真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十七話 三鍵の計

 黒狐は喜んでいた。

 夜に駆け、朝に駆け、走れども走れども誰も咎める者はいない。またがる男も決して手綱を弱めようとはせず、走るがままに走らせてくれる。疲れて休むとも、馬脚を緩めろとも決して伝えてこない。この前の旅も悪くはなかったが、多くの馬を付き従えるがために力を抜かねばならなかった。今は天地に人馬一体の他遮るものなし。見渡すかぎりのこの草原! その果てまで辿りついてもまだ足りぬ! ――黒狐は誰にはばかることなく嘶きを上げ、草木を蹴立てて疾駆した。

 やがて草原は緩やかな坂に変わり、足元の柔らかい草も消えていった。だが黒狐は構うことなく駆け上がり、もう千里、もう千里とばかりに先を急ぐ。前方、進路を妨げるように現れたのは遥かな万里に列んだ名高き長城であった。黒狐は怒った。己の道を邪魔する敵が現れたのだと憤激した。黒狐は臆することなく速さを増して、このような壁なぞ物の数ではないと勇んだ。

「行けるか、黒狐」

 誰にものを言っている、我は誇りも高き黒狐――険しく屹立する岩壁に迷いもなく飛び込むと、その激烈な脚力は垂直に等しい程の斜面をわずかに駆け上がるや勢いもそのままに跳躍した。匈奴の地を去り、漢の大地へ――!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 丁原は速報を聞くや、ただちに一万の手勢の出動を決した。

 緊急出動の動員が発されてからさしたる間を置かずに并州軍兵は隊伍を整えていた。丁原は馬上にてただ一言、出撃、とだけ伝えた。鬨の声が威勢もよく場内に響き渡る。見送る人々が無事の帰りと勝利を願って喚声に混じった。作戦目的や標的の正体を一々知らせる必要はないと丁原は考えていた。命令あらばこれを討ち、その内実に思いを馳せる間もなく戦うことが軍人の本懐である。日々の調練でも何一つ疑問を差し挟まぬよう徹底的に申し伝えてある。

 丁原は開門を告げた。繰り上げられる分厚い門が開ききる前に既に馬腹を蹴り飛び出していた。ぴたりと付き従うは張遼以下四千の騎馬隊である。動乱の気配が色濃く漂い始め晋陽の周辺に野盗が絶え間なく現れるようになってから、即応可能な部隊として選りすぐりの駿馬を与えた騎兵隊を丁原は作り上げていた。後続の歩兵の数は六千である。さらに後方から物資と陣営具を備えた輜重隊が護衛と共に追走してはくるが、速戦撃破の星の数を重ね続ける丁原軍である、持ち運ばれる兵糧や道具が無駄になることもしばしばであった。

 第一報は晋陽の東から早馬によって伝えられた。東から流れてきた黄巾賊、その数およそ九千。立て続けに第二報、第三報が届く。すでに周囲の村落を略奪し放火、現在は并州太原郡は陽邑の領城を包囲しさらなる暴挙に臨もうと南下を目指している。

「遅れてないか、張文遠」

「そんなわけあらへんやん!」

 言葉に違わず張遼はピタリと丁原のそばに付いてきている。この武芸者が遅れるわけないか、と丁原は苦笑を噛み殺した。放っておけば自分一人で駈け出してしまうような女だ、愚問であったろう。

 そろそろ陽邑、というところで敵の姿は見えてきた。陣列も何もなく、集団は無造作に移動をしているだけだった。早馬で飛んできた斥候は確かにあれが件の賊だと保証した。遠目に黄色い旗、はためく布が見て取れる。丁原は近くの丘に部隊を伏せ、斥候を頻繁に繰り出したが決して攻撃を仕掛けようとはしなかった。四半刻待ち後続の歩兵が到着したのを待って全軍に備えさせた。騎馬より遅いとはいえ、歩兵の行軍は十分に早いとも言えた。遅々として進まぬ眼前の黄巾賊に比べて精強さは比ぶべくもない。既に丁原は勝利を確信していたが、自らの中の油断を再度戒めた。

「突っ込むぞ張文遠。二千を率いて右から掛かれ」

「ようやくや! 歩兵待ってなくてもよかったのに!」

「その意気やよし。だが油断はいかん」

 釘を刺せども張遼は今か今かと前だけを向き全く聞いてはいない。丁原は嘆息したが、だが心配はしていなかった。おそらく自分がおらず一人であれば用心深さを発揮するだろう、丁原がいるからその役を投げているだけなのだ、猪突の将というわけではない。

 作戦は単純で、騎馬が乱し、断ち割り、歩兵が打ち掛かる。調練は十分積んでいる、遅れは取らないだろう。

 丘に上り、敵陣を見下ろした。九千という報告だったが、既に一万を超す程にふくれあがっている。しかし陣営全体から漂ってくる覇気は大したことはなく、丁原は手にしている槍を掲げて吠えた。

「牙旗を掲げよ――吶喊!」

 合図の太鼓に銅鑼が響く。喚声が沸き起こり、『丁』の旗が掲げられる。一気に逆落しをかけた。砂塵を巻きあげた四千の騎馬隊は二つに別れて獲物に食らいつこうと狼の顎のように鋭く走る。敵は地から湧いて出た正規軍に対して慌てて方陣を組み始めたが、迎撃の矢が放たれる前にすでに張遼率いる右部隊は食らいついており、丁原が舌を巻くほどの速さで前衛を食い破っていく。偃月刀が煌いたと思えばいくつもの首が同時に飛んだ。負けじと、半歩遅れて丁原も左陣に突っ込んだ。槍で二人、三人と突き落としながら猛然と敵陣を貫いていく。突破は左右同時であった。さらに敵を半包囲するような形で取って返しては間髪入れずに側面からの突破を狙う。騎馬を走らせながらも丁原は騎射を行い幾つもの胴を貫いていった。音に聞こえし剛弓は一撃で人体を貫くやその背後にいたもう一人にまで突き刺さるほどの凄まじさだった。左右の騎馬隊は再び敵陣に食らいつくと、中央をずたずたに引き裂いてすれ違おうとする。丁原の目は真っ直ぐ敵の指揮官を捉え、ただちに迫った。

「そ、蒼天已に死す! 朝廷の手先なぞに我々が……!」

「今より死す者が何ぞ天を語るか」

 丁原の槍は男の胸の正中を捉え一瞬の内に突き殺した。勢い余って男の体は真上に高々と跳ね上がり、これ以上ない確かな勝利宣言をもたらした。すれ違いざま、先を越されたと張遼が悔しげに舌打ちをした。

 一万を超えていた黄巾賊は四つに断ち割られ、指揮も失ったため一貫した行動も不可能な程に脆く崩れ始めていた。そこをとどめとばかりに歩兵の六千が押し込んだ。長柄の槍で正面からぶつかり合ったが、衝突した時すでに黄巾賊は潰走を始めていた。丁原は戦いを決着したものとみなした。

「追撃。投降すれば助命せよ。歯向かう者には容赦はするな」

 騎馬隊の半分と歩兵四千が追撃を行い、残りをまとめあげて丁原は周囲の警戒を怠らなかった。勝ったと思い込んだ途端に背後から増援に急襲され苦渋を舐めた、という教訓は古来枚挙に暇がない。領城の守兵とも連携を取り周囲の警戒と索敵には十分な人数を差し向けたが、追撃部隊が夕日を背負って帰参する頃には増援部隊などどこにもいないと結論づけた。

 黄巾賊一万のうち半数を討ち取り三千を捕縛した。散り散りになった者も当てどもなく流浪する他ないだろう。後始末は県令に任せ、丁原は兵をまとめて駆け始めた。縛り上げた黄巾賊も遅れを許さぬ行軍を強いる。逃亡は死。行き倒れても文句は言えぬ。無事に晋陽まで走り切ることが出来れば軍管轄のもと刑罰を与えることになる。それでもまだ問答無用で首を刎ねないだけ寛容な方であった。

 日没を過ぎた頃、部隊はようやく晋陽の町に到着した。部隊に死者はおらず完勝と言えるが、負傷者なら何人もいる。その者たちを労っていると、留守を預けていた張楊が血相を変えて飛んできた。

 張楊。并州雲中郡の生まれで字は雅叔。武官として取り立てられたが内政にも通じ、地や町を治めるのに決して明るいとは言えない刺史丁原の補佐として晋陽にて第二位の席を与えられていた。頬がこけるほどに痩せておりぎょろりとした目で肌は青白く、人から警戒を受けやすい男だが実直で物腰柔らかく、丁原に最も信任する部下は誰かと問えば迷うことなく彼を推すだろう――張楊は青い顔をさらに青くして丁原を今か今かと待っており、その帰還を伝え聞くや否や飛んで参じたのである。

「どうした張雅叔。また中央からの催促か」

 執金吾になれという命令が下りてから既にしばらくが経つが、丁原は賊の頻出を理由に予定を引き伸ばし続けていた。反逆者扱いされてしまうぞという半ば脅しのような竹簡が届くこともあり丁原自身も潮時かと考え始めていたが、見るに張楊の様子は竹簡一つのものには思えない。

「それどころの騒ぎではありません。こちらへ……」

 張楊は府ではなく自らの居室へ案内した。引かれた戸の先には男が胡服の出で立ちで座っており、気配を察して立ち上がるとこちらを向いて頭を下げた。

「お久しゅうございます、丁建陽様」

 丁原は束の間言葉を失い胸を衝かれたように後退りしかけたが、動揺の全てをこらえて踏ん張った。お座りになりませんか、と張楊が声を上げるまで二人は見合っていた。丁原は胸に迫り来る万感を押し殺し卓の椅子に腰を下ろした。促すと張楊、胡服の男の順番で腰を下ろす。張楊が男を紹介した。

「李信達殿は、并州様とは既にお会いしたことがあるとおっしゃられてますが、まことですか」

 張楊が真偽や如何にと目で問うてきたが、問題ないと頷いた。

「并州刺史、丁原である。久しいな……李岳」

 李岳は深々と頭を下げた。目に力がある、丁原はそれが嬉しかった。子である。最後にあって何年経つだろう、丁原の胸に温かいものが満たされそれがあわや溢れんばかりになった。張楊と李岳の様子を見るに予断を許さぬ状況であるらしく、軽々に親子と明かすのは良からぬ事態を招きかねないと李岳は判断しているのだろう。ここで母が情に流され無様な失態を見せるわけにはいくまい、と丁原は発言に細心の注意を払った。丁原の心中の葛藤を知る由もない張楊は口早に用向きを伝える。

「李信達殿は……とある知らせをお持ちになられたのです、その、なんと申せばよいか……」

 一度張楊は言葉を切ると慌てて戸の外へと出てから余人がいないかどうかを確かめた。再び椅子に戻り声をひそめてから言った。

「匈奴が漢において動乱を企んでいると……朝廷の要請に従って黄巾討伐の軍を中原に入れるが、その実洛陽を狙っているというのです……総勢二十万の大軍という話です」

 総勢二十万。丁原は衝撃を受けるよりもまずその戦力の評価を行った。長城を越えた二十万の匈奴兵が洛陽に殺到する。守備兵は精々五万がいいところである、長安、京兆尹を始め司隷の兵は緊急動員されるだろう。さらに并、豫、兗、冀、荊、雍の六州全ての兵が出陣し洛陽守護のために赴くだろうが、いかな漢王朝の危機とて大軍を起こすことは容易ではない、また速度が敏なるを以って匈奴兵は無双である。并州から司隷までは街道も整備され平坦である。何を遮ることもなく全てを蹴散らし匈奴は洛陽を易易と落とし全てを壊すだろう。二十万の戦士の口を糊するために、全てを奪いつくすに違いない。

「寝耳に水で、それがしも容易く信じるのは難しいと追いだそうとしたのですが……証となるものを持っておられまして……どうか并州様におかれましてもご検分頂戴したいところなのです」

「ものは」

「こちらでございます……」

 張楊は一抱えある革袋を持ち出すと、それをほどいて一つの首を取り出した。丁原はものの一目で首実検を終えた。

「匈奴は右賢王の実弟、呼廚泉だな」

「なんと……まことでしたか……」

 張楊の顔は常よりさらに青褪め、丁原も厳しく眉根を寄せた。李岳だけが平然と座っている。

 匈奴でも指折りの猛者である呼廚泉――単于羌渠の息子であり右賢王於夫羅の弟である。并州の北端にて境を脅かすために兵を興したこともひと度ならず、戦場で幾度も相まみえ実際に干戈を交えたこともある。呼廚泉の繰りだす剣は人体を鎧ごと容易く両断し、戦場においては暴風が如き猛威として敵味方隔て無く恐れられていた。

「誰が斬ったのだ」

 丁原の問いに李岳が頭を下げた。

「私が討ち取りました」

 どうして今ここでこの子の頭を撫でてやることができないのか――もどかしさに丁原は思わず拳を握りしめた。真相もわからぬしきっかけもなかったが、丁原は李岳が一対一の正々堂々たる死合いによって、音に聞こえた匈奴の戦士を討ち取ったのだということを確信していた。

「これは……なんということだ。并州様、李信達殿は匈奴の地にて陰謀を察知し、それを知らせて漢を救わんと単身やってこられたのです。証拠がなくては誰も信じはしないとこの首を持たれて。いかがなされますか、一大事でございます、これは漢の存亡の危機です」

「わかっている、張雅叔。まず仔細を明らかにせねばならん。間違いは許されん。誰に伝えるか、どう対応するか、全ては私が決定する。首は元に戻してお主が持て。絶対に他言するな。厳命である」

「御意」

「……常と異なってはいかん。帰参した部隊を解散させねばな、それを任せる。追って沙汰するまでいつも通りだ。私はこの――李岳殿と話を詰める」

 はっ、と首肯して張楊は部屋を辞した。戸が閉まる音が部屋に響き、その余韻が完全に打ち消えるまで二人は微動だにしなかった。やがて李岳は立ち上がると床に膝を突き、頭を下げて言った。

「お久しぶりです……母上」

「――冬至」

 母子は抱き合った。これまで失っていた時を取り戻すように、体温の交換は千の言葉を交わすよりなお雄弁に二人の気持ちを伝えた。

「息災であったか」

「はい、母上も……」

「このとおりだ。父は……枝鶴は」

「はい、お変りなく」

 一語一語が二人の溝を埋め、失ったと思っていたはずのものが急速に埋まっていく。丁原はやはり自らが母に足らないと思った。恥ずかしくて身を離してしまったのだ、本当なら一晩ずっと抱きしめて上げていたい、だというのに武人としてのむくつけき顔がすぐに表れる。

「父さんは全てを話してくれました。私の血筋のこと、生まれのこと、全てを」

「そうか……多くは聞くまい。枝鶴がそうしようと決めた。ならばそれに足る理由があったのだ」

「気高きに順え、とおっしゃいました」

 李岳の言葉を丁原は口の中で何度も呟いた。気高きに順え。普段寡黙なくせにいざ話すと人の心の最奥に染みこむような言葉を矢のごとく放つ。今ここで再び射ぬかれるか、と丁原は苦笑した。気高きに順う。丁原はその言葉が全くもって李弁らしい言葉だと思い、笑った。

「……冬至、よい顔になったな。苦労があったか」

「いえ……であるのならばこれからでしょう。戦が始まります」

「ただならぬ知らせだな。務める気か」

「はい。今宵……お話できますか。内密に、絶対に信用できる幕僚の方を……含めて……」

「どうした」

「申し訳ありません……安心して、その……眠気が」

 李岳はおもむろに目を閉じると、そのまますとんと言った具合で眠りに落ちてしまった。火急の知らせを携えて昼夜の別なく駆け通しだったのだろう。いつの間にこんなに重くなった、と丁原は李岳の体を抱き上げるとその成長の早さに驚いた。体を抱きしめ、自らの寝台に運んでから隣に並んで横になった。もうしばらくこうしていよう、しばらくだけ。我が子の寝顔を何年も見なかった、その欠片だけでもいま拾い集めたいのだ……顔には、母の笑み。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深夜、会議は丁原の自室で催された。黄巾賊鎮圧の勝利を祝した内々の酒宴という名目で丁原、張楊、張遼、そして李岳が参加している。侍女によって料理や酒も持ち込まれており、実際はじめは杯を酌み交わすことから始まった。張遼に対して丁原は李岳を昵懇である古馴染の子であり数年ぶりに訪ねてきてくれた、と説明した。

「ふうん。ウチは張遼、字は文遠。よろしゅうな」

 李岳は童子のような幼顔を楽しそうな笑みで花咲かせてから、よろしくお願いしますと頭を下げた。何をそんなに嬉しいことがあるのか、訝しんでしまうような朗らかな笑顔であった。丁原の知り合いということは武を用いるのだろうか、張遼はまじまじと李岳の体を眺めたが、豪傑と呼ぶにはいささか華奢に過ぎた。が、その身の動かし方はしなやかさを感じさせるもので、あるいは相応に使うのかもしれないと思い身の内に秘めた武芸者の闘気をくすぐられた。

 酒宴は長くは続かなかった。景気よく杯を呷っていた張遼を丁原は押しとどめ、李岳がもたらした情報と匈奴の陰謀を伝えた。

「……ほんまかいな」

「確実です。匈奴の都において単于である羌渠の名において命令が発されました。総大将は右賢王於夫羅。左右に居並ぶほとんど全ての位階の者が参陣し、その数は二十万」

「二十万……!」

 驚いた後に舌なめずりをした張遼を見て、丁原はこの者が心底の武芸者だと笑わずにはいられなかった。

「さて、方策を講じよう」

「まず、司隷は洛陽に知らせを飛ばさねばなりますまい」

 張楊の言葉に丁原は頷いた。

「匈奴への動員令も皇帝陛下の勅命として発せられたものだ。朝廷の裁可を仰ぐ必要があるだろう」

「并州様の命令により即応可能な人員は三万を数えます。即刻全戦力を長城に詰めましょう。その上で後詰を頼むのです」

「うむ」

 丁原と張楊はそのまま防衛戦の段取りを詰め始めた。張遼はつまらなさそうに酒を盗み飲み始める。籠城、防衛戦はあまり欲求を満たされないのだろう。

 二人の相談が煮詰まり始めた頃、李岳が手を上げて言った。

「私は反対です」

 張楊が不審そうに首を傾げていった。

「何がでしょう?」

「被害が大きくなります。それに長期戦になるでしょう」

「それは……そうでしょうが」

「……これは皆様の胸にお秘めいただきたいのですが、此度の於夫羅の作戦に全ての部族が賛同しているわけではありません。匈奴の中にも此度の遠征が危機と捉えている者がいるのです。主戦論者ばかりではないのです。彼らが決起すれば四万の兵は従います」

 唸り声が張楊の口から漏れた。丁原は腕を組んで目をつむっている。張遼はまだ興味を催さないようで饅頭に手を伸ばした。

「……ではどうしろというのだ、李信達殿。その者どもが反旗を翻す確約があるとでも言うのか」

「はい、条件さえ揃えば」

「条件とは?」

「於夫羅の死」

「……総大将の首だぞ、決して容易くはない」

「はい」

 その時、つまらなさそうにしていた張遼が饅頭を李岳に向かって放り投げた。李岳は見事片手でそれを受け止めたが、張遼は口元に不敵な笑みを浮かべて言う。

「なんや、策があるんやろ。はよ言いやもったいぶらんと」

「失礼いたしました」

 饅頭を皿に戻し、李岳はそれを取り上げた。そして卓上の箸と皿を並べ替え簡易に地図とした。箸が長城、饅頭の皿が并州軍、メンマの皿が匈奴兵である。

「まず、極秘に長城に兵を詰めます。雁門関を拠点にすれば寡兵でもって大軍を凌げるでしょう――仮に二日関を守るのであればどれほどの守兵が必要でしょうか」

「三千」

 丁原の答えに岳はうなずき、饅頭をちぎって箸に載せた。

「三千で関を守りますが、直前まで伏せます。匈奴には易々と通れると思わせます。そして不用意に近づいてきたところを一撃します。敵は動揺するはずです、難所である鴈門を無傷で通ることができるというのが今回の作戦の骨子です。それが端緒で躓いた。十分に戦意は削がれるはずです」

「……お待ちください。別に全軍を詰めてもよいのではないですか。雁門関の前は隘路になっており二十万の兵の運用には適しません。この晋陽には三万の軍勢が駐屯しています、五千で関に詰め、残りを関前に展開して動かせばよいでしょう」

「それでは於夫羅を討てません」

 李岳はさらにもう一つの饅頭を皿から取り上げると、ぐるりと箸を迂回してメンマの皿に載せた。まさか、という顔をして張楊が立ち上がる。張遼の瞳にはきらりと光りがよぎりようやく興が乗ったと身を乗り出してきた。

「ば、馬鹿な……側面を突くだと、死兵なぞ、そんな……」

「勝算はあります。死兵ではありません」

「死兵でなくて何だというのです。二十万の只中にわずか二万かそこらの兵を放り出すのですぞ!」

「二十万ではありません」

 わけが分らない、と張楊は首を振った。李岳はさらに青菜の乗った皿をメンマの後ろに並べた。

「匈奴の後背を――匈奴の都を別軍が突きます。二十万……ほとんど全軍といっていい程の兵を連れてきているのです。もぬけの殻だ、於夫羅の肝は冷えるでしょう。すぐに自らが信任する部隊を差し向けるに違いない。ここではその数を仮に五万といたします。残りは十五万。ですがその内の四万は叛意を秘めております。二十万全てが敵というわけではないのです」

「別働隊? どれだけの長駆になると思っておる、地理がわかっておらぬのではないか……」

「并州兵ではありません。別働隊は幽州から進発します。今頃既に知らせは届いていることでしょう――白馬将軍の元に」

「公孫賛が!」

 その声は李岳を除く三人が同時に上げた。李岳ははい、と頷きながら公孫賛と懇意であること、匈奴を離脱する前に既に知らせを放っていること、確実に出撃をしてもらえるという確信に近い思いがあることを述べた。

 次に呻いたのは丁原であった。立ち上がるとおおまかな地理を示した紙を持ってきて広げた。匈奴の都はさらに北、砂漠に近づく草原の只中にあるが最果てというわけではない。幽州から進発した軍が名高き白馬将軍の手勢であるのならばはやての如く進撃し、三日もあれば単于の喉元にまで迫りうる。途端に李岳の献策が真実味のあるものとして立ち上ってきた。張楊は腰を下ろし、一口杯を呷ると地図を睨み何度も頷く。消極論を出してはいるが張楊もまた武人であり隔意も反意もなかった。

「公孫賛将軍の余力を考えれば精々数千ですが、それだけで十分なのです。少ない、わずかに軍を割けば守れる、と於夫羅に考えさせなければなりません」

「都は落とさんのか」

 李岳は丁原に頷いた。青菜の皿をメンマの後ろにちらつかせる。

「落とすことは、まあ難しいですし意味はありません。匈奴を飢えた獣に仕立て上げ於夫羅の元に一致団結させかねません。これはただの陽動です……於夫羅は漢を攻めるとした際、かなり強い口調で匈奴を煽りました。中途半端な戦果では帰還できない程度の鼓舞です。恐らく数万の軍勢を取って返させることはしますが、自身を含めた全軍が引き返すことはしないでしょう。何としても洛陽を落とさなければならない、と考えているはずです」

「つまり」

「士気が落ちます。故郷に家族を残しての出兵なのです。それを無視して漢を攻める意義などどこにあるというのでしょう。手勢を差し向けたといってもほとんどの兵は動揺するはずです。四万と申し上げましたが、ともすればその倍は反旗に集うやもしれません」

 当てずっぽうの数、とは誰も言わなかった。戦争とは郷里に利益をもたらして初めて体をなす。家に置いてきた妻に子、老いた父母の安否が定まらぬ中敵国を攻めることなど道理に反するのである。誰もが全軍で取って返すべきだと考えるだろう。ましてや南下を続ける戦である。家族を見捨てることに他ならないのだ。

「そこを并州兵本隊が突きます。鴈門関の前は隘路、大軍を用いるのに適しません。戦意の落ちた敵の脇腹を一撃し、於夫羅の首を挙げます――於夫羅が死ねばもはや漢を攻める理由などどこにもありません。即座に取って返すでしょう――悠々とやってきた匈奴の出鼻を挫く。後方を撹乱し動揺を誘う。そこを迂回した本隊で急襲し於夫羅を討ち取る。匈奴の内部分裂を促すための三つの鍵――これが私の策です」

 メンマの皿にそっと箸を立てて李岳は言った。その箸の意味するところは誰にも明白であった。

「そして大事なことをもう一つ。この策の肝は秘匿です。敵に知られて後方に予備部隊を置かれるなどすれば全てが覆ります……まず、洛陽に知らせてはなりません」

「お待ちいただきたい。なぜ洛陽に知らせてはならないのかわかりません。確かに策は秘めなくてはなりませんがそれは敵にであって、仮にも天子様に危険の及ぶ戦となるのです、お知らせせぬわけには」

「……どこで情報が漏洩するかわかりません。洛陽は危険なのです」

「馬鹿な! 洛陽に匈奴の手先がいるわけなぞ」

「待て」

 丁原が手を出し張楊を止めた。懐から一枚の紙を取り出すと張楊に渡す。それに目を通した張楊はうなだれて呻き声を上げた。それは執金吾就任を一刻も早く済ませろという朝廷からの催促で、先程届いた最新のものであった。三日以内に并州における軍権を放棄し上洛せよ、さもなくば逆賊として任を剥奪し獄に落とすと記されてある。確かに執金吾に付けというのは勅命であるがその就任を渋ったからと言ってさらにもう一つ勅命を使ってまで急がせようとするなど前代未聞である。ましてやこの火急の知らせの後のこと、その二つの因果を結ぶなという方が無理な話である。

 張楊の顔は常になく青くなった。匈奴の計画と洛陽の陰謀が連動しているなど、古今中華の歴史で聞いたことなどない。

「……まさか、そんな……匈奴は洛陽にそこまで影響力を及ぼせるというのですか……」

「いえ、逆でしょう。朝廷のなにがしかの思惑により匈奴が引き込まれる、ということだと考えます」

「そのような、そのようなことが……」

「――いずれにせよ、決断は一両日中に済まさなければなりません。時間はないのです。朝廷に知られることなく行動を移さなくてはなりません」

 のしかかるような沈黙が部屋を支配した。李岳は言うことは全て言ったと、饅頭を手に取り頬張った。丁原は目を閉じ腕を組み、張楊はぶつぶつと地図をさしながら計算をする。その中で張遼は杯を片手に立ち上がると、中身を一息で飲み干してにやりと笑った。

「おもろいやん。たぎる……たぎるわ、これ。ええやん、ええ策や! 刺史様! 急襲部隊はウチが率います。於夫羅の首、この張遼が挙げます」

「いけるか、張文遠」

「籠城戦なんかよりよっぽどやる気でますわ。勝算もある、武人の血もたぎる、目標は敵の大将首! これで燃えへんかったら武人やってる意味あらへん!」

 そして自らを含めた四つの杯に酒を注ぎ始める。意味は誰もが理解した。勝利の前祝いの杯である。

「二人とも、その心がほんまはもう決まってるん知ってます」

「……并州様、ご下命あらばこの張楊、いかような任とて務めまする」

「よし」

 丁原はなみなみと注がれた杯を手に取ると立ち上がった。張遼、張楊、そして李岳が後に続く。四つの杯が軽快な音を立てる。これより戦は始まった。死して屍拾う者などない、匈奴対一州、二十万対三万の戦である。勝利の他に道はなし。


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