真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第十三話 おしよせる波

 於夫羅は演説を終えると悠々と宮殿へ戻った。返す返すも小気味よく、その大きく突き出た腹を叩きながら哄笑を響かせ続けた。

 現単于である父の羌渠にはわずかに及ばぬが、その血をよく受け継いだ於夫羅はやはり魁偉とよべるだけの大柄であり目方は二百斤に届かんとした。しかし突き出た腹も盛り上がった肩もよくよく見れば脂ではなく隆々たる筋骨であり、戦場においてはその大きく見開いた両の瞳を炯々と輝かせ四方八方を駆けまわり、陣営の区別も付けずに血を求める荒武者ぶり。敵も味方も、よもや人ならざる者ではないかと畏怖と嫌悪の目で彼を見た。

 暗殺を警戒し、私室は子飼いによる十重二十重の警備を敷いてある。単于のそれより厳重なのは於夫羅の疑り深さ、執念深さをよく表していた。

 

 ――だがその男は、かような警戒など児戯に等しいとばかりに待ち構えていた。

 

「お見事でした」

「……これは驚いた、部族の者さえ容易には通さぬように申し付けてあるというのに、よくぞ入り込めたものだ」

「まぁこの程度であれば」

 こともなげに言い放つ痩身の男――田疇(デンチュウ)とだけ名乗った顔色の悪い、書生がごとき男である。身の丈は八尺もあるが、柳のように痩せた体、か細い腕、かすれた声は病身のようにも見える。全身に気怠い淀みをまといながら田疇は一礼した。

 武芸の心得などありそうもなく、於夫羅が戯れに手を伸ばせばどことなりともへし折ってしまえるに間違いない。だというのに単身忍び込み、幽鬼のように精の欠けた顔で怯え一つ見せない。こいつが狼狽した顔色はどんなものか、今ここにある刀で両断してみれば驚くだろうか、あるいはやはり何も感じないと無表情のまま死ぬか――於夫羅は自らの内から噴出しかけた欲望を押しとどめることに大層苦労した。

「――フン! まあよい。御主君のご機嫌はどうだ。漢の詔書、さぞや手練手管を用いただろう」

「何ほどのこともなく……」

「フフフ、洛陽を落とした暁には謝礼をさし上げねばな……女を千人ばかり贈れば足りるか?」

 田疇はため息さえこぼすことなくわずかに頭を振るばかりだった。

「お気になさらず……戦後のことよりも、まずは本分を。此度の戦は誠にもって重要となるもの。努々油断成されぬように」

「ここまでお膳立てを頂いたのだ、あとは喰らうだけよ、食い残しだけを気にしなくてはならんな!」

 於夫羅は鋭い犬歯で笑いを噛み殺しながら豊かな髭を撫でた。

 

『長城の南へ匈奴の騎馬隊を漢の手引きにより誘引する。そのまま洛陽を攻め落とし皇帝を確保。さらに長安、漢中と西へ攻め込み羌族と合流――騎馬民族による帝国を築く』

 

 その案を持ちかけてきたのはこの田疇であった。はじめ於夫羅は自らを謀るかと田疇を殴り殺しかけたが、命乞い一つせずに十日後には満足する知らせを寄越すと言ったふてぶてしさを面白がり、さて約束を守れないであろう田疇に対してどのような残忍な方法で処刑してやろうかと思いを巡らせながら待つことにした。

 於夫羅がその誘いに乗ったのは気まぐれとしか言いようがなかったが、だが確かにその十日後に羌族が西涼で決起し、中原は戦乱の予感に緊張し、朝廷軍が鎮圧すれども手間取ったことには間違いなく、とうとう皇帝の名で匈奴への兵力供与の打診が寄越されたのである。

 夢物語としか思えぬ計画であったが、難関であったはずの(かんぬき)は容易く外れ好機は天与のごとく訪れた。帝国を築く――帝国? ……帝国! 漢帝国を廃しそれに代わり河北を収める匈奴の国! あるいは羌、あるいは鮮卑、あるいは烏桓をも糾合し、そしてそれを治める者は――!

 長江黄河流域の肥沃な大地をなぜ漢人ばかりが独占してきたのか。辛く長い冬。砂漠が運ぶ乾燥した風。長城などという馬鹿げた代物まで建ててやつらは北方に怯えてきた。そのような惰弱な者共は今や内紛に荒れ自力で動乱を鎮める力すらなく、今上皇帝は配下の言に右往左往踊らされまともに治世さえ取れない。戦上手の衛青(エイセイ)霍去病(カクキョヘイ)も死して百年をとうに過ぎ代わりの将軍さえいない、我が騎馬軍団を押しとどめるものなどどこにもいない! そして樹立するのだ、匈奴の帝国を。一時の略奪ではなく、長城の内側に匈奴のための王道を開く。胡による、胡のための国。そして我が初代皇帝として――田疇の言葉は於夫羅の思考のくびきを外し、野望を植えた。

「……河北においてすでに太祖劉邦の血は衰え、その根源は匈奴でこそ色濃く受け継がれておられると聞きます。武を以って興された天下であるならば、武力で滅び苗床となることもまた本望でありますまいか」

「耳聡い男よ」

 今の単于の血統は代々漢の皇室に連なる者を妻としてきた。劉の血が尊いというのなら、自らの血こそまさに何よりも濃いものだと於夫羅は自負していた。そして後にも先にも例のない勇者であるとも。

 於夫羅はかめから柄杓で馬乳酒を汲み出すとそのまま飲み始めた。昂ぶりが腹の底をもどかしくかき混ぜた。二斗を飲んだまま戦場に出て三十人斬ったことさえある。飲むかと田疇に差し出してはみたが、書生がごとき男はやはり魚の死んだような目を伏せ首を振るばかりであった。

 

 ――田疇の持ち込んだ機会は千載一遇と言えた。毎年漢から黄巾賊討伐のために出兵せよとの要請を受け、それに応じてはきたものの精々数万の動員でしかなかった。長城の監視は厳しい。わずかなりとも約定の兵数と違えば門が開くことはないが、ところが今回は元々十万以上の動員を要望されており、堂々と大兵を率いることができる。黄巾の乱によって中央の兵力は地方に分散し、司隷の守りは手薄、主たる将軍も手足をもがれたようなものだ。問題は并州の防備であったが――

 

「防衛戦を張るとしたら……丁原。俺とて一目置く武者だが」

「ご心配なく。丁原は并州刺史の任を解かれ中央へ召されます。執金吾の位が代わりに与えられますが、兵の掌握には時間がかかるでしょう」

 田疇はくたびれたように言った。

「なんだと?」

「……露払いのようなものです。お気になさらず」

 於夫羅には既に勝利が確たるものとして差し出されたかに見えていた。

 その顔にはいよいよ獣のような笑みが浮かんだが、彼の暴虐なる姿を見せられて怯まぬ者がいるかどうか、そう思えるほどのいびつさであったが田疇は臆するという感情を母の腹に忘れてきたかのように変わらぬ平静さで聞いた。

「ところで、先ほどの御口上にて、聞き及ばぬ名を耳にしましたが――確か、李岳、と」

 この時はじめて暗い光をたゆたえているだけだったカラス色の瞳に、わずかだけ精気が灯った。於夫羅は憎々しげに口の端を歪めると、人のものとは思えない犬歯をむき出しにして吠えた。

「飛将軍の李広の末裔だといういけ好かん餓鬼だ!」

「飛将軍の子孫?」

「本当かどうかすらわからん。いつぶち殺しても構わんが、ただの死に方ではこの於夫羅の気が済まん! あのような漢人か匈奴かもわからぬ、成り損ないの惰弱な餓鬼、すぐにその本性を暴いて死罪にしてくれる」

「……どうしてそこまで拘わるので」

「鮮卑との戦で、我が功を横取りしたのよ。あの時の不敬、ただでは済まさん!」

 於夫羅の殺気は波紋を帯びて部屋を揺らしたが、やはり田疇は気にもとめずに思案した。数年前に匈奴は鮮卑と戦をしている、その時に李岳という名が挙がったかどうか、田疇の記憶にはなかった。功を上げたというのなら論功行賞の席にて何かしらの名誉を賜るはずであるが、あるいは見逃してしまったか――そのとき、於夫羅とはまた異質な殺気が部屋の外でこだました。折り重なるような悲鳴と打撃音が轟いたあと、扉を押し破るように入ってきたのは於夫羅の実の弟、呼廚泉(コチュウセン)であった。

 部屋には誰にも入れるなと衛兵に言ってある、わずかに開いたままの扉の床にはひどい血溜まりが広がりを見せている。自軍の兵士であろうと構わず両断して呼廚泉は入室してきたのだ。於夫羅はとっさに後ろを振り向いたが、その時すでに田疇の姿はどこにもなかった。

「先鋒を任せた男のこと、聞き及んでおりませんぞ……!」

 呼廚泉は血の滴る大刀を構えたまま、於夫羅ににじり寄って先鋒の大役を任せてもらえなかった不名誉に憤った。熱弁するあまり刃が何度も於夫羅の目の前を横切りその鼻先をかすめる。

「おお、弟よ……そこまで言うのであれば」

 於夫羅は呼廚泉の肩を抱くと、李岳という名を何度も口にしながら、望むのならばその男が先鋒に相応しいか否か確かめれば良い、とささやいた。脳裏には八つ裂きにされる小柄な男の悲鳴を想像して。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 昼休み、一緒に昼を取ろうと呂布は岳の元へやってきたが、岳は鼻歌まじりに地面に落書きしており一向にこちらへ向き直ろうとはしなかった。

 上機嫌なのはよいことだが、相手にされないのはつまらない。

「何してる?」

「うん、ちょっと」

「ちょっと?」

「そう、ちょっと」

 岳はあぐらを書いて地面を睨んだまま、時折指先で字を書き連ねては再び唸ることを繰り返した。

 呂布はその様子を眺めながら自分の分の食事をペロリと平らげた。が、一向に足りないので岳の分の包みを手にした。

「昼」

「うん」

「食べる?」

「んんん」

「食べない?」

「ん、うん。ごめん、今ちょっといいところだから」

「……そ。もらっていい?」

「うん」

 ぶすっとつまらなげに、岳の分の食事で頬をいっぱいにふくらませながら呂布は遠ざかっていった。その背中を目で追いかけることすらせず、岳は地面にいびつに書きこまれた文字を睨み続けていた。そしていくつか書き込みを増やしては消し、また書き足しては消した。

 ここ数日、岳は暇さえあればとある計算を行なっていた。

(さすがにアラビア数字じゃないと計算なんかは不便だよな……いやしかし、これは結構楽しいぞ)

 新たな町の建設ということを岳は本気で考え始めていた。長城を越えて北側は匈奴の大地であるが、そこに匈奴と漢人が共に暮らせる町を作る、という想像がここ数日彼の頭を離れない。

 目下最優先事業として卒羅宇の部族と共に塩の発掘を営んでいるが、あくまで一時的なものであることは関わりあう全員の見解が一致するところだった。

 いずれ破綻することは目に見えている。漢での流通に限度があるからだ、漢の富も無限ではないし、歪な金の流れはいずれ誰かに察知されるだろう。だがそうなった場合、果たして漢の役人は取り締まる事ができるだろうか。

 まず漢の領内においては売買、流通に対して厳しい取締りが行われるだろう。塩はその取り扱いを厳しく制限され、国家による専売が基本だ。だが黒山賊の張燕もさるもの、容易くしっぽを掴まれるようなことはするまい、あの手この手で誤魔化し続けるはずだ。

 だが、仮に急に普及し始めた闇塩の生産拠点が匈奴の地にあると役人たちが知ったらどうするだろうか――軍を差し向ける?

(ありえない。匈奴は名目上は漢に礼を取ってる同盟国だ。匈奴が匈奴のために塩を取ることを規制するなんて出来るわけがない)

 可能性は二つある。

 まずは漢人には売るなと厳しく言いつけることで、それによって匈奴の消費は許しても漢への流入を防ごうという目論見である。が、これは消極策に過ぎない。賊はあの手この手で漢に塩を持ち込むだろう。匈奴の地で匈奴が誰に塩を譲るかは基本的には自由意志だ、どれほど強く要請しても口約束では心もとない。

 岳が期待するのはより積極的な策だった――漢による塩山の買収である。

(そうなれば……)

 条件が少ないので雑な試算しか組めないが、仮に漢人が塩山を買収した場合、はじめは匈奴の労働者と漢人の管理者という形を取ることになるだろう。匈奴が掘り出した塩を買い取り、漢へと持ち込む単純な構図であるが、物事というのは全て発展を遂げるものだ。つまり、漢人の流入が増えやがて定住するものも現れるということだ。だが匈奴の土地であり匈奴の塩山でもある、匈奴の者の中にも住み着くものが現れるはずだ。

(なるほどな……)

 岳は現在の産出量と規模と必要な人員を概算で地面に書きこんでは、日々の食料や生活必需品などの項目を書きたした――漢人が二千人暮らすにしても膨大な量である。塩山の官吏を受け持つことになった官吏の扶持では到底賄いきれる量ではない。恐らく并州を挙げての事業となるだろう――行き着く先は『炭鉱町』の建設である。

 匈奴と漢人、あるいは鮮卑も烏桓も、民族出自が関係なく入り乱れる誰のものでもない、どこでもない町――理想郷とまでは言わない。全てがうまくいくとも思わない。だが始めてしまえば何かが動き、その都度修正を繰り返していけばいつか目標にしたものに辿りつけるのではないか、と岳にはこの地に生まれ落ちて初めて希望に近い感情が胸に沸き起こるのを感じた。

「楽しくなりそうだ」

 匈奴の人々が岳は嫌いではない、漢人も嫌いではない。ただ暴虐的な君主や人を侮る不遜な輩が嫌いなだけであった。塩の発掘やその売買を行う商人ばかりが暮らす町さえ作ることが出来れば、きっと素晴らしく居心地がよく面白い町になるだろう、岳には美しく張り合いのある未来に夢中になっていた――やがて、遠くから彼の名を呼ぶ声が聞こえるまで、岳は夢を描き続けていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 噂に聞いた塩山は意外な程の規模で、趙雲は舌を巻き苦笑した。

 道案内を務めてくれた黒山の使いに礼をいい、趙雲は白龍の体をももでしめて急ぐよう促した。白龍は我が意を得たりとばかりに斜面を駆け下ると、匈奴の人々が住む移動式の家々に向かって一直線で飛んだ。数百戸、いや数千戸に及ぶだろう。道具で岩を叩く音もまだ一里は離れているというのに小気味よく聞こえる。遊牧生活が常となる匈奴の人々が岩山を掘り抜く光景は趙雲には馴染みがなく、これを指揮している小柄な男の正体への興味がいや増した。

 程無く集落に近づいてくると、馬蹄の音を聞きつけた匈奴の者が二人三人と顔を出してきては待ち構え始めた。

 馬上の女性に見覚えはないが、敵だというなら一騎で来るのもおかしい、とはいえ見知らぬ者をやすやすと入れるわけにもいかない――人々の思惑をよそに、趙雲は一息に集落まで寄って白龍から飛び降りると、臆面も無く言った。

「李岳殿はおられるかな? 愛しの趙子龍が訪ねてきたと伝えてくださればわかるはず」

 

 ――果たして李岳は飛んできた。困惑と驚きが同居したような顔をして。

 

「……これは、趙子龍殿」

「久しいですな、李岳殿」

 胡服に身を包んだ男の姿を見て、趙雲は初めて会った時の印象をがらりと変えてしまった。いやこちらが普段の彼、つまり本物であるからして、上手く騙されていたに過ぎないのだと思うと、趙雲は笑わずにはいられなかった。李岳はその趙雲の笑い声に不愉快に過ぎると眉根を寄せたが、やがて盛大に溜息をついてから言った。

「張燕から聞きましたか」

「ほう、さすがだな。話が早くて助かる」

「他に伝手はないはずですから……」

 確かに、と趙雲は頷いた。張燕のことをあらかじめ知っていなければ、幽州で披露した李岳の説明に疑問を浮かべることはなかっただろう。地理に疎い并州の地でもある、途中まで案内されたからこそ何とか辿りつけた側面もあった。

「しかしよくまあ堂々とあれだけの大嘘をつかれたものだ」

「見破っていた方が何をおっしゃいますか」

「ま、上手くかわされたが」

「よく言います。本当に困りましたよあの時は」

 李岳はふてくされるように頬を肩を竦めて続けた――楼班の仇討ちをするためにはあの場で公孫賛に対して信頼を得る必要があった。だというのに目の前にいる誰かさんが興味本位でぶち壊そうとした、あの場で馬をどうやって持ち込んだかという追及が続けば張純の言い分がもっともらしく聞こえ、あるいは事をしくじっていたやもしれぬ、と。

「そんな風には見えなかったが」

「その場で上着を脱いで差し上げたかったですよ。どれほど汗をかいてたか……」

「なに、結局首尾は上々だったろう?」

「ええ、お陰様で。ご助力いただきましたし」

 趙雲は公孫賛が決闘を受け入れるか否かで逡巡した際、真っ先に立ち上がると『仇討ちの覚悟あっ晴れ!』と支持を訴えた。その言葉を皮切りに雪崩れを打つかのように武官が共鳴したのだが、趙雲は自らの手柄だとは全く思っていなかった。

「私の声など意味はない。白蓮……公孫伯珪殿は優柔不断で抜けてるところもあり時におっちょこちょいで頼りなく思える時もあるひどいお人よしもいいところだが……」

「ひどい言い草だ……」

「だが、大きなところで間違えることのない根のしっかりとした武人だ。私がいらぬお節介をせずともきっちり李岳殿の期待に応えてくれたことだろう」

「……それこそ私の力ではありません。全ては楼班様のお力ですよ」

 趙雲の脳裏にけなげな少女の凛とした立ち姿が思い浮かんだ。鮮烈な青の髪、突き出た耳、揺らぐ事無き双眸に風を纏いて打ち放った目にも留まらぬ技――時期が悪かったが、いずれ手合わせ願いたいと思うほどの力量を備えた人であった。

「その後は?」

「送り届けました。ご葬儀を終えて私は帰りました」

 不意に李岳の表情に名状しがたい複雑な表情が浮かんだが、なんと言ってよいかわからず趙雲は首をかしげた。そして思い出したように周りを見渡し、作業に勤しむ匈奴の人々の動きを見て言った。

「ところでお主は心配にならないのかな? 私が官軍に通報してもよいのですぞ」

「ここは匈奴の土地ですし、別に漢に密売しているわけでもありませんから」

「まだ、であろう?」

 趙雲の表情には意地の悪い笑みが浮かんでいたが、李岳は期待に応えることもなく素っ気なく首を振った。

「……いずれにしても、趙子龍殿は密告などということはなさらないでしょう」

「なぜそう思う?」

「そうであるならここへは辿りつけていないからです」

「その心は」

「張燕はあこぎで何を考えているかもわからない一筋縄ではいかぬ人ですが、判断に間違いはない。張燕が貴女をここに寄越したということは、危険がないと考えたからでしょう。私は貴女を信用しているわけではありません、張燕を信用しているだけです」

「なるほどな」

 やはり切れる、内心溜息が出るばかりの回転の早さであったが、恐らく武のほうも持っているだろう。袍を着ているときにはぼんやりとしかわからなかったが、胡服になるとその身のこなしの柔らかさがよく見て取れる。人並み以上の修練を課したものにしか宿らない気の巡りも趙雲には手に取るようにわかった。

「ところで、一体何をしにはるばるこの地までいらしたのですか。まさか世間話というわけではないでしょうに」

「別段世間話でも構わん。構わん、が……」

 趙雲はいつも浮かべる不敵な笑みではなく、にこりと花のような微笑を浮かべてやおら槍を李岳に突きつけた。

「何を使われるのかな……戟かな、槍かな?」

「……ご冗談を」

「乙女の純情を冗談とは言葉に過ぎる。張純率いる軍勢を押しのけて楼班殿を救いだした手並み、是非拝見したいと思うたまで……」

「ただの素人の手慰みです。面白いことなどありませんよ」

「それを決めるのは私だ」

 場所を移しましょう、という李岳の言葉に趙雲はいつもの不敵さで笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 塩山から程なく離れた竹林まで歩くと、三間離れて岳は腰の物を抜いた。趙雲は既に奇形の槍を構えてこちらに向かっている。その穂先が眼前三寸に突きつけられたかのように感じられ岳は息を飲んだ。

 

 ――趙雲。

 

『三国志』が紡ぐ物語の中でも特に気高き武人として誉れ高き人。岳の脳裏に『演義』における数々の武勇伝が思い浮かんでいった。単騎で敵軍の中を駆け抜け劉備の妻子を助けたこともあれば、蜀と魏の雌雄を決する戦の一つであった『定軍山の戦い』では大胆な戦略で魏軍を圧倒し「子龍は一身これ胆なり」とまで称された知勇優れた将軍である。

 眼前に控えたる女性がその趙雲であるという証は、まさに槍の一本で済んだ。女性であることも艶やかな出で立ちも関係ない。その槍を構えた立ち姿だけで、岳は趙子龍であることを確信した。

「さて、はじめようか」

「……もう既に降参したい気分ですよ」

 岳の軽口を装った本音に、しかし趙雲は言葉を返すことなく気を放った。言葉が風に流れ余韻さえ消え去った瞬間、二人は何の予兆もなく馳せ違った。

 竹林の中を硬質な音が響き、切り捨てられたかのように笹の葉が散った。

「――何が素人の手慰みだ。李信達殿、相当の使い手ではないか」

「まさか……」

 赤い軌跡を描いて槍は走る。一撃必倒の勢いも甚だしい。

 二度、三度まで受けきったが、四度目には押され始め、五度目には得物を弾き飛ばされ岳は地面を転がった。手から離れた得物を拾い直しもう一度向かい合う。再びの趙雲の攻め――様相は巻き戻されたかのように全く同じことが再び繰り返された。得物が弾き飛ばされ、岳が転がる。そこから三度の対峙。岳だけが一方的に荒い呼吸を繰り返しており、趙雲はそよともしない。

 風よりも疾く、雷より迅い。天下無双の槍の使い手、趙子龍。岳は本心から賞賛した。これほどの武を修めるために一体どれほどの苦難を乗り越えてきたのか、速いが上手く、意図にも勘にも頼り切らぬ。磨き上げられ織り成される技はまるで精錬された玉の如く、到底自分ごときが太刀打ち出来るものではない。そうして三度転がされた岳は再び立ち向かおうと構えたが、趙雲は既に殺気を収めつまらなさそうに岳を見ていた。

「もう良い。わかった」

「……ありがとうございました」

 何か怒らせてしまったように不機嫌だったが、岳には見当もつかないのでただ謝辞を述べるにとどまった。あるいは己が未熟に過ぎて不機嫌になったのだろうか――

「一度目は様子を見た。二度目は侮った。三度目は倒しにいったが、ことごとく躱されたな」

 趙雲の目にははじめ会った頃の諧謔や笑いなどなく、ただ怪訝と不信だけが宿っていた。

「……運が良かっただけです」

「ならば、私の腕がまだまだだということになる」

「そのような……」

「あるいは、いつも私の槍より速いものを相手にしているか、かな?」

 再び槍を構え、李岳に突きつけながら趙雲は凄んだ。岳は趙雲の槍を見切ったわけでもかわし切ったわけでもない、ただ逃げただけだった。追い打ちをかけられないような巧妙さを発揮してはいたが、背を向けて逃げ出すことと変わりはない。ただ尻尾を巻いて逃げ出すこととの違いは、恐れ怯えるかそうでないかとの違いでしかないのだが、やはり趙雲には全てが見透かせるようで――さてなんと弁解しようか、と岳が頭をかいたとき、不意にもう一つ人影が現れ二人の間に割って入った。岳が驚いたように一歩後ずさったが、新たに現れたもう一人は彼には目もくれず趙雲を鋭く睨んでは気を放った。

 それは見慣れた背中であった。

「恋!」

「……誰」

「ええと、趙子龍殿といって」

「冬至には聞いてない……誰」

 呂布の体から全身全霊の殺気が迸り――岳は初めて彼女と会った時のことを思い出していた。虎と見間違う程の圧倒的な捕食の色、抗う術すら思い浮かばない程の力量差――だが向きあう趙雲の闘気もいささかの遜色もなかった。口元には獰猛な笑みを浮かべ、低く低く腰を下げての構えは今にも飛び立たんとする龍の趣さえある。やはり趙雲は謙遜を言った、と岳は思った。初めからこのような本気の気をぶつけての立ち会いであったなら、自分などは一合たりともまともに打ち合うことはできなかったであろう、と。

「なるほど……この者が李岳殿の師か。納得だな……」

「……冬至をいじめた」

「違う、恋」

「いいや何も違わん。私はそこの者を突き殺そうとしていたのさ」

 呂布の体勢が一段と低くなった。獣のような唸り声が喉から溢れる。

「いやはや……常山を出て幾星霜、無頼の放浪を続けてきたものの、終ぞ出会わなかった本物の強者にようやく出会えた。震えが止まらぬ……我が名は趙子龍。尋常に立ち会われよ」

 呂布の手には今まで山を掘り抜いていたつるはしが握られているばかりだったが、今の彼女が手にしているそれはどんな敵だろうと打ち砕く武器にしか見えなかった。岳は耳鳴りを覚えた。その場に踏みとどまっていることが何かの幸運であることのように思えた。竜虎相搏つ。竹林の笹が全て吹き散らかされるのではないかと思えるほどの強風が吹いたが、それがうち波寄せる二人の闘気であることは何より明らかだった。

 もう既に激突することを待つばかり。岳には戦いの行く末がもはや見え無かったが――二人の武器が打ち合わせられることはなかった。集落めがけて駆けてきた早馬の知らせが、こだまとなって届いた。

「単于よりのお達し! 匈奴の全兵出陣の用意! ――漢を討つ! 漢を討つ!」

 知らせは竹の海を泳ぎ、さざなみとなって幾度も押し寄せた。


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