李岳と鳳統が一足先に公孫賛軍のいく先を望む丘の上に先んじたのは極めて僥倖であった。されど公孫賛が心血を注いで育て上げた白馬義従はさすがの迅速さ。闇夜の中でもその一糸乱れぬ統率は敵と想定すれば肝が冷え、味方だと思えば百人力のそれである。時折射し込む月光が先頭を行く『趙』の旗を輝かせる。公孫賛は自らが最もたのむところである右腕にこの場を託したということになる。
だがしかし、その最重要戦力の作戦目的は未だ不明のままだった。
「何のために」
そう李岳が小さく呟いた時である。鳳統が李岳の背中にしがみついたまま精一杯右手を伸ばして指差した。
「あわわ、隊形が……」
騎馬隊はやがて速度を緩めると横に広がりその姿を一変させた。速度も迅速から慎重に変じている。この状況を解釈するのに選択肢はそう多くない。
「誰かを探しているのか」
「けど、けど……脱走兵さんをこんなにたくさんで探すわけがないのです。それに、公孫賛軍の統率は北方四州で比類なしとも言われてます」
「ということは、逃げ出したのは公孫賛軍の者ではなく、しかしすぐにでも見つけなくてはならない重要な人物……」
鳳統の回答は早かった。
「劉備軍を襲撃した人を、探しているのです……」
――田疇の策だ、と李岳は直感した。
田疇は劉備と公孫賛の仲を決定的に裂こうとしている。二人の間に打ち込む楔の名は、疑心暗鬼と朱書きされているのであろう。その朱は奴の陰謀によって命を落としてきた人々が流した血で書いたものである。
誤解の種を植える際に肝要なのは、真偽はどうあれ強烈な事実を突きつけ、判断力を奪うことだ。冷静な判断を狂わせるには、強烈な感情を惹起させるに限る。そこでようやく自分の思惑を囁くのだ。
そして大抵の場合、布石となるのは人の死体であるのが相場となっている。
「……鳳統殿。ここには第三勢力がいる。その者たちは襲撃者を用意し、劉備殿を襲わせ、そして公孫賛殿に匿わせた。さらに自ら彼らを拉致し、公孫賛軍に追わせるように仕向けた。着いた頃には死体となった彼らを発見する……手筈としてはそんなところでしょう」
「……公孫賛さんからは桃香様が殺したように見え、桃香様からは公孫賛さんが殺したように見える……あわわ!」
ここまで鮮明に答えが浮かんだのは、李岳が今まで何度も田疇の計略に絡め取られてきた経験があったからだろう。ここは幽州に近い土地。公孫賛に趙雲という人々が、李岳に嫌でもあの日のことを考えさせる。
書の癖。それを李岳はわずかに掴み取り始めていた。だが同時に李岳は自らの推理に嫌な記憶を思い返し、口の中に広がった苦味に舌打ちした。
「急ぎましょう」
少年は村一番の知りたがりで、村一番の働き者で、村一番のわんぱくだった。
他の一族からは軽んじられる程にわずかな馬と羊しか飼っていなかったが、豊かな川と森の恵みにあずかり決して飢えはしなかった。戦の度に若者たちは武器を取り、結集の呼びかけに呼応して血を流しもした。戦いは悲劇ではあったが、血湧き肉躍る身近な英雄譚でもあった。
自分もいずれ大人になれば、部族のために戦い、誉れを浴び、果てるのだろう――そう信じて疑っていなかった。
その無邪気な人生の道程はある日、唐突に破壊されることとなる。雲霞の如くたなびく黄色い旗が、ささやかな夢ごと少年の村と一族を焼き尽くしたのである。狩りの帰りにたまたま襲撃から逃れた少年は、草むらで唇を噛み締めながら目の前の惨劇を目に焼き付けることしかできなかった。
奴らは云う、蒼天既に死すと。そして続けた、天下大吉であると。
家族と友の骸を前にして歌い踊る黄色い奴らを、少年は――軻比能は決して許さないと心に誓った。
――あれからもう二年になる。どれほど時が経とうと、屈辱と怒りが消えることはないように思って生きてきた。黄巾の者たちと結託した劉備がこの地にやってくると聞いた軻比能は、生き残った者たちと奇襲を目論んだ。
思い出しても肌が粟立つ。まるで天命に導かれたような勝利であった。はじめ襲撃を企てて道に潜んだものの、道を行く劉備一行の備えは盤石であり、一分の隙も見当たらず手をこまねくばかりであった。一矢報いることさえ出来ないのか、と忸怩たる思いが湧いた頃、突如暗雲が垂れこめあっという間に豪雨が襲った。視界さえ遮るほどの土砂降りの雨は、軻比能たちに勇気と勝機を授けた。
射るだけ射て、斬るだけ斬った。反撃はほとんど無かったと言っていい。一矢報いた。それがこれほど晴れ晴れとした気持ちをもたらすとは思ってもいなかった。雨に押し出されるように戦場から離脱し、仲間たちと合流した時など、震えながらお互いに抱き合い大笑いしてしまった。
しかしその興奮も長くは続かなかった。復讐は、それが成される前は夢である。軻比能はようやく気づいた、夢は終わったのだと。熱に浮かされたような怒りは嘘のように消え去り、足元がおぼつかなくなるような不安が訪れた。
次はこちらが追い立てられる番だった。それは恐怖以外のなにものでもなかった。結束していたはずの仲間たちも、いつの間にか散り散りになっている。
喘ぐように助けを求めたのは、異民族とも等しく交わると伝え聞いてた公孫賛の陣だった。
そこで烏桓の名高き楼班と出会い、正式に庇護を受けることになったのが昨日のことである。ようやく食事と寝床にありついたところで、今度は城から出され北を目指して逃がされている。
もはや自分の運命を自分で切り拓いているという自負はかけらもない。あるのはただ恐怖と不安、そして底知れぬ無力感だけだった。
今にして思えば街にとどまっていたかった。それほどに軻比能の心を不安が覆っていた。ともすればとんでもないことになるのではないか……異変に気づいたのは、やがて現れた二股の道で彼らが西を選んだからだった。鮮卑や烏桓の山を目指すのなら東へ向かうべき道だった。
「本当にこちらなのか?」
男たちは答えない。ピタリと軻比能の足が止まる。不安は予感となって心臓を冷やした。
「貴様ら、何者だ?」
問いただした軻比能に、案内していた男は振り向きじっと眼差した。それは値踏みであった。軻比能を観察し、判断の材料としようとしている。
「ここまでか。まだ近いが悪くはないな」
男の抜剣を合図のように、従っていた者たちも皆それにならった。ひどく自然な仕草である。
軻比能はいま、おそらく誰かが定めたままに無為の死を迎えようとしていることを明確に悟った。隣にいる仲間たちも同じ気持ちなのだろう。気力を失い、蒼白な顔のまま震えさえしない。
「ここで死ぬのが最期の仕事だ。貴様らの仕事は劉備と公孫賛を反目させることだった。劉備を襲い、そして公孫賛のもとにいる烏桓の楼班に劉備への憎しみを植え付けることだ。お前は良い仕事をした。思惑通りことを運んでくれたよ」
「お前らは、いつから……」
「初めからさ。俺にすら想像のつかんくらいの初めから……だからな、運命と思いこれを受け入れよ」
無為な死は屈辱さえ呼び起こさない。軻比能たちは死ぬ間際に虫けらと堕し、木石に匹敵する無価値さを得た。人しての尊厳さえ打ち捨てられ、誰かの思惑を叶えるための道具としての末路に至ろうとした。
冴えない最期だ、そう思った。
「今度は間に合ったかな」
――その声が聞こえるまでは。
種を明かせば、趙雲が探しに向かわなかった方向に賭けたに過ぎない。田疇の操る書の力が偶然を支配し、誰もその法則に抗えないというのなら、その脚本を裏切る方向へ駆ければ良いのだ、と李岳は思い道を選んだ。
鳳統は馬から下ろして走って趙雲の元へと向かわせた。いずれこちらに部隊がやってくるだろう。時を稼ぐことが李岳に課された仕事である。
「何者だ」
「匹夫に名乗るいわれはない」
刹那、黄巾の者から殺気が溢れ出した。夜闇の中で火花が散る。抜剣は間に合わなかった。鉄製の鞘のまま受けていた。焦げ臭い匂いが湿った空気の中に熱を持って混じる。
「公孫賛の手のものか……」
「さあな」
「まぁ、良い」
口笛を合図に、四人の男たちが一斉に動いて李岳と少年たちを取り巻いた。
李岳はその内の頭領格と思しき人影に向けて囁いた。
「私の言うとおりに出来ますか」
反応はない。李岳は言い含めるように繰り返した。
「私の言うとおりにおやりなさい。私が信用ならない――それもいい。ですがこの場にいたらただ死ぬだけです。せっかくなら生きながらえる側に付くべきでは。今ここだけでもね」
「……」
「貴様の父母もそのように意気地がなかったのか?」
李岳の罵倒に、ようやく燻っていた心の火種が着火したようだった。
「……クソッタレ。俺はどうすればいい」
「目一杯叫び続けてください。もうすぐ趙雲軍がこちらに向かってくる。場所を知らせるのです」
少年たちは李岳から後ずさりすると、声の限り絶叫を始めた。よし、と頷く。既に鳳統は趙雲を呼びに李岳と分かれて向かっている。趙雲たちがこの声に気付いて部隊を差し向けるまで生き延びていれば勝ちだ。
李岳は血乾剣を抜くと逆手に持ち、鞘も抜いて双剣とした。二人同時に飛びかかられても、これで一息はしのげるだろう。高順が李岳に仕込んだ流派において、双剣は守りの型だった。
月明かりはない。黒い刀身はどの軌道から襲っても死角を突くだろう。敵もそれをわかっている。不用意には近づいて来ようともしない。一人、右手を後ろ手に隠している。飛刀かと李岳は読んだ。右に動き木を背にした。
左端の影がふっと震えたその刹那、とっさに首を下げた。次の瞬間には甲高い音を立てて木の幹に匕首が突き立っていた。転がるように木の陰に回る。右側面に動きがあった。振り下ろされた刀に何とか血乾剣は間に合った。逆手で鞘を相手の脛めがけて叩き付けた。激痛に悲鳴を上げたその声で相手が女だったことを知る。確かに折った、立つことさえままならないだろう。残り三人。
「貴様、只者ではないな。名乗れ」
真ん中の男が話した。恐らくこの中では長だろう。背後の叫び声は響き続けているというのに、不思議と耳に届く声だった。
「お前が名乗れば答えてやる」
「とうに捨てた」
「ならばこちらにも応える義務はないな」
「墓に刻んでやろうというのだ」
「いらぬ世話さ。死ねば路傍の石となるだけ。貴様らのように」
話しながらも李岳は隙を伺っていたが、どこにも打ち込む隙は見当たらなかった。間違いなく手練だった。永家の者たちが苦戦し続けた幽州の暗部だろう。確か名は『黄耳』と言ったはず。黄巾の一味と思って間違いないはずだ。
李岳は足を滑らし右に動いた。確かに隙はないが、そのようなものは見るに飽きた。李岳が常に相手としてきたのは呂布なのである。隙がなければ作るまで。
「しかし大変なことになったな。この失態だ、お前の主はきっと許さないだろう」
「片付ければ問題などない」
「田疇が見逃すとでも?」
動揺が手に取るようにわかった。李岳は右端の者に踏み込み、小手に払った。血飛沫が舞う。手応えは確かだった。手首の骨の半ばまで斬った。真ん中の男は微動だにしなかった。動けなかったのではない、その目線はずっと叫び続ける背後の少年を見据えていた。李岳もそれ以上踏み込まず、元の場所まで戻った。不用意な動きを見せれば、守るべき男を死なせて敵の目的を遂げさせてしまうことになる。
しばらく膠着状態が続いた。二対一。双方に葛藤があったことは間違いない。先に諦めたのは相手の方だった。
「また会おう」
そう言うと、男は背を向けて立ち去っていった。後に二人が続く。うち一人は李岳が手首を断ち切った者だった。脛を叩き折った女の方を見ると、当たり前のように自裁していた。首に突き立った小刀が、不意に顔を見せた月光に照らされ嫌な輝きを見せた。
李岳は刀を納めると、かすれた声で息も絶え絶えに叫び続けている少年たちの肩を叩き、その務めを終わらせた。不思議なもので、叫びが途絶えたのと入れ替わるように、無数の馬蹄が響いてきた。趙雲率いる公孫賛軍の精鋭たちだろう。揺らめくように迫ってくる篝火に、さすがに李岳も安堵の息をこぼした。
頭領の少年は不思議そうに李岳を見ていた。背丈は李岳よりも高いが、齢は同じか少し下だろう。面立ちは匈奴のものたちに近いように思えた。
「名は?」
「……軻比能」
「――なるほど。後ほどゆっくりと話しましょう、色々説明も必要でしょうし」
それに李岳にとっても考えるべき時間が必要だった。
やがてやって来た先頭の白馬に、李岳は造作なく手を挙げた。聞こえるくらいに大きなため息を吐いて、趙子龍は身を翻して下馬すると頭を抱えた。
「いやはや、これは一体どういう冗談なのだ? 話を聞いても直接拝んでも、到底納得いかんのだが」
趙雲の驚いたような、呆れたような声に李岳は肩をすくめた。
「さてさて。世の中には不思議なことだらけですから」
「その減らず口、人違いではないようだ」
趙雲はあえて李岳の名を口にしないでいる。やってくるにしても身分を隠しての極秘任務、とでも思ったのだろう。やはり常の振る舞いと違って思慮深い人だった。
後ろから鳳統も駆け寄ってくる。
「あわわ……その」
「よくぞ連れて来られました。助かりましたよ、鳳統殿」
「……ご無事で何よりです」
その瞳に浮かんだ涙を拭って、李岳はあらためて趙雲に向き直った。
「というわけで趙雲殿、ご無沙汰しております。こちらは鳳統殿。もちろんご存知でしょう」
「ああ。だが実のところ、今はじめて名を聞いた。名乗る間もなくすがりついて私たちをこちらに連れてきたのだからな。駆け込んできた時は面食らったよ、敵襲かと思ったくらいだ」
驚いて鳳統を見ると、両裾をかざして顔を隠した。帽子がないのでそうするしかなかったのだろう。
さて、と趙雲が続ける。
「帽子がないのでわからなかったが、見覚えがあるな。劉備軍の軍師の」
「は、はい……鳳統、字を士元と申します……」
「うむ。そして、死んでるはずだ」
趙雲が鋭い視線で鳳統と李岳を交互に見据えた。今、劉備と公孫賛が極度の緊張状態に置かれることになった原因は、ひとえにこの鳳統の生死によるところが大きい。それが生きていた。いるはずもない男も隣にいて、逃げたはずの下手人もいる――意図はわからずとも壮大な陰謀を予感しても不思議ではないはずだった。
「あ、あわ……あ、あの……誤解なさらず。わ、私は……その、危ないところを……」
「趙雲殿。貴方たちは罠にかけられたのです」
李岳は繰り返した。
「罠にかけられた。趙雲殿、公孫賛殿、鳳統殿、そしてそこの軻比能殿……劉備殿もね」
「誰に?」
「それはまた後ほど。とりあえず彼らを保護してください。誤解を解く必要があるでしょう。彼らをここに導いたのは公孫賛軍の手の者だと名乗ったはずですし」
「任された」
「ところで、私の思い違いでなければ、そろそろこちらに劉備軍の別働隊が向かってくる頃かと思うのですが」
「まさかそんなはずは……などという反応をしてみろ、この男のしたり顔がさらに調子づくことになる。皆、十分気をつけることだ」
趙雲はそう言って意地悪そうに笑うと、部下に篝火を焚かせることと、使者を放つことを命じた。
李岳はふうとため息を吐くと、手の平に視線を落とした。今の今まで震えていた。運が良かっただけだったことを痛感している。だが勝った。綱は切れたが渡りきった。だがまだ大河の中洲に辿りついたに過ぎない。次の綱はもうすぐにでも渡らなければならないだろう。
やがて馬蹄が響き、劉備軍の接近を知らせる声が響いた。