真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百十四話 鳳凰飛翔

 南皮――冀州渤海郡の郡都であり、袁紹が当初本拠地とした城塞都市であった。実に人口百万を数える冀州東部の中心であり、肥沃な農地と渤海湾からの交通の要所を兼ね、鄴には及ばぬものの堂々たる大都市であることに疑いようはない。

 その南皮が幽州軍の次なる戦略目標と相成った。幽州軍の進撃は迅速極まった。楽成から南皮の間で幽州騎馬隊の機動力に対応できる敵陣地は皆無だったのである。気づいた時には南皮はもう目と鼻の先。到着前夜、本陣幕舎で全員揃って軍議が開かれた。

 参集した一同を見回すのは総大将である公孫賛。成果に反するように、表情は暗く重かった。

「朗報と、悲報と、超悲報がある」

 おどけている公孫賛の仕草が空元気だということはすぐに分かった。公孫賛の他に既に事態を聞き及んでいるのは李岳のみだが、彼もまた衝撃をもって受け止めざるを得ない知らせが舞い込んできていたのである。

「……高陽が落ちた」

 冀州侵攻後に最初に攻略した拠点であり、幽州から伸びる補給線の入り口でもある。守備を担っていたのは公孫越と公孫範。抵抗する間もなく瞬く間に陥落したという。北の易京に向かって脱出するのが関の山だったらしい……と、そこまでを一息に言い尽くすと、公孫賛は皮肉めいた笑みを浮かべた。

「次に朗報だ。朱里が生きていた」

 束の間、場は色めき立った。趙雲が満足そうに何度も頷く。劉備が喜色満面で飛び跳ねれば、関羽と張飛は拳を突き上げ雄叫びを上げる。鳳統に至っては直立したまま微動だにせずひたすら滂沱の涙を流していた。

 最悪の想定は免れた。が、と李岳は思う――これは決して喜ばしいだけの話ではない。

「……高陽を陥落させた袁紹軍の指揮官の中に、その朱里の名前があった」

 

 ――鄴から討伐軍が出発したのはちょうど張郃を降伏させた頃と日を同じくする。顔良、文醜を頂点とした袁紹軍は邯鄲と鉅鹿方面の軍勢を糾合しながら一路北上し、瞬く間に中山国を再制圧したという。中山国は元々公孫賛が張純の後任として治めていた地域であり、攻め込むことなくこちらに寝返ることが期待された。その目論見を真っ先に突き崩したというのだ。河間国には防備を張り巡らせていたものの、当然踏み入っていない中山国に備えなどはない。袁紹軍は無傷で北上し、横っ腹を食い破るように幽州軍の補給線を寸断した。

 その戦略の全てを企図したのが、諸葛孔明だという――

 

「……白蓮ちゃん、偽報とか、そういう」

「確実だ。目撃情報もある」

「朱里ちゃんが……」

 諸葛亮は初めは虜囚であったが、その才を惜しみ袁紹は強く勧誘した。諸葛亮は公孫賛を――いや、劉備を討たねばらぬという意気に強く賛同し、陣営の鞍替えに賛同したという。

「何かの、何かの、ま、間違いです……しゅ、朱里ちゃんが、朱里ちゃんが」

 喜びの涙を悲しみのそれに変え、鳳統がしゃくりあげながら敵に回った親友の弁明を繰り返した。間違いだと、誤解だと、こちらを動揺させるための罠だと、やらねば殺すと脅されていたに違いない、と。

 そのどれでもないだろう、というのが李岳の推測であった。

「諸葛亮殿が敵に寝返ってまでこちらを討とうとするなら、その理由は一つしかないだろう」

「……ひっ、く。うっ、うっく……と、冬至さん……しゅ、朱里ちゃんは……」

「わからないかい? 君のためだよ、雛里」

「……え」

 

 ――田疇はきっと張純や於夫羅、二龍に対した時と同じように諸葛亮の心に入り込んだのだ。ただ一つ違いがあるとすれば、欲望や野心を焚き付けたのではなく、悲しみ、絶望を植え付け、復讐の火を灯したのだろうということ。

 

「想像だが、君は公孫賛と劉備の二名によって謀殺された、ということになってるんじゃないかな。公孫賛は袁紹を討ち、冀州を乗っ取ろうと企てた。劉備はその誘いに乗ったが、軍師である鳳統が反対し、邪魔になった……筋書きとしてはそんなところだろう」

「そ、そんな!」

「別にそれ以外でも構わない。とにかく、手段を問わずに疑念を植え付ければそれでいいわけだ」

「……い、今からでも、間諜を使って真実を伝えれば」

「多分、辿り着くことさえ難しいだろうね」

 張燕率いる黒山の精鋭でさえ突破できなかった網である。それより腕が落ちる公孫賛の間者では荷が重い。

「田疇は人の動きを読み、心を操ることを得意とする。そして周囲は諜報が取り巻いているんだ、情報の捏造は思うがまま。袁紹軍の戦略分析にも君の名前は一度たりとも出ていないに違いない。さしたる根回しも必要なく、容易に信じ込ませることが出来るだろう……劉備殿のように」

「ふ、ふぇぇ……そ、そのことは言わないでください……あ、あの時はすみませんでした……」

 しょげかえる劉備と睨みつけてくる関羽にあわてて手を振って否定しながら、李岳は言葉を続ける。

「劉備殿でさえ容易く騙してしまうほど恐ろしい、という意味ですよ……つまり、田疇は雛里が生きているという情報だけを全て遮断し、白蓮殿と劉備殿を暗殺の主犯とでも吹聴しているのでしょう。初めは信用できなくても繰り返されれば人の思いは揺れ動くはず。それに状況証拠もある。劉備殿は雨中で異民族に襲撃された直後、雛里が行方不明であることを早馬で知らせている。その文に限っては真筆なのです。親友に危難があったとなれば心は動揺します、そこに付け込むのは……書の力があれば容易い」

「……ねぇ、ちょっと待って。じゃあ……私達が朱里ちゃんを助けるためには、朱里ちゃんを倒して誤解を解かなきゃだめ、ってこと……?」

 劉備の声に一同は静まりかえり、しばらく呻き声さえ上がらなかった。

 

 ――史実における諸葛亮という人物の評価は非常に難しい。天才的な軍師として名高いが、しかし戦略眼に対して疑問符を投げる声も数多あるのも事実。しかし、と李岳は思う。諸葛亮の事跡を全て天才的な所業と評価するのは難しいが、同時に諸葛亮の手元に豊富な兵と人材、物資が与えられていたら果たしてどうだったか、と……兵力、兵糧、地の利を全て兼ね備えた『臥竜』諸葛亮の力は、李岳の想像の埒外であった。そしてその埒外の『龍』をどうにか倒さなくてはならない。

 

「な? 超悲報だっただろ?」

 公孫賛の下手な冗談は誰一人和ませることなく、しばらく後に彼女自身の蚊の鳴くような謝罪がこぼれ出るまで、一同に重い沈黙を強いた。

「でも……でも、きっと、朱里ちゃんは待ってる……ま、待ってるんです……」

 沈黙を破ったのは、一番小さな少女であった。もはや震えさえせず、前を向いた双眸には強い光が宿っていた。本物の覚悟と決意を持った人間にしか宿せない光。臆病で、弱く、人の顔色が気になって仕方がなかった少女の面影はもはやどこにもなかった――遠く洛陽、李岳と共にこの国の頂点に至る階から逃げまいと誓った少女の面影を思い出す程の瞳だった。

 少女の口からこぼれ出た声はやはり小さかったが、芯の通った強さを携え、皆の心を響かせる程に打っていた。

「勝たなきゃならないなら、勝つまで、です。朱里ちゃんは、絶対助けます」

 

 ――その言葉は鳳の飛翔の鳴き声だったのだろうか。親友を助け出さんと天空へ飛び立つようなその意気は、確かに火炎を引き連れ、戦友たちの心に火を灯した。

 

 うん、と頷いて公孫賛が皆を励ますように手を叩く。

「よし、よし! その意気だ! しょげかえってたんじゃ誰も助けられないからな。よく考えてみれば別にやることは変わらないんだ。袁紹軍をぶっ潰して朱里を助け出す! それがはっきりしたに過ぎない!」

「そ、そうだよね白蓮ちゃん! それに朱里ちゃんが前線に出てきてるなら、遠くにいるより助けやすいよ!」

「そういうことだ! なんでも前向きに捉えていこう! じゃあまずは南皮攻略戦だな。あそこには兵糧が豊富にあるはずだ、補給線が絶たれたんだから絶対に確保しなきゃ」

「南皮は攻めませんよ」

「よっし、みんな聞いた通りだ! 全力を尽くして攻めないぞ。攻めないだってえええ!?」

 励ますための元気がから回ったのも相まって、公孫賛のみっともない絶叫は陣幕の中で何度も反響した。

「何しにここまで来たと思ってんだよ! 南皮を拠点にして力を蓄えるんだろ!?」

「いやいや、南皮は取りますよ」

「……冬至、お前! さては私の反応を楽しんでるな?」

「ええとても。貴方の人柄がなぜ皆から愛されるか、よくわかります」

 李岳の不意の言葉に、その髪のように顔を真っ赤にさせてしまう公孫賛。公孫賛の様子にも、ムッとしている楼班の様子にも気づかないまま、李岳は地図に指を走らせながら説明を続けた。

「正確に言うなら南皮は攻めなくても取れる、ということ。倒すべき敵は別にいる」

「敵とは? 袁紹配下の駐留軍ではないのか?」

「違うのですよ、関羽殿」

 広げられた地図に描かれた『南皮』という文字を、グルリと指でなぞり続けながら李岳は言う。

「よく考えてみてください。冀州東部は中華全土でも有数の穀倉地帯だ……不思議に思いませんか? なぜ南皮は無事なのです?」

 純粋に軍略の設問と捉えた関羽は、口をつぐんで真剣に黙考を始めた。李岳の言葉の意味がわからない。李岳の指はやがて南皮を中心とした冀州東部から、より広い地域をなぞり始めた。冀州東部から――青州北部へと。

「河北四州で最も貧しく、荒れ果てているのが青州だ。官吏は私腹を肥やし、民の苦しみに手を貸そうとすらしてこなかった。だから青州では野盗の成れの果てとしての黄巾賊が跋扈し荒らし尽くした。ここで一つの問いが成立する。青州の黄巾賊はなぜ荒れ果てた青州からこの地に移り住もうと思わない?」

 南皮は冀州の極東であると同時に青州とほとんど境を隣接させる最南端でもある。張飛のゴクリと息を呑む音が聞こえた。いや、よく見れば呑んでいるのは息ではなくつまみ食いしている饅頭であった……李岳は無視して話を続けた。

「えーと、えー……そう。青州の黄巾は北の国境を律儀に守って青州から一歩も出て来ない。だというのに青州だけに飽き足らず南方の徐州や兗州には躊躇いなく侵攻して荒らし回っている。この矛盾をどう説明する?」

「それは張三姉妹がいるからでは?」

 関羽がいう。それもある、と肯定しながらも李岳は首を振った。

「だが決定的な理由じゃない。黄巾は元々窮乏極まる民だ。そこにうまく噛み合ったのが張三姉妹の存在に過ぎない。忠誠や好意は飢えをしのぐ代価にはならないんだ」

「だったら簡単なのだ! 今はもうお腹が空いてないに決まっているのだ!」

 手にした饅頭をぺろりと平らげながら張飛が大声で言う。でも鈴々はまだまだ食べられるよ? と付け足したもののもはや誰も聞いてはいない。

 青州黄巾賊は既に空腹ではない――

 張飛の言葉に劉備、関羽、公孫賛が目を見開く。楼班がうなり、張飛は平らげた饅頭のおかわりを所望し、綺麗さっぱり無視された。

「なるほどな。南皮は青州の黄巾賊にとって重要な拠点だった。そこを我々が襲うとなれば、これは大問題となる……つまり、我々の敵は冀州東部軍ではなく青州の黄巾軍、ということだな?」

 関羽がとうとう結論を口にした。地図に伸ばした細く白い指が冀青の境界をそろそろとなぞり、やがてぐっと力を込めた拳となる。

「まさにその通り。南皮こそ青州黄巾賊にとっての兵站拠点なのです。青州の黄巾賊は冀州からの支援を受け、徐州や兗州のみを荒らしていた。いずれも袁紹とは対立する勢力だ。これから討つは向かってくるであろう青州黄巾軍。奴らを撃破し、そして後でゆっくり南皮を取る。いや、青州の黄巾軍さえ討てばすぐに開城するかもしれない。兵糧を送る代わりにもしものことがあれば防備を頼む、くらいのことは当然言っているだろうから」

「ややこしい話だ全く……で、これが『人』の策の本当の狙いなのか?」

 地図を眺めながら公孫賛が聞いた。

「まぁ……袁紹の居城に真っ直ぐ向かえば、遅かれ早かれ青州の黄巾軍は背後からこちらを突いてきたはずですからね。順番があべこべになっただけで特段の遠回りではないでしょう。それに……」

「それに?」

「ま、意外な副作用もあるかもしれない、とだけ」

 ただ兵糧を補充することだけが目当てでここに来たわけではない、ということだ。しかも本当の狙いは他にもあるという。李岳の話を耳にした公孫賛は興奮を押しとどめるのに苦労した。

 この話を聞くまで、李岳の選択はひょっとして袁紹の本拠地を直接目指すことをためらった消極策ではないか? という疑念が少なからずあった。しかしそうではない。むしろ冀州の裏に存在する青州さえも攻略しようという度を越した積極策だった。さらに公孫賛の想像を超える、凶悪な思惑があるのかもしれない――敵にすれば恐ろしく、味方にしてもこれほど恐ろしい男は他にはいないだろう。

「全く、お前は!」

「いたっ! なに? なんです?」

 李岳の背中を叩きながら公孫賛は笑った。そうでなければ怖くて怖くて仕方なかったから。本当に袁紹を倒してしまうかもしれない、そうすれば幽州と冀州、さらに青州さえも公孫賛の支配下になる可能性が高い。

 その現実味が急に増してきて、覚悟を決めていたはずが怖気が優ったのだ。公孫賛は無理にでも笑わなければならなかった。

「よし、今度こそはっきりしたな。私達はこれから青州黄巾軍を討つ!」

「ここからの策は、我らが鳳雛先生の立案を待ちましょう」

「いえ、もう考えました」

 李岳でさえ目を白黒させる回答であった。鳳統は椅子に乗ると精一杯指を伸ばしながら地図に指し示し始めた。

「先ほど、冬至さんは南皮を攻めないとおっしゃいました……一理あります。ありますが、それを覆します。南皮を実際に取り囲みます。それによって青州黄巾賊も慌てるでしょうから、付け入りやすくなります」

「……兵を分けることになるぞ。青州の黄巾軍が大挙して押し寄せれば十万を大きく超える可能性がある」

「兵は分けましょう。白蓮さん、二万五千を劉備軍にお預けください。うち五千の別働隊の指揮を、冬至さんにお願いしていいですか? 残りは白蓮さんが指揮して南皮の包囲を。攻める必要はありませんです」

 わずか二万五千! 李岳にとっても予想だにしていない脅威的な少数戦力であった。

「雛里、いくらなんでも……」

「このあたりは、水が豊富ですね」

 

 ――ふわりと宙に浮くような鳳統の言葉だった。だがなぜか底知れぬ深さを感じる。少女に比して己の卑小さを思い知らされるような、深みのある響き。

 

 鳳統は地図から目を離すことなく言葉を続ける。

「冀州が豊かな理由は、きっと河が多いからでしょう。遠く太行山脈に水源を求める長大な河川がいくつも流れているからです。水が豊かな土地は自然実りも豊かになります――敵の青州黄巾軍は勇猛で死を恐れません。数を頼みに押し迫ってくるでしょう。しかし数が多いゆえに秩序だった戦術は取れず、こちらの隙を見つければ無闇に攻め込んでくるはずです。つまり、罠が効きます。なれば少数の方がより有利の場合もあるのです。地の利を見るに迎え撃つのはここから南西の東光」

「ひ、雛里ちゃん……」

 恐る恐る話しかける劉備の声など歯牙にもかけない。

 鳳統の全身からほとばしる知性は、たったひとつの目標めがけて脇目も振らずに走り出したのだ。

「十万を超える敵であろうとその中核は数万に過ぎません。そこを見抜き、討てば、いたずらに争うことはなく降伏を呑むでしょう。南皮の物資も分けるといえば争う理由も失われます――さほど、難しい戦ではありません」

 十万、あるいは二十万の敵を迎え撃つのに難しくないという。

 言葉を継げない一同に、念を押すようにして鳳統は続けた。

「朱里ちゃんを助けるんです。止まっている暇は……ありませんから」

 李岳は己の肌にあわが立つことを抑えきれなかった。

 翠玉のような瞳に宿る怜悧の輝き。万象悉く見透すかのような――

 だがいずれにしろ、勝利を疑う余地はない。李岳自身の考えでも十分打破は可能だと踏んでいたところに、才の全てを覚醒させた鳳統の力が加わったのである。

 青州黄巾軍を破れば、南皮が手に入る。新たな補給線を構築することが出来るはずだ。そうなればこの冀州戦役は、ようやく次の作戦段階に移行することが可能となる。

(――冀州打通作戦。これがお前を討ち取る俺の矢だ、田疇!)

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――青徐二州の黄巾三十万が渤海よりこれを侵し、冀州袁紹に合流せんと目論んだ。公孫賛は歩騎二万を率いて東光でこれを大破し、斬首三万余。追ってこれを撃ち渡河を襲い、大いに破り死者は数万、捕虜七万余を収めた。(『公孫賛伝』より)




公孫賛伝の記述は後漢書のガチなやつです。まぁ数は盛ってると思いますが…
戦い本編の描写は……まぁだいたいわかるやろ的なノリでカットです。そういう時もある。

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