一度琢郡に戻り、易京に集結を終えた時には半月を要していた。公孫賛軍の普段の配置は幽州の地理に従い東西全域に渡って長く伸びているので、戦力を集中させることは相応の難事なのである。しかし烏桓と鮮卑に対しての防備を限りなく低減できるようになった今、公孫賛の手札はかつてなく多く、そして精鋭無比と相成った。
「武者震いするな」
――城壁の上、幽州の風を受けながら公孫賛ははにかんだ。
「震えているようには見えないけれど」
「昨日の夜までは、すごかったさ。おっかなくってなぁ。お前を恨んだくらいだよ」
「こんなところにまで疫病神が現れたって?」
「馬なんか買わなけりゃよかった、って」
いつの話だよと李岳が言うと、それもそうかと公孫賛は笑った。その顔に怯えや不安は見えない。北方にその名を轟かせる赤髪の勇者は、いま盤石の心持ちで南を虎視している。
ここ易京城。公孫賛が築いた防衛の要であり、そして南下に欠かせぬ補給線の拠点である。十重の堀、十重の土壁、千の城楼、蓄えた兵糧は三百万石にも達すると謳いその堅牢に拠れば十年は包囲に耐えられると自負していた。
「まぁだいぶ言い過ぎなんだけどな」
てへへ、と頭をかいた公孫賛。後世にもその名が伝わる易京要塞。だが実物は確かに頑強な要塞ではあるが難攻不落とは言いがたかった。しかし明確な事実として、城塞はこの地を流れる易水を上手く利用しており、攻防の要所となっているのは間違いない。
「戦争を始めるんだな」
「ああ」
悲しみと決意が織り成した闘志を李岳は感じた。城壁から降り、議場を目指して歩く公孫賛の後に続いた。既に進発の時刻である。これより最後の軍議であった。
琢に駐屯していた主力を併合すると、公孫賛軍はその数を四万にまで膨れ上がらせていた。直属の他に幽州東部より公孫越ら一族の兵が二万、さらに烏桓兵が一万の規模で続く計画となっている。総勢七万の堂々たる兵力が続々と冀州に攻め込む形だ。
これより全軍の進撃路を定める軍議であるが、既に全軍即座に進発できる態勢だった。軍議とは言え議論の余地はない。公孫賛の来場を待って幕僚の全員が起立した。
「雛里」
公孫賛に促され鳳統が一歩進みでる。新調した帽子を目深にかぶったまま、しかしその声はらしくなく朗々と響いた。
「まず現在の敵勢力についてご説明します。敵本隊は首都である鄴、そして古都・邯鄲を中心とした魏郡一帯に十万の兵力を保持しています。中でも中核となるのが顔良と文醜の両将軍が率いる黄金鎧の重装歩兵。さらに張郃将軍が率いる鉄騎兵、
そのどれもが強敵なのは疑う余地がない。袁紹は劉虞即位後、練兵の指示に余念がなかったとも聞く。
「冀州北部の守備兵は総勢五万から六万ですが、有力な将軍はほとんど首都に集中しているので、この守備兵たちは難敵とは言い難いでしょう。いかに早く打ち砕くかが肝要になるかと思います」
「どうしてそんなに南方に集中してるんだ?」
「こちらを侮っているからです」
答えに不満なのか、公孫賛はむっすりとして腕を組んだ。しかし一時でも袁紹の元に身を寄せていた鳳統が言うのだから偽りではないだろう。
「それに、曹操さんの元にいた張貘さんが叛乱を起こしたという知らせも……袁紹さんが南に兵力を集中させているのは、この張貘さんへの支援を考えているからでもあるのでしょう」
張貘の叛乱はおそらく田疇の仕込みだろう。張貘と曹操の関係は密だった。史実では陳宮と張超の甘言により、呂布と組する形で叛乱している。陳宮と呂布がいない分の後押しを田疇が仕込んだと考えておかしくはない。
李岳は束の間、曹操の横顔に想いを馳せた。志は異なるが、根は通じるはずだ。同じ類の誇りを持っているはず。その曹操が容易くねじ伏せられるはずがない。
「張貘の叛乱は本来袁紹らに利するものだが、たまたま私たちに好機を与えてもいる、ということか」
「そうなります。しかしその機も間もなくでしょう。張貘さんが曹操さんに鎮圧されるのは火を見るよりも明らかです」
微妙な話だ、と李岳は思った。張貘が叛乱を起こしてなければ曹操は青州方面から圧力をかけられた。しかしその時は北方への警戒もそれなりだったろう。全ては時機である。天運だろう。
「その袁紹さんを向こうに回して、私たちは侵攻作戦を実行します。方策としてこちらに天地人の策略を用意しました」
鳳統は厳封された三つの竹簡を懐から取り出すと、一つ一つ並べながら言った。輪になってる皆が首を長くして覗き込む。鳳統はうち一枚を取り上げた。
「『天』は速攻。河間国から中山国を落とし鉅鹿郡を目指す道。敵首都である鄴まで真っ直ぐ駆け抜ける策となります」
二枚目を掲げた。
「『地』は河間国攻略後、二部隊に分かれて中山国と安平国を攻め落します。鉅鹿郡以北を孤立させ、包囲してから後に攻略する手はずです」
三枚目。
「『人』の策もまずは河間国を攻略。そして東にそれて冀州第二の都市である南皮の攻略に向かいます。平定した南皮を拠点としてから西を目指す算段です。その際は南から北進してくる青州軍を防ぐことが命題となるでしょう」
ここに来る前に聞き及んでいた李岳と公孫賛とは異なり、防諜のために幕僚全員が初耳である。鳳統の進言にある者は息を呑み、ある者はうなり、ある者は震えて笑った。史に残る大戦となるのは間違いない、あとは勝者として謳われるか、惨めな敗者として路傍で骸となるか、である。
答えは決めてきた。公孫賛にも伝えてある。白馬義従の頭領は躊躇うことなく三枚の札すべてを取り上げた。
「私は……選ばない。今はまだ、という意味だ。まずは河間国の攻略に集中しよう。皆も作戦はすぐに把握したいだろうが、状況は刻一刻と変化するんだ。焦らずいこう」
意外な顔をしたのは趙雲だけではなかった。献策した鳳統でさえ小さく、えっ、と声を漏らした。
公孫賛軍の主力は騎馬隊。その真髄は高速機動と野戦での打撃力にある。持ち味を最大限に活かせるであろう『天』の策を選ぶと誰しもが思ったが、そうではないというのが公孫賛と李岳の解であった。
李岳は思う。田疇の力が意志の先読みにあるとするのなら、決断しないことでその力を曇らせることが出来るはずだと。少なくとも田疇には天地人三つの策、全てが見えるはずだ。だがその全てに同時に対処する奇策などあるはずがない。今だけは保留が武器となる。手札三枚を見せてようやく同等とは理不尽にも程があるが、相手がこの李岳である以上、明かされない四枚目の手札も勘ぐるはず。
一手損の空手。太平要術の書を殺す鬼手はこれしかないと李岳は踏んだ。例えそれが膨大な犠牲を払うことになるかも知れない、背水の窮策だとしても。
(田疇。今度は貴様自身が選ぶ番だ。次はお前が血を流す番だ。俺はお前を倒すためなら全てを犠牲に出来る。全てを賭け、貴様を倒す……お前にその覚悟があるか?)
「……我ら皆、将軍の凱旋を心待ちにしておりまする」
幕僚の疑念を薙ぎ払うように、程緒がひざまずき拱手した。将が皆続き、いずれ訪れるであろうその時を先取りするように勝どきの声を上げた。具足の公孫賛に程緒が紅い外套を羽織らせる。翻るその布に導かれるようにして、皆が公孫賛の後に続いた。
動員兵力の差は二倍。国力の差は七倍。劉虞への崇拝と黄巾の結束で固められた城塞群に離反を期待することはできない。ひたすら戦い、ひたすら勝つことしか許されない――なけなしの希望が必要となる理由は一つしかない。向かう先には巨大な絶望が横たわっているからだ。
李岳もまた貸し与えられた白馬に乗り、公孫賛の隣に騎乗しては門をくぐった。これから一路南へである。
――しかしその足も門の外で止まった。
扉の外で武器を置き、膝をついて待っている者の姿があった。鳳統が息を飲み、すぐさまワッと泣き出した。
劉備、関羽、張飛。
「我ら三姉妹、此度の戦にお力添えをせんと馳せ参じました」
武器を地に起き、膝を突いて三人は声を揃えた。公孫賛が感極まったように駆けより、劉備の手を取った。
「もちろんだよ桃香! ほら、立ってくれ! きっと来てくれると思ったんだ!」
「お待ちを」
どうしても聞きたいことがあった。公孫賛に恨みがましく見られても、鳳統が不安そうに袖を引っ張っても、李岳はそれを振り切って劉備に聞かねばならないことがあった。
「劉玄徳殿にお伺いしたい」
「はい」
「本当の意味での覚悟を、貴女はお持ちですか?これよりの戦、敵はどのような手を打ってくるか皆目見当もつきません。貴女が一度は道を共にした黄巾の者たちを殺さなくてはならないことになるかもしれません。貴女にできますか?」
「必要とあらば。ですが求められるのは戦いだけでしょうか?」
この期に及んで楽観的な平和論、というわけではないようだった。劉備は自信に満ちた笑顔と、一筋縄ではいかない策謀家の両方の気配を漂わせていた。
「私は冀州で一定の支持者を作りました。その声望はまだ皆無ではありません。私が呼びかければこちらに付く人もいるかもしれません。追い詰めた時に降伏を受け入れる余地が増えるかもしれません」
「出来るのですか?」
「でも、期待してますよね?」
劉備の顔に、彼女らしからぬ不敵な笑みが浮かんだ。李岳は戦慄した。これが劉備! 男子三日会わざれば刮目して見よ、
「南に向かう途中に叛乱を起こされれば大変です。それを防ぐ手立ては一個でも二個でも増えた方が良いですよね? 私の説得ならそれが抑えられます。落城させるまでが戦いですか? 支配を拒み、城の内から争いが起これば軍は敵国内部で孤立します。敵は巨大な誘引の計を図っているのかも知れません。一度上がった反乱の狼煙は、業火となって全てを焼き殺すでしょう」
添えられたままだった公孫賛の手を、すがりつくように握りしめて劉備は立ち上がった。健気だった。同時に弱かった。その弱さは人を惹きつける力でもあった。
己の弱さを恥じることなく、劉備は心のうちを叫んだ。
「朱里ちゃんを助けたいの! 私に出来ることならなんだってする! 私たちが戦わないで、誰が朱里ちゃんを助けるっていうの!?」
もはや問うものはおらず、李岳は拱手し劉備の覚悟に敬意を表した。劉備と公孫賛にまつわるこの逸話は史実にも描かれ、後世にまで広く喧伝される美談として語り継がれていく。
「これで万全だな、冬至! もう憂いはないよ!」
心残りなどもうない、心を預けるに足る旧友がとうとう仲間となってくれたのだから。
李岳は少し、困ったようにはにかんだ。
「……ええ、これが最善でしょう」
――公孫賛は飛び抜けて英邁でもないし、人の表情の機微を見落とさない注意力を持つわけではない。勘働きも十人並みである。しかしほんの一瞬だけ李岳の横顔に浮かんだ翳りを目にしてしまった。それは公孫賛に、李岳の不安と思惑を気づかせてしまった。李岳のとある覚悟と、布石を。
公孫賛は手綱をギュッと握り、一度だけ易京を――幽州を振り返った。爽やかな風が草原を波立たせ、易水との境目を時折見失わせながら、慣れ親しんだ河北の匂いをくれた。
戻るのなら今だった。
しかし、進むのであれば、それもまた今だった。
力が血に乗って全身を駆け巡った。不遇な幼少時代、期待されなかったあの頃、がむしゃらに駆けることしかできなかった青春――ただ故郷を守りたいという素朴な想いから端を発し、今は州を束ねて国家危急存亡の時にその身を
公孫賛の刻が巡ってきた。戦うべき刻。これまでの全ては今ここのためにあったという確信。
赤髪の少女の覚悟が木霊した。
「我が名は公孫賛! これより偽帝劉虞を倒し、この河北に安寧を取り戻す。白馬は義に従うのみである! 旗を掲げよ――北斗七星の旗を!」
光陰弾丸の如し。GWさえもう終わるとか……ボスにキング・クリムゾン食らってるとしか思えない。