真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百七話 矛盾を抱えて進む意志

 母に言えない秘密がある。劉備は筵を織るのは嫌だった。

 秋、稲の収穫を終えて山積みになっていく藁を、一軒一軒訪ね歩いて分けてもらう。母の人柄の良さは村の評判で、ほとんどは気前よく分けてもらえたが、時に嫌な思いをすることもあった。

 辛いのは冬。川の水で藁を洗うのに手足が冷えて仕方なかった。泣きたくなるような幽州の極寒は川を丸ごと凍らせさえした。

 干し終えた藁は一冬かけて干して編む。ただひたすら家にこもり、筵や草鞋、縄にした。一生懸命作ったそれらは、上手くいけば芋や魚に変わるが、売り歩けば悲しいほどに安価だった。母一人娘一人でただひたすら藁に埋もれその日暮らしを続けた。

 ある日なんの前触れもなく近くで名士が塾を開いた。慮植という名の元は高官の人が、書を記すかたわらに読み書きから思想まで広く講義を始めたのである。

 自分から行きたいと言い始めたわけではなく、母から勧められて通うようになった。そこで出会ったのが公孫賛である。

 出会いと学びは劉備に数多くのものを与えた。この国の成り立ち。歴史。混迷深める世情。良き生き方と糾すべき悪習――筵を織るだけが人生の全てではないと気づいた時、劉備の目には空がやけに青く広く見えた。幼稚な(はや)りから母に講義の感銘を逐一報告したある日の夜のことであった。母は神妙な顔をして一振りの剣を劉備に授け、その由来を話した。剣の銘は『靖王伝家』という。劉家の縁故は古く中山靖王劉勝にまで遡る由緒正しき家系であり、末裔もまた誇りを持って生きねばならぬ、と。

 貧しき家のどこに隠していたのか、母はさらに見目麗しい豪奢な飾りまでついた装束を与えてくれた。

 劉備は思った。この剣と血の由緒が母の心の支えだったのだ。だから筵織りの貧しい暮らしにもめげず、いつも笑顔で前を向いて歩けたのだ。劉備は心を痛めた。同時に母の愚かさにも気づいてしまったから。

 慮植の話では劉勝は好色で奢侈、遊興を好み、決して君主として英邁ではなかった。そして百を超える孫に恵まれた劉勝の末裔など無数にいること、その劉勝の血統を示す剣などあるはずもなく、あったとして劉備の家に伝えられるはずがないことを知っていた。

 劉備は確信していた。『靖王伝家』は偽作である。先祖が騙されたか、曰くをつけるために拵えたかであろう。なんといじらしい母! 彼女はこの欺瞞の塊をずっと心の支えにしていた。三百年前の王の剣がこんなあばら屋にあるはずもないというのに!

 劉備は宝剣を受け取ると、この剣に恥じることなく生きていくと母に誓った。流した涙の意味は決して述べることなく。

 

 

 

 

 

 

 朝焼けはない。雲が厚かった。灰色の夜明けを、劉備は自分でも意外なほどぐっすり眠ってから迎えた。深い眠りの中で夢を見たような気もするが、覚えてはいない。

 体ではなく、心が休みたがっていたのがわかった。短い間に色々なことが起こりすぎて、頭も疲れたがそれ以上に心がどうしようもない程に疲れた。関羽とも張飛とも離れて一人で寝て起きた。寝間着から着替えて外に出てしばらく歩いた。

 

 ――鳳統は生きていた。彼女が狙われたのは、公孫賛と劉備との間を裂きたい者による陰謀だった。

 

 失神している馬元義を担いで入ってきた関羽が一口にそう言った。隣には趙雲、鳳統がいた。頭の理解が状況に追いつかず、喜びも悲しみも表現できずにいた。

 いずれにしろ、劉備は言われるがままのことに頷く他なかった。全てを仕組んだのは馬元義であり、その目的は劉備に公孫賛への憎しみを煽ることで戦乱を勃発させようというものであった。

 説明の最中、猿轡を噛まされた馬元義が意識を取り戻したが、その目の光は暗く沈んだもので劉備に対してもさして感情を呼び起こすことがなかったようだ。劉備に理想と戦いを説いたあの面影はどこにもなく、目まぐるしく動く眼球が策謀と打算を練っているということが嫌というほど伝わってきた――使う予定のなくなった道具を見るかのような目で見られている、と思った。

「道具……じゃないよね。飼い犬かな」

 せっかく芸を仕込んだのに稼ぐ前に手放すことになった犬を見る目。

 そう、自分は良いように騙され、利用されるところだった。鳳統も関羽も同じことを言った。劉備は被害者だ、悪くないと。

「……ふふっ。みんな優しいよね」

 この手で人を殺したいと思った。はっきりと口に出していないが、それは疑いようもない事実だ。

 何か自分の中の大切なものを裏切ってしまったような気がする。それは錯覚ではなく、もはや確信に近い。実際に行動には起こしていないが、決定的なことが自分の中で起きてしまった。

 小さく笑いをこぼして、劉備は歩みを止めた。考えが上手くまとまらない。考えて決めなければならないことがあることは知っているのに、問いの題させ浮かんで来ない。

 やがてじっと立って待っていると声が飛んできた。

「おっす! 珍しく早起きなのだ! こんなところでどうしたのだ?」

 小さな体を大きく振り回しながら、張飛が駆けてくる。

「うん、なんだかおめめがパッチリなの」

「鈴々もたま~にそういう日があるんだけど、でもなんでかたま~になんだよね。いつもそうならいいのにね」

 でもたま~にだから良いのかも、などと呟きながら張飛は口を全開にして派手なあくびをした。

 意味もなくひざまずき、張飛を抱きしめてよしよしと撫でた。くすぐったそうに笑いながらも、張飛はしばらく劉備の好きなようにさせてくれた。それはきっと張飛の優しさだったのだろう。

「どうしたのだ、なんかあったのか?」

「ううん。なんだか……なんだか鈴々ちゃんに触りたくなっちゃって」

「ふーん。な~んか、お姉ちゃん言いたいことがあるっぽいのだ。柄にもなく難しい顔をして逆にバカっぽいのだ!」

「ひどいや!」

 ふと、劉備の心に隙が現れた。

「……ねぇ、私は人を殺すべきだと思う?」

 唐突にそう言った。しばらく黙ったまま、やがて張飛はぽつりとこぼした。

「殺したいのか?」

「そう、思っちゃった」

「殺すべきだと思ったのなら、殺せばいいのだ」

 無邪気な張飛の言葉に、うっ、と劉備は喉をつまらせた。

 この幼い末妹に強いていることに改めて恐怖したのだ――しかし、張飛はいち早く劉備の疑念に気付く。

「鈴々は殺してるんじゃない、戦ってるのだ! 生きたり死んだりするのは、その後の話で……うーん、うーん! なんだか説明が難しい……」

 地面にあぐらをかいて座り込み、張飛はうんうんとうなり始めた。

「争いを無くすために戦ってるけど、争わなきゃならない時もあって……なんていうのだ? どっちもどっちで、あっちもこっちで……む、む、む」

「矛盾?」

「そう! むじゅんなのだ。人を護るために人を殺すこともあるのだ。鈴々たちはむじゅんなのだ!」

 誰かのために戦う矛。誰かを守るための盾。

 殺意を覚えた自分は、果たしてそのどちらかでも携えていただろうか?

「人を斬ったときの匂い、お姉ちゃん、わかる?」

 昨日、関羽と何を話したか、あるいは馬元義と何を話したかはおよそ知っているのだろう。義姉妹だ、隠し事をするような間柄ではない。張飛はきっと、自分も何かを話すべきだと思って考えたのだろう。

 たどたどしい口調で張飛は続けた。

「生暖かい肉と、はらわたがすごく臭うのだ。肥溜めと血を合わせて煮出したような感じ。それが鼻からついて取れないのだ」

 張飛は立ち上がると、劉備の手を握ってそれをおし(いだ)く。そしてスンスンと匂いをかぎ始めた。

「お姉ちゃんの手は、綺麗。そしてすごくいい匂いがする。鈴々は、だから戦えるのだ」

 んふふ! と張飛は変な笑い声をあげては続いて劉備の豊かな髪に顔をうずめて匂いをかぎ始めた。それがくすぐったくて、劉備は仕返しに張飛の脇をくすぐった。黄色い笑い声を上げながら、二人で地面を転がりまわった。

「私、いい匂い?」

「なのだ!」

「鈴々ちゃんもいい匂いだよ。血の匂いなんて、全然しない」

「するのだ。殺すもん」

 劉備の髪に顔を埋めたまま張飛は続けた。

「お姉ちゃんは本当にいい匂いがするのだ……芝生の匂い。やぎの匂い。花の匂い。おひさまの匂い……」

 うっとりするような張飛の声に、逆に劉備の罪悪感が深まる。

「私ばっかり綺麗なままなんて」

「綺麗なままで、何が悪いのだ?」

 首にひやりと雫が垂れた。雨なわけがない。張飛の涙か鼻水だろう。でも多分きっと、鼻水だ。イヤイヤ、と張飛が首を振りながら言葉を続けた。

「お姉ちゃんが綺麗なままでいるってことは、鈴々や愛紗がちゃんと戦えたってことなのだ。朱里や雛里が間違えなかったってことなのだ」

「みんな、今のままでいいってこと?」

「なのだ! むじゅん、むじゅん! 鈴々がむーで、お姉ちゃんがじゅん! そんなもんなのだ。どっちもどっちなのだ。だから大丈夫!」

 張飛の鼻水で首がヌルヌルしている。涙も混ざって、劉備の首から胸元はひどく生ぬるく濡れた。鼻ちょうちんを膨らませながら張飛が続ける。

「お姉ちゃんがいるから戦えるのだ。お姉ちゃんと鈴々、愛紗とお姉ちゃん、鈴々と愛紗。みんな違うのだ。だから同年同月なんとかじゃなかったのだ。でもだから一緒にいるのだ……みんな鈴々だったら、全然わけわかんない。みんなお姉ちゃんだったら、きっとダメダメ」

「みんな愛紗ちゃんだったら?」

「超~頑固三倍増し!」

 劉備は声を上げて笑い、やがて腹まで痛くなった。張飛と二人で土の上に転がり込む。ゲラゲラとはしたない笑い声を上げながら、劉備は自分が見落としていた気持ちを一つ発見しようとしていた。当たり前の、どうしようもないくらい当たり前の気持ちが、罪悪感という蓋を押しのけて顔を見せようとしていた。

 劉備はしゃっくりした。どうしてもその蓋を開けたくて、泣きたくないのにあえて涙をひねり出すように、胸の内でもどかしくもがいた。そこに大事な自分がいる気がした。失敗をして、怒られるのが怖くて、部屋の隅で膝を抱えてうずくまっている素直になれない少女の自分がきっとそこに――

 いくら頑張ろうとも決して開きそうもない重い蓋だったが、ふっと目の前に鍵が現れ、蓋は容易く吹っ飛んだ。

「あ、あわわ……と、桃香様に鈴々ちゃん、ど、ど、どうしたんですか……」

 鍵は帽子の奥からこっそりこちらを伺いながら、しかしぽっかりと空いていた劉備の心を埋めた。

 劉備は一気にわんわん泣くと、張飛を小脇に抱えたまま鳳統に飛び込み、二人合わせて自分の胸に押し付けながらゴロゴロと地面を転がった。

「ふえーん! 雛里ちゃんが無事で良かったよー!」

「にゃはは! よしよしなのだ!」

「あわわわわ!?」

 

 ――劉備に失望する者など、彼女を知る者では一人もいなかった。仲間を失い動転するなど、最も彼女らしい失敗なのだから。

 

 やがて関羽が訪れ事態を収拾するまで、三人は思うさま汚れて目を回した。

 劉備は思う。自分の出自も受け継いだ剣も偽物かもしれない。戦い方だって間違っているかも知れない。自分は手を汚さないまま妹たちに血を流させているだけかも知れない。本当は誰も幸せに出来ないかも知れない。目指している道には永遠にたどり着かないかも知れない。

 けど誰かの笑顔のために、涙を流させないためにという理想だけはきっと間違いじゃないと。

 そして自分は間違っているかもしれないけど、自分を信じる仲間の皆を信じていればきっと大丈夫だと。自分のために矛になってくれる人がいて、その人達のために自分が盾になることが出来るのであれば――

 大丈夫。

 劉備はそう、思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 崖の上に立っていた。李岳は武装解除を始めた劉備陣営を見ながら安堵の息を吐いた。

「予想通り……というわけではなさそうだな」

 楼班の声に頷きながら、李岳は掌に滲んでいた汗を拭った。

「まぁ、そうだね。賭けの要素はあった」

 ここには楼班率いる烏桓の戦車隊が約八百騎控えていた。劉備軍が公孫賛に攻めよせるなら、その不意を突いて逆落としを仕掛けるつもりであった。余裕などなく、相当な緊張状態に置かれていたのが事実である。

「本当にやるつもりだったのか? あそこには冬至が助けた鳳統という者もいるのであろ? 巻き添えに死なせることになったはずだ」

「鳳統殿なら気付く、と信じたんだ。そして気付いたのなら撤退を進言したはず」

「……つまり、我々は劉備に諦めさせるためだけにここにいる、というわけだな」

「結果的には無駄なことをしたと思うけど」

 鳳統が生きているとわかり、関羽と合わせてその口から真実が語られれば劉備が攻め寄せる理由はなくなる。ただそれでも可能性は皆無ではなかった。李岳は万が一、ありえないはずのことを考えてここに楼班を配置した。思ってもいないことが起こる、ということを李岳は長安戦線で骨身に刻んでいる。相手はあくまで全知全能の書なのである。

 馬元義の試みは劉備の心に憎悪を植え付けることだった。それが完璧な形で成されていれば、何が起きるかはわからないのだ。しかし劉備はこらえた。また一つ、小さいが山を越えた、と李岳は思った。

 臨戦態勢の解除、帰陣を命じる楼班の声が少し懐かしい。帰路は馬首を並べたが、しかし会話は弾まなかった。李岳がなぜここにいることを問いただしてもいいものかどうか、楼班の内心の葛藤が表情とピンと突き出した長い耳にこれでもかというほどに表れている。

 李岳もあえて語ろうとはしなかった。二度手間になる。話すのなら一度がいい。

 軻比能を保護し、馬元義を捕縛してからの一夜、李岳は趙雲に同行して城内に戻った。幸い、関羽にも劉備にも正体は露呈せずに済んだ――と李岳は考えている。関羽が馬元義を捕らえた直後に、李岳はその場を離れたからだ……自分の実情をどこまで打ち明けるか、李岳はまだ決めかねていた。

 城に戻ると公孫賛が仁王立ちで李岳を待ち構えており、胸ぐらを掴むと一気に壁まで詰め寄った。

「ちゃんっっっと説明してくれるんだろうな!?」

 考えてもわからず、わからずとも考えねばならず、しかし答えは見つからず、時間もなく、問いただすにしても聞いていいものかどうか、しかし軍を預かる以上しっかり確認せねばならず、だったらもう直接聞くしかないじゃないか、えいやっ――という思考の経路までひと目でわかるように、公孫賛の表情は七変化している。

「まず座ってもよろしいでしょうか、幽州殿」

「座れよ! お茶もあるよ! なんだったら食事も用意してるさ!」

 どこまでいい人なんだ、と苦笑しながら李岳は席に着いた。当然のような顔をして席には趙雲が先に着き、メンマと鶏肉を頬張りながら茶を飲んでいる。李岳の顔を見ると、趙雲は意地が悪そうにニヤリと笑った。

 さて、と李岳は茶を飲みながら思案する。公孫賛、趙雲、そして楼班。この人たちをどこまで巻き込むべきか、あるいは関わらせるべきではないのか。

 迷惑をかけてはならない、と考えるほどの余裕などあるわけない。李岳の立場は既にそのような私情を一顧だに出来る地点にはない。あくまで勝率の問題だった。太平要術の書が絡む以上、余人が知ることそれ事態が戦況に強く反映される。ここからは何を教え、何を教えないかで書の裏をかけるかが決まる。

「……こっちはすぐにでも北に向かわないと行けないんだ、黄巾軍がこちらに向かっているという情報が入っている。馬元義のやつを締め上げて情報を吐かせるだけ吐かせる必要もあるし、あっちがその気ならこっちだって軍備を整えなきゃいけない! 幸い、鳳統を返したら劉備から詫びの手紙と訪問の伺いが来てる。謝りに来てくれるし、こっちはもちろん許すつもりだ! つまり私はめちゃくちゃ忙しいんだよ! とにかく何でここにいてこれからどうするつもりなのかはっきりさせてくれなきゃ、頭の中がとっちらかって大変なんだ!」

 息も絶え絶えになっている公孫賛を眺めながら、李岳は黙って鶏肉を食べた。美味い。思った以上に喉が渇いているので飲み込むのに難儀した。茶で流し込んだ。空腹はかなりのもので、李岳はそれからもしばらく食事を続けた。やきもきした顔をしながら公孫賛は辛抱を発揮して李岳を待った。

 空腹のまま、焦って決めたくはなかった。李岳はいま重要な局面にいるのだ。

 ここで一つの分岐がある。一つはやはり田疇暗殺を優先して全てを秘匿し、単独で冀州に戻る道である。当初考えた方策であり、普通に考えれば最も早く洛陽に戻れる道でもある。

 ただし状況は変わっていることから目を背けてはいけない、とも思う。李岳は軻比能を守る際、暗殺者を数人取り逃がしている。その者たちは今頃冀州へ戻る道を全速で駆けているだろう。知らせを受けた田疇はどう思うだろうか?

 貂蝉の言葉を信じるのであれば、前世の記憶を持つという特異な『李岳』という存在だけが、書の力から外れているという。書の予想を覆す度に書は新たな記述を増やすか変更を行うはずだ。そうでなければ田疇が連合戦の後にすぐさま動き出せるはずがないからである。

 故に、李岳が田疇と書を理解しているように、田疇もまた書を通じて李岳という存在を認識しているはずだ、という推論は十分な説得力を持つ。書があえて李岳の名を出して警戒を示すか、あるいは李岳という記述だけが奇妙に欠落していることによって田疇が気付くか、という過程の差異はあるだろうが。

 鳳統との出会いからこちら、田疇が目論んだ公孫賛と劉備への陰謀の一つは潰した。だから田疇は気付くだろう、ここに李岳がいることに。

(それはすなわち、田疇が俺が書の力を知っているということを知ることに繋がる……大きな利点を失ったな。いや、わかってたことだ。悔いるな)

 鳳統を救うと決めた時に覚悟したことである。それにこれは手放しても良い利点でもある。李岳は今回一つ失ったが、その代償として別のものを得た。田疇の持つ書の力に李岳は一つの推測を立てていたが、その確信を今回の戦いで得ることが出来たのである。

 

 ――時間差があるのだ。

 

 田疇が書を開く時には間違いないと記されている方法でも、それを李岳が乱しにかかった時のことは想定出来ない。つまり李岳の動きの結果、変化した情勢に対して新たな対策を書が回答したとしても、そのための動きが間に合わなければ意味を成さない。

 例えば、今回の李岳の動きで軻比能殺害を阻止することが出来たが、田疇がその直後に書を開けばさらに逆転の手を放つことが出来たかもしれない。だが奴はいま袁紹の元にとどまっている。遠く離れた居城からここまでの距離が田疇の弱点なのだ。

 書とは理外の凶悪無比な力を持つとはいえ、人を瞬間的に遠く離れた場所まで動かすなどのことは出来ない、と李岳は見た――そうであれば李岳はとっくに死んでいる――つまり李岳が田疇と書の謀略を崩す最善の策を打ち続ければ、田疇は今の状態を打開する必要に迫られる。

 打開すべき現状とは弱点である時間差だ。それはすなわち距離である。

 

 ――つまり、いずれ田疇を最前線に引きずり出すことが出来る。

 

 田疇は当然暗殺を警戒するようになるだろう。今から単身で冀州に戻るのは無手な以上愚策だ。だとしたら、田疇の元に潜り込むのではなく、引きずり出す方が理にかなっていると李岳は考えた。

 やはりこちらに来てよかった、と李岳は思った。洛陽にいれば同じような時間差が李岳にも発生する。であるならば先手を放ち続ける田疇には決して勝てない理屈となる。

 茶を飲み干した。葉が沈んでいたために最後は苦い味がした。目の覚めるような味だ――李岳は、新たに現れた道を進むことに決めた。

「公孫賛殿」

「よし! 聞こう! はっきりさせてくれ!」

「私を幕僚にお迎えください」

「うん。そうだな、幕僚にな――バぁ?」

 漫談芝居の一場面のように公孫賛は盛大に転んだ。彼女の手を取り、引きずり起こしながら続ける。

「冗談ではなくです」

「お前、それって!」

「白蓮殿、続きは私が」

 公孫賛を遮り、趙雲が口を開いた。ふざけている様子は雲散霧消している。

「李岳殿、我々を助けてくれるというのはありがたい話だが、それは本当の理由ではあるまい? 貴殿が単身ここにいる理由にはならない。洛陽にいれば多くの英雄が手足のように動き、さらに陛下の言葉を左右できるだけの力がそなたにはあるのだ。それを(なげう)ってまでここに来るとは、一体どういう了見なのだ? そこな白蓮殿に恋慕しているわけでもあるまい。真意を語れ。そうでなくば信用など得られない。冗談ではなく、な」

 真っ当な意見だった。公孫賛とは貸し借りもある、緩やかな同盟関係にもある、だが無条件で助け合うことを前提にしたような強い結びつきがあるわけでもない。明確な利害、明確な理由を語らない限り、李岳の参入などとても認められないだろう。

 

 ――公孫賛、趙雲、そして楼班。少なくともこの三人には真実を話す必要があった。李岳は厳重な口止めを念押しした後、洗いざらいのことを話した。

 

 さすがの趙子龍も眉根にシワを寄せて考え込む始末。公孫賛は宙の一点を見つめて動かない。

「なんとも、信じがたい話ではあるが……田疇に、太平要術の書か……」

「趙雲殿。私がここにいること、それ自体を証左として頂きたい」

「……お前は、それで良かったのか?」

 公孫賛が宙から李岳に視線を移して言った。本当に優しい人だな、と李岳は笑みを漏らした。公孫賛はこんな話を受けた後でも李岳の身を案じている。

「他に手がないのなら、この一手に賭けるのみです。いつもやって来たことですからね。大体、選択肢が豊富にあるような恵まれた条件にはついぞ出会ったことがない。むしろ迷わなくて済みました」

「そうはいってもな」

「さて、答えをお聞かせ願いたい。時はないのでしょう……幽州殿。私はこれより一介の人として貴方に仕えることになります。ここに真名をお預けしたい」

「断る」

 ぎょっとした李岳に、公孫賛は続けた。

「仕えるとか、部下とかのところの話だ。指揮権や責任はもちろん私が持つ。けど、あくまで対等の立場で接して欲しい。そうでなければその……落ち着かないんだ。客将として私を支えて欲しい。それが、真名を交わす条件だ」

「……否やはなく。願わくば、民たちの暮らしを煩わせることなく事態を早期に収束させたくはあります」

「見込みは?」

「まぁ、無理でしょうが」

「だと思ったよ。まいった、苦労は途切れることがないな……」

「全く、同感で」

「何もしなければ負けで、黄巾が支配する世界が訪れる、か……ええい、もうやるしかない! 白蓮だ!」

「冬至です」

 やれやれ、と趙雲が腰を上げて生足が眩しい衣装のすそを翻した。

「しかし、今更真名を取り交わすというのも何だか不思議な気持ちになるな。とっくにそうであったような気もするが……我が真名は星。呼び捨てでよいぞ、そっちが気楽だ」

「では同じく呼び捨てで、冬至と」

 むっ、と手を上げたのは一人じっと黙っていた楼班である。

「……そろそろ、話に混ざってもよいかな?」

「もちろんですとも」

 楼班は居住まいを正して口を開いた。旧知ではなく、烏桓族の名代としての言葉がつむがれた。

「冬至。烏桓は全面的に協力する。やはり大元の敵は劉虞とその手下で間違いなかった。母への復讐は張純を討ったことにより済ませた。しかし、我が一族全てに対する侮辱は未だ続いている。単于にも話は付ける。戦いの場において決して私たちを除くな」

 楼班の怒気はいつでも風を運ぶ。李岳は熱い風を頬に受けた気がした。

 烏桓の協力は対冀州戦においては不可欠だ。しかし期待するところはそれだけではない。

「期待するよ。まだ他にも頼みがある」

「なんでも言ってくれ」

「軻比能殿とその一族の生き残りを烏桓で保護してくれ。そしてゆくゆくは鮮卑と同盟関係を締結して欲しい」

 楼班の瞳に複雑な色が浮かんだ。

 漢民族の他に、この地には様々な民族が入り混じって暮らしている。匈奴や鮮卑は北の大地でも強大な力を持つことで名を馳せている。それに比べれば烏桓は少数と言えた。異民族の同士の関係を一概に説明をすることは難しい。時と場所によっても異なるからだ。それぞれ争うこともあり、時には激しく殺し合うこともある。手を取り合い同盟を結ぶということは、あるいは漢に協力するよりも難事である場合が多いのだ。

「難しいことはわかっている。しかしやってもらわないと困る。鮮卑はいずれ動くだろう。田疇が手を回していないはずがない。田疇にとって異民族は濡れ衣を着せるにちょうどよく、滅ぼしても苦にならない都合のいい駒なんだ。彼らが動けば幽州は北と南で挟み撃ちになる」

 言いながら、体に流れる匈奴の血が燃えるような気がした。

 我が父、我が友を辱めた源流がまさに田疇なのである、と叫ぶように。

「……やるしかないわけか」

 軻比能が史実通りに勇名を馳せるほどの人に育つのならば、それに期待するのも手だ。いずれにしろ田疇が李岳の下洛を知る以上、あらゆる手を使って幽州戦略に本腰を入れるだろう。予想される手はあらかじめ摘み取っておくに限る。

 それに、懐柔する相手は鮮卑ばかりではない。

「白蓮殿。劉備殿とも組む必要があります」

「……組むって言ってもな。桃香が望むかどうか」

「それについては簡単です。劉備殿から望んできますよ」

 不思議そうな顔をする公孫賛に趙雲。劉備がいきなり自分たちと組んで冀州に刃を向ける意味が掴みかねているのだろう。

 しかしことは簡単で――故により深刻である。

「田疇は私がここにいることを恐らく知るでしょう。そして鳳統殿が知るべきではないことを知ってしまったことにも気付く……であるならば、このまま戻れば処断することは想像に難くない。いや、真っ先に殺すでしょう。知ってはならないことを知った人間の末路は数える程多くもない……鳳統殿は私の事情を知っている。ならば絶対に気づきます」

 鳳統は無闇に李岳の秘密を吹聴はしないだろう。しかし友の命と引き換えにしてまで守ることはない、と李岳は思う。

「劉備軍はもう戻れないわけか」

「いや、それでも戻らなくてはならないのです」

 公孫賛、趙雲、楼班が揃って首を右にかしげた。矛盾するような話だが、劉備軍の真の苦境とは戻れないことではない。戻れないというのに、戻らなくてはならないことにある。

「劉備殿は全軍を挙げてここに来たわけではないのです。主な将として関羽殿、張飛殿の両将と鳳統殿という軍師を連れてきましたが……」

「あ」

「諸葛孔明!」

「田疇は彼女を人質に取ることを迷わないでしょう」

 鳳統から諸葛亮の話はわずかに聞き及んでいる。齢も背丈も同じくらいで、ずっと一緒に学んできた仲間だと。そして劉備が彼女を家族と思わないはずがない。

「つまり、劉備殿は自分の仲間を助けるために冀州と戦わねばならなくなったのです。例え白蓮殿が拒んでも。鳳統殿を亡くしたと思って我を忘れかけた彼女が、諸葛亮殿だけを見捨てることが出来るでしょうか」

「出来るわけがない! くそったれ! 田疇はまだ桃香の心をもてあそぶつもりなのか!」

 激情に震える公孫賛を見ながら、李岳は祀水関の戦いで陳留王奪取を目論んだ経験を振り返っていた。全く状況は違うが、やはり潜入して助け出す必要があるだろう、と。そしてその役目は自分が担うことになるかもしれない、というのは当然の想定であった。

 

 ――しかし李岳はこの時、自らの想定の甘さに気付くことがなかった。田疇の執念はさらにその上を行くことを知るのはまだ先の話である。

 

「劉備殿の訪問は?」

「もう来るはずだ。きっとその話にもなるだろうな……どうしたらいい?」

「目的に大差はないのですから、もちろん協力して事にあたるべきです。合流して北に戻りましょう。そして正式に陣営に迎えるのです。黄巾の不正、横暴、過ちを暴露し、群雄皆に決起を呼びかける。反黄巾、反偽帝の旗印を打ち立てましょう。先攻を取るのです。袁紹軍本体が態勢を整える前に騎馬隊で南下し、一挙に攻略を目指す」

「……戦を起こすのか」

「手をこまねいて待つ内に、相手は強大化します。戦いは避けられません。であるなら、先手を打つべきです」

「わかってる、わかってるんだ……けど、震えるな。なんだか、私がそんな大それたことをしてもいいのかどうか。こんな私なんかが」

「貴女しかいないのです」

 公孫賛の顔が、恥ずかしさと緊張で紅潮するのが見えた。

「冗談ではなく。いま、劉虞と田疇が容易く幽州を加えれば、もはや止められません。青州と合わせて二十万。それだけの兵を兗州の曹操が支えられますか? 洛陽が耐えられますか? 世界の破滅は案外目の前ですよ。田疇の理想がどこにあるかは知りませんが、魔書を携え人質を取り、利用し、騙すことを厭わぬ者の理想などに私は染まりたくはない。目的のためなら手段を選ぶな、という言葉があります。しかし私はそんな弱者にはなりたくない。それは気高さとは対極の考えなのですから」

 全局面が最終局面である。それほどまでに田疇は強大な力を持っており、周到な用意を怠らなかった。いや、今まで何度でもあの男の望む未来に決着する機会はあった。それを凌げたのは僥倖以外のなにものでもない。一つ勝ったからといって有利になることなどない。いつでも負ければ滅びがある。

 背水を越え、胸まで水に浸かったところから戦いは始まる。いつだってそうだ。そして負ければ世界は押し流される。

 今、公孫賛と李岳は共に溺れるか、泳ぎきるかの瀬戸際にいる。すぐにでも手を動かさなければ、激流に呑まれ死ぬだろう。

「白蓮殿。貴女の双肩にこの中華の未来がかかっています」

「なに、支えます」

 趙雲の軽口が、不思議なほどの説得力を帯びて響いた。公孫賛は大きく息を吸って吐くと、うん、と頷いた。

「やるぞ。やるしかないんだからな」

 

 

 

 

 

 

 陳寿は云う。この後、公孫賛は軍を率いて北新城を襲っていた黄巾を撃破し幽州に帰還した。劉備は公孫賛に下り部隊を与ることとなり、その力を強く発揮することとなった。袁紹は劉備の裏切りに激怒し、顔良、文醜に討伐を命じた。公孫賛は幽州兵力六万の結集を命じ、これに抗した。




ここに至るまでめちゃくちゃしんどかったっす。かなり強引かもしれませんが、一応こうなりました…
次回からはねっとり田疇さんの話が続く予定です。

あ、あけおめっす。

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