真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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最終話 天狼星は永遠に輝く

 ――司馬懿からの決別を受けた次の日、李岳はただちに丞相府に赴いた。

 

 董卓と賈駆は示し合わせたように待ち受けており、揃って李岳を出迎えた。賈駆は平静を装っていたが怯えていた。李岳を自由にしたい、そしてそれは天下泰平に資することだと説得を受けて印を押した。しかし李岳にきちんと真意が伝わっているか、怒りを覚えていないかと考えると不安であった。何せ李岳が激怒を発した時の恐怖は当初洛陽で陣営を違えていた時から身に染みて知っている。

 どれほどの事態に発展するかわからず、賈駆は半ば怯えていた。が、しかし董卓はなんの心配もないようで二人の歩の軽重ははっきりと分かれた。

 李岳を出迎えた董卓はいつものように茶を淹れた。三人で飲む。言葉はなく、そして怒りもない。賈駆は李岳が全てを受け入れているということを悟った。

 茶を飲み干した李岳が静かに言う。

「血の階、上りきったよな」

 その一言だけで董卓の感情の堰を崩してしまうには十分だった。

「……はい」

「俺たちは誓いを守りきった」

「……はい!」

「月、君を尊敬するよ」

 別れが近づいているのが耐えられず、そして李岳の言葉があまりにも心の深いところに届いてしまい、董卓は立ち上がるとしがみついて声を上げて泣いた。

「はい……はい……! わ、私も! 貴方を……!」

 これまで何かを欲するなど少ない人生だった。その董卓に初めて強く求める者が出来たが、気付くには遅すぎ、願うには賢すぎた。董卓に出来ることは、ただ束の間の温もりを譲り受けるためにそっと(いだ)かれ、泣きはらすことだけだった。

 よくわからない胸の痛みを覚えながら、賈駆はなるべく事務的な調子で言った。

「陛下から言伝を預かってるわ。嘘つき、罰としてたまには便りを寄越せ、と」

「……もうお会いすることは」

「悪いけど」

 李岳の権限その他については既に制限がかけられている。司馬懿の動きはあまりにも早かった。全ては以前からの既定路線であったかのように李岳排除の動きはとどまることを知らない。その事前準備について賈駆も董卓も全く気づくことが出来なかった。永家の者を率いる張燕でさえ疑うことすらしなかった。

 司馬懿の執念は抜きん出ていた。李岳の無事と人生を守ることにかけて他者の追随を許さなかったと言ってもいいだろう。だからこそ、あの日司馬懿が丞相府に駆け込んできては懇願する様子を李岳に伝えるのは、義にもとる行為だと賈駆は思った。きっと陣営の者であれば誰もがそう思うに違いない。乙女には守らなければならない仁義がある。

 天子もよく認めたと賈駆は思う。李岳は帝のために国家の藩屏(はんぺい)足らんとした。生涯守る剣だと誓った。それら全てを反故にする。李岳には後ろめたさがあるだろうが、それをまず先に許した帝の葛藤はいかばかりだったか。劉弁は司馬懿の意を受けた董卓と賈駆の内密の上奏を、一晩考えた後に受諾し印を押した。その心中、(おもんぱか)ることさえ難しい。

 董卓が泣き止み、二煎目の茶を淹れようとした時だった。戸を蹴破り闖入してきた一団があった。

「ここにおったんかー!」

 張遼以下実戦部隊の指揮官たちであった。高順、趙雲、馬超に馬岱、徐晃、張郃、赫昭までいる。一番後ろには呂布が借りてきた猫のようにひっそりと立っている。

 張遼はのんきに茶をすすっている李岳を指さして吠えた。

「先に言っとくで! ウチは例のアレに印も押してへんし認めてもいいひんからな!」

 まるで敵地に殴り込み、囚われの戦友を救い出さんばかりの剣幕である。

「冬至! ウチはあんたがその気やったらな、今すぐにでも麾下の騎馬隊全員出動させて宮殿にドカンと乗り込む覚悟や! 前にもいっぺんやったこっちゃ、何度かてやったる! ほんで如月ぼてくりこかして天子様に決め事を撤回してもらうんや! ウチと桂様がおったら楽勝や!」

「私は押印した」

「ほら見てみぃ! あんたのおかんかてウチと同じ気持ちで……その、あれ? 認めたって、うそ! うそや! んなアホな!?」

 なんでや、なんでやと大声を出す張遼の頭をガシガシとかきまぜると、高順は息子の方へ向かった。

「我が子よ」

「母上」

「貴様の人生はここにはない」

 字面だけ見ればひどく冷たく突き放した言葉であった。しかし高順の口ぶりは穏やかで、優しく、慈愛に満ちていた。信頼と期待が滲んでいる音色であった。

「戦うことは本意ではなかったはず。しかしそれをやりきった。今こそ自らの人生を生きる時だ。父の枝鶴は義務を果たせと、心の声に逆らうなと言った。それを果たした今、母である私は次の言葉を残そう……」

 高順の手が李岳の両肩に触れる。それは載せられた荷物を取り去るような動きに似ていた。

「何ものにも縛られず、己が求めるところへ行け。この偉大な中華の大地でさえお前が羽ばたくにはまだ狭い……行ってこい。地の果てまで。求めるものがあるのなら、必ずや見届けてくるのだ」

「……いつかまた、必ず帰ってきます」

「それもまた、お前が求めるものならば」

 実の母が認めて賛成している。それを押しのけて反対する理由を誰も見つけることが出来なかった。

「冬至……ほ、ほんまに行ってまうんかぁ」

「おいおい、泣いてるぞこいつ」

 後ろで張郃が茶化したが、張遼は気にせず泣いた。豪快な乙女の涙だった。雁門関からこちら、最も過酷な戦場を共に駆けてきた。匈奴との戦いでは共に死を覚悟して地獄への駄賃とばかりに敵と斬り結んだ。反董卓連合戦では誰よりも辛い立場に追いやられて憔悴する様を見て胸を痛めた。冀州の戦いでは頼ってもらえず単身出奔したことが悔しくて悲しかった。

 ただの武人から、それ以上の何かに育ててもらえたという思い。共に戦い抜いたという自負。それらが全部溢れ出して、張遼は泣くのだ――泣きながら叫ぶのだ。

「わぁかった! こうなったらしゃあない! 酒を! 飲む! めちゃくちゃに! 飲むで!」

 直後に丞相府を飛び出すと、張遼は中断された新年の祝いをやり直すのだと叫んでは殴り込むように国庫の倉を開けさせた。洛陽駐屯の兵らにも酒や肉が振る舞う勢いで手当たり次第開放していく。

 

 ――洛陽市内の軍の敷地がいきなり巨大な宴会場と相成った。それは新年の祭りをもう一度やり直すと民に思わせるには十分だった。物売りから芸人までが商売の匂いを嗅ぎつけてやってくる有り様。実際には一人の少年との別れの儀式なのだがわかるはずもない。

 

 既に根回しはされており、李岳という男の名をみだりに口にしてはならないことを兵たちは承知していた。けれど張遼が催さんとしているこの宴がなんのためのものかは全員がわかっていた。だから騒ぎ、笑って歌うことに異論はない。自分たちを生かして帰した指揮官を全身全霊で称えるために。

「全く……おかげさまでせっかくまとめた今年の兵糧計画が台無しなのです」

 疾風怒濤の勢いで用意されていく宴会場。その有り様を見て、李岳の隣にやってきた陳宮がげんなりしながらけれど仕方ないなという風に言った。

「冬至殿」

「なんだい?」

「ねねは泣きませんですよ」

 えらいでしょ、と胸を張って陳宮は言う。

「でも一言だけお伝えしたいことがあるのです。これはどうしても言わないといけないことなのです」

「なんだい?」

「ねねと出会ってくれて、ありがとう! なのです!」

 相変わらず笑顔を浮かべてはいるものの、鼻水をデロデロと垂らしながら陳宮はやはり目一杯泣いていた。

「――ほら、鼻」

「んびっ。チーン!」

「俺だって、ねねと出会えてよかった」

「んぐんぐ……んなこたぁ当たり前の話なのです。ねねがこの場で伝えておきたいのは、恋殿を泣かしてはなりませんよ、ということなのです」

 陳宮の目線の先では、趙雲、馬超、張遼、高順に囲まれた呂布がいた。趙雲の持ち込んだ赤い印の付いた酒を皆で回し飲んでいるようだ。頬を少し赤らめながら、げふっと吐息を漏らしている呂布。

 李岳はしっかりとうなずいた。

「約束する」

 おっ、と陳宮は驚いたあとにニタリと口を歪めた。

「……少しは男らしいことが言えるようになりましたですね。ねねも鼻が高いです。えへん。さぁて! じゃあもう心残りもなし! ねねも飲んで食って騒がせて頂きますぞー! もう今年の帳簿なんて知ったこっちゃねーのです!」

 そう言うと陳宮は一目散に呂布目指して走り始め、あぐらをかいてる足の間にすっぽりと収まった。呂布の手が優しく陳宮の頭を撫でる。陳宮は甘えるように、全身で呂布にもたれかかっていく。

「騒がしいこと」

 曹操が呆れてため息を吐いていた。だが既にちゃっかり酒杯を掲げてもいる。後ろに控える荀彧は釈然としない様子で李岳をジト目で睨んでいた。

「これがうちの流儀さ」

「品というものを叩き込むのが私の仕事ね?」

「賭けてもいいが、絶対に挫折する」

 かしらね、と曹操は苦笑いを浮かべた。

「……あの李岳が去る、か」

「皆を頼むよ」

「勝った貴方が去り、負けた私が残る。これをどう考えたらいいのかしら?」

「昔々、国境の(とりで)の近くに馬飼いの老爺がいて」

「やめなさい。馬鹿みたいだわ」

「……俺も負けたのさ、華琳。それだけだ」

「ふふ、そう言われるといい気味ね」

「可愛くないやつ」

 はぁ!? 誰が可愛くないですって! と後ろで荀彧が叫ぶ。

「あらそう? (ねや)では違うかもよ。試してみる?」

 華琳様!? 悪い冗談はおよしになってください! とやはり後ろで荀彧が喚く。

「悪い冗談だ」

「あらら、振られちゃったわね」

 残念、と曹操は肩をすくめて杯を呷った。干された杯に荀彧が黙っておかわりを注ぐ。なんだかこの二人の取り合わせは面白いなと、李岳はいつまでも見ていたいような気になった。

「しかし大秦国(ローマ)か、遠いのでしょう?」

「一年や二年じゃ着きそうもないくらい」

 曹操が不意に笑い出した。

「なんだよ」

「貴方……西方に行っても揉め事に首を突っ込むんじゃないかと思って。司馬懿がそれを聞いて顔を真っ赤にするのを想像するだけで愉快になったのよ」

「そんなこと、あるわけないだろ」

「いやまさかな……って顔に書いてるわよ」

 ま、楽しみにしてるわ。と曹操はまたも笑った。

「お楽しみのところ申し訳ないが、その如月について一つ頼みがあるんだ」

「何かしら?」

「黒狐の仔を渡して欲しい」

 匈奴の風習は詳しく知らない曹操だったが、馬を渡すということに特別な意味があるように感じられた。いや匈奴は関係ないのかもしれない。李岳個人の特別な表現なのかもしれなかった。

「よろしく、華琳」

「ええ、冬至」

 曹操がうながすと、荀彧は顔をしかめて李岳の分まで杯を用意した。さらに肉の串まで突き出してきた。

「……何よ不思議そうな顔をして。言っておくけど私からじゃないわよ。流琉が頼むから仕方なくよ」

 荀彧の目線を追うと、いつの間にやら典韋が調理を一手に担っていた。李岳の視線に気づき、ペコリと頭を下げるので思わず李岳もそれにならった。

「食べるの? 食べないの!?」

「た、食べるよ」

「じゃあさっさと受け取りなさいよ!」

 肉串を押し付けるように渡すと、荀彧は自分の分をガツガツと頬張り始めた。李岳と目があった曹操は呆れたように肩をすくめ、そして去っていった。

 誓いは果たされた。友と呼ぶには相互の間に血が流れすぎてもいる。しかし他の誰とも違う宿命的な結びつきも感じる。問題はこの関係を的確に言い表す言葉がないことだ。だが瑣末だろう。

 ひとしきり酒を飲んでいると、続いて徐庶がやって来た。似たような背丈の皆でぞろぞろ歩いてくる。

「兄上! ここに居たのですか! 妹を置いてどこへ行くというのです! ひどい兄上です……!」

「今頃気づいたのか? 睡虎先生」

 どうやらもう酔っているようだ、いつもより感情豊かで声も大きい。

「……すぐに行かれるのですか?」

「引き継ぎもある。やり残したこともあるだろうからすぐというのは無理だろうな。春までには片付ける。そしてまずは冀州に行こうかなって。会いたい人も、見舞っておきたい所もあるから……それから準備を整えてから西を目指すつもりだ」

 だからまた会えるさ、と李岳は笑う。だが西の果てを目指してから先は何の保証もない。

「あの……私も一度冀州に赴く予定です。ようやく親友たちとゆっくり話せる時期かなって……」

 諸葛亮、鳳統のことだというのは言わなくてもわかった。

「天下の才が一同に揃うのか。壮観だな」

「とはいえみんな一度は兄上に出し抜かれているのです。その物言いは迂遠な自画自賛では?」

「まさかだろ。俺なんか足元にも及ばんさ」

「またそんな謙遜を……ねぇ兄上、本当は嫌かも知れません。お邪魔なのもわかっています。けれどどうか……冀州の旅だけでも同行させては頂けませんか?」

「……ふっ、くく」

「なんです」

「可愛い妹の頼みさ。嫌だなんて言うわけないだろ? そんなにかしこまっちゃってさ」

「ぐぬぬ……いじわる」

 初めは誤解から始まった関係だったが、けれど今では本当の妹のように李岳は思っている。戦場でも頼りになった片腕とも言える軍師だった。どれほど頼りにさせてもらっただろう。

「なぁ珠悠」

「はい」

「母上をよろしく頼む」

「ふぐ、くっ、うう!」

 何とかこらえようとしたが、徐庶はとうとう李岳にしがみついて泣き始めた。しかも徐庶は一人ではなかった。新年の休暇だと勝手に長安からやってきた李儒がやっぱり泣き出す。黄忠は笑っているものの、娘の黄叙がやはり泣く。徐晃も泣く。袁術が泣けば張勲が怒る。困っている李岳を見て周囲の人間は全員大笑い。

 いつの間にやら広場の中心では盛大な火が焚かれ始めた。洛陽の住民たちも一緒に歌い出す。次第に大きくなる騒ぎと歌。火は煌々と夜の空を照らす。だからきっと宮殿のやんごとなき姉妹にもこの火は届いているだろう。

 既に煌々と月が出る冬の夜。振る舞われる酒も燗である。入れ替わり立ち替わり人と話した李岳だったが、殿軍は私が務めるのだとばかりに待ち受けていた者が最後にいた。赫昭だった。

「冬至様」

「沙羅」

「長安でお待ちしています」

 赫昭の赴任は西と決まっていた。鍾遙と張既が監督する長安を最重要拠点としつつ、必要があれば漢中まで出向く。国家の西半分の守護が任務である。大任だった。

「長安にはもちろん寄られるのですよね?」

「もちろん。そこから敦煌に行くことになる」

「自分はひと足早く向かいます。一席設けますので是非」

「楽しみにしておく」

「……才覚も武勇もない自分は」

 赫昭がかしこまって話し始めたので、李岳も居住まいを正した。真っ直ぐな瞳。信念を宿した瞳で李岳を見つめている。

「ただただ愚直に戦うしか能のない者でした。そんな自分にとって……冬至様の未来を見据えたような考え方は憧れであり、そして必ず苦境を救って頂けるものでした。その目で自分を見抜き、拾ってくださったことは生涯の誉れです」

「俺が何をするでもなく、君は頭角を現していたはずだ」

 赫昭は李岳に向き直り、片膝を突いて拱手した。

「李信達様、貴方にお仕え出来て光栄でした。これからは貴方が残したこの国を、全力で守り抜く所存です」

 ですが! と赫昭は大きく声を張りながら続けた。

「これからもこの国にはまた危難が訪れるでしょう。その度、如月や曹操殿はその才覚で打ち勝つと信じています。けれどどうしようもない時……本当にどうしようもなくなった時は、また助けて頂きたいのです」

 何かの予感か、それとも何か約束がほしいのか……赫昭にもわからなかったが、どうしても言わずにはおれなかった。

「このようなお願いは如月の願いをふいにすることでしょうが、非才の身である自分だからこそ言えることです。だからきっと、また……颯爽と、黒馬にまたがり風を切ってやって来て欲しいのです」

 他人からはそう見えているのか、と思うと李岳は笑わずにはいられなかった。赫昭も少し照れて恥ずかしそうに笑う。

「……そんなに格好いい真似が出来るかな」

「いつだって冬至様は誰より格好よかったですよ。そんな貴方をお守りできた日々……私は幸せでした」

 では、と赫昭はいつものような歯切れの良さで去っていった。一目散に張遼の元へ向かって肩を抱き合っている。遠目にははっきりと見えないが、張遼が赫昭を慰めるように胸を貸している。

 それから静かに酒を飲んだ。もう皆、思い思いに輪を作って飲みながら語り合っている。完全ではない。けれど天下泰平と言ってもいいくらいに世情は近づいた。長く苦しい戦いだった。この場にいられない者も多い。この場に居てほしかった人ほどいない。それは曹操もそう思っているだろう――焚き火の近くで、短くなった金の髪を揺らしながら天空を見つめている。

 やがて、李岳は全員の注目から外れたのを見計らって輪を外れると一つ向こうの通りに植わった樹の下へ向かった。

 呼ばれているのがわかった。そこには筋骨隆々、半裸の巨躯。貂蝉が居た。

「お久しぶりねん!」

「ああ。相変わらず元気そうだ」

「貴方は少し……いいえ! 無粋な言葉はやめましょう」

 うふん、としなを作りながら貂蝉はらしくない気の使い方を見せた。最後に会った時、あと一度くらいなら会えると言っていた。それが正しければこれが今生最後の会話になる。

 李岳にはこの貂蝉にどうしても伝えないといけないことがあった。

「凄絶な苦痛という言葉、何度も思い浮かべたよ」

 過去を振り返る李岳、その眉間には深いしわが刻まれている。

「……確かに辛かった。白蓮殿も、華雄殿も、敵も味方も多くを死なせた……死んだ人は戻ってこない。それを何度も突きつけられて、苦しかった。自分にはもっと出来たんじゃないかと思って――ありきたりな表現だけど、胸が引き裂かれるような気分になった。けれどあそこで戦いを辞めていた方がもっと辛かったと思う」

 失った者は苦痛にさいなむ。せめてもの慰めは、思い返す人々の横顔が笑っていることくらいだろう。

 貂蝉は初めて迷ったような表情を見せ、そして観念したように告げた。

「違いますわ……私が言ったのはそのことではありませんのよ」

「……違う?」

「凄絶な苦痛……貴方にそれはまだ起こっていないのです。本当の苦難とは……これから起こるはずだったのですから」

 驚きに、大声を発しそうになる李岳。それを制しながら貂蝉は続けた。

「ですがそれもなくなりました。貴方は救われたのです。仲間たちによって解放された。もう貴方を拘束する呪縛はなく、予言された苦痛に挑むこともない。運命を超えた結末。そんなものがあるなんて、思いもしませんでした」

「……俺はそこから逃げるのか?」

 うふんと声を漏らして貂蝉は、初めてどすの効いた野太い声で言った。

「甘いんだよ――自己犠牲を厭わぬ者が、どうして自分もまた同じ手口で救われることはないと思う?」

 初めて聞く雄々しい声に、その言葉が貂蝉なりの忠告なのだと知れた。

 甘えるなと――貂蝉は言う。思いやりを受けたことを逃げるなどと表するな、と。

「賢い貴方ならおわかりでしょう?」

「……わかった。だがこのまま終わりにしたくはない」

「んふ?」

「褒美をくれ」

 貂蝉はにっこりと笑う。

「皆までおっしゃらなくて結構! 私のあつぅい口付けをご所望!?」

「華佗先生の居場所を教えて欲しい」

 貂蝉の冗談に付き合うこともなく李岳は切り出した。

 華陀は李岳の母、高順の命を救った恩人だった。純粋にその礼がしたくて李岳は永家の者を使って所在を求めたが、一向に捕まえることが出来なかった。ある時は荊州に現れ、ある時は漢中に現れたという報告は聞くが、噂を元に使いをやるともう次の旅に出てしまった、というのがお決まりの話になっていたのだ。

 だがこの貂蝉ならば華陀と連絡を取ることも出来るだろう。

「母さんを救ってもらった礼をあらためてお伝えしたいのと……皆の健康診断みたいなことを一つやってほしい」

 貂蝉は呆れたように笑う。

「少しは私利私欲というものをお持ちになられた方が良いのでは?」

「何を言っている。これ以上の私利私欲があるか?」

 残していく仲間の健康と長寿。これを上回る欲と褒美があるだろうか。

「……んふ。そのお約束、確かに」

「ああ。じゃあさよならかな」

 貂蝉は初めて居住まいを正し、大きな体を折り畳むように頭を下げた。

「折りに触れご不快な想いをさせ給うたこと、平にご容赦頂きたく存じまする。貴方様のこれからの人生に御多幸あらんことをお祈り申し上げます」

 そしてまた、ぺろりと舌を出すと貂蝉はオホホホ、と声を上げて夜の闇に去っていった。あの男……女……いや、性別など些末だしこちらが決めつけることではない。あの貂蝉という人を、李岳は最後まで嫌いになることが出来なかった、と思った。

「冬至?」

「恋か」

 振り返らずに李岳は言った。

 呂布が不思議そうに続ける。

「誰と話してた?」

「ん?」

「一人で話してた」

 ああ、と李岳は言った。

「友達とね」

「……そう。皆探してた」

「うん……行こう」

 李岳は胸に澄んだ風が吹くのを感じた。幸せを祈られた。それはこの先に何があるのかあの貂蝉にもわからないということだ。李岳を縛っていたこの時代の物語、運命の鎖とも呼ぶべきものが完全に断ち切られたことを感じた。

 李岳の人生は、今ここから未知のものとなるのだ。

 そのことに胸が踊らないというのは、まるっきり嘘になってしまうだろう。

 李岳は心臓の音を感じながら、焔踊る宴の席へと戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雪。それが融けぬ間に梅が咲き、やがて入れ替わるように桃の季節となった。

 洛陽には花の香りが溢れ、春の訪れに人々は喜び勇んで通りを行く。冬には静かに立ち止まっていたものが再び動き出すのが春である。

 何かの予感に押されるように李岳は旅支度を終えると家を出た。あの大きな私邸は既に手放し、庶民としてあずま家に起居していた。黒狐だけは特別に軍の厩舎を借り受けることが許されていたが、それ以外は普通の民と変わらぬ生活を送るようになった。隣家からは昨今増えた匈奴からの移民として認識され、深く詮索されることはなかった。

 だがそれももう終わりである。

 家を出ると既に呂布が待ち受けていた。赤兎馬にまたがり、懐には犬のセキトを抱いている。屋敷にいた動物たちは皆しかるところに行き先をあてがったが、犬のセキトとだけは離れることができなかった。

「そう考えると大所帯だ。馬二頭、人二人、犬一匹」

「寂しくない」

 まるで李岳が寂しがっているかのように呂布が言う。李岳は鼻を鳴らして先に進んだ。本音を言い当てる必要などないではないか、と。

 真っ直ぐ東門に向かった。見送りはなかった。

 もう十分に別れの儀式は終えた。これ以上は蛇足であるから。

 桃の季節。別れの季節。旅立ちの季節であった。

 

 ――この一月、李岳は呂布と徐庶と共に冀州を回っていた。南皮で劉備らを見舞い、北平で公孫賛の遺したものに感じ入る。宿敵田疇の故郷を歩き徐無山の遺児たちに出来る限りの施しを行った。そしてもう二度とは戻らぬかもしれないと思っていた并州に戻り……

 

 洛陽に帰ってきた李岳は、とうとう最後の身支度を終えたのである。

 李岳の頼みでもう見送りはなかった。だがその背中を見納めたいと城壁には多くの仲間が顔を出していた。手すきの者はもちろん、この時に合わせてわざわざ日程を空けた者もいたはずだ。

 曹操ももちろん城壁の上にいた。居並んでは涙をこらえる者、誇らしく胸を張る者様々だったが、曹操はそこに家族の絆のようなものを見た。そして己もまたその輪の中に組み込まれているような気もして思わず笑う。

 これから曹操は李岳と交わした約束と、彼が残した宿題をやり抜かなけれなない。

 この冬の間、李岳が書き溜めた書は数多くに渡る。それは今後役に立てばという思いで残した李岳の理念、工夫や着想の類だった。水道から税のあり方、学び舎や医療の普及の方法。孫権への武力の抑えは張遼を重用せよという軍略的なものもあれば、とんでもない奇抜なものとしては河水と長江を運河でつなぐ、などというものもあった。

 李岳は一体どれほど先を見据えているのだろうか。

 それら全てをやり遂げることが出来るのだろうか。出来ないとしても、次代の誰かにきちんと引き継ぐことが出来るのだろうか。

 やるしかない。曹孟徳にとって敗北は一度で十分すぎる。

 門を出ると躊躇いなく進み、そしてどんどん小さくなる二つの影を曹操は見送りながら、胸に去来する不思議な喪失感を楽しんだ。

 去り行く宿敵。己を打ち負かし、全てを従え得る立場にあるというのに放棄して去る男。まるで一つの季節に立ち寄った、渡り鳥のような男だった。

 曹操は詠った。

「雁は北に向けて(とりで)を出る。広がるは無人の野。万里の先まで羽を広げ、行くも戻るもおのずから列をなし……」

 詠うことで曹操は事実と矜恃の折り合いをはかった。

 李岳。彼は雁門関を超えてやってきた渡り鳥だった。ならばこれは当然の結末である、と。思わぬ長居に翼が痺れ飛び方さえ忘れかけていたがゆえ、仲間が背中を押さなければいけなくなった。休めていた羽を動かし、鳥はまた果てしない旅を行く。

 曹操は詩を最後まで詠いきることは出来なかった。言葉が途切れてうまく出てこない。生涯かけて完成させるしかないだろう。

 大きなため息を吐き、さらに大きく吸ってから言った。

「さぁ! 皆、仕事にかかるわよ」

「あいよぉ……って、なんであんたが仕切るんや! 曹操!」

「私は後事を任されたの。ぐだぐだ言わないで従いなさい。まずは皆で食事でもしましょうか。そしてまだの者はこの曹孟徳と真名を分け合いましょう」

「偉そうなやつやなぁ……けどなんやろ、妙にしっくりくるこの不思議な感じ?」

 曹操の号令に皆は後ろ髪引かれながらも階下に降り始めた――ただ一人を除いて。

 曹操は城壁の中でも一際高い楼塔に視線を向けた。そこには一人佇むこの戦乱の勝者がいた。

 司馬懿は微動だにせず去りゆく背中を見ていた。これから李岳が洛陽を訪れようとも司馬懿は再会を拒むだろう。それほどの覚悟と執念がなければこの決断は出来ない。

 それを遣る瀬ないと思いながら、あっぱれとも思う。曹操に出来ることは、国を支える程度のことしかない。

 鳥を押し出す風が吹く。

 人の声にも、獣の唸り声にも似た音を奏でる強い風。鳥を果てしなく高く、遠くへと(いざな)う風。

 それに(こだま)す狼の遠吠え。

 蒼天に響く物悲しい調べ。狼は寂しいから喉を震わせるのだろうか、それとも決意を知らしめるために()くのだろうか。だがいずれも伝えられず、心の奥底に秘めなくてはならない想いであるがゆえ、人知れず喉を震わせるのか。

 

 ――そうして李岳は最果てを目指して旅立った。誰かのためではない。ただ自分のため。かたわらには彼が求めた伴侶が一人。

 

 それから五年が経ち、十年が経っても李岳は戻らなかった。

 やがて彼の名を覚えている者はほとんどいなくなっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「で、ご案内してもらう先はどこのどなたなのです」

 陳寿は二日酔いでまだ醒めやらぬ頭のまま聞いた。御者は首を振りながら答える。

「さぁて、わしには何もわからん」

「そんな無茶苦茶な」

「……あの匈奴の親方衆が行けというんだ。あんたのお役に立てる人なのだろう」

 駄賃ももらったしな、と声は満更でもなさそうである。しかし本当のこと全てを言っているわけでもなさそうだ。その態度が陳寿にこれから会う人物への期待感をかきたてた。

 道程はさほど険しいものではなく、平原を突っ切り見えてきた山の麓までおよそ三刻あまり。この先は徒歩らしい。

「わしはここまで」

「へぇっ!? こんなところからどうして行けっていうんです!?」

「いやもうすぐそこだ。ほら、煙が立っとろう」

 御者が指差す先には確かに(おこ)した火が立てる煙が見えており、徒歩で行っても半刻はかかるまいというところだった。

「じゃあな嬢ちゃん」

「ってちょっと待って帰りは!?」

「心配するなぃ。明日には別の誰かが来てくれるよ」

 ということは泊まり? 陳寿の疑問に答えることなく御者はさっさと馬車を返すと去っていった。

 しばらく躊躇していたが、陳寿はえいやと気合を入れると山に足を踏み入れた。けもの道しかない山野かと思ったが、よく見れば人跡もそこかしこに見える上に控えめだが道もある。それは真っ直ぐ煙の方まで続いているようだった。

 陳寿は荷を負ったままえっほえっほと山を行った。豊かな山だと思った。人がいるはずなのに鳥や獣たちと調和が取れている。無遠慮な虎や熊が一頭いるだけでこうはならない。

 やがてすっかり汗をかき始めた頃、陳寿は煙の元までたどり着いた。案の定小屋があった。小さいが丁寧な作りで、山羊と馬が囲いの中にいる。厩舎まであった。なかなかの造りだった。

「誰」

 その声に陳寿はぞっとして、興味深げに立ち寄ろうとした足を止めた。かいていた汗が一瞬でひっこみ途端に冷えた。一度盗賊紛いのごろつきに囲まれたことがあったが、その時などとは比にもならない恐怖。

 陳寿は両手を上げたままゆっくりと振り向いて行った。

「あ、怪しい者ではございませぬ!」

「怪しい」

「ごもっとも!」

「何しに来た」

 目の前にいたのは老婆だった。髪はすっかり白いが矍鑠(かくしゃく)たる様子。異様な気配がしているが、陳寿は震えるばかりでそれがわからない――それが本気の殺意だと気付かない。陳寿の人生で初めての経験であったから。

「あ、あの、私、私は」

 その時ようやく老婆の手に刃物が握られていることに気づいた。粗末な鉈であるが、自分の首を刎ねるには十分すぎる道具だろうと確信した。目の前の人物はその意志も技量も確実に備えている。

 陳寿は震えながら何とか答えた。

「り、り、李岳について知りたくて! ここまで来ました!」

 お助け! と目をつむって内心叫ぶ。

 死んだか? 死んだか? と陳寿は覚悟したがいくら待てどもその時は来なかった。

 やがて恐る恐る目を開けると、そこに人の姿はなかった。先程の老婆は小屋の扉を開けてこちらを振り返っている。

「中」

「ふへ?」

「入れ、中」

「は、はい!」

 陳寿は転がり込むように小屋の中に体を滑り込ませた。この機を逃せば戸は二度と開かれることはないだろうと言う確信があった。

 老婆は手にしていた鉈を無造作に置くと、熾火になっていた炉に炭を足した。何か特別な工夫があるのか、小屋の中は一気に温まった。そして慣れた様子で湯を沸かす。

「ん」

「あ、どうも」

 注がれた湯を口にした。茶ではないがいい香りがする。おそらく松の葉か何かを焦がしたものか何かだろう。それに口をつけながら陳寿は小屋を見回した。この湯と同じ、裕福とは違う別の豊かさが詰まっている、そんな風に思わせる小屋だった。

 素直に感心する。感心すると同時に、しかし陳寿は一向に落ち着かない。

 何せ老婆はお湯を注いでから先はずっと包丁を研いでいるのだ。

 食われるのか? 私が晩飯か? 決して肉付きは良くないから旨くはないぞ。そしてこの人が匈奴の親方衆が会えと言った人なのだろうか?

 疑問は口から出ることはなく、不自然な笑みを浮かべたまま陳寿は汗だけを流し続ける。

 やがて包丁の研ぎ具合を光に映して確かめながら老婆は言う。

「どうして李岳?」

「は、はい!?」

「どうして?」

 陳寿は全身の肉体全てで誠実さを表現しながら話した。

「わ、私はですね。洛陽からまいった者なのですが、史書編纂の仕事をしておりまして、そこでどうやら李岳という人が過去にいたことを知ったのですが、記録になんにも残されていないことに納得行かず、諸国を訪ね歩いてその痕跡を探していたのです」

 そしてとうとう辿り着いたのがここなのです、と。

 老婆の返答は短かった。

「ふうん」

 それきり、再び包丁を研ぐ作業に戻った。

 さてどう逃げるか……陳寿が真剣に脱出を検討し始めた頃、戸口が開いた。

 老婆と同じく老いをあまり感じさせない老爺だった。射止めたのだろう、兎と雉を何羽ずつかぶら下げている。背には弓。猟師を生業にしているのだろうと思えた。

「お客様かい?」

「ん」

 老爺も、それに答える老婆も優しい声だった。きっと夫婦だろう。ひょっとしたらこの老爺に会えと匈奴は言っていたのかもしれないと陳寿は思った。

「なんだか楽しそうだね」

「懐かしい名前を聞いた」

「そうかい」

 ん、と言って老婆は翁が持ってきた獲物を受け取ると、獣に謝るように一礼してから土間の方へと消えた。研いでいた包丁はあれを解体するためのものだったのだ、とはっきりわかった。少なくとも命を長らえたのは確かである。

 老爺は火を挟んで陳寿の向かい側に座ると、人の良さそうな笑みを浮かべて言った。

「やあどうもお客人。このようなところまでわざわざようこそ。うちの者がすっかり無礼をしたようだ。口下手でね」

「い、いえ……私の方こそ無遠慮なことを」

「身なりを拝見するに、さぞかし高位の方とお見受けするが」

 老爺の物言いにこそ只者ではない風格を感じた。少なくとも生涯をこの山で過ごしている者の話し方ではない。

 やがて陳寿は年配の者に対するに相応の礼儀を思い出し、居住まいを正して名を述べた。

「申し遅れました。我は姓は陳、名は寿。字は承祚。洛陽より参りました。史書編纂を任とする者です」

「……陳寿殿」

「はい」

「そうですか」

 老爺は名乗り返さず、湯を注いで口をつけた。何か想いを馳せるような表情だった。陳寿の名が知れ渡っているはずもない。史書編纂という言葉に感じ入るものがあったのだろうか。

 老爺は湯をぐっと飲み干すと言葉を続けた。

「……さてさて、で、ご用向はなんでしょう。私らなんぞにお手伝い出来ることはなかろうかと存じますが」

「李岳、という名をご存知ですか」

 老爺は、ああ、と感慨深げな声を漏らしてから言った。

「……昔はよく聞いたねぇ」

 陳寿は飛び跳ねた。初めて李岳の名を真っ直ぐ肯定する者が現れたのだ!

「わ、私は……この国から李岳という人の痕跡が消し去られているということに気づき、真実を究明するためにここまで参りました! どうか、どうかご存知のことをお教えください!」

 ふうむ、と老爺は陳寿の湯呑に湯を注ぎ足した。炭は勢い良く火を吹いて鉄瓶から蒸気が漏れ始める。何か語るには、想い出を呼び起こすには相応しい雰囲気になっていた。

「その名は消されたはずです。人々の記憶はもろく移ろいやすい。もう覚えている者はほとんどいないでしょう。なぜわざわざ掘り起こす必要が?」

 陳寿は司馬懿の顔を思い出し、胸にわき起こった火に煽られるように叫んだ。

「これは如月様からの挑戦なのです! 私は確かに如月様から反対されていました……けれどあの人のあの表情! あの切ない眼差し! 探して欲しいと言わんばかりでした! 如月様はきっと、本心では私に李岳を追ってほしいと願っておられたのです! きっと!」

 老爺は陳寿の迫力に押され、何かを承諾するように何度も頷いた。諦めたというよりは、深く納得したというような仕草だった。

「その前に一つ、よろしいですかな」

「はい! なんなりと!」

「洛陽は……国は……健やかですか」

 陳寿はその老爺の問いに妙な感情が入っていることに気づいたが、早く話を聞きたいのだという欲望が勝った。

「ええ、もちろん! 如月様……司馬懿様が再度建て直された我らが大漢は健在です! 天下泰平! 世に憂いなし!」

「――そうか、それは良かった……」

 老爺は初めて笑った。苦労したのだろう、割れた唇が穏やかに持ち上がる。

「さてさて、何から話そうか……世情に疎くてね、よければこの国の歴史を語ってもらえないだろうか? それに私が知ることをお伝えするという形が良いかと考えますが」

「……ええ! ええもちろん! いずこから話しましょうか! 天下騒乱の火種となった匈奴の乱からですか! 冀州戦役、それとも豫州戦役からですか! 曹操という英雄を降してからですか! それともその後のことから遡りましょうか? ああ、この国に危機は幾度も訪れました。黄巾の再決起、孫呉との決着、五胡の大乱……その全てを振り返りましょうか?」

「これはこれは、長い夜になりそうだ……今日はもうお帰りにはなれますまい。ここに泊まり、明日やってくる匈奴の衆らの馬に乗せてもらいなさい。ちょうど古い友が訪ねてくる」

「た、助かります」

「となれば夕食は少し豪勢にしましょうか。話すにしても何か食べながらの方が調子も良い」

 老爺が言うと、奥から老婆が皿いっぱいの肉の串を運んできた。先程の獲物をさばいた物以外にもありそうで、陳寿は思わぬ歓待を受けることになった。

「これは……なんだか独特な香りがしますね。香辛料?」

「ご存知ですか?」

「ええ、近頃は南の交州から広く世界の珍品が集まりますので……」

「肉には酒がないと。いける口ですか?」

「あっはっは。はい。あっはっは」

 陳寿は心踊る気持ちを抑えつけながら、酒を受け取り肉が焼けるのを待った。

 

 ――そして語り合った。李岳が関わったであろうこの中華の歴史について。

 

 

 

 

 

 

 

 

 気づいた時には陳寿は墨を擦り、老爺の語りを片っ端から書き留めていた。

 老爺は決して自分から語ることはしなかった。ただし陳寿の質問には答えた。そして陳寿の語る歴史の流れに、明確な間違いがある時だけそれを指摘した。

 何刻話したか、夜はすっかり更けていた。老爺は繰り返される質問に飽きもせずに答え続け、老婆もまたじっとそれに耳を傾け続けていた。

 やはり李岳はいたのだ、と陳寿は確信した。

 そして同時に、陳寿はなぜ司馬懿が李岳という名を消し去ろうとしたのかも理解した。

「……ありがとうございます。大変参考になりました」

「知っていることを、少しお伝えしただけですよ」

「これでようやく私は納得することが出来ました。李岳という人はいました。如月様は……司馬仲達は彼と共に天下を鎮めるために戦った。だがある時、李岳の全てを奪って放逐した。李岳の名は全ての記録から抹消され、その功績は司馬仲達のものに集まった」

 それが真実なら、司馬懿はとんでもない簒奪者だ。名誉、功績、地位の全てを李岳から奪い、この国で位人臣を極めることになった。非道、悪辣、そして不埒とも言える。

 同時に、そんなはずはないのだという確信が陳寿にはあった。司馬懿の切ない横顔を思い返す。違う理由があったのだ。だからこそ李岳を放逐し、その名を秘めた。陳寿にも探すなと命じた。

 その理由を確認することだけは、もはや誰にも出来ない。

 

 ――ふと、陳寿の中の何かに火が付いた。それは歴史を書き残す者にのみ備わる矜持のようなものだった。

 

 立ち上がると、陳寿は頭を振って叫んだ。

「如月様! 私はここまで来た、ここまで来ました! 否定すればいい! 忘れたことにしてもいい! けれど真実だけは譲れない……この世界にあった事実を捻じ曲げることだけは許さない! 李岳は、李岳は実在した! 彼はこの世に生を受け、大地を駆け回った! 戦ったのです! それだけは譲れない!」

 ああ、と内心うんざりする。結局自分の動機はそこだったのだ。

 これは司馬懿に挑まれた勝負だった。歴史を学ぶ者として、それに必ず打ち勝ちたいと思ってしまったのが運の尽きだったのだ。

 陳寿の叫びは止まらない。

「李岳はここ匈奴の地に生を受け、并州軍監の丁原に見出されて対匈奴戦を戦った。その功をもって洛陽に上がり董卓の庇護を受け出世する、反董卓連合を打ち砕く原動力となり、劉表を倒し、劉虞に立ち向かい! ――くそっ、なんだよ!」

 興奮のるつぼに放り込まれたように、一気にまくし立てた陳寿は呼吸を失いかけて息急き切った。涙が溢れて止まらない。実在を疑いかけたこともある、自らの妄念に拠っているのではないかと慄いたことさえある。

 だが眼前の言葉少なな老爺が己――李岳の雄飛を謳い叫ぶ陳寿――を眼差す瞳を見よ! これが虚栄を語る者を見る目だろうか!

 陳寿はとうとう叫んだ。

「私の勝ちです、如月様! 私は、李岳に辿り着いた! 私は、私は――!」

 それは魂の叫びだった。勝者にだけ許される雄叫びだった。幾百の志、幾万の散った命のために一人戦っていた自負があった。例えどんな名君であろうと、高尚な者であろうと事実を変えることだけは許されないのだという、陳寿の信念が勝利した瞬間だった。

 老爺はうやうやしく頭を垂れて言った。

「勝利、おめでとうございますというべきでしょうか」

「ぐすっ……お見苦しいところをお見せし、失礼いたしました」

「なんの。人生に勝負はつきもの。その決着の瞬間に立ち会えたこと、幸運というしかありません」

 そう、決着だった。陳寿の一つの戦いが今日終わった。

 一つの点が埋まったのだ。

 次は点と点を繋げる時が来たと陳寿は悟っていた。

 陳寿は己の気が静まるのを待ち、火に炭を足す老爺を見つめながらぽつりと言った。

「冬の天狼星」

 

 ――それは初めて老爺が手を止めた瞬間だった。

 

「……といいますと?」

「何か聞き覚えは?」

「……天狼星は冬に輝くもの。さして思い当たる節は」

 老爺が初めてとぼけた。それに確信を得た陳寿は再び闘志に火をつけた。

 陳寿は背嚢をひっくり返して荷物を漁り始めた。

「……老大人はご存知ないかもしれませんが、交州の士燮が西への海路を開き……近年いろんな文物が入ってくるようになったのです……もちろん敦煌から先の『草原の道』も整備されてきたのですが……ええと」

 陳寿が背嚢から引っ張り出したのは書簡だった。それは近年発見され、翻訳されたものであった。

「これは交州の港に届いた、西国から海を渡りやってきたものを翻訳したものです」

「……それはまた貴重なものを」

 コホン、と咳払いをして陳寿は言った。

「これにはこう記されています。ヒエムス・セイリオス――大秦国周辺の言葉で冬、天狼星を示す言葉です」

「その者が何か?」

 違和感。それを押し留めて陳寿は言葉を続けた。

「申し上げた通り、これは近年遠き西国まで開かれた海路を経て届いた書物です。南海の大名家である士燮殿が洛陽に献上したものの一部ですが、ここに記された人物こそヒエムス。私はそれが李岳だと思えて仕方がないのです。ここにはこう書かれています。ヒエムスと呼ばれる男は遠く東より馬に乗って来た。赤い髪の武人を従え、騎馬隊を率いて動乱を鎮めた、と」

 陳寿の勝負はまだ続いている。陳寿は司馬懿に勝ったに過ぎない。

 陳寿は、李岳とも勝負をしていたのだ。

 歴史を探求する者が消えた名前をただで逃がすはずがない。謎はすなわち飢餓である。渇きを潤すためにはどんなことでもする。その者のその後の人生までも知り尽くしたいと思うのは、本能以上の欲求である。

「当時、大秦国は即位した帝がすぐに暗殺されるなど混乱の坩堝にありました。そして各地で帝位を僭称する者まで現れ、巨大な内戦に突入したのです。そう、何十年も前に我が国が経験したような血で血を洗うような戦いに! そこに現れたのがヒエムス。彼は若き駿才アウレリアヌスを擁立し、その混乱を鎮める戦いを繰り広げたのです。かたわらに赤髪の武人を従えたヒエムスは天下無双だったとここに記されています」

 南方から伝わる文物の一大集積場となっているのが汝南である。陳寿はここに足繁く通い、西の書物や珍品を広く求めた。そこで見つけたのが『冬の天狼星』と呼ばれた男だった。その姿、行い……陳寿が思い描いた李岳と似通うにも程がある、瓜二つと言ってもいい!

 これを妄想だと陳寿は何度も切って捨てようしたが、その度に翼を広げた想像は一段とたくましくなって舞い戻ってきた。司馬懿と袂を分かった李岳は西を目指した。おそらく匈奴の民であった李岳は旅団を作って西へ行ったのだ、そこで若きアウレリウスと出会い……

 陳寿は老爺を指して言う。

「先程、私はヒエムス・セイリオスとだけ言いました。けれど貴方はその者、と人物を表すことをすぐに理解されました。なぜですか?」

 老爺と、そして老婆の目が静かに陳寿に注がれる。かすかな殺気が混じっているのは気のせいではない。

 陳寿はもう狼狽しなかった。探し求めていた者をとうとう見つけた興奮が、死の恐怖などたちどころに叩き伏せてしまっていた。

「貴方が李岳……そして冬の天狼星と呼ばれた男では?」

 三人は火を前に沈黙し、見つめ合い――

 やがて老爺は小さく口を開いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、小屋を訪ねてきたのは匈奴の軍団であった。

 陳寿が腰を抜かしたのは、率いていたのは時の右賢王香留靼であったこと。陳寿は北方で最も心強い案内人を伴って并州へと戻ることになった。

 世にも珍しい客人(まろうど)が去り、再び二人きりとなった小屋の中で女は言う。

「書く?」

「ああ、陳寿殿かい」

「書くかな」

 男はやれやれ、と肩をすくめて答えた。

「書くだろうね」

「良いの?」

「良いさ……あの方なら。それに」

「それに?」

「如月のやつ。陳寿殿をわざとここにたどり着くようにしたんじゃないかなって」

 女は少しむっとした。身勝手ではないか?

「残さないようにしたのに、今度は書かせるために?」

「多分、逆だな」

 男は首を振る。

「陳寿殿の口から、この国がどうあったかを聞かせるために」

 ああ、とようやく女は得心して頷いた。

「やりそう」

「だろ?」

 司馬懿は――この国で最高峰の宰相にまで上り詰めた少女はきっとこう思ったに違いない。

 教えて上げたい。

 こんなに頑張った、貴方がいなくても何とかなった、約束は果たした、こんな立派な仕事を仕上げた。

 そう伝えたくて歴史を調べたくてうずうずしている部下をそそのかしたのだ。

 そのくらいのことは朝飯前に企んでしまうだろう。なにせ――最高の軍師なのだったから。

「ここまでお使いに来てもらったんだ、駄賃くらいはあげないと」

「書かないと思う」

 ん? と男は女の意見に耳を傾けた。

「なんとなく、そんな気がした」

「ああ……確かにそうかもな。どっちかはわからない。俺たちに答え合わせをする時間もない」 

 男はそう言うと、再び火の前に座った。衰えも病もとっくに身近な友となって久しい。悪友だが、これも慣れてみれば悪くない。毎日元気かと、手を変え品を変え聞いてくるような気のおけないやつだから。

 座り込んでしまった男の隣に座り、これまで何度も――何百回も、何千回だって――そうしてきたように、女は肩に頭をあずけた。静かな二人だけの時間。涙が出るような他には何もない世界。

 女は聞いた。

「ねえ」

「ん?」

「幸せ?」

 何の前触れもない質問に男は面食らったが、彼女の突拍子もない言葉で驚かされるのはこれまで度々だったから戸惑うことはなかった。

「そうだねぇ」

 湯を入れながら男は屈託なく笑った。女にはそれで十分であった。幸福の在り処を問う無粋を恥じるほどだった。

 

 ――人に言えば信じてもらえないような波乱の道程を二人で歩んできた。文字にすればどれだけ筆を走らせても終わりの見えない物語を。人生の大尾を、こうして穏やかな熾火を前に過ごすことが出来る喜び。ようやく手にすることが出来た本当の望みを胸に抱えて、女は男もそうであるかを確かめたくなったのだ。

 

 恋は愛に変わり、されどなお恋のまま。

 二人は奪われた最後の宝を取り戻した。やがて訪れる永遠の黄昏に抱きしめられるまで、日々静かにそれを守り続けるだろう。もはや邪魔する者は誰もいないのだから。

 残した楽しみは先に去っていった友との再会。

 きっと尽きることのない想い出話を、飽きる事なく繰り返すはずだから。

 それはそれは、きっと楽しい日になるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 陳寿は後に大著をしるし、中華を駆け抜けた人々の生き様を余すことなく伝えた。そして特筆すべき英雄には列伝を仕立て別巻まで残している。

 だがその中に一巻のみ、外典とも言える書があったとされる。それは確かに陳寿の真筆でありながら、とうとう時の皇帝に上梓されることなく私撰のまま秘め置かれた外史となった。

 後代、その真贋を問われ時の史家に評されることもあったが、やがて中華の乾いた風塵にさらわれるように散逸してしまったという。もはや彼の者の記録を読む者はなく、そしてあえて語られることもない。

 しかしその者がいたように、その書も確かにあったのだ。墨が塵と乾き果てようとも、灼熱の想い出さえ草木の雫と濡れそぼろうとも、寝物語に言の葉を口ずさむ者がもいなくても――誰も信じまい。けれどきっと届くと信じる。彼がこの地で生きた証は万象に刻印されているのだから。

 頬を打つ天翔ける風の息吹に、夕暮れに照らされる石塊(いしくれ)の肌に、夜空に輝く天狼星の光芒に。

 山河草莽、日月星辰、そして彼の生き様を追った全ての友がここに証を立てるだろう。天地の狭間を疾駆した、綺羅、星の如き英雄たちと共に乱世を生きた男がいたことを。

 さぁ、今こそ戦乱絵巻を紐解こう!

 彼の名を冠する、熱き時代をつぶさに記したその書の名は――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

真・恋姫†無双

李岳伝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五丈原に秋風が走る。

 それは西方から届くどこまでも乾いた風だった。

 司馬懿はその乾風に咳を漏らした。既に老いを感じる歳である。戦場に立つにしてももう少しいい季節であってほしいものだった。

 敵は、選ぶのであれば豪雨や霹靂舞い散る日であろうと構うまい。

 見渡す限りのすすきの平原に、長大な陣を築いた敵。

 

 ――その数、五十万とも百万とも付かない。

 

 突然変異のような英雄というのは常に現れる。その男は大帝を名乗り、匈奴を除く異民族をまとめ上げ、漢帝国打倒を唱えて決起した。長安からすら遠く離れた地で兵力を整えた軍勢は、またたく間に数を膨らませて各地の城を落とした。

 だが、と司馬懿は思う。

 本当の英雄を知っている者からすれば、あれは偽物だ。英雄とは何を守るべきかを知っている者だ。戦勲でも名誉でもなく、金でも称賛でもない。弱き者のために理不尽に抗う者、それこそが英雄と呼ばれる者の根本たるゆえんである。

「全く、そんなに君臨したいものなのかしら」

 隣に並んだ曹操が言う。

 司馬懿は思わず笑ってしまった。

「貴方が言いますか」

「あら、生き方を変えたのはとうの昔よ?」

「まぁ確かに。ところで頭痛は大丈夫なのですか?」

「華陀のおかげね。なんともないわ」

 老いてなお美しい金の髪を揺らしながら曹操は微笑む。

「……しかし中々、数を揃えてきたわね」

 曹操の声にもわずかに緊張がある。

 確かに際どい勝負になるだろうと思えた。劉備は北の抑えに、張遼は孫権の抑えに置いている。馬超は一族郎党を率いて涼州から圧力をかける二面作戦の指揮を採っている。

 ここには夏侯惇、趙雲、黄忠、厳顔、魏延、徐晃、楽進、于禁という名将に、鄧艾や杜預、羅憲といった若き才能も引き連れ手勢は二十万。漢帝国が誇る最精鋭と言ってもいい。

 それでも兵力の差は如何ともしがたかった。

 既に益州は飲まれている。ここで支えなければ漢中で踏ん張っている張郃が完全に孤立してしまう。祁山の関羽と張飛、陳倉城を寡兵で守っている赫昭も保たないだろう。

 この間、戦乱のない時代が長く続いたために軍は縮小させる傾向にあった。そのほとんども平時は田を耕す屯田兵である。司馬懿麾下伝統の騎馬隊だけは調練を欠かさなかったが、それもさして増員させることはなかった。

 その隙を突かれたのかもしれない。戦時と平時、その間の備えについてこの国はまだまだ経験が足りないな、と司馬懿はまるで他人事のように考えた。

 軍略としても決して蛮族などと侮ることは出来ない。

 官軍は定軍山を本拠地に置いて北、西、南と対応できるように備えていたが、結局のところ五丈原まで引っ張り出された。平原での決戦に持ち込まれている以上、兵力の多寡が最大の争点となる。

 しかし――司馬懿は平然としていた。何しろこと寡兵の悩みに関しては、既に一生分済ませてしまっているのだから。

「来るわよ、如月」

「華琳殿。拒馬槍の用意を」

 しかしそれでも思う――ここに貴方がいたらと思う。どれほど心強かったろうか。

 その弱さをいつものように殺して司馬懿は指揮を開始した。

 敵兵は最大限に大きく広がりながら迫ってくる。騎馬隊が主だが歩兵も多い。趙雲が手勢を引き連れ雪崩れ込んでいくのが見えた。不滅の白馬義従。北斗七星が曇ることなどないとばかり。

 敵の騎馬隊も曹操が対応を始める。対騎馬戦法について曹操ほど長けた者がいるはずもない。諸葛亮、鳳統、徐庶の三名が右翼、左翼、中央を監督する。布陣としては万全である。

 あとは数の差がどれほど出るか、敵にさらなる備えがあるか、だったが――

「北方より砂塵!」

 伏兵の知らせ。司馬懿は慌てて振り返った。戦慄が走る。北は馬超が支配する涼州を経なければ絶対に通過できない。通過できないはずだと思い、完全に無警戒である。

 北方から迫りくるのは騎馬隊だった。その数三万から四万。このままでは曹操の横腹を食い破られ、本陣もたちどころに割られてしまうだろう。敵の軍略はこちらの上を行った。一撃で官軍を敗走させる段取りを済ませていたのだ。

 司馬懿は己の手勢を確かめた。二万。予備として考えていたが使い時はここしかないだろう。司馬懿は愛馬の首を叩いた。昔、譲り受けた馬。その孫であるが、司馬懿はこの血統を大事にしたかった。もし最期を迎えるとしても共に在りたいと思えるほどに情が移っている。

 あの人から任されたこの国を、守るために命を張るなら躊躇いはない。

 司馬懿は手を上げ、敵兵に向けて吶喊を指示しようとした、その時だった。

 

 ――騎馬隊は進路を変え、猛然と敵の中軍に食らいついた。

 

 それは唖然とするほどの勢いで、予期せぬ襲撃に敵は一挙に崩れ始めた。奇襲への備えも全くなかったようで、面白いように戦列は崩壊していった。奇襲部隊は敵兵の横腹を食い破るどころか本陣さえ八つ裂にする思惑のようだった。

 先頭を行くのは――巨大な戟を構えた戦士。赤い髪が陽に照り返されている。血を流したような汗のしぶきを散らして駆ける馬。近づくことさえ許さない武勇は誰かを彷彿とさせる。趙雲の笑い声がここまで届く。司馬懿ははっと我に返り総攻撃を命じた。全軍を真っ直ぐ押し出すだけで後は掃討戦となった。これほど完璧な奇襲は、遠く記憶の彼方にしかない。

 やがて全ての戦が終わった頃、司馬懿は全軍を招集した。

 隣で徐庶がうるさい。曹操が兵に余計に大声で指示を出す。静かにして欲しいと思うのと同時に、一番うるさいのが自分の鼓動だということもよくわかっている。

 黒馬にまたがる小柄な男が、ゆっくりこちらにやって来た。

「……お名前を、伺っても?」

 司馬懿の問いに――彼は懐かしい笑顔を見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




 2012年1月20日ににじふぁん様に投稿してからここまで8年あまり。皆様の応援のおかげで完結させることが出来ました。
 8年というものは長いもので、いただく感想に「当時○○だった」「○年追いかけている」など、想い出とともにコメント頂ける度に時の流れと不思議な縁に感動しました。この作品が皆様の人生の節目に寄り添えたことは望外の喜びでした。
 私自身の人生にも様々なことが起きた8年で、良いこともあれば悪いこともあり、率直に言えば悪いことが少し多いような、そんな時期でした。
 どうしようもないことのせいで更新が滞ることもありましたが、感想を読み返す度に「書かなきゃ」と思ってキーボードに向き合いました。これはとても大きなことで、どれほど疲れてても心をニュートラルに戻すことが出来ました。
 夜に投稿することが多かったんですが、朝に届く感想を心待ちにする気持ちはサンタのクリスマスプレゼントを待つ子どもでした。
 心から言います。ありがとうございました。


 多くの方の助けを頂きこの結びに至ることが出来たと思います。
 感想を書いてくださった方、点数評価を頂いた方(それも10点で、熱い感想コメント付きの方は特に)
 作者ページのリンクからAmazon経由でプレゼントを送ってくださった多くの方(本当に届いた、と毎回腰を抜かすほど喜んでいます)
 Twitterで読了コメントを呟いてくださった方々。
 スペシャルサンクスとして、李岳伝のテーマ曲を作ってくださったあたる様。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm31702252
https://www.nicovideo.jp/watch/sm32142830
https://www.nicovideo.jp/watch/sm33509210
※追記 さらに新作「真・恋姫†無双〜李岳伝〜 グランドED -在天一隅志在万里-」を公開頂きました!
https://www.nicovideo.jp/watch/sm37954932

 そしてもちろん、作品掲載の機会を頂いたハーメルン様、ここまでお付き合い頂いた全ての読者の方々……
 最終回で記した『彼の生き様を追った全ての友』とはもちろん皆様のことを含みます。一緒に李岳という人の人生に寄り添って頂けてありがとうございました。

 作品についてのコメントは蛇足かと思いますので控えますが、いくつか残したままの謎や伏線は皆様で自由に想像して頂ければと思います。
 次に何を書くかはわかりませんが、その時は「ああまだこいつ、頑張って書いてるんだ」と思ってお付き合い頂ければ嬉しいです。
 皆様のご多幸をお祈りいたします。

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