甘い香りを、目一杯ほおばった。吸い込んだ香気が体中に染み渡っていくのを感じる。
「やだ、もう」
嫌がられてもやめなかった。笑い声を上げながら逃げようとするのを、何とか食い止めて再び髪に顔を埋める。若い栴檀のような爽やかさの中に、一雫の汗の匂い。曹操はその香りをもっと集めようと、笑って逃がれようとする張貘にしがみついていた。白い頬、薄い背中にそのまま手を這わせて行く。笑いが収まり、恥じ入るようなくぐもった声が漏れ聞こえた。かすかに嫌がるように、細く柔らかい指が曹操の肩を押す。触れていなければ気づかないほどの震え。あの気丈で誇り高い張貘が、恥じ入り、嫌がっていて、そして求めていた。胸がしめつけられるような熱。曹操は張貘に重なりながら、溶け合っていった。
――朝を迎えると、いつも張貘が先に服を着始める。それを眺めるのは、あまり愉快ではない。
「ふふ、なに? むくれて」
「別に、なんでもない」
「可愛い顔しちゃって」
「やめなさい」
「怒っても、やっぱり可愛い」
可愛い、と言われるのは嫌だった。背も張貘の方が高い。馬鹿にされているような気になる。曹操はフンと鼻を鳴らして着替え始めた。黒、紺、紫を基調にした曹操に対し、張貘は白く明るい清らかな処女のようであった。
通りを行くと誰もが振り返り、そして感嘆の声を上げた。若くして孝廉に推挙され既に騎都尉をあずかり、その才、その家柄、また為人をもって洛陽に張貘を知らぬ者はいなかった。誰もが振り向き、誰もが彼女に恋をするのである。
「さすが八俊の張貘殿ね」
「ただの言葉遊びよ」
世辞を切ったのかと思ったが、張貘の声は極めて厳しく冷たかった。通りを進みながら、曹操にだけ聞こえるように張貘は囁いた。
「やれ三君、やれ三豫……次は八俊? 滑稽よ。ねぇ華琳、貴方も本当は軽蔑しているのでしょう? お互いに褒め合い、地位を与え合うような慰める様に」
軽蔑していた。というよりも、全く興味がわかなかった。清流派士大夫など世を拗ねた負け犬としか曹操の目には映らなかった。
張貘の自嘲は続いた。
「『党錮の禁』以来、名士は宦官に治世を取って代わられ己の無聊を慰めるだけの哀れな趣味人に成り下がったわ。私の家だってそう。巨大な邸に多くの客は来るけれど、その中に一体本物が何人いるというの?」
漆黒の美しい髪を揺らめかせながら、張貘は青空を見上げた。
「三でもない、四でもない、八でもない……たった一つの何か。私はそれにとても強く憧れる」
「一になりたいの?」
「いいえ。一となる人に憧れるの。そしてその隣にいたいと思う」
「では、私の隣ね」
自らの野望を曹操はこの時初めて口にした。思ってはいたが決して余人に語ることのなかった欲望。張貘が微笑む。曹操も笑った。
この国には見えない天井がある。押さえつけられる者たちのほとんどは鬱屈の正体に気付いてもいないだろう。割ってやる、と曹操は大きく息を吸い込みながら念じた。張貘にきっと天井の向こう、頂点の景色を見せてやろうと。
「華琳、忘れないでね。いつか私を迎えに来て。いつまでもずっと待ってるから。約束よ、貴方は私の――なんだから」
肝心なところが聞こえなかったのは、こちらに気付いた袁紹が大声を上げていたからである。ブンブンとはしたなく手を振りながら、いつもの哄笑を響かせている。
ふう、とため息を吐いて曹操は歩き出した。
定陶まで十里に迫った。初め千騎のみで飛び出した曹操だったが、追いついたニ千騎、さらに各地の守備兵合わせて三千を合わせて六千の部隊にまで整えていた。しかし極めて強引な進軍だったため、装備や兵糧の輸送状態は戦闘が不安視されるほどに貧弱であった。定陶にまで辿り着けたのはひとえに『駅』の設置の効果である。
曹操は反董卓連合戦において、陽人城急襲作戦の失敗になった要因を徹底的に洗い出していた。調査の過程で浮かび上がってきたのが、李岳があらかじめ資材や兵糧の備蓄を『駅』という施設に託していたことだ。
李岳は迂回作戦を企図されることを予測し、このような設備を陽人まで設置していた。あの備えがなければ李岳の祀水関は背後より陥落し、洛陽が危機に瀕していただろう。兗州全域を接収した曹操も、この駅という仕組みを取り入れた。速攻を決断できる用意は、曹操の気性にもよく合った。
「伏兵は」
「ありません!」
楽進が勢いよく叫ぶ。従軍している将は護衛を任せている典韋を除けば楽進と于禁のみである。主戦力のほとんどは徐州から青州方面に展開しており、荀彧と郭嘉も派遣されている。程昱はこの行軍速度についてこれず別行動を取った。
方々に放っていた斥候が続々と知らせを届けてくる。定陶を目指していた敵軍が迂回しこちらに向かってきているとのこと、数は一万三千。こちらの倍以上になる。しかし張貘の姿も張超の姿もない。
「薛蘭、李封という二人の将が率いているとのことです」
楽進が言う。曹操は繰り返した。
「東から伏兵の気配は、本当にないのかしら」
「確認できません。東平郡方面に兵の気配はありません」
拳に力が入り、思わずぐっと曹操はうめいた。
「ど、どうされましたか!?」
「あまりの愚かさが、悲しい」
どこか、東からの伏兵が来ることを期待していた。来れば苦境だろうに、それでも敵兵が現れることを曹操は願ってさえいた。
「本当に京香が謀反を起こしていたのなら、必ず東から兵が来たはず。彼女の才が全力を発揮したのなら、私をむざむざ定陶まで来させはしなかった。京香なら……張孟卓なら! 東平に少数であれ別働隊を布陣させ、濮陽の本隊と合わせて私を挟撃したはずよ!」
曹操は思わず声を荒げていた。馬蹄の響きがなければ、その絶叫は濮陽の張貘にまで届いていただろうか。
「この謀反は京香の発案ではない。彼女は捕えられ、虜囚の辱めを受けているだろう」
「そんな……」
「馬鹿な弟が、跳ね返ったのね」
八つ裂きにしてやると思ったが、どうやら口にこぼしてしまっていたようだ。楽進が緊張した面持ちで冷や汗を流している。
張貘自身の反乱であればよかったのに、とさえ曹操は思った。そうであれば、未練なく張貘と戦えた。その時曹操と張貘は、二人の恋を終わらせ、英雄としての雌雄を決することができたはずだ。彼女自身もまた、一を目指すことになったのだと感心したに違いない。そして誇らしく思い、憎らしく思い、胸に怒涛のような怒りと喜びが沸き起こり、ないまぜとなって、愛となったろう――しかしそれらは全てなく、曹操には悲しみだけが与えられた。
「敵軍、迫ってきます」
楽進が控えめに言う。曹操はようやく前方を見た。こちらに倍する敵兵が陣を形成しようと動き始めている。反吐が出そうだった。曹操は一層の前進を命じた。進軍速度が上昇の一途を辿る。鎌を掲げ、曹操自身も前線を目指した。典韋がピタリと付き添い、慌てて楽進が前に来る。
「このまま突撃する」
兵にも将にも躊躇いはなかった。ただただ躊躇ったのは、敵兵のみだった。にわかに作られようとしていた陣形が完成する前に、曹操はど真ん中から断ち割った。そして反転すると全軍で薛蘭の旗に攻撃を集中させた。この局面だけ見れば同数である。が、敵は謀反者である。その率いる兵の全員が同意しての決起ではない。士気は決して高くはないだろう。
「皆殺しにせよ、ただの一人も逃すな!」
戦闘から間もなく、薛蘭を捕虜にしたという知らせが届いたが、即座に斬首を命じた。顔を見るつもりもない。敵兵のほとんども既に戦意はなかったろうが、曹操は一切の投降を認めずに殺戮を徹底させた。楽進、于禁が真っ青な顔をしながら命令を遂行している。
残りの李封の軍は全く攻め寄せてくることはなかった。やがて一人の兵が包みを抱えて駆けて来た。荷の中身は李封の首であった。
そこでようやく曹操は兵の投降を許し、日が暮れる頃には総勢一万として定陶に入城を果たした。
遅い夕食を取り始めた頃、程昱が顔を出した。程昱の仕事は情報戦に特化させると既に決めていた。隠密部隊『蝕』の実績は日を追うごとに積み重なっている。
「迅速な勝利、お見事なのです〜」
いつものように飴を舐めながら、のんびり他人事のように程昱は言った。食事を続けながら、下手なお世辞に曹操は耳を貸さなかった。先に動き、素早く仕掛ける。戦の基本である。強者ばかり相手にしてきた曹操にとってはあまりに惰弱な敵だった。
「風、何かわかったかしら」
「まことに申し訳ありません。ご母堂様の安否はいまだに」
程昱がらしくなく神妙な面持ちで出ていった。
曹操は母を何が何でも救わねばならない、となぜか思わなかった。全く心配していないのだ。張貘のことばかり考えていて、母のことなど意識を向けなければ思い浮かびもしない。
曹操に髪の巻き方を教えたあの母は、きっと笑って死ぬだろう。曹操に全てのことを託したと自負すらあるに違いない。今の曹操があるのは間違いなく母の援助のおかげだった。その財産を思う存分食いつぶし、そして平らげた栄養を元に曹操は強くなった。母娘の情は弱くはないが、それはすなわち犠牲となることを厭わない冷徹さを否定するものでもない。娘の足を引っ張るくらいなら首を斬る。平然と笑顔でそれを成す程の人である。
「母上のことはいい。それよりこの謀反、誰が仕組んだのかしら?」
「裏は取れておりませんが〜、やはり冀州からの仕掛けなのではないかと」
「麗羽、ではないでしょうね」
おそらく、と程昱は頷いた。
「むしろ袁紹さんに対してやきもきしていた人の策ではないかと」
「主戦派の工作、ということかしら」
「普通に考えればそうなのですが……」
「劉虞派か」
「んん、そのあたりかと〜」
程昱の言葉に歯切れがない。この程度の時間ではそれなりの憶測をかき集めるのが精一杯なのだろう。
しかし曹操には一人、思い当たる男の姿があった。痩せていて、背の高い書生のような顔色の悪い男である。反董卓連合軍の陣営で顔と名を知った。田疇といったはずだ。
「田疇さん、ですか?」
「ええ。もし風の中にその名がなかったのなら、頭に入れておきなさい」
「第一容疑者さんと疑ってらっしゃるのでしょうか〜」
「わからない」
それ以上、曹操は憶測をなぶるのはやめた。あくまで直感でしかなかったからだ。
程昱の報告では謀反を起こした首魁はあくまで張超であり、張貘は無理やり旗頭にされているということであった。あるいは軟禁状態にあるのかもしれない。しかし張貘の家柄は、実は袁家など相手にもならない程の血統である。その声望を頼って、本人の意志とは無関係に日を追うごとに兵は集まるだろう。
問題は背後だった。袁紹が張貘の謀反を喜ばないはずがない。曹操を切り、自分に付いたと思うだろう。袁家、皇帝劉虞、黄巾の後ろ盾を得て、濮陽の勢力は途端に存在感を増してくるはずだ。
定陶。この街が焦点となる。ここを落とされれば曹操は再び徐州に引き返さざるを得ないが、そうなれば陳留含めて兗州全域を失うことになる。袁紹から多大な援助が積まれれば、一気に豫州まで伐り獲られかねなかった。
この定陶を拠点にして、曹操は張貘と向き合うことになる。しかしいかにも守りに向かない城だった。兵も一万程度。張貘の声望があればあっさりと三万くらいは集まりそうな気もする。二ヶ月程度の苦戦は覚悟していたほうがいいだろう。
「公孫賛はどうか?」
「動くに違いありません〜」
公孫賛と袁紹が決裂した、というところまでは曹操まで話が届いてきている。どうやら劉備も袁紹を見切って公孫賛に付いたようだ。両者がぶつかることになれば、袁紹は本腰を入れて向き合わなくてはならなくなる。こちら側への対応はおろそかになるだろう。
いや、と曹操は逆の可能性も考えた。袁紹が北に専念するために、南の楔として張貘を使ったという可能性である。いかにもありそうなことだったが、これもまた憶測の域を出ない。いずれにしろ袁紹は張貘に兗州を与えたいと思っているに違いない、ということだけは確かだ。
「時間をかけすぎれば、袁紹の思う壺ね。ただし、こちらも今のままでは無理、か」
「二ヶ月。それだけあれば態勢は整うのです。敵もまさか一万以上の兵が一斉に吹っ飛ぶとは思わなかったはずなのです……張貘様以外は、ですが〜」
「京香は無念でしょうね」
程昱が頭に乗せた宝譿という人形と、全く同じ身振りで首を振った。
「張貘様は無理やり担がれただけで、主犯は弟の張超なのです。そこは切り分けてしまえばよいかと」
「いいの」
程昱の言葉を遮り、曹操は瞑目した。曹操と張貘の物語は、既に結末を迎えることが定められた。動かしようのない運命を、いたずらに傷つけるのは美しくない。
「夏侯惇、夏侯淵、荀彧、郭嘉の戻りはいつかしら」
「順次になるかと思いますが、一月はかかるかと」
「それだけあれば十分ね?」
ニヤリ、と笑って程昱はお辞儀した。再び顔を上げたときには、飴を舐めながら部屋をまっすぐ出ていってしまった。
恐らく張超は焦っているだろう。定陶の確保は当然の予定として考えていたはずだ。それを打ち崩されてしまったのだ。兵の損耗も馬鹿にならない。新たに徴兵を試みると曹操も程昱も見ている。一月もあれば濮陽に十分な人を忍び込ませることが可能だろう。
それに曹操は初めに当たった薛蘭の兵を問答無用で殺し尽くそうとした。それに対して李封の首を持ってきた兵には赦しを与えている。これだけの餌があれば程昱なれば仕掛けの三つや四つは考えつくだろう。うまく行けば内部から切り崩すことが出来るのかもしれない――あわよくば、全ての人を救えるかもしれない。
「欲ね」
曹操は足を伸ばし、ゆっくりと背もたれに深く座った。まだ片付けなければならないこと、指示を出さなければならないことがあるが、さすがに疲れがあった。抵抗する間もなく、曹操の意識は重く淀んで眠りの海へと沈んでいった。
――その夜、曹操は懐かしい夢を見た気がした。
【挿絵表示】
※この地図はむじん書院様(http://www.project-imagine.org/mujins/)の三国志地図(http://www.project-imagine.org/mujins/maps.html)を加工したものです。ありがとうございます。
ちょっと短いですがキリが良いので。