真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

165 / 184
第百六十話 ただ君のため

 時は開戦の一月前まで遡る。

 曹操は李岳との決戦に備え、最後の軍議のために招集可能な将を全員下邳に集めていた。

 曹操の一言目は幕僚に衝撃を与えた。

「私と李岳の間には秘密の約定がある。まずそれを伝えておきましょう――李岳も私も、負ければ相手方の軍門に降る」

「華琳様!?」

 このことを知るのは曹操を除けば荀彧と典韋のみ。血気盛んな夏侯惇のみならずその場にいた全員が声を荒げた。

「もちろん私に負けるつもりなんてさらさらないわ。必ず勝利し、李岳をひざまずかせて忠誠を誓わせるつもり。言いたいことはね、私は引き分けや優勢ではなく、絶対的な勝利を欲しているということなの」

 つまり単に豫州を伐り取ることや、優勢を得ようというのではなく、完全に決着を付けるという意味合いだった。

「無茶な作戦と思うかも知れない。けれど十分に勝算があることは信じて。そしてどうかこの曹孟徳に力を貸して頂戴」

 曹操の覚悟に鼻頭を赤くした荀彧が前に進み出た。

「……では作戦を説明するわね。まず第一、青州の臧覇隊が黄巾の残党を率いて冀州に侵攻する」

 荀彧が地図上の駒を丁の字の棒で動かしながら説明する。

 臧覇を動かす目的は単純だった。劉備からの援軍を寄越させないためである。

 ただでさえ強力な李岳軍に、さらに諸葛亮や鳳統といった智謀の士、関羽や張飛といった勇猛の士まで合流させては手がつけられない。初手で冀州に牽制をかけることは絶対条件の一つである。

 もちろん勝利できるとは考えていない。臧覇には粘れるだけ粘れと伝えてある。あくまで釘付けにすることが作戦目的だった。口には出さないが、曹操としては半ば捨て駒と割り切ってさえいた。

「続いて第二、兗州から西に洛陽方面へと侵攻する。部隊長は栄華(えいか)

 いつも抱えている人形もそのままに、曹洪は裾をつまんで瀟洒に礼をした。

 曹洪、字は子廉。曹操の従妹であり軍団の経理監督も行っている。部隊を率いる指揮官として表に出ることはこれまであまりなかった彼女が前線に出るということ、それ自体が曹操の並々ならぬ覚悟を示していた。

「お姉様。このわたくしが出陣するからには、お相手はもっちろん可愛い少女でございますのよね? 憎っくき李岳軍にも見目麗しい少女がたくさんいると聞き及んでいますわ。その子を救出することがこのわたくしの使命と心得ています」

 曹操は曹洪の願いを一刀のもとに斬って捨てた。

「残念だけれど栄華、相手になるのは楊奉よ。一言で言うならむさいおじさんね」

「……ひ、ひどいですわ、あんまりですわ! このわたくしにケダモノの相手をせよと!?」

「その通りよ。しかもかなりの寡兵でね」

 不思議なもので、曹操の家門に連なる将は多いが、いずれも戦に才を発揮する。しかも不利な状況でほど燃えるように意気軒昂となるのだ。

「……詳しくお聞かせくださって? 確か二万の兵を預けてくれるのでしょう?」

「そのうち、半数を離脱させます」

「ほう?」

 荀彧が駒を移動させた。楊奉に相対する曹洪の兵力は一気に心もとないものとなる。

「つまりこれは、偽装した奇襲部隊というわけですの? お姉様」

「その通り。表向きは洛陽を窺う陽動、さらに冀州からの補給を遮断するための牽制と言うように見えるでしょうけれど、ね」

 今回の戦――まず間違いなく大戦と評価されるであろう戦役――を決定付ける策がこれである。

 であるからには、常の采配では用をなさない。

「栄華を筆頭に、兗州から出立する部隊は春蘭、秋蘭、柳琳。参謀として稟をつける」

「――は?」

 夏侯惇、夏侯淵、曹純、郭嘉。

 いずれも曹操軍の屋台骨とも言える将である。しかも曹純までも引き抜くとなれば、彼女が指揮する虎豹騎までも別働隊にあてがうという意味になる。

「……お姉様、正気ですの? これでは本隊を指揮する将が全然足りないではありませんの」

「本気よ。足りない分は私が補う。不服かしら?」

 束の間、反論らしいものが出なかったのは曹操の迫力に気圧されたからに他ならない。口の端を釣り上げ獣のように微笑む奸雄。その覇気は確かに遠く李岳に向けられているもののはずが、この場にいる者の誰もがそれに当てられゴクリと生唾を飲み込んだ。

 元より、最強の指揮官とは曹孟徳を措いて誰がいよう。

 反論が出なくなったのを待って、荀彧は説明を続けた。

「作戦の骨子は、つまるところ伏兵を用いて李岳の後背を討ちたいというそれに尽きるわ。けれど敵地の豫州を侵攻する上で伏兵を置くことなど出来はしない。故に、兗州から陽動として出撃させた部隊に高速移動が可能な機動部隊を忍ばせ、頃合いを見計らって離脱、南下させるという回りくどいことをするの」

 回りくどいからこそ、李岳の盲点を突けるのだと荀彧は言う。

「だが、騎馬隊のみで移動するのか? 兗州から豫州までは距離がある。兵站や兵糧はどうする」

 夏侯淵の指摘に荀彧は地図上のいくつかの地点に駒を足した。

「移動路にはそれぞれ『駅』を設けてある、補給を引き連れる必要はない。最短で李岳の後背を討てる段取りよ」

「しかし二万の部隊から半数も離脱すれば確実に敵に察知される。李岳軍にも『駅』や狼煙台があると思うが」

 それまで眠るように――実際寝ていたかもしれない――発言のなかった程昱がのっそりと起き上がって手を上げた。

「それはぁ〜風のお仕事ですねぇ〜」

「……手勢はほとんどないのではないか? 誰か手が空いてる者がいたろうか?」

「こういう時のための同盟軍ですよ〜」

「……なるほど?」

 むにゃむにゃ、と再び程昱は眠りに落ちるように卓に突っ伏していく。しかしそれで再度の質問はなかった。程昱が動く以上、暗部の仕事であるということだ。実働部隊の将が口を挟む領分ではない。

 だからこそ逆に、実戦指揮官から反対意見が出るとは微塵も思っていなかった。

「嫌です! ぜっっったい! 反対です!」

 武官の筆頭とも言える夏侯惇が絶叫と共に異議を唱えたのである。

「……そんなに嫌なの? 春蘭」

「嫌に決まってます! ぜぇったい嫌です! この私が! 華琳様のお側を離れるなんて!」

 作戦それ自体に反対ではなく、曹操のすぐ隣から離れてしまうことが不服らしい。個で兵百を優に上回る武力を誇りながら、こと曹操のことになると子供のように駄々をこねる。

「お前はいいのか秋蘭!? なんとか言ってみろ!」

「……姉者、気持ちはわかるがこれも華琳様の勝利のためだ。私情を挟んでは物事は進まないぞ」

 妹・夏侯淵の叱声に続き、荀彧もハッと笑って皮肉った。

「春蘭、いくら脳筋の貴女でも華琳様の立てた作戦に不服とあらば、これは抗命罪で処分もやむなしよ?」

「相手はあの李岳なんだぞ!」

 だが食って掛かる夏侯惇は一歩も引かない。無闇な感情論ではないからこそ夏侯惇も引けなかった。

「悔しいが、奴らの騎馬隊はとんでもない強さだ……華琳様にいつなんどき危機が訪れるかわかったものではないではないか! その時、この夏侯元譲がお守りしなくてどうする!」

 曹操軍最強を自負するだけあり、その説得力は迫力を伴って周りを威圧した。楽進に至ってはコクコクと頷いて同意を示す始末。

「そもそも我々が抜けた軍で、李岳をきっちりとここまで追い込むことが出来るのか? 沛、譙と二連勝する必要があるが、我々抜きでそれが出来るのか? というか、出来るなら我々も元から本隊にいてぶちのめしてしまえば済むではないか!?」

 なんかおかしいこと言ってる!? と夏侯惇は息を荒げている。

「言ってるわ」

「言ってましたか華琳様!? すみません! でも、私はどうしても納得できないんです!」

 率直は美徳である。理解を求める姿勢であればなおさらだ。

 曹操は荀彧、郭嘉を制して自ら説明した。

 

 ――弩砲、拒馬槍、そして泰山槍といった新兵器を駆使すれば李岳を一旦押し込むことは可能であろう。さらに李岳から盗んだ連弩や鐙を搭載した騎馬隊を使えば匈奴相手にかなりの牽制が出来るはず。そうなれば李岳は重装歩兵と騎馬隊での突撃を作戦の候補に上げると読んだ。おそらく泰山槍の使い所はそこになる。

 李典の作り上げた各種兵器はどれも強力だが、泰山槍に至っては初見であれば確実に敵の歩兵を制圧できる上に騎馬隊にまで効果を発揮する。極秘に極秘を重ね、孫権軍との訓練においても絶対に情報が漏れないよう荒野で遠巻きに部隊を配置して、という念の入れようだった。蓋を開けてみればただの長い槍に過ぎないことを考えれば、分解して運ぶ段では露見の恐れも低い。

 だがいずれの新兵器も相手を驚かせる一発芸に近い。李岳が慎重であれば無理に対峙せずに一時撤退を選ぶはずだ。機動力で優位な李岳軍に対して単なる追撃で決定打を叩き込むことは不可能に近い。再び態勢を立て直した李岳は、どのような武器に対しても対応策を用意してしまうだろう。

 故に、一度得た優位をそのまま勝利に直結させるための一手が必要となる。

 

 逃げる敵の後背を討つ。それはつまり撤退する敵の先頭を叩くということになる。そしてきっとそこには李岳がいる。

 それが別働隊の役割だった。目的は単純明快である。

「わかるわね、春蘭――貴女に、李岳を仕留めてほしいのよ」

 今度は違う意味で夏侯惇の大声が飛び出た。闘気が溢れ、黒く長い美しい髪がゆらゆらと動く。

「華琳様! この私が、華琳様が李岳の軍門に屈するような真似は絶対にさせません。李岳は……私が斬ります!」

「ええ。遠慮する必要はない。偶然にでも生き残ったのであれば、その時は部下に入れてあげましょう」

 もう二度と異論が出ることはなかった。

 曹操は幾夜も寝ずに彼我戦力の比較検討を行った。単純に比較すれば曹操軍に勝ちの目はない。孫権軍を足してもだ。だからこそ敵を驚かせ、呼吸を乱す。まさかと思っているうちに戦局を決定づける。

 可能であれば夏侯惇の奇襲で決着。取り逃がしたとしてもその直後に再び会戦を挑み、勝ち切る必要がある。李岳の対応力は驚異である。新兵器の有効性は二度目が精々だろう。そういう意味でもこの豫州で何ともしても決着をつけなくてはならない。

 今度こそ反対意見や異論はなくなり、全員が理解と納得のもと動き始めた。

 

 ――曹操ももちろん自覚していたが、李岳の影響を大きく受けた作戦である。陽人、祀水関、対冀州での戦い……それらの模倣に近いと言ってよかった。

 

 しかしこれこそが荀彧、郭嘉、程昱という曹操自ら最高と自負する参謀陣と練り上げた、対李岳必殺の策である。運否天賦ももちろんあろうが、人事を尽くした傑作であることだけは確かである。

 曹操は自分こそ覇王であるという自覚を持ちつつ、弱者の謙虚さを持ち続けた。

 今それが彼女の人生の結晶ともいえる軍略、真髄となって李岳に叩きつけられようとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時は流れ兗州、原武。

 事前の想定通りの日程が経過した段階で、曹洪率いる軍勢から夏侯惇、夏侯淵、曹純、郭嘉は一万の兵とともに離脱の用意を始めた。

 楊奉とは何度か衝突したが決定的なぶつかり合いにはなっていない。あくまで牽制の部隊としか思われていないだろう。

 今頃曹操と李岳は沛で一度目の激突を経ているはずだった。曹操はきっと被害も最小限に、弩砲や拒馬槍などを駆使して李岳を西に追いやっているはず。

 ……そう信じるしかない。距離は遠く連絡を取る手段もない。ひょっとすれば、と想像をたくましくすれば無限に悪夢を見ることが出来る。

 それを振り払うためには、曹操の決めた作戦を徹底的に信じ、駆け抜ける他なかった。

「お姉様を頼みますわよ」

「任せろ栄華。お前も死ぬなよ!」

 やれやれ、と曹洪は肩をすくめた。

「こういう時はもっと優雅におっしゃって頂きたいですわね……洛陽でお会いしましょう、とお姉様にお伝えくださって」

 李岳を討てばもはや豫州は突き破ったも同然、ただちに洛陽攻略に移る手はずである。曹洪も西進して洛陽を目指すことになるのは必然だった。

 だが夏侯惇にはその機微はうまく伝わらなかった。

「? なんだか知らんがわかった! 洛陽だな!」

 腕を突き上げ駆け始めていく夏侯惇。ペコリと振り返る曹純に、なんとか頼むとばかりに曹洪は手を振って見送った。

「全く、あんなので本当に大丈夫なのかしら……とはいえ、さて。わたくしも他人の心配をしているような場合ではありませんですわね!」

 事態を察した楊奉が手勢を率いて前進してきている。曹洪の目からも伝令が矢継ぎ早に飛び出していくのが見える。李岳に向けた別働隊が走っていることを知らせるための早馬だ。異常を察し、対処に動く早さは敵ながらあっぱれ。倍する兵力で攻め寄せてくることを考えると苦戦を強いられるのは間違いない。

「さて、あれを一騎でも逃すと大変面倒なことになりますわね。さらに汗臭いおじさんからも逃げ切らなきゃいけないとは……本当、貧乏くじですわ」

 迫り来る倍する敵を前に、曹洪はため息を吐いて剣を抜いた。

 号令を下す。従姉であり主君でもある、愛しい曹孟徳に天下を捧げるため、ここを全力で支えると誓った。

 

 ――曹洪はこの後、十五回に渡る楊奉の猛攻を半数の兵力でしのぎ切る。その継戦能力は凄まじく、曹操と李岳の直接対決が決着した後にもまだ戦線を維持することを成し遂げる。残り兵三千まで失うも、楊奉の兵一兵たりとも突破させじ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一方の楊奉もまた、敵軍の異常をすぐに察した。

「半数を離脱させやがるだと? 馬鹿な……」

 地理を思い浮かべる楊奉。具体的な思惑はわからなかったがとにかく豫州を目指しているということだけは理解できた。

 悪い予感がした。段取り通りという動きがあまりにも気に食わない。

「……何でも使え! とにかく豫州の旦那にこのことを知らせるんだ!」

 伝令、狼煙台などあらゆる手段を指示する。さらに楊奉は自らも出陣を選んだ。あのまま逃がす手はない、敵は半数を離脱させたのだ。それが罠だという予測もあるにはあったが、それほどの価値が己にはない、という半ば冷徹な判断がその疑惑を拭った。釣るならでかい魚を釣るに決まってる!

 いざ、という声を楊奉が上げようとした時だった。何度も何度も反芻した、自らの座右の銘とも言うべき言葉が脳裏で輝いた。

 

 ――不利な状況を改善するのが能力なのですよ。突撃、突撃という言うだけならいないほうがマシだ。

 

 それはいつか、李岳から投げられた言葉だった。

 楊奉は飛び出そうとした部下を捕まえて追加の命令を発した。

「……待て! 知らせは洛陽にも飛ばせ! 賈駆の嬢ちゃんにいの一番で知らせるんだ! 急げ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「あら〜、始まりましたわねぇ」

 離脱する夏侯惇らの軍勢を見ながら少女――程昱は呟いた。

 日除けの帽子を目深に被り、ふぅふぅと汗をかきながら馬上でひっしとしがみついている。

「参りましょう〜」

 しがみつかれているもう片方の人影もまた、面が見えないように首襟を口元までたくし上げている。

 返事もなく――ただ、リン、という鈴の音だけを鳴らして答えとする。そしてそのまま馬腹を蹴った。颯爽と草原を蹴立てて二人は行く。目指す先は石造りの楼台であった。

 その楼台にはいま、一人の青年が課された任務を果たそうとするところだった。

 

 ――彼は地元生まれの地元育ちで、三男で土地もなく、食いっぱぐれたために軍に志願した。齢十八である。

 

 一度は黄巾賊に入ろうかと迷ったこともあったが、何とかという将軍が幾度か戦争に勝ったと聞く度に治安がよくなり、ついには黄巾の親玉のような人を倒したと聞いて官軍の雑役に志願した。やることも多く給与も少なかったが食いっぱぐれることはなく、戦に駆り出されることもなかったので不満はなかった。

 後は全部の戦が終わればなと、その時は嫁がほしいなと思う程度であった。

 彼に与えられた任務は決められた知らせがくれば、それを狼煙として次の狼煙台に伝えるという単純極まるものであった。訓練は何度もしつこく行われ、雨が降ったり風が強くなければ見間違うことはない――もちろん、そういう時は狼煙台は使われないのであるが。

 この仕組みも、その何とかという将軍が考えたものらしい。下々の兵にとって、お上の名前などはさして重要ではない。一つ目上の隊長の名前さえ忘れてなければ問題が起きることはない。

 その彼がいつもの通り任務に就いてしばらく経ってからだった。北から煙が立ち昇っているのが見えた。訓練であれば事前通告がある。それがない。つまりこれは実戦の知らせだ。しかも緊急事態の狼煙であった!

「隊長! 火を!」

 彼の仕事は楼台の上での監視であり、いざという時のために下の階で火を焚き続ける者は別にいる。異常を察すれば大声で下の者を呼ぶのが仕事の第一であった。

 しかし返事はない。厠でも行っているのか? このとんでもない時に!

 待っていられないと焦り、兵は慌てて火を取りに行こうと一階の土間に飛び込んだ。

 この時、聞こえてきた鈴の音にわずかでも注意を払っていれば、彼の運命も変わっていただろうか?

 結局、彼は火を起こすことも薪を手に取ることも出来なかった。彼は次の瞬間には絶命し、とうに血溜まりの中で事切れていた隊長と折り重なるようにして倒れ伏した。一瞬にして断たれた首が石畳を転がる。糸で引いたようなその切り口が、彼に痛みも恐怖もなかったことだけを教える。

 

 ――下手人は河北では見慣れぬ幅広の曲刀を鈴の音を鳴らしながら納めると、まるで黄泉路への旅が安らかならんと祈るように瞑目した。

 

 惨状が静まったのを恐る恐る確かめるように、入口から現れたのは程昱。

「お見事ですぅ〜。さすが錦帆賊の頭領でございますねぇ」

「……以前の話だ。今は蓮華様に仕える一振りの剣」

「これは失礼いたしましたぁ」

 言葉とは裏腹に程昱は気にもせずに楼台に登った。刀使いはそれを憮然と見送った。

 刀使い――姓は甘、名は寧、字は興覇。曹孫の盟約に従い、李岳の連絡手段を遮断するためにここに単騎で参っていた。音もなく忍び寄りて敵を屠る湖賊の技を見込まれ、孫権の肝いりとして派遣されたのである。曹操の急襲作戦の要とも言える情報遮断作戦の尖兵として。

「甘寧さぁん、やっぱり予備の狼煙台もございますねぇ、まずはあと三ヶ所潰しましょう〜。その後はさらに南下しながら要所要所を潰します〜」

「好きにしろ」

 一軍を率いて敵を破るのも戦いなれば、こうして敵の裏をかいて人を屠るももちろん戦いである。賊として身をやつしていた我ゆえに抜擢されたと、甘寧自身は至極納得していた。

 しかし主君である孫権の隣にいないことを納得したわけでもない。

 誇りと不満がせめぎ合った結果は、さらなる技の冴えとして反映される。

 程昱の読みと甘寧の武力の結果、李岳が考案し張燕が構築した南北の情報網は無残に寸断されることになる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――そうした経緯を経て、夏侯惇以下の別働隊はとうとう豫州に踏み込んだ。

 

 連絡を取っていなかったというのに全てを見通したように放たれていた曹操からの伝令とも合流する。夏侯惇はそういう一つ一つのことに感動する。曹操は、別働隊が今日この時ここに駆け抜けてくることを微塵も疑っていなかったのだ!

 曹操の連絡によると李岳はやはり撤退を選択、見切りが早く損害は五千から七千にとどまる、とのこと。孫権の初戦での被害が大きく、未だ兵力は李岳有利とのこと。

 走りながら食い、眠らずに走り、馬を換え、ただひたすら駆け抜けてきた別働隊に疲れがないわけがない。しかし夏侯惇の眼は爛々と燃え、主君・曹操の不倶戴天の敵をこの手で仕留める好機に喜び、猛った。

「李岳のやつめ! もっと粘っていれば背後から挟撃できたものを! 臆病風に吹かれてとっとと下がるから面倒な追撃になるではないか!」

「それも含めて作戦通りではありませんか。華琳様の読みどおりです」

 郭嘉が冷静を失わないように一言を付す。

「フン。よし、じゃあ突っ込むとするか。軍師殿、どうする」

「すでに日も落ちておりますが、故に敵も対応を誤る可能性が高く、時は今。李岳本営を目指してただちに攻め寄せるが良いでしょう」

「……稟。お前」

 夏侯淵が郭嘉の肩を掴んだのは、その顔面が蒼白になっていたからだった。見れば顎から首、胸元まで血で染まっていた。

 病弱で体力のない郭嘉にとって、この強行軍はまさに命を削るようなものだったのだ。だがしかし彼女がいなければ的確な行軍は難しく、ここに至るまでにより多くの日数がかかったことは間違いないだろう。

「……心配は御無用。将兵が命を賭けるのと同じく、軍師にも命の賭けどころというものはございます。虎は死して皮を残す。軍師は死してでも勝利を主君に献上するのです」

「バカかお前は」

 夏侯惇は郭嘉の体を馬から引きずり下ろすと、自分の後ろに乗せて体と体を帯で結んだ。

「私もお前も、勝って華琳様に褒めてもらうのだ! 鼻血は残しておけ! 華琳様に撫でてもらった時すっからかんでは、無礼であるぞ、稟!」

 ふっ、と笑って郭嘉は夏侯惇の体に手を回す。

「……ならば這ってでも帰らねば。頼みますよ、春蘭様」

「――突っ込むぞ!」

 夏侯惇は雄叫びを上げて先頭のまま駆け、李岳軍の横っ腹に食らいついた。ここで戦局を決定づけ、曹操を覇王に押し上げるのだと。

 百万力を込めて剣を握り、夏侯惇はただ李岳の首を求めて駆けた。

 

 

 

 

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。