闇夜の出撃は危険をともなうものだが、夜目さえも鍛えている趙雲にとっては何ほどのこともなかった。
趙雲は急ぎ逃亡した異民族の少年たちを保護するという任務を公孫賛より受けた。最早一刻の猶予もなく事態を収拾する必要に襲われているからである――北新城に危機が迫っている、という知らせが舞い込んできたのだ。
――北新城、とはここから北に半日ほど戻ったところにある町だ。そこを一帯とした地域は幽州からわずかに冀州に突出したこぶのような形をしてはみ出している。幽州から冀州に食い込んだ地域なのだ。公孫賛もそこを拠点都市とし、中山郡を伐り取りここまで南下してきた。冀州にとっては突きつけられた刃のような厄介で目障りな地であり、幽州にとっては勢力争いの趨勢を占う重要な前線基地でもあった。
先ほど、その北新城から東に二十里の地点に黄巾兵が現れたという報が矢文となって城内に射込まれてきた。冀州の易県および鄭県から溢れだした黄巾の兵たちは、瞬く間にその数を三万にまで膨れ上がらせ、真っ直ぐ西を目指しているという。矢文には確かに公孫賛の間者であることを示す北斗七星の符号があった。
三万の黄巾兵が真っ直ぐ西の北新城に向かえば、そこから南にいる公孫賛は冀州に取り残される形になる。コブの根本が寸断されるような事態だ。補給線も何もかもを一気に失い、公孫賛は敵地で孤立することになる。この機を逃さずと冀州が動けば全滅は免れない。
だが同時にこのまま劉備と遺恨を残したまま撤退することも危険だった。劉備がその気になれば撤退する公孫賛の背面を突ける。そうなれば公孫賛の命はない――考えたくもない事ではあったが。
「頼むぞ、星」
「任された」
頼りなげな声の主君に、常山の龍は槍を掲げて檄した。白馬義従を従えて裏門から飛び出していく様は月光に躍り出る龍そのものに思える。しかし如何な白馬義従とてもはや猶予はない。迫りくる黄巾の狙いはいささか強烈に過ぎたからだ。
城から逃げ出した異民族の少年たちもまだそう遠くには行っていないだろう。まず彼らを確保し、あらためて保護する。そうすることによって劉備との話し合いの場を再び持つ希望が生まれる。今のままでは公孫賛が思う所あり、劉備の仇敵を逃したという格好にしかならない。厳しい条件だが成さねばならない。
「しかし、どうしてこんなことになった……」
誰か聞くものがいるわけでもないというのに、公孫賛は呟きため息を吐いた。劉備とは幽州と冀州の間でしばらくの間の不可侵の約定を締結するはずだった。それが一転、一触即発の事態になりあの劉備と干戈を交えかねないことになっている。
何者かの介入、あるいは謀略を疑わないでいることは難しい。劉備への襲撃はもちろん、この機を狙ったかのような反乱である。真偽はさておき、冀州と幽州の間で戦乱が勃発することは確定した。公孫賛は兵に指示を与えながら、密かに覚悟を決めた。
(生きて戻ったら、冀州に向けて挙兵だ。みんなで練ったあの作戦を実行に移す……幸い、例の要塞もそろそろ完成する。ここを生きて抜け出すことが出来れば……)
そのためにも、今この場で劉備との激突は避けねばならない。なぜだか分からないが、公孫賛にははっきりと理解できた。劉備はきっと、良からぬ者に操られかけている。そうでなければこのような事態にさえなるはずがないのだ。
ふと、冴え渡る月光を見上げて公孫賛は呟いた。
「桃香……」
夏の夜の涼風にさらわれ、友の名は儚く溶けた。
ふと、名を呼ばれた気がした。しかし気のせいだろう。先ほどから耳鳴りが止まないからだ。
劉備は己の内の熱にもがき苦しんでいた。表情は落ち着き払い汗一つかいていないが、叫びだしたくなる衝動を懸命にこらえているのが現実だった。
欲しい。誰かの言葉が欲しい。どこまでも残酷な言葉を与えて欲しい。そして優しく許して欲しい――
この身を焼くような憎しみを人のせいにしてしまいたい。自分の内に、こんなにもどす黒い業火が煮え滾っているなんて認めたくない。だがその度に無責任さをなじるもう一人の己の声がする。千々に乱れた感情が、全て独立した自我を獲得して首を絞めあっていた。何度深呼吸しても喘いでしまうような苦しみに、ようやく劉備を涙した。
「だ、だ、大丈夫ですか、劉備殿」
隣に付き添う馬元義が声をかけてくる。涙を拭ってなけなしの笑顔を見せた。
「……はい」
「そ、そうではないでしょう」
馬元義が節くれだった指で劉備の涙を拭った。母と娘ほどの歳の差があるために、劉備の気持ちは一層ゆるみかけた。
だが、続く馬元義の言葉は劉備の心をなおも溶かしてしまおうとする。
「ほ、鳳統殿はさぞ……ご無念だったでしょう。あの、あのような齢で、し、死んでよい方ではなかった……て、天下に羽ばたく鳳となるべき、ひ、人でした」
鳳統の名を聞くだけで胸がつまる。照れ隠しの真っ赤な笑顔が浮かんで消えた。永遠に失われてしまった少女の面影が、劉備に許しを与えるように微笑むけども、その笑顔が真逆となりて劉備の無力を責める。
「雛里ちゃん……」
「無念ですな……」
「私が、私がもっと用心深く進んでいれば!」
「りゅ、劉備殿に落ち度など」
はらはらと涙がこぼれるまま、劉備は続けた。
「……私は争いをなくしたかったんです。そのために自分が出来ることをしようと考えました。でも……友達一人守ることができなかった……」
馬元義は無言のまま劉備の言葉の続きを促した。
「私……最初は、天の御遣いを求めたんです」
天から遣わされる真の英雄がこの世の闇を吹き払い、再び来光を告げて平和の訪れを約する――そんな馬鹿げた伝説を劉備は信じ、世を巡った。天からの助力がなければどうにもならないほどにこの世は乱れていると判断したからだ。
だが御遣いはどこにもおらず、ただ人が人として成さねばならない無常だけが厳然たる事実として大地に横たわるのみだった。天はただ眺めるのみで、人は地の理屈に従って生きていかねばならない。
そして劉備は時に戦い、時に和し、仲間と出会い、そして反董卓連合軍に参加して袁紹とつながった。それは諸葛亮と鳳統の言葉に従っての判断だった。劉備の元には数千の人間が集まっていた。その人数に毎日食事を用意することだけでももはや一つの事業である。領土を持たない劉備にとってそれ以上の難事はなかった。袁紹を頼ったのも食い扶持を確保することから逃げられないためだった。
そして目的はもう一つ。果たして本当に黄巾の者たちが、全て悪であるのかを確かめること。訪れた冀州で知ったのは、自分が戦ってきたはずの黄巾の人々の笑顔だった。
「はじめは、黄巾こそが世の禍の源だと思ってました……でも、黄巾の人たちと一緒に暮らしてわかりました。みんな、普通の人だったんだって。誰か一人が悪いからこんなことになってるんじゃない。巨大な世界の流れが悪いんだって」
「劉備殿は、今はどう思われるのです」
馬元義の声に劉備は沈黙した。わからない。それが答えだった。黄巾が元凶ではなかったと思ったように、異民族も元凶ではないのだろうと思う。それでは名家が元凶なのか? それこそ違う。自分は何と戦えばいい? 何を変えればいい? 漢王朝の全てが悪いとも思わない。でも今の皇帝や李岳の施策では辺境の人々の飢えを救うまで何年かかるのだろう。
――しかし不思議なものである。世の中を変えるために人を集めたというのに、人が集まれば集まっただけなさなければならないことが増えていき、正しいと思うことさえ容易にできなくなっていく。袁紹を頼ったことを間違っているとは思わない。でも遠くなった、と劉備はいつしか思うようになっていた。
理想は追えば追うほど遠くなる。ただ夢見ていただけなら遥か彼方であることに思い至らず、楽しいだけだったのに。歩けばその道程がはるか彼方であることに、嫌でも気づいてしまうから。
そのような心に、甘言は容易く染み渡る。
「た、戦うのです」
馬元義の手が、異様な力強さを持って劉備の肩を掴んだ。
「黄巾は、と、と、ともにありまする。りゅ、劉備殿とともに」
「馬元義さん……」
「戦えまする。りゅ、劉備殿は戦えまする。ともに、と、ともに戦いましょうぞ。こ、この地を豊かにするのです……この地に、み、帝がいれば、そして教えがあれば、きっと人々を救えまする……いずれ退く帝位だとしても、い、今はこれしか」
「で、でも」
「黄巾の者たちは、哀れな民……ま、ま、間違いを起こしたとしても、そ、そ、その罪を全て負うことが正しいでしょうか……い、否! 劉備殿、あ、貴方が見た人々の笑顔を、し、信じなされ……」
「笑顔を、信じる」
「黄巾の元にこそ、人の笑顔が集まるのです……」
渇きひび割れた少女の心に、甘い水は容易く染み渡りぐずぐずと濡らした。
「人は出来ることしか、で、出来ぬのです。い、いま目の前で起きていることに、せ、精一杯になるしか。ほ、ほ、鳳統殿の弔いこそ、い、いま劉備殿がすべきことでは……そして、黄巾の者たちと、そ、葬儀を行いましょう……」
劉備は涙し、袖に顔を伏せた。馬元義が笑みをこぼしていることには気づかない。
「などというやり取りをしているのではないでしょうか。あるいは」
鳳統の推測に李岳は小さく頷きを返した。劉備の野心を煽るのが目的なのだから会話の瑣末はどうでもいいとして、大枠は外れていないだろうと感じる。
李岳と鳳統は両陣営を見下ろす丘の上にようやくたどり着いた。城から見てわずかに北側である。小雲雀の快速がなければ全てが終わった朝になっていただろう。すんでのところで間に合っている。運も時もまだ味方だ。
ここに至るまでの馬上、二人はおよそ劉備が平時の精神状態ではないだろうという予測を以って合意した。それほど劉備の行いが常軌を逸していたからである。
「それほど、大事に思われていたのですね」
「あ、あう……」
帽子は激流に流されてしまったので、鳳統は袖で照れ顔を隠した。
――劉備の真髄は温厚ではなく、激情の人である。関羽、張飛を失ったがために実在の劉備が辿った末路は彼の情愛の深さの一端を示すものだ。この世界の劉備もまた、そうであろうということはほぼ確信に近い。いや、あるいは史実以上だろう。実在の劉備が鳳統を失った時とは比較にならない程の狼狽ぶりだからだ。
「さて、とはいえ悩んでいる暇はなさそうだ。私が劉備殿の心を操るならば、間を置くなどという愚行は決して犯しませんから」
「……はい」
方策はいくつもない。ここに来るまでに思い浮かんだのは二つ。
まず、普通に劉備軍に接触することである。正攻法といえるだろう。劉備に目通りを願い、会い、生きている鳳統に会わせ、誤解を解く。めでたく和睦。
だがそれほど容易く行くとは思えなかった。陣営には劉備軍以外にも黄巾軍が含まれている。そのどこに田疇の手の者が潜んでいるか見当もつかない。いや、劉備軍本隊にさえ紛れ込んでいるのかもしれないのだから今の時点では対処のしようがない。案内しますと連れられて、矢ぶすまにされ地獄に送られることさえありうる。この期に及んで鳳統が生きていたと発覚するなど、田疇にとっては悲報でしかない。口封じをして川に捨てれば面倒もないのだ。
必然的にふたつ目の選択肢を選ぶ他なかった。すなわち、策を弄すること。
「だがどうするという結論は未だ出ず、というね」
「あわわ。今、打つ手はありません」
鳳統を見た。その表情には述べた言葉ほど消極的な意志は見えなかった。
「今、と申されましたね」
「今、です」
「つまり、この後時期が訪れるというわけですか」
鳳統はこくりと頷いた。
「間を置いて皆が冷静になれば策は破綻します。敵は、急ぎ行動に移ろうとするでしょう」
自軍の補給の問題から考えてもここは公孫賛に利する地である。田疇が劉備を使って事を構えようとするなら、時間を置くのは敵に利するばかりなのは明白。激情を利用して事態を進展させることこそが敵の思惑なのだ。
「だからきっと、すぐに何か手を打つはずです」
「そこにつけ込む、と? しかしすぐに城攻めが始まればそれこそ打つ手は限られる」
「すぐの城攻めも、ないと思います」
鳳統の怜悧は冴えに冴えた。
「夜半の攻撃が難しいことが第一。そして第二に、城を攻める時、人は冷静になります。攻める側は間を置いて考えることができるからです。時間もかかりますから……桃香さんを暴走させようとするなら、冷静になる時間を与えようとはしないはずです。わけもわからない内に、巻き込んでしまうのでは、と」
「そういう土壇場に弱い方なのですか?」
「情けに弱い方なのです」
人としての良心が、常に己に利するわけではない。鉄火場では人としての心を捨てねばならない時が訪れる。それが己を助ける時もある。劉備はきっと優しい人なのだ。だから多くの人が付いて行き、自分が助けなければと思う。
良い君主の要件とは最も強く猛き者ではない。弱くとも、柔くとも、自分が支えなければと多くの人に思われる者なのだ。項羽と劉邦の話を引くまでもない。
「優しさ、か」
「その優しさを利用するなんて、許せません」
鳳統が珍しく怒りの言葉を呟いた時だった。夜闇の中でもはっきりと分かる開門の音が響いた。
「おっと、先に公孫賛殿が動きましたな」
「……普通、公孫賛さんが動くはずがありません」
鳳統の疑念は尤もだった。公孫賛にとっての上策は朝を待って誤解を解くことなのである。夜の内に動くことは劉備への警戒を増幅させ、あらぬ衝突を呼び起こしかねない。それをわかった上ででもいま動かねばならない理由が発生したのか。
「動かねばならなくなったのか、あるいは動かされたか」
「敵は偽報を使ったのかもしれません」
こと偽報と情報伝達に関してこそ、太平要術の書の力は無類だろう。どのような符牒も意味をなさないからだ。公孫賛が安々と動かされた。闇夜で判然としないがこの土壇場で頼るのはおそらく白馬義従だろう。率いるは公孫賛自身か、趙子龍か。
「追いましょう」
二人の言葉は重なっていた。今ここで動かなければもはや機はないだろう。
李岳が小雲雀にまたがると、鳳統もわたわたと引きずり上げられた。
「飛ばしますよ。なにせ競争相手はあの白馬義従ですから」
「お、お頼み申します」
幸い白馬義従は北を――つまりこちらを目指している。既に隘路を通り過ぎようとしているが追いつけないまでもない。李岳は馬腹を蹴り、鳳統はやはり小さく悲鳴を上げた。
ええええい、久々の投稿についての言い訳はもういいわけっ!(ツンデレ風味オヤジギャグ味)
年内は最低月に一度、目標二週に一度の投稿で。多少短くなってもそっちのほうがいいかなと。
つーか久しぶりすぎてパスワードわからんかったっす。