張遼は匈奴の援護に回っていた。悔しいが、鐙を用いてもまだ奴らの方が機動力で上回る。騎射の射程も連弩より長い。しかし、とも思う。直接のぶつかり合いであれば分がある。雁門関では多勢に無勢がゆえに遅れをとったがその自信は変わらない。丁原以来伝統の敵軍を断ち割り引き裂く突撃戦では全土最強を示すことが出来るはずだ。
「霞様、なーんだか殺気の向ける先が味方になっているのはこの珠悠の勘違いでしょうか?」
「て、てへぺろ! あかんあかん、いまは味方やったな」
「全くもー」
徐庶の嗜めに張遼は頭をかいた。しかし張遼をもよおさせる程に匈奴兵の動きがいいのも事実。逆に曹操軍は余力を残そうとしているためか精彩を欠いている。夏侯惇、夏侯淵らの部隊も旗がはためいているだけで前線には出てきていない。温存だろう。あるいはまだ隠し持っている兵器があるのか。
「霞様、合図です!」
ハッとして張遼は振り返った。李岳の本陣から事前の打ち合わせ通りの太鼓、そして旗。
「ほなやるかぁ……遅れたらほってくからな、珠悠っち!」
「どうぞご随意に!」
徐庶は前線を駆ける軍師として李岳が張遼に付けた。この作戦のための配置だ。乗馬も剣も得手であることは荊州戦線の頃から承知している。気心も知れた仲だ、信頼しかない。臆病風に吹かれることなく的確に指示してくれるだろう。
張遼は飛龍偃月刀を担ぎ上げ、自ら率いる手勢に大喝した。
「お前ら! ウチらの大将がこの張文遠に必殺の作戦をくれたんや、ヘマこくボケがおったらいてまうからな! 気合い入れてついてこいや!」
口にしながら、自分の吐いた言葉に最も鼓舞されたのは己だったことに気付く。
騎馬隊を牽制に使い、曹操の本隊を押し上げようとしたちょうどその時だった。
「李岳軍本陣より騎馬隊、迫ってきます! 張遼!」
「忙しないことだわ全く……弩砲隊!」
「ほいな!」
「桂花、騎馬隊も回せ! ぶつかり合う必要はない、連弩を射込んで戻る、これを繰り返させろ!」
曹操の指示は直ちに実行されたが嫌がらせみたいなものに過ぎない。張遼なら呼吸を読んで突破をはかってくるだろう。
案の定、張遼はこちらの騎馬隊の戻りばなに合わせ、弩砲をかいくぐり肉薄してくる。斬り込むつもりなのだ。来い、と曹操は吼えた。拒馬槍で串刺しになるがいい。
しかしすんでのところで騎馬隊は折り返し、連弩で散々騎射を繰り返しては弧を描いた。単なる猪武者ではない。それとも知恵者を随伴させたか。
「おそらく、徐庶かと」
荀彧の言葉に曹操は舌打ちした。目を凝らせば確かに張遼の背後に小柄な勇姿が見える。あれが臥龍、鳳雛に比肩するとされた睡虎。全く、喉から手が出るほど欲しい人材ばかり従えている!
そこから一刻ほど、交互に押し寄せてくる張遼、高順、趙雲、馬超らの騎馬隊を打ち払うことを繰り返した。決して深入りしてくることはないというのに、連弩での騎射だけはきっちり撃ち放っていくのが小憎らしい。
だが耐え切った。敵騎馬隊は結局なすすべなく戻っていく――余力を残していることは十分理解しているが――と同時に地鳴りが響いた。李岳軍本隊が押し上げをはかっていた。華雄、徐晃、そして張郃に赫昭。李岳軍は騎馬隊だけではなく、今や歩兵の層も全土随一に分厚い。この歩騎両軍を同時に相手するのはさすがに荷が重かった。
「桂花、こちらの前進は中止する。敵歩兵に全力で当たれ、うかうかすると踏み潰されるわよ」
「はっ! 凪!」
荀彧が楽進隊に前進を指示した。中央の密度が一気に上昇する。同時に匈奴が右翼に殺到し始めた。李典、于禁が対応する。中軍の予備としていた曹仁にも援護を指示した。憎たらしいまでに翻弄される。こちらに騎馬隊の備えが十分と見るや、歩兵を本命として攻め込むつもりだ。その周囲を騎馬隊が鷹や鳶のように飛び回る。煩わしいったらない。
しかし、それでも一方的に押されなどしない。曹操軍は舞うように猛攻を躱しきると、華雄隊の側面を狙って猛進を敢行した。殴り込み部隊はまさに徒手空拳で血の嵐を吹かせる楽進である。半刻、猛然と押すやサッと引かせた。反撃を企てる華雄を御そうと盛んに鳴り響く銅羅が笑えた。華雄はきっと穴でも掘れそうな鼻息を吹いているに違いない。
気づけば日は中天にあった。戦えた、と思う。
攻めきれないと悟ったのか、李岳軍は後退し始めた。予想通り沛を放棄するようだった。損害が軽微なうちに引き込んでしまおうという思惑もあるだろう。攻め込めば攻め込むほど、補給も退路も伸びる。死地行かば死であるか? だが一寸の活路があるならば、やはりこの先にしかないはずだ。
耐えた先に勝機があると曹操は信じて疑わない。荀彧の読み通り、李岳は無駄死にを恐れて踏み込めない。罠を疑う限り押せば引く。合流さえ果たすことができれば勝てると曹操は確信している。
被害の状況と部隊の整理を曹操が指示しようとした時だった。荀彧が蒼白な顔をして告げた。
「張遼の姿がありません……」
寸暇の後、曹操は戦慄と共に状況を理解した。
袁術の横顔も見飽きた。
五里の距離を保ったまま、まるで並走するように袁術軍は付かず離れずの地点にいる。嫌な距離だ、と孫権は思った。袁術……というより張勲の考えだろうか。追うには遠く無視するには近い。
一度突っかけてみてはどうかと周瑜に聞いてみたが、検討の上で却下と言われた。やはり備えが見えないうちは侮れないらしい。一度検討する仕草を見せるだけ、周瑜は孫権を尊重しているつもりなのだろう。
それにしても、と孫権は思う。いわゆる呉と呼ばれる土地から離れて豫州に踏み入り、人と風土の違いに驚く。長江流域とは暮らしぶりも人柄も異なるのだ。当たり前ではあるが舟がない。そして江上で暮らす人々特有の繋がりも感じられなかった。
あっけらかんとして少し放埒、けれど義理人情に厚くて時におせっかいな南の気っ風――思えばそれらは全て、今は亡き姉である孫策の面影とも言えた。
(ああそうか……私が呉を守りたいのは……)
北から吹き付ける華北の風を感じながら、孫権は初めて己の望みを明確に言葉に出来た。どうして呉という水と大地を切り離すようにして守りたいのか。洛陽を中心とした漢の指図に従い続ければ、南方独自の文化や風土は失われるように思えるからだ。
それはすなわち、姉である孫策の想い出さえ消しさられるように思えて――
それに北の人間は南を劣ったものとして見る。だが実際には良質な茶も器も南から産出される。実態を直視せず、殊更上からものを言ってくるのであれば、いっそ切り離してしまえという独立心が涵養されるのは自然の摂理だ。
そのためにも勝たなくてはならない。勝利は絶対の条件である。
やがて曹操軍合流まで十里と迫った。伝令が慌ただしく飛び交い始める。曹操は既に李岳軍と衝突したらしい。支援の要請はなかったが、聞き及ぶだけでも激戦の様相を呈していると思えた。
「冥琳、急がないと」
「落ち着かれよご主君。急げば側面に隙ができます。袁術軍に突かれてもつまらない。ここは行軍速度を維持するのが肝要かと」
「……私は、焦っているのだろうか?」
周瑜は少し驚いた様子を見せた後、微笑んだ。
「かも知れません。けどそのおかげで私が落ち着いていられます。逆に呑気にされていたら私は叱咤したでしょう」
「ずるいわねそれ……君主って損」
「全くです。いくら乞われても、私なら嫌だな」
「いじわる」
周瑜はすっかり孫権のあしらいに慣れてしまったようで、おかげでだいぶ冷静さを取り戻せた。
五万人を率いている。その命を背負って見知らぬ道を行く重圧に、ようやく孫権は自覚的になれた。姉の孫策なら鼻歌を歌って進んだだろう。自分には出来ない。間違いはなかったか、この選択は正しかったか、詮無いことを数えながら進むのが性に合っている。
皆の意見をよく聞き冷静さを失わずにいよう――そう思った矢先、さらに伝令が駆け込んできた。
「袁術軍、接近してきます!」
「応! やる気か小娘!」
そばに控えていた黄蓋が凶暴な笑みを浮かべた。
「公瑾よ!」
「わかっておるよ祭殿。亞莎をお連れください。きっとお役に立ちます……弓隊は前へ! 容易く近寄らせるな! 陣形を整えよ――旗を翻せ!」
黄蓋が呂蒙を引き連れ飛び出していった。陸遜が後詰を指揮、陣形は速やかに構築されていく。江上で鍛え上げられた孫呉軍である、動きは迅速を極めた。
袁術軍は重装歩兵を前衛に距離を詰めてくる。遠目にはわからないが李岳軍の別働隊である黄忠、厳顔、魏延ら益荊出身の将たちもいるということは諜報が掴んでいる。その所在を早めに明らかにすることが大事だろうと孫権には思えた。
「黄忠や厳顔が脅威だと思う。冥琳ならどこに配置する?」
砂煙を上げる敵陣に目をこらしたまま周瑜は答えた。
「中に」
「中?」
「私ならあの重装歩兵の中に潜ませます」
思いつきもしなかった。孫権は再び目を凝らしたがよくわからない。
「あくまで私ならであって、正解は別の可能性が高いでしょう。敵にも様々な選択肢があるということです。それをご理解くださればよい。さしづめ敵の進軍を阻まねばなりませんが、それよりも考えなければならない大事なことがあります」
「なに?」
「なぜこの機に攻め寄せてきたか……」
周瑜は眼鏡の奥で眉根を寄せた。
「張勲は馬鹿ではない。こちらの戦力を理解している。そして決して袁術を危険な目に遭わせようともしない。つまり……」
「つまり、必勝の策がある?」
周瑜が困ったように微笑んだ。
「そうであれば困りますね。いずれにしろ我々が把握していない情報を奴らが掴んでいる可能性があるということ、攻めるべき理由があるということ、それを念頭に置いて行動していく必要があるということです」
孫権はあらためて思う。戦は難解だ。だからこそ家族とも言える皆がいて良かったと。自分一人で全て理解する必要はない。理解できる者の意見に耳を傾ければ良いのだ。
孫権は、それでも戦場の機微すべてを理解しようと貪欲に戦場を眺め続けた。
思ったより袁術軍は手強かった。固く堅実で、重装歩兵の壁を突破できない。さらに黄忠率いる李岳軍別働隊の動きも巧妙極まった。事前の情報では袁術軍の単なる側面援護を担う部隊だろうと思われたが、どうやら知恵者がいるらしい。黄忠、厳顔、魏延の三者は絶妙な連携を見せた。騎馬隊はほとんど引き連れていないはずが、なかなかに層が厚い。
それでも周瑜の采配にはまだ余裕があったように孫権には見えた。引き、さばき、時に押す。被害を最小限に抑えながら気づいた時には形勢有利になっていた。袁術軍に奇策があろうとも、それは不発に収まるように思えた。
――その時までは。
最初に気づいたのは孫権だった。
「冥琳、あれは何かしら」
忙しい時に何だとは思ったろうが、周瑜はおくびにも出さずに孫権の声に耳を傾けた。孫権が指さしたのは袁術軍と対峙している西ではなく、曹操と李岳が激突しているはずの北であった。
孫権の目には砂塵が見えたのだ。数は多くない。最初に思い浮かんだのは曹操軍の援護部隊ではないかという考えだった。当然、こちらが袁術軍と衝突した時点で伝令は走らせている。李岳軍を打ち破ったわけではないだろうが、一段落したところで手勢を送ってきてくれたのではないのかと。
「蓮華様、
「え?」
「早く! ぐずぐずするな! 明命!」
腰に結えていた鞭・白虎九尾を地に叩きつけて周瑜は叫ぶ。ただちに飛んできた周泰が孫権の轡を取って走り出す。敵襲なのだと孫権はその時初めて気づいた。初めて聞く周瑜の怒声。それまでの采配とは異なり、余裕などどこにもない。
数瞬後、張遼だ、という叫びが孫権の耳朶を叩いた。
張遼! 孫策の命を奪った張遼が、奇襲をかけてきた。途端に顔面を張り飛ばされたような衝撃で全軍が揺らいだ。振り返った孫権の目に、血飛沫とともに吹き飛ぶ友軍の姿が見えた。
孫権は己だけが逃げ延びようとしている現実を急に恥じ、手綱を引いた。
「明命! 待て! 総大将が逃げてどうする、私も戦うぞ!」
「ここはお引きを!」
「明命!」
「お願いします!」
「姉上の仇がいるのだぞ!」
「だからです!」
周泰の叫びは孫権のそれを上回った。
「蓮華様にもしものことがあったら、私たちは!? 孫呉のみんなはどうするんですか!? ここは冥琳様を、みんなを信じてください!」
孫権はうなだれ、周泰の差配に全てを任せた。他に選ぶ道はなかった。孫策と残してきた孫尚香、そして母である孫堅の顔がちらついてしまった。
この機会を待っていたのだろう、袁術軍が怒涛の勢いで押し寄せてきた。周瑜の危惧した秘策とはこれだったのだ。逃げながら、孫権は緊張感のなかった己の不出来と、みすみす張遼をこちらに向かわせた曹操を口汚く罵り続けた。
たった五十の手勢に囲まれて、孫権は夜まで走り続けその命を長らえる。孫権は最後まで信じなかったが、押し寄せた張遼の手勢は精々三千程度だったという。しかし防備の隙をついた攻撃は見事に貫通し、孫権軍を南北に一挙に両断した。
周瑜が咄嗟の機転で影武者を仕立て、孫の牙門旗と共に孫権とは別の方角に走らせていたがゆえ、張遼はそちらに殺到した。そうでなければ孫権の命はなかったろう。名もなき影武者は討ち取られ、奪った旗を肩に羽織って張遼は悠々と帰還したという。
主だった将たちはみな無事だったことがせめてもの救いだった。しかし幸いといえるのはその一点のみ。信じられないことに被害はたった二刻のうちに八千にも及んでいた。
孫権の体には、未だ傷ひとつない。
陳寿、張遼伝に曰く――遼、騎兵三千をもって孫軍十万を破る。古来よりの用兵でこれ程のものは未だかつてなし。
李岳軍一歩リードで初戦が終わりました。