残穢。そうとしか表現できないものが戦場にはこびりつく。亡骸や折れた矢に剣、倒れた馬たち。全く動的なものが戦なのだとすれば、残された戦場は全く静的である。死は穏やかで静謐でさえある。
曹操は静まり返った白馬の戦場に背を向け陣地に戻った。黙って付き従う典韋。薄明の頃だが、戦後は成すべきことが多い。夜を徹してもなおかすかな興奮が陣を満たしていた。
「集まるように」
典韋にそう告げると曹操は幕舎に戻った。目当てにしていたものは既に程昱の手の者が届けていた。
一番にやってきたのは曹仁と曹純だった。血臭をまだわずかに漂わせている。
「華琳姉ぇ、こいつぁなんっすか?」
曹仁が卓上の物品をぞんざいに取り上げながら言う。用件はこれについてだと早々と察しをつけたようだ。
「李岳軍の騎馬隊に装備されていた馬具よ。戦場から回収してきたわ」
「し、死体を漁ったんですか?」
「必要なら私自身が行くけれど」
曹純は二度驚いた。誇り高い曹操にそれほどの言葉を言わせる男は李岳以外いないだろう。
曹操にそうまで言わせるほど、李岳軍の騎馬隊の躍動ぶりは尋常の域を超えていた。その秘密の一端がこの馬具にあるというのだろうか。
「他にも変わった連弩を使っていたわ。それは一つしか手に入らなかったからもう真桜に送ったけれど、この馬具は予備があったから手元にもある」
「これが騎馬隊の秘密……」
鞍から二本の縄が垂れており、その先に平坦な金属の板がくくりつけられている。複雑な仕組みなど何もないように見える。
「柳琳、後で自分の馬にこれを装着して乗ってみなさい」
「その様子では、もう試されたんですね?」
「フフフ、驚くわよ?」
曹純は馬具を受け取りながら膝の震えを押さえつけた。この笑いは曹孟徳が怒りに震えている時に発するものだ。曹操は怒っている。おそらく己自身に。
「李岳は私の先を行っている。いくつもの面で。この馬具だってそう。私には思い浮かびもしなかった」
「華琳姉ぇだって負けてないっす!」
曹仁の声に曹操は苦笑を漏らした。
「そうね……でも私はきちんと現状を直視したい。屈辱を覚えれば覚えるほど、目指す背中が先にあればあるほど、意志は固くなり胸が熱くなるから。その度に私はとても謙虚な気持ちでいられるわ」
これほど饒舌な曹操を曹純は見たことがない。瞳を輝かせ、口元に笑みを浮かべて――
そうではあるまいが、そしてそれだけでもあるまいが――恋焦がれる者の顔だ、と曹純は思った。曹操は恋している。ただしそれは李岳に対してではなく、李岳に挑戦し打ち勝つことに恋い焦がれているのだ。曹純もまた胸を焦がした。ときめきを浮かべる曹操に焦がれ、そのような思いを抱かせる李岳への嫉妬で火が起きるようだった。
「我が虎豹騎は曹軍最強の騎馬隊を自負しています。他軍に遅れを取るようなことはありませんわ」
顔を赤くしながら思わずそう口走った曹純に曹操は少し驚き、次いで微笑んでその頭を撫でた。曹仁があたしもあたしも、とねだるように頭を寄せてくる。
その時、慌ただしく走り回りながら敵兵の襲来を叫ぶ兵の声が響いた。
「読み通りね」
早朝の襲撃だった。袁紹軍には無限にも思える兵がある。負傷どころか戦闘に参加していない兵こそが大半なのだ。無傷の兵を動員し、夜討ち朝駆けを企てるであろうことはわかっていた。
「打ち合わせ通り、これより戦闘は第二段階に移行する。全軍移動を開始せよ」
曹仁と曹純が復唱して駆け出していく。夏侯惇らにも伝令を走らせた。参謀陣もいずれ来るだろう。一撃したあとからが長い。これから西に向けての撤退戦の始まりである。李岳軍もおそらく移動を開始しているはず。
今からは大兵の有利を生かして攻撃してくる袁紹軍から逃げ延びながら、要所要所で痛撃を与えるという至難の戦が続く。袁紹軍は兵を横に広げて地を覆いながら迫ってくるだろう。そのような状況の中で乾坤一擲の逆転の機会を窺うのだ。
「……死ぬには早すぎる」
己もお前も――そうよね、と呟いて曹操は愛馬の手綱を握った。
――徐州広陵郡広陵城より南に二十里。孫権は馬上の人であった。
ここは既に長江の北である。馬が巻き上げる砂塵の香りも、江南とは少しくらいは違うのだろうか? 孫権は少し嗅いでみようと吸い込んでみたところ、盛大にむせて咳き込んだ。妹の孫尚香が見れば大いに笑ったであろう。
ペッと砂を吐いて口元を拭う。砂の味はやはり同じだ。それでもやはり、吹き荒ぶ風だけは、孫権には味も香りも違うように思えた。
咳もおさまり息を吸って吐くのに違和感がなくなった頃、一頭の馬が駆け寄ってきた。黒い長髪をなびかせて近寄るその人影を見紛うことはない。
「蓮華様、河水戦線に派遣していた
そこで言葉を切って周瑜は孫権に書簡を渡した。後は自分で読んで判断しろというところだろう。
魯粛が書いて寄越した内容は衝撃と言えた。六十万余りの袁紹軍に対して与えた損害五万以上、被害は軽微とある。戦況は騎馬隊の突撃だけで一方的に押し切っていた、とも。李岳軍のみで袁紹軍を圧倒した形だった。李岳と曹操はその後撤退戦に移行した、ともある。
孫権は自らを李岳の立場に置き換えて考えてみた。手元にある兵は曹操軍合わせて十五万だが、敵はその四倍以上。そして野戦である。まさに人頭で地を埋め尽くす、という規模だろう。
死んでこいという意味以外で突撃を指示できるだろうか。
「冥琳」
「はっ」
「どちらに勝ってもらった方が孫呉にとって都合がいいだろう?」
周瑜が少し困ったように微笑む。
姉の孫策が生きてこの知らせを聞いたならば、きっと李岳との決戦を望んだろう。早く袁紹を潰して向かってこい、真の王者を決定しよう、というような気概を燃やしたに違いない。
しかし自分はどうもそうは考えられそうもない。
「いや、いい。変なことを聞いたわね」
周瑜の回答を待たずして孫権は馬腹を蹴って砂塵を巻き上げた。やや遅れて周瑜が続く。
こうして孫策であればどうしたかと考える時は弱気になっている時だ。孫権はそれを自覚していた。強くありたいと思うのと同時に、自分の弱さから目を背けたくないとも思う。重要なのは自分の状態を知ることだ。そして次の行動の指針の助けとする。
「白馬津からここまでは?」
「七日です」
「だったら今頃、さらなる血が流れているわけね」
遠い、とは思わなかった。むしろここまで近寄ることが出来た。天下の命運まで七日の距離。袁術の下で顔色を伺っていた頃に比べれば大いなる前進だ。
もっと強くなれる、と孫権は強く思った。呉の土地の宿命は呉の土地の者が定める。何も知らぬ中央の有象無象が舵を取れるほど、長江の流れは穏やかではない。
「冥琳、広陵の曹操軍に連絡を」
「面会ですか?」
「ええ。呼びつけなさい」
曹操本人ならいざ知らずその部下に対して遠慮するつもりは毛頭ない。いや、曹操であってもだ。
孫権と曹操はしばらく前から共同歩調を取っている。対李岳のためだけの同盟である。天下を現体制でまとめ上げようとする李岳と、それを認められない孫権と曹操との決戦。周瑜と魯粛はそう読み、曹操もそう考えた。
荒れ続ける河北に比べて穏やかな南方。決戦の行方を決するのは我が軍の力だ、という思いが孫権には強くある。そして同じくらい恐れている。
(……勝てるのだろうか)
これまで李岳は常に寡兵で大敵に当たり、勝利を収めてきた。匈奴の大軍、二十万の反董卓連合軍、三方を包囲された本拠地の洛陽……その絶望的な状況から、李岳はいずれも逆転劇を演じて勝利を収めてきた。李岳はまるでそれが起こることを知っていたかのように備え、反撃を企て、叩き潰してきた。そして今や天下最強の軍を率いる前将軍である。
その李岳が袁紹を破り河北の兵と十分な糧食を手に入れたならば、もはや他の勢力は抵抗することすら出来なくなるだろう。
孫呉もいずれ、李岳率いる河北の大軍の前で決断を迫られる時が来るのだろう。従属か、抵抗か。
――周瑜も魯粛も、そして曹操も言った。袁紹を撃退した直後、河北が未だ治まる前の寸暇にのみ勝機があると。袁紹の治世を塗り替え再平定するにはかなりの労力と時間を要する。それを与えてはならない、その直後にこそ勝機があるのだと。
李岳を失えば洛陽は軍の求心力を失い、儒派が再び勢力を盛り返して政治は停滞するだろう。そして全土に再び群雄割拠の機運が盛り上がり混乱が巻き起こる。そうなれば孫呉は全船団に号令を下して西進するのだ。荊州を飲み込み益州を下し、中華南方に長江に庇護された大国家を作り上げる事ができる。
「……まるで絵物語ね」
「蓮華様?」
「なんでもない」
周瑜や魯粛の思惑はどうあれ、孫権は黙って李岳に膝を屈するつもりはなかった。姉の仇でもある。自分の力を試して見たいとも思う。そしてなにより、全力でぶつかり、知ってみたいとも思っていた。そのために曹操と組んで新兵器の習熟を合同訓練を通して行っている。
「熱いわね……」
自分の中にこんな感情があるとは思ってもみなかった。これは恋ではないが、それに近い焦がれ方だ。きっと姉の孫策も似たような気持ちだったろう、と孫権は根拠もないのに確信できた。
だからこそ、勝利し、会い、失望して斬り捨ててしまいたい。
自分の中のいびつな感情に戸惑いながら、孫権は再び馬腹を蹴って砂埃を舐めた。
その怪物、古来より曰く――身は羊の如く、人の面、目は腋下にあり、虎の歯、人の爪、声は嬰児のよう。人を喰う。舜帝も忌んだ四凶が一つ。貪食極まれり。いにしえより財を貪るを
初戦・白馬での激突後、李岳曹操連合軍は撤退戦に移行し早くも八日を数えた。
六十万の袁紹軍を相手に、長大な距離を引き打つように戦うことは筆舌に尽くしがたい難事であり、将兵の負担は既に限界に達していた。
袁紹軍は膨大な兵力という圧倒的な優位点を十分に理解しており、それを存分に活かしてきた。全ての兵が戦闘に参加するわけではないという、大軍においては必ず兵力の余剰が発生するという欠点を時間差での攻撃を企図することによって解消を目論んだ。
つまり昼夜二交代制で戦に臨んできたのである。李岳と曹操は昼に三十万、夜に別の三十万と戦うという極限の二正面作戦を強いられることになった。
袁紹軍は兵力ではなく体力の損耗を図ることに作戦目的の眼目を置いていた。袁紹軍参謀陣は己らが決して無能ではないことを証明した次第である。
さらにもう一つの理由も合わさり、原武の手前十里にて李岳陣営では作戦遂行に対しての意見が割れることになった。長い髪を振り乱し、怒髪天を衝く勢いで張遼が声を上げる。
「もう限界や! 我慢ならん! 作戦変更や!」
その訴えにすかさず馬超が賛同しては拳を振り上げる。
「そうだ、冬至! この錦馬超、こんなチマチマした戦に付き合うために西涼から出て来たんじゃないぞ!?」
馬超は李岳と早々に真名を交わしていた。初めて異性と真名を交換したという馬超、その際のういういしさは見ものであったが、それはまた別の話である。今は別の理由で頬を紅に染め、激高をようよう抑え込んで李岳に詰め寄っている。
「……お二方は戦略の変更を求めるということですか」
徐庶が李岳をかばうように立ちはだかるが、張遼に引く気はなかった。
「うちらの実力知ってるやろ? 何をびびり散らかすことがあるねん? あんな連中をのさばらしといて作戦もクソもあるか!」
「……母上も同じ考えですか?」
「私は決定に従うだけだ」
高順もそうは言うが張遼や馬超の意見を封殺しないということは、心の中では賛同しているということだろう。騎馬隊の中では短期決戦を望む声が主流になっているということだ。張遼、馬超が急先鋒、高順と趙雲は中立、呂布は李岳支持、といったところだろう。李岳軍は一枚岩に見えても意見の対立はある。人が集まれば派閥が作られるということは不可避の摂理なのだ。
そして軍全体を見ても急戦派が多数なのは明白だった。それには全く合理的な理由も存在した。
「……村や街が襲われてるんや。それを素通りして何の軍やねん!」
――袁紹軍の兵糧の欠乏はあまりに深刻だった。袁紹が率いる兵のうち、正規兵はまだしも黄巾軍にはまともな兵站がなかったのである。彼らは食料の調達のほとんどを略奪に頼った。城塞、町里、村落にいたるまで袁紹軍は決して見逃すことなく併呑していき、そして米のひと粒に至るまで全てを接収していったのだった。
六十万の兵が食料を求めて押し迫る様は、正しく人の波と言えた。その海嘯はあらゆるものを食い、飲み、破壊し、奪い、排泄する。ただ鉄剣を握るだけの人は何も生むことはなく、天を覆う蝗の群れにさえ例えられるだろう。黄色の蝗害が通った後は草の根一つ残らないとされ、倒れた騎馬さえ骨となった。
袁紹軍の所業は、李岳軍の士気に深刻な影響をもたらしていたのである。
「……戦略が大事なんもわかる。せやかてな、引けへん時もあるやろ? 今がその時ちゃうんか。それともほんまにびびっとるんか!」
「霞殿、これは袁紹軍の罠なのです。袁紹は大軍に正面から挑ませようとしているのです!」
「んなんわかっとるわ、珠悠! せやから冬至が悩んでんのもな! それをわかったうえで、うちらはこうして声を上げとるんや!」
李岳は瞳を閉じ、頭痛に耐えるように目蓋を揉んだ。脳裏では百度は振り返ったであろう、史実の『官渡の戦い』の知識が巡っていた。
――史実における『官渡の戦い』とは曹操と袁紹が河北の支配権を賭けて戦った一大決戦にほかならない。河北四州を制圧した袁紹は、宿敵曹操の撃滅と皇帝の奪取を目論んで南下を開始する。当初は大軍相手に為すすべなく撤退する曹操だったが、袁紹の幕僚である許攸の調略に成功。兵糧の集積地が烏巣であるという情報を掴み急襲を決行する。袁紹の兵糧をことごとく焼き払い、痛烈な打撃を与えた曹操は袁紹の南下作戦を頓挫させ、逆に反攻の手綱を己が握ることになる。天下の趨勢を占った重要な戦の一つと言えよう。
(未練か……)
既に狂っている歴史に拘泥することは愚かでしかないだろう。洛陽のあの夜から歴史の変化に挑戦し、今この時の最善を選んでここまで来た。
李岳は周囲を見回した。仲間がいた。そして皆、李岳を真っ直ぐ見ている。信じるべきは自分の中の先入観ではなく、別にあるのだともう一度強く思い直すことができた。
それに迷った時にはどうすべきか――幸い、李岳には疑いようもない確固たる指針があったから。
「方針を転換する」
「冬至!」
「城塞の民を救う……軍は民を見捨てない。袁紹軍はここで叩く」
「ようやっとらしくなってきたな、大将!」
これが吉と出るか凶と出るか――そこまで考えて李岳は首を振った。天に吉凶を占うのは趣味ではない、いつだって状況を変えるのは人の営みだ。少なくともそう信じると決めている。功も、罪もである。
「反転するぞ。痛撃を加える。曹操軍にも連絡を」
「部隊の割り振りはどうされますか」
「全軍で反転する」
李岳がそう言うとそれ以上徐庶は反対しなかった。元より街の人々に対して戦う姿だけでも見せたい、というのが李岳の気持ちだった。この戦は防衛戦ではあるが、陣地に依っての防御は選択しない。あくまで平地での戦にこだわる李岳軍は結果的には多くの街や村を放置して撤退することになった。
袁紹軍はその最大で唯一の特徴である大兵力という特性上、止まることが出来ない。兵力はある一定を超えて大軍と呼ばれるものになると別の法則で制約される運動体となる。すなわち飯を食い荒らしては移動するだけの人口動態である。
巨大な生き物と化した軍は決して自ら食料を生産することはない。ただ食い、奪うだけだ。ゆえに軍の進路は大きな街を目指すと決定づけられる。その習性を利用して敵の進撃路を予測するという作戦だったが、黄巾軍のあまりに悲惨な状態は将たちの我慢の限界を超えさせることとなった。それを予測できなかった責任は、指揮官にある。
「霞、ここで戦うと決めた以上、俺の指示には従ってくれるな?」
「んなんわかっとるがな!」
「いや、わかってない」
怪訝そうな表情を見せる張遼と他の面々。徐庶だけが沈痛な面持ちでうつむいていた。
「戦略目標を変更する。略奪を止める術は一つしかない。標的を黄巾兵に絞って徹底的に叩く」
徐庶だけでなく、全員の表情が固くなる。李岳軍も曹操軍も、これまで敵の主戦力である袁紹軍正規兵に的を絞って攻撃を繰り返してきた。粗雑な装備で付き従っているだけの者も多い黄巾兵よりも、主力を削ぐことに注力していたのである。
それを変える。弱兵に狙いを定め、数を減らす――それは兵の殺害に力点を置くということに他ならない。
「……勘違いしないでくれ、俺も方策は変えようと思っていた。霞たちはその背中を押してくれただけだ。当初の見通しが甘かった。それを修正するだけに過ぎない」
李岳は質問を待たずに矢継ぎ早に指示を下し始めた。
「逆包囲戦を敷く。華雄殿。明朝、開戦とともに正面から押しまくってください。副将に徐晃、楊奉」
うん、と頷きかけて華雄ははたと止まった。
「ところで逆包囲戦とはなんだ? 普通の包囲とは違うのか?」
「包囲するのが包囲戦、その逆ということです」
「包囲されろと?」
「ご明察」
ここで笑うことが出来るのが華雄という武人なのだった。
「歩兵が戦線を押し上げる間、騎馬隊を全速で展開。その場の戦闘より移動を優先してくれ。母上――いえ、高順殿」
「応」
「中央に潜り込んだ華雄殿の歩兵部隊と呼吸を合わせ、外縁から攻撃を開始してください。より連携の弱い陣を見極めて頂きたいのです。他の全ての騎馬隊も高順殿の決断に付き従います」
「重い役目だが、大将殿は自信がおありのようだ。それに応えるは、本懐である」
李岳の言葉を先取りするように徐庶が卓の上に進撃図を書いていく。それをほうほうと見ていた張遼が得心したとばかりに言った。
「……逃げ場を作って、誘い込んだあとに仕留めるんやな」
「その通りだ。騎馬隊は上手く立ち回ってくれ、何よりも歩兵との連携が最優先。その結果、途中で判断して撤退を選択しても構わない」
「とどめは誰の役目だ? いや聞くまでもないか、もちろんこの錦馬ちょあぐあぐぐ!」
騎馬隊の役目は誘導でしょ! と突っ込みを入れながら馬超の口を塞ぐ馬岱。やはりこの二人は組み合わせて任に当たらせるのが最適だな、とその場の全員が認識を一致させた。
「紫苑」
「はい、ご主人さま」
一歩先に出て、厳かに拱手しながら黄忠がニコリと微笑む。
「厳顔、文聘、霍峻と共に全ての弓兵を率いて待機だ。連弩もありったけ持ち出していい。決着の場を任されると思ってくれ」
「必ずやご期待に添えますわ」
凛々しくもつややかに黄忠は袖で口元を隠しながら腰を落とした。
「袁紹軍は曹操に引きつけてもらおう」
「飲むでしょうか?」
黄忠の疑念に李岳は肩をすくめた。
「あちらさんにだって猪武者は多いんだ。いい口実にしてくれるだろう」
張遼と馬超が自分たちも揶揄されたと思って複雑な表情を見せるが、間もなく全員で笑いを上げた。
「危険から逃げるより立ち向かうほうが笑いが出るだなんて……本当に困った陣営ですこと」
「なんや紫苑。あんたかてすっかり顔が明るくなってるやないか」
「ふふふ、そうかも知れませんわね……あまりピリピリしてはご主人様に無用の心労を与えてしまうことになります。軍議はこれまでにして、今宵はおそらく夜襲もないでしょうしゆっくりお休みにしましょう」
「紫苑? 紫苑? なぜ俺の手を引く?」
「あらあら、確かにそうですわね……確かにゆっくり休むといったそばから汗をかいてしまっては矛盾というもの……今宵は程々にいたしましょうね」
「何をだ? 俺にとって今すぐ程々にしてほしいのは君だ?」
「兄上ぇ?」
「珠悠、もうわかってるよなこの流れ」
「……信じてますよ、わ・た・し・は」
「と、ととと、冬至!? き、貴様、戦の最中にそんなことを……!?」
「お姉様、鼻血鼻血」
「なんや翠、興味津々か? 混ぜてもらったらええんちゃうか?」
「ま、まぜ? 混ぜ? 混ぜ……!?」
何を混ぜるというんだぁ――馬超の絶叫が陣幕にこだました。
「兄上、いいんですね」
限界を超えて騒々しくなった面々を蹴っ飛ばすように幕舎から追い出してようやく一息入れると、機を見計らったように徐庶が戻ってきた。
「……悩んだよ。悩んだ結果、これに決めた」
徐庶は後ろ手に携えていた鉄瓶から湯を注ぎ始めた。朝であれば霜も鮮やかな時期である。李岳はありがたく湯をもらった。
三年の月日があったのだ。当然第二案、第三案まで用意している。元は別の理由で撤退戦を断念せざるを得ない時に用意した計画だったが、いずれにしろ理由は関係ない。ここで食い止める妥当な理由が発生したまでだ。
「戦というのは、本当に始まってみないとわからないものですね。私も如月様も、まさかこうなるとは」
「袁紹軍が正規兵だけならな、戦争の理屈で決着がつく。戦に勝てばいい。だがあの黄巾軍を見ろ。あれが軍か? あれは流民か精々が野盗だ。袁紹を討ったところであいつらは止まらない。答えは一つだ。単純に減らすしかない」
減らす――その言葉を放った自分を李岳は恐れた。無残な殺戮と何が変わるというのだろう。李岳は考えないようにしたが、その疑念は晴れない霧のようにまとわり付いて離れなかった。
「……如月はどう思うかな」
李岳はこの戦を面で捉えていた。広大な地域全てを陣として考えることにしたのである。そして本陣を陽武に置き、そこに司馬懿を配置して情報拠点としていた。軍勢は臨機応変に戦闘、移動を行うが、その根拠となる情報は司馬懿に頼ることとしていたのである。それに河川が多い官渡流域で移動を繰り返す以上、渡河用の船や物資を後方から手配することは欠かせなかったからでもあった。
この戦での司馬懿の貢献度は計り知れない。綿密な創案も計画も運用も、司馬懿の苦悩と才能が作り上げたものだった。
「如月様がここにいなかったことを、兄上は幸運と思うべきかもしれません」
「怒られるかな、やっぱり」
「いいえ。悲しまれるでしょうから」
それでも司馬懿は内心をおくびにも出さないだろう。それがなお辛い。
「如月にも伝令を出してくれ。もう合流してしまっていいだろう」
「既に」
「……もう少しの辛抱だ」
「調略を待っておられるのですか?」
李岳はこくりと頷いた。司馬懿、張燕、廖化は袁紹軍への工作を戦闘中にも続けている。第一目標の許攸とは良い感触を得ているとのことだったが、戦略を変更する以上不確定要素が増大してもいるだろう。しかし曹操も独自に調略を進めており、その成否に期待しているところも大きい。時間が敵となるか味方となるか、微妙なところといえた。
「撤退戦は思うように戦果を挙げられなかった。その分調略の効果も薄い。ここで一撃を加えることは、その意味でも重要なんだ」
そう言い聞かせる他なかった。自分を納得させることに、李岳はいま途轍もない労力を払っている。
「恋殿と少し話されては」
そうすれば少しは気も休まるだろう、と徐庶が目で訴える。
「お前な、そんな気遣いばっかりするようになって……可愛くないぞ珠悠」
「気遣われる方が悪いのです。気づかないふりをするのは、その百倍も悪いのですが」
「なんのことやら」
徐庶の大きなため息を何とか聞かないようにしつつ、李岳は卓上の地図に目を落とした。大きく塗り潰された一角がある。それはただただ袁紹軍を指し示しているものだ。対峙しているだけでは本陣がどこなのかすらわからない。圧倒的な数。まるで巨大な獣。
「
「……兄上?」
「なんでも食う獣だったよな、確か」
「はい。古来より言い伝えられる容貌怪異の魔獣です。貪食の化身であると言われています」
束の間考え、徐庶は言った。
「袁紹軍、そして黄巾軍がそうだということでしょうか。全てを食い尽くす化け物であると」
「いや違う。あれは人間だよ。多いだけのただの人間」
李岳は顔を上げると、苦しみをこらえるように笑った。
「化け物は俺だ。全てに勝とうとしているこの俺こそが怪物だろう。立ち塞がる全てを倒し、食い、巨大化している。これから何十万という人を食い殺そうとしている怪物」
李岳の眉間に見えたしわを、徐庶は痛ましく思いながらもう一度湯を注いだ。ありがとう、と湯飲みを両手の平で包んだ上から、徐庶もまた手のひらを重ねる。驚くほど冷えていた手に、徐庶は喉をつまらせた。