真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百二話 二律背反

 馬元義は黄巾が出来る前から盗賊に身をやつしていた女で、戦場を渡り歩いて二十年を超える古強者である。一時(いっとき)は皇甫嵩と朱儁を向こうに回して追い詰めたことさえある。だが官軍の底力はとうとう馬元義を小さな山砦に追い詰めた。もはやこれまでと思ったところで命からがら落ち延びたのであるが、その手引きをしたのが田疇の手の者であったのだ。

 火攻めに遭い、火災の勢いのために顔の半分を焼かれ、左目の視力も失ったが、それでも馬元義は鉄火場を渡り歩くのを選んだ。『黄耳』と呼ばれる田疇子飼いの諜報集団、その六人の筆頭の内の一人が彼女である。

「し、死体は見つかったか」

 馬元義の問いに部下は首を振った。馬元義は戦傷のためにわずかに吃音である。が、指示や連絡に迷いはないので混乱が生じたことはない。

 部下は皆、近くの村の者という装いを徹底させている。公孫賛の元に向かう劉備軍一行の監視が馬元義の任務であった。田疇からは明確に指示を受けているわけではない。田疇は時折、意図の掴めない命令を出しては、臨機応変に動けとだけ言うことがあった。馬元義は言葉通りの意味とは別に、防諜の意図も含むのだろうと受け取っていた。

 

 ――その田疇の指示に従い劉備軍を監視し続け十日。馬元義の目の前で行軍中の劉備軍一行が襲撃を受けた。

 

 手並みを見たところどこかの軍の所属というわけではないだろうが、雷雨の最中という条件が手伝い襲撃は見事に劉備軍の輜重隊を潰した。防ぎようのない完璧な襲撃であった。着の身着のままのような者達にこのような画策ができようはずもない。田疇の仕組んだ策であることは疑いようがなかった。ではその結果を確かめるのが己の責務だ、と馬元義は思い定めていた。

 劉備は今、行方不明となっている鳳統の身柄を探して部隊を総動員にしている。同時に、袁紹と公孫賛に向けて使者を走らせたと部下から知らせがあった。

 なぜ公孫賛に急ぎ使者を飛ばしたか、理由は明白であった。劉備を襲った者達は、どう見ても異民族の出で立ちだったからである。襲撃側にもわずかに死者が出ている。その服装を見れば一目瞭然であった。北方異民族の慰撫は公孫賛の務めに属するところである。劉備は公孫賛に対し、共に異民族鎮圧の提案を持ちかけるのではないか。それを飲むか拒むか、公孫賛の判断が問われることになる。

 

 ――さて、そこで動くのが我々だ、というのが馬元義の考えであった。

 

 馬元義が今、部下に命じているのは死体の捜索である。豪雨が明け、一晩経った今、ようやく被害の全貌が見え始めてきたのだ。そして主だった将のうち、鳳統の安否だけが確認できていない。

 田疇の狙いはどこにあるのか。馬元義にはほぼ理解できているつもりであった。黄巾の力を爆発的に伸張させるためには戦乱が必要である。公孫賛と和平を結ぼうとする劉備の存在は明らかに邪魔なのだった。その瓦解を目的として田疇が手を打った。狙いは鳳統。彼女の安否は今後の黄巾の行く末にとって重要な要素となるだろう。

「ひ、引き続き、そう……捜索せよ」

 劉備軍より先に見つけ出すことが出来れば、また一つ新たな細工を仕込むことが出来る。鳳統が生きていようが死んでいようが、異民族に傷めつけられ死んだという工夫が可能だ。

 少女の無残な死体を突きつければ、劉備の心は造作無く引き千切れるだろう。雨は一晩と待たずに止んだのだ。下流を探せば死体はどうせすぐに見つかる――だが、間もなく馬元義の思惑は大きく外れることとなる。

 馬元義の命令に黄耳の者たちは応えることが出来なかった。どれほど探しても鳳統の死体は見つからないのだ。そしてそれは劉備軍も同じであった。

 馬元義は考えた。鳳統が生きている可能性は十分にある。だが、生きたままこの場から逃げ出す理由は何一つない。泥に埋もれ見つからないか、あるいは誰かにさらわれたか、それ以外か……だが一体誰が?

 ふと、馬元義の握る拳にじわりと汗が滲んだ。ひょっとして己は今、我らが天道を妨げる最も巨大な敵を目前にしているのではないか、そのような予感が何の前触れもなく彼女に訪れた。

 だがその予感が明確な行動する意志として形作られる前に、馬元義は首を振って考えを追い出した。馬元義には自らに訪れた勘よりも、命令を優先するという行動に染まりきっていた。隠密の者として取るべき行動は、すぐにこの場を離脱して田疇に報告することだった。

 劉備と公孫賛を決裂させる策はまだある。今はそれに注力すべき時だろう、と考えた。

「う、討手は良い。それよりも、りゅ、りゅ、劉備と公孫賛に向けて手勢を、回せ」

「いかがに」

「襲撃した、い、異民族のガキどもを……うまく、つ、つ、使え」

 うなずき、闇に消えていった影を追って馬元義も跳躍した。ただ一度だけ、鳳統が流れていった川の方を見た。あの雨の中、鳳統の他にもう一人の影が見えた気がしたが、豪雨のために判別しなかった。あれが本当に人影だったならば――

 馬元義は幻影を振り切るように、地を蹴った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢と現の狭間を、朦朧となりながら李岳は地を這った。泥濘は李岳の体がどちらの方向に動こうともそれを阻んだ。鼻と口まで塞ごうとし、濁流から生還したというのに陸で溺れるかけるほどであった――その滑稽さが李岳を愉快にさせ、わずかに力を与えた。

「生き……てるか……おいっ!」

「――かはっ……けほっ……」

 背中を叩いてみれば、鳳統は弱々しげに息を吐いた。水は飲んだようだが死にはしないだろう。肩に手を回して何とか担ぎあげると、李岳は一度振り返って自分が飛び込んだ川を見た。小川であったはずが、濁流は木々をもぎ取り岩を転がし、切り立った崖の岩肌を削りとっている。よくぞ生きてたものだな、と李岳は他人事のように思った。まだまだ死ぬ前にやらなければならないことがあるということだ。

 泥濘にもがきながら、李岳は懸命に前へと進んだ。今すぐ倒れこみ、思う様眠りこけてしまいたいほど疲労が全身を包んでいるが、それは許されない。李岳の読みが外れていなければ、この襲撃は田疇が仕組んだものだ。であるのなら、田疇の放った闇の者も潜んでいることは明白である。鳳統は劉備軍の中で決して小さくない地位を占めている。奇襲を仕掛けた以上、この少女の生死の確認のためにどれほどの労力をつぎ込んでも惜しくない。

 より正確に言うのなら、確認すべきは死のみであろう。生きている姿を見られれば、即座に首を獲られる。未だ雨は降り続いている。この場を離れるのは今を置いて他にない。

 喘ぐように、遅々たる歩みで一歩一歩進みゆく李岳――もし馬元義が討手を放っていれば、ここで死んでいたことになっていたかもしれない――しばらくすると、先ほどまでの豪雨は嘘のように去り、カラリと晴れては焼けつくような夕陽が西の山にたれこめた。わずかに悩んだが、手近な木のうろに身を隠すことにした。下手に動きまわるよりも夜を待ったほうがいいだろうと考えた。

 未だ目を覚まさない鳳統を抱きかかえながら、ただひたすらに耳を澄まして時がすぎるのを待った。体にへばりついていた泥が、乾いた端からパラパラと粉になってこぼれていく。

 反撃の時は来るのか……やがて照らし始めた月明かりを浴びながら思った。かたわらで眠る少女、鳳統は穏やかに寝息を立てている。命に別状はないだろう。いま自分はこの少女一人を助けることがせいぜいな存在でしかないと思うと、失望と自信が同時に湧いてきた。人一人の命を助けることが出来た。その価値を噛みしめる他ない。

 しかし考えれば考えるほど敵は無敵だった。

 あの襲撃は些細な規模だったかもしれないが、人智を超えたものだった。天気を操ったとしか言いようのないものだった。天気までを操るという相手にどう勝てというのか。濡れそぼった寒さからではなく、恐怖で李岳は身を震わせた。

 だがしかし、と思い返す。田疇と書が真に天気を操っているはずがない。その実、外すはずのない天気予報にしたがって作戦を企てただけなのだ。あまりに精密な襲撃だったがために、天を操ったと思わせるだけである。

 だからといって何かの気休めになるということはない。相手は天気を読むだけではない。人の心さえも読むのだ。これから先、田疇と対決するのならばおよそ全知全能に等しい敵を相手に戦うことと同義――

「それでも……勝つしかないのなら、勝つさ」

 うっすらと目を開け始めた鳳統を見ながら、李岳はそう呟いた。

「あ、う……か、かはっ……」

「大丈夫ですか」

 よほど堪えたのだろう、二度三度と咳を繰り返して、ようやく鳳統は一息ついたようにため息を吐いた。そして李岳の顔を見た途端、再び喉をつまらせ言葉を失った。

「ご無事ですか、鳳統殿」

「あ、貴方は」

「再び名乗りましょう……李岳と申します。あの時、川に飛び込んだ我々ふたりとも、何とか死なずに済んだようです」

 鳳統は衝撃に目を開き、ふるふると肩を震わせた。あるいは今の今まで『李岳』と名乗ったことを夢だと思いたかったからなのかもしれない。しかし紛うことなき現実なのだ。襲撃を受けたことも、川に飛び込んだことも、目の前の男が李岳だということも。

「……な、なぜ」

「私がここにいるか、ですか? ま、話せば長くなります……」

 本当に長くなる。どこから話し出せばいいのかわからないくらいだ。だがその前にやることもある。お互いに決めなくてはならないこともある。

 李岳は鳳統を押しのけ、木のうろから抜け出すとウンと伸びをした。

「歩きながら話すとしましょう。急ぎ近くの村にいかねば、また天気が崩れかねませんからね」

 先に歩き出そうとした李岳だが、しかし足は進まなかった。鳳統が動く気配もなく立ち尽くしていたからである。

 振り向いた時、鳳統は目に涙をためていた。

「李岳さん、貴方は……嘘が下手ですね」

「鳳統殿……」

「私を……試さなくても大丈夫なのです……ここをすぐに動いてはなりません……私を、探す人がいるからです……見つかれば、私は殺されてしまうから……私を殺すための討手が、こちらに向かってきているかもしれないから」

 これが鳳雛か、と李岳は息を呑んだ。濁流に呑まれ、ようよう意識を取り戻したその直後からこの洞察である。先ほどの襲撃が己の命を狙ったものだということも即座に看破してしまった。

 鳳統は未だ少女である。このような年の乙女が、自らの命を狙うためだけに奇襲が組まれたなどと知って、どうしてこれほど気丈でいられるだろう。

「そうです。貴方は命を狙われた。今、貴方の安否の確認を求めて捜索している者がいることでしょう。だがその者たちの中には、貴方を救うために動いているものばかりではない」

「では……なおさら、元の場所には、戻れないんですね……少なくともしばらくは身を隠さなくてはならない」

 なぜ鳳統は劉備の元に戻ろうとしないのか――考えられる可能性は二つ。一つ目は、奇襲を仕掛けてきた討手に先回りをされている可能性があるから。だが鳳統が道をそれた本当の理由はそれではないだろう。劉備軍が鳳統の捜索に乗り出していれば、保護される可能性の方が高いからだ。

 鳳統が真に警戒している相手は、得体の知れない奇襲部隊ではない。その村にまさに駐留している軍勢――つまり劉備軍である。

 己の命を狙った相手が劉備自身であるという可能性を否定出来ない以上、迂闊に村へは近づけない。あるいは劉備が仕組んだのではないとしても、軍勢の中に裏切り者がいるだけでも十分危険である。内通者が陣営の中にいる限り、死は免れ得ない。

 その可能性を、この短時間の内に喝破したのである。その洞察、才気煥発――

 やはりこの少女しかいない、と李岳は思った。もともと選ぶ余地などないのだ。少女と出会い、たまさか生死を共にした。その奇縁に賭ける以外、李岳に手持ちの札はない。

「鳳統殿、なぜ私がここにいるとお思いですか?」

 激流の中で帽子を失ってしまったため、いつも以上に羞恥にこらえながら鳳統は答えた。

「ひ、非常の策なのだと……思います……その理由はわかりませんが……そうしなければならない状況なのだということはわかります。お身内に裏切り者がいるのか、極秘裏に会わなければいけない誰かがいるのか……ですが、よほどの覚悟を以ってここに来ているということは、わかります。そしてその目的が、私などの命を奪うことではないということもわかります。釣り合いが取れませんから」

 さらに一呼吸を置いて、鳳統は言った。

「暗殺、ですか?」

 李岳は顔色を変えなかったが、鳳統は確信したように俯いた。

「あわわ……顔色を変えられませんでした。そのことに覚悟を感じます。普通の方なら動揺するか、嫌悪を示されるでしょう」

「……参ったな。劉備殿を暗殺するとは思わないのですか」

「思いません。意味がありません。李岳さんは、もっともっと格上の人です。桃香様でも、やはり釣り合いません」

 その場に膝を抱え込みながら鳳統は続けた。

「劉虞さんか、袁紹さん……あるいはその近くにいる誰か。その人を暗殺するために、李岳さんは、洛陽を捨ててここに来た」

 平然と正解を射抜いた少女を前にして、李岳はひたすら襲い来る戦慄に耐え忍んだ。

「鳳統殿」

「あ、は、はい……あの、私……もしや失礼なことを……」

「何も失礼なことはありません。ただ一つだけお願いがあるのです」

「……なんでしょう」

「今から私の話を聞き、それを信じ、私を助けるべきだと考えたら、共に歩いて頂きたい」

「……信じることが出来なかったら」

「責任をもって、安全に劉備殿か、あるいは諸葛亮殿の元へ送り届けます」

 李岳の正直な気持ちだった。本当に劉備か諸葛亮の元へ安全に送り届けるつもりでいた。奇縁はある。だが縁がいつも何かを結実するわけではないということも知っていたからだ。

「話す前に一つ先にお伝えすることが。私と歩く以上、その道は血まみれのものです。多くの者を殺し、見殺しにすることになるでしょう。それでも貴方は私と歩くことが出来るか、決めて頂きたい」

 深くおろした前髪で隠していた目を、鳳統はおそるおそる上げて李岳に向けた。翠玉にも似たその美しい双眸からは、豊かな知の光が溢れ出ていた。李岳はひざまずき、目線を合わせてから語った。自らの責務と、弱さと、そして成すべきことを。

 鳳統の瞳の輝きは、やがて宝珠よりもなお豊かに輝き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――幽州、冀州との国境付近。

 

「一体どうした、何があったって言うんだ……!」

 公孫賛は狼狽を隠しきれなかった。こちらに向かっていた劉備軍が、突如として様子を変貌させたからである。もともと和睦を目的としてそこから南の常山で会う約束だった。劉備も公孫賛もそのために必要な兵力しか伴っていない。

 だが関所から慌てふためきながら報告にやってきた者は、劉備は臨戦態勢を取りながらこちらに進軍してきているという――進軍! 劉備は公孫賛に対し極めて明確な敵対行動をとっているのである。

 状況がわからない。わからないが、良くないことが起こっているということは理解できた。公孫賛は急ぎ具足をまとうと出陣を命じた。中山郡には三千の兵を従えて来たが、北平にとどまったままの程緒に早馬も飛ばした。これが袁紹も関わる全体の戦略にもとづいたものなら、幽州全域に臨戦態勢を整える必要がある。

「白蓮殿」

「星」

 趙雲の表情にも緊張がある。劉備軍の実力は誰よりもわかっている二人である。寡兵であるが極めて精強。ほとんど同数で対峙するのなら熾烈な戦いになる。いや、それよりも恐るべきことがあった。なぜこんなことになったか、というそれ自体だ。何か良からぬことが起きている。誤解か、あるいは陰謀か。どちらにしろ由々しき事態になっているのは疑いようがなかった。

「何か様子が変だが」

 不可思議極まるといった様子で楼班がやってきた。幽州からこちら、半分物見遊山で付いてきただけだったが、このままでは妙なことに巻き込んでしまいかねない。最近交流を増やし、親密さを増したついでに同行を許した。ここに彼女がいることが吉と出るか凶と出るか……

「楼班殿、こちらに向かっている劉備軍に変化があった。詳細はわからないが、ここは一旦引き返してもらいたい」

「……変事か?」

「わからないんだ」

 束の間考え、楼班は答えた。

「火急だというのなら、なおさら随伴を望む。烏桓は貴殿と対等な関係で同盟を結んでいると自負している。困難にあるのなら、それを救うのが友としての務めだろう」

 鋭い耳をピンととがらせ、楼班は誇り高くそういった。確かに楼班が率いている戦車隊は精強であり、ここにも部隊を率いてやってきている。せいぜい五百だが並の兵の三倍は戦うだろう。

 それにもしものことがあった時、第三者として証言できる者がいなければ誤解が生じかねない。そこまで考え、公孫賛は楼班の随伴を認めた。

 そうと決まれば早い。ほとんど騎馬ばかりの公孫賛軍の移動は迅速極まる。付き従う烏桓もまた遅れを取るはずもない。目指すは趙雲が生まれ故郷である常山国、移動は滞ることなく速やかに行われ、数日の後に果たして約束の街に到着することとなった、が――

「何か様子が変だな」

 入城前に異変に気づいたのは趙雲であった。騒乱の気配を敏感に感じ取った昼行灯の戦士は、眼光を輝かせて単騎飛び出した。慌てて公孫賛、楼班が追うが、乗馬を得手として名高い二人をもってしても趙雲の速さは手に余った。

「どうした、何があった!」

「や、野盗が……人質をとって酒家に立てこもりまして」

 声をかけられた土地の者はギョッとして後ずさった。趙雲の出で立ちは衆目が既に見ずとも認める程の勇名である。常山の昇り龍はこの土地では出世の代名詞となっていた。

 趙雲は人だかりをかき分けて進んだ。衛兵が二重三重に取り囲んでいるが手をこまねいているのは見ずともわかった。生まれ育ったとはいえ、ここ常山は冀州の国。ここで落ち合うことを約束していたとはいえ、幽州を治める公孫賛に仕える己が勝手をして良いものではない、と趙雲はよく理解していた。

 

 ――ならばこそ、さっさと片付けてしまうに限る。

 

 衛兵の頭上を白龍に騎乗したまま飛び越え、趙雲はそのまま酒家に飛び込んだ。槍を振りかざし、さて誰から突き殺してやろうと気を発した時、目に飛び込んできたのは全身傷だらけになり、目だけを爛々と輝かせた胡服をまとった少年たちだった。

 

 

 

 

 

 

 まずいことになった。趙雲が保護した少年たちを前にして、公孫賛は必死に頭を働かせた。

 常山の街で騒動となっていたのは、一言で言えば誤解が招いた不幸な間違いであった。着の身着のまま、命からがらで街にやってきた少年十余名が、酒家でなけなしの銭を払い一皿の飯を分けあっていたところ、無礼な酔客が侮辱を投げたのである。少年たちは憤り、酔客を殴って辱めを雪いだ。だが愚かな酔っぱらいは、少年たちが漢民族でないことを以って衛兵に虚偽を述べ、立てこもりだと吹聴し、大騒ぎとして自らの屈辱を晴らそうとしたのである。

 趙雲が飛び込んだ後に公孫賛が後を追い、身分を明かして場を収めた。話を聞いた後、店の者が正直に証言したことによって、騒ぎは収束を見せた。だが、本当の騒動の火種はまさにここから芽吹こうとしていたのである。

「我々は、父母の仇である黄巾の者どもに一矢を報いようと、先般襲撃を企て、これを成して逃げ延びているのです」

 そう告白した少年たちは、自らが成した仕業を堂々と述べた。公孫賛は歯を食いしばり、怒りを噛み殺さねばこの少年たちを斬り殺してしまいたい衝動を抑えきれなかっただろう。

 この者達の告白は、劉備軍を襲撃したことを指しているのである。

「貴様ら、自分たちが何を行ったかわかっているのか!」

 公孫賛の怒りは、それでも抑えようがなかった。友を傷つけようとした者たちに、心からの怒りが湧いていた。

「我々は……ただ父母の仇を討たんとしたまでです」

「桃香は、劉玄徳は貴様らの仇ではない!」

「しかし、やつは黄巾の者の一派です! 奴ら黄巾の者どもは、確かに我らの村を襲い、焼き尽くしたのです!」

「貴様……!」

 激怒のあまり涙を浮かべた公孫賛を制したのは、楼班であった。

「公孫賛殿、貴殿の怒りはわかるが、この者達に道理がないわけではない。彼らにとって報復は当然の権利だ」

「そんなことを言ってる場合じゃないんだよ」

「じゃあどういう場合だ!」

 楼班の怒声は凄まじく、公孫賛の怒りを吹き消してしまうほどだった。

「公孫賛殿、彼らの行いは、私が貴殿の前で行った張純との果たし合いと何ら違わぬものだ。確かに劉備殿は虐殺には関与していないだろう。しかし劉備殿が属する勢力が行ったことには違いがないのだ。彼らを引き渡すことはこの楼班の目が黒いうちは絶対に許さない。彼らは烏桓の庇護下に置く。これは我らが烏桓山におわす父、単于の名代としての言葉である」

 公孫賛は心の底から狼狽した。烏桓全体の政治的な立場という、より大きな問題として事態が拡大し始めている。

「待て、待て! 落ち着いてくれ! 桃香は既に官位を受けている。それが例え偽帝劉虞が発したものだとしても、その地を治めるものからすれば法の裁きを受けずして解決を見逃すことなどない!」

「法の裁きだと? だとすれば! この者たちの村を襲った者は一体誰が裁くのだ! 誰が報いを与えるのだ! 偽帝劉虞が立ったが、誰かその罪を贖わせたものがいるのか? 偽帝が、蛮夷の村を焼いたという自らの部下に、責めを負わせるとでもいうのか!?」

 楼班の言葉の合間には、異民族の少年たちのすすり泣く声がガランとした酒家で響く。

「漢の民の多くは、我らを見下し、劣った者だとして侮り蔑む! 我々の村を襲い、殺し、奪う! だがそれ自体を卑劣だとは言うまい。我々や他の民族とて、時に漢を襲い奪うこともあるからだ。だからこそ、復讐の権利は平等なのだ! この者たちの戦いには十分に理がある。故に、この者達だけを一方的に裁くことは漢の法にのみひれ伏させることは許されない……そして忘れるな! 劉虞が、私の母の仇であることは、未だ変わらぬ事実であるということを!」

 公孫賛は言葉に詰まった。どうとでも言うことは出来る。だが小手先の理屈を楼班は決して受け入れないだろう。長きに渡る両民族の戦いがもたらした深い溝が、まるで見える気がした。そしてどちらが悪いわけでも、正しいわけでもない。ただ悲しいだけだった。

 しかし公孫賛は決めなくてはならない。彼女には今やはっきりとわかった。劉備が突如動きを変え、こちらに敵対的な動きを見せている理由が。それは今目の前で座り込んでいる少年たちの襲撃によるものなのだ。襲撃を受け、損害が発生し、そして警戒している。もしかするととんでもない悲劇があったのかもしれない。

 ここでこの少年たちを助ければ、劉備とは敵対することになるかもしれない。だが少年たちを、仮に劉備が引き渡しを要求した時に肯んじれば、烏桓と決定的な対立を発生させることにもなるだろう。

 劉備とは戦いたくない。だが烏桓を抜きにして冀州と向き合うことは出来ない。はっきり言って劉虞と黄巾が不倶戴天の敵であることは、楼班と公孫賛で意見の一致をみている。公孫賛は今回の劉備との会談で、当初、劉虞に反する理由を改めて説明し、仲間に引き入れるつもりでさえあったのだ。

 だがその全てが瓦解し始めている。劉備がこの少年たちを庇護下に置くという烏桓と、手を組むことなどあるのだろうか。

「ご報告申し上げます、劉備軍が一里先に現れました。こちらに向かってきています。会談を申し込んでおります」

 全てが最悪の事態になりつつあることを、公孫賛はじわりと理解した。抗いがたいまでの巨大な動きに気づかぬうちに放り込まれていることに。公孫賛は圧倒的な濁流の中で身動ぎさえ出来ず、もがき苦しんでいるかのような窒息を覚えた……




人生で最もつらい数ヶ月だったかもしれません。色々ありました……災難とは実在するものなのですね。
気を取り直してガンバリング。

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