真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百七十話 凱歌と凶刃

「何もわからない?」

 陳寿の率直な説明に、匈奴の親方衆は首をかしげた。

 陳寿は己が知る歴史について開陳していたのであるが、戦乱の世の趨勢を決定づけた契機の一つである『潁川の戦い』の決着については明言することが出来なかったのだ。

「そうなのです……ほとんどが伝聞、または推測のみ。直接的な資料が残されていないのです」

 肉を食い、酒を飲み、いい気分で朗々と語っていた陳寿だが――こと潁川の下りになると意識が明確になった。それほど苦悩し、解き明かさんと取り組んでいる問題なのだ。

 近年の研究により官軍が包囲戦術を採用したことはわかっている。それも西の大秦国の軍人が考案したものとそっくりだというのが、この頃はっきりとわかってきた。東西の交流が活発になったことがもたらした成果のひとつである。

 もちろんそれも大いなる謎だ。全軍による包囲戦術は画期的なものである。しかし西方の戦術論が伝来したという記録はなく、たまたま発明されたというのも納得できない。大いなる議論の的になっている。

 豫州戦役の最終局面である穎川の戦いは、公式な文書では司馬懿が指揮し、曹操を包囲して倒したということになっている。戦の趨勢について詳細がわからないことはしばしばであるから、その点に関して陳寿は諦めている。

 しかし問題は決着の瞬間である。なぜ曹操が剣を下ろしたのかがわからない。関係者は皆一様に口を閉ざしているのだ。皇帝に上梓された書には曹操は降伏を受諾した、とのみある。しかしその時点の戦局は未だ先の見えない混乱の中にあったはず。

 司馬懿と曹操は潁川で激突し、包囲戦術と打開策の間で混戦に突入し――終戦した。これで納得しろというのは無理がある。

 誰かが決定的な仕事をしたのだ。それも記録に残すことのできない人物が……いや、記録から抹消された人物、といった方が正確かもしれない。このせいで穎川の戦いは重要な事件であると同時に、正体のわからない事件として史家を悩ませるのだ。

「……李岳という男が、潁川の戦いを決着させたのだと考えています」

 知れず陳寿の瞳からは涙がこぼれていた。この謎を解き明かしたくてここまで来た。わからないことが悔しい。歴史を捻じ曲げられているのが苦しい。歴史とは、人々が懸命に生きた記録なのだ。それを後世の者がたやすく左右させていいはずがない。

 もし司馬懿が――己の栄達のために李岳を消したというのであればそれもまた陳寿は解き明かさねばならないと感じる。多くの者が口をつぐんでいる理由も知りたい。

 しかし同時に、陳寿の懐には近頃手に入れた新たな情報もあった。陳寿の情緒は大きく揺れ動いている。希望か失望か。そして謎を解明したいのだという根源的で抗いがたい欲求。

「……それほどまでに知りたいか」

 匈奴の親方衆のうち、もっとも年配の者が口を開いた。それまで頑なに口を閉ざし、酒を飲むだけだった男だ。陳寿の涙に、情熱に感じ入ったようにのっそりと身をよじっている。

「は、はい……そのためにここまで来たのですから」

 男はうなずくと、ここまで陳寿を案内した御者に耳打ちをした。

「……明日、この者に案内をさせる。そこで人と会うが良い」

「そ、それは」

「我らに言えるのはそれまで。他に語ることはない」

 陳寿は手にしていた杯を一気に飲み干すと、大きな声で感謝を伝えた。

 長い旅の終わりを予感した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 豫州での滞在を年内で完結することが出来たのは、降伏した曹操陣営による懸命の働きによるところが大きかった。真に統率に優れた軍は敗北してもなお一糸乱れることはない。それを証明するかのようにいささかの混乱もなく、与えられた仕事を完璧にこなす光景はまさに堂々たる誇り高き敗者といえた。

 李岳もまた敗残兵たちを無下に扱うことはなかった。兵卒に至るまで全ての部下たちに敗者を侮ることを禁じ、虐待や暴力沙汰があれば断固たる態度でこれを処すると触れまで出した。結果、両軍の間にはほとんど軋轢が発生することはなかった。

 傷ついた兵の治療と軍の再編、荒廃した豫州全域の慰撫と対孫権に備えた防備の構築。概ね想定通りに物事は動いたが頓挫した事案もあった。それは青州で劉備と干戈を交えている臧覇の武力解除であった。どれほど使者を出しても李岳の策略と疑い応じることがないのである。今は程昱が直接足を運んで説得に向かっていた。

 各地からは歓喜の知らせが次々と届いた。最も早くに届いたのはもちろん洛陽の天子、董卓と賈駆である。続いて劉備の名代としての許攸、荊州の劉琦。待てば全土からひっきりなしになることは間違いない。

 誰もが戦乱の終わり、天下泰平の時代の始まりを予期しているのだ。やがて間もなく年も明ける。新たな年号をまさに『泰平』とし、その元年を祝おうという話も届いていた。

 李岳の帰還はその泰平元年元旦の朔日に迎えるべしという話になった。新年の祝いと泰平の到来、そして凱旋式をいっぺんに取り行ってしまおうという欲張りな話である。天子直々に軍団閲兵の上、将兵らに拝謁を許すという豪儀な話まで漏れ聞こえ出し、滞在中の陣では元の所属の如何(いかん)に関わりなく噂の種となった。

 

 

 

 

 

 

 

 李典は特別な計らいで作業室を与えられていた。

 曹操の元で兵器製作を一手に担っていた李典は李岳にことさら興味を持たれたのだ。李岳に対して大いなる恐怖とかすかな屈辱が入り混じった複雑な心境を――それは曹操軍将兵ら全員に共通する思いでもあるが――持っていはいたものの、曹操と共に現れた李岳は李典の技術に興味津々、妙な取り調べを受けることもなかった。

 李岳は李典の持つ技術にいちいち関心し、拒馬槍や弩砲の仕組み、工夫や調達方法について事細かに聞いた。李典もまた連弩や鐙の開発経緯などについて李岳に直接疑問をぶつける機会を得ることが出来た。応用については興味があるものの、技術自体についてはさほど関心がない曹操と違って李岳はものづくりそのものに知見があり、話はいつまでも弾んだ。その結果、李典は李岳についての先入観や偏見をほとんど取り去ることが出来たのである。

 なんとなく、李岳と曹操はうまくやるのではないかと李典は盗み見ながら思った。ちゃっかり男女の関係なのでは? と疑いもしたがどうやらその様子はなさそうだ。お互いがお互いを尊敬し合う。男と女でもそういう関係に到れるのだな、と半ば感心した。

 もちろん曹操がいるという前提ではあるが、この男なら付いていってもいいだろう――李典がそう振り返っていた頃、于禁が居室に訪ねてきた。

「お、久しぶりやん!」

「ん」

 片腕が義手でも器用に茶を入れることに差し支えない李典だが、于禁の様子に戸惑いやや手が震えた。眼鏡の奥の瞳は思いつめたように暗い。

「……元気にしてたの?」

「ん、まぁぼちぼち」

 元曹操軍の将らは意外な程に忙しく、それぞれ顔を合わせることは稀となっていた。李岳の配下である司馬懿、徐庶、張燕、そして洛陽からやってきた陳宮らによる査問が繰り返し行われたのだ。厳しい尋問という雰囲気は皆無で、時には食事を取りながら話をすることもしばしばだった。しかし今にして思えば曹操軍の将同士の連絡を断つためにも日程を詰め込んでいたのだろう、ということもわかる。

 于禁の訪問の理由はわかっていた。今後の身の振り方についてだろう。

 もじもじとしてばかりの于禁にしびれを切らし、李典は自ら話を振った。

「あんたはどうすんねん、沙和」

「真桜ちゃんは?」

「ウチは……まぁ他に行く宛もないしなぁ」

 あえて控え目な表現に留めておいた。

「そう……なの」

「凪は華琳様の決めたことに従うやって」

 楽進は曹操に従う、それ以上のことは考えないようにしたらしい。だが実際には李岳軍所属の武人たちから誘いがあり、近頃は頻繁に手合わせをしているらしい。呂布の強さに衝撃を受け、もっと強くなりたいという気持ちに火が付いたのだ。

 皆それぞれ、自分を納得させながらこれからを生きていこうとしている。

「……私だって、みんなといたいの。華琳さまと一緒がいいもん」

「ん、せやな」

「春蘭さまは、どうするのかな」

「んなん、わかりきっとるがな」

「……そっか」

 李典は空気を入れ替えるようにわざとらしく明るい声で話題を変えた。

「そういや年明けは洛陽で凱旋式やって。まぁめでたいこっちゃで。負けた方も一緒に歩くんは前代未聞やな」

「凱旋式?」

「なんや、まだ聞いてへんかったん? 正月にみんなで洛陽に戻って街を練り歩く段取りらしいで。これからは仲良くやっていきましょー、って感じのことを演出したいんやろ。ウチらはその警護を任されるらしいで」

 李典は直後、話題の選択に失敗したことに気づく。于禁の表情はどんどん曇る。眼鏡のせいもあるが、俯いた表情は暗く淀んでいるようにしか見えない。

「それってなんだか変……私、納得がいかないの」

 于禁は堰を切ったように話しだした。

「たくさん死んだ……たくさん死んだの! たくさん、たくさん……負けたのはいい。それは仕方ないことだってわかるの。けど、負けた側が間違ってたってことになって、全部がなかったことになって! じゃあみんなは何のために死んでいったの!?」

「き、気持ちはわからんでもないけど……せやけどな、沙和」

「私は、私は……!」

 曹操軍では新兵は必ず于禁の調練を受けることになるのが習わしだった。李岳との戦いでは多くの兵が死んだ。于禁の立場からすれば素直に李岳に付き従うのは難しいのだろう。

 いや、と李典は違う可能性を考えた。鍛え上げた多くの兵が死んだのに、のうのうと自分が生きているのが許せないのかもしれない。于禁は傷一つ負わなかった。それが耐えられないのか。

 楽進は根っからの武人なので切り替えが早い。死ぬことは悲しいが覚悟の上、という考え方だ。自分は根は技術屋で、武人や軍人ではないと思う李典はそこで考え方の食い違いがあるのだろうと思った。何より腕一本失ってる。痛みは受けたしもう懲り懲りとも考えている。

 その点、于禁は乙女だった。家族や仲間を失い、なお自分が無傷であることに耐えられない。

「連弩、貸してよ」

 李典は思わず聞き返した。

「な、なんて?」

「私たちは警備なんでしょ? だったら武装してないといざという時に役に立たないじゃないの」

「……沙和」

 曹操軍はほとんど解体され、武装も解除されている。ただし将についてはある程度お目こぼしをもらっていた。しかしそれは普段に身につけている得物に限っている話で、連弩などの兵器について装備している者はいない。

「貸して」

 于禁が再び言う。

 李典は躊躇していたが、于禁の涙で腫れた真っ直ぐな目を見て諦めた。

 

 

 

 

 

 

 

 ――同じ頃、曹操は一人の時間を過ごしていた。

 

 雑事に半ば忙殺されていた曹操は、ようやく茶をゆっくりと飲める暇を見つけることができた。ここしばらくはほとんど李岳に同道して過ごした。人に会うにも案を練るのも同じだった。李岳はそうして曹操との間の溝を埋めようと、そしてそうであることを多くの者に見せようとしていた。

 それは理解できたが、気疲れがあったことも確かだった。

 今は潁川の許県に駐屯し、仮の居宅を構えていた。李岳の隣家である。下女は全て曹操が従来召し抱えていた者たちそのままであったので、曹操は傍目には以前と変わりない生活を送れるようになった。

 

 ――曹操は朝から窓辺で茶を飲んだ。詩作に(ふけ)ろうとしたが満足行く言葉は一向に出てこなかった。外気は冷たいが期待するほどではなかった。例年と違いあまり冷えない冬になるだろう。

 

 三煎目を飲み干した時、(おとな)いが聞こえた。夏侯惇だった。ようやく傷も癒え、出歩けるようになったという。常人であれば未だ立ち上がることすらままならない負傷であるはず。

 夏侯惇はすっかり旅支度を済ませていた。

「行くのね?」

 李岳に付くという約束はあくまで曹操個人のもの。部下にまで強いるつもりはなく、全員自由意志に任せていた。一人を除き全員が曹操と道を共にすると答えてくれた。その最後の一人が夏侯惇である。答えは分かりきっていた。

「はい。私は李岳の下では戦えませんから」

 その目は幾晩も泣き腫らしたであろう、その髪は何度もかきむしられたであろう、その拳は何度も壁に打ち付けられたであろう――言葉もなく戻った夏侯淵を前にして、曹操がそうしたように。

「いいの。わかっているわ」

 曹操は引き止めることはしなかった。

「春蘭、ごめんなさい」

 夏侯惇の顔が悲痛で歪む。曹操は敗戦後も一度も謝らなかった。部下にも兵にも謝罪はせず、これからの方針を伝え意志を問いただすだけであった。

 しかし夏侯惇には謝るべきだと思った。

「おやめください、華琳様……! 私が弱かったからです! 私は弱い! 弱すぎました! 妹一人……守れやしない……!」

「私だってそうだった」

「秋蘭を焚き付けたんです……華琳様を守れと……! 自分が出来ないことを妹に願うなんて、私は卑怯者でした! だから秋蘭は無理をした……私の分まで戦おうとして!」

 きっとそれは真実だろう。

 そしてそれ以上に、将に無謀な選択を採らせた主君の愚かさが際立つ。

 曹操は夏侯惇を邸内にいざなうと茶でもてなした。夏侯惇は茶を普段嗜まないが、それでも美味しそうに飲んだ。この機会が貴重なものだからだろう。

 日が沈む頃合いまで他愛のない話しをして――そのほとんどが幼少期のことだった――夏侯惇は辞去した。

「いつかまた会えるかしら」

「はい! 大好きな華琳様のところに、いつかきっと二人で帰ってきます」

 その強がりが曹操の胸を誰よりも深くえぐった。

 夏侯惇は曹操を慰めるように強く――強く抱きしめると、砕け散った七星餓狼の代わりに夏侯淵の餓狼爪を背に負って歩き始めた。振り返ることなく真っ直ぐに道を進んでいく。思えば三人で始めた戦いだった。夏侯惇も夏侯淵も一度たりとて曹操に疑問を抱かなかった。曹操もまた二人に信頼の全てを預けていた。

 夏侯淵は死に、夏侯惇は去る。

 それが何よりも『曹孟徳』の戦いが終わったことを告げていた。

「あぁ、負けたのね……私は」

 気づけば夕日も落ち、冬の夜に包まれようとしていた。曹操は息を白くしながら階段を上がった。城壁の上、誰かがそう手配したかのように無人だった。落日は濃くも優しくむごい。

 ふと思い立ち、自らの髪を結っている紐を解いた。癖のある長い髪が夕陽を浴びて刻一刻と暗さを増す群青の空を泳ぐ。曹操は己の髪を煩わしくも惜しく、気に入っている。まるで青春の情熱のように。だから懐から取り出した小刀で切った。黄金の破片は身悶えるように城壁から飛び、散り散りに消えていった。まるで夢のように。

「さらば――」

 死んでいった者たち。去っていった者たち。果たせなかった誓い。慈悲を乞うてもつまらないが、葬いに夢の遺髪を捧げるのなら悪くもないだろう。

 曹操は夜が深まるまで敗北を堪能し続けた。涙が流れたのは気のせいだろう。それを己に許した覚えは未だかつて、そしてこれからもないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 翌朝、曹操は李岳を訪ねた。朝、荀彧が泣きながら切った髪を整えてくれたので見栄えは悪くはないだろう。

 李岳は曹操を見ると驚いたように言葉を失ったが、姿形に言及することはなかった。戦以外は朴念仁に見えるがその程度の配慮と自制は持ち合わせているようだ。

 だから曹操は自分から言及した。

「似合うでしょう?」

 李岳は苦笑を浮かべるだけだった。

 李岳は軍団の元に顔を出すらしく、曹操はちょうど良いとばかりに同道した。騎馬隊を指揮していた高順が重傷を負っており人員が足りていないようだ。命に別状はないらしい。

「この髪だけども、他意はないわ。治世の能臣であろうとしているのよ」

「え?」

「そうあれと約束したわよね。貴方が言ったことよ、冬至」

「そうだったな……君の手腕を疑うことなどない」

「混乱しないかしら? 敗者がほとんどお咎めもなく政権に登用されるなんて」

「いい前例になるだろう。とても価値のあることだと思う」

「……ふん。本当貴方は、敗者を悔しがらせるのが下手ね」

「なんて? なぜ怒る?」

「この曹孟徳、部下の不注意や聞き漏らしを許したことはない。上司であってもそうよ」

「手厳しいことだ」

 李岳は特別感情を込めることなく続けた。

「重職に就くのは間違いない。が、実際には君の領地は没収される。兗州、青州、徐州は全て召し上げられて別人が据えられることになる」

 わかっていたことだから驚きも何もなかった。

 後任人事の選択は難しいものになるだろう。青州は冀州と密接に関わっている。さらに徐州、兗州それぞれにも個別の問題がある。曹操の元から情報を得つつ、適切な人材を配置するのは骨が折れるはずだ。

「凱旋式の準備も忙しいでしょうに」

 洛陽への帰参はちょうど元旦朔日に合わせてのものとなる。洛陽に帰還するのであればいっそ祝賀の催しと合わせてしまい、盛大な祭りに仕立て上げてしまえという算段だった。発案は司馬懿であるらしい。

「周到なものね。天下の英雄李岳将軍の凱旋、か」

「それを君が護衛し、共に歩く。天下騒乱の種はなくなり、融和の時代が始まる。これ以上の宣伝はないだろう。一足先に戻った如月が手配をしているはずだ。手抜かりはない」

「呉はどうするつもり?」

「政治的に処理するしかない」

 もうさすがに戦は出来ない。厭戦感は反李岳とも言える動きにさえ発展しかけたのだ。それをわかっていて呉も引いた。驚くべきことに天下を和したとして祝賀の使者さえ送ってきたらしい。

 戰をするにしても数年後。十年以上は先かも知れない。それまでに洛陽からの融和の政治的圧力で孫家の地域支配を崩してしまおうというのが李岳の考えだった。

 つまり揉め事の種はまだ全土にあるということ。融和というのもしばらくは表面的なものになるだろう。そしてそれは何も外部に限った話だけではない。ここまで戦った兵の気持ちを考えればその心を解きほぐすことも大きな難題に思えた。曹操腹心の将でさえ離れていく。

「昨日、春蘭が去ったわ」

「そうか……」

 李岳ももちろん夏侯淵の戦死については把握している。黄忠、厳顔、魏延の三人がかりでやっと倒せた程の凄まじい将だったと言う。夏侯惇としては、曹操への忠義とは別に妹の仇である李岳に付けるわけもなく、李岳は責める気にもならない。

「一杯飲むか?」

 意外な言葉に曹操は虚を突かれたが、面白いと思った。

 李岳が起居している邸宅は曹操とさして変わらず質素なもので、二人の姿を見ると下女が慌てて酒を用意した。

 二人分の杯に酒を注いだが、李岳は下女を呼び止めてもう二つ杯を用意させた。

 そのことについて曹操は何も言わなかった。

「用意ができ次第洛陽に出立する」

「こちらの準備は出来ている。年が明け、洛陽を歩けば泰平の始まり、というわけね」

 亡き友と、無数の死の上に作られる平和。それを偽善と呼ぶのは容易く、ある意味正しい。しかしそうとしか選べなかった者には、その仮初の平和に縋るしかない時もある。

 揺らぎなき信念のもとに、仮初の上に仮初を築き続ければそれはいつか真実に漸近するだろうと信じて。

「……夏侯淵殿に」

 李岳が盃を掲げた。

「華雄に」

 曹操もまたそれに応えた。

 残る二つの杯は波立つこともなく――

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 羊に(あんず)、麦を炊いた料理が振る舞われた。

 火徳である漢王朝にとって、それらは五行に則った由緒正しい食べ物だった。しかしそれはほとんど建前で、とにかくご馳走を見境なく楽しんだのは言うまでもない。

 

 ――人々が待ち望む中、官軍は洛陽に凱旋した。

 

 勇壮なる騎馬隊、雄々しい重装歩兵が通るたびに人々は快哉を叫んだ。これで本当に戦が終わる! 耳ざとい者は未だ孫呉の者たちが荊州で兵を(わたくし)していることを知っていはいたものの、それをこの場で口にするのは大いに憚られたしそんな蛮勇も持たなかった。

 

 ――泰平である! 泰平である!

 

 いつしか人々は手を叩いて声を合わせた。雪のない元旦だったが白い花を撒いて代わりにした。戦乱を終わらせ平和を取り戻した勇者たちに惜しみのない賛辞が投げられた。

 驚くべきことに、最後の謀反者とさえ呼ばれた曹操も共に歩いていた。事前に布告があったために誰も悪罵を投げつける者はいなかった。厳罰に処すと丞相の名で書かれていたのだ。それに楯突いてまで石を投げる者がいるはずもない。

 誰もが総大将である李岳を見ようと首を伸ばした。

 反董卓連合軍を討ち、地方を叩き、黄巾賊を討滅させた名将は再び戦果を上げたのだ。洛陽に住まう幾万もの洛陽の人々が街路に押し寄せひと目見たいとせがんだ。

 李岳は立派な黒馬に乗り、その後ろに天下最強の呂布を従えて進んでいた。その翻る李の蒼旗。人々の快哉はいよいよ天に届く。

 有頂天になった人々が通り溢れ出し、一部では兵と肩を組んで歩く者も出たが、それを罰することなどできようはずもなかった。

 

 ――その中に、外套を目深に被った女がいた。手にしている得物が鈍く、怪しく光る。歓喜でひしめく街頭で、女の殺気は容易く偽装された。孤独にも、死んでいった者たちのための最期の戦いに女は一人挑もうとしている。

 

 列を進む李岳はさすがの騒ぎに目を丸くしていた。

「すごい人だかりだな、如月」

「……さすがに、これまでなかったことですね。冬至様、くれぐれも列から離れないように」

「君もな。迷子になっても助けないから」

「そういう意味ではなく」

 司馬懿が言葉を続けようとした時だった。李岳の目端に群衆に押し出され、転んで泣き出す少年が見えた。人々の熱狂に飲まれてその少年が見えない。李岳は大声で兵に指示したが、声は容易にかき消されてしまった。

 仕方がないと、李岳は下馬した。実際のところ群衆からは誰が李岳で誰が呂布であるかしっかりわかるものはほとんどいなかった。小柄な少年が馬を降りて駆け寄ったところで、きちんと認識できる者は少なかった。

 後ろから司馬懿が大声を出しているが、李岳には聞こえない。

 少年を抱き起こすと李岳は言った。

「大丈夫かい?」

「は、はい……」

「すごい騒ぎだ。危ないから気をつけるように」

 いや、それともいっそ騒ぎが落ち着くまで一緒に歩いた方がいいだろうかと、李岳がふとそう思った時だった。

 

 ――全ては火花のように動き出した。

 

 人垣を押しのけ、女は街路に飛び出した。

 外套が翻る。武器を握る手が軋む。ほとんど無表情に近い李岳の不思議そうな目の色。反射的に少年をかばって前に出た。振り返る呂布の絶望を刻んだ蒼白な顔。李岳を庇うように飛び出した司馬懿の動きも全く間に合わない。

 于禁は弾けるように上着を払った。

 連弩を構えるまで刹那、指は躊躇うことなく素早く動いた。李岳が設計した連弩は描かれた絵図面の思惑通り、機工にしたがい矢を発射した。矢は空気を切り裂き、誰の目に止まることなく標的に吸い込まれていく。肌を突き破り肋骨を折って臓腑に侵入する鈍い音。肺も気管も破いたために、破裂して溢れ出た血が鼻と口から一気に噴出する。膝を突き、崩折れ、震えながらうずくまり、やがて動かなくなる小柄な影。

 わずかな静寂の後、于禁の手放した連弩が地を転がりガラガラと音を立てた。于禁もまた茫然と地に膝を突いていた。一瞬の間を置いて騒然となる洛陽の街路。祝事は一転して阿鼻叫喚の地獄となった。

 言葉もなく駆け寄った曹操を前にして、于禁は絶叫した。

「私たちが戦ったのは!」

 逃げ惑う民の足音と叫びにかき消されながらも、于禁は声を張り上げた。

「みんなが死んでいったのは! 私利私欲のためなんかじゃなかった! 私たちは、天下を乱すために戦ったんじゃない! 私たちは、あの子たちは……!」

 取り落とした連弩を拾いながら、曹操は背後を振り返った。矢を胸に受け、絶息している外套の女……はだけた手には刃物が握られており、その頭には黄色い頭巾が括られている。

 于禁の射撃がなければ、黄巾を被ったこの女によって李岳は亡き者にされていただろう。

 駆け寄ろうとした李岳を手で制して、曹操は于禁の肩を抱いた。

「華琳さま……! 私は、李岳が憎いの……! あの男は、私の敵なの! でも、でも! 私たちが諦めることでみんなが笑顔になるなら、この世界が平和になるのなら……!」

「私が無力だった。この曹孟徳が」

「違うの! そういう意味じゃないの! でも、でも……それでもみんな幸せになるなら……だってせっかく終わったのに、また争いが始まったら、死んでいった兵のみんなが! 季衣ちゃんが……! 秋蘭さんが! か、悲しむから……!」

「沙和……!」

「か、華琳さま……わ、私! うわ、うわあ! ああああ!」

 涙し、叫ぶ于禁。抱きしめる曹操。

 李岳は蒼天の下で立ち尽くし、舞い落ちる花の欠片を浴びている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




戦が終わったからといって全てが解決するわけではないという。
多くの人が沙和(于禁)の挙動を疑ってらっしゃいましたが、こういう顛末になりました。明るく優しく可愛い沙和。きっと戦が終わっても気にやむだろうなと、けれど自分のなすべきことも忘れないだろうなと。
残すところあと2話です。
次回「最後の勝者」乞うご期待。

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