譙の地。
小雨の降る中、曹操は再び李岳と対峙した。
沛での戦いとは異なり匈奴兵の姿は前面には出てきていない。決定的な場面で投入しようというつもりなのだろう。つまり戦力の見極めは完了したというわけだ。
中華最強の機動部隊が、今度こそこちらを叩き潰さんと本気で襲来してくるのである。
痺れと震え。朝からわずかにあった頭痛の気配がそれで雲散霧消した。死の気配が曹操の身体から余計な痛みを取り去っていく。
「勝つのは私」
あえて声に出していった。口の端に垂れてきた雨のしずくを舐め取る。曹操は雨避けの外套を翻して本営へと戻った。
幕舎の前には孫権が雨に降られるまま立ち尽くしていた。
「開戦まで間もなくだというのにこんなところで何を?」
「……この前は失礼した」
謝罪というよりも決闘を挑むような表情だった。孫権はまっすぐ曹操を見据えて微動だにしない。
「何のことかしら」
「沛での戦いの後のことだ。救援に来いなどと」
ようやく合点がいった。曹操は笑いそうになるのをこらえた。
「何を謝ることがあるというの? 同盟相手の無能を批判するのは当然のことよ。私だって私の無能ぶりにはらわたが煮え繰り返る思いなのだもの」
孫権が難しい顔をする。素直に詫びさせてくれないと拗ねているのか。謝罪が主ではなく、幼稚なことをしてしまったという胸の中に刺さってしまった棘を抜きたいのだということはよくわかる。間もなく起こる決戦で心置きなく戦いたいのだ。
その不安を押し殺しているだけ、孫権は有能だ。
「私たちは勝てるだろうか」
「勝つわ。私は李岳に勝つことだけを考えてきた」
心の底からそう思える。天下を平らげること、そして己が理想と考える唯才の世を形作るための社会設計など他にも考えることは山程あるというのに、曹操は膨大な時間を李岳のことを考えるためだけに費やした。人生で最も謙虚な時間だったと言えるだろう。想定し、模倣し、乗り越えようと毎日想いを馳せた。
その末に作戦を練り、ここにいる。李岳を倒すのであれば己をおいて他にいない、という確信がある。曹孟徳がここまで力を尽くし、それでもなお勝てないようであれば天下の誰も李岳には勝てない。彼こそ覇者だ。うぬぼれではなく、疑いなくそう思える。
故に、余計なことで水を差されることだけは避けたい。
「予感なのだけれど、李岳を倒すのであればこれが最後の機会なのだと思う。誰しも機会は持ち得るけれど、それが何度もあるとは限らない。貴女の軍師もそう言っていたわ」
嘘ではない。だから食いつけ。曹操がそう念じた時、孫権は怪訝そうに聞き返した。
「冥琳が? 何と?」
ああ、と曹操は惜しむように眉をひそめた。
「あれほどの才を持っているというのに、惜しいわね。あとどれほど時間が残されているのかしら。病魔というのは本当に惨い……彼女にとっても、これが人生最後の機会かも知れないのね」
己の浅はかさに我慢ならなくなりながらも曹操は最後まで演技を続けた。表情を固くした孫権が自陣に戻っていくのを見守りながら曹操は呟く。
「李岳。私は貴方に勝つためなら道化にさえ身をやつす」
李岳が孫権に鼻薬のようなものを嗅がせていたことは知っている。舐めているわけではないだろうが、孫権がまとう雰囲気にどこか生ぬるいものを感じてもいた。だがこれで乾坤一擲の覚悟を持つだろう。
曹操という女にここまでさせる男は中華に一人しかいない。その屈辱と喜びを、全霊を以ってぶつけさせてもらう。
「曹孟徳の命運、この一戦にて天に問う」
血が滾る、という以外の言葉が見当たらない。
己と、己を信じて付き従った者たち全ての価値を賭けるに値する戦いがここにある。
そして勝利の確信も。
武者震いもそのままに曹操は号令を下さんと幕舎に踏み入れた。
出血した。剣の具合を確かめようとして手元を誤った。小さな切り傷だったが膨れ上がる血の粒は思ったより大きく育った。李岳はそれを妙な気持ちでしばらく眺めた後、舐め取り、鎧にこすりつけるようにして拭った。鈍く広がる鉄の味。吉凶を占うならば凶兆だろうが、生来験担ぎに無縁の性分だった。
全員集まったという知らせを受け、李岳は本営の幕舎に向かった。すでに天幕は取り外されている。小雨の中、卓を囲んで円を描いていた。
李岳に気づいて張遼と司馬懿が場所を空けた。厳かな雰囲気があった。呂布の視線がことさらに熱い。
「ここが決戦場と考えている」
応、と幾人かが答えた。答えなかった者たちもまた、気を漲らせていた。
この期に及んで覚悟や信頼を伝えるつもりはない。無粋である。
「それでは作戦を説明します」
司馬懿は卓上の駒を動かしながら各部隊の配置、機動、目的を明確にして伝えた。
李岳が発案し司馬懿と徐庶が練り上げた作戦は、中央の前衛部隊が戦局を支えている間に、高速機動部隊を迂回、敵の側面を打撃し浸透するというものである。
中央に華雄、徐晃、張郃、赫昭、袁術軍の重装歩兵を率いる紀霊という盤石の布陣。魚鱗と方陣を編み込んだこの陣形を容易く突破出来る軍がどこにいよう。
両脇に配した張遼、高順、呂布、馬超、趙雲の機動部隊は歩兵が戦線を支えている間に曹操軍の左右に展開。正面に戦局が集中している隙に両側面から攻撃に出る。理想的な展開となれば曹操軍を前後に断ち割ることが出来るだろう。匈奴は予備として後背に置く。最終的な局面では全軍を追い抜き戦局を決定づける思惑だ。
李岳軍が鍛え上げてきた『力』の真髄の全てを披露するような布陣である。
李岳が採用した作戦について、この漢帝国の世界にまだ名前はない。だがそれはいずれこう呼ばれることになるだろう――鉄床戦術と。
それは古代ギリシアで、ペルシャで、アレクサンドロス三世が、エウメネスが、やがてイギリス軍がアシャンティのクマシで、第二次世界大戦ではドイツ軍がカーン南方ヴィレル・ボカージュで、朝鮮戦争では仁川上陸作戦を支援するスレッジハンマー作戦として用いられてきた。
頑強な鉄床とそれを打ち付ける鉄槌。強固な戦線維持基盤と、高度な機動力を持つ打撃部隊を併用することによる挟撃作戦である。
李岳はこの戦乱の世を終結させんと、渾身の力をもってその鉄槌を振り下ろそうとしている。
司馬懿の説明が終わった。誰一人異存はない。この作戦に漢帝国の命運を賭す。
「全員の奮戦と、生還を期待する」
応という声は、今度は全員が揃っていた。
雨が止むのを待っていたのか、天がその時が来れば止ませるものと決めていたのか。
穏やかな雨は草木を柔らかく湿らせ、遠く見渡せる平原を一足でまたぐほどの虹を描いた。
その穏やかな光景の中、両軍は接近する。太鼓と銅鑼が叩かれる。戦意を鼓舞するだけではなく、細かな律動の違いで配置の修正を行っている。矢が飛び交う。巻き添えを嫌って高度を上げて飛行する鷹の目には一体どう映るだろう。
間もなく、両軍は矢の射程距離を殺して踏み込んだ。草原は一挙に闘争と殺戮のための領域と化す。怒声とも悲鳴ともつかない絶叫を吠えながら、士卒は草原を駆け抜ける。
その時、不可解なものが李岳の視界を横切った。中空に鉄器の照り返しがあるのだ。しかし空を飛ぶ矢ではない。
槍であった。
それも尋常の尺ではない長い槍を、曹操軍は無数に並べている。馬鹿な、と引け、を両方声に出していたが間に合うはずもない。司馬懿だけが怪訝な表情で振り返る。両軍は勢いもそのままに接触した。
何千もの陶器を一斉に叩き割ったような音が李岳の耳にも聞こえた。目を覆う流血と散華する無数の命。一瞬の均衡の後、戦線は押し流されるように一方的な様相を呈した。
李岳と司馬懿の思惑は初手で崩れた。
鉄床の機能を期待した中央の重装歩兵部隊は、無残にもただちに崩壊したのである。悲鳴と、敗走する麾下の兵。勇猛で鳴らした華雄隊でさえ踏ん張ることも出来ない。
――気持ちを立て直すのに数瞬かかった。
しかし心と脳が乖離でもしたかのように、李岳は動揺を立て直せないままも指示を下し始めた。
「後退! 中央を後退させろ! 騎馬隊はそれを支援、作戦は中止だ! まずは一旦態勢を立て直す!」
「……」
「如月!」
無表情のまま呆然としている司馬懿の肩を掴んで李岳は叫ぶ。そしてなんて卑怯な人間だ、と自分自身を嫌悪した。司馬懿を叱咤することで折れそうな自分の心を奮い立たせようとしている。この作戦は司馬懿が整えたが、発案は己であるというのに。
司馬懿もまた己を取り戻すことに成功した。
「――失礼いたしました。戦線を立て直します。旗振れ! 予備の匈奴隊を投入せよ! 騎射で友軍の後退を援護するのだ!」
心の中に赤黒くて熱いものが広がる。それは不安と敗北の予感。李岳は一喝、くそっ、と声を出してから走り出した。黒狐にまたがり一騎で前線を目指す。まずはこの目で戦場を見る。その責任が己にはある。
最前線が直接見えるほどにまで接近した李岳は、唖然として束の間なにも考えられなくなった。
歩兵は薄く横に広げるよりも、息の合った集団同士でまとめる方が力を発揮すると考え、右翼から袁術軍の紀霊、張郃、赫昭、華雄、徐晃の順に部隊を配置していた。いずれもただちに崩れるような部隊ではないというのに、全てが余さず崩壊している。どの部隊も押しに押されまくっていた。練度で差があるはずもない以上、理由は一つしかなかった。
「何だあの槍は」
李岳軍を蹴散らしていたのはやはり槍だった――それも見たことのないほど長大な、従来の槍とは比較にならないほどの長さの槍だった。
それはある時は真っ直ぐ突き出され、ある時は頭上から叩き落され、あるいは小集団の槍衾となって突進してきている。
「パイク……」
李岳の迂闊な声は悲鳴と狂乱の声にかき消され、幸い誰の耳にも届かなかった。
――パイク。それは中世の欧州で猛威を奮った長柄の槍である。歩兵、騎兵相手にも抜群の優位性を発揮したその武器は、槍衾を応用した独特の密集隊形と組み合わせることで大陸中の戦場を席巻した。そしてそれは中華の大地でも発展、用いられることになるのだが……今この時代より千年も後のことであるはずだった。
曹操は未来から来た人間ではない。自らが知る史実でもこの槍を使った記録はない。その事実がなお李岳を痛めつけた。曹操という天才が李岳を相手に謙虚に学んだ結果が、眼前で繰り広げられている惨状なのだ。
「時を超えたというのか、曹操……」
李岳という存在が曹操という怪物を育て、千年もの時間を跳躍させた。軍略家として、曹操は李岳を平らげさらにその上を行った。
唸りを上げて振り下ろされる槍が李岳軍の歩兵の頭を叩き割り、突き出した槍の突進で刺し貫かれていく。その無残な光景が、兵一人一人の死が李岳の無能を指弾しているかのように思えた。
震える膝を殴りつけながら李岳は黒狐の馬腹を蹴った。無能は無能なりにまだやることがある。責任がある。泣くのなら、恥じるのなら、出来ること全てを吐き出してからにしろ。
くそっ、と再び声を出したが、それはあまりに情けなく響いた。
曹操は自身でも驚くほどに冷静だった。自軍の攻撃が宿敵の防御陣を千々に引き裂いているというのに。理由ははっきりしていた。この程度で死ぬ男ではないとわかっているからだ。
案の定、李岳軍はただちに次の行動に移っている。
「李岳軍、後退。騎馬隊が側面から射撃を行ってきています!」
「見切りが早いわね。もう少しもたもたしてくれないものかしら」
「ですが華琳様! 我が軍は圧倒的に優勢です!」
「ここでもっと減らしておきたい。孫権軍を使う。桂花、蓮華に指示を」
「はっ、ただちに!」
曹操と異なり、荀彧の声にはこらえきれない熱気がこもっていた。宿敵を打ち砕いている快感はもちろん理解できるが、曹操はまだ茫漠とした感情に包まれたままでいる。
――泰山槍と名付けた。曹操の発案である。
これまでにない長い槍というのが曹操の求めたものだったが、李典は強度を保ったまま運搬に適した設計、製作までをやり切った。組み立て式のただの長い槍に過ぎない。だがその威力は凶悪そのものである。
李岳を会戦で破ることを考える上で、眼目となるのは強力無比な騎馬隊と思いがちだ。
だが曹操の辿り着いた解は違う。騎馬隊のみの軍勢などありえない。どのような軍勢であれ、絶対的な真実が一つだけある――どれほど機動部隊が強力であろうと、官軍である以上会戦で歩兵を随伴しない軍は存在しないのだ。
もちろん李岳軍は歩兵との連携も強力である。それは反董卓連合で散々体験した。強力な重装歩兵を正面に据え、機動部隊で間隙を突いてくることは目に見えていた。その連携を崩さない限り勝ちの目はどうしても見えてこず、そのために相当な時間と金を投資した。孫権軍と極秘裏に調練を行ったのも、この泰山槍の習熟のためであった。
李典の発明、于禁の訓練、楽進の運用が見事に噛み合っている。曹操の指示は完全な形で体現されつつあった。
曹操が李岳の立場ならどうするだろう、とふと考えた。間違いなく袁術軍を餌に退く。温存すべき兵を選択すると言えば聞こえはいいが、率直に言えば死ぬ兵の優先順位を付けることも将の仕事だからだ。
それが李岳には出来ない。荀彧の読んだ通りである。
だがそれでも李岳軍は完全に崩れることはなくジリジリと下がりつつある。ここで立て直されれば仕損じる。曹操は次なる一手を指示した。旗が振られ、そして一騎の伝令が戦場を北へ抜け出して行った。
切り札が一枚だと限らない。それもまた李岳が教えてくれたことである。
会戦で敗れ、撤退戦に持ち込まれることはもちろん想定の中にあった。いざという時の退路も、立て直すための拠点候補地も司馬懿の事前検討に入っている。
だがこうも一方的な展開は慮外である。立て直しも退き口の構築も走りながらやるしかない。司馬懿の獅子奮迅の働きがなければ指揮統率さえ崩れていたはず。
「敵、引き剥がせません! 密着しすぎています!」
息を荒げて馬上のまま徐庶が叫ぶ。もう十里は引いているというのに張り付いた曹操軍が粘り強くすがり付いてくる。弩砲の運搬に用いたあの馬車が今度は槍を積んだ戦車に変わっていた。李岳軍の死体で戦場は無残な有様に変わりつつあった。
「何でもいい! 間を空けさせろ! とにかく歩兵の後退を助けるんだ! 騎馬隊を投入しろ!」
「承知! 母上と共に参ります!」
徐庶は再び馬を駆って飛び出していった。
残った司馬懿が拱手して言う。
「袁術軍を放置しての撤退を進言します」
感情的な反発と、理性による検討が一瞬せめぎあった。
今もまだ袁術軍の重装歩兵は後退しながらでもこらえている。防御力が高いため比較的被害は少ないが、速度に劣るため必然的に最後尾になっている。李岳軍本隊を守るような立ち位置に押しやられている上、気を抜けば全滅さえあり得るような苦境だ。
袁術の笑顔がちらついた。そして張勲の腹に一物抱えた苦笑も。
「ダメだ。二度と言うな」
「――承知しました」
返答は予想できていたのだろう、司馬懿は繰り返さなかった。
李岳とて短期的には司馬懿の提案が最善だと思う。だが李岳が成し遂げようとしているのは戦乱の終息だ。懸命に戦う友軍を見捨ててしまえば、全土に叛乱の口実を与えるようなもの……そう自分を納得させた。
だが間もなく、李岳の思いをあざ笑うような報告が走った。
「孫権軍! 袁術軍に取りつきました! 被害多数!」
孫権軍の主戦場は長江である。船上で矢をつがえ、時に水に潜り岸壁から飛び移る。十分に訓練を積んだ水兵にとって、見晴らしの良い
孫堅以来、そして孫策が完成させた奇兵戦術は孫家軍の伝統である。曹操軍の隙間をかいくぐって移動し、足の遅い袁術軍に取り付くことも、反撃を企てた騎馬隊の足を絡めとるも造作のないことであった。
「はーい、皆様はここでおしまいですよ〜」
呂蒙の指揮に従い地から湧き出たように出現した孫権軍は、袁術の盾にならんとした高順隊に次々と取り付いては騎馬から引き剥がし、斬り殺していく。その手筈の良さは漁師が地引き網を手繰り寄せるのに似た。あれほどの武勇を誇った高順隊がまるで屠殺されるように数を減らしていく。
見かねたように、槍をつがえた高順自身が先頭に立ち、手勢を率いて雪崩れ込んで行った。連弩の一斉射撃の後に馬体ごと突っ込んでいく。玉砕に近いその攻撃が孫権軍の足を止めた。わずかの間隙を見逃さず、高順はただちに後退していく。
だかそれでも引かないのが曹操と孫権だった。敵と味方の死体を踏み越えてさらに押し迫ってくる。李岳を絶対に逃してはならないという凄まじい執念だった。
李岳が自ら兵を率いて突っ込もうと決意したその時だった。突如として突出する部隊があった。本陣の指示でもない、独自の判断である。横っ腹を突き崩さんと飛び出たのは、涼州より来たる五千の兵。
先頭には踊るように馬を駆る、陽光を銀と照り返す眩いその勇姿。
「てやんでい! 長い槍か何だか知らねえけど、この錦馬超を貫くにはちぃっとばっかし短すぎるぜ! たんぽぽ!」
「応さぁ!」
馬超隊の突撃は曹操、孫権両軍、ひいては李岳の意表さえ突いた。軍才豊かな孫権軍と曹操軍でさえ不可避のわずかな部隊の隙間を見逃さなかったのである。
馬超隊はこの日、李岳軍では唯一と言ってもいい華々しい戦果を挙げた部隊となる。
李岳軍が譙の戦いで持ちこたえることが出来たのは実質半刻に過ぎない。それは早々と戦況を見切り撤退に転じたからで、結果的には被害を最小限に食い止めることに寄与した。しかし大陸最強を自負し、全土の人間からも疑いなくそう思われていた軍が、一方的に蹴散らされたという事実は李岳軍には重くのしかかり、曹孫両軍には戦意と昂揚をもたらした。
李岳軍としては豫州の東半分を放棄、陳を拠点に軍を立て直して戦略再構築を急ぐ必要があるはずだった。負け知らずの不遜な軍ではない、苦渋も屈辱も存分に味わってきた上での自負であった。一度の負けで士気が挫けるはずもなかった。
そうして曹操と孫権の追撃を何とか振り切った時は既に夜。陳まで残り半刻の距離。止んだはずの雨が再び降り出した。顎から水をしたたらせながら、ようやく危地を脱したと一息つきたいと思ったその時だった。
突如さざなみのような悲鳴が伝わってきた。音はやがて聞き慣れた、だが馴染みのない地鳴りのような響きになって腹の奥を叩き始める。
それは無数の騎馬隊が鳴らす馬蹄の音。死の音。方位は北。
友軍が来るはずもない方角だが、しかし兗州からの敵であれば確実に索敵の網にかかり知らせが来る方向である。それがない。一縷の望みと胸を押し潰すような不安がない混ぜになる。
李岳は初めて僥倖を願った。すがるような憐れさでそうであってくれるなと頼んだ。
畢竟、敗走の将が願う希望が真であるはずもなく――北より翻るは夏侯惇、夏侯淵、そして虎豹騎を指揮する曹純の軍旗。
本当の撤退戦――地獄は今ここからが本番なのだと李岳は思い知る。
ラスト10話くらいです。多分。