真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十五話 誇りの代償は死

 一刻も進むと向こうから白馬が進んできた。岳は大声で呼びかけて招き寄せた。遠目にも趙雲が乗っていることは明らかだった。

 香留靼はしっかりと言伝を伝えてくれたようだ。人目を盗んで集落を抜け出し、自分の家に向かうようにと頼んだ。

「李岳殿、乙女を捨ておいて先に行くとは感心しませんな」

「お叱りついでに運んでもらいます。折り返しますよ」

「ほう、何か企みですか」

「そんなものです」

「……様子が変わられたな。何かありましたか」

「父と今生の別れを済ませてきました」

 そう言って馬の背に飛び乗ると、岳は趙雲の体に手を回した。趙雲の馬――白龍は二人が乗っても何ほどのこともないというように駆け始めた。草原の風に乗り草露を蹴立てて白龍は匈奴の集落へと向かう。

 趙雲は自分に体を預けている男の鼓動を背中で聞きながら、その早鐘を打つような律動に俄然興味が沸いた。李岳は気軽に別れを経てきたと言ったが、人に軽々しく立ち入らせない響きもこもっていた。静かだが、まるで別人のように覇気たゆたわせている。佇まいが一回り二回りも大きく見えるし、世を拗ねたような感じが綺麗さっぱり消えていた。

「これは、楽しくなりそうだ」

「さてね。ところで恋――呂布は一体」

 ああ、と趙雲は苦笑交じりに答えた。曰く、どうしても趙子龍のことが気に入らない、仲直りといってもつるむ気にはならない、白龍は可愛いが相乗りをするつもりもない――言葉はなかったがなお雄弁に彼女の態度はそれを物語っていた、と。であるのなら趙雲はよく一人で見知らぬ土地を進んで走ったものだと岳も内心呆れた。どうとでもなるだろう、と適当なことを考えていたのかもしれない。

「面白い人柄だ」

「子龍殿が変に絡むから。いい子なんですよ、ただ素直過ぎるというか」

「そして腕も立つ」

「間違いなく天下無双の一人です」

 趙雲は黙ってうなずき半日前の対峙を思い出していた。趙雲はあの時死を覚悟した。負けを確信したわけではないが、覚悟をもって立ち向かわなければ容易く蹴散らされてしまうだろうと思ったのだ。自らの武を打ち鍛え幾度と無く死線を越えてきた。その真髄を披露するにこれほどの好敵手が他にいるとは思えず、趙雲は喜びに打ち震えながら槍を向けた。

 邪魔が入らなければ一体どのような有様になっていたか、趙雲本人にすら見当がつかない。呂布、という名前を趙雲はその胸に刻み込んでいた。

「万夫不当よな。良いのかな、このような場所に逼塞して」

「このようなところとは言葉に過ぎる」

「失礼。だが勿体無い。出るところに出れば必ずや頭角をあらわすであろう。一廉の人物として抜きん出るに違いない」

「――過ぎたるは及ばざるが如しという言葉もあります」

「ほほう。論語から引用するとは、李岳殿はどこぞで私塾にでも通っておられたのかな」

「さて、今は恋の話ですから」

 呂布は確かに強く一対一で向き合って負けることなどそうありはしない。いや多対一でさえ滅多なことでは負けないだろう。一薙ぎで十人を蹴散らし、一振りで敵陣を食い破ることさえできるやもしれぬ。だが果たしてそれが呂布という少女の幸せに繋がるのだろうか。本人さえ苦しめてしまうような才は真に天からの授かりものと言えるのだろうか――李岳の懸念は趙雲にも痛いほど伝わってきた。

「いくら世の目を避けようとしても、嚢中(のうちゅう)(きり)という言葉もある」

「そうですね、あれほどの才です。生半な袋など容易く突き破り人目に付くでしょう。ですが刀が鞘に収まるように、錐も箱にしまえば袋から飛び出ることなどありません」

「とはいえ誰しもが良い錐を追い求める時だろう。箱にしまうことを忘れるほどに誰もが握りっぱなしだ」

「自分でこしらえれば良いのです。拾い物を手にしようなどと」

「良い値で買い上げようとするなら悪くはなかろう」

「そもそも、錐を錐としてちゃんと使える人がどれだけいますか。辺り構わず振り回して、傷つくのは錐ばかり。血を浴びるのも、最後に折れるのも……」

「よほどご心配なようだ」

「……ええ、実はいやな予感もするのです。もう少し飛ばせますか」

「ご要望に応えよう、白龍!」

 趙雲の言葉には応えるが、その意図は知らぬと白馬は稚気のままに快走する

 李岳が心配するほどに、呂布の武力は確かに危ういものだろう。人によれば重宝しすぐに重鎮として取り立てられ、一軍を任される様も容易く想像できる。だが世間は才や力によってのみ評価されるわけではない。世渡り、人柄、時に賄賂――手練手管を用いなければ破滅はある日突如として現れ容易く足元で口を広げる。濡れ衣や陰謀でその命を落としたものが一体どれほどいるのだろうか。確かに呂布という少女はそのような機微には疎いだろう、利用されつくされて捨て置かれることをこの男は警戒しているのだ。

(しかし無頓着よな。嚢中の錐……己もそうだとは気づかないか。そういう意味ではこの男も危うい)

 己に才があるのならば、その才を正しく見積ることも世を渡る上での重要な指標となる。自らの力量と位置を正確に把握できない者は、どの世でもどの国でも破滅の道を知らず選び歩いてしまう。

 趙雲の思惑をよそに、そういえばと思い出したように李岳が言った。

「匈奴の話はどこまで聞いていますか」

「漢に攻め入る、とまでしか。なかなか近づきがたくてな」

「賢明です」

 岳は事のあらましをかいつまんで話し始めた。匈奴の鬱屈、漢からの要請、それを千載一遇の好機と捉えて於夫羅は洛陽を攻め落とす算段であること、そしてその先鋒に自分が指名されていること――趙雲は黙って聞いていたが、岳の言葉が切れたのを待って呻いた。

「右賢王於夫羅、よほどの策士か。なるほど確かにこれは危機といえる」

「於夫羅にそのような才はないでしょう。手引きがあったと踏んでいます」

「……まことか?」

「確証はありませんよ、推論でしかない。ですがあまりにも段取りがよすぎる。於夫羅は大雑把な性格で、武人気質な上に人の掌握が下手だ。だが事態はとんとん拍子に進んでいる。あるいは漢に住まう誰かの思惑が働いているのかもしれない、と」

「……信じがたいな」

「推論ですからね」

 だが半ば確信があるように岳の声音は揺るぎない。そこには間違っていても構わないという余裕すら見えた。所詮推論、状況が変われば論も千変万化するのだとばかりで、この男の中にいくつの推論が並行して走っているのかと思うと肌に粟の立つ思いだった――切れすぎる、錐にしても嚢どころか板すら容易く貫くだろう。だが果たして漢の世界にこの男が益するとは限らず、害をなすならば――

「それで、どうするのだ。先鋒を務めるのか?」

 趙雲は手元の槍を気づかぬように手繰り寄せた。呂布を一廉の人物と評したが、それを言うのなら目の前のこの男は比してなお危険であると趙雲の神経は過敏に訴えている。呂布が将であるのなら、李岳は将の将――人を使い操る男だ。この男が総勢二十万にも上る匈奴の兵を従えて漢に牙を向けるというのなら、今の内に討ち果たしておかねば全てが危うくなる……だが李岳の答えは趙雲の予想の真逆を行った。

「まさか。さっきまでしっぽを巻いて逃げ出そうとしていたのですよ」

「逃げる?」

「ええ。父さん……父上をお連れして、南へとね。ですが考えなおしました。私に策があります。流血を最小限に抑える策が――そのためには趙雲殿、貴女にも一役担っていただかなくてはなりません」

 この私を脅すか――腰に回された手が、あるかなきかのかすかな力加減で趙雲の体を締めた。自らを殺せばその策は永遠に封じられるぞ、と……

 やはり変わった、と趙雲は思った。昼間に打ち合ったのらりくらりとした男と同一人物とは思えない。いや、幽州で初めて出会った頃に逆戻りしているのではないか。開き直ったかのように全てを見通し、あらゆる手段を講じて戦いに挑もうとしている。危機を脱して故郷に戻り、再びかぶった化けの皮をいま脱ぎ捨てて、真に求めるところの己へと戻っている。

 やがて李信達の口からこぼれた秘めたる策は、趙雲を驚愕させるに余りあった。

 この地へ、この男へ会いに来てよかった――趙雲は疾駆する白龍の背で声を上げて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 時はわずかに遡り、李岳が呂布と趙雲と別れた直後のことである。

 呂布は不貞腐れていた。目の前の青白い髪の女も気に食わなければ、自分を置いてさっさとどこかへ行ってしまった李岳も気に入らなかった。引き止める趙雲の言葉を気にも留めずに呂布はその場を離れた。付かず離れず隠れていたセキトが飛び出してきて呂布の体にまとわりつく。舌を出して喜ぶセキトをあやしながら、呂布は匈奴の集落へと向かった。

 人々は驚きの知らせに騒然としており、常とは違う慌ただしさに呂布もいささか戸惑ったが、漢を攻めるという言葉も長城を突破するという言葉も、呂布には何の実感ももたらさなかったので気にせずセキトとじゃれ始めた。

 やがて周囲の大人の気配に怯えた匈奴の子供たちが呂布を遠くから囲い始めた。不安げでいらつき、怒りっぽくなったり悲しみ始めたり――そんな大人の中でも常と変わらないのは『力持ちの姐さん』だけだったから。それとなく手招きすると、子供たちは恐る恐る呂布に近づき、順番にセキトに触れ始めると程無く笑顔が蘇った。呂布は子供も好きだった。

 夕闇の迫り来る頃まで恋は子供たちと遊び続けた。そろそろ明かりも乏しくなり、一人二人と母や父の元へ帰っていく。最後には一人の少年だけが残ったが、彼はいつまでも帰ろうとはせずセキトとじゃれついている。呂布は何も聞かずにその間に入って一緒に遊んだ。四方に松明が灯され人影が幾重にも重なり踊る――やがて、もう一つの影が不意に加わった。

「こんなところで何をしている」

「……遊んでる」

「遊んでる? ふざけてるのか貴様! 知らせを聞かなかったのか、戦の支度を整えんか!」

 男は呼廚泉麾下従軍二年の若武者で血気盛ん、此度の遠征もまだかまだかと待ちわびる程の高揚で心身を充実させていた。戦乱が程なく訪れようとしているのに山と有るはずの支度を疎かにしたまま子供と遊んでいる――男にはこの女がだらしのない母に見えた。男は、そもそも漢と近く時には行き来さえするこの南端の部族が元より軟弱だと決めつけては嫌悪していた。

「……うるさい」

「なんだと」

 子供は怯えてセキトを抱いて後ずさった。その子を庇うように呂布は男に立ちふさがると、正面からその目を見据えた。呂布の背は女性にしては高いが男を凌ぐ程でもない。傍目には呂布に分があろうはずもなかった。

「貴様、匈奴のものではないな……漢人か?」

「……」

「答えろ! さもなくば」

 男の声はゲルの間を駆け抜け、それに気づいた多くの人が何だ何だと出てきてたちまち人垣を築いた。はっ、と息を呑む女衆たち。男の手は既に腰の柄にかかっていた。

 李岳の連れてきた口数の少ない女の子は、無愛想で手つきも怪しいが、村の山羊や馬の世話を率先して行う心優しい働き者……集落の母や娘で針繕いや酪の作り方など様々なことを教えては笑いあった。その娘が子を庇って都から来た荒くれ者を相手に一人立ち向かっている――呂布は知らなかったが、最後まで残って遊んでいた子は先年流行病で両親を失ったために、集落の皆で育てている孤児であった。女たちは誰もが居ても立ってもいられず、飛び出して呂布の前に立った。

「なんだい! あんたうちの娘になにしてんだい!」

「そうよ! 女子供に凄むのがあんたの仕事かい!」

「……貴様ら。この娘は漢人であろうが。今から漢を攻めるというのに、その知らせを持ち帰られたらどうする!」

「この子は私達を救ってくれた李岳将軍の連れ合いなんだよ、そんな真似するもんか!」

「はん! 敵に知られて負けるような戦じゃあしない方がよっぽどましさ!」

「こんな娘っ子一人にむきになって!」

 村の男たちはひとところに集まって戦の段取りや協議をしている。呼廚泉の手下として都からやってきた目前の男は、助けを呼ぶ前に踊りかかってくるだろう。女たちは手を握り合って呂布を決して渡すまいと体を盾にして少女の体を取り囲んだ――ひとたびでも同じく仕事をして飯を食い、寝て朝を迎えればそれはもう家族だ。家族を差し出して何の部族、何の集落があろう! 一方の男も戦士としての誇りを傷つけられたとして引くに引けず、とうとう光り物を抜いた。声を押し殺した悲鳴がそこかしこで上がった。

 そんな中、呂布一人だけが心ここにあらずといった体で呆けて立ちすくんでいた。

 なんでこんなに多くの人に庇われているのだろう、とまるで自分がここにいないかのような錯覚を覚えた。自分はただ不愉快な男にうるさいと言っただけだというのに、恐怖に肩を震わせながら自分を囲む何人もの女性たち……呂布にはわからなかった。なぜ自分は庇われているのか、そしてこの胸いっぱいに広がる奇妙な感覚は一体……

 だが何をすべきかは体が知っており、呂布の意志を先導するように自然と動き始めた。

「あ、やめな!」

「……大丈夫」

 制止を振りきって呂布は前に出た。胸を張り、前を見据える姿には欠片も怯えは見えない。眼前に立ち塞がる男はこめかみの血管を浮き上がらせるほどに激怒した。戦士の俺を舐めるか、この女! 良かろう! ならば――そして男は白刃の威力を見せるは今しかないと決心した。柄を両手で握り大上段に振りかぶると、そのまま呂布の頭蓋を立ち割らんとして振り落とした。悲鳴が上がり、周囲の者は皆これから起こる惨状に絶望し目を覆った。当人の呂布を除き、誰もがその死を確信していた。

(……遅い)

 呂布は岳の太刀筋を思い出していた。いつどこから飛び出てくるかわからない攻め、押しても押しても当たらない守り、思考と視野の死角を突く奇抜な動き。天与の速度と膂力で勝負はいつも呂布が上回ったが、一度たりとも油断や侮りはなかった。その全てが真剣勝負、どんなにかすかな刹那でも気を抜けば敗れさってしまう、あの何にも代えがたい楽しく息を呑む緊迫感――それに比べてこの男の攻めはどういうことなのだろう、振り上げ、振り下ろすだけ。それだけで当たるとでも思っているのだろうか、あるいは動きのその次に控える必殺の攻めのための布石なのだろうか――

 呂布は半身を引いて剣を躱した。一刀両断を確信して振り切られた直刀はそのまま激しい音を立てて噛み付いた。まさか避けられるとは思っていなかった男はもんどり打って前のめりに転がっていった。すぐさま慌てて立ち上がったが、屈辱に顔は真っ赤でひどく歪んでいた。間髪入れずに二太刀、三太刀目と繰り出していくがやがてその(ことごと)くが躱しきられた頃、男の目には狼狽しか残っていなかった。

「終わり……? じゃあ次は」

「ま、待て」

「恋の番」

 呂布の右拳は男の顔面をまともに捉えた。振り抜かれた拳が描いた軌道をそのまま綺麗になぞるように、北部地域からやってきた匈奴兵は錐揉みながら弾道軌道で吹き飛び、二間かそこらを地すべりしながら倒れこんだ。呻きながらゴロリと転がったその顔面には、呂布の手による素晴らしい細工が施されていた。

 しばらくの沈黙の後、安堵の溜息と喜びが合わさった奇妙な喝采が沸き起こり、呂布は匈奴の婦人方に揉みくちゃにされた。誰もがその死を確信し、予測した悲劇的な未来は呆気無く覆されたが、胸をつまらせた不安や絶望は嘘ではない。堰が切れたように泣き出す者もいれば、腰を抜かして立てない者もいた。

 大した腕前でもない、勝てて当たり前の戦いで何をこんなに大騒ぎするのだろう――呂布の疑問が氷解する頃、その胸には入れ替わりにこそばゆい照れが入り込んだ。皆、呂布の無事を喜んでいるのであった。

「い、一体何の騒ぎだ!」

 だが騒ぎは余人の知られる程にまで大きくなってしまっていた。集落の者だけならば良かったが、呼廚泉直卒の兵も多数駆けより始めていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 嫌な予感ほど当たるという法則は、直面する度に気分が悪くなるものだ。岳は集落の片隅、煌々と焚かれる篝火に囲まれて、異様な程の人だかりができているのを見て舌打ちした。

(宴の余興というわけじゃないだろうな……)

 やはり何が起こるかわからない。趙雲を待たせて岳は態勢を低く保って疾走した。草木に埋もれるような格好で疾く駆ける技は野山で狩りを行う際に身につけたもので、人の目を欺くにも十分な信頼が置ける。

 やがて近づいた先に岳が見たものは、二つに別れて睨み合う匈奴の人々、そしてその中央で五人の男たちの刃に襲われ続けている呂布の姿であった。状況が全くわからない、が、とにかく岳は顔を隠して様子を見た。

 五対一の打ち合いだが普通は問題ないだろう、余程の手練もいないと見える。脇には息も絶え絶えに失神をしている男たちが既に十や二十では利くまいと思えるほどの数で山積みとなっており、それが今まで呂布が打ち倒した相手の数なのだということは疑いようがなかった。

 疲労もあるだろう、敵は武装し呂布は手ぶらであることから不利でもある。が、それにしても呂布の動きは精細を欠いており、なにより岳が怪訝に思ったのは呂布が一つも反撃に及ばないことだった。ただ刃を避け、くるくると弄ばれるように逃げ惑うだけ。五本の刃を躱すのに精一杯で時折繰り出される蹴りに幾度かよろめいている――その度に岳は己の神経が引き千切れるのではないかという錯覚に襲われた。

 反撃に出ない呂布――何かがおかしいと岳が辺りを見回した時、ぐいと腕を引かれて肝が冷えた。引いたのは香留靼であった。

「香留靼」

 声を潜めた岳に応じるように、香留靼も小さな声でまくし立てた。

「漢人だってことであの姉ちゃんが中央から来た匈奴の兵に突っかかられたんだ。そして勢い余って刀を抜いた呼廚泉の手下をのしちまった。二十人抜きしたところで、呼廚泉が提案したんだ。五対一で反撃はなし。その条件で夜明けまで避け続ければ無罪放免って条件をあの姉ちゃんは飲んだ」

「馬鹿な、なぜ飲んだ」

 岳は一瞬で精神を沸騰させた。無謀な条件にも程がある、それを飲んだだと? 岳は目の前が暗くなってしまうのを歯噛みしてこらえた。それを見て香留靼は肩をたたき、気まずそうに付け加えた。

「……お前のことを馬鹿にしたんだよ」

「なんだって」

「呼廚泉さ、お前のことを散々に馬鹿にしたんだ。謝れ、って。呼廚泉は姉ちゃんが朝まで生き残ることが出来ればどんな謝罪でもする、と」

 岳は中央より右手、口元に不愉快な笑顔をたたえた呼廚泉を見た。こんな馬鹿な話があるか、あの顔のどこに約束を守ると書いてあるのか、そもそも侮辱ごときで命を張るなどと何を考えているのか! その内心の叫びをわずかでも口から漏らせばどれほどの大きさの声となったか。

「……なぜそんな横暴を叔父上もお前も黙認している」

「人質を取ったんだ……うちの村の子だ。姉ちゃんが反撃すれば匈奴兵が総出で殺しにかかる、俺達が姉ちゃんに(くみ)すれば漢に造反したとして処断する、と……完全武装した中央の匈奴兵が相手だ、中途半端には動けない……それに姉ちゃんは決闘を飲んだ。決闘の取り決めは匈奴では絶対だ」

「――わかった」

「待て」

 歯噛みは堪えられず、既に口の端には血が滲んでいる。押し止めようとした香留靼さえはじき飛ばして、岳は人垣をかき分け始めて叫んだ。

「道を開けろ!」

 途端、鉈で竹を断ち割ったかのように人が避けた。異様な喧騒も、水をかけたように静まり返り、呂布とそれを囲む男たちの動きもわずかに鈍った。岳はひらいた空間に飛び込むと無用の速さで二刀を抜き、独楽のように回りながら匈奴兵の剣を一息にはじき飛ばした。慌てふためく男たちだが、呼廚泉だけが人並み外れて伸びた犬歯をむき出しにして、浅黒い顔を歪めて笑っている。

「ほほう。とうとう現れたか、臆して漢の地へ逃げ込んだかと思ったぞ、下郎。だが、決闘を邪魔してただで済むと思っているのか?」

 岳は真っ直ぐ呼廚泉を睨みながら進んだ。呂布を囲んでいた男たちは腰を抜かして慌てて遠ざかっていく。

「お前の望みは俺だろう。相手をしてやる。俺を切れば先鋒はお前のものだ。好きにするがよい。一対一が恐ろしいか? 複数がよいか、素手が良いか? 望みのままにしてやるぞ呼廚泉。だから今すぐそこに縛られた子を解き放て……」

「フフフ……放してやる、貴様が勝てばな。助太刀もなしだ。誰かひとりでも助力が入ればその餓鬼の首は飛ぶ」

 呼廚泉にとって願ってもない状況が整い、内心の歓喜で筋肉が蠕動をはじめるほどだった。この男さえ除けば先鋒の名誉は己のもの、そうなれば最高の戦果を得て兄の於夫羅を追い抜き次の単于は己である。自らの武力に絶対の自信を持つ男は、宴にかこつけて李岳という小男をさんざん嬲り、挑発に乗ったところを処断するつもりだったが待てど暮らせど現れない。臆して逃げられては先鋒の確約も取れぬ、この憤り――そんなところにこの騒ぎが起きた、さんざん女を嬲り者にして溜飲を下げることが出来ればそれでよかったが、折もよく元の獲物まで引っかかった、戦果はもはや完全なものとなろうとしている。

 そのような呼廚泉の考えをよそに、岳は呂布を押しのけて前へ出た。

「恋。俺がやる。下がっててくれ」

「冬至……」

「下がってろ」

 有無を言わせぬその口調、呂布は初めて岳に気圧され言われるがままに下がった。拒絶されている、というのがはっきりと分かった。岳は怒っている。呼廚泉に怒り、この状況に怒り、そして呂布にも怒っていた。

 李岳は一度二刀を収めると、用意万端整った呼廚泉に相対した。周囲を取り囲む匈奴の人々の熱気が異様に高まり始める。半円は呼廚泉の麾下、もう半円は卒羅宇の集落の者である。人垣で作られた誰の助けも差し出口もない闘技場が完成していた。

 不意に卒羅宇が身を乗り出してやってくると、二人の間に立った。そして決闘であること、約束は違えぬことを確認しては見届ける旨を宣言した。それで良いのか、と問うような視線を岳に投げかけたが、岳は目線を合わせることすらしなかった。

「よくぞ逃げずにいるな、それだけは褒めてやる。漢人の分際で」

 鼻で笑ったのは呼廚泉ではなく岳であった。開いた口から言葉がこぼれるが、続く罵倒はこの場で同じく怒る卒羅宇や香留靼、他の匈奴の者達でさえ圧倒されるものであった。

「漢人がどうした、貴様は犬畜生にも劣る下衆だ。人質を取り、まるで両手を縛ったような相手に五人がかりで武器も持たせずいたぶるだと? 貴様のどこが戦士だ、どこが王の血筋だ! お前みたいな者をさしてこそ馬鹿という言葉があるのだ、呼廚泉! 見下げ果てたやつだ、単于の子だというのに未だに左右どちらの賢王にもなれず使い走りが精々なだけある、恥を知れ!」

 立て板に水の岳の言葉であったが、それを聞き届けた呼廚泉の表情たるや、何を言われたか理解できないと呆けた表情――それが見る間に赤色となり、汗血馬のように汗を吹き出した。刃渡り四尺に及ばんとする大剣の柄を握り引きぬく。が、それにも臆さず岳は最後の一撃とばかりにその口から放った。

「呼廚泉、貴様は男ではない――!」

 集落の一部で喝采が上がった――男ではない! それでも匈奴か! ――呼廚泉の顔色はとうとうどす黒いものとなり、その肩口から放たれた刀剣が岳のすぐ目前をかすめた。風圧は岳の体を通り越し、三間離れた背後の香留靼にさえ圧する勢いで届いた。

「ただで、ただで死ねると思うな……貴様の死体で一晩遊び尽くしてやる……その皮を剥いで我の寝間着にしてやる……」

 合図などない、既に殺気は二人の間を数えることが出来ない程に往復している。

 呼廚泉の刀剣が根こそぎ引き千切るように空を走って岳に迫った。半身で下がり、その刃を躱して岳はあらためて天狼剣を引きぬいた。柄が熱く燃えるよう、隕鉄からうち鍛えられた黒い刀剣は篝火の明かりでさえ容易く飲み込み、夜よりもなお濃い闇の色をしている。初めて振るう刀剣だが、その癖も長さも手に取るようにわかった。

 岳は正面から踏み込み打ち合いを挑んでは束の間呼廚泉を圧倒した。おっと驚いたような顔をした呼廚泉の二の腕を、浅いが一撃し流血を強いる。しかし呼廚泉もさるもの、面白いとばかりに哄笑しては血など気にもせずに打ちかかった。於夫羅さえ凌ぐと言われる膂力でもって容易く弾き飛ばし、追い打ちの蹴りが体勢を崩した岳の胸をまともに捉えた。

「ぐっ……」

「たやすい、やはり李広の血統など大したことはない。いや、謀ったか? 漢人らしい浅ましさよ……」

「……お前には負けるよ、呼廚泉」

「口の減らん餓鬼だ……!」

 体勢を立てなおした岳に再び打ちかかる呼廚泉、それをいなしながら流れるように岳は打ち込むが、懐の深さに決定機を見いだせず、ジリジリと後退するばかり。重さは何斤あるだろうか、大幅もいいところの刀を片手で旋風のように振り回す呼廚泉の力任せの攻めは、それが一つの武の真髄であるとばかりに隙なく淀みない。勝勢の余裕か、呼廚泉は愉快気に哄笑を浮かべた――そのとき、後背で騒ぎが起こった。ちらりと見ると怒りに任せて飛び出そうとした呂布を匈奴の男たちが十人掛かりで押しとどめている。

「冬至――!」

「恋、下がってろって言ったはずだ!」

 そのとき、興が沸いたと呼廚泉は下卑た笑みを浮かべた。

「その名……そうか、貴様らにはおぞましい風習があったな、惰弱な漢人に相応しい――真名と言ったか」

 白刃の旋風を巻き起こしながら、愉快でたまらぬと呼廚泉は大口を開けた。

「真名を言ってはいかんのだったか、ん? 赦しがなければいかんのだったか?」

「俺の名を言ってみろ、貴様ごときに口にされたところで痛痒もない」

「貴様の名など……! なんと言ったか、うん? 見ればいい女だ、妾にしてやってもよい」

「まさか、やめろ――!」

「そう、確か……恋といったな。」

 岳は身の毛もよだつ思いで頭の中が真っ白になり、呼廚泉の重撃にまともに相対してしまいたたらを踏んだ。岳は呼廚泉にも気にもとめず呂布を見た。十人でようやく押しとどめられていたその力、その意志――だが呂布の目には今や力強さはなく、うつろな色で震えていた――

 この世に二度目の生を受け、真名という前世の記憶にはない風習に戸惑いもしたが、すぐに慣れ身に馴染んでいった。勝手に呼ぶことは許されない、お互いに心を通わせて初めて交換が許される魂の標。どんなに親しく交わっても真名を持たない匈奴の卒羅宇や香留靼はその重きをよく知ってるがゆえに岳に真名をたずねも求めもしない。父母にもらった大切なものであるから、いつか出会う愛すべき人と交わすものであるから……

 だというのに、この男はそれを汚した。常日頃から呂布の表情は乏しく読みほどくには難しい時もあるが、いま、彼女の眉根はかすかに崩れ、瞳が嫌悪に震えている……呂布は傷ついていた。眼前の不遜な男に、その心を、魂を陵辱されたのだ。

「発言を撤回しろ……」

 呼廚泉の大きな鼻が、嘲るように揺れた。

「それが答えか……」

 

 ――とうとう、岳の中の最後の一線が弾け飛んだ。

 

 もはや考えることはないだろう、あるいはこのまま死するかもしれぬ。それでもこの体の中で沸騰する血液の迸りに全てを委ね、荒れ狂う激怒のまま、呂布の真名を汚した男の生命をこの世から断つことに寸毫の躊躇もない!

 李岳の怒りに呼応するかのように天狼剣は刃に不思議な赤みを増した。しかしその変化にさえ気づかぬ程に岳の精神は白熱し、思うがままに体も追随した。低い体勢から目視定まらぬ速度で駆け抜け呼廚泉に迫る。大剣をかいくぐり脇腹を抉ったが、まだ足らぬと岳の心が叫ぶ。まだ足らぬ、まだこの程度では足らない!

「き、貴様!」

 既に呼廚泉の顔色に余裕などどこにもない、一撃の元に跡形もなくしてくれると振りかぶった刹那、その手首を巻きとるように岳は鋒を走らせた。母の桂が剛であるなら柔の岳。その操る撃剣の最も得意とする螺旋の型は刃先の返しで余すことなく舐めまわし筒を寸断する絶技であった――呼廚泉の右腕は宙を舞い、その大剣をしっかりと握ったまま主より離れて大地に突き刺さった。

 衝撃に尻餅をついた呼廚泉はない方の腕を必死に振り回し、痛みと呻きを込めながら命を乞うた。

「ま、待て」

「さようなら」

 一毛の躊躇もなかった。

 閃光。切っ先が醜い首先にまとわりつく。赤。喉が綺麗に裂けていた。吹き出した血が弧を描き大地に吸われる。命乞いは断末魔の笛の音に変わりそれも間もなく途切れた。振り返ったときには、男はもう死んでいた。

 場は静まり返っている。やがて、足を踏み鳴らす音が響き始め。それが怒号になるまで大した時間はかからなかった。背後から賞賛の声が飛び交った。死体のむこうでは沈黙がおりている。光と闇が交叉したのだ。

「右賢王於夫羅の弟、呼廚泉! この李岳が討ち取った!」

 万雷の喝采が、百里の彼方まで届かんと天を突いた。


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