真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百十話 北へ南へ

 嘘つきが嫌いだ、と袁紹は心の中で呟いた。

 自分に嘘をついた者は絶対に許さない。

 

 ――綺麗な真名……大丈夫、また飛べるから。

 

 祀水関で自分の命を救った女、劉備。彼女が袁紹に呟いた何気ない一言は、袁紹の心のうちにある宝箱に綺麗に磨いてしまわれていた。劉備にまつわる、他にもたくさんの出来事を袁紹は大事にしていた。劉備は慈愛に満ち、おっちょこちょいで、目が離せなくて、そしていつでも親身になって袁紹の言葉を聞いてくれた。

 その劉備のたっての頼みで、袁紹は公孫賛との和睦を成立するための使者として彼女自身を送った。朗報は程なく訪れるだろうと思った矢先、袁紹に届いたのは劉備が裏切り、公孫賛に付いたという報だった。

 続報は矢継ぎ早に届いた――曰く、公孫賛、幽州全域の兵を集う。曰く、公孫越が遼西より一族を率いて合流を目指すとのこと。曰く、明日にも冀州に向けて進撃を開始せんと兵を催しているとのこと……許せるはずもなかった。

「いらない、いらない! もう桃香さんなんて、いりませんわ!」

 不運は――袁紹は不運としか思わない――張貘が兗州で曹操に反旗を翻したのもほとんど同時であったことである。一瞬、袁紹は劉備への怒りを忘れるほどに喜び、小躍りした。張貘が曹操を見限った! そして自分を選んだ! あの張貘がこの袁紹を選んだ!

 美しく可憐なあの幼馴染の乙女がとうとう自分に身を寄せることを決心したのだ。袁紹は今すぐ南に兵力を振り分け彼女を迎え入れようとしたが……それも間もなく参謀らの意見により断念せざるを得なかった。

 公孫賛の武威甚だしく、張貘への支援に兵を南に回せば戦況は覆りかねないとのこと。北と南を同時に相手することはできない。つまり、袁紹は北の問題を片付けなければ張貘を助けることができないということを意味した。

 またしても公孫賛、そして劉備!

 曹操も張貘に――おこがましくも――想いを寄せているのは明らかであるゆえ、乱暴したり無体なことはすまい。しかし小賢しい曹操の奸智に惑わされ苦渋を舐めることになるかもしれない。そしてそれを助けずただ見ているだけだった袁紹を張貘は快くは思わないだろう。

 その不安と期待、もどかしさが劉備に対する怒りを倍加させた。今すぐいけたのに! 公孫賛のせいで! 劉備のせいで!

「いりませんわ! もう、あんな人いらないのですわ! 斗詩さん、猪々子さん! 今すぐ対幽州戦を準備してくださいまし!」

 慎重論など耳に入るはずもない。大事にしまっていた宝物ほど、ケチをつけられた時には憎しみが湧くのは道理である。袁紹は宝箱から劉備の思い出を取り出し、振りかぶって投げつけた。

「今すぐ、北伐ですわ! 絶対に、絶対に許さないんですから!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏とはいえ、幽州にしては暑い日だった。前方ですっかり待ちくたびれたという風の公孫賛と趙雲に李岳はようやく追いついた。彼方から吹き付けてくる風が、汗の跡を冷やす。

「遅いではないか冬至。白龍がすっかり拗ねてしまったぞ?」

「無理。この仔はよく走るけど、さすがに二人に比べれば荷が重いよ」

 大胆にさらした太ももを恥ずかしがることもなく、趙雲は呵々大笑しながら愛馬の白龍の首を叩いた。

 明日の出撃を前に、公孫賛、趙雲、そして李岳はささやかな遠乗りに出かけていた。ここしばらく寝ずに作戦を組み立てた。今もまだ程緒は大声を張り上げながら奮闘しているだろう。

 もちろん、此度必勝の策を練り上げた鳳統は、疲労困憊の末に泥のように眠り込んでいるはずだ。李岳が言う田疇の話に基づき、生まれいでた鳳統の発想は鬼神のそれである。

 無論、その細部を練り上げるのは彼女だけの仕事ではない。李岳も公孫賛もまたほとんど眠れていない。しかし不安からか興奮からか、眠れず、居ても立ってもいられずにこうして汗をかいている。ただし、趙雲は毎日しっかり眠っているが。

「いやぁ、しかしとうとう明日には出撃か。腕が鳴るな」

「さすが常山の趙子龍」

「そなたとて昂るものがあるだろう、冬至?」

「さて」

 李岳は腰に結わえていた香留靼の弓を取り出すと、無造作に射た。矢は茂みに突き立ちバサリと音を立てた。近づいてみると雉が一矢で絶命していた。

「見事」

「夕飯にちょうどいい。ここ数日ろくに食べてもいなかった。今夜くらいは豪勢にやってもバチは当たらない」

「そうさなぁ。勝利を願う酒も今夜くらいなら構うまい」

「あんた毎晩かっ食らってただろうが……」

 雉の首を手早く落とし、馬の尻の上にしばったところで、李岳は振り向き言った。

「……白蓮殿。お元気がないようですが」

 ハッとしたように、赤毛の少女ははにかみ笑った。緊張と不安が見て取れた。幽州牧。異民族からの守護者。白馬長史。北方の雄。彼女をあらわす二つ名は数知れない。彼女の号令で五万人の精鋭が死地に飛び込む。敵は十万を超える袁紹とその兵、偽帝劉虞、そして黄巾に従う民たち全て。

 傍目で見て、勝ち目があるとは誰も思わないだろう。

「……なんだか、胸が締め付けられて、苦しくて」

「太ったのではないか?」

「ちがわい!」

 公孫賛はぶんむくれながら顔を真っ赤にして趙雲を追い回した。やれやれ、とため息をついて李岳が続く。やがて速度は緩やかに、三人三馬は肩を並べて草原を悠々と進んだ。

「怖いんだ」

 震える声で公孫賛は言う。

「めちゃくちゃ……めちゃくちゃ死ぬだろ? 戦って、そういうものだろ?」

「死にます」

「殺すんだろ?」

「殺します」

「そして、勝てないかも知れないんだろ?」

「はい」

 

 ――本来頼るべき洛陽の勢力は、西域の長安が陥落してからこちら余力を回せる見込みはない。孫呉と袁術の対立を考えると南の荊州から兵を引き上げることもできない。

 そして秘密裏に同盟を組んでいた兗州の曹操も反乱に見舞われ身動きが取れなくなった。叛乱を起こした張貘は兗州西半分を切り取る勢いで、曹操は徐州から青州に向かわせていた兵力を引き上げなくてはならなくなった。

 幽州は孤立無援の中、戦いを挑むことになった。

 

「勝てるのか、冬至」

「雛里が思いつき、考え抜いた計略は天下随一です。神算鬼謀という表現ですら生ぬるい……それでも五分」

「五分……運次第ってことか」

「そう、俺の運。君の運」

「そして天下の運、か」

 それでも賭けた。賽は投げられた。しかし見せてはならないその賽の目は、敵に筒抜けとなってしまう。ならば無数に投げてしまえばいい。それが李岳の策だった。

 三種三通り三段階。進撃するごとに想定される作戦を計二十七種作ること。それが李岳が鳳統に提案した『対太平要術の書作戦』の骨子である。

 李岳の無茶な要求に、鳳統はコクンと頷くのみで躊躇うことなく作業にとりかかった。鳳統がこの短期間の間に策定した軍略はおよそ二十巻にも及ぶ。膨大な量の作戦案と想定は、やがて鳳統の手では間に合わず文官三人がかりによる口述筆記に替えられた。二十七の作戦のうち、数合わせの曖昧なものは一つたりとてない。二十七通り、その全てが必殺である。

 今この時点で『書』は二十七通り全ての対策を思いつくだろう。しかし尽くせる人事に限りがある限り、その全てに事前の対策を打つことはできないはずだ。そして枝分かれする作戦のうちどれを選ぶかは、李岳が後に決める――この方策で『書』の力を無効化でき、袁紹軍との殴り合いに持ち込むことが出来るはずだった。

 洛陽では決して思いつくことのできなかった作戦である。洛陽にいた頃にこの策を思いつけばどうなっていただろうか、と李岳はもちろん思うところもある。しかし李岳はいざ『書』の力を見せつけられるまでは半信半疑でもあった。

 あの時、鄴で幼い少女を助け、そのまま成り行きで雨中の襲撃に遭った。振り返って見れば、その時になって李岳は初めて『書』の脅威に触れたといえる。そして劉備を操り思うが儘に人を操ろうとした馬元義。

 やはりこの地にやって来なければ思い浮かばなかったろう。

 自分の選択に誤りがないことを信じ、李岳は馬首を返した。

「そろそろ帰ろうか」

「競争と行くか?」

 喜々として逸る趙雲に、李岳はやれやれと肩をすくめた。

「勝ち目のない戦はしないことにしててね」

「何を言う。戦は備えから始まるのだ。悔しければ冬至も良い馬に乗ればいい」

「こういうときだけ正論を吐く。兵糧の計算する時は飛燕のように逃げ回っていたくせに……」

「何事も、得手不得手さ」

 なぁ、白龍。と趙雲が首を叩いて笑った。撫でられた白龍という名の白馬は嬉しそうに何度も跳ねては尻尾を振る。

「そういえばそなたの黒い馬は連れてこなかったのか。名は?」

「黒狐」

「見事な馬だったな。大きくて早く、闘争心もある」

「目立ちすぎるので、連れてこれなかったよ」

「会いたいだろう」

 胸の中を、一塊の熱い血が、血管を押しのけるように上から下へと流れた。

「ええ、とても。とても会いたい」

 この体に流れる血には、全て思い出がまとわりついている。かすかにでも記憶が呼び覚まされれば、容易く心の臓を鷲掴みにするほど、この体はたくさんの人との出会いで形作られている――李岳は胸を抑えながら、拠り所となる家を思い浮かべた。

「白龍、覚えておけ。こいつはな、いけすかなくて嘘つきで、女たらしなのだ」

「えらい言われようだな……」

「貴様がほったらかした恋の世話を、あれから誰が焼いたと思う?」

「ぐぐぐ」

「……それでもこの男は一廉(ひとかど)の人物だ。だから何かあればこの者を頼れ。きっと助けてくれる。作った借りを返さない恩知らずではないのも、また確かだ」

 言葉がわかったとでも言うように、白龍は首を上げ下げして喜んだ。いや、この馬はいつでも愉快で喜び、遊びと悪戯が大好きな馬だ。趙雲が何を言っても同じように喜ぶだろう。

「その白龍も、私が連れてきた馬群の中にいたのかもしれませんね」

 初めての旅。馬を連れて、張燕の支配地からこの幽州にきた最初の旅を思い出した。

 あの時に楼班を救い、公孫賛と趙雲に出会った。全ては運命めいた繋がりのように思える。たったわずかの馬を運ぶことで、全てが始まった。

「思えば、白蓮殿がこの馬たちを欲したから、私達は出会ったのかも」

「へ? 私か?」

「うーむ、やるな白蓮殿。全ての元凶はそなたであったか」

「元凶って」

「劉虞や袁紹、田疇の思惑を狂わせる元凶だ」

「破軍の星である北斗七星。その加護を得た北の英雄公孫賛……不吉な星を背に負って、いま悪鬼の野望を打ち砕く、というところかな」

「詩人だな、冬至」

「洛陽にいた時間が長かったもので。でも生まれは匈奴。所詮血みどろの戦場が居場所さ」

「誰も死なせない」

 公孫賛が頬を赤らめて言った。頷き、李岳は南を見た。夏の風に吹かれ、草原が波打ち揺らめいた。田疇、と呟いていた。お前を殺す。そのためにたくさんのものを捨てた。お前はその価値に見合うだけの悪であり、罪だ。もはや躊躇いはない。 

 

 ――翌朝、三人は南を目指して進発した。長いようで短い、灼熱に燃える絶望の道を。




次話開戦。やたらちんたらしてしまった…

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