真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

115 / 184
第百十二話 高陽の戦い

 最初の激戦、それは高陽で発生した。南下する公孫賛軍に対して冀州の北端に配備された対幽州の守備隊が応戦を試みたのである。その数四万。さらに周辺より二万の兵が集結を試みているとの情報も接し、公孫賛軍は行動を早めた。敵の合力を防ぎ、速やかな各個撃破が初戦の命題であることは誰の目にも明らかだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――軍議の席、鳳統が戦力分析を述べる。

 

「あわわ……敵は戦力の集中運用に理解があります。それぞれの領城で守りに入るのではなく、北方守備隊として連携するという訓練を受けております……弱兵では、ないのです」

 冀州最北端、河間国の各領域を描いた地図に、鳳統が指し棒で敵軍の行動予測を示す。易京城を出発して十日が経った。村落には目もくれず高速で南下する幽州騎馬軍団であるが、その動向は既に察知されているだろう。だがそれは冀州軍も同じである。公孫賛の諜報部隊が続々と敵の行軍を伝えてくる。それを分析し、作戦を練ったのが鳳統である。

「敵は籠城ではなく布陣を選択しております……籠城したところで我々は素通りして防備の薄い城を攻めるだけですから、敵の選択は賢明です。数は四万。ここでもたつけばさらに二万の敵の合流を許すことになりますので……初戦から正念場、とお考えください」

「合流を待ってはまずいのか?」

 公孫賛の言葉に、あわわ、と挟んで鳳統は頷く。

「敵四万に対し、ここにいる我が軍も同数の四万。烏桓兵らの参陣を待てば三万を付け加えることになりますが、それは愚策。南の本隊も悠々と動いてしまいます。攻め手の優位は攻め続けるからこそ保てるのです。まず討ち、そしてお味方を待ちましょう。そのためにも鮮やかに勝ちたいのです。四万を速やかに崩してしまえば、そうとは知らずに向かってくる二万を罠にはめてしまうことも出来ますです」

「自信がお有りか、軍師殿」

 趙雲の言葉に答える代わりに、鳳統は地図に数字を書き加え始めた。

「敵の一日の移動可能距離、我軍の移動可能距離、そこから導き出される兵站線と敵の行動予測がこちらの通り……です」

 今まで何人もの軍師を見てきたが、李岳は鳳統の特性に舌を巻く思いであった。徹底的に数字にこだわっている、その思想にである。根拠のない憶測や希望的観測は欠片もない。天才的なひらめきというよりは、地道に読み解いた末の献策だった――そしてそれは確かに非凡なのである。

「このように移動すれば決戦の地はここ、高陽の北二十里の地点」

 戦わずして己に有利な地に敵を引き込もうとしている。そしてそこには既に罠を張る。鳳統の戦略は李岳の目にも十分に勝算があるように思える。騎馬隊による高速機動を駆使し、敵を二重三重に迷走させた後に誘引するという高度な戦略を、この少女がそれほどの間を置かずに着想し得た――鳳雛の異名は伊達ではない。

「……さすが鳳雛先生」

「あ、あわわ。急に……そんなことをいわれても……私は、朱里ちゃんを助ける一心で……その一心で」

 鳳統の無二の親友、諸葛亮。彼女の消息は未だに知れない。これまで無数に間者を飛ばし、接触を図ろうとしても良い報告は一度もなかった。幽閉されているか、軟禁されているか、最悪の場合は……

 嫌な想像を振り切るように、李岳が口を開いた。

「そうやって照れてくれるだけありがたいな。うちの実家の軍師たちはみんな筋金入りの頑固者ばかりでね。新鮮な気持ちになるよ……」

「……そんなにひどいんですか?」

 劉備がはにかむように続いた。

「ああ、もう……怖いんだから。賈駆、徐庶、司馬懿……みんなハンパじゃないんだ。いつか俺は殺される! って思うほどだよ」

 その李岳の『冗談』があまりに真に迫っていたため、皆が危うく本気に捉えかねなかった。もやもやした表情のまま、李岳が続ける。

「で、ごめん。ちょっと話戻すけどさ、一見したところ雛里の策に異論はないんだけど、一つ質問がある」

 李岳の疑問は明快であった。いつでも歴史との符号を懸念し、人の動きに気を配っていたからこそのそれである。

「この誘導策、敵指揮官がそれなりに出来る奴という前提だろう? いやもちろん、予想以上に敵兵の集結は早いし、戦力の集中運用にも長けてると思う。だがそれ以上の情報があると見た。そうだな?」

 鳳統は言う。

「はい。敵の指揮官さんのお名前は……」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 野戦陣の外から地平を見守っていた。夜明けである。張郃は北から押し寄せてくる敵兵が間もなく見えてくる気がした。

「戦場の勲こそが武人の誉れ、と言えどな……」

 漏れ出そうになったため息を何とか飲み込んだ。ここで愚痴などこぼしてしまっては指揮官の資質に関わる。そうなれば部下の離反を招きかねない、厳に慎むべき行為である。

 反董卓連合戦の後、張郃に対しての評価は非常に難しいものとなった。城壁攻略に勲功あり。ただし寝返りを見抜けなかった咎を鑑み相殺す……一言でいえばそうなる。だが対幽州の要員として北に派遣された結果を見れば、袁紹に疎まれ僻地への左遷、というのが真実に近いだろう。僚友とも言えた高覧、淳于瓊の二人とも引き離されてしまった。餞別代わりに渡されたのは子飼いの兵二千だけ。後は全て冀州北端の元々の駐留兵のみだった。

「我ながら運のない男だ。さて、今回の命拾いはなかなか難しそうだが?」

 見れば副将が駆け寄ってきていた。弱音はここまでということだ。軍人である。いくら勝ち目が薄いとは言え仕事は果たさなくてはならない。

 副将が持ってきた情報は敵の挙動を克明に記していた。眉をひそめる。

 報告書によれば、敵はまず騎馬主体の二万が先行してこちらに向かっている。そして歩兵主体の二万が半日遅れて追いかけているという状態だ。それに対してこちらは重装歩兵と弓兵を主体として四万が一体となっている。今ならば各個撃破が可能だろう。

「……と、思うだろうな。普通なら」

 敵の進軍の巧妙なところは微妙に進路を西にずらしていることだ。そのまま真っすぐ進めばこちらを素通りして南に抜け出ることが出来る。それを嫌って追撃すれば後からやってくる歩兵と挟み撃ちにされてしまうだろう。だが騎馬隊を真正面から受け止めようとすれば今度は歩兵がすり抜けていくか、あるいはやはり挟み撃ちを試みるだろう。

 敵の行軍は巧妙極まる。ぶつかる前から張郃は誤れば必敗となる手番に追い込まれていることを自覚した。

「……ひりつくぜ。こういうシビれる戦をやる機会がまた巡って来ようとはな。何にしろ、これで大将軍閣下へは十分な貢献となるだろう」

 高覧か淳于瓊がいれば話は違っただろう。だが悔いても仕方がない。公孫賛を甘く見ているのが自分の主なのだ。それとも侵攻されることはないという偽報でも掴まされていたとでもいうのだろうか?

 主君が部下を選ぶように、部下も主君を選ぶ。張郃は自らの心が袁紹から遠く離れてしまっていることに気付いていた。黄巾なぞという輩共と組むのも気に入らない。だが恩義も仁義も信義もある。それがある故に今ここで戦わなくてはならない、と思っていた。生きて残れば筋は通したことになるだろう。死ねばそれまでだが、それは大した問題ではない。

 

 ――自分の目の前で鮮やかに旗を翻した紅蓮の少女。心躍るようなあの背中を見た時から、張郃は裏切ることも時に悪くない、と思うようになっていた。

 

 英雄呂布。勇猛無双なあの乙女に躊躇うことなく付き従うことを選ばせる李岳。話す機会さえあれば、自分もあるいは共に歩む道を選んでいただろうか?

「……時間だな。たわ言は終えて、仕事に取り掛かるとするか」

 夢のような仮の話を振り払い、張郃は号令を下した。付き添いが慌てて馬を引いた。『張』の旗が風に靡いた。敵が速さを活かして陽動をかけてくるのはわかっている。ならばこちらは地の利を活かすまでである。

 四万の兵が張郃の指示に従い前進を目論む。掌握できているのはこのうちの七割というところだろう。赴任してさほど時間は経っていないのだ。あと半年あれば、と思うところはあるが備えが間に合わなかったのも己の力量だろう、と割り切る他ない。だが正規兵であり、自領が侵犯されているとなれば戦意が低いわけがない。兵の本分とは家族と地元を守ることにあるのだから。

「公孫賛の軍は騎馬隊が主体だ! ここを素通りさせれば瞬く間に我らが地を侵掠しつくすだろう! 貴様らが冀州の盾である!」

 檄に答える声は決して小さくはない。頼るならばこれしかない。

 張郃は兵を引き連れ十里北進した。高陽の本拠地からは計二十里動いた計算になる。元より戦うならここ、と決めてはいたが、張郃は地形の細部まで念入りに自分の目で確かめた。張郃は賊討伐の募兵に参加した叩き上げの軍人上がりである。本当に大事なことは足を運んででもきちんと見るべき、と身に沁みていた。

 なだらかな丘陵と岩場が目立つ。そして西には巨大な淮水の支流がある。布陣するのなら他に選択肢はない。張郃は丘陵の頂上に陣を敷き、馬除けの柵をこれでもかという程に配置した。

 公孫賛軍がこの本隊を襲おうと思えば坂を駆け上がり、柵を引き倒しながら弓矢を躱さなければならない。単純な布陣だがかなり嫌がるはずだ。道をそれようとすればこちらが今度はこちらが逆落しを仕掛ける。

 さて、と張郃はお手並み拝見という気持ちで胡床に腰を下ろして待ち続けた。放った斥候が四半刻ごとに公孫賛軍の動きを知らせてくる。今のところ真っ直ぐこちらに向かってきていた。

 変化を知らせたのは正午前の一報である。

「四手に分かれただと?」

 公孫賛、趙雲、劉備、関羽の四隊に分かれたとのことである。二万が四分割した。単純に考えれば一隊五千である。その四隊ともが張郃本隊を避けるように四路に迂回して駆け抜けようと画策していた。

「味な真似をしてくれる」

 誘いであることは明白。今この手元にある四万を使えば五千など一捻りだ。問題はどれほどの早さで潰し、次の五千に食いつけるかだろう。もたもたしていれば二万は素通りして背後に回り、後でやってくる歩兵の相手にかかずらうことになってしまう。それなれば敵の騎馬隊は縦横無尽だ。

 やるなら本隊。思う存分罠は仕掛けられているだろうが、不利は承知。

「陣を放棄する! 我らはこれより敵本隊に突撃を敢行する! 狙うは公孫賛の首ただ一つだ!」

 

 

 

 

 

 

「食いついた模様」

「そ、そうか……」

 公孫賛が不安極まりない顔で頷いた。鳳統が気にせずに帽子を上下に揺らせた。

「あわわ、作戦通り前進を」

「白蓮殿、下知を」

「う、うん……前進だ!」

 二万を四手に分けたのでここには五千しかいない。四万の敵が向かってくるのならば、その兵力差は八倍もある。公孫賛の緊張や不安も当然ものだと言える。だが決して臆病になっているのではないだろう。前進を指示する公孫賛の態度は堂々としている。さすが幽州を束ねる総大将といったところ――と思ったのも束の間、キョロキョロと周りに視線をやり、兵が誰も見ていないのを確かめると公孫賛は李岳に囁いた。

「……でもさ、冬至。大丈夫なのか? 本当に大丈夫なのか?」

「大丈夫ですって」

「ほんと? ほんとに? 絶対? 百のうちどれくらい?」

「百」

「あー! いま適当に答えたろ!? めんどくさいって思ったろ!」

「そんなことないっす」

「あーもう! ほんとにもう! なんだってお前らはそんなに無茶に平気なんだ! 普通なのは私だけか!?」

「はいはい。わかったから前進ですよ、総大将」

「うぎー!!」

 李岳と鳳統が相乗りしている小雲雀以外は全て白馬の公孫賛隊。総大将の気乗りのなさとは裏腹に、隊の動きは滑らかで齟齬などなかった。極めて精強であることはひしひしと伝わってくる。呂布、張遼、高順……彼女らが率いる騎馬隊の獰猛さとは別種の強さを感じる。特筆すべきものはないかも知れないが、何か温かい想いを共有しているような、そんな連帯感が強く伝わってくるのだ。

 

 ――それは恐らく、総大将の公孫賛を絶対守るんだ、という気持ちに相違ないだろう。

 

 二里ほどあっという間に進んだ。その間、鳳統がブツブツと独り言を呟き続けていた。よく耳を澄まして聞けば距離と時間の計算なのだから恐れ入る。やがて遠くに土埃が見え始めた。張郃率いる冀州北方守備隊である。ひっきりなしに往復していく斥候が敵軍の全貌を明らかにした。その数四万。全軍で総大将を討ち取りに来たのだ。

「雛里の読み通りだな」

「……はい。思い切りのいい将軍です。だからなおさら、気を緩めてはいけません……手強さの、裏返しです」

「そういうことです、白蓮殿。後は手はず通りに」

「わ、わかってるさ!」

 ゴクリ、と息を飲んで公孫賛は一歩進んだ。すう、っと息を吐く音がこちらまで聞こえた。

 目一杯の全力で、公孫賛は声を張り上げた。

「……そ、総員反転! 逃げるぞぉ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「敵軍……に、逃げます!」

 報告を聞いた張郃は思わず笑った。さて、どうしたものか――こうも簡単にはめられるとは。守り手側の決死の決意を逆手に取られ、易々といなされてしまっている。状況はこの単純な一手で簡単に入れ替わってしまった。張郃は死地に突入してしまったのである。

儁乂(シュンガイ)よ、まだまだ若いということだな」

 張郃は束の間、心底愉快な気持ちになり馬上で笑いを我慢しなかった。

 ここで公孫賛の本隊を追うことは容易い。だが追いつける見込みは薄い。追えば追うほど敵は逃げるだろう。そうなれば残りの三万五千が完全に野放しになってしまう。後発の敵兵も合流すれば、今度はこちらが不利になる。

 逃げた公孫賛を諦め、他の隊を追えば今度はそちらが逃げるだろう。そして他の隊がちょっかいをかけてくるに違いない。出陣した時点で罠にはめられたのだ。このような簡単な罠に。最善は交戦を回避し、初めから撤退することだったのだ。だがそれをすれば戦意が低いとされ、元より信用を失っていた己は処断されることは目に見えている。戦うしかない立場を悟られ、戦えば必敗の状況に追い込まれたのだ。

 敵国に侵攻した初戦でこんなにも容易く敵に背を向けるとは思いもしなかった。意気を活かすという兵の作法を欠片も気にしていない用兵である。大胆不敵の一語に尽きる。

「さて、ここでみすみす部下を死なせるのは気がひけるが」

 頭の中で戦力分布を整理した。平野にて、五千の騎馬隊に四方から囲まれている。決意を元に狙い定めた敵の本体は追えば逃げ、そして別働隊が背後を突く。

 最適な戦術はこちらも隊を分けることだが、あいにく信頼できる僚将がいない。いればもっと多彩な対策を講じることができたはずなので、ないものねだりであることは今更である。

 張郃は躊躇うことをやめ、決断を下した。

「……総員撤退する。冀州は河間国を失った、と鄴に早馬を飛ばせ。全責任は無能極まるこの張郃にあり! 殿軍は私が務める。一人でも生きて南を目指すのだ!」

 高陽に籠城に向く城はない。無駄な抵抗を試みるより一挙に南に逃げてしまうのが理にかなうものと張郃は考えた。そしてそれが最低限自らが果たすべき役割だろうとも。

「私に気を使わず、去れ。今日失った貴様らの故郷は消えてなくなるわけではない。いずれ取り戻す機会もある。そのためには生きて帰ることだ。殿軍に志願するものだけが残るが良い」

 張郃は副将を呼びつけると撤退の指揮を命じた。彼が泣きながら頷くものだから、自分の人望も捨てたものではないと思えた。

 そして残った兵はおよそ二千。皆、自分が連れてきた子飼いの兵である。張郃は頷き、そして下知を飛ばした。

 

 ――この後、張郃と共にしんがりを志願した二千の兵たちは、二万の騎馬隊を向こうに回して壮絶な撤退戦を演じきり、遂に二十日間もの遅滞戦闘の後に降伏する。その戦いの見事さは『鳳雛』の戦略の一部に修正を迫る程で、趙雲と関羽の力押しがなければさらに一月は時を稼がれたかもしれないと思う程だった。

 一方、張郃が撤退を命じた本隊は後に指揮を引き継いだ将より交戦を命じられ、殿軍による奮闘の甲斐無く幽州軍団に粉砕される憂き目に遭うこととなる。いずれにしろ、公孫賛率いる幽州軍団は初戦を勝利で飾り、冀州の北端を伐り取るに至った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 公孫賛、袁紹を急襲す――

 戦端が開かれるや、全国の群雄に急報が飛んだ。その決断と快進撃は誰もが驚きをもって受け止めたが、しかし公孫賛軍の攻撃に晒された士卒たちの受けたそれに比べると随分と控え目であったと言わざるを得まい。それほどまでに公孫賛軍の攻撃は苛烈であった。

 冀州のうちでも最北端、国境を有する河間国をひと月もかけずに制圧すると、迎撃に向かった冀州第一軍を鎧袖一触。白馬義従を中核とした公孫賛軍の戦術機動は河北の平野を縦横無尽に侵犯し、防備の整わぬ守備隊を狙いすましては討ち滅ぼし、教練のような各個撃破を成した。

 これにより河間国はひと月を待たずに陥落。全国の群雄を驚かせたと同時に、袁紹を激怒させるに至る。

 

 

 

 

 

 

 ――鄴。

 

 投げ捨てられた杯が、赤い絨毯をさらに濃い紅に濡らした。袁紹の荒い息だけが議場の音である。

「……これは誰の責任ですの?」

 いつもの袁紹らしからぬその静かな声が、何より如実に怒りの凄まじさを伝える。幕僚は平伏するのみ。側近中の側近であった顔良さえ、ひざまずいたまま声も出せない。

「私の領土を奪うなど、そんなこと許される道理があって? 私は申し上げましたわよね、北伐と! だというのに逆に領土を奪われるなんてどういうこと!」

「申し開きもありませぬ!」

 田豊が声を上げるが、火に薪をくべたに過ぎなかった。

「ならば! 貴方がたはこの狼藉をただ手をこまねいて見ていただけということになりますわよ! 貴方たちの仕事は何かしら? この私を苛立たせることがそうだとでも? しかも張郃さんは敵に寝返ったというじゃありませんの!」

 袁本初の覇気は普段の彼女のみを知る者からすれば想像もできないものであった。だがこの他を圧倒する気迫もまた、偽らざる彼女自身の資質であった。

「南の状況はどうなっていますの? 田豊さん?」

 南、といえば指すのは曹操と張貘が抱える戦線である。曹操軍から離反した張貘を袁紹は既に自らの戦力とみなしていた。つまり彼女の中ではとっくに曹操との開戦は済んでいたのである。

「はっ……曹操軍の攻撃は素早く、周囲の城塞のほとんどが陥落を余儀なくしておりますれば、早急な救援が求められましょう」

「けれど、そんなことをしていたら北からの攻撃を支えることはできない……貴方がたが先ほどから言い辛そうにしている理由はそんなところかしら?」

 袁家の頭領だからということのみでこれほど人が集まることなどあるはずがない。鷹揚な人柄や資力と同時に、宦官をなで斬りにすることさえ公言していた清流派のうちでも最右翼の派閥を形成していたのが彼女なのだ。親から受け継いだ者だけで一州を伐り取ることが出来るほど世は易しくはない。

 強大な兵力。盤石な支配地域。無数の幕僚たちに手に入れた黄巾の力。あえて己が力を発揮する必要などなかった環境が、彼女を滑稽な高飛車娘に押しとどめていたに過ぎない。

 しかし状況は激変を始めていた。反董卓連合軍の失墜と曹操との緊張、盟友張貘の危機、劉備の離反、公孫賛による冀州とそれへの敗北が、袁紹に魂の危機を実感させていた。

 ことここに至り『冀州の巨人』はその全ての才覚を根こそぎ発揮せざるを得ない状況になったのである。

「袁本初の名において命じますわ。京香さんを救い、北の敵も倒しなさい。それができなければ貴方がたがここにいる意味は微塵もありません。よろしくて!」

 袁紹のその怒声の前に、ただ一人臆することなく現れた顔色の悪い男がいた。

「意見具申、よろしいでしょうか?」

 蚊の鳴くような声であった。袁紹の怒りを恐れる幕僚がみな、怪訝さと発言者の迂闊さを呪う気持ちで顔をしかめる中、声の主人は飄々と立ち上がり進み出た。姓は田、名は疇。字は子泰。顔色が悪い書生風の男は、袁紹の怒気に他愛もなく首をかしげながら言葉を続けた。

「大将軍閣下のお怒りはごもっとも。その望みの全てを叶えることが臣下の務めと心得ております。しかし現状ははなはだ不利。難敵を二方向に抱え、勇猛無比な将の皆様もさすがに思案のご様子です」

 居並ぶ幕僚の不審な目を一顧だにせず、田疇は続ける。

「然るに、ここに新たな才を迎え入れ、その力を以って敵を討ち滅ぼすべきでしょう」

「助っ人がいるとおっしゃるの?まどっろこしい話し方は嫌いですわ! とっとと話を進めてくださいまし!」

「善哉。出ませい」

 現れたのは小柄な少女であった。ただし異様なるはその風貌。黒と白の長衣、目深に被った帽。それは紛うことなき葬儀の装束。手にしたる羽扇は口元を隠し、なお顔を伏せたまま。しかし居並ぶ者はすぐにその少女の正体を知った。だからこそ風貌な変わりように驚きを隠せなかったのである。

 少女は袁紹の御前にひざまずくと、拱手し述べた。

「諸葛孔明、罷り越して候……」

 袁紹の投げ捨てた硯が、床を黒く染めた。

「貴方! よくもおめおめとこの場に!」

 劉備に寄せた信頼が無残に裏切られたことは、袁紹の心を深く傷つけていた。今回の公孫賛の急襲は冀州を伐り取らんとする劉備の画策なのではないかと疑ってすらいるほど。

 劉備の幕僚であった諸葛亮は袁紹の指示により軟禁されていたが、田疇は独断で彼女をこの場に導いていた。

 激怒に拳を震わせる袁紹を田疇はなだめる。

「お待ちあれ、大将軍閣下」

「何を、何を待つと!」

「劉玄徳の裏切りは間違いのない事実、公孫賛率いる幽州兵団に彼女の名前があることも確認いたしました。だからこそ、臥龍先生はここにいらっしゃるのです」

 

 ――諸葛亮は劉備の知らせが初め誤報だと思った。誤報は言い過ぎにしても、正確ではないだろうと思った。

 

 襲撃はあったかもしれない。しかし行方が不明というだけで鳳統の死が確定されたものではない。劉備は状況が不確かな状態で慌てて知らせを飛ばしたのかもしれない。それ自体は非難すべきことではない。迅速な情報伝達は何よりも重要なことだからだ。

 翌日、袁紹が情報の精査のためにさらなる伝令を飛ばし、もしもの事があった時のために三千の派兵を決断したことにも賛成であった。三千では幽州全域に対する脅威としては少なすぎる。公孫賛と劉備が微妙な緊張状態にあった時、それを刺激しすぎる人数では逆効果となりかねないからであった。

 諸葛亮は待った。鳳統が無事であるという知らせと、劉備の帰還を。

 いつまでも、いつまでも……しかし彼女に届いたのは、劉備が公孫賛に付いたという一報であった。

 

 ――鳳統の消息は、最後まで諸葛亮に届かぬまま。

 

 田疇の、弱々しくも朗々たる演説が議場を占める。

「仁義の人と看板を掲げていた劉玄徳ですが、いざ窮地になればすぐに我らを裏切るに至ったのです……されど劉玄徳の裏切りに全ての者が賛同したわけではありませぬ。それは不義であると、成せぬと、説得を試み……抗命した者がいたのです。その者の名こそ鳳雛先生こと鳳士元殿。この諸葛孔明殿の親友に他ならないのです。臥龍先生と鳳雛先生は無二の親友。諸葛孔明殿の心中やいかにおいたわしいか……!」

 田疇の指示もなく、現れた下男が掲げたるは泥にまみれた無残な帽子。

「ここに彼女の遺品が。鳳統殿は味方に無残に殺された可能性さえ」

「そこまでに」

 田疇の声を差し止める諸葛亮。その声は平静であるがゆえになお悲痛であった。黒と白。彼女は喪に服していることがはっきりとわかった。

 諸葛亮は続ける。

「いま私が為すべきは……この冀州の無辜の民を戦火から守ること。敵はこの地の内情を全て知っております。猶予はないのです」

「……フン。ならばどうしろと?」

 袁紹の問いに諸葛亮は躊躇いなく答えた。

「三万を南方へ派兵……張貘殿をお救いいたします。同時に十万を北へ。中山郡を討ちます」

「何を寝ぼけたことを! 中山も私の領地ですのよ!?」

「中山郡は寝返ります」

 悲鳴のようなざわめきが議場を満たした。袁紹の困惑をよそに臥竜は火を噴くように言葉を続ける。

「中山郡は元々公孫賛が収めていた土地。喜んで参陣するでしょう。もし中山と河間が連携すれば、太く長い防衛線を構築することができ、一挙に難敵となります」

「むう! 無視して南下してくれば河間を攻め、長く伸びた兵站を寸断するわけだな!」

 田豊の相槌に諸葛亮は目もくれずに頷くのみ。

「敵に孤立からの回復を許してはなりません。討つべきは中山郡。敵は勢いがあります。ならば周りを固め、首を締め上げてしまえばよろしい」

 しんと静まりかえった議場の中で、袁紹が豊かな金の髪をいじりながら、そのなまめかしい足を組み替えた。視線は真っ直ぐ諸葛亮へ。濃い隈にまみれた双眸から、憎しみの青い炎がほとばしっているように袁紹には見えた。

「……よろしい。貴方を対公孫賛軍の軍師に取り立てます。即座に前線に向かいなさい。ただし勘違いしないでくださいまし! 貴方を信用したわけではありませんわ! 不自然な動きを見せればその場で切り捨てられることを覚悟おし!」

「構いません……劉備を討てるのであれば」

 その声は暗く、冷たく、議場を重く満たした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 田疇は一人居室に戻ると寝台に腰をおろした。全身に異様なまでの汗をかいている。自分がもはや正しい道を歩いているのかどうか定かではない。今ここにいたり正解を失った。暗がりの中、手にした明かりを頼りに進んできたというのに突如として全てを失った心持ちである。

 諦められないように田疇は再び書を開いた。書にはただ『諸葛亮を使う』という記述。

 

 ――李岳は書があらゆる人間の思考を覗き見る万能の機器と考えたが、それは正確には誤っている。実際には田疇の目標を達成するための方策を浮かび上がらせるのみで、それは時に田疇本人に不可解な内容さえある。迂遠過ぎる故に意図が読み取れない場合があるのだ。

 

 しかしこの度は過去に経験がないくらい簡略化されている。敵の作戦がほとんど読めない。最早人知を超えた先にしか未来はない、とさえ言える。幽州に潜ませた『埋伏の毒』をここで使うという手もあるが、それだけでは決定打にはならないという判断を『書』が下したのだ。

 はっきりわかっていることはただ一つ。いつの間にか、追い詰められているのは自分の側になっていた。

「やはり、貴方はそこにいるのか……!」

 李岳が公孫賛に付いた。そしてこの田疇の首を狙ってやって来たのだ。そうでなくばこれほど書の記述が減るわけがない。書が読むことのできない李岳が、作戦の統制を担っているとしか思えない。彼が最後まで決断をしないのであれば、書は永遠に判断を下すことができないのだ。李岳は自分の出方を窺っている。そして一瞬の隙を突いて殺そうと――

 それに対して書が下した答えが、諸葛亮を利用する、というそれだけ。今ここに至り、田疇は己の命運と理想の全てをただ一人の少女に預けることになってしまったのである。

 身震いする。田疇は思わず立ち上がると剣を握り、熱心に振り下ろし始めた。李岳が刺客に来たと感じてから、日課として欠かさず行っている素振りである。護身を少しでも身につけたいと文醜に相談し、二、三の型を教わったのだ。

 田疇は運体の法を学び、身体を操ることにかけては人より得手である。体力はなくすぐに疲れてしまうが、剣の振りもすぐに身につける事ができた。手の豆が潰れ血みどろになり、汗みずくに疲れ果てて気を失ってしまうくらいになり、ようやく恐怖を忘れ眠りに落ちることが出来るようになる。

 田疇は夢中になって剣を振り続けた。やがて張角が孤児たちの学び舎に遊びに行こうと誘いにくるまで、半刻あまり田疇は恐怖を殺すように剣を振り続けるしかなかった




ニンテンドースイッチ with ゼルダの伝説 is すごい

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。