真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百五十一話 赤く燃えるは壁か怒りか

 俺は世界一運のない男だ――蔡瑁の嘆きはすんでのところで口から漏れ出ることはなかったが、隣にいる張允は妙な気配を感じ取っていた。気を付けろと目線が送られてくる。間違えれば死ぬのだぞ、とばかり。

 気を取り直して蔡瑁は揺れる楼船の上で地理と水路を浮かべる。ここは江陵から東に二十里ほど下った江水上である。荊州水軍の一大拠点である洞庭湖も過ぎ、いよいよ烏林も見えてこようという地点。確かに気を抜けば叱責を受けても仕方のない状況だ。

「どうされましたか蔡瑁殿」

 口には出さなかったというのに心を読んだかのように言葉は飛んできた。蔡瑁はいえ、と首を振って続けた

「いずこから敵が来るともわかりませんので、気を配っているだけでございますれば……」

「なるほど。さすが蔡瑁殿です。恋、我々も見習わないとね」

 少年――李岳の言葉に、凶器と呼ぶ他ない凶々しいまでの戟を担ぎ上げながら、興味なさげにフンと鼻を鳴らす赤髪の乙女――呂布。

 もし何か問題が起きたならば主人の『やれ』の一言でその戟を振り下ろし、二つでも三つでも首を飛ばしてしまうのだろうと思うとぞっと寒気を覚え、蔡瑁は首筋を撫で回した。傍目にはまとわりつく生温い長江の南風が疎ましいとばかりに。

 

 ――荊州の諸将にとって李岳という男は(はなは)だ取り扱いに苦慮する対象であった。荊州諸将の大半は元は地元豪族に連なる者たちだが、荊州の支配者としてやってきた劉表に仕えるようになり異なる秩序に組み込まれるようになった。豪族同士の小競り合いはなりを潜め、劉表という圧倒的な権力の元で競い合うようになったのだ。蔡瑁もまた姻戚関係を利用して地位を確固たるものにしてきた。

 

 それを踏み潰すように破壊したのが、いま蔡瑁の前でニコニコと微笑んでいる少年、李岳である。

 反董卓連合に与し、漢朝に叛意ありと判断した李岳は騎馬隊を率いて南下、荊州軍の陸上部隊をいとも容易く撃ち破り劉表の欺瞞と詐欺を暴いた。

 正義の所在はさておき、武力を背景に乗り込み荊州の権力構造に躊躇いなく手を入れる李岳の存在は明確に疎まれた。しかし圧倒的な力を持つ李岳に抵抗できる者などおらず、指示に従う他なかったのである。

 結果的に劉表は荊州牧の地位を剥奪された上で洛陽に送還、後任には軍権の無い荊州刺史として劉表の長男である劉琦が据えられた。劉表と己の姉との子である――つまり甥の劉琮を担ごうとしていた蔡瑁は目論みを全て打ち砕かれ自他共に権力闘争の敗者と見なされることになった。

 一時は荊州で生きる道はもうないかと一族郎党を引き連れ身を逃すことさえ考えた蔡瑁だったが、意外なことに厚遇ともいえる待遇を受けることになる。罪は劉表のみにあるとしてお咎めなし、そして荊州水軍を率いる第二軍団長として慰留されたのである。監督者として李岳腹心の軍師や参謀があれそれと手を入れてはくるものの、蔡瑁から権限や兵を奪うことはなかった。むしろ蔡瑁の統率を手助けし、組織の効率を図って行った。

 蔡瑁も馬鹿ではない。李岳が荊州軍閥の力を利用して長江流域の安定を図ろうとしているのは十分に理解できた。しかしいつどこで蔡瑁、そして同じ派閥に属する張允の力量を評価し、厚遇しようなどと考えたのか。まるで長年荊州を見てきたかのように、李岳の人材配置は淀みなく実施された。

 結論として、李岳は荊州の頭を押さえつけたもののほとんど現状を温存した。劉表のみを処罰して、ある意味劉表体制以前の荊州に戻してしまったのである。洛陽から目をつけられる負担は増えたものの、総じて暮らしぶりはよくなった。それだけは間違いのないことであった。

 感情の話をするならば、李岳については諸手を挙げて受け入れることはやりにくい経緯があるものの、それほど疎んではいない。しかし底知れぬ恐ろしさを眼前で目にした荊州軍閥諸将にとっては、極限の緊張を強いられる少年、という訳の分からない相手なのだった。

 そして今回の李岳訪荊の話もまた、往時に荊州を強襲したように突如のことであった。毎月定例で送付している軍事についての報告書の返事に、さりげなく李岳自ら視察予定と書かれていたのである。見逃す可能性さえあるような簡素な一文であったほど。

 突然の訪問にすわまたも裁判じみた処断があるのかと戦々恐々としたものの、まるで物見遊山のようにのんびりと襄陽、江陵を見て周るだけ。そして水軍の査察をしたいと言い出し、訓練を兼ねて出動したのが十日前のことである。

 

 

 

 

 

 

 蔡瑁が己の運の無さを嘆いてからちょうど一刻後、それだけはあってくれるなと願っていた事態が発生した。

「前方五里に不審な船団発見!」

 蔡瑁の全身に緊張が走る。目を丸くしている張允と視線が交差した。しかしそれ以上に背中に刺さる李岳の視線が痛い。

「所属を明らかにさせよ! 偵察部隊はただちに出撃!」

 楼船の周囲にいた小型快速船の走舸が慌てて下流へと降っていく。李岳、蔡瑁らが乗船する楼船を含む主船団は(いかり)を下ろして留まった。ここまでは通常の索敵時の戦闘行動である。荊州船団は蔡瑁の目から見ても十分訓練通りに動けていた。

 問題は兵ではなく指揮官、つまり統率する将である蔡瑁にあった。烏林は未だ夏口の西側にある。つまり十分荊州の領域内である。その地点に不審な船団が頻繁に出入りしているとなれば沽券に関わるだけでなく、防衛管理の視野が欠如しているとして能力を疑われてしまう。それだけでなく洛陽に送付している詳報には事実通りここしばらく異常なしとしているのだ。その真偽を疑われることだけは絶対にあってはならない。

「李岳将軍閣下、ただいま不審な船団の詳細を確認しておりますので……」

 蔡瑁はその簡単な報告をするだけで大汗をかいた。李岳の横に控える呂布が戟を握りしめたまま針で刺すような殺気を放っているからだ。主人である李岳を守ろうと臨戦態勢になっている。蔡瑁は尻もちをつかなかった己を全力で自画自賛した。

「兵も機敏に動いているようで何よりです」

「ここしばらくは何事もなかったのですが……長江流域には未だ賊もおり、時には山越の者たちが徒党を組んで押しかけてくることもありまして……」

「孫権が指揮する揚州の水上部隊という可能性はないのですか?」

 棒で喉を一突きされたように蔡瑁はむせた。懸念を述べるべきか、それはないと断じて安心させるべきか。瞬時の懊悩の後、蔡瑁は震える声で答えた。

「……ありえます。荊州水軍の最大の難敵は揚州孫権軍です。大部隊が動員されているという情報は得ていませんが、南荊への偵察に小部隊を派遣している可能性はございます」

「……そういうこともありましょう。私は水上戦に詳しくはありません。都督の判断で船団指揮を継続してください」

「はっ!」

 この半刻後、蔡瑁は己の判断に最大の賛辞を送ることになる。発見された船団はまさに孫権軍の小部隊であったことが明らかになるのだ。

「蔡瑁都督の推察通りですね」

「恐れ入ります……ですがみすみす侵入を許してもいますので……」

「全ての船を排除することなど出来ないでしょう。こうして発見できたことこそ成果です」

 己よりも相当に年若の少年の言葉だというのに、蔡瑁の胸には満足感と自尊心が満ち満ちた。この少年の下で働くことに誇りを感じ始める己に驚いてもいた。

「さて、どう対応されますか?」

「小型の蒙衝船ばかりが二十艘程度のようです。こちらの半数にも満たない船団に過ぎませんので、こちらが押し出せば引いていくでしょう」

「所詮威力偵察に過ぎませんか……」

 しばし考えてから李岳は言った。

「基本的にはそれで構いません。ただし可能であれば一当てして頂きたい。彼我の実力を見聞する良い機会です」

 蔡瑁は頷き指示を出し始めた。殲滅せよ、と言われればどうしたものかと思ったところだったが、一当てせよというだけであればやりようはある。

 船団が蔡瑁の指示に従い陣容へ変形させ、船速を上げていく。蒙衝は軽量で小回りも効くが、櫂の数はこちらが多い。接触までの距離が長ければ楼船でも十分に対抗できる。その上こちらは川上だった。

 荊州船団は幾度となく行ってきた訓練の通り、じくざぐの楔形に並んで鶴翼に陣形を広げた。横一列に並べるよりも船を前後に置いた方が防御力が高い。陣形が乱れて混戦になった際、全周囲から矢を放つことができるからだった。さらに蒙衝の突撃を受けたとしても楼船に乗り込まれる前に後続の援護も期待できる。

 孫権軍もこちらの陣形に警戒し、川下に向かって後退し始めた。しかし距離は狭まりつつある。両軍の距離がじわりと接近し、緊張が頂点に至ったその瞬間、蔡瑁は射撃の指示を下した。 

「放て!」

 直後、飛蝗の如き矢の群れが船から飛び立った。孫権軍の船団に殺到した矢は、そのほとんどが木盾に阻まれていく。矢の目的は敵の殺傷と同時に接近の妨害も含んでいる。切り返した蒙衝船の機敏さは侮れない。それが孫権軍であればなおさらだ。

「矢の命中率は良いようですね」

「はっ。楼船主体で船団を構築しているがゆえです」

「といいますと?」

「小型船は揺れに弱く、矢の照準が定まりません。安定した楼船だからこそ矢が活きるのです」

「なるほど?」

 面白そうな笑みを浮かべた李岳だったが、次の瞬間には立ち上がり腰に結わえていた自前の弓を取り出していた。

「何を」

 蔡瑁が言葉を継ぐ暇もなく、李岳は楼船の舳先に立つと矢を射った。空がかき曇るほどの無数の矢が飛んでいる中、その一本だけはなぜか明確に視認できた。おそらく狙い通りだったのだろう、もっとも手近の蒙衝にその矢は突き立った。

 蔡瑁は素直に感嘆した。安定しているとはいえ水上の射撃には訓練を要する。匈奴出身と聞いたことはあるが、馬上射撃の応用が効いたのだろうか。

「なるほど、確かにこれ以上揺れるようであれば難しいでしょうね。せっかくだ、恋もやってみたら?」

「ん」

 続いて呂布が矢を射るようだったが、ひと目見て常人では引くことも出来ない強弓を取り出すものだから蔡瑁も張允も後ずさりした。細腕であるというのに、少女は音を立ててその強弓を引き絞り、解き放った。山なりに飛ぶ矢の中で、それはまさに隼のように一直線に突き進み、蒙衝の木盾を貫通、破壊した。

 楼船中にどよめきが起こる。それは敵も同じだったようで、慌てたように船速を上げると見る間に射程距離から外れ、さらに留まることなく下流へと向かっていった。

 逃走と見て間違いないだろう。

「さすが呂布殿……一矢で敵を撤退せしめるとは」

 蔡瑁の口から漏れ出たのは嘘偽りのない本音だった。狙い通りに標的に当てた李岳も見事だったが、それを上回る呂布の射撃は当代随一といって差し支えない。

 乙女のように――実際乙女ではあるが――照れた様子でうつむく呂布を李岳が謙遜する。

「そのような。たまたまが重なったに過ぎないでしょう。所詮一本の矢です。それより荊州水軍の力量がなした戦果でしょう」

「で、ありましょうか」

「それよりも、追撃はされないのですか?」

「つ、追撃ですか……」

 蔡瑁は張允の目を見てまごついた。追撃しなければ叱責を受ける状況なのだろうか?

「都督殿。先程も申し上げましたが私は水上戦については素人です。知見なき質問を投げているかもしれませんが、間違っている時は気兼ねなく間違っているとお答えください。妙な忖度をされて私の言葉通りに軍を動かす必要はないのです」

「は、ははっ」

 李岳の目はまっすぐ蔡瑁を見ている。騙し討ちや他人を言葉で引っかけようとうする意図は見えなかった。

「……そ、それではお答えします。水上戦においてもっとも困難なことは正逆反対に進行方向を切り替えることです。船はその場で反転することが出来ません。必ず舵を切って弧を描く必要があります。その際、船団全体が陣形を乱し隙となります。下流に攻め込むこと自体は優位性を活かす行為ですが、撤退する時には上流に反転するという難点もあるのです。またこちらの楼船は図体が大きく、敵の蒙衝船は小回りが利きまして……」

「なるほど。無理な追撃を行い罠にはまれば機動力の弱いこちらが不利、ということですね」

「ご理解痛み入ります」

 李岳はいやいや、と(びん)のあたりをかきながら苦笑する。

「ついつい馬上の戦いで考えてしまいます。悪い癖ですね。水には水の戦い方がある。勉強になります」

「そのような……」

「指揮はお任せします。良きに計らってください」

 蔡瑁はしばらく碇泊し、再び偵察用の走舸と今度は陸上からも部隊を派した。撤退したと思わせ、船を捨てて陸上から奇襲する手法は賊もよく使う手である。二刻ほど時間を使い偵察を実施した後、脅威は去ったとして蔡瑁は撤退を進言、李岳も了承した。

 その後は遡上する形で襄陽を目指す進路を取った。夜間進軍の訓練も兼ねての強行軍となったが、呂布はもちろん李岳にも疲労の色はない。蔡瑁も張允も彼らが実戦で鳴らした歴戦の驍将であることを再度確認することになった。

 そうしてほとんどの日程を消化し、襄陽まで残り一日という地点での夜のことであった。蔡瑁と張允は李岳から呼び出しを受け、楼船の一室に招かれた。李岳の傍らには呂布がいる。

 開口一番、李岳は胡床に座したまま一巻の書簡を開いて見せた。

「蔡瑁殿、張允殿。私の手の者がこのような文を手に入れました」

 李岳が笑顔のままで言うものだから、蔡瑁は何の気構えもなくその文を目で追ってしまった。内容は端的に内通の書簡であった。李岳に対する不満、現在の荊州に対する批判、現状では己の力と才覚を存分に活かすことが出来ない、できるなら船団を率いて孫呉の隊伍に加えて頂きたい。差出人は蔡瑁と張允の連名である。

 蔡瑁は目を疑い、臓腑を吐き出しそうになった。

「虚偽です! そ、そのような! 我々は車騎将軍閣下に反旗を翻すつもりなど、ございません!」

「……弁解があるというなら聞きましょう」

 蔡瑁は李岳が劉表を詰問したあの場面を思い出した。このままでは同じ運命を……いや、より悲惨で容赦のない結末を迎えてしまうだろう。劉表との違いがあるとすればただ一つ、本当に思い当たる節さえないのだ!

 蔡瑁は突如己が死刑台の目の前に立っていること、そしてこれが挽回の最後の機会なのだと自覚した。蔡瑁は己に言い聞かせた。間違えるな! 一つでも誤れば命はない。目の前の少年の恐ろしさを決して見誤るな!

「そ、それは敵の策略なのです! どうかお疑いにならないでください!」

「ここには私への恨みがあると記されています。張允殿、あなたは劉表殿の甥にあたります。叔父への処遇は許せない、とここには書かれていますが」

「誤解です! た、確かに……確かに最初は境遇を恨みもしました! ですが将軍閣下は叔父上の命を奪われはしませんでした! 劉琮も洛陽で元気にしていると聞き及んでおります! 将軍閣下に感謝こそすれ、恨むことなどありません!」

「蔡瑁都督はいかがですか」

「私も同様、いえそれ以上です! 初め劉表一派として処罰されることを覚悟してもいましたが、今はこうして取り立てて頂けているのですから。洛陽からの監督も至極適正で、無闇なことは全くなく、公平に扱われていると日頃より皆で幸運を喜んでいるところでございます!」

「ですが私を討ち、呉に降ればよりよい待遇があるとなれば?」

 蔡瑁と張允は兜を脱ぎ捨て、ほとんど同時に平伏した。

「まさかでございます! 天下の大半を安んじられ、あの袁紹でさえ一息に叩き潰した李岳将軍に楯突いてまで呉に降る理由がどこにあるというのですか! それに我々がそのようなことをすれば、洛陽の劉表殿や劉琮の立場はありません!」

「呉に降ったとて、今以上の待遇がありましょうか! それに残した親族が皆が悲惨な憂き目に遭うことは必定! どうしてこの地を去れましょう!」

「なるほど。わかりました。終わりにしましょう」

「り、李岳将軍!」

「ですから、終わり、と申しました。それは無用な審議はこれで終わりという意味です。この書簡は処分します」

 蔡瑁と張允は顔を見合わせた。本当に言い分を信じてもらえたのか? 謀反の詮議がこれほどあっさりと終わってしまうのだろうか。相手はあの李岳なのだ。劉焉、劉虞、劉岱、劉遙……逆らう者たちは宗室であろうと皆殺しにしてきた男なのだ。荊州の豪族如き羽虫を潰すように殺せるはず。

 李岳は二人の疑念を払うように続けた。

「ご心配なさらずとも信じますよ。お二人の言い分はもっともです。十分説得力を持つ言葉を信じず、このような出処の怪しい書簡に頼る理由がどこにあるでしょうか? 呉の者たちはよほど蔡瑁都督、張允殿が目障りのようだ。計略を以って私にお二人を排除させようとしたのでしょう。敵に疎まれるは将の勲章。私はお二人への信頼を一層厚くしました」

「り、李岳将軍……!」

「車騎将軍!」

「鋭意練兵に励んでください。お二人の指揮に私はなんの不安もありません」

 翌日、襄陽に到着したその夜は蔡瑁らの希望でささやかな酒宴が開かれた。李岳を慰労するという名目であったが、二人の精一杯の感謝と忠誠心の表現であることはその歓待ぶりから李岳にも十分伝わった。李岳が無用な奢侈を嫌うと聞き及んでいたこともあり、地元の腕利きの料理人に命じて派手でなくとも味の確かな名物料理を山ほど用意した次第である。

 魚蒸し、揚げ物、酒に南方の果物――結果としては呂布を含めて李岳に随伴してやってきた諸将全員に大好評であった。

 宴も過ぎ、酔い覚ましの茶を飲み始めた頃である。李岳は蔡瑁と張允に向かって言った。

「決して敵に打ち勝とうとしてはなりません」

 蔡瑁が怪訝な表情で言葉を返す。

「……負けるな、ということですか」

「いえ。負けても困りますが、それよりも勝つな、ということです。勝つくらいなら負ける方が良い」

「……正直なところ、要領が得ませぬ」

「軍を率いる将にこのような指示を出すのは私も不本意ですが、我が軍の主力はあくまで陸戦部隊。水上部隊は助攻、または補助なのです。もしここで敵戦力を撃ち破れば、戦線は長江流域に広く拡大することになります。そうなればより多くの兵力、資源を投入しなくてはなりません」

 なるほど、という蔡瑁に李岳は続けた。

「水上部隊は左手に持った盾とお考えください。陸戦部隊が右手の剣です。それを持ち変えるつもりは私にはありません」

「承知いたしました」

「誤解なきよう後ほど文書で残しますが、局地戦で敗れて戦線を後退させてたとしても、処罰されることは絶対にありません。むしろ功を焦って攻め込んだ時こそ、軍全体を危険にさらす愚行として厳罰を与えられることになるでしょう」

「肝に銘じます」

「船は失ってもまた作れます。兵を惜しみ、撤退をためらわないこと。よろしくお願いします」

 さぁ、と促す李岳に釣られて蔡瑁は次々と杯を重ねた。李岳も同じ数だけ干したはずだが酒には強いらしい、乱れた様子はほとんど見られなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その翌日である。李岳は襄陽の酒家で遅い朝食を取っていた。店内に客は一人もおらず李岳のみ。蒸した魚と汁物を存分に楽しんでいたところ、もう一つ人影が現れ席も空いているというのにわざわざ李岳の向かいに腰を下ろした。

 李岳はチラリと目を向けただけで再び目線を魚に落とした。傍から見れば骨を取るのに難儀しているという様子でしかない。

「余計な手間をかけさせてくれますね、魯粛殿」

「はて?」

 その人は孫権軍参謀の魯粛であった。いつか会った頃と同じように衣を着崩し髪もはねている。だらしのない風体といって差し支えないが、揚州では周瑜に次ぐ第二位の地位を占めている。

 李岳は魚の解体を続けながら言った。

「書簡のことです。うまい仕込みですが白々しい。見抜くのは難しくありません」

「あちゃちゃ、手厳しい。快心の出来を自負しとりましたが?」

「蔡瑁も張允も手綱はしっかりと握っています。寝返りを匂わせたところで意味はありませんよ」

「まぁ小さな仕返しというものです。お怒りにならないで。洛陽まで宴席にやって来いなどとご無理をおっしゃるものだからつい。当たるも八卦当たらぬも八卦、という程度の気持ちで仕込んだ策ですので」

 魯粛は悪びれもせずに舌を出した。

 実のところ、李岳も蔡瑁らが裏切る確率について半信半疑と考えていた。彼らを信じると決めたのは道中の感想、荊州での調査結果、そして己の知識を総合しての判断だった。

 

 ――三国演義において、劉備を追い出し荊州を取り込んだ曹操は水軍を揃えて揚州との対決に備えることになる。曹操軍の水軍を指揮するは蔡瑁であるが、呉の計略により曹操は蔡瑁の離反を疑い処断してしまう場面がある。

 

 まさか全く似た手段を取ってくるとは思わなかったが、その知識は偶然とは言え李岳を助けた。水軍の指揮は独特の感覚と訓練が必要である。李岳にとって蔡瑁は不可欠の人材だった。

 魯粛は悪びれもせずに頭をかいた。

「まぁまぁ、こちらは人手が足りない中で頑張っているのですから、この程度の悪戯はお目こぼししてくださいな」

「よくいう」

「本当ですよ。目も回らんのです」

「呂蒙殿に陸遜殿、ですか」

 今度は李岳が仕掛ける番だった。

 孫権軍の主力は今は徐州方面に展開されている。それを指揮するのは孫権、周瑜らの古参の将軍たちであるが、荊州方面は若手の将らが任されることになった、というのは永家の調べであった。

 魯粛は引き続きふざけた様子だったが、一瞬だけ張り詰めた空気が流れたことを李岳は見逃さなかった。

「……よくお調べですな、将軍?」

「長江に現れた偵察部隊はどちらの仕掛けですか?」

「呂蒙ですな。ええまぁ、何のひねりもない攻撃でつまらんかったでございましょう。もうひと工夫あればもっとお楽しみ頂けたというのに、若いものはこれだからなっちゃない」

「とはいえ水軍を任せるに値する有望な方なのでしょう」

「こういっちゃなんですが呂蒙は書物もろくに読めんので阿蒙などと言われておりますし、陸遜にいたっては家門の後押しで将に推挙された程度の者。面倒見る側としては困ったものです」

「土豪の結束で成り立っている呉、ならではの気苦労ですね」

「いやはや全く」

 よくもまぁ、と李岳は内心舌を巻いた。

 呂蒙、陸遜ともに史実では呉を代表する名将である。白々しいにも程があった。わざわざ魯粛自身がやってきたのは李岳に二将の誤解を与えるためであろうか。

 

 ――史実を見ても、創作も含まれているとはいえ演義を見ても、油断を誘い、偽装工作で罠を張るのは呉のお家芸と言える。侮りを誘発して奇襲を企てるのだ。事実、その手法で袁術を追い出し揚州を伐り取った。

 

 恐るべきしたたかさではある。だが同時にそれは呉に付け入る一つの隙だと李岳は考えた。

「提案があるのですが」

「なんでしょう、将軍?」

「和議を結びませんか」

「……具体的には?」

「孫権殿を長江流域の主として認める」

「ふざけてらっしゃる?」

 李岳は汁物に口をつけながら答えた。

「至極、真面目です」

「具体的な条件があるのならお聞かせ願いたいが?」

「条件はただ一つ。曹操の身柄をこちらに引き渡すことです」

 魯粛の緊張が痛いほど伝わってきた。

「曹操を渡せば領土を安堵すると? それで降るとお思いですか?」

「思わない。孫権殿は誇り高き方、支える周瑜殿もそう。そして私は姉君の仇だ。降るなど普通では考えられないでしょう」

「ではなぜこのようなご提案を?」

「先ほどの私の提案には一つ抜けがあった。付け足して孫権殿にお伝えいただきたい。私の提案はいついかなる時でも有効である、と」

「……つまり?」

「開戦後でも構いません。戦は時の運。私が勝つこともあれば、その逆もありうるでしょう。いついかなる時でもというのは、孫権殿が劣勢になった時のことです。私どもが運を得た時ですね」

 魯粛から気配が消えた。息を止めるほどに集中し、李岳の言葉に耳を傾けている。

「どれほど決定的に負けており、無条件の降伏やむなしとなろうとも、曹操の身柄を渡せば孫権殿を呉の管理監督者として認める」

「敗色濃厚であろうと、曹操を縛って渡せば主として遇すると……」

「御家来衆も同様に、刑に処することはありません」

「全く悪どいことだ。こりゃ悪知恵比べでは勝てそうもないな」

「人聞きの悪い」

「……ただちに主人にお伝えします。一語一句誤りなく」

「どうぞご検討ください」

「将軍も、お食事ゆるりとお楽しみください」

 確かに伝えますよ、と残して魯粛は挨拶もそこそこに席を立った。李岳は魚の最後の一切れを口に運び、汁物を飲み干しながら口にかかった骨を吐き出したその時、酒家の厨房から人影が現れた。

「いつもながらですが、ご無理をなさいますね、兄上」

「あらあら珠悠様、そんなに不機嫌な顔をされてはよろしくありませんわよ? ご主人様も気をもんでらっしゃるではありませんか」

「そうじゃの。ところでお館様、ついでに一献どうじゃ? 料理の具材はまだ残っておるぞ」

「厳顔将軍! 兵はみな臨戦態勢なのです、飲酒などもってのほかです!」

「さすがお館様の妹御、厳しいことじゃのう」

 声の主は徐庶、黄忠、厳顔。

 三人は身辺警護として連れてきた呂布以外に、洛陽から荊州への行軍を統率する部隊として李岳が引き抜いた人員だった。徐庶には荊州軍の実態調査、黄忠と厳顔には文官、武官らの顔なじみに聞き取りを指示してもいる。それぞれ荊州に馴染みのあることを期待しての選抜である。李岳は蔡瑁を信じると決めていたが、それに足る客観的材料を求めていたのである。

 そして今もまた一つの仕事をこなしてくれた。

「お料理、お口には合いましたかしら、ご主人様」

「ありがとう紫苑。さすが荊州育ち、見事な魚料理だった」

「あらあら、うふふ。旦那様のため、腕を振るったんですのよ」

「ちょっ、ちかっ、ち、近い!」

「そんなにお照れにならずとも……ね?」

「ねじゃありません!」

「あん」

 徐庶が強引に引き剥がさなければ、黄忠に掴まれた李岳の手はどんなあられもない場所に導かれていたであろう。天のみぞ知るところである。

「兄上も! それどころじゃないでしょう、全く!」

「ごめんなさい、ってなんで俺が謝るのか……まぁいい、やることやってしまうか」

「さて、斬るかの?」

 厳顔は右手で引きずっていた一人の男を軽々と吊り上げながら言った。

 男はこの酒家の主人である――正確に言うならば、酒家の主人を装った揚州の間者であり、仕掛けを放つ前に気配を察したこの三人に取り押さえられた男である。

 表立った護衛は呂布だったが、陰に潜む暗殺の警戒に関してはこの三人が担っていた。もちろん永家の者たちも李岳に張り付いてはいるものの、張燕や廖化といった主軸は対曹操の情報戦にかかりきりとなっている。

 土壇場の武力や応用力をたのみ、李岳はこの三人を選んだ。

「やっぱり仕掛けてきたか?」

「うむ。現物も抑えたぞ」

 厳顔の手元には手の平に収まる程度の麻の袋があった。中にはどうやら何かの乾物を砕いた粉末が入っているらしい。

「毒、か」

「十中八九」

「危ないところでしたのよ、ご主人様」

 魯粛の仕掛けと思って間違いないだろう。彼女が接触を試みていることは永家から知らせは入っていた。水を向ける形で李岳はこの酒家に足を向けたのだが、知ってか知らずか魯粛は臆面もなく踏み込んできた次第だ。

 揚州も李岳が軍備を整えているのは承知している。危機を覚えた連中はなりふり構わず李岳を殺す手段を取ってきた。恨む気はない。逆の立場であれば李岳もそうしたであろうし、事実曹操と孫権が洛陽に姿を現せば生きて返すつもりはなかった。

「で、お館様よ。こいつは」

「斬るな桔梗。張燕に引き渡す。吐けるだけのものは吐いてもらわないとな」

「ろくな情報はないと思いますが」

「それでもいい。こうなる、という事が伝わるだけでも意味がある」

 三人の視線を振り切るように李岳は店外へ出た。

 殺すか殺されるか。乱世の結末は修羅の共食いの様相を呈し始めている。

 李岳は内心念じた――どうだ曹操。これが俺の覚悟だ、こうまでしてお前を倒そうとしている。そして孫権に周瑜、この世界に赤壁はない。赤く燃えるはただただ貴様らの陣幕だけだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 




赤壁√完

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