真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十六話 出奔

 李岳の宣言と同時に、剣を突きつけられていた子はその戒めから解き放たれ、途端わっと何人もの女たちが駆け寄っては涙をこらえることもせずに代わる代わる抱きしめた。安堵の息は岳と呂布からもこぼれた。呼廚泉の部下たちが暴動を起こさないように卒羅宇や香留靼が武器を押収し縛につけていったが、匈奴随一の戦士と言われた呼廚泉が討ち取られるとは露にも思っていなかったあまりに呆然としたままほとんど抵抗すらなかった。

 だが厄介なまでに騒いだのは呼廚泉麾下ではなく、卒羅宇の部族の者たちだった。

 上位に位置する中央から派遣されたとはいえ、我が集落を侮った上に幼い子供を人質に取り、あまつさえ漢人とはいえ友を弄んではその誇りを踏みにじった呼廚泉……同情の声は一つもなかった。

 まず人々は幼きみなし子を守るために衆寡の不利を恐れず戦った呂布を讃え、その後彼女の危機に現れるや一対一の正式な決闘を見事打ち勝ち部族の誇りを守りぬいた少年を讃えた。子供を守るのは女の務めだ、恐れず立ち向かったお前は女の鏡だと、呂布に肩入れしていた部族の女は代わる代わる少女を抱きしめ、塩山の掘り出しにおいて李岳の存在は知ってはいてもその小柄と大人しい性格からいくらか侮り、あるいは怪訝に思っていた男の戦士たちも、一目李岳を拝みどうかその手に触れたいと押し寄せてきた。

 やがて、少年があの幼い時分に鮮卑の攻撃より守った軍神『李岳』であるということが広まると、騒ぎはその派手さをいよいよ増して、二人を祭り上げるかのような方向へと流れていった。卒羅宇を筆頭に集落の主だった者たちが叱りつけ、集を解散させるまでとうとう半刻を用いなければならなかった。

 ようやく静けさの収まった夜の草原の中、李岳は卒羅宇に暇を告げようと月下、相対していた。別れの時が来たことを二人とも察していた。

「……よく打ち勝った」

「危ういところでした」

 岳は腕を抑えながら言った。無傷の勝利などではない、正面から生半ではない攻撃を何度も受けている。体の節々が軋み、いくつもの傷で服は赤く滲んでもいる。

 新たな相棒となった天狼剣、付いた血を拭いながら、あるいはこの武器でなければ正面から得物ごと押し切られていたかも知れないと思うと、岳は興奮の冷めた頭でかすかに震えた。

「叔父上、私は今夜にでもこの地を離れなくてはなりません。呼廚泉を討ちました、於夫羅が知るところになればただちに私を殺すでしょう」

「すまぬ……」

「おやめください」

 頭を下げた卒羅宇を岳は押しとどめた。

「あの娘がいたぶられる様を止めれなんだ。恥ずかしい話だ」

「……いえ」

 五人に取り囲まれ、足蹴にされている呂布の姿がまたもや脳裏に思い浮かび、静まったはずの怒りが再び噴出しかけた。汚辱は雪ぎ、敵も討った。平静になれと自らに言い聞かせた――大事なのはここからなのだ、ここから全てが始まる。

「呼廚泉が死んだことにより、進発の日取りは早まるでしょうか」

「いや、二十万だ。総力を挙げてのものとなる。急げと言われてそう簡単に急げるものでもない」

 総力――河北に侵入し攻撃することになれば今まで形の上では漢に服属してたこと全てを擲つことになる。つまり後戻りするつもりは一切無く、徹底的に戦い続けるということだ。退路を失った二十万の匈奴兵――果たしてどれほど甚大な被害が双方に及ぶのだろうか。岳はおおまかな概算ですら描けなかった。一体どれほどの人が死ぬ。親を失う。子を失う。愛を失う――

「どうすればとめられますか」

「……李信達よ」

「どうすれば匈奴を止めることが出来るか、その方策をお聞きしました」

 困惑したように沈黙する卒羅宇。その沈黙が解かれるのを待つことなく岳は言葉を重ねた。

「叔父上は此度の出兵に賛成なのですか」

「まさか! 多くの若者が仕事を離れ殺し合いに出向くなど、そのような余裕どこにもない。続く出兵で誰も彼もが疲弊しているのだ。匈奴のどの部落も限界を迎えている。去年は豊作だったからよかったものの持たない部族も出ている。その上漢を倒すなどと、なんという浅はかな夢物語か!」

 苦渋の表情で卒羅宇は呻いて続ける。

「この動乱、失敗すれば本格的な匈奴征伐の狼煙となるやもしれぬ。漢軍は黄巾の乱を戦い続け消耗しているとはいえ極めて精強といえる。この前の西涼の乱においても目を見張るものがあった。騎馬で蹂躙すれば勝てる、というのは妄想に過ぎん……このままでは匈奴は滅ぶ……」

「それで良いのですか」

 挑発しているのかと卒羅宇は訝しんだが、岳の瞳は恐ろしい程澄み渡ったような色をしており思わず息を飲んだ。己が知っている少年の面影ではない。一体彼に何が起きたのか――卒羅宇は気圧されたまま首を振って答えた。

「戦場こそ戦士の誉れ。だが躍らされるのは本意ではない」

「匈奴のために単于に叛くこともある、と」

 卒羅宇は答えなかったが、その視線の強さだけで考えは十分に伝わった。

「……仮に、叔父上のような穏健派が反旗を翻した場合、付き従って連動するものはいますか。絶対信頼できるという者です」

「醢落。これは間違いない。最悪わしと二人ででも単于に歯向かう覚悟がある。あとは右大将に左右の大当戸……いずれも老骨だが。わしらが立てば付き従う者もいようが、精々――四万」

「確実ですか」

「うむ」

 卒羅宇はたかが四万不甲斐ないと悔しげに豊かな髭の奥で唇を噛んだが、岳は想像以上に多いとして安堵した。その半分にも及ばぬのではないかと不安であった。

「穏健派が手綱を握るにはいかがすれば」

「……難しい。これがもし例年通り黄巾賊の退治を名目とした出兵であるなら、主だった国人で出兵を抑えこんだであろう。単于を廃すことすら考えていた。漢への不審は根深く、反対意見は少なかったはずだ……が、そこを逆手に取られた。単于の指図が漢の走狗になれ、とあらば不満を糾合してすぐさま討てたのだが……漢を滅ぼすというとどうもな、若く血気盛んな者共がはやっている。一気に難しくなった。だが理解はできるのだ……漢を討つという言葉は……わしでさえ甘美だ」

「なれば、私が匈奴を止めます」

 不遜とも言える、大言壮語とも言えたが卒羅宇は李岳の瞳に宿った勝算、勝利への兆しに近いものを読み取った。

「どうするつもりだ?」

「漢軍を使います。正直なところ於夫羅を討っただけでは心もとない。匈奴軍自体の士気を挫く必要があります。於夫羅はその手段の一つに過ぎません」

「漢軍を引き込むということか? ……動員できるのか」

「これは漢の危機です。伝手もあります。討ち取った呼廚泉の首を持ち込めば信憑性はあるでしょう、名の通った武人ですから――それに、名将李広の子孫ですよ、私は」

「その名を……」

「やります。やらなければ死ぬだけです。なんだって使って動かします。どっちにしろもう匈奴の地では暮らせない。漢に逃げた所で、そこが荒れてしまえばまた逃げなければいけない。まっぴらですよそんなのは。ここで終わらせます……どこに行っても利用される。だったら手札は自分で使い切るまでです――そして必ず於夫羅を討ち取る」

 卒羅宇の目が開かれたが、それが最後の希望なのだと悟ると李岳に頼る他ない自らの不甲斐なさに怒り、必ずや匈奴を押しとどめなければならないと決意を新たにした。

「それと呼廚泉を討ち取った件ですが、決闘ではなく死を恐れた私が寝首を掻いたということにしてください」

「馬鹿な、あれは男と男の勝負であった。何の瑕疵もない」

「ですがこのままでは叔父上が咎められます。叔父上が咎められて参戦できなければ全てはおしまいです」

 拳を何度も自分の胸に打ちつけながら卒羅宇は悔しがり歯噛みした。

「なんということだ……! 我々の命と誇りを二度にも渡って救ったお前を、臆病者として吹聴せねばならんとは……!」

「……部族のみんなに固く口止めをしてください。呼廚泉が引き連れてきた兵もそのまま帰すことはできません。この部族の兵として生きるのならば命は助ける、ということでいかがでしょう」

「うむ……」

 言うべきことは言った。別れの時が迫っている。

「塩、全部お渡しすることになりますね」

「こんなことになろうとはな」

「もう謝らないでください。呼廚泉がやってきたとき、叔父上があえて私の嫌がる口ぶりでお話しいただき、危機を知らせてくれたからこそまだ生きているのです」

「そなたこそよく気づいた」

「……一つだけお願いが」

「なんでも申せ」

「どうか、父を」

 答えはなく、卒羅宇はただ李岳の体を荒々しく抱擁した。もう言葉はいらず、それだけで全ては通じた。豊かな髭が岳の額にかかりくすぐったい。この人が居たから生きてこられた、と岳は思う。匈奴を憎まずに済んだ、父の弁との友情を終生大事にしてくれるであろう。何としても匈奴の漢への侵入を防がなくては、と岳は卒羅宇の体から離れて決心を新たにした。死なせることはできない。

「そろそろ出立の用意をします」

「武運を祈る」

「……三度目の早馬をお待ちください。それが合図です」

 岳は踵を返して急ぎ集落へと取って返した。気づかぬ内に時も過ぎた。ぼやぼやしているとすぐに夜明けを迎えることになってしまう。そうなる前にとっとと南へ出立しなければならない。急がなくては、急がなくては――李岳は自分が焦るよう、焦るようにと念じながら歩いた。焦燥に胸を焼かれていれば、これから告げなくてはならない別れの痛みもかすかに和らぐのではないかと淡い期待をかけて。

 李岳がいつも荷を下ろしていたゲル――その中、片隅には膝を抱えて座り込んでいる呂布の姿があった。

「大丈夫?」

「ああ。恋は?」

「大丈夫……」

 奇妙な距離が二人の間に横たわってはいつまでも消えぬもののように居座った。達成感などどこにもない、どこか不毛でやるせなく、行き場のない苛立ちを二人は等しくわけあっていた。呂布は戸惑い、李岳は悩んでいた。だがやがて決心したように何度か頷くと、岳は呂布の隣に腰を下ろした。

「さようならを言いに来た」

「……」

「この地を離れる必要がある。ぼやぼやしてたら於夫羅の思うがままになぶり殺しにされる。今夜のうちにここを立つ」

「……引っ越す?」

「ああ」

「どこへ」

「南だ、長城を越えて漢へ向かう」

「恋も」

「だめだ」

 すげなく切り捨てた李岳の目には迷いはなかった。力でどんなに厳しく攻め立てられても、どんなに重いものを持っても揺らぐことのない気持ちが、李岳の言葉ひとつでどうしてこんなにも容易くぐらつくのか恋は理解できなかった。

 呂布は肯んじがたいと、何度も首を振って嫌がった。

「……どうして? 恋も冬至と」

 李岳は呂布を手で制し最後まで言わせなかった。岳の言葉は穏やかだがにわかに呂布を責めており、呂布は岳の言葉の節々全てに過敏であった。

「戦争になる。匈奴と漢の戦争だ。このまま置いておけば、匈奴は無傷で長城を越えて中原を暴れまわることになる。自分たちが息絶えるまで……俺はそれを止めにいくよ……呼廚泉を殺したんだ。於夫羅は生きている限り俺を狙い続けるだろう。同じ事だからね」

「恋も行く、戦える」

「……殺せるか、匈奴の人を」

 不意に息が詰まった。自分に牙を向いた野盗を打ち殺したことはある。戦争、ということを具体的に考えたことのなかった恋にとって、それは予想外の気味悪さを伴った問いだった。

 塩山の隣にいた巫山戯ているけど愉快な男たち、嫌がっても嫌がっても嬉しそうに針仕事を押し付けてくる女たち、いたいけな瞳の子供たち――

 呂布ははっとして李岳の顔をみた。李岳の目に涙はなかった。悲しいまでに透徹し何かを強く心に決めたような意志の強さを感じる。だがその強さは、きっと何かを諦めた代償に得たものでしかないのだ。

 唐突に呂布は己を責め、苛立ちに頭をかきむしりたくなった。自分がもっと強ければ――誰よりも強ければ!

「恋はここに馴染めるよ、みんな君を好きになってくれる。家族になってくれる」

 呂布はとうとう耳を手で塞いだ、何も聞きたくはなかった。この李岳は偽物だと呂布は思い込もうとした。二人の間を裂こうとしているそっくりな男が現れた、嘘ばかり並べ立てて、李岳をわけのわからない世界へたった独りのまま放り出そうとしている。

「……恋が戦争に出向く必要はない。幸い、恋の名前は於夫羅の耳には届いていない。匈奴の村に隠れ住むことならできる。男たちは戦に向かうが、女子供は集落を安全なところまで移動させる。もし……もし匈奴が漢軍を打ち破って中原に流れ込んだ時は、いいね、俺は死んだものと思って常山の黒山賊を頼るんだ。そこの頭目の張燕に俺の名前を出せば」

「聞きたくない!」

「聞くんだ」

「やだ、聞かない……恋はついていく」

 突き放さなくてはならない、情にほだされて戦地に連れ込むことなどできるわけがない。岳は天を仰ぎ意を決した。全てを失って匈奴の地を去ることになる、父も、友も、仕事も――恋も。これから育むはずだった淡い夢さえ捨てさって、あれほど避けて通りたかった戦乱の中心に飛び込むことになる。父、弁の言葉があるから怖気づくことはないが、ただ寂しい。なにより、この娘とこんな形で別れなければならないのが、何より寂しいと思った。

 ただその寂しさに引きずられて、この子を戦の荒波に放り出すことが果たして正しいのかどうか――岳は揺るぎがたい確信を持って言った。

「君のせいだ」

「……え」

「恋、なぜ待ってなかったんだ」

「……」

「俺は待ってろと言ったろう。面倒なことになるかも知れないと思って……おかげで呼廚泉を斬ることになった……もうこれで匈奴の地にはいられない。君のせいだ」

 呂布は押し黙り膝に顔を埋めた。なんと言い返していいかわからず、これ以上李岳の言葉を聞いていたくない。耳まで塞いでしまいたくなった。

「……それに、付き纏われるのはもううんざりだ」

 岳は思った、この口から言葉ではなく、血が吐かれた方がどれだけ楽だろう。どれほど喉が裂けようと切られようと、きっとこれほどの痛みを覚えることはあるまい。いや、もう全身から血が吹き出して憤死してしまった方が心も休まるに違いない。呂布は決して泣かないが、その顔には容易く泣くことすら出来ない悲しみがはっきりと浮かんでいた。彼女を傷つけてまで英雄ぶりたいのか、というぐらつきが表出する前に岳は立ち上がり言い切った。

「元々俺達は一人と一人だった。それに戻るだけだ。さようなら、恋。達者で」

 岳は立ち上がり出口へ向かった。呂布の手が怯えたようにわずかに伸ばされたが、それにも気づかない振りをして岳は出た。目に涙はなかったが背中が冷たい。素寒貧になった、と思った。これが孤独の味か、と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 岳はゲルを出ると物陰で立ち止まり、後ろを振り返りもせずに言った。

「そこにいますね、趙雲殿」

「おっと……バレていたか」

「月に映ってましたよ」

「うむ、これはしまった」

 背後の月明かりに照らしだされて、槍を携えた趙雲の姿は見事な影絵となって天幕の内側に浮かび上がっていたのを岳は見逃さなかった。

 悪びれもせず現れると、趙雲はつまらなさそうに口を尖らせて李岳を詰る。

「愛しきものの危機を救い敵を討ち果たした。さてこの後は愛の言葉を囁き睦み合いの一つや二つ交わすのではと心躍らせていたというのに」

「そんなことはしませんし、そんな暇もありません」

「呂布殿は期待したのではないかな?」

 馬鹿なことを、と岳は張り合いすら見せずに首を振ったので趙雲は手を上げて降参した。

「全くもってつまらん……とはいえ素晴らしい戦いであった。今立ち会えば私は遅れを取るやもしれんな」

 これは嘘偽りのない言葉だ、と訴えかけるように趙雲は真っ直ぐに岳の瞳を見据えたが、李岳はそんな言葉は本気にしないと肩をすくめる。

「『常山の趙子龍』がその槍を握っていたならば、ものの数秒で片付けていたでしょう。大体呼廚泉は油断していた、そこを何とか突いたまでです。生死の狭間でよろめいていた私ごときとは雲泥の差でしょう」

「さあ、どうかな。最後の手首を飛ばした一撃、鳥肌の立つ技だった。私を相手にしたときはついぞ見せなかったな。李岳殿、やはり猫をかぶっておったな――この嘘つきめ」

 岳は苦笑して歩を進めた。趙雲もわずかに後ろを付かず離れず付いてくる。

「趙雲殿こそ約束を破られましたね。待って欲しいと言ったのに果し合いを見ていた」

「別に約束はしていない。李岳殿が一方的に言い放っただけであろう」

「なんとでも言えるものですね」

「いいや、そなたには負けるとも……呂布殿にもしれっと嘘をついて」

「嘘? どこが嘘だと言うのです」

「――元より呼廚泉は始末する心づもりだったではないか」

 李岳は一度歩みを止め、空に浮かぶ爪の先のような三日月に目を細めたあと再び歩き出した。その微かな間を趙雲は肯定と受け取った。

 漢の軍兵を動員するにはそれ相応の証拠がいる。音に聞こえし呼廚泉の首となればお墨付きもいいところである。先程この集落に戻る前、李岳は確かに白龍を駆る趙雲に向かって言ったのだ――何かしら土産を持って漢に下り、并州刺史に兵の動員を促す、と。

「それでよく呂布殿のせいにできたものだ」

「言い訳はしませんよ」

「心にもない言葉ばかり投げつけていたな」

「根が冷たい人間なんですよ。冷酷なんです」

「嬉しかったろう」

「何がですか」

「呂布殿は李岳殿の名誉を守るために戦っていたのだと聞いて」

「……」

「そして李岳殿もまた、呂布殿の誇りを守るためにあんな場所で呼廚泉を斬った。心が冷たい? ならば見捨てていたはずだ。騒ぎの後、寝首をかくなり何なりどうとでもできたはずだ」

「……この話は、恋にはしないでいただきたい」

「なぜそこまで遠ざけなければならない?」

 集落の外れに至ると、岳はとうとう観念したように趙雲に向き直って言った。趙雲の想像とは違い、その表情は静かで湖面のようであった。今にも泣き出しそうな背中をしていたというのに、人はこのような顔が出来るのかと、その心中を知らぬ内から趙雲は切なさを覚えた。

「私は怯えていました。大きな争いに関わることを、自分に一体何ができるのか、自分ごときが関わって良いのか……平々凡々に生きて死のう、そのことばかり考えていましたよ。塩も金が目当てです。戦乱を避けて平和に生きていくための資金にするつもりでした」

「誰も責めまい」

「ええ。ですが私は匈奴の危機、漢の危機をどうやら見過ごせないようです。父が背中を押してくれました」

 今生の別れを済ませてきた、という李岳の言葉を趙雲は思い出した。

「一度言いましたね。この匈奴の動きは不自然だと……匈奴が漢を攻める、おかしな話だ。二十万もの大軍を動員してまで何をするというのです。洛陽を攻める? 何の意味があるのでしょう。匈奴は常に漢と争う立場にありましたが、決して血を求めるだけの蛮人ではない。飢えや、時に漢の横暴に抗するために矢をつがえることもありました」

「誰かの意図がある、と」

「……今は確信しています。匈奴は餌だ。おそらくきっかけに過ぎないんです。中原を乱して、誰かが漁夫の利を得ようとしている――看過できない」

 切れすぎる才は己さえも切り刻むことがある。趙雲はそれを目の当たりにして胸に鋭い痛みを覚えた。いたずらに才を振りかざすような男であれば他人を傷つけはすれ自らが傷つくようなことはないだろう。だが遥か先を見据えることができるからこそ、自らの役割にもひどく重いものを課してしまう。そして周りの人さえその苦難から庇い、遠ざけ、孤立し、より一層その傷を深めていく。

「趙雲殿、私は出世するでしょう」

 字面にはそぐわない、悲しい表情であった。

「匈奴の侵入を防ぎ、中原を、洛陽を守護したとなれば、すなわち天子を守ったということになります。世俗の注目を浴びる功績です……しかも李広の子孫。あまり想像したくない扱いを受けるでしょうね」

「これ以上のない歓待だろう」

「そして宦官と外戚が蔓延る宮廷政治の道具になる」

 趙雲の目にも映る様だった。官位はどれほどのものになるか、県令、あるいは一足飛びに即応部隊を任される官位に任ぜられる可能性もある。漢のどこでも兵を指揮する者は足りていない、傍目にはよい人材が手に入ったと皆が喝采を挙げるだろうが、蛇蝎の如き権力争いが日夜繰り広げられている洛陽で何の意図もない昇進や喝采がありえるだろうか。李岳の考えをただの杞憂、妄想に過ぎないと笑える人などどこにもいないのである。

「一度登れば降りることの許されない道です。死ぬか、勝ち続ける以外にない。そして笑顔で近づき手を差し伸べてくる者の中には、確実に今回の陰謀に加担した者がいるはずです」

 李岳は再び歩みを進めた。やや遅れて趙雲が続く。既に集落の外れの方まで来ており、眼前には暗澹たる闇が横たわっている。

「……嚢中の錐、そうおっしゃいましたね」

「ああ」

「恋はやはり駆け引きが出来ない。ああして人質を取られればきっとしたくもない汚れ仕事をさせられることもあるでしょう。殺したくもない殺しを」

 呼廚泉の眼前で五人の男にいたぶられる姿が、史実に表れる『呂奉先』の姿に見えた。呂布に生き馬の目を抜く宮廷政治をくぐり抜けることは無理だ。宦官か、董卓か、王允か、あるいは他の誰かか――自分が慣れ親しんだ『三国志』の呂布ももしかすると不遇によって翻弄されたのかも知れない。『恋』を戦争に放り出したくないという思いと同時に、手柄を立てて史実が如き『呂布』にしたくない、と岳は痛切に思った。

(飛ぼう、誰よりも高く、早く飛ぼう。そうすれば呂布が求められることなどない、その汚名も苦難も皆洗いざらい俺が被ってやる――『飛将軍』などという汚名は、俺が冠すればいい)

 李岳の内心を知ってか知らずか、趙雲は岳の独白を覗き込んだように言った。

「李岳殿、貴方は違うとでも?」

「違いますね、嘘つきですから」

 趙雲はなんと返したらよいかわからず沈黙した。

「……暗い顔をしていますか? ……いいえ、いまだけです。私の心は晴れています。思うがままに生きますよ。言い訳はしません。自らの力量で救える人がいるのなら、迷わず救う……匈奴も漢も私の血です。二つの血が流れているが、二色ではない。混ざり合い、融け合っている……分け隔てることのできない不可分のものとして、私の中にあるのです」

「それが、漢について匈奴を討つ理由か?」

「――恨まれるのはわかっています」

 話はこれまで、そろそろ行く、と岳は趙雲に手を上げた。

「いつか、本気のお主と立ち会えるかな?」

「また会えるか、とは素直に言えないんですか?」

「芸がなかろう」

「……その日が来ないことを祈るばかりです」

「張り合いのない男だ……さて、これからのことだが、馬上で話した手はず通りということでよいのかな?」

 趙雲の口元に、悪巧みをしでかす者にしか浮かべることの出来ない意地の悪い笑みが浮かんだ。

「ええ、何卒お願い申し上げます。漢の運命、匈奴の運命、どちらも趙雲殿の双肩にかかっていると言っても過言ではありません」

「ふふふ、期待には必ず応えよう」

 そなたの思うがままに動くとは限らないがな、という言葉はかすかな音で、李岳の耳には届かなかった。趙雲は片手に持った槍を上げて背を向けた。手向けなど無い、生きていればいつかまた会えるだろう、と。

(行ってくれたか。さて、ここからが大変だ)

 趙雲に話すわけにはいかなかったが、李岳は責任感に苛まれそうになるのをやっとのことでこらえていた。李岳はずっと考えていた、この前幽州に行った時の騒動の因果を――李岳が生前より知りたる後漢の歴史と今生きている世界には多くの齟齬や違いがあるが、起こっている歴史的な事件はそう大差ない。『黄巾の乱』に『涼州の乱』……だが張純が画策した乱が起きなかった。自分が関わらなければおそらく起こったであろう戦が起きず、そしていがみ合い殺し合うはずの烏桓と公孫賛の仲を取り持った。匈奴の漢への侵攻は記憶にない。

 李岳は一つの推論を打ち立てていた。『張純の乱』が起きなかったから、この『匈奴の乱』が引き起こされようとしているのではないか、と。いや、さらにそれにとどまらず、この事件の源流は数年前に遡り、鮮卑の侵攻を阻んだ時に戻るのではないか、あのとき匈奴の損害が少なかったからこそいまこの時でも漢へ侵攻する余力があるのではないか……

(俺が蒔いた種だ、きっちり刈り取ってやる。なあ、於夫羅)

 南を目指し李岳は歩き出そうとしたが、その歩みを止める声がかけられた。

「黙って行くつもりかよ」

 李岳の考えを断ち切ったのは趙雲ではなく、あらぬ方向からかかってきたもう一人の声だった。香留靼はいくつかの荷物をぶら下げて物陰から顔を出すと、馬鹿にするなと肩をいからせて笑う。

「誰がお前を恨むっていうんだ? え? 自分を追い詰めるのも程々にしなきゃよ」

「香留靼……」

「ほらよ、土産だ」

 夜の闇で分からなかったが香留靼は一人ではなく、その背後には大きな影が控えており、岳はその正体を察すると驚きで声を上げた。

「黒狐……!」

「連れてけ。右賢王の弟の寝首をかいたやつが馬泥棒をためらうはずがないだろう」

 卒羅宇から粗方のことを聞いているのだろう、香留靼は黒狐を引いて岳に渡した。またどこへ旅に出る、どれだけ遠くへ走らせてくれる――そう言わんばかりに、黒狐は鼻先を岳にくっつけて甘えた。一人と一匹が仲睦まじそうにしているのを見て、やはりこの馬にして良かったと香留靼は満足気にうなずいてから、続いて手に下げていた一抱えよりわずかに小さいくらいの革袋を岳に投げて寄越した。意外と重いその荷の中身を、岳は中を開ける前に察して今度はうんざりした。

「いくらなんでも人の首だぞ……投げるなよ」

 呼廚泉の首であった。確かに必要なものではあるが、餞別のように渡すものではないだろう、香留靼はしてやったとばかりに笑いをこぼした。

「怒るなよ、ほら、他にもあるから」

 腰に結わえていた弓と矢を香留靼は岳に手渡した。それは香留靼が手ずから作り、長年親しんできた弓だった。使い込まれ握りはすり減っており、滑らかな光沢を放っている。

「いいのか」

「持ってけよ。矢はお前の親父さんが鍛えたものだ。あんまり数はないけど……」

「ありがとう」

 やがて二人はしっかりと握手を交わした。間をおかず両の手が重ね合わされ、痛いくらいに握り締められた。そして香留靼はいつものように悪戯っぽくその顔にひねくれた笑顔を浮かべて李岳に言った。

「偏屈たれの混血児が。お前にはさんざ世話を焼かされたぜ。会えなくなって清々する」

「ろくでなしのいい加減の寝坊すけの嘘つきの馬鹿の」

「言い過ぎだろ!」

「……我が蘇武」

 岳がその名を口にした途端、香留靼の目に涙が浮かび、月のあかりにキラキラと光った。そして涙を流すがままに、香留靼は人目もはばからずにむせび泣きをした。

「泣かせんじゃねえよ、年下のくせに……それに、バカやろう、立場が逆だろう。だったら俺が見送られなきゃいかんだろうが。蘇武がお前だ」

「そうだね、けどやっぱり俺が李陵だよ、爺さんの爺さんなんだから」

「そっか、そうだな……我が李陵」

 李陵と蘇武――李岳の先祖であり、匈奴に敗北したがためにこの北端の地で生きることになった李陵には一人の友がいた。蘇武といい、同じく漢の軍人でありながら李陵よりも過酷な立場におかれ、飢え、寒さに震えながらも誇りを失わなかった男であった。二人には行き違いもあったが、終生固い友情で結ばれたという。

 立場も違う、単純に比べるのにも無理がある。それでもこの地で住む上で、李陵と蘇武に例えることは、血肉を分けた兄弟以上の親友であることを表す。あるいは真名で呼び合う以上の意味があるのかもしれない。李陵は匈奴に残り、蘇武は漢へと戻った。匈奴と漢に分け隔てられることになる二人に、些細な異同などどうでもよかった。李陵と蘇武であった。二人は確かに親友だったのだ。

 

 もう、この素晴らしい日々は戻らない。

 別れはすぐ側に。

 分かれ道でまごつきながら、

 その手をとってまたためらう。

 ああ、空を仰げば、浮雲よ。

 たちまちすれ違っては消えていく。

 風にさらわれここから行けば、

 もはや会うことのできない遠い場所に。

 あの雲のように今、別れの時。

 別れを惜しみ、立ち尽くすばかり。

 朝までこのまま、吹く風に任せて見送りにいけたのなら――

 

 岳は、朝日を待たずに旅立った。黒狐は千里を一息に行くかの如く走る。

 長城がもうすぐ見えてくる。それを飛び越えれば千年を優に超える歴史が営まれてきた中華の地である。今とは全く違う世界に飛び込むことになるが、李信達の胸に臆するところは欠片もなかった。必ずや匈奴の侵攻を断念させ、被害を食い止めてみせるのだと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 李岳が香留靼と別れたちょうどその頃、趙雲は真っ直ぐ白龍を迎えたあとに一つのゲルに立ち入った。そこは先程自分が物陰で聞き耳を立てた場所であり、変わりがないのであればまだ中に人がいるはずだったが――当ては正しかった。

「そのままで良いのか?」

 小さな仔犬に慰められるように頬を舐められながらも、身じろぎもせず膝を抱えてうずくまる少女に向けて趙雲は言った。その姿に一度対峙した時の力強さは欠片もない。すがりついている仔犬よりもよほど幼い生き物に見えた。

「あの男のいいなりのままで良いのか?」

 少女の肩がわずかに震える、趙雲は返事を待つこともなく続けた。

「殿方の言い分に従うだけが乙女の生き様ではないぞ……何より、意地を張る男の嘘を鵜呑みにするようでは落第もいいところだ」

「嘘?」

「……私よりよっぽどわかっているだろう。李岳という人が、どういう男か。どういう気持ちで別れを切り出したと思う? ――さあ、立ち上がれ、前を向け。そして走りださなければ、いつまで経ってもあの男との再会はかなうまい」

 呂布はしばらくまたうずくまっていたが、やがて意を決して立ち上がると足元の仔犬を抱き上げて趙雲に向いた。その表情を見て趙雲は頷いた。なに、男が女を守ると思っていることほど質の悪い思い込みもない。我ら乙女の強さを見せつけてやればよいのだ――趙雲は自らの真名を告げ、求めるのならば一緒に来るがいい、と誘った。駆けるのだ、あの三日月のかかる東の山へ!




作中、実在した人物である李陵の詩『與蘇武詩』を意訳し掲載しました。
本人の作ではなく後世の創作ではないかという意見が有力のようですが、どちらにしろいい詩だと思います。個人的には本人作のほうが浪漫があって良いと思います。

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