真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百十五話 いずれさざ波は波濤となりて

 ――六十年後、冀州にて。

 

 豪雪をありがたいと思うことはそうないだろう。だが陳寿はまぁこういう時もある、とさほど残念に思わなかった。冀州を渡り歩き二年、かき集めた資料や聞き取った話は荷車三杯分にもなる。しばらくはこの書物に埋もれて過ごすのもよかろう、と陳寿は考えた。

「さて、冀州戦役か……」

 この話題を仮に学院などで出そうものなら喧々諤々の議論になることは避けられない。公孫賛の英断だった、いや軽率に過ぎた、一定の効果はあった、袁紹の愚昧さが招いた、いずれにしろ戦端は開かれていたのだから先制攻撃は当然だ――

 どの論にも一理はあるだろう。さらに踏み込むなら全ての理を埋める決定的な結論は存在しない、ということでもある。

 陳寿は軍事論の側面から戦役を研究することに興味はなかった。ただ何があったか、どうして起こったか、どうなったか。それだけに興味があった。事実をただ積み重ねることに価値の重きを置く性分なのである。

 焚き火に薪をくべながら地図を開いた。公孫賛率いる幽州軍と袁紹を頂点とした冀州軍の進路を書き込んでいく。これまでの歴史と自分の調査を同時におさらいするような気分だった。

 公孫賛は初夏、前線基地であった易京城から突如として南下。北方守備隊として駐留していた名将張郃率いる四万の守備部隊を撃破、そのまま高陽を攻略すると南下を継続、楽成を落とすと完全に河間国を掌握した。

 その後は袁紹の居城である南西を無視して躊躇いなく東へ転進。虚を突かれた冀州東部軍は何の抵抗も出来ないまま敗着を余儀なくする。火の付くような速攻であった。

「で……高陽、と」

 公孫賛の快進撃は見事とは言え、全戦全勝というわけではかった。冀州の魏郡から進発した袁紹軍主力の討伐軍が中山国から東進し、河間国の高陽を再制圧したのだ。高陽は冀州の最北端であると同時に易京城から真南に位置する。ここを抑えられてしまっては南方に進撃を繰り返す公孫賛に補給は一切届かなくなる。

 この時点での袁紹の戦略は明確だ。勢いに乗った公孫賛との正面決戦よりも、補給を断って干上がるのを待つ持久戦を優先している。なにせ総大将である幽州牧自身が飛び込んできているのだ。袋の紐をたぐりよせるように締め上げればいずれは捕まるはず。袁紹の読みは通常ならば極めて合理的である。

 畢竟、焦点となるのが冀州東部の大都市、南皮であった。

 南皮には当時大量の物資が備蓄されていたことが確認された。補給を断たれた公孫賛がこの南皮を目指すところまで袁紹は読んでいたのかもしれない――あるいは誰であろうが発動するよう仕組んだ罠か――表舞台に現れたのは、青州黄巾軍。

 当時、全土を荒らしていた黄巾賊の中でも、青州の黄巾軍といえば名うての精強さを誇った。賊であるというのに軍の体をなしていたという。今では解明されているが、当時袁紹はこの青州を支援していた。そして青州の黄巾軍の重要な補給拠点こそが南皮だったのである――青州黄巾軍、その数は二十万から三十万。

「袁紹としてはもう完全に勝ったと思ってもおかしくないでしょうねぇ。ところがどっこい、そうはいかなかった……ん〜、燃えます」

 当時の群雄たちは公孫賛と黄巾賊の激突をどう読んだろう? まさか史実通りの展開を期待したものは、ほとんどいやしなかったに違いない。公孫賛はたった二万か三万の兵で黄巾軍を完膚なきまでに撃破したのである。この地を流れる大河を堰き止め、掌で躍らせるように誘導すると一気に押し流してしまったのだ。

 この勝利でもって、公孫賛軍は南皮を無血開城至らしめそれを掌握。瞬く間に冀州の東半分をえぐり取ってしまった。幽州全域との版図を合わせれば既に袁紹と拮抗しているとも言える。『北方の雄』として見られていた公孫賛が、聖帝として君臨を目論んだ劉虞に噛みつき、一挙に中華全土の覇権争いに名乗りを上げたのだ。

「まぁここまではいいんだ、ここまでは」

 頭をかきむしりながら陳寿は呟く。このあたりから袁紹の尻にも火がつき、本腰を入れて公孫賛討伐に動きだしてもいる。

 しかし、である。何度読み、書き込んでも釈然としない。陳寿にはその後の公孫賛の動きが理解できなかった。

 

 ――公孫賛は南皮を放棄すると、そのまま全速力で西進し始めたのだ。

 

 まるで退路を失った孤軍の様相である。腰を落ち着ける、という選択肢がはじめから欠如しているかのような動き。

「……あまりにも急ぎすぎでしょう、伯珪殿」

 常識では考えられない行為。だが、こういう引っかかりにこそ歴史の謎を解く鍵が埋もれていることを、陳寿は直感で認識してもいた。

 それほどの強行軍でなければならない理由があった。そうすべき理由があったのだ。きっと公孫賛には、時間をかけて冀州を伐り取るよりもなお優先すべき勝利の条件が存在した。それが後世に見えていないに過ぎない。

 しかし何を打開しようとした? そして誰の発案だ? この時の公孫賛の幕僚には劉備とその臣下たち、そして寝返った張郃と異民族の楼班、さらに親族の数人の名が見つかる。徐原という出自生年一切不明の人物の名もあるが、このあと歴史で見ることはなく目立つ事跡もない。非常識な選択を公孫賛に強いる重要人物ではないように思える。

「……こんな不可解な戦略を取るのは、未だ見えない李岳将軍、貴方くらいではないかとね、思ったりなんかね」

 自分で口にしながら思わず陳寿は笑ってしまった。なんでもかんでも不思議な出来事は李岳のせい、というわけか? ちゃんちゃらおかしい、それこそ史学の根本から外れている、疲れ過ぎなのだ、馬鹿なのだ、酒が飲みたい……

 だが、と陳寿は思った。もしや、もしかして。戯れに浮かんだ冗談のような妄想が抑えがたい勢いで膨らんでいく。本当にここにあの男がいたのでは? だから公孫賛はまるで別人のようならしからぬ行動を取り、その後も驚くべき決断をする。いやまさか、しかし――そんな馬鹿な話があるわけない。

「……あーあ、わっかんない。何とか過去に戻れたりしないのかな〜。実際の歴史、超見たいってーの。うーん」

 今日はここまでにするか、と陳寿は書を閉じ酒に手を伸ばした。陳寿の夜明けはまだ遠い。だからただ想像することしか出来ない。記録が正しければ、冀州戦役は真夏に繰り広げられた。この豪雪とは真逆、猛暑の中を公孫賛は行軍したことになる。しかも最低限の物資を携えただけの強行軍……まともに寝起きなど出来なかったに違いない。進むだけ進み、粗末な野営で夜を明かし、朝になればまた走ったはずだ。

 英雄はその時、何を考え何を思ったのだろう? 杯を傾けながら陳寿は降り止まぬ雪を眺め、むせ返る夏の熱帯夜を思い浮かべようとした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――公孫賛軍野営地。

 

 夜営中の陣地を見て回りながら、公孫賛は重い溜息を吐いた。

 騎馬隊が主体だとしても、あまりに厳しい強行軍であった。烏桓の騎馬隊に積み込んだ物資もやがて底を突くだろう。後続の輜重隊が到着するのを待てば先行する騎馬隊は飢えてしまう。敵拠点を潰し、補給を接収せねば成り立たない無謀な行軍であった。

 公孫賛もまた疲労の極地にいた。だが食いしばるようにして付いてくる劉備や鳳統を見ると、嘆いてばかりもいられない。無謀な作戦とは思うが誰も異論を挟まなかったことも事実なのである。諸葛亮を救い、田疇を倒すためにはこれしかない、と思う。

 しばらく歩いているが、任務中の歩哨以外はほとんど泥のように眠っていた。穏やかな寝息を立てる馬たちを見て回る。少なくない数が死ぬと思うと悲しい。それでもみんな覚悟してここにいる。悲しんでばかりいることはその心意気を冒涜することにもなるのだ、公孫賛は強く自分を戒めながらも一人でも一頭でも多く生きて返したいと思った。

「眠れませんか」

 驚いて声のした方を見ると李岳がいた。小雲雀の隣で横になっている。

「こんなとこでお前なにしてんだよ」

「昔から落ち着かない時は馬の隣にいるようにしてて」

 ほら自分、匈奴ですから。李岳が手招きするから苦笑して公孫賛も隣に座った。

「気持ちはよく分かる。私も昔、お父様に怒られたりしたら馬小屋に逃げ込んで夜を明かしたよ」

「怒られて馬小屋に逃げたことはないですね」

「……なんで私だけ微妙に恥を告白したみたいになってんだよ! 腹立つな!」

 声を荒げたために、何だ何だとこちらを見る小雲雀を公孫賛はなだめた。まだまだ元気そう、丈夫な馬だった。

「お前は元気だな」

「なかなかのものです。意地も持ってます」

「兵たちにも見習ってほしいくらいだな」

「みんな、大丈夫ですか」

 李岳が不安そうな表情を見せたので、公孫賛は肩をすくめた。

「みんな駆けっこは大好きなんだ。それに雛里だってついてきている、音を上げられるもんか」

「なら、いいのですが」

 公孫賛は虚を突かれたような気になった。李岳が不安そうに膝を抱えて一点を見つめているのだ。この男も不安になるのか、と思うと不謹慎だが胸のあたりがくすぐられるような気になった。なんだか笑えてしまったのだ。愉快だった――この男だって同じ人間なんだ。

「そういえばお前に言っておかなきゃいけないことを思い出したぞ。『陽人の戦い』あったよな。祀水関で曹操の別働隊とお前の騎馬隊が南方の迂回路で激突した戦い。お前はあの時別働隊を率いて陽人に向かったが、半日早く着けたから勝てた。間違いないな?」

「ええ。それが?」

「はっきり言っておく。私と白馬義従が走っていれば、結果は逆だったんだぞ?」

 李岳が意地を見せるように眉間に皺を寄せた。

「……ほほう? つまり、幽州の騎馬隊は我が并州騎馬隊よりも迅速で精強であると?」

「もちろんだ。最強はこの公孫賛率いる白馬義従なんだからな」

 李岳が身を乗り出して声に強さを滲ませ始めた。

「あの錦馬超の騎馬隊を粉砕した霞と恋の率いる騎馬隊こそ、最強です」

「星が指揮する白馬義従がどんな敵だろうと一瞬で蹴散らしてくれるさ」

「ふん、幽州騎馬隊が強いといっても、馬の仕入れは并州からではありませんか?」

「う、うぐ。確かにお前から買ったが……なんてみみっちいやつ……」

「みみっちくて結構! つまり、やはり并州騎馬隊が最強なのです」

 自分の仲間が一番強い――そう言い張る子供じみたやり取りに、ここまで熱くなれる。李岳も根っこは武人なのだな、と思うと公孫賛はおかしくなった。

「少しは元気になったか?」

「……もしや私は、元気づけられたんですか」

 ほれ、と公孫賛はすももを放った。夜営中、木になっているのをくすねて袖に隠しておいたものだ。二人同時にかじったが、やわいくせにやたらと酸い。顔を見合わせてクスクスと笑った。

「そっか、私は落ち込んでたんですね」

「昼間は堂々としてるのにな。なんでだ、不安になることでも?」

 しばらく黙った後、ここだけの話、と前置きしてから李岳は話した。

「時間をかけて攻める方策もあったのではないかと、思うのです。特に今回は準備が足りない……祀水関の時のようにやれる自信がないのです。一生懸命考えてはいる、でも行き当たりばったりなのが正直です。雛里に助けられてばかり。彼女がいなければ、とてもじゃないけど戦えていないでしょう」

「驚いた、お前も後悔なんてするんだな?」

「後悔しかない」

 李岳の瞳は一点を眼差したまま動かない。

「もっと上手に出来なかったか、もっとやりようはなかったのか、またあんなにも大勢死なせてしまった、きっと正解は他にあったんだ――こんなことばかり考えてます。益体もないことばかりを」

 この男もまた、戦場にしか生き場所がないというのに、一人でも多く連れて帰りたいと思っているうちの一人だった。ここから先、公孫賛が何を言っても李岳は既に考えた後の事柄だろう。でも公孫賛は言わずにはおれなかった。慰めというのは他人から言われて初めて意味を持つものだからだ。

「準備が足りないなんて当たり前のことだろ、行き当たりばったりで何が悪い? そもそもお前は忘れてるんじゃないのか、そういう出たとこ任せなところが『太平要術の書』の弱点なのだろう?」

「……そうでしたね」

「だったら作戦通りなんだ! 自信持てって!」

「……ですね、うん」

 ほれ、と李岳は食べかけのすももを後ろに投げた。器用に首を動かして小雲雀がパクリと食べた。

 不意に不思議な気持ちに襲われ、公孫賛は李岳の肩を抱いた。どうしてもそうしてやらなければならないと感じた。李岳もまた触れられて嫌がっていない自分に驚いた。公孫賛の触れ方は、男女のそれではなく、きっと戦友のそれだったからだろう。

「意外と小さな肩だな……お前はこの肩に、とてつもなく重いものを載せてるんだな」

「……さぁ、乗りかかった舟ですから」

「いっつもそう自分に言い聞かせてるのか? 嘘がうまいやつだな。嘘つき李岳だ」

 思えばこの男はここに一人で来たのだ。田疇と太平要術の書を倒すために。洛陽であれば高位であることをもって何不自由なく暮らせたのだろうが、それを躊躇わずに捨て去りたった一人で暗殺を決行しようとした。書に知られまいとして。だが同時に、書に知られようとも鳳統と劉備を見捨てられなかった。一度自分に矛を向けた相手でさえあるというのに。

「お前はいつだって自分から死地に飛び込んできた。そして弱き者、死に行く者を決して見捨てはしなかった。お前がそんなやつじゃなかったら、楼班は生きてはない。私だってとっくに潰されていただろう。董卓はどうなっていたかな。恋は?」

 李岳は公孫賛の腕の中で黙っている。一点を見つめたまま、やはり微動だにしない。

「今回だってそうだ。お前は桃香と雛里を救うために田疇の元から離れた。そのまま残っていた方が好機が多いのは明らかだったはず。劉備軍が襲撃された時も、身を隠していれば安全だったろうに、雛里を助けるために後先考えずに矢の雨の中に飛び込んでいったのだろ?」

 李岳は頷きさえしない。なぜか、語られる言葉を全部受けとめようとしているのだということが、公孫賛にはよくわかった。

「お前はこれからも仲間を死なせる。それは避けられない。なぜならお前が戦うからだ。お前は誰かを救うために戦うから、仲間も共に戦おうとする。そして死ぬ。誰かが死んでもそれはお前のせいじゃない。誰かが死んだ時、李岳(お前)冬至(自分)を許さない理由にはならないんだぞ……自分を責め過ぎるな、いずれ、他人のことも許せなくなる」

「いい言葉ですね、それ」

「……だろ? たまには私だっていいこと言うんだぞ」

「見直しました」

 夏の空にしては雲が少ない。月が出ているので満天とは言わないが、たゆたう星の輝きを見上げながら公孫賛は誓いを思い出すように言った。

「公孫賛は公孫賛らしく、だろ? お前が私に言った言葉じゃないか! だというのに自分はその言葉を守れないなんて卑怯だろ? 自分に嘘をつくな。李岳は李岳らしく、さ!」

 一点を眼差していた李岳だが、それをやめ公孫賛と同じように天を見上げた。

 それは遠く故郷を見るような瞳だった。

「洛陽でも同じことを言われました。同じ道を歩もうと誘った我が軍師に。らしくあれ、と。ならば勝てると」

「そいつはお前のことを、きっととてもよくわかっているよ。自分が他人に言ったこと、自分で実践できなきゃ意味ないぞ。私もいつか出会ったチビで変な馬商人に大層なことを言われたんだ。そいつは馬商人のくせに生意気にもこう言ったんだ、武人としての大望を持て、と――おいどうだ、私は持ったぞ、大望を」

 胸に熱いものがこみ上げ、公孫賛は強く李岳の肩を握った。

 この胸にあふれる力。夢の力だった。そのためなら何でも出来るという、熱の塊。

「幽州の公孫賛は、偽帝劉虞とその一味を討つ。そして冀州と青州を平定し、河北に安定をもたらすんだ」

 それだけじゃないぞ? と公孫賛はやんちゃな子どものように続けた。

「白馬義従は洛陽の李岳将軍の指揮のもと、さらに中華全土を駆け回るんだ! 長安、荊州、呉に益州!」

「白蓮殿……」

「いつしか戦わなくて済む日が来るだろう。そうしたらのんびり暮らすんだ。釣りをしたり、遠乗りをしたり。烏桓や鮮卑と競馬大会を開くのもいいな」

「いいですね。匈奴のみんなも呼びましょう」

「最高だな……戦いが終われば色んなことが出来る」

「素晴らしい夢です」

 幽州の一郡の太守にしか過ぎなかった頃には、とても抱けなかった夢。馬商人の口車から始まった自分の夢だ、決して見果てぬものにはしたくない。

「そう、私はいま夢の中さ。私は今、お前が教えてくれた大望の中にいるんだ。夢の中を走っている。こんなに幸せなことはない」

「叶います。だから白蓮殿、死んではなりませんよ」

「お前もな」

 よっし、と膝を叩いて公孫賛は立ち上がった。李岳の癖っ毛をグシャグシャとかきまぜる。

「やんちゃで、ひねくれてて、有能なくせに突拍子もなく現れては無茶なこと言って困らせる……手を焼かせる弟みたいなものだよ、まったく!」

「弟、ですか」

「弟の面倒を見るのは姉の役目さ」

 フン、と特に大きいわけでもない胸を反らして公孫賛は偉ぶった。姉は弟に施すものだ、とばかりにすももをもう一個くれてやった。自分には酸っぱすぎる。李岳は気にならないようでかじると痺れたように頬を震わせていた。本当に弟がいたらこんな感じだったろうか?

「夢を叶えるためにも、少しは寝なければ。予定通り行けば明日には平原に到着です。迅速な勝利が肝要です」

「奴らも驚くだろう。まさか私たちが冀州ではなく、さらに南の青州から迂回して突っ込んでくるなんてな」

 平原郡は冀州ではなく、青州の街である。

 公孫賛軍の実行している作戦の狙いは冀州の防備を全てすり抜けることにある。冀州の情報網をかいくぐるために、青州を息つく間もなく突破する。そして防備ままならぬ敵の横っ腹を食い破る――それこそまさに冀州打通作戦の第一義。

「袁紹軍は私たちの動きをどこで掴むかな」

「平原が陥落した段階でしょう。そしたらもう切羽詰っていることになる。袁紹軍は総力で防御線を展開することになる。そこが決戦の地です」

「……厳しい戦いになるんだろうなあ! ええい、でもやるっきゃない。例え兵力が倍でもな。ここまで来たんだ、なんとかなるよな」

「ええ。ですが、兵力が倍、ということはないでしょうね」

「……聞かないほうがいいんだろうな」

 公孫賛は思った――いやらしいやつ! その笑顔の憎たらしさに、思わず田疇と袁紹に同情せざるを得なかった。この男はまだとんでもないことを考えているに違いないんだ。

「全くお前は……」

「何のことやら……さて、もう寝ましょう。そろそろ星に見つかりかねない。こんなとこ見られたらまた何て冷やかしてくるかわかんないですよ」

「それはまずい。電撃的に寝よう。兵は神速を尊ぶんだ」

 公孫賛は李岳に軽く蹴りをくれ、イタズラめいた笑顔を見せると自分の寝床に戻っていった。

 その背中を見送ってから李岳は目をつむった。今度は眠れるかな、と思った時にはもうまどろんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――鄴。

 

 未曾有の混乱が起きていた。

 まさに冀州は八つ裂きにされたと言ってよかった。公孫賛の快進撃は袁紹はもちろん、田豊や審配といった智謀の士さえ青ざめさせた――そして田疇もまた苦渋の中でもがき苦しんでいた。

 

 ――南皮陥落。青州黄巾軍の崩壊。

 

 公孫賛の攻撃などたかが知れている、と侮ったつもりはない。しかしこれほどまでとは。

 涼州の叛乱では官軍の勝利に貢献し、祀水関では戦力を温存したまま離脱した慧眼。もっと警戒すべきであったか――いや、やはり李岳がいるからだ。あの男が公孫賛に翼を授け、飛躍させているのだ!

 戦況報告をつぶさに見るに、その威力の一端を垣間見ることが出来た。趙子龍を先頭に据えた騎馬隊は一糸乱れぬ統率の元、自在に戦場を駆け回っては果実の皮を一枚ずつ剥ぐように、青州黄巾軍の中核をむき出しにした。その強さは例えば祀水関で目にした張遼の騎馬隊のそれとはまた違うものであった。槍の穂先のように陣営を断ち割っていく并州騎馬隊に比し、幽州の騎馬隊は鞭のようにしなっては敵陣に失血を強いていく。

「されど、我が青州黄巾軍がこうも容易く……」

 公孫賛は何の意図もなく戦ったのかも知れないが、田疇の計画において青州は強兵の産地として考えられていた。各地で散発した賊の叛乱ではなく、一個の軍勢として組織しようという試みだったのである。

 青州兵は恐れを知らず、躊躇うことなく敵と刺し違えんとする。その強みを田疇は理解していたつもりだったが、弱点には気づかなかった。恐れを知らないことは容易く誘導に引っかかるということでもある。付け込まれた挙句が河を使った策であった。青州兵の中核は為す術もなく押し流されたのである。残る兵たちは降伏せざるを得なかった。公孫賛が得た捕虜は五万とも七万とも。

 その策を指揮したのが鳳雛こと鳳士元。臥龍諸葛亮と双璧を成す智謀の持ち主であることを天下に突きつけるような采配だったという。

 その名が鄴に届かぬよう手配することも田疇は腐心した。諜報は全て一手に握っているためいかようにも出来るが、時を置けば民の口からいずれは諸葛亮の耳へと届くだろう。その時が諸葛亮の利用期限である。惜しい人材ではあるが、公孫賛軍を潰せばそこで処分してしまった方が良い。

 そしていま、田疇が最も恐れていることはその公孫賛軍の動向であった。奴らは南皮を掌握後、忽然と姿を消したのである。

 南皮に滞留したのはおそらく十日前後。その後は最低限の駐留部隊を置いたまま夜半に進発したという。奇襲に継ぐ奇襲。手を休めるつもりはない、というのが公孫賛と李岳の考えなのであろう。

 南皮陥落の知らせを受け、討伐軍は一度は最短経路での東進を狙った。南皮を包囲し封殺を狙ったのである。しかし公孫賛軍の消息が断たれたことを聞いて計画は頓挫した。南皮を目指して迎撃に向かうはいいものの、公孫賛軍にすり抜けられれば鄴まで食い止める術はない。機動力では差があるのだ。

 公孫賛軍進発の報を受けた顔良、文醜、諸葛亮の討伐軍は進路を南に変えた。今頃は安平国に辿りついているだろう。公孫賛軍が鄴を真っ直ぐ目指して西進しているのならばどこかでかち合うはずである。

「忌々しい……さすがに手強い」

 攻め手を継続することによって結果的に公孫賛は南皮を維持することに成功している形だ。討伐軍は戦線を後退させ、どこから来るともわからない敵軍に対してやむなく機動防御戦の構えである。だが重装歩兵を主体とした袁紹軍には有利とは言えなかった。

 

 ――そして先ほど、田疇子飼いの諜報部隊『黄耳』の手の者がようやく公孫賛軍の動向を掴んだのである。

 

 田疇はその知らせを持って劉虞の居室に向かった。いずれにしろ劉虞の裁可が必要な話なのである。

 戦況の不利を報告すると、劉虞はまた嬉しそうに微笑んだ。

「あらまぁ大変。公孫賛が消えた、と?」

「しかし掴みました。平原に現れたのです」

 劉虞が楽しそうに目を細める。

「冀州を素通りされた、というわけかしら」

「……面目次第も」

 劉虞が笑いながら口にしたのは、泰山の仙人が作るとまことしやかに言われる、白露という酒である。うたかたのように干しながら、劉虞はこみ出す笑いを抑えようともしなかった。

「……そのように、嬉しそうに」

「怒り狂うよりましでしょう? フフフ。夢への道程は長いわね、田疇」

「皇帝の権威を貶め、民の力によって打倒するという『天下蠱毒の計』は当初の計画からは変わったとはいえ、その半ばまで至りました。もう一歩なのです」

「その一歩が遠い……儚いわね」

 劉虞は憐れむように田疇を眺めた。その目には思い当たる節があった。於夫羅、十常侍、二龍……滅びていった梟雄たちの最後を見届ける時、田疇も同じ目をしただろう。憐憫と安堵ともったいなさを混ぜ合わせたような目である。

「……私が負けるとでも」

「さて? 朕は何も。ただひとつだけ伝えておくけれど、貴方が死ねば、貴方の遺志を朕は継ぐことになる。それは朕なりの解釈を付けるものだから、多少貴方の本意とは違えるものになるだろうけれど……」

 負けられない、と田疇は決意を新たにした。この劉虞に任せることはできない。

 自らの意志などなく、ただ他者から崇拝されることだけに長けた徳の権化。

 その真相は、人の生き死ににのみ興味を持つという悪鬼の性。戦い、死に行く者の姿を見ることが何よりの愉悦なのだ。そこに善悪の価値さえなく、世直しの気概も天下の憂いもない。ただ歓び、悦に浸るのみ。

「追い詰められてようやく目に光が宿ったのね……あの、暗く淀んだ目も嫌いではないけれど」

「……何をおっしゃりたい」

「生きたり死んだりするのであれば、せめて目に光が宿ってなければつまらないでしょうに」

「死にはしませぬ」

「それはそれで」

 田疇は懐中の『書』を強く握った。

 公孫賛軍が南皮を目指した際、書には討伐軍と青州兵への指示が表れた。が、すかさず消えている。それは南皮攻略は公孫賛軍の総意であるが故に書は把握したものの、南皮攻略後は再び李岳独自の判断で軍勢が動いていることを意味する。

 李岳の力が『書』の力をかいくぐるのではなく、上回り始めているのではないか、と田疇は恐れた。

 田疇が持つ『太平要術の書』は人の動きを先読みし、成すべきことを教えてくれる。しかしその埒外にただ一人立つのが李岳。その李岳との戦いなのだと田疇は思っていた。だが李岳の狙いはひょっとして異なる次元にあるのではないか、と思い始めていた。

 李岳が何かをすることによって、他者へ影響を与える。影響を受けた誰かは以前と同じではない。ある者は力を増し、ある者は開眼し、そしてある者は『書』の予測を超え始める。怒涛のように押し寄せる人の力が、田疇と『書』の力を超えようとしているのでは。そうでなければ『書』がここまで沈黙を強いられることの説明がつかない。

 

 ――だが、そのようなことを容易く肯んじられようか! 書さえ戻れば……いや、李岳さえ倒せば!

 

 田疇が隠し持つ『書』には未だ記述の更新はない。諸葛亮を使う、というそれだけである。ならばその効果は未だ消えていないのだ。臥龍の力を使い公孫賛軍を潰せば、李岳にはもう打つ手はなくなる。冀州を再征服し、主を失った幽州を併呑する。青州にも進駐すれば河北の平定は終わるのだ。

「……前線に赴きまする。全兵力を携え、討伐軍と合流し、公孫賛軍を討ちまする」

「前線に引きずり出された、とも言えるわね」

「いずれにしろ、勝てば良いのです!」

「あら怖い」

 公孫賛軍が引き連れている兵はここに至り六万というところである。鄴に駐留する袁紹軍以下全ての動員を行えば、討伐軍とあわせて十五万には届く。そして前線に出れば李岳の思惑とは別に、人の心は読むことが出来る。さすれば書も力を復活させるだろう。李岳が頼りとしている時差は皆無と成り果てる。諸葛亮の策、書の力、兵力。その全てを合わせれば敗れる道理はない。

「まぁ、軍略の知識を持たぬ朕も、勝ちは揺るがないとは思っているの。どう見ても冀州が勝つ戦。公孫賛軍が来るのであれば、無謀の極みにも程があるけれど」

 口調とは裏腹に、劉虞の表情には滅びの愉悦が満ちていた。

「けど、そういう時にこそ落とし穴がある、というものよね?」

 劉虞は何かを予測したわけでも、読んだわけでもなかった。ただそう呟いただけ。

 だが田疇の胸には、その言葉が深く深く突き刺さることになる。

 

 ――そして間もなく、劉虞の声を実現するために運命が動いたかのような知らせが届く。袁紹が剣を振り回しながら飛び込んでくると、南への出征を宣言した。膠着状態に陥っていた兗州の張貘曹操戦線が突如動いたとのこと。鄄城を出立した曹操軍が渡河作戦を実施、張軍を瞬く間に撃破し、一挙に濮陽を包囲したとのことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 これこそが李岳の狙いであることに遅まきながら気付き、田疇は戦慄する。

 南皮攻略の目的は補給線の確保が主目的ではなく、青州兵の誘引と撃滅こそが狙いだった。

 結果、青州への備えが不要となり、夏侯惇、夏侯淵を筆頭にした曹操第二軍は昼夜を徹して西進した。苦境に立たされていた曹操の元へ、見事合流を果たすことになる。

 寡兵という唯一の不利を完全に解消することになった曹操軍にとって、張超の指揮など物の数ではない。容易く翻弄し渡河を果たすと、濮陽包囲にまで至った。

 事ここに至り、張超の命運は風前の灯火――そして同時に李岳の手が田疇の首にかかったことも意味する。

 濮陽を曹操が落とせば鄴まで最短距離で北上することが可能となる。袁紹の発奮は別にしても南への増派は必然となる。鄴はとうとう東と南に二正面の敵を迎えることになり、それぞれほぼ同数の兵力で向き合うことを余儀なくされたのだ。

 冀州打通作戦の真髄。二重三重の見せかけの果てに現れるその正体は、公孫賛軍全てを用いた陽動作戦である。鄴を射抜くは二本の矢。曹操を生涯の宿敵と見定めた故、その力と洞察を信頼した李岳にしか考えつかない策略であった。

 

 ――少年が決死で起こしたさざ波が、波濤となって運命を押し返し始める。





【挿絵表示】


進撃路作成しました。これが一番時間かかったで…
田疇、焦るの巻。そして次回は華琳様の戦いです。

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