真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六話 馬元義の失態

 ――わずかに時間は戻り、劉備陣営。

 

 鳳統亡き今、劉備の周りに諜報を担う人はいなかった。関羽が全軍の統率を行い、張飛がその補佐を行うのみ――と言っても、彼女に出来ることは笑顔で元気よく走り回るくらいであったが。

 諸葛亮や鳳統といった人材があまりに有能であったがために、その存在が抜け落ちると組織としての脆弱さが突如として露呈する。それは関羽や張飛がいなくなっても同じことだった。劉備軍は圧倒的な個の支えによって形作られていたのである……畢竟、馬元義という女の台頭を許した。

 常ならば劉備も疑念の一つくらいは浮かべたかもしれないが、状況が風雲急を告げるあまりその余地などなく、今もまた馬元義の囁く報告に耳を傾けていた。

「こ、こ、公孫賛のもとより……騎馬隊が出撃した様子……『趙』の旗が、か、か、確認、さ、されました……」

 白馬義従の出撃はしばらく前に諜報集団『黄耳』からの報告で確認していた。馬元義が劉備への報告を一呼吸遅らせたのは公孫賛側に埋伏させている者たちの工作を待つためである。公孫賛は己の城内から逃げ出した蛮族の少年たちを趙雲に命じて追走させている。馬元義の目論見としては、公孫賛が到着する直前で少年らを殺し、それから間を置かずに劉備軍にその有様を突きつけることを最上と定めた。難しいのは時機だけだ、成れば両軍が食い合う状況は容易く作れるだろう。

 果たして、公孫賛は見事こちらの思惑に釣られた形である。

「……白蓮ちゃん、が?」

「のようで」

 公孫賛は首尾よく追走を命じた。北では黄巾の友軍が移動を開始している。一刻も早く戻りたいのが心情だろう。しかし事情を知らない劉備からすれば、公孫賛の元から飛び出した騎馬隊は不穏な軍事行動にしか映らない。

「趙子龍を派するなど、よ、余程の事態……お、おわかりですな? 早く、確実に殺さなければならぬという事態が起きたのです」

「そ、そんなわけ」

「な、な、なんとしても……し、真相を。ほ、鳳統殿のためにも……」

 

 ――その名を聞くだけで、劉備の心は容易く四分五裂するのを馬元義はよく理解していた。

 

 劉備の心に暗い火が灯る。その燎火は劉備の心の底面を満たしていた、燃える油のような憎しみに瞬く間に類焼した。

 今、劉備軍は公孫賛が入った城から半里まで迫った。矢は向けてはいないがおよそ布陣の構えである。そのことは公孫賛も重々承知のことだろう。劉備の考えでは公孫賛に自分が本気であることを理解してもらい、要求を飲んでもらおうというところにあった。つまり自分を襲い、鳳統を殺した下手人を引き渡してもらうことに目的がある。

 劉備の覚悟が公孫賛に理解できてないはずがない。しかしこの極限の緊張状態の中で、公孫賛は趙雲を裏門からあさっての方向へと出撃させた。劉備に知らせもなく。それは陰謀があるに違いない――劉備の心は燃えたまま固く閉ざされていく。

 

 ――場を乱す混乱が起きた時、袋小路で迷った人間に一路を示す……心理の誘導の基本であった。

 

「く、く……口封じですな」

 劉備が聞きたくなかった言葉を、馬元義はあっさりと口にした。

「そんなはずは」

「ないと、い、い、言い切れますか」

 大きな火傷を負ってる馬元義の顔が、まるでそこだけ別の生き物のようにうごめく。

「何も、公孫賛殿が全て悪いわけでは、な、ないのです……あ、あつ、圧力に屈して、やむを得ず、に、逃したのでは、と――中には烏桓の王女もいるという噂も」

 いつもは穏やかな劉備の目に強い光が走った。

 劉備は決して思考の鈍い人間ではない。穏やかな心、人を傷つけることを躊躇う優しさが極端な判断に制動をかけるがゆえ、外からはそう見えるだけである。劉備はすぐに公孫賛の立場に思いを馳せた。公孫賛は幽州全域を監督する牧の地位にある。そしてそれ以前は護烏桓校尉を任じられていた。異民族との繋がりは公孫賛の力の源泉とも言えた。烏桓の王族の影響力は、公孫賛には無視できないものなのだ。

 劉備の中で公孫賛は無用に疑う相手ではない。だがそこに見知らぬ異民族の権力者がいたならば、劉備の中の疑問にも折り合いがつく。

「お、お、追うのです」

「追う……」

「すぐに、追うのです。でなければ……しん、真実が葬り、さ、さられかねません……急がねば、と、取り返しのつかないことに……公孫賛の目的が口封じであるのなら、りゅ、劉備殿の目的は、え、永遠に達成できませぬ」

 劉備の心に芽吹いた疑念は。馬元義の言葉を養分にしてしっかりと根を張り、急速に育ち始めていた。それはいずれ劉備の優しさを糧に暗黒の花を咲かせることだろう。

「ど、どうすれば」

「か、関羽将軍に命じるのです……か、か、関羽将軍であれば……ま、間違いはございますまい」

「な、なんて」

「ここに、連れてこいと。そして、仇を討つのです……その手で!」

 馬元義は、劉備の目的を巧妙にはぐらかし、短絡的な行動に結びつけようとする。

 その手で殺せと、馬元義は劉備の手を握って繰り返した。

「貴方が、斬るのです!」

「私が……」

「それでこそ、ほ、鳳統殿も浮かばれるというもの……りゅ、劉備殿もようやく、た、た、戦えるのです。ほ、本当の戦いが、ようやく始まるのです!」

 魅惑の甘言に劉備は淫蕩した。もはや劉備には馬元義の言葉に従う以外の選択はなかった。関羽を呼び、趙雲の追跡を命じた。任務は趙雲の目的を探ることであり、それが極端な手段であれば阻止する、という非常に曖昧なものであった。

 関羽は驚き目を見開く。美髪公と勇名を馳せる将には珍しく、狼狽していた。

「桃香様、お待ち下さい! それでは」

「うん、愛紗ちゃん。このままじゃ、あの人たちをみすみす殺させてしまうことになっちゃう」

 殺させる? この人は何を言っているのか、と関羽は戦慄した。それではまるで自分が殺したいと言ってるようではないか。

 

 ――実際、劉備は生まれて始めて明確な憎悪を抱き始めていた。

 

 灼けつくような息が胸から喉を駆け抜けるように出入りする。馬元義が種を撒き、劉備の胸に根を下ろした憎しみが、殺意という花を咲かせてむせ返るような熱気を吐いている。燎火は真っ赤な徒花を芽吹かせた。劉備は震えた。この剣で敵を刺し殺すことを予感し、感動に打ち震えた! 自らそれを為すことが、新たな己を開放することと知った。馬元義の言うとおりだ。殺せない己から殺せる己になる。自らの新たな可能性を手にすることに、劉備は輝かしささえ感じた。眩しさに涙が出た。

「馬鹿な考えは、おやめください!」

 叫んだのは関羽だった。泣いていた。なぜ泣くのか。関羽もまた眩しいのだろうか? 劉備には関羽の涙の意味がわからなかった。そしてなぜ自分を押しとどめるのかも。

「おやめください、桃香様!」

「愛紗ちゃん……」

「なにとぞ、なにとぞおやめください。人を殺したいなどと、考えるのはおやめください!」

 なぜ関羽が止めるのかわからなかった。劉備は一言一言区切りながら、諭すように言った。

「愛紗ちゃん、私はね、今までずっと戦わずに後ろにいた……綺麗事だけを言ってた。みんなに戦ってもらいながら、みんなに殺してもらいながら、みんなに死んでもらいながら、でも自分は何もしなかったの」

 安全なところにいて、理想だけを語った。その後ろめたさが劉備にないはずがなかった。

 劉備は、自分もようやくようやく安堵を手に入れる機会を得たのだ、と思った。

「愛紗ちゃん。私は本気でこの国を良くしたいと思ってる。この世界から争いごとを無くしたいと思っている。その決意は変わらないの。変わらないからこそ、私が変わらなきゃいけないと思う。戦わせてばかりじゃなくて、私だって戦えるようになるの」

「その者を捕らえたとして、その時は既に我らの手の内という事です。つまりは俘虜です。そのような者を無碍に殺すことは、決して戦いとは言えません!」

「愛紗ちゃんのいうことはわかるよ。これが残酷なことだっていうのもわかるよ。でも、私は汚れないとダメなの……みんな血の匂いをさせているのに私だけ綺麗なまま! だというのに同じように戦ったようにうそぶいている! 私はそれが耐えられないの!」

「耐えるのが貴方の仕事なのです! 我々は世を立て直すために戦っている……けれど、立て直した世に生きる者が、全員血の匂いをさせていたらどうするというのです!」

「愛紗ちゃんには、わかんないよ!」

 劉備に翻意はない。関羽はそれを思い知り、うなだれた。一晩話したとて埒が明かないだろう。このままでは張飛に指名を変えてしまうことになる。それこそ現場で手に負えない事になりかねない。

「い、行かれよ……い、いずれにしろ、か、関羽将軍が自制なされれば、無為な争いにはなるまい……」

 馬元義の言葉に、関羽はとうとう諦めた。

「……行って参ります」

 関羽に選択の余地はなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 進発した関羽。夜闇を切り裂き目指すは趙雲の行方。副将周倉の下知が飛ぶ。しかし関羽の心は沈鬱に沈んでいた。

「何の意味がある……?」

 馬上の呟きを察するものはいない。すぐ隣の周倉さえも気づかなかった。

 無力さがとめどなく溢れていた。関羽は人生で初めて倦んだ。鳳統を失った時の無力さに、拍車をかけるように気怠さが押し寄せてくる。運命の流れが全て自分たちとは無関係な意志によって決められているような、そんな気になる。

 どうしようもなく自覚せざるを得ないのは、どんどん劉備の信頼を得ていく馬元義への怒りである。嫉妬、とはまた違う。関羽は馬元義に根拠のない不穏な気配を感じていた。

 鳳統の死も、公孫賛との緊張も全てがである。そこに関羽の意志も、劉備の意志もない。ただ状況に流され続け、友を失い憎しみを得ようとしている。

 忸怩たる思いだった。

 戦場だというのにため息さえ溢れた。全てが無為だった。友の死さえ無為のまま誰かの思惑に利用されているようにしか思えない。きっと公孫賛でさえ本当の意味で自分で考えてはいないだろう。目の前の状況に押し流されるだけで、真の意味で立志に基づいた決断などない。

 不意に満開の桃の花が目に浮かぶ。関羽は夜の闇を走りながら、いつか過ごしたあの日の光景を関羽は夢見た。言葉は容易く蘇り、幾重にも去来した。

 

 ――我ら三人っ!

 ――姓は違えども、姉妹の契りを結びしからには!

 ――心を同じくして助け合い、みんなで力無き人々を救うのだ!

 ――同年、同月、同日に生まれることを得ずとも!

 ――願わくば同年、同月、同日に死せんことを!

 

 人から見れば娘が三人で何を他愛のないことを、と思うかも知れない。けれどその言葉に嘘はなかった。心の底から誓ったはずの桃色の夢。今やそれは鈍色(にびいろ)の現実に轢き潰されようとしている。

 肩から力が抜けてしまうような心持ちの関羽だったが、それでも彼女は武人であった。

「明かりだ!」

 兵の声に関羽は心を閉ざし、将としての己に立ち戻った。戦意の高まりを肌で感じる。関羽は自らの曖昧な思考を切り捨て、武人としての己に徹した。青龍偃月刀を握る手に力が入る。戦場の昂揚だけが自我を支える唯一の綱だった。

 前方の明かりはまるでこちらを迎え入れるように堂々と焚かれていた。騎馬隊の接近には気づいているのだろう。関羽は速力を落とすことなく駆け続け、やがて『趙』の旗と篝火を背負うように椅子に座った趙雲が現れた。

「おう、遅かったではないか美髪公」

 いつもなら軽口の一つでも返す関羽だったが、黙って下馬すると駆け寄った。

「このようなところで何をしている、星」

「なんだなんだ、えらい剣幕ではないか、関雲長ともあろう者が」

「ふざけているのか? 言え、貴様はここに何をしに来た!」

 ニヤリと笑うと、趙雲はもう一つの椅子を関羽に進めながら首をひねる。関羽は椅子を一瞥さえしなかった。

「うむ。話せば長くなる。しかもどうやら私に話せるのは一部だけのようだ。そんな有様なのにかいつまんで話せというか?」

「はぐらかすな。はっきりと言え!」

 ははは、と趙雲は笑うと立ち上がった。手には名高き槍が握られている。しかし殺気はなかった。関羽は徐々に苛立ち始めている己に気づいた。

 焦燥に駆られるまま、関羽は偃月刀を掲げて言った。

「ここに我らを襲った下手人がいるのだろう。その者を引き渡せ。今なら間に合う。このままでは公孫賛殿が我々劉備軍奇襲に関わったという容疑をかぶることになるぞ」

「応、それは大事になるな」

「笑うな!」

 仲間の死を侮辱された気がして関羽は一気に怒り心頭に発した。関羽の激怒は突き刺す類のもので、兎や子どもであれば失神する。鋭利な針を投げつけるような殺気を前にして、しかし趙雲は肩をすくめて取り付く島もない。

「まぁ怒るな。考えてることは大体わかる。貴様らを襲撃した異民族の者たちを白蓮と私たちがかばっており、そして逃がそうとしているのではないかと疑っているな?」

「そうだ」

「貴様は疑いを晴らしたいのか? それとも復讐したいのか? 何に悩んでいる」

 言い返そうとして、関羽は言葉を飲んだ。劉備が殺したがっている、と口が裂けても言えない。それを押し殺したとて、他にも何か言ってしまいそうになる。己の空虚さを証明するような馬鹿なことを。

 はぁ、とため息を吐いて趙雲が関羽の肩を叩いた。

「すまんな。あまりにも腑抜けた顔をしていたために虐めてしまった。案ずるな。心配は杞憂だ」

「……杞憂だと? では下手人を追ってきたのではないのか」

「いや、それは当たりだが――ああ、なんというかな、いや、すまん。面倒になった。もう自分でやれ」

 やれやれ勘弁、と再び椅子に腰を下ろして足を組んだ趙雲。その態度がとうとう関羽の怒りに火を付けた。ただでさえはっきりしないことが続いて鬱々とした気分が溜まっていたのだ。不明なことを不明なままもてあそぶような趣味は自分にはない。常ならば呆れるだけで済ませる趙雲の態度に、関羽は真に激怒し始めた。

 怒号を喉の奥まで用意した関羽の口を遮ったのは、少女の声だった。

「あ、愛紗さん」

「雛里! お前も何とか言ってやれ! こいつの物言いは……いい加減許せん!」

「あ、あわ……あ、あの、あ、あ、あわ?」

「お前もたまにははっきりと物を言え! それでも軍師か!」

「あわわわ……」

「……いつまでもいつまでもあわわ、あわわとお前は本当に……本当に……ん? へっ? あ、あわわ?」

「劉備軍のツッコミ不足は度を超えて深刻なようだな」

 趙雲の軽口などもはや耳には届かない。関羽は全身に鳥肌を立てると、大声を上げ、涙を浮かべ、抱きしめ、勢いあまって放り上げ、堂々と泣いた。武人として、将としての仮面をかぶり悲しみを覆い隠してはいたものの、鳳統の死を納得する術など関羽の中にはなかった。押し隠していた悲しみが、不意に再会の喜びのあまり、その双方が弾けて関羽は女泣きに泣いた。鳳統もまたようやくの安堵のために関羽にすがりつき、その胸の中で泣いた。

 

 ――やがて二人が落ち着きを取り戻した頃、鳳統と趙雲の口から関羽に事の真相のあらましが告げられた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 顔半分を覆う火傷の痕。馬元義はそれを撫でながら関羽の帰還を待った。手はず通りであるならば、軻比能という男の死体を趙雲と関羽がほとんど同時に見つけるはずだ。関羽は清廉、潔白であり、正道を歩もうとする武将である。その場で趙雲と談合し事を収めようなどとは思うまい。いくら馬元義の有り様に不満があるからといって、虚偽の報告をするとは思えない。

 関羽が見たままのことを持ち帰れば劉備はもはや戦いを躊躇うまい。公孫賛はどうか? 北に迫りくる黄巾の挙兵をなで斬りにしながら帰還を図ろうとするだろう。劉備の目には黄巾に罪があるとは映るまい。公孫賛の蛮行を食い止めるために戦おうと心に決めるはずだ。

 袁紹の前で公孫賛との和睦を強く勧めた劉備が、今度は開戦派の最右翼となる。もはや幽州と冀州との戦いは避けられなくなるだろう。そしてそこで劉備軍が果たす役割は途轍もなく大きなものになるはずだった。

「馬元義さん」

 心細そうに声を上げる劉備の手を馬元義は握った。

「な、なにも、し、心配せずともよいのです」

「はい……」

 馬元義の心を快感が満たしていく。人を思う様操る所業は悪の道だといえ、その成功がもたらす達成感はいかんともしがたい。田疇の指示はいつも曖昧ではあるが、躊躇いなく実行した後に残る明確な結果はいつも馬元義を驚かせ満たす。馬元義には黄巾の理想や世直しの志などない。この暗闘が自らの生き場所と思い定め、やりがいのある仕事だと割り切っているだけだった。馬元義は劉備が気に入り始めていた。自らの娘のような年頃のこの将が、生ぬるい理想をかなぐり捨てて、血風吹き荒れる戦場で修羅となるのであれば、もっと好きになれるだろう。

 愉悦を戒めるように、馬元義が固く口を引き結び直した頃、一人の男が隣に近寄り囁いた。

「露見しました」

 馬元義は右耳だけに神経を集中させた。露見、という言葉がじわりと全身に満ちた。

「つ、続けろ」

「鳳統が生きており、公孫賛の元にいたのです。田疇様に至急報告の必要あり」

 馬元義の思考が束の間止まり、背中にどっと汗が吹き出た。あの状況で鳳統が死なず、なぜか公孫賛の元に先回りしている。そんなことがありえるのか。

「な、なぜ」

 男は答えずに沈黙した。わかるはずがないということは馬元義にもわかっていたが聞かずにはいられなかった。兎にも角にも事が実情を知った関羽が戻ってくれば馬元義の立場はない。馬元義の名が直接出てくることはないだろうが、相手はあの鳳雛である。関与を看破されるまでさしたる時はないだろう。ならば取り繕うよりもすぐに手を引くに限る。

 それに、始末しなければならないこともある。

「り、離脱する。伴をせよ」

「はっ」

 男を伴い、馬元義は陣の外へと向かった。

 馬元義は元々長剣の扱いに長けた将であった。しかし黄巾を率い官軍に破れ落ち延びた後は、暗器使いに得物を改めた。馬元義の懐には毒を塗った匕首、手首には峨嵋刺が仕込まれている。馬元義はこっそり仕込みの在り処を確かめた。いつでも取り出せる箇所にある。

 目の前の男が自らの手配の者ではないということを馬元義は察していた。『黄耳』が馬元義に話しかける際は独特の符牒が要る。男はそれを知らない。馬元義が従っているのは表面上の話であり、この男を始末する算段の一つである。

 しかし鳳統が生きていたというのは恐らく真実だろう。そうでなければ辿りつくはずがないからだ。関羽が根拠もないまま馬元義排除のために陰謀を巡らせたという可能性も皆無ではないが、陰の才覚が彼女にあるとは思えない。張飛は論外だろう。

 この者を処理せずに離脱するのはまさしく後顧の憂いである。馬元義は覚悟を決めた。

 馬は目立つ。二人で陣を離れて森に入った。人を殺して隠すのであればこのあたりだろう。捨てられる死体が馬元義か、目の前の男であるかの違いは今から決まる。

 馬元義は呼吸を整えた。

「と、と、ところで」

 言い切る前に振り向き、しゃがみ込みながら馬元義は左掌に仕込んでいた峨嵋刺を振り抜いた。男の太ももを狙うが、しかし外れた。男の退歩は備えを心がけなければ出来まい。馬元義が見抜いていたことを見抜いていた、ということだ。馬元義は追う。峨嵋刺を投擲し、裾に隠していた石灰粉を投げつける。峨嵋刺を弾く甲高い金属音が聞こえた。しかし石灰粉は命中した。顔面ではないが腹のあたりが白くなっているのが夜闇に浮かんでいる。

 石灰は普段は目潰しとして使うが、何も顔面に命中する必要はない。夜闇の中の戦いではこの白い目印があるだけで致命的な差になる。馬元義は悠々と腰の長剣を抜いた。暗器を使うようになったからといって、長剣の腕が衰えたわけではない。なんでも使うようになった、というだけだ。

「なぜ俺が敵だとわかった? 符牒か?」

 答えなくてもいい。死闘において会話も武器である。男は思惑を持って話している。それにむざむざ乗る必要はなかった。

 しかし馬元義にも問いただすべき話があった。長剣を水平に横たえながら答えた。

「そ、そ、そのような、も、ものだ……き、貴様は、公孫賛の手下か?」

「今はそんなものだ」

「な、なぜ、田疇様の名を知る」

 

 ――それこそ、馬元義を最も戦慄させる名であった。

 

 田疇の地位は今や決して低いものではない。だがそれが冀州から発する暗部の頭目として名が上がるとなると話は別だった。情報が漏洩しているということは死活問題である。馬元義はどうしてもそのことを確かめなければならず、会話を拒むことができなかった。

「さぁて、なぜかな」

「う、裏切りか」

「まぁそんなところだ。ちなみに劉備陣営、公孫賛陣営に草を撒いていることもわかっている」

 白い石灰粉をまぶされた男の顔は見えない。しかし馬元義には男が笑っているのがわかった。不利だ。負けたのだ、ということが身にしみた。露見したとなればここは敵の本陣である。撤退するに限る。馬元義は懐に隠していた笛をくわえると、二度三度と吹き鳴らした。鳥の鳴き声にしか聞こえないが、どの鳥にも当てはまらない声の出る笛である。この音を聞くと無条件で撤退する、という規則になっていた。

「行けよ」

 男が構えを解かないまま言った。馬元義が去ろうとしていることに気づいたまま、行かせようとしている。目的は達した、後は無理をしない、というところか。手強い男特有の判断力だった。

 去るのならここが限界点なのは確かだった、馬元義は殺害を諦め、振り向きそのまま去ろうとした。

 しかし、馬元義の背中を追うように男が再度言葉を放った。

「行け――その人を突破できるのならな」

 声が届くのとさしたる差もなく、馬元義は足を止めた。視界さえ定かならぬ宵闇の中でさえはっきりと分かる迫力がそこにあった。激怒の闘志は馬元義の全身に鳥肌を立たせた。手首が切り落とされた、と思った。次いで足も、肩も、首も。無数の殺気が一滴の流血もないまま馬元義を細切れにしている。歯の根が合わない。馬元義の心は覚悟ゆえに微動だにしなかったが、体は死に怯え恐怖した。

 人影は長柄の武器を持っていた。大刀の刃が月光を照り返す。

 

 ――関雲長の怒りが森の空気さえ痙攣させる。

 

「なぜ、こ、ここに」

 馬元義の問いに関羽は答えない。心臓の鼓動のように、波打つような怒りが寄せてくるだけだった。進退窮まったことを馬元義は自覚した。長剣を逆手に握る。敗北は死である。とうに死んでいた命がここまで伸びたとしか馬元義は考えなかったし、同じく『黄耳』に属する者たちも皆おしなべてそうだった。

 息を吸い、馬元義は剣を胸に突き立てた――突き立てたはずだった。刃先がない。そして目の前には関羽。刃を切ったのだ、この女は。そして一足で詰めよってきた。手首を握られた。まるで石にはめ込まれてしまったように微動だにしない。こちらを眼差す関羽の表情は闇で見えない。頬に当たる吐息だけが灼けつくように熱い。

 舌を噛み切っても死ねないことはわかっている。馬元義はイチかバチか胸に潜ませた匕首に手を伸ばしたが、衿に手が触れるより先に背骨がへし折れるかのような打撃が腹に打ち込まれた。意識は抗いようもなく吹き飛び――馬元義は昏倒した。




暗い話が続いてまして、読んでる方に爽快感はないっぽくて恐縮です。書いてる方もなかなか。
このあたりの話を突破するのが思っていた以上につらくてこの一年なかなか進みませんでした。
あと一話か二話で一区切り。そこさえ抜ければ……という気持ちで本年終わり。来年もよろしくお願いします。

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