真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百十三話 悪魔が指し示す道、人が選ぶ道

 ――鄴

 

 どうやら健康になりつつあるらしい。朝餉を二杯分平らげたところで田疇は小さく笑った。剣を振るという日課は休むことなく毎日続いている。目的は李岳という男への恐怖から逃げるためだというのに――恐怖が健康をもたらすとは皮肉にもほどがある。

 何気ない会話で漏らしたところ、文醜が付き合うという話になった。丁重に固辞しても「あたいに任せろ!」と繰り返すのみで押し切られた。手加減を知らない将軍の調練に田疇はすぐにでも匙を投げたくなったが、クタクタになった後は寝付きもよく、食事の量も増えた。

「フフフ、面白い話ね」

「畏れ多くも、陛下」

 事の顛末を話すと劉虞が上機嫌に笑う。帝位に就いてより、田疇が驚くほど何もしていない。警戒は怠っていないつもりだが、劉虞はどうやら田疇が考えている以上に現状に満足していると見た。

 この国には現在三人の皇帝がいる。天下三分と言えるだろう。一人は劉弁、一人は劉焉、そしてもう一人が眼前の劉虞。

 田疇の目的は三人の皇帝に天下を争わせ、民に心底から辟易させることだった。漢室の地位を貶めることには既に十分に成功している。これからは帝位それ自体を愚かなものと知らしめ、民に民こそが己の人生の主人であると教えを広めていくことになる。

 そのためにも公孫賛を打ちのめし、南下作戦を進めなくてはならない。遠く長安の劉焉など興味すらない。元より国土は二分でも十分であった。劉焉を即位させる案は反董卓連合軍が失敗した時の保険でしかないのだ。

 劉虞は食事も質素で奢侈にも興味はない。彼女が興味を持つのは人の生き様が『愉快』であるかどうかである。その劉虞が満足しているとなれば、今はこの田疇の生き様が面白いという証左なのだろう。

 それが単に見応えがあるからなのか、滑稽だからかは判別つかないが。

「……それでは陛下、臣は斯様申し上げた通り、遠征軍の派遣が始まり次第、それに付き従い出立いたしたく思います」

「引きずりだされてしまった、というわけね」

 劉虞は楽しそうに目を細める。妖艶とも淫靡とも違う。清楚だが劣情を催させ、心酔と感動を与える。たったひとつの目配せが彼女にひざまずく理由になる。田疇が『書』を手にしていなければ、あくまで劉虞個人の臣として生涯を付き従うに終えていただろう。

「やはり彼がいるのかしら?」

「李岳は、います」

 劉虞は困ったように、楽しむように笑う。

「張純、於夫羅、段珪、二龍の兄弟……みんな死んでしまった。次は貴方の番になるのかしら?」

「そのようなことは」

「貴方が死ねば、もう私が直接動くしかないのよ」

「……」

「私に軍事の才などないから、皆に戦えというだけ」

 皆に戦えという。その言葉の意味を田疇は束の間測りかねた。数瞬の後にその意味合いに気付いた時には全身から汗が吹き出ていた。

「……そのようなことには、決してなりませぬ」

「朕もそう願うのみ」

 人の生死にだけ悦ぶ悪魔が、聖人の皮を被って生きている。神がたまさかこしらえたにしては戯れに過ぎ、人の世にはあるまじき害悪である。田疇は震える足で踵を返すと、皇帝の居室から去った。この世界を守らなければならない。自分が勝たなければ劉虞はこの世界を粉々に破壊し尽くすだろう。そのようなことは、決して許してはならない。

 田疇はその足で諸葛亮の居室に向かった。少女は未だ喪服のまま執務に取り掛かっていた。

 二十万の軍勢を動かす。数はそれだけで仕事である。些末なことを含めて実務は膨大なものとなり、あらゆる判断と裁可を下すことにもう一つ軍団が必要になるのではないかと思えてしまう。その仕事を、ほとんど独力で切り抜けているのが目の前の少女だったが、田疇は未だ任に不足があると考えていた。伏龍はあくびまじりにこなすに過ぎない。

「……諸葛孔明殿」

「滞りなく」

 田疇の言葉を遮り、諸葛亮は書状の束を抱えて田疇に預けると言った。

「ここに記されたとおり部隊を動かします。出陣まで十日もあれば整うでしょう」

「……終わったのですな」

「始まるのです」

 渡された書物に目を通す。緻密さ、大胆さ! 田疇は震えながら廊下に戻り、足早に軍営へと向かった。李岳の奇策に惑わされ『書』が未だに記述を改めずとも勝機を失ったわけではない。

 最強の牙を得た。その名は諸葛亮。龍は掌中にあり!

 

 

 

 

 

 

 ――定陶

 

 濮陽と定陶は本来連携を密にできる二都市だった。

 整備された街道を通って、古来より人は富と栄えを求めて往来してきた。間には雄大な流れが横たわっているものの、それさえ絶対的な障害ではなかった。だが今はその街道を通じて行き交うのは完全武装された兵であり、飛び交うのは憎悪と死である。北の濮陽には張貘の旗が、南には曹操の旗が翻る。兗州の西半分はその支配権を巡り、激烈な闘争の渦中に飲み込まれていた。

 曹操は最前線を鄄城に置いた。定陶と濮陽の中間に流れる黄河の支流、濮水の手前である。城からは雄大な流れも、布陣の様も容易く見て取れる。

 定陶を奪還して一気に攻めよせようとしたものの、曹操はすんでのところで思いとどまった。反旗を翻した張貘軍は、その勢力を果敢に膨らまし、数の力でもって曹操軍を時に圧倒した。

 意外とやるではないか、というのが率直な感想だった。さすが張貘の弟。無能極まるわけではないらしい。

 張家の伝統と名声は実のところ袁家など足元にも及ばない高位にある。その声望を信じて集まる者たちは決して少なくなかったのである。

「まー、それだけではないようですが〜」

 程昱ののんびりとした声に曹操は無言で同意を示した。どこから注いだのか淹れたての茶を程昱はコクコクと口にしている。

「麗羽の兵ね?」

「まず二万がすでに合流してるところまで掴みましたー。が、さらに二万の増派を決定した模様」

 湯水の如く兵が湧いてくるのは、名門の力か、はたまた肥沃な土地の持つ力か。いずれにしろ曹操は苦境に立たされ始めていた。青州の動きが活発化し、主力は東に釘付けにされている。結果、曹操が動かせる手勢は二万に満たない。兵力差は拡大する一方である。

「東さえ片付けば、というところだけれど」

「手は打ちましたが、もう少し時間が必要となるやもですね〜」

 程昱が手を打つとなれば、それはすなわち調略を意味する。『蝕』が動いているのだろう。だがどれだけ効果があるかは見えない。

「洛陽は?」

「うんともすんとも」

 荊州討伐後の兵の再編がようやく済んだ、という話は聞いた。長安戦線で何度か衝突が始まっているとも聞いている。長安の奪還は李岳からすれば焦眉の急だ。いくら袁紹が動いたからといって、そちらが片付かなければ大兵力を動かす余地はない。

「やはり謀略で片付けようとするかしら」

「合わせ技でしょうね〜。涼州がどう動くかによると思いますが〜」

 涼州の馬騰と劉焉。いかにも合わなそうな両頭目である。自分でもそこに楔を打とうとするだろう。あの李岳だ、手こずりはしても簡単に負けることはない。

 しかし綱渡りは曹操も同じことであった。これで定陶の攻略に失敗していたら目も当てられないことになっていた。曹操は兗州の実効支配を諦めざるを得なかったろう。全戦線に撤退を命じ、徐州で再起を図ることになったはずだ。そうなれば公孫賛もまた全力の冀州と単独で向き合うことになり、ひいては洛陽もまた遠からず滅びることになった。

 図らずも、曹操、公孫賛、董卓の三者が結託して対袁紹の共同戦線を組んでいる形となっている。どこか一端が崩れれば危険な情勢になる。今最も圧力に耐えているのが公孫賛。開戦を決断したものの、耐えきれなくて暴発したというよりは攻撃こそ最大の防御と考えた節がある……公孫賛にしては果断。優秀な参謀が付いたのかもしれない。曹操は公孫賛の評価を引き上げた。

「攻撃、ね」

 ここには夏侯惇も夏侯淵もいない。主な将は典韋に于禁と楽進、そして陳留から引き抜いた李典。攻め手に欠けるというのが正直なところだ。

 まだ時が来ていない、と曹操は思い直した。そして遠からず来たるだろう、とも。

 巨大な戦乱の波濤が遠からず訪れる。その時、この手は張超の素っ首をへし折るだろう、という確信。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――河間国

 

 公孫賛と袁紹の戦が始まった。世は『冀州戦役』と呼ぶという。時代の流れに即しながらも、時代と陰謀を超えようとする李岳の企みであった。

 時代の摂理を覆そうとする敵と、元に戻そうといううねりの戦いでもある。李岳は皇帝に仕える身として、時代を守る側にいた。未来を生き、これまでいくつもの史実を書き換えてきた李信達が今や歴史を守る側にあるとは、皮肉としか言いようがなかった。

 夕焼けの街を歩く。李岳は身を民のそれにやつし供回りも一人だけとした。河間国は楽成。公孫賛軍の進撃は冀州の北半分を侵し尽くさんとしていた。守備隊を指揮していた驍将張郃を撃破した公孫賛軍は河間国をさほどの時間もかけずに制圧し、名実共に冀州に大きく食い込むことに成功していた。

(このまま勝ち抜ければ痛快だな)

 懸念はある。この先の選択肢が李岳にはまだ見えていなかったのである。鳳統が示した天地人の三つの策はこの地までの攻略は共通している。天は真っ直ぐ冀州の都である鄴を目指す道。地は中山国から鉅鹿郡へと西回りに鄴を追う道。人の道はここから一旦東へ回り第二の都市である南皮を攻略する道である。

 その全ての選択を保留し、田疇の先読みを封じてきた。だがここから先は選ばなければならない。しかし選択を誤れば田疇と書の力はまこと十全に発揮され、正面から勝てない戦に持ち込まれることになるだろう。

 

 ――初戦を突破したに過ぎないが、戦況は大きな山場に差し掛かっていると言えよう。

 

「徐原殿、何かお悩みですか?」

 隣の従者が首を不思議そうに捻りながら問いかけてきた。李岳は深くため息を吐く。

「なんで貴方が私の付き添いなので?」

「ご不満ですかな?」

 慎ましい髭を蓄えた精悍な武人は、心底おかしそうに口元を歪めた。

「不満というか、ね」

「それがしが進言いたした。下した城塞を見て回るという悪趣味者の護衛とあらば、新参者の仕事にはぴったりでしょう」

「貴方のようなひと目でわかる武人を連れている方が目立つと思いますがね……」

 ですかな? と男は白々しくとぼけた。

 

 ―――姓は張、名は郃。字は儁乂。つい先日まで激戦を繰り返し、降将となった武人であった。史は『張郃伝』に曰く。はじめ韓馥に仕えたがやがて袁紹に仕えるようになった。袁紹配下では公孫賛撃破に功を挙げたが、袁紹が敗れると今度は曹操に仕えた。張郃を得ると曹操は甚だ喜び、秦の名将・韓信の振る舞いに匹敵すると激賞した。

 その後は魏の宿将として数々の戦場を疾駆し、諸葛亮の北伐を撃破した。劉備や諸葛亮が最も恐れる魏の将軍であったとしても名高い。戦場で矢傷に果てるまで彼の激闘は生涯続いた。

 

 南下作戦の最初の激闘が彼率いる北方守備隊だった。初めは簡単に撃破できたと思ったものの、追撃に入った途端に異常なまでの粘り強さを発揮し李岳はじめ全員が戦慄した。この張郃に十分な時間と僚将が与えられていたら、計画の一歩目から頓挫していた可能性すらある。

 二千の殿軍を自在に操り、兵の大半を逃がすことに成功した張郃を趙雲が辛くも生け捕りにすることができたのは、追撃が始まってとうとう二十日が経ってからであった。

 捕虜となり引き出された張郃は、公孫賛の投降の意志ありやの問いに、場に居合わせた将を見回した後、静かに首肯した。まさかの展開に皆が色めき立ったものである。自らが促したとはいえ、公孫賛の動揺は甚だしかった。

 その張郃が今は李岳の――否、徐原の隣を歩いている。その視線はまるで突き刺すようで、緊張が解けることがなかった。

「なぜそれがしが簡単に公孫賛軍に寝返ったと思われます?」

「さて、公孫賛将軍のお人柄に惚れたからでしょうか? それとも袁紹に嫌気がさした?」

「どちらも決定的ではありませんな」

 ふうん、と聞き流しながら李岳はやがて町の外れまで歩いてきたことを知った。古い家が野ざらしのまま放置されている。人は住んでいないだろう。そうしてくたびれてしまった無人の家には、軒並み黄巾が掲げられていなかった。黄巾の教えにそぐわぬ者はいづらくなり、出ていってしまったのだ。

「黄巾か否か、冀州は今やその考えを元に完全に分断されております」

 黙って頷いた。李岳の心に肯んじがたい気持ちがこびりついて離れていかない。

 見回った町にはおしなべて黄巾が翻っていた。全ての民が黄巾の教えに忠実になり、張角に忠誠を誓っているわけではない。問題の本質はそこではない。実利があるからこそ、民は黄巾を掲げているのだ。

 

 ――町の至る所にある学び舎、医務処、施米のための集会所。

 

「このような町では、今や郷挙里選ではなく票により有力者が選ばれるようになっているとのことです」

 震える心を押し殺して李岳は聞いた。

「どう思われる、張郃殿」

 ハッ、と張郃は笑った。

「こう見えても、自分は儒の教えのある程度を真っ当だと思っております。先達を敬い、教えには従う。軍人である自分の生き方にも当てはまることも多い。その生き方とこの黄巾の……いや、田疇のやり口は多くのところで相反しますな。だが多くの民にとって生きる助けとなっているのもまた事実」

 黄巾の御旗のもとに行われている政治改革は、田疇が主導しているというのは既に公知の事実のようだった。劉備もまたそれに共鳴して冀州に付いたのである。李岳も当然そのことについては聞き及んでいた。しかし実際に目にするのとは大違いである。

「徐原殿はどう思われる?」

「さて」

 はぐらかし、李岳は歩を進めた。動揺をさとられまいとしたからだった。

 

 ――まるで音が耳に聞こえるように心が揺れ動いているのがわかる。自分はいま動揺していた。もう少し正しく言うならば、共感していたのだ、敵の行いに。

 

(……民主主義の萌芽か)

 田疇が行おうとしていることが李岳にもようやく見えてきた。彼は皇帝を頂点に戴いたこの国の仕組み全てを破壊し、民のための国を一から作ろうとしている。その実験として、今は冀州の村落が用いられているのだろう。

 自分がかつて経験した世界の制度のいくつかがここには散見される。この時代に新たに生まれ、北方の自然の中で育った李岳。だからこそ前世の価値観は早くに薄まり時代に順応したと言っても良いだろう。

 しかし! と心の中で叫ぶ声も確かにあった。田疇の施策に正義を感じる心が確かにある。民が学び、医療を受け、そして自らの生き方と行く末を納得して選びとることが出来るという、人間の本質の根本を田疇は形作ろうとしている。

 それを、二千年後の世界からやって来た自分が皇帝を守ろうとして潰そうしている……矛盾。

「徐原殿、どうされますか?」

 張郃が聞いたのは恐らく、このまま無闇に歩き回るな、という意味だろう。

 しかし李岳には束の間、違う意味の言葉に聞こえてしまった。

「……このままでは道に迷ってしまいそうだな」

「迷う前に帰る、賢明ですな。しかし不用心に過ぎる」

 うん、と頷くと李岳は張郃から距離を取った。初めからわかっていたことである。

「不用心、かな? 確かにそうだろうね」

「もしや、あえて誘って頂けましたかな?」

「むしゃくしゃしていてね」

 血乾剣を抜いた。張郃もまた自らの剣を抜く。

 張郃は李岳を標的としてここまで付いてきたのはすぐに分かった。道中、居合を抜くように李岳に浴びせかけてきた殺気は、二度や三度ではない。狙われる理由を考えることに意味はないだろう。李岳は腰を低くし、正面から張郃を見た。

 迫力がある。小柄な李岳よりも二回りは大きく、中段に構えた姿勢にも巨木が根が這ったような芯の太さを感じた。正面から当たれば吹き飛ばされるは自明。

「暗殺ならば、私のような者ではなく大将を狙われてはどうです?」

 張郃は答えなかった。長剣の切っ先も微動だにしない。荒々しさと冷徹さを兼ね備えた殺気が李岳の肌を刺す。血乾剣の倍にも届かんとする長剣だが、その剣速が遅いと仮定することは愚かだろう。

 低く構えた。呼廚泉より小さいが、高順より大きい。技はいかほどか。張郃、と李岳は小さく呟いた。初めて張郃が笑った。先手をあえて譲った。振り下ろされてきた切っ先を李岳は受けずに躱した――技も在る。

 二の太刀はなかった。ゆるりとした動作で張郃は元の姿勢に戻っていた。練磨を実感させる深みのある一撃だった――だが、日々己が打ち合ってきた英雄は誰あろう?

 李岳は無造作に間合いに踏み込んだ。舐めるように切っ先が滑る。容易くさばかれたが五合まではしつこく押した。張郃はその細やかさを少し嫌がったようだが、機を見て李岳は下段を払った。隙を突いた、と思ったがそこまで張郃の懐の内であったらしい。

 男は迷いなく脳天に振り下ろしてきた。それが関羽なら防御は間に合わなかったろう、張飛なら血乾剣ごと両断されていたに違いない。あいつなら――

 斜めに受けながら体を捨てるように飛んだ。転がった先は張郃の脇の下だった。ひっくり返した柄で肋間を打つ。張郃は呻き声さえ挙げずに今度は二の太刀で追ってきた。耳元をかすめる刃の音を聞きながら、李岳は肩に刃を走らせた。

「……参った、と申しておきましょう」

 カラリ、と肩当てが地を転がる音がする。李岳は剣を収めた。張郃からは既に殺気が失われていた。ようやく人心地ついた気持ちで嘆息する。

「気は済みましたか?」

「ええ、済みましたとも……李岳殿」

 

 ――見破られた、とは思わなかった。張郃は初見で『徐原』の正体を見抜いていたはずである。

 

 その確信を得るために剣を交えたかった、というところだろう。不器用な武人特有のけじめの付け方である。

「なぜここに? とは聞きませぬ。どうせはぐらかされると思いますので」

「ではあえて聞きましょう。なぜここに? なぜ寝返ったのです?」

「李岳殿、貴方がいたからです」

 目の覚めるような大声で二呼吸ほど哄笑を上げ、張郃は小さく会釈した。

「だから降った、と」

「一時であれ、私は呂布殿の僚将でした」

 わかってはいても、その名前を聞けば胸がつまった。李岳は息を飲み目を伏せた。即座に言葉が出てこなかっただけだが、張郃は単に首肯したと受け取っただろう。

「祀水関にて、呂布殿が裏切りを働き一目散に去った時、あの後ろ姿を私は呆然と見ていた。正直に申しましょう。憧れたのです。あれほどの武人でありながら、あれほど清々しく無邪気に背信する人など見たことがない。これほどの英雄を従わせる李岳という男に興味を持った。どんな男だろう、とね。それがまさかこのような所で出会おうとは」

「えらく興味を持つね。惚れたのか?」

「ええ、あれほどの武人でありながら器量良し。是非嫁に欲しい」

「……」

「お、初めて怖い顔をされましたな。今やりあえばもっと味のある戦いができそうだ」

 李岳が黙って微笑むと、冗談です、と張郃は笑った。

「冗談ですが、本当に興味を持ったのは貴方の方です。それだけは確かです。だから下ったのです。死なせるには惜しい」

 張郃の顔を見た。視線をそらさない。

「死ぬ? この私がか?」

「この戦、貴方はほぼ勝てないことを知っている。公孫賛が単独で袁紹に勝てるわけがない。兵数も少なく補給も不確かで攻めこめばそれだけ孤立を深める。だがそれでも、やらなければならないからやっている。では、何をやる? 何をやり遂げる? 軍の勝利より優先すべきこととは?」

 張郃が顔を寄せてきた。李岳の真意を読み取ろうとしている。張郃は何を見つけるだろう、この双眸から? 不安や希望、あるいは諦念だろうか――そのいずれも真実だが、全てではない。李岳は答えずに再び歩を進めようとした。しかし張郃は簡単には諦めない。

「勝利でないのなら、なんだ? だが必ず貴方はやり遂げようとしている、だからここにいるのですね。あるいは公孫賛軍を生贄にしてでも何かをしなくてはならないのですか」

「よく喋るな張郃。もっと慎重な人間だと思っていたよ。酔っているのか?」

「酔わせてくださいよ」

 苛立ったように張郃は李岳の前に立ちはだかると、肩を掴んで覆いかぶさるように迫ってきた。

「でなければ、どうして敵方に寝返って自領に攻め込めるというのです。ここ河間はそれがしが生まれた地でもある。反旗を翻すだけの価値があると信じたからです」

 しばらく身動きせず目をあわせた。張郃は微笑み李岳の肩から手を離した。汗ばんだ手だった。

「それがしは戦屋です。稼業は一つしかない。そして願いも」

「戦場か」

「納得のいく戦場を」

「難儀な男だな」

「それほど変わらんでしょう、貴方も」

 そんなことはない、と思いたかった。この夕陽に誓って思いたかった。

 歴史では張郃は袁紹軍の有力な将として対公孫賛戦で活躍を見せる。だがまさに『李岳』を原因として因果が狂った。これもまた吉兆だろうか、あるいは予期せぬ混沌の前触れだろうか。考えてもわからない。

 夕焼けは依然赤みを増すばかり。それがなぜか呂布を思わせた。日常のどこを切り取ってもなぜか呂布の姿が浮かぶ。夕焼けは暴力的なまでに郷愁をかき立てる。張郃が憎たらしかった、この男が彼女の名前を出さなければこんな気持ちにはならなかったのに、と。

 そろそろ軍議の時間が迫っている。李岳は夕陽に背を向けた。張郃は隣を歩く。李岳はちらりと目線をやった。大きな男だった。だが甘さがある。しかし驍将ともなるだろう。

「私の臣か」

「で、ありまする」

「酔わせてほしい、と言ったな?」

 李岳はやおら張郃の首元を掴むと、家の間の路地に全身の力を使って押し込んだ。張郃が初めて慌てた表情を見せる。壁に押し付けながら李岳は言った。

「俺はこの国を平定する」

「……」

「そのためにここにいる。貴様はこの俺に付き従うと言ったな? だが覚悟はあるか? 一時の酔いで付いてこれるか? それとも今の言葉を聞いて酔いなど醒めて正気に戻ったか?」

 張郃の大きな喉仏が上下に動いた。

「貴様に最初の任務を与える。これを成せるかどうかが、俺の試金石だ、張郃。お前が俺にとって足りると考えれば、生涯戦場に困らぬようにしてやる」

 やはり力任せに手を離し、李岳は通りに戻り先を急ぎ始めた。数瞬のちに張郃が現れると、今度は一歩後ろを歩く。張郃は城に着くまで一言も発さなくなり、少し気が晴れた。

 戻るともう全員が揃っていた。軍議は日没から始める、という取り決めだったが皆やきもきして集まったのだろう。公孫賛、趙雲、劉備、関羽、張飛、鳳統、張郃、そして後発から合流した楼班。

 この集まりこそこれからの行く末を左右するものだと誰もが知っていた。鳳統の報告も彼我勢力のみにならず、中華全土の勢力についてあらためて反芻するような、慎重で丁寧な語りであった。

 その全てを聞いた李岳は、会議の最後にようやく口を開いた――行くは人の道、これより南皮を攻略する、と。

 




李岳×張郃

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