真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二十三話 河水渡河揚陸作戦

 界橋で冀州の命運を賭けた激戦が繰り広げられている頃、河水(黄河)を挟んで袁紹軍と曹操軍、洛陽軍が対峙していた。

 当初河水の南岸、支流の至るところに袁紹軍の前線基地が存在したが、張遼を筆頭にした董卓軍洛陽騎馬隊と曹操軍との共同戦線により、袁紹軍は間もなく陣地を放棄して北へと後退していった。曹操と張遼は迅速な用兵を以って北に()う。原武、烏巣、白馬と順に攻略し、とうとう河水に至った次第である。が――

 

「厳しい」

 司馬懿の呟きは河水を望む丘の上、吹きすさぶ秋風にさらわれた。対岸には袁紹軍の黄旗がはためいている。

 袁紹軍は決して安易な敗退を繰り返しているわけではない。こちらをおびき寄せるように後退しているだけで、一度も打ち崩すことはできなかった。

 敵の指揮官は西園八校尉として曹操と肩を並べていた淳于瓊。河水に連なる複数の支流での渡河を繰り返しながらの撤退は容易なものではないが、曹操も司馬懿も隙を見つけることは出来なかった。こちらが兵力が劣ることを差し引いたとしても、厄介な相手といって差し支えない。

 ここまで来たからにはどうしても河水を突破したい。司馬懿は強く思う。

 そのためにかなりの無理もしている。一万騎のみの進軍となれば、問題となるのは物資の輸送であるが、陳宮と賈駆がなけなしの兵糧をかき集めてようやくである。この上『駅』がなければ未だ洛陽から進発できていなかったに違いない。『駅』は当初は防衛戦の些細な対策の一つに過ぎなかったが、戦後その規模を拡大して応用されていた。いずれは網の目のような商路となり、やがて結節点は街にもなるだろう。

 思うに、李岳が敷いた『駅』は鄴に至る道なのだ。李岳の当初の構想であった洛陽、兗州曹操、幽州公孫賛による三位一体の包囲網――その構想の中にこの『駅』も含まれていた。最速の騎馬隊による、不眠不休の機動戦術による鄴への急襲。発動していれば喉元に刃を突きつけられたであろう。

 だからこそ、司馬懿は無念だった。李岳は何らかの理由で構想を諦めざるを得ず、洛陽を出立した。悔しかったろう、と思うだけで目元が痺れる。李岳にしか見えないものがあり、誰にもわからない理由を元にいずこかで孤塁を守ろうとしている。

「司馬仲達」

 声をかけられ、司馬懿はこみ上げてきたものを抑えて振り返った。立っていたのは高順。そしてその数歩後ろには不貞腐れたようにあさってを見ている呂布。

「高順将軍」

「どう見る?」

「正攻法の突破は難しいでしょう」

「うむ」

 司馬懿は眼前の流れの向こう、対岸の袁紹軍陣営を指差しながら言った。

「あるとすれば渡河の誘引。それと同時に逆撃ではないかと……しかし餌がない。兵力もほぼ同数です。敵に油断はなく、突くべき隙も今のところ見えません」

 口にするまでもなく、無理だ。袁紹軍は攻め手ではない、二正面作戦を抱えている守り手なのだ。しかもこの戦線は主戦場ではない、厳命されているのは勝利よりも堅守だろう。よほどのことが無い限り犠牲を覚悟しての渡河を目論むことはない。

「そうだな。だがそれではわざわざここまでやって来た意味はない」

「承知しております」

「一千だけ、なんとかしたい」

 数字の意味を司馬懿はすぐに察した。一万のうちの一千。騎馬隊中の騎馬隊。最強の最小兵団。

「一千だけ、ですか」

「ああ、一千だけだ」

「恋が行く」

 二人の間に割り込んで、強い口調で宣言する呂布。

「……呂奉先殿、しかし」

「こんなやつに聞かなくてもいい」

 振り払うのが難しい川辺の枯れ草の火のように、司馬懿の心の奥底から怒りの鎌首がもたげるが、司馬懿はこらえた。呂布は司馬懿よりも軍での階級は高く、先任でもある。しかし丞相府内では参謀として権限を有し、実質的な指揮権も与えられているのは司馬懿だ。そして呂布は丞相府にその席を預けており、特別な命がない限り司馬懿の隷下となる。

 だが呂布の不満はそういった地位序列にまつわるものではなく、別のところにあるだろう。司馬懿にはそれがよくわかった。その全てが司馬懿を苛立たせる。

「……どこへ行くかわかっているのですか、呂奉先殿」

「川の向こう」

「その後の話です。貴女に何が出来る? 兵糧は? 方角は? 戦略は? 何もないではないですか、何もできないではないですか」

「できる。やる」

「できない! 貴女一人では!」

 沈着冷静の言葉を胸に生きてきたというのに、こんなに声を荒げてしまうのが司馬懿は悔しかった。呂布の舌打ちが続く。沈着冷静とか今はもうどうでもいい、本当に嫌い――そう思った時、高順がぽつりと言った。

「一人では無理か。では司馬仲達、貴様も行け」

「……は」

 一瞬頭の中が真っ白になった。行く、行くとは。

「不満か?」

「いえ。ただ渡ったとして、その先については、何も」

「それは貴様が考えよ。張文遠……いや、霞には私から話しておく。策は練っておけ」

 高順の言葉はそれが全てだった。割った竹など相手にもならない潔さ。無表情のまま驚き慌てる呂布は、踵を返して去って行く高順を押しとどめようとするが、言葉が出ないのか、あうあう、とだけしか言えず、であればと高順は取り合う事もなく去った。

 司馬懿は呆然と、呂布はムッツリと膨れたまま高順を見送った。

「……方法だけ教えてくれたらいい。来なくていい」

 奇妙な沈黙の後、呂布はそう吐き捨てるように言った。

「私抜きで行きたいのなら、空でも飛べばよろしい。それならお一人でも行けますよ」

「……チッ」

「私と行くのが不満ですか。どうせ貴女一人ではどこへも行けないというのに」

「来ても邪魔」

「黙らっしゃい」

 舌打ちし、足元の土を(わずら)わしそうに蹴って呂布は言った。

「邪魔になれば捨てていく」

「……やれるものならおやりなさい。遠くないうちに貴女は私に感謝するのだから、今の態度を改める言葉でも今のうちに練っておくことです」

「馬鹿は話が長い」

「はぁ? 意味がわかりません」

「わからないってことは、やっぱり馬鹿」

 呂布は今度こそ心の底から嫌そうに顔をしかめ、聞くに堪えない悪態を吐きながら去っていった。司馬懿はわなわなと震える拳を握りしめたままその背を見送り、やがて見えなくなると近くの木の幹を思いっきり蹴り上げ、重心を崩して転んだ。痛い上に、手のひらから血が出ている。司馬懿はうう、とかすかに涙を浮かべてしまいかけたが何とかこらえた。

「……これも全部、冬至様のせいですから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 数日後、万端準備を終えると司馬懿は曹操陣営に出向いた。

 共同戦線を張っているとはいえ、書簡と使者のみでのやり取りでこれまで済ませていた。馴れ合う相手ではない、相互に警戒を厳にしていたのである。つまりこの共同戦線では初顔合わせになる。

「一別以来ね、司馬懿」

「曹兗州様も御健勝のようで」

 会うのは二度目である。あの雪の酸棗の日が昨日のように思える。

 厳しい連戦続きのはずが、曹操の顔に疲れた様子は見えない。生命力に溢れている。

「李岳はここには来ていないようね」

「前将軍閣下御自らが兵を率いられる程ではありませんので」

「騎馬隊一万騎など、いかにもやつ自身が先頭に立ちたがる数だと思うけれど」

「同感です。馬から引きずり下ろすのも一苦労でした」

 面白そうに笑うと、曹操は席を促した。司馬懿の嘘に気づいているかは判然としない。

「予定ではしばらく後にここで李岳と落ち合うはずだった。あの雪の日の誓いは忘れてはいないけれど、中々予定通りにはいかないものね」

「兗州様もご苦労が多かったと聞き及んでいます」

 曹操は束の間遠い目をした。

「……張貘様もお見事な戦いぶりだったとのこと」

 曹操は怒った風もなく、さてね、と誤魔化す。

「部下に寝返られることもある。乱世なのだから」

「曹孟徳に弓を引く。もはやそれだけで英雄的ではあります」

 本心だった。もし李岳がいなければ、反董卓連合軍が勝利していれば、袁紹など差し置いて曹操は全ての実権を手に入れていたはずだ。今とは比較にならぬほどに雄飛していただろう。それほどに才覚も野心も人望もある。ただ一人、李岳がそれに最も早く気付き、警戒し、立ちはだかったのだ。

「それで? 茶飲み話に来たわけではないでしょう」

「一千の部隊を渡河させたく。共同歩調をとって頂けますか」

「二つの意味で、なぜ?」

 二つのなぜ。一つは一千を渡す意味、もう一つは手伝わなくてはならない意味。

「敵の撹乱です。丞相閣下は公孫賛軍の行動を強く支持しています。賊軍袁紹の後方撹乱のため、たとえ寡兵であれ行動させるべしと判断しました」

 曹操は頬に手をあて思案した。無理な回答だったとは思わないが、曹操の中の何かには触れたのかもしれない。

「……フン、まぁいいわ。もう一つの方は?」

「公孫賛将軍に借りを返すことができます」

 曹操の蒼い双眸が不敵に光る。

 渡河作戦のために曹操が動く理由。それは公孫賛を引き合いに出せば説明が付く。

 青州にはびこる黄巾賊を幽州から南下した公孫賛が撃滅した。それによって曹操は北東部に張り付けていた主力部隊を引き抜くことが叶い、張貘の乱を早期に終結することが出来たのである。つまり曹操は公孫賛に借りが出来た。もちろん公孫賛も自らの利得のため、曹操にさっさと叛乱を鎮圧してもらい、袁紹軍を分断させようという思惑からそう動いたのだろうが――そしてそれは、徐原と名乗る男が考えたのかもしれないが。

 しかし借りなどないと撥ね付ければ如何にも愚物である。司馬懿が訴えるのは曹操の矜持であった。

「……ここで借りを返しておけば、あとあと楽かしら?」

「ご賢察の通り」

「李岳は貴様を得て喜んだでしょう」

 どう答えて良いのかわからず、司馬懿は俯いた。面をあげたとき、既に曹操の興味は渡河作戦に移っていた。司馬懿は腹案を伝える。曹操は異を唱えず、ただ応諾した。合格、というところだろう。

「しかし一千のみか。果断ね。無謀とも言える。何が貴女にそこまでさせるのかしら?」

 何をそこまで、という言葉を一瞬真剣に考え込んだ。

「――務めなので」

 とっさにはそうとしか答えられなかった。しかし司馬懿は急に恥ずかしくなり、うつむいた。頬から首にかけて熱い、きっと紅潮しているだろう。髪を長く伸ばしていたことは幸運だった。

 司馬懿は何食わぬ顔で打ち合わせを続け、曹操の幕舎を去った。陣営に戻るまでの間、司馬懿は曹操から投げかけられた問いを自分に繰り返しぶつけ続けた。何がそこまでさせるのか。そう改めて問われてすぐに答えを言葉として見つけることが出来なかった。

 ただ脳裏にたった一人、少年の姿が思い浮かぶだけであったから。

 そしてきっと、それが答えなのであろう。

 司馬懿は、自分を打ち負かしたあの少年を思うと、なんでも出来る気がして心が躍るのだ。

 

 

 

 数日後、袁紹軍の意表を突く渡河揚陸作戦が決行された。

 袁紹軍守将、淳于瓊。正面から堂々と迫ってくる大船団に初め舌を巻いた。武人として正々堂々挑んでくる敵の心意気にあっぱれと呟いたという。

 しかし河水上陸阻止は最重要の下命である。河水以北に橋頭堡を築かれれば鄴は一気に危うくなる。干戈を交えて敵を討ち取ることよりも、いかに上陸を阻止するかが重要であった。曹操軍も上流側に陣地を移し、渡河の気配を見せるので兵も割いた。正念場と言える。

 射手、投石を備えた守備陣地は以前よりも増強してある。この利を生かす。船団同士の激突も避け、狙うは徹底的に船である。淳于瓊の採った戦術の第一目標は敵兵力ではなく、船団への打撃であった。

 

 ――押し寄せる船団中央、楼船の櫓で腕組みをする高順は、隣であぐらをかいて座り込んでいる張遼に言った。

 

「淳于瓊も中々やるな」

「……っすか」

「なんだ、拗ねておるのか」

「拗ねてまへーん」

「仕事はせよ。貴様が総大将だ、霞。今日ここで死ぬ兵もいるのだぞ」

「……すんまへん。さいでした」

 本当なら自らの麾下を率いて上陸を成し、思う存分暴れまわりたかったに違いない。一昔であれば決して譲らなかったであろう役割である。まだまだ未熟な面もあるが、将として育っている、と高順は内心満足していた。并州での匈奴の乱、あそこを生き延びられたから今日この時もあるのだろう。

 この日を与えてくれた我が子を助けたいと、高順は素朴に考えている。素朴さとは何よりも深いところから湧き出る感情でもある。事実、最も誰よりも、全てを押しのけて駆けつけたいと思っているのは己であった。

「自分を押し殺すことに長けるというのも、考えようだな」

「へっ? なんですて?」

「何でもない。そろそろ頃合いだぞ」

「うっす」

 すっ、と息を吸うと張遼は大声で指示を下した。

「皆の衆! ほな、適当に攻めて適当に船を失って、なるべく損害無しでまっすぐ戻るで! よろしゅう!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――この日、洛陽方面から調達してきた渡河のための船団、張遼はその大半を失った。一度に一万の兵を渡せるだけの船を一挙に展開したのであるが、淳于瓊による妨害作戦で対岸には近づけず、漕ぎ手を失った船も下流に流してしまった。張遼は兵だけをようやく収容し、南岸へと引き返さざるを得なかった。

 しかしそれは作戦の失敗を意味するものではなかった。

 下流へと流された船には一部の漕ぎ手は残っており、戦場から遠ざかった数里の地点で南岸に戻したのである。そこには既に伏せていた呂布率いる騎馬隊が待機しており、無事乗船し渡河を果たす。呂布率いる黒ずくめの一千騎と司馬懿の一団が、河水揚陸に無傷で成功したのである。

 

 無事全員の上陸を確認すると、呂布は後ろに乗っている司馬懿に言った。

「……やる」

 何かをやるのではなく、人物評として認める、という意味の言葉と司馬懿はやや置いて気づいた。

「約束は果たす」

 司馬懿を見る呂布の目から、わずかに険が取れているような気がした。浮かれるつもりはない。一層の困難はここより先にあり、そして李岳は生死の危難に飲まれかけているのだ。

 しかし一つだけ問題があった。

「……それより、私とて馬には乗れます。このようなことをしなくても」

 呂布の後ろに乗せてもらっていることに司馬懿は控えめに抗議した。呂布はあからさまな溜め息を吐く。険が戻ったように思えるのは、司馬懿の気のせいだろうか。

「やっぱり馬鹿」

「なっ!」

「落ちたくなければ手は離すな。離しても恋は困らないけど」

 掛け声もなく、ももを締めるだけで赤兎馬は走り出した。しっかり腕は掴んでいたというのに、後ろに放り出されそうになる司馬懿。あまりの急加速に首から上がのけぞり、視野が後ろに飛ばされた。見えたものは突如の速度にも脱落することなく、一糸乱れず付き従う一千の騎馬兵たちである。

 司馬懿が戦略を練る間、呂布が何をしていたのか報告は上がってきていた。訓練、訓練である。その内実までを把握はしていなかったが、司馬懿はいま目が覚めるような思いでしがみついている背中を見た。

 確かにこれは、最強の一千である。

 舌を噛む自信があったので口には出さない。しかし司馬懿は、呂布という人間の力を低く見積りすぎていたことに気付き――そしてそれは、翌日遭遇した袁紹軍の巡察部隊をただ一度の激突でほとんど全滅させてしまったことにより、再度繰り返し得る気付きでもあった。

 あらゆる障害を破砕し、呂布と司馬懿は界橋を目指した。




このあとめっちゃお尻痛くなる司馬懿

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