あっ、と声を上げて田疇は夢から覚めた。斬撃から体を守るように腕を上げている。悪夢に連動するように反射的に体が動いていた。汗が滲んでいる。見た夢を詳しくは覚えていないが、口の中に残る苦い味が田疇におよその見当をつけさせた。
ややの間をおいて、目の前に張梁がいることに気付く。
「……あの」
「これは、お見苦しいところを」
慌てたように張梁が眼鏡を外し、背を向けながら言い訳を口走る。約束の時間に来なかった、今日は大事な軍議、昨日も疲れてそうだったから心配で、覗き見したかったわけではなく――
「構いません。お陰で寝坊することなく済みました」
言い訳が終わる前に、田疇は装いを整え立ち上がっていた。張梁が不安そうにこちらを見上げているが、何も言わない。田疇も何も言わず自らの幕舎を出た。
――鄴を進発し、邯鄲、鉅鹿を経て既に広宗の手前まで辿りついた。
陣内では膨大な物資を積んだ車列と兵たちがひしめきあっている。
顔良、文醜、諸葛亮が率いる攻撃隊も合流済み。西進してくる公孫賛との決戦場はここから東の界橋付近が有力と目されている。激戦は避けられまい。
隣で付き添うように従う張梁に、田疇は言った。
「やはり、戻られませんか」
「はい」
張梁の返答は毅然としており、判断を翻す余地はなさそうだった。
鄴を進発する時から何度も説得を試みてはいた、それらは全て失敗してここに至る。
たしかに黄巾三姉妹が末妹、張梁がいることによって兵の士気も上がるだろう。張角と張宝の姉二人が首都で健在であるならば、不安を伝播させることにもならない。『書』に記述もないので大勢に影響を及ばさないと判断できる。
だから全て田疇の気持ちの問題であった。
「……お好きになさい。ただ、責任は取れません」
「勝つのなら問題はないでしょう?」
三姉妹の中で最も英邁、怜悧と言っていい張梁。能天気とも言える二人の姉と違い、その瞳には鋭い洞察の光が宿っている。何かを察してここまでついてきているのか。
出会ってからもう何年経つだろう。いやに人を集めるという旅芸人の噂を聞いて田疇は彼女たちと出くわした。そこで見せられた書こそが太平要術の書である。田疇は人生で初めて哀願した。必ずや民のために使うと、そして三姉妹のためにもなるのだと。
張梁の瞳はまだ無言で田疇に刺さる。やがて軍議を求めて幕舎に消え行く田疇だが、その背中を張梁が睨み続けていることを田疇は疑いもしなかった。
――催された軍議は袁紹の癇癪から始まった。
「……一体、どういうことですの? 濮陽が陥落!? 話が違います!」
蹴り飛ばされた卓から
鄴で張貘軍が劣勢だという連絡を受けてすぐ、袁紹の指示のもと数万の兵が援軍として派兵された。初めは本人が出陣すると言い張って譲らなかったが、公孫賛接近の知らせと、このままでは顔良と文醜が各個撃破の憂き目に遭うと説得され何とか理性を持ちこたえここまで来た。増援も十分で、ならば挽回可能だろうと参謀が口を揃えたからである。
しかし期待は裏切られ、援軍は早々に撃破された上に張貘軍は孤立無援に陥ってしまっていたのである。
曹操による攻城もまた迅速極まるもので、陥落した濮陽城は無残な混乱の坩堝に堕した。情報の取得もままならず、張貘と張超が降ったのか虜囚となったのかさえ袁紹軍では情報を整理出来ていない。耳に届くのは噂じみた推測だけだったが、それは袁紹に一喜一憂を強いて心を千々に乱すという仕事しか果たしはしなかった。
当然の話だが、戦略的にも濮陽の失陥は重大な意味を持つ。
河水を挟んで向こうの兗州は元より曹操の領地であったため、濮陽を回復されたところで以前の状態に戻ったに過ぎないように思える。ただしそれは決起した張貘へ費やされた支援を無視すればの話だった。濮陽という橋頭堡を獲得するために失ったものは大きい。冀州が抱える二つの戦線のうち、攻め手であったはずの南方戦線までも守勢に回らざるを得なくなったのだ。
その情勢の変化を田疇はただ静かに見守り続けていた。『書』に従い、ここまでは静観を貫く。当初の思惑は外れたが、狙いの全てを失ったわけではない。
そのような田疇の思惑をよそに、事態の重大さに迂闊な発言さえ出来ず沈黙する幕僚たち。重苦しい沈黙の中、袁紹のすがりつくような言葉だけが響く。
「お願いです……京香さんを助けてくださいまし……」
ああ! その声の痛ましいこと――皇帝劉虞を頂点に戴いたと言え、この冀州の臣下たちが忠誠を誓うのはあくまで袁家の頭領たる袁本初その人。その主人が涙ながらに願うことさえ満足に実現することが出来ない。幕僚の誰もが心痛に膝が
沈黙が覆いかぶさる議場にやがて一つの影。田疇は進み出ると袁紹を慰めるように囁いた。
「恐れながら……先程濮陽の情勢についての知らせが届きましてございます」
袁紹軍直参の重鎮たちが射殺すように田疇を睨む。もし万が一の知らせを、このような場で不用意に伝えれば気落ちした袁紹はどうなるか!
だが、田疇は虫も殺せぬ恨みがましい目つきなどものともせず、簡潔に申し添えた。
「張貘殿、張超殿、討ち死にでござります」
「……は」
呼吸さえ止まったかのように微動だにしなくなった袁紹。
回復の暇を与えず、言葉を耳で飲み込めとばかりに田疇は続けた。
「曹孟徳は張超殿の主力を砕いた後、余勢を駆って濮陽城を包囲し北門を地下から破って突入。張家御姉弟を無残にも焼き殺したとのことであります。それに飽き足らず濮陽の民を虐殺し、城ごと破壊の限りを尽くしたとのこと」
血の気を失い、よろよろと椅子に腰を落とした袁紹の瞳はまるで
だが田疇は知っている。その瞳にはやがて灼熱の光芒が一閃することを。
「田疇さん。その知らせは確かなのですね?」
「この命に代えて」
「……よろしい。南へ転進いたします」
「麗羽さま!」
顔良の悲鳴のような静止を袁紹は相手にもしない。
袁紹の本気を誰も疑わなかった。皇帝を新たに戴いているがゆえ、正式には帝への裁可が必要な事案であるが、そんなもの些末な建前だと誰も気にも留めない。
たおやかにくびれる豊かな金の髪。豊満な肢体と尊大な自信。天下に号令するは我らより他になしと謳う名門袁家の頭領、袁本初。全てが満たされていた人生を歩んできた彼女に、初めての飢えが訪れた。肚の底から沸き上がる衝動、喉から飛び出さんばかりの
何が何でも、絶対に殺してやりたいという、身を焦がす復讐心。
「ここへ、私の眼前に持ってくるのです……華琳の……孟徳の! 孟徳の首をここへ!」
「待ちなよ麗羽さま! 東から公孫賛が来てるんだぜ? それを目の前にして南に向かうだなんてさ」
「うるさい! 南です! 東などどうでもいい、すぐに南へ、孟徳を討つ!」
文醜の言葉にも耳を傾ける様子はなく、袁紹は抜剣して無闇に振り回した。その目には怒りのあまり涙が浮かび、いよいよ激した。
だがそこに進み出でるのはやはり田疇。伏して拝みつつ膝立ちで拱手し、袁紹に訴えを叫ぶ。
「お気持ちはごもっとも。しかしそこを曲げてここは東への進軍をご決断頂きたく……」
「曹孟徳を、脇に置いて他にかかずらうなどありえませんわ! 京香さんの、か、仇を……」
途端、袁紹の中で張貘の死が現実のものとして感じられ、涙がその頬を伝った。長い鬼哭。口惜しさに床を何度も叩きながら、袁紹は泣いた。これが私的な集まりであれば、顔良も文醜もすぐに主君を慰め、哀しむための時間を作っただろうが――既に決戦場を目前とした軍議の席で、方針を決めずに散会も出来ない。
事前の情報もなく、策もなく、立ち竦む幕僚たちを除けば、そこには『書』を懐に忍ばせた田疇のみ。ここはもはや田疇の意のままになる場となっていた。
「哀れなご主君。張貘様を思うからこそ東へ。それこそが真の敵に対する打撃となるのです」
真の敵、という言葉が取り乱していた袁紹の注意を引いた。田疇はこくりと頷き続ける。
「今一度深いご思慮を」
「何が言いたいのです! わ、わたくしは、いま冷静ではないのです! 結論だけを述べてくださいまし!」
「劉備、公孫賛、曹操。彼奴らは通じているのです。張貘様を殺害したのは大将軍を引きずりだすための策略に相違なく」
ハッとしたように目を見開く袁紹に田疇は続けた。
「当初優勢だった張貘様の運命を分けたのは、
袁紹の背中が震える。その脳裏には、在りし日の美しい張貘の姿が蘇っていることだろう。
「全ての禍根を断つことこそ、張貘様への真の弔いとなるのではありますまいか。元は親友であった御方を焼き殺すなどという蛮行、よほどの謀略が裏にあると思えますまいか? 劉備と公孫賛が裏で糸を引いていたに違いないのです……曹孟徳を討つためにも、まずはこちらに向かってくる劉備と公孫賛を仕留めることこそが肝要。然るのち」
「曹孟徳を……殺す」
「御意」
「公孫賛……! 劉備……!」
袁紹の吠え立てるような哄笑が響いた。あの少し馬鹿馬鹿しく豊かな、人を苦笑いさせる愛嬌の溢れた笑いではなく、殺意に染まった遠吠えのような笑いであった。
やがてその笑いが止まった時、袁紹がまるで傲慢と憤怒が黄金の化身となったかのように皆の目に映った。それほどの迫力。外套を翻し、袁紹は思うがままに下知した。
「大将軍袁紹の名の下、天下の藩屏たる我が臣下に命ずる。これより我らは公孫賛と劉備を討つ。才の限りを尽くし、我が意を叶える策を披露するのです」
田疇さえ自然と
――その後の軍議は速やかに決着を見た。まずは急務となる曹操への対策としては、鄴から南方へさらに援軍を入れるとした。が、これは河水を用いた専守とする。主力はあくまで東の公孫賛に
軍議の後、田疇は自らの幕舎に戻ると、人を待つ間、田疇の指示の元に働く諜報集団『黄耳』からの報告を受けた。書簡が二通。出処は西の長安、もう一通は鄴からであった。
長安の法正からは悲鳴のような泣き言が書き殴られていた。
知らせによれば、洛陽からの謀略にかなり押し込められているという。以前の約束では涼州の馬騰一味が協力し、冀州の兵力は今頃洛陽に攻め入り圧力をかけているはずだった。その隙に長安は函谷関を陥落させるという段取りだったのである。全てはあっさりと荊州が潰されたことと、公孫賛が冀州を侵掠し身動きが取れなくなったことによる……という返事を田疇はしたため既に回答を済ませている。
元より助力する意志などはない。所詮はいずれ滅ぼす相手である。馬騰の口約束などを信じる方が愚かなのだった。聞く所によれば長安城内で予期せぬ主戦論が沸騰し、長安に皇帝劉焉を招くこと、ただちに洛陽へ向けて出兵することを民が訴え出ているという。
じっくり地盤を整える前に出兵すれば、赫昭が守る砦に正面からぶつかることになる。しかも劉焉自身は成都から長安への遷都に乗り気だとも聞いた。
「おびき出され殺される、か……一時代を築いた老人の最期にしては軽薄な末路になりそうで」
遠く益州まで攻め込むまでもなく、長安に引きずり出して殺すことの方が容易い。洛陽が取る戦略はまこと道理に則っている。一代で一州を伐り取り、帝国を築くまでに至った老人を、いくら正論を振りかざそうと法正や厳顔程度では押し留められまい。いや、正しいからこそ止められない。誤りを気にせず押し通せる力を権力と呼ぶのだから。
劉焉の子どもたちも英邁とは程遠いと聞く。李岳の謀略がなれば長安は遠からず潰されてしまうだろう。そしてその成否は、どちらに転んでも田疇に利するものとなる。後はこの局面をいかに乗り切るか、であった。
続いて二通目を開封し、田疇は顔をしかめた。濃厚な劉虞の香りがこもっていたのである。
受け取った竹簡には
別れを惜しみ、また再会しようという内容の恋文であった。己の戦いが嘲笑われているということを田疇は思い知ったが、今更でもある。吐き気を催すような甘美な香り。劉虞は田疇がここで敗北し、死ぬと思っているのだ。
その想定を馬鹿には出来ないほど、田疇の思惑は狂っているのも確かであった。
張貘の敗北と死に動揺しているのは何も袁紹ばかりではない。張貘の死は規定路線であった。しかしそれはまだ先の未来に起きるはずの出来事として予定されていた。張貘はここで死ぬはずではなかったのだ。
「李岳……」
一つずつ狂わされている。狂いは大きくなり、やがてこの田疇を殺すのだろうか?
自分の手元にある力を田疇は数えた。袁紹軍の基幹となる黄金歩兵。青州黄巾軍から選りすぐった精鋭。諸葛亮の智謀。そして懐で眠る『太平要術の書』と、不屈の我が意。それら全てを使い、誰もが圧政に虐げられない、民のための世を作るのだ。踏みにじられることのない、裏切られることのない秋を約束するのだ。
「まだ負けるわけにはいかない……」
夏も終わりに差し掛かろうとしている。これからは実りの秋。誰もが来るはずと信じて疑わないあの秋が、今年もやってくる。しかし無事にその時を迎えられるかどうかは誰にもわからない。
無事に迎えられる秋もあれば、突然奪われる秋もある。田疇はしばし立ち尽くし、風の中で夢の続きを見るように目をつむった。束の間、やがて諸葛亮が訪いを入れるまで田疇はそうしていた。
――平原城
公孫賛軍による平原城の奪取は完全に意表を突いた奇襲であったがために、占領後もさほどの混乱を呼び起こすことはなかった。略奪等を強く禁止したことによって、領民たちが安堵したことも大きい。
それまで遮二無二の勢いで突き進んできた公孫賛軍だが、平原にて初めてと言っていいほど歩を休めた。
理由の第一は、当然の事実として強行軍が限界に達していたことにある。健脚を誇った白馬たちでさえ脱落し始める始末。平原城奪取の代償は決して小さくなかったのである。
理由は他に二つあったが、それらはいずれも時を置かずに届けられた。
軍議の席、公孫賛が竹簡を広げながら言う。
「……曹操が濮陽城を奪還したってさ」
張貘が曹操を裏切り、濮陽を拠点に兗州西半分を切り取ってから二ヶ月。一時は兗州全てを失うのではないかと危ぶまれた曹操だったが、張貘、張超の攻守を全て打ち砕き、とうとう濮陽城を踏み潰して兗州全域の支配を回復した。
「つまり……」
「袁紹は兵をわけなくちゃいけない。私たちに有利だ」
よし、と何人かが声を上げるが、公孫賛の表情は曖昧なまま晴れない。少し迷った素振りを見せて言葉を続けた。
「ただ真偽不明なんだが……叛逆した張貘と張超をその場で処断し、住民も殺したという情報も来ている」
「そんなっ……!」
席にいた劉備が拳を震わせて立ち上がる。民のために戦いを決意した彼女にとって住民虐殺など言語道断だろう。拳を振り上げて声を荒げた。
「ゆ、許せない! 何の罪もない民たちを!」
「まぁ落ち着くがよい」
「そうだそうだ落ち着け桃香」
「お座りください」
「むぎゅう」
興奮し始めた劉備を楼班、公孫賛、関羽が同時に取り押さえる。寝台の隙間に挟まった猫のような声を上げて劉備が縮こまってしまった。
「桃香、あの曹操が思惑もなく無益な殺生をするとは思えない。不確かな情報しかないんだ、まずは落ち着こう」
「ぱ、白蓮ちゃん……」
「桃香様、曹孟徳はよく嘘を吐きます。これも虚報かもしれません」
「愛紗ちゃん……うん、そうだね」
諭す関羽と納得する劉備。場はそのまま情勢の推測を論じる流れとなったが、話し合う皆に混じらず、李岳は黙考する。頭の中に浮かんだのは史実での『曹操』が徐州で行った復讐劇だった。
歴史がわずかに変わっているこの世界では、陶謙は反董卓連合戦で李岳自ら討ち取っており、その代わりを演じるように濮陽が壊滅の憂き目に遭った。張貘が曹操を裏切りそれを曹操が討つことそれ自体は史実の通りであるが、顛末に違いが発生している。
それをどう評価すればいいのか、今の李岳には判別がつかなかった。
歴史は変化しているのか、あるいは元に戻ろうとしているのか――そこに立つ田疇と李岳という異物。
「どうしたんだ、冬至。お前も曹操を疑ってるのか?」
公孫賛の心配そうな声に、李岳ははっとして首を振った。
「……いえ、白蓮殿。それより気になるのは発端です。そもそもなぜあの二人が争うことになったかです。親友と聞いている、容易く反目するとは思えない」
張貘と曹操はあるいは史実以上に盟友だった。
李岳の前にいつも曹操は立ちはだかってきたが、その隣には白銀の鎧を纏った張貘がいた。
「……もしや心当たりがあるのか?」
思い当たる節など一つしかない。
「田疇でしょう」
「やっぱりか! あいつ本当なんでもしやがるな……!」
だが、と李岳は思う。田疇の思惑は微妙に噛み合わなくなっているはずだ。張貘を寝返らせるのなら、目的は曹操の命か、張貘を代償にして戦略的優位を得るか、それに匹敵する他の効果を狙うはず。だがそのいずれも失敗しているようにしか思えない。
公孫賛軍の速攻が崩したのだ。青州の黄巾軍を撃ち破ることによって、曹操軍の主力が解き放たれ合力することが出来た。田疇の思惑では、張貘が討ち取られるにしてもまだまだ先の話だったはずだ。
張貘の命を有効に使ったのは俺の方だったな、田疇――
「……どうされた李岳殿。やはり具合でも?」
「お腹が減ったのか? お肉、分けたげるのだ!」
「……いえ、なんでもないのです関羽殿。張飛殿も肉をしまってください。全然要りません」
シュン、とする張飛の頭をゴシゴシとかきまぜて、李岳は茶を呑んで気を落ち着かせた。人を思惑のまま生かすも殺すも、弄ぶのも、反吐が出る思いだ。どのような覚悟があれば、このような気持ちに耐えられるのだろうか――李岳は田疇に問いただしたくて仕方なかった。
しかし今は目先の戦いに勝つことに全てを注ぐ時でもある。
「……皆様、我々の冀州攻略戦も瀬戸際に来ております。明日には西を目指して進発。広宗付近で袁紹軍本隊と激突するでしょう。敵軍は曹操の南方戦線の劣勢に備えて兵を分けるでしょうが、北から折り返してくる別働隊と合流するはず。兵力は合わせて十万以上」
「十万!」
公孫賛がむむむ、と顔をしかめる。
当初二十万を数えた袁紹軍を削りに削ってまだ十万。気の遠くなるような話ではあるが、望みは皆無ではない。
「倍の兵数か。こちらは連戦をくぐり抜けて疲弊してきた五万だぞ……」
「……大丈夫だよ白蓮ちゃん。そういうのを、歴戦の勇者って言うんだもんね?」
劉備の言葉に、公孫賛が嬉しそうに頷く。
劉備の頼もしさは以前にはなかったものだった。無邪気な夢を語るだけではない、何かが彼女に備わりつつある。
李岳は地図に勢力図を書き加えながら話を続ける。
「敵の合流は阻止したいところですが、あえて待ちます。それが我々の狙いでもありますから」
「朱里ちゃん」
いつも引っ込み思案の鳳統が、この一言は自分のものだとばかりに言葉を奪った。
鳳統の呟きに一同が息を揃えたように頷く。
諸葛亮を軍師に戴いた公孫賛軍討伐隊。袁紹軍の本隊が平原と鄴の間に到着するのを待って、合流することになるのだろう。総勢十万。それを正面から打ち崩さなくてはならない。
「策は……どうする?」
「当然あるのだろう?」
公孫賛と趙雲がほとんど同時に声を発した。劉備は信じるようにこちらに目を向けるだけ。
普通に考えれば無理筋でしかない。だが李岳には思惑があり、同じことを鳳統も感じているのではないかと察していた。
「どう思う、雛里?」
「……五分五分かと」
「何の話だ二人共」
趙雲の疑問に、わずかに間をおいて李岳が答えた。
「雛里が無事であることを諸葛亮殿に気づかせようと思っています」
「それは……再三試しただろう」
これまでも決死の諜報戦術を用いて、知らせを届けようとしたことはある。ただしその全てが水際で食い止められてしまった。どうしても『太平要術の書』の範疇に収まるので、敵の頑強な防諜網に阻止されてしまうのだ。
「可能性はあります。二人はずっと同じように学んできました。雛里だからこそ諸葛亮殿を気付かせる可能性もあるのではと思うのです」
「……出来るのか?」
趙雲の問いに鳳統は頷いた。李岳にとっても賭けである。倍する相手に拮抗しつつ、戦術を選り好みしながら符牒を送る――至難という言葉さえ生ぬるい。そこに至れるのであれば奇跡だろう。
だが可能性は皆無ではない。いや、高いとさえ李岳は感じていた。
「それに諸葛孔明殿は、雛里が無事であることに気付いている可能性があるのです」
馬鹿な! と関羽が腰を上げた。
たしかに全ての前提が崩れるような話である。諸葛亮は鳳統の死を受け入れられず、劉備を恨んで袁紹に付いたのだ。もしそうであれば何か他に動きを見せたはず。
しかしこの疑念は、日を追う事に李岳の中で大きくなっていったのも事実である。
「根拠はあるのか!」
李岳に代わり、鳳統が迷ったようにもじもじした後に言う。
「あわわ……さ、最初に思ったのは、南皮があまりにたやすく手に入ったことです。防備は取れなくとも、何らかの警戒は取れたのでは……それに、この平原があまりに簡単でした。朱里ちゃんなら見落とすはずがありません」
「それが本当だとしても、おびき寄せられてるという可能性もあるのではないか?」
「はい……だから五分五分なのです……」
「……やってみるまでわからない、というところか」
暑いな、と誰かが呟いたのを皮切りに皆が一斉に水を飲み始めた。夏も終わりに近いというのに、湿った熱はしばらく消えそうもない陽気である。しかし灼熱の戦場がすぐ間近に迫っているという事実が、皆の体内をむせ返らせた。
諸葛亮の罠か、あるいは起死回生の好機か。さらに全ての糸を引く田疇――中でも李岳の不安は、皆が察するような表に出ないからこそ際限なく膨らんでいった。最悪の想定が頭から離れて行かないのである。この中でただ一人、自分だけ勝利の条件が異なっているからこその不安。この軍に敗北が訪れようとする時、自分は今度こそ最悪の決断を迫られる可能性もある。
静まり返った席。浮かんだ不安を消し去るように、公孫賛は皆を振り返って言った。
「秋のうちに作戦を終えて、みんなで北に戻ろう。そのためにも勝たなきゃな」
負ければ終わりの夏である。
――翌朝、公孫賛軍は袁紹軍の待ち受ける、界橋へと進軍を開始した。
あけましてだなんてもう言えない