」

「李信達」

 卒羅宇は観念したように言った。於夫羅はとうとう剣を引き抜き卒羅宇に向けて突きつけた。飛び出した両目が真っ赤に血走り今にも血の涙を流さんばかりになっている。

「……なぜここに連れてきていない!」

「逃げ申した。寝首を掻きそのまま逃れでたのでしょう、漢へ下ったに相違無く。単于より賜ったそれがしの愛馬も盗まれ申した」

「なんという匹夫だ、なんという卑怯者だ」

 於夫羅は有らん限りの罵詈雑言でもって李岳をののしり、性根、血筋、魂の欠片にいたるまで全てをこき下ろした。卒羅宇は呼廚泉の死を悼むように眉根を寄せていたが、真意は李岳への汚辱を聞き難いとして堪えているに過ぎなかった。

「……なんとしても漢を落とす。漢を滅ぼす! 洛陽で皇帝を撫で切りにしたあと、全土に小僧の人相を手配してくれる。草の根分けてでも探しだして必ずや縊殺(くびりころ)してくれる!」

 その後しばらく於夫羅の怒号にこらえたあと、卒羅宇は本陣を離れて自らの陣に向かった。幕には醢落が待っており、憮然とした表情のまま胡床に腰を下ろしていた。

「浮かぬ顔だな卒羅宇」

「貴様には負けるぞ」

「何と言っていた」

「先鋒の任を解くとな」

 醢落は苦笑し、卒羅宇も髭をしごいてにやりと笑った。先鋒は名誉である。それも鴈門の関を越え漢の地に一番乗りをするというただならぬ功績である。それは本来李岳の役割であり、同じく卒羅宇もその名誉に与るはずだったのだが――

「どうせ漢に立ち入ればもっとも過酷な戦場をあてがわれるに相違あるまい、安堵することは出来ぬよ」

「だが嬉しそうではないか、卒羅宇」

「痛い思いをしたくはないからな」

 鴈門の先鋒を外す……それは於夫羅が李岳や卒羅宇の目論見に気づいていないということだ。もし陰謀を察知しているのなら迷うことなく卒羅宇を磨り潰すべく突っ込ませるだろう。代わりに先鋒を任されることになったのは於夫羅の血族である右大将であり、真っ先に門を潜るのは於夫羅自身である。

 予定では、雁門関には并州兵が密かに陣取っている手筈であった。

「……大丈夫なのか」

「何がじゃ」

「あの李岳という男……お主の言う通り動いてくれるのか」

 いざとなればその身を犠牲にしてでも於夫羅と単于を討つ覚悟が卒羅宇にも醢落にもある。だが今の情勢では出陣を撤回できるかどうかは危うい。醢落は卒羅宇より李岳の策を聞き及びその成功の他に匈奴を押しとどめる術はないだろうとすぐさま考えを同じくしたが、一抹の不安は拭い去れずにこびりついていた。

「信じる他あるまい」

 卒羅宇は醢落の肩を叩いて頷いた。その手には自信からくる力で漲っていた。

「……それほどの男か」

「李広の子孫、我が知己の子、鮮卑を防いだ男であり呼廚泉を一騎打ちで仕留めた――だが何より、あの(かんばせ)よ。お主も会えばわかる」

「楽しみにしていよう」

 そう答えた時、地鳴りのような声が二人を襲った。何万人もの男たちが一斉に同じ声を出せば地は震え山さえ崩れる――進発、進発! 二人は兵舎を飛び出て草原を見た。朝日が東の空より滲み出し、平野を埋め尽くす人と馬を照らした。荒ぶる戦意と欲と恐れ。それが混じり合い進発の叫びはさらに増幅し天さえ崩さんとした。

「出立を早めたか」

「よほどお怒りと見える」

「頼むぞ醢落。手筈通りだ。三度目の早馬だぞ」

 二人は頷き合うと別れた、将である、進発となれば指揮を執らねばならない。

 左右大将を先頭に於夫羅の指揮する中軍、両翼には卒羅宇を始め骨都侯が配され、後方には大当戸が居並ぶ錚々たる有様だ。名目では天子の要請に従い漢の地にて黄巾賊を撃滅せんとする援軍であるのだが、実態は飼い主面をする漢を食い殺そうとする狼のそれ。

 総勢十九万二千騎。蒼天を突き破らんと猛々しく、燃え盛る野望によって中原を野焼きにせんとする軍――まさに地が蠢き波濤とならんとする威容であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 馬蹄の響きは十里の彼方からですら腹に染み渡る程だった。二万五千の軍勢がひしめき合うように詰めている。皆、顔には緊張が浮かんでいた。

 迫り来る匈奴軍二十万――頭ではわかっていても事実目にした数はまさに地を埋めんとする程の凄まじさだった。数はそれだけで暴力である。小手先の対応策など大波の如く飲み干してしまうだろう、鴈門から北に望む道の全てが蠢く人頭で埋め尽くされており、対する漢軍はその十分の一あまりなのである。

「手筈の通りだ」

「応」

 城頭にて丁原は主だった者たちへ言った。勝ち鬨、喊声は全て厳禁としている。牙旗も旗竿も横たえ二万五千の兵は死に絶えたかのようにひっそりと身動き一つしない。手に握りしめた弓、矢、剣把がじっとりと汗で染み、高ぶる戦意と恐怖、覚悟の混沌の中で喘ぐような呼吸だけが雁門関に満ちている。

 関の門は開け放している。漢は匈奴を信任している、皇帝の名で命じられた援軍を露とも疑っておらぬ。そう思わせなければならない。匈奴は悠々と門をくぐり漢の地へ殺到できると思い込んでいる。その出鼻を挫き痛撃を与える――だが誰もが胸中に一抹の不安を抱えずにはいられなかった。果たして我々の目論見を見ぬかれていることはないのか? こちらの考えを誰か一人でも看破していれば全速力で殺到してくるだろう。さすれば開け放した雁門関の扉を閉じる間もなく匈奴は雪崩れこんでくる。

 誰もが恐怖に相対した。それに打ち勝つもの、負けじと歯を食いしばる者、目を逸らす者……千差万別の中で丁原は黙念と腕を組み目をつむっていた。

 数刻後。ゆっくりと地を這う匈奴の軍勢は、とうとう丘を上り雁門関の手前にさしかかろうとしていた先頭は――於夫羅であった。一番乗りの功績を我が物にしようというのだろう。

 馬にまたがったまま巨体は進んでくる。鴈門の関は開け放たれたままである。隣の李岳が耐え切れないという風に立ち上がろうとしたのを、丁原が押しとどめた。まだ早い、まだ一息早い。丁原はその肩を握りしめ再び座らせた。あと一呼吸必要だ、ここは辛抱しなくてはならない――於夫羅率いる親衛隊が、いよいよその門を潜ろうとしたのを待って、丁原は立ち上がり声を上げた。

「閉門!」

 声を遅しと関の扉は走りだし、その口を閉じた。九尺の高さを誇る鉄の門扉は鋼鉄の閂を三つも備え、これを敵によって砕かれる時は死ぬる時、打ち破られる時は漢の滅ぶ時とばかり。

 狼狽する於夫羅と親衛隊、その只中に向かって丁原は吠えた。

「これはこれは於夫羅殿! 何用によっていらしたか!」

「丁原! うぬ、我らを漢の援軍と知っての狼藉か。ただでは済まぬぞ!」

「ほほう、援軍とな。詳しくお聞きしたい。場合によっては再び門は開かれるであろう」

 於夫羅は唾を吐き捨てながら吠えた。

「貴様らが内乱に苦しみ喘いでいる様を見かねて、朝廷より援軍の依頼が来たのだ! あらぬ疑いをかけるより先に己の不甲斐なさを恥じるがいいわ」

 途端、丁原は哄笑を上げた。その笑いは両側の切り立った鴈門山の崖を弾き疾く行き交い、二十万匈奴兵の隅々にまでこだました。

「片腹痛いわ下郎。貴様の浅知恵などとうに知れておる。我らを謀り天子の御龍体を害し奉ろうなどと驕ったか、於夫羅!」

 続いて李岳が立ち上がった。動転し、言葉に喘いでいる於夫羅に対して包みを放り投げる。於夫羅の親衛隊の一人がそれを受け取ると、息を飲んで後ずさった。

「弟の首だ、於夫羅。悪いことは言わん、郷里に持ち帰って埋葬してやるが良い」

「小僧……! 貴様! 弟の寝首をかくだけに飽きたらず……」

 血走った目と血管の浮き出たこめかみは距離があってもはっきりと見て取れた。李岳は於夫羅の顔を見ると、鼻で笑ってから遠くを見定めた。

「匈奴の者共、聞け! 我は李広の子孫にして飛将軍を継ぐ者……名は李岳! 匈奴の誇りを(わたくし)して単于を騙し、己の野望のために不義に走るこの男が果たして貴様らの大将として相応しいか否か! ……今この時、我は義に依って漢に立ち、匈奴の誇りを愚弄するそこな於夫羅の横暴を、微塵に砕く剣となる!」

 どよめきが眼前の地平から蒸気のように揺らいではうっすらと覆った。鮮卑より匈奴を守りし軍神が、今ここで匈奴に向かって矢を向けている――怒りではなく戸惑いが匈奴を走った。

 李岳は手にした弓矢を携えると、引き絞り、放った。風を切り裂いた一撃は真っ直ぐに於夫羅のまたがる馬の眉間に突き刺さり、一瞬で絶命させた――なんという弓矢の腕! あれは確かに李広の子孫に相違なし! ――敵味方問わず、李岳への眼差しが熱いものとなった。

 馬上から転げ落ちる於夫羅を見て、丁原は剣を抜き放つと号令した。

「この鴈門の関を無傷で通れると思うな、長城が今なお破られぬ所以、その身でとくと思い知るが良い!」

 耐え忍ぶ時は丁原の剣が日輪の輝きを照り返したことによって終わりを告げた。喊声は木霊した。城頭に、あるいは鴈門の山上に潜んでいた漢軍は皆々立ち上がると、意気も激しく絶叫した。

 二万五千の雄叫びは二十万匈奴兵の心胆を飲み込んだ。城壁に立ち並ぶ『漢』と『丁』の旗。風に靡きはためきながら、決して断ち折られることはないとばかりに誇り高く雄壮――ここより後ろに道はなく、押し迫る二十万郎党を防がねば郷里は滅ぶ。漢兵の覚悟並々ならぬ。天を突かんばかりの鬨の声は、配下の馬を奪い取り慌てて後退する於夫羅の背を強かに打った。

「放て!」

 丁原の号令一下、引き絞られた矢は豪雨の如く匈奴兵を襲った。無傷で通れるはずの関所には敵兵が満ちており、夢にも思わなかった奇襲を受けている、しかも敵将は剛の者と名高き并州刺史丁原に、本来先鋒としてこちらに味方するはずの飛将軍――匈奴の足並みは揃わず、部族長が声を荒げようとも一貫した行動は取れようもなかった。

 丁原はすかさず城壁から地面に降りると開門を告げた。手には槍、付き従うは精鋭一万五千。

「開門」

 鉄扉は攻めどきを喜ぶかのように軋みを上げて開ききった。二十万を背にしたがために前衛の撤退はもどかしい程に遅々とした、その隙を逃す手はない。

「尽く討ち果たすぞ……突撃!」

 丁原の号令に、并州兵の叫び声が覆いかぶさる。

 

 ――果たして漢軍の攻撃は関前を匈奴の死体で埋めた。

 

 ほとばしる丁原の槍、立ちふさがる全てを切り裂く張遼の大刀はもはや単騎で数万を圧倒した。後退ままならぬ敵を撃ちつくさんとした并州兵の最強戦力はとうとう十倍する敵軍を十里までも押し込み、散々な失血を強いたのちに堂々と帰還した。

 敵兵四千余りを討ち取り、その中には右賢王於夫羅の股肱の臣とも言える大都尉までもがいた。討ち取ったのは張遼である――敵陣の間隙を見咎めるや否やすかさず疾走し、立ちふさがる兵卒の首を一挙に五十も刎ね飛ばし、慌てて逃げようと背を向けた敵将の首を宙に舞わせた――張遼の名は匈奴の全てに知れ渡り『遼』はとうとう忌み字となり、後世名高き『神速』の異名はこれより始まることとなった。

 後に言う『雁門関の戦い』の初戦は、漢軍の完勝によってその幕を開けたのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 騎馬隊が帰還すると、鴈門の鉄扉は再び重々しく閉じた。并州兵の意気軒昂はかつてない程であり、一部を除き興奮の坩堝と化していた。

 李岳は帰還した丁原と張遼を労った。興奮気味の張遼は満面の笑みで自らの武勇を誇っている。

「討ち取ったで! ちょろいもんや!」

「お見事でした」

「こんなん小細工せんでもそのまま行けるんちゃうん!? もう敵なしやでこれ!」

 愉快気に哄笑する張遼に李岳は思わず苦笑した。これほどの戦果に敵将さえ討ち取っている。大言壮語も無謀な戦意もその全てが味方の利する所になるだろう。

 その中、丁原はいつも通りに自らを律するような硬い表情のままであった。その心中はいささか複雑である。李岳は本来秘し、吹聴したくはないはずの自らの血筋の話をあえていわねばならなかった。匈奴の戦意を挫くには確かに有効な一手であり、勝利のためならばこのくらい、と自ら進言した李岳のことを慮ると丁原は将としての喜びよりも親としての憂いが勝りかねない。

 自らの惰弱さを戒めるように、丁原は李岳に聞いた。

「本当にあれでよかったのか、於夫羅を討ち取れたであろう」

 李岳の放った矢は、狙い定めた通りに命中した。元々於夫羅の命を狙ったのではない。李岳は肩をすくめた。

「やつの命には元手がかかってるんですよ。きっちり回収してから死んでもらいます」

 平然と言い放ったが、瞳は冷酷、声音は怨嗟を隠しきれていなかった。浮かべた笑顔が痛々しい陰影となっている。

「……あの場で殺せば匈奴は引っ込みがつかなくなります。遮二無二突っ込んでくるかもしれません。当初の作戦通りにいきましょう」

「そうだな」

 夕暮れは鴈門山の西の峰にかかり、既に没している。この後の配備は丁原の令に基づく。丁原は張遼を呼び、二万騎の指揮を預ける、と告げた。

「公孫賛の軍勢が匈奴の都である単于庭を脅かすという知らせが届くのは何日後になるかわからぬ。それは明日やも知れぬ。明朝より匈奴は二十万の全兵でこの砦を囲むだろう。宵闇を突いて出るには今この時を置いて他にない」

「ウチ、やります」

 常の軽口ではない、張遼は初めての大任にその頬を紅潮させた。

「命じる。討て。他にはない」

 張遼の威勢のいい応答が響いた。武芸者の真髄、披露するにはここを置いて他にはない。

 その後の配備命令は簡易である。守城の指揮は総大将である丁原、副官に赫昭が任せられることになった。実績のない赫昭ではあるが、先の戦闘で自らに付かず離れず敵陣に食らいついていたのを丁原はしっかりと見ていた。冷静沈着でありながら闘志もある。例にない抜擢と言えたが丁原に迷いはなかった。申し渡された赫昭は耳を紅に染めて、緊張と意欲の眼差しで頷いた。

 時に、李岳が手を上げて言った。意気揚々ときびすを返そうとする張遼を、呼び止めると丁原に言った。

「私も別働隊にお加えください」

 丁原を中心にわずかに沈黙が馳せた。張遼は足手まといは御免だと不貞腐れ、丁原は鉄面皮は変わらずとも動揺していた。

「山は険しく土地のものでなければ不案内です。私はそこで生まれ育ちました」

「ウチかて鴈門の生まれやで」

「長城より北ですよ。それに二万の兵が極秘に踏破しなくてはいけない道です、半端では露見しますし迷ってもいけません。私は日々狩人として生きてきました。熟知しております。誰よりも道に明るいと自負しております。それに張遼殿だけでは部族長との面識もなく停戦合意もままなりますまい。於夫羅を討って終わりというわけではないのです。窓口は必要です」

「んなこと言うたかて自分も討たれたら終わりやで。ついてこれるんかいな」

「ご所望とあらば」

「……おい、ええ度胸しとるやんけ」

 張遼はそれを自らに対する挑戦と受け取った。策は持っている、体捌きが愚鈍ではないということもわかっている、矢もいいだろう。だが自分自身が気に入り認めるかどうかは別問題だ。

 今回の戦、張遼はこれ以上ない大敵だと武芸者の心意気からはやってはいたが、同時に自らの故郷を守るための絶対に負けることが許されない戦いであるとも認識していた。長城のすぐ南に位置する鴈門郡の生まれである、并州軍が敗退すれば瞬く間に蹂躙されてしまうのだ。

「……私にとってもこの戦は負けられないものなのです。野戦の経験ならあります。籠城戦よりはお役に立ちます」

「野戦が簡単みたいに言うてくれるやん」

「そんなことは考えていません。ただ……」

「ただ、なんや」

「――於夫羅をぶち殺すのは譲れません」

 束の間、李岳が何を言ったのか把握できない時間が過ぎた。沈黙を打ち破ったのは張遼の爆笑であり、血染めの衣のまま床に転がると腹を抱えて苦しんだ。息も絶え絶えに喘ぎながら、とうとう張遼は言った――よっしゃ、競争やな。

「……時はない。すぐさまかかれ」

 丁原ももはや否やはなかった。命じると李岳と張遼はその足で軍勢の方向へ向かって歩き出した。我が子が行く。死地へと行く。しかし勝てばまた会えるのだ。それを疑ってはいないから、李岳はこちらを振り向かないのだろう。丁原は赫昭を呼び寄せ指示を出し始めた。死守する。ここは我が子が帰る場所――そっと開いた正門から整然と出立していく二万騎を眺めながら、丁原は山の峰にかかる月を見上げ、固く手を握りしめた。




※赫は当て字です。正しくは【赤】に【おおざと】ですが、機種依存文字のため【赫】の字を当てました。

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