真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百一話 落鳳坡の衝撃

 晩夏初秋の快晴の中、劉備を先頭に三千の兵団が進む。副将に関羽、張飛、参謀に鳳統。歩兵、騎馬、弩兵の構成は兵法の妙を体現していた。仮に倍する敵が現れようとも圧倒できるだろう。一団は出発した後、鉅鹿から幽州方面を目指していた。各地の慰撫も考慮に入れての余裕を持った日程である。既に冀州では知らぬ者なしの劉備はどこに行っても歓待を受けた。

 参謀としての任を与った鳳士元は、油断することなく進行と地形に気を揉んだ。劉備も関羽も張り切りすぎだと鳳統を慰めたが、諸葛亮がいないからこそ自分がしっかりしなくては、という意気込みであった。

 それに鳳統の念の入れようは決して無闇なものではなかった。劉備の地位は決して安泰ではないのである。

 冀州の政治状況はより合わせた麻の紐よりもなお複雑だった。何代にも渡って冀州に根を下ろしている豪族、新たに冀州支配を実効支配する袁紹、幽州から庇護を求めてきて帝位に就いた劉虞、張角を頂点に各地から参入してきた黄巾の者たち。

 それらの意図は完全に合致しているわけではない。おおよその合意を得つつも、細部では意が異なっている。

 最大の相違点は武力による支配を公然と主張する右派の存在である。どの勢力にも一定で存在する派閥だが、最も勢い良く主張を繰り返すのは袁紹配下であった。頭領である袁紹に対し、事あるごとに派兵を訴えかけているのだ。

 その者たちにとって、最も大きな障壁が劉備というわけだった。

 反董卓連合軍以降、袁紹が穏健路線を歩んでいるのはひとえに劉備の働きかけに依る。今や袁紹は北方四州の平定にさほど興味を持たなくなっており、外交努力による地域の安定に意欲を示しさえした。

 手段としての戦争を放棄すること……龍鳳の二人が、劉備の理想を叶えるための方策が、まさに和睦による北方四州の安定であった。

 民による民のための政治……田疇という男が説いた新世界の施策も、全ては戦なき世から始まる。黄巾の旗が漢からの独立を宣言するのだとしても、この大陸が二国、三国と分かたれるにしても、選ぶのは民である。平和と平等の名の下に、この冀州がどこよりも繁栄するのならば、それこそが正しさの何よりの証拠であろう。

 

 ――その第一歩の試金石となるのが、公孫賛との和平に他ならない。

 

 公孫賛にももちろん使者は送っている。出迎えのために中山郡にまで出向いてきているとのことだった。

 全ては鳳雛の考えた予定の通りであった……ただひとつを除けば。

「ほらほら、考え事をしてる場合ですか」

「あわわわわわ……!」

「背筋を真っ直ぐ伸ばして」

「あ、わわ! む、むりですぅ……!」

「手綱をしっかり握って。落っこちちゃいますよ」

「わぁぁぁぁん……!」

 たてがみにしがみついて落馬を必死にこらえるだけの鳳統を、輜重隊の隊員は皆微笑ましく見守った。鳳統だけが必死である。こんなに汗をかいて大きな声を出して目を回すのは人生初めてかもしれない。

 

 ――徐原と名乗った少年が劉備軍に加わった。鳳統を悪漢から救った少年である。

 

 もとより劉備軍に加わるために兗州から来たのだという。聞けば周倉の父に一宿一飯、さらに馬を譲ってもらった恩義があり、それに報いるためにも加わりたいとのことだった。

 周倉は関羽が率いる隊の副隊長で鳳統も面識があった。髭面の獰猛な戦士である。鳳統は彼が苦手である。おそるおそる確認したが徐原の話はどうやら嘘ではないらしく、連れていた馬にも見覚えがあるとのこと。豪壮な武人らしく、周倉は呵々大笑したのちに希望通り輜重隊に組み入れたらどうかと鳳統に言った。鳳統もそれを受け入れた。

 乗馬が達者ということはそれだけで特技である。小雲雀という名の馬を連れ立っての従軍も認められ、気立てもよく働き者ということですぐに隊に受け入れられた。

 そしてどこで話がねじ曲がったのか、鳳統が徐原より乗馬を教わることになったのである。

「いやいや、大変お上手になりましたよ。もう振りほどかれなくなった」

「ううう……は、はい……」

 最初の頃はよく転げ落ちて徐原に受け止められていたものだった。それが恥ずかしくて、真っ赤になった顔を見られるのが嫌で、手綱とたて髪に必死にしがみつくようになったのが上達の第一歩だったに違いない。

 だがその教育の甲斐もあってか、気づいた頃には劉備と関羽が驚くほどに鳳統は達者に馬を乗りこなすようになっていた……未だ小雲雀限定ではあるが。

 小雲雀も鳳統を気に入ったようで、徐原を乗せる方が嫌な顔をするようになってきたくらいである。ただ平坦な道を進むだけならば、ポクポクと造作なく進めるようになった。

 徐原は不思議な少年だった。農村の出だというが、落ち着きがあり、礼もわきまえており、鳳統を無為にからかうこともなかった。欲もなく、人足でこき使われることを厭いもしない。

 また道中ではよく理想と志について語った。口下手な鳳統は、自分がどれだけ伝えることができたか不安ではあったが、徐原は真摯に耳を傾けてくれた。

 諸葛亮と二人で、少女のいけない遊びとして、男女の営みについてふざけながらも想像をたくましくしていた日々が急に思い起こされ、徐原の顔をまともに見ることさえ出来ない時もあった。年がそう離れていない男の子とこれほど親密になるのは生涯初めてなのであった。

「しかし鳳雛先生、しっかり食べてますか。体が軽いにも程がありますよ」

「あ、あわ……た、食べてます……」

「物資から少しくすねましょうか?」

「あ、あわわわ! そ、それは、ぐ、軍規違反です!」

「承知してます、冗談ですよ」

「む、むぅ……」

 そうしてからかわれることもしばしである。

 行軍中、輜重隊から離れていても鳳統は徐原の姿を目で追っていた。体が大きくもない徐原はすぐに人波に隠れるが、自身が従える諜報の者に徐原の一挙手一投足を見守らせ、常に報告するように厳命していた。

 

 ――鳳統は、徐原という少年が他勢力から派遣された間者だという可能性を捨ててはいなかった。

 

 劉備陣営の中で鳳統が常日頃から担うのは、軍略から謀略までの血生臭い分野である。軍略より上位にある政略は諸葛亮が担当している。つまり表の顔は諸葛亮、裏の顔が鳳統なのだった。抱え込んでいる諜報の者も三十を超える。人を疑い、人を騙すことを生業にしていると言っても良い。

 その鳳統からして徐原という少年は疑うなという方が無理だった。自らの不明が招いたとはいえ、突如現れた不埒な輩を颯爽と現れ一刀の元に叩き伏せ、さらに軍に混ぜて助力してくれるなど、そんな出来た話があるだろうか?

 鳳統に魅せつけた体術と剣の腕も、決して市井の者ではない。徐原の経歴、全てが疑わしい。

 同時に、相反する考えではあるが、鳳統は自らの持つ疑いが晴れることも祈っていた。自分を利用するために誰かが近づいてきたなどと、信じたくない。権謀術数に身をやつしているとはいえ、人を信じる良心を手放してもいない。

 徐原の身の潔白が明らかになり、共に進む仲間となってくれたらどれだけ嬉しいだろう、と鳳統は素朴に考えていた。そう思わせるだけの不思議な雰囲気が、目の前の少年にはあったのである。

 だから自らの目で見定めようと、許す限り彼の隣にいた。なぜか劉備や関羽に言うのははばかられ、鳳統は手が空けば黙って輜重隊の中で行軍した。もちろん周囲の警戒を怠ることはなかった。事実、何の憂いもなく部隊は臨水から古都・邯鄲を経て、幽州への道を万事滞りなく進んでいた……その日までは。

 

 

 

 

 

 

 

 幽州までの道程も半ばを過ぎた。

 徐原……李岳はテキパキと仕事をこなしながらも、胸が燻されるような焦燥にとらわれていた。

 本当に劉備が狙われているのか、自信が持てなくなってきたのである。襲撃に適したような地形は今までいくらもあったが気配もない。それに李岳の助言がなくとも鳳統は十分に劉備への襲撃を警戒していた。まるで李岳の存在など無用の長物かのようだった。

 やはり残って田疇を狙ったほうが良かったのではないか。洛陽の状況はどうか。長安の工作は上手くいってるのか。孫権と袁術の情勢はどうなっているのか……

 自分の想定を上回る状況などいくらでも考えられる。それでも自分は賭けた、と李岳は何度も自分に言い含めた。しかしこの賭けは、結果が出るまであまりに時間がかかりすぎる。そして取り上げられた掛け金はもう二度と取り戻すことができない……

 公孫賛に会えば一度身分をさらすのもありか、と考えた。それも一つの手だろう。田疇の思惑を北から崩す方策も浮かぶかもしれない。

 李岳がそう考えた時、彼のうなじを濡らす一滴のしずくが降ってきた。やがてそれは辺り一面を濡らす雨となり、そしてとうとう視界さえ遮るほどとなり、やむ気配も見せずに豪雨とあいなったのである。

 

 ――流石に鳳雛、対応にそつはなかった。

 

「道を変えましょう」

 激しい雨天を理由に緊急の会議を開くと、らしくなく率直な鳳統の発言に、劉備はえええ……と不満げであった。

「だったら白蓮ちゃんとの合流が遅くなっちゃうんじゃないかな……」

「はい……でもこのまま進むのは……雨の中、山道の進軍は危険なのです。兵法でも、もっとも避けるべしと教えられています」

「ちょっと遠回りするくらいなら別に良いんじゃないかと思うのだ」

 天幕の中、あむ、と饅頭を頬張りながら張飛が言う。関羽は続けた。

「しかしあまりに時間をかけるのもよくはなかろう。襲撃の危険があるのなら、それこそ相手に猶予を持たせることになるのではないか? だいたい、伏兵の危険というのも確証がない。そうではないか雛里」

「はい」

 なので、と鳳統は即席の地図に三本の線を書いた。

「上中下の三つの策をお示しいたします……上はこのまま道を変えず最短距離を進むこと。中はこの先の村に雨が止むまで駐留すること。下は迂回路を選択すること」

 鳳統の提案に関羽はうむと唸り、それを真似して張飛もうむと唸り、唸らねばならないのかと劉備もまたうむと唸った。

「ここは桃香様に選んで頂く他ないが、いかがでしょう」

「選ぶのだ!」

「えっ、私? う、うーん……そうだね、ええと、ちょっとだけ疲れちゃったから村で休んだ方がいいかなぁ? なんて……」

 やっぱりダメだよね? と上目遣いで伺いかけた劉備に、鳳統はこくりと頷いた。

「ではそのように手はずを……村への経路はこの先を左です。川沿いに進めば着きます。まずは斥候を飛ばし、村にお知らせいたします。兵たちにも冀州と幽州にも知らせを届けます」

「兵に支度をさせよう」

「休めると聞けばみんな頑張れるのだ!」

 さてさて、と動き始めた面々に置いていかれ、劉備はぽつんと残された。

「あんな感じで良かったんだ……」

 しばらくじっとした後、てへへ、と頭をかく。何はさておき進発の準備をせねば。村につけば久しぶりにお風呂に入れるかもしれない。体力に秀でているわけでもない劉備にとって、馬上で何日も過ごすのは決して楽なことではなかったのである。

 そうして劉備軍は進路を変えた。村までは二刻の距離である。今日の雨量がまだ緩やかであるうちに辿り着けると思った。

 進路を変えて束の間、予想を超えて空はさらにかき曇り、視界は遮られ、とうとう落雷が襲ってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 幽州との境には元来多くの異民族が住んでいた。匈奴や烏桓に限らず、その数は無数である。

 彼らもまた漢民族に劣らず多くの困難を乗り越えて生きていた。いや、漢民族から蔑視を受けることが多い分、生き辛さもあったろう。それが如実に表れたのが盗賊による略奪であった。

 張角、張宝、張梁に心酔し、田疇の庇護の元で暮らしてきた黄巾以外にも、動乱に便乗するという形で黄巾をまとって大義名分を背負おうとする者もいた。概して彼らは不義を為し、略奪に躊躇いを覚えなかった。不逞の輩は同族でさえ襲うのである、いわんや異民族を襲わない道理があるだろうか。

 小さな田畑を耕し、馬と豚を飼い、野の獣を狩って暮らす慎ましやかな部族があった。彼らは殊更に他の部族と競うこともなく、しきたりはよく守り温和で知られた。

 黄巾をまとっただけの不埒な者からすれば、これは格好の獲物だったのである。

 夜間の襲撃は酸鼻を極めた。家は焼かれ、男は殺された。女は辱められ、殺されるかあるいは売られた。子どもは恨みを恐れ、皆崖から突き落とされた。

 惨事から三日後、街に荷を下ろしに出ていただけの何も知らぬ村の青年たちが戻った頃には、もはや全ては終わっていた。惨殺された家族の亡き骸にすがりつきながら、少年は村に残された黄色いひたひれを血が滲むまで握りしめていた。

 少年をはじめ、生き延びた者たちは徒党を組み、自分たちの全てを奪ったケダモノ達への復讐を誓って、部族の別なく集った。同様の境遇の者は少なくなく、すぐに百を超える者たちが集まった。

 しかし方策はない。ただ寄せ集めの武器だけをありったけ身にまとい、伝手を頼ってその日の糊口をしのぐばかり。復讐など夢のまた夢、敵の行く手もわからず飢えと渇きに頭を悩ませるだけの虚しい日々だけが続いた。所詮勢力とも言えぬ徒党である。恨みを忘れるか、野垂れ死ぬかの二つしか彼らの道はなかった。とうとう行く宛を失い、もはや烏桓に頼る他ないと道を選んだ。彼らはこのまま恨みを忘れて生きていくはずだった……本来は。

「おい、あれを見ろ……」

 見つけたのは誰であったか、指をさして呟いた先には、林と雨の向こうに進みゆく人の群れが見えた。豪雨の合間の稲光が軍団の旗印を見せつける。そして見紛うはずもない――冀州兵の旗が揺れている。冀州は黄巾をおおやけに受け入れた州である。憎しみの象徴となっていた。

「黄巾……」

「黄巾の者ども……!」

 不思議と、行軍は彼らが潜んでいた洞穴からよく見えた。先頭の将の元には流石に兵も多く、百ではどうしようもない。だが後に続く輜重隊は違った。

 守兵はいるが、不意打ちすればどうにでも出来そうな気がした。いつもならただのせせらぎが、長らくの雨で轟々と音を立てており、雨音と合わさり足音を消す。恨みと空腹が彼らを獰猛な戦士に一変させた。黄巾に誘われる幽鬼のように、彼らは武器を執り進んだ。荷を襲えば飯にありつける。

 

 ――その若者たちを見守る視線もあった。田疇が子飼いの黄耳と呼ばれる工作部隊である。それを率いるは壮年の女性、馬元義。田疇の腹心中の腹心であった。

 

 李岳が阻止した張純の乱から後も、彼らは漢民族と異民族の間における火種に息吹を送り続けてきた。その火種は、憎しみを糧にどす黒い蕾を身につけ、いま大輪の花を咲かせようとしていた。実をもぐのは田疇である。

 田疇の指示は時に意味不明なものが少なくない。今度も漠然と「劉備軍に付き従いその結果を確認せよ」というだけである。誰がいつどこで何が行われるなどの具体性はない。だが同時に、田疇の指示が誤ることもなかった。

 田疇は云う。指示は全て張角からのものである。天の言葉を受け取り、黄巾を導く乙女の声を疑うな、と。歌い踊る姿は張角の全てではないのだと。

 馬元義はじめ、黄巾の者たちにはその話が既に疑わざる伝説として伝わっていた。事実、今もまた、不意の天候不順のために進路を変えた劉備軍を、狙いすましたかのように異民族が待ち受けていたかのような格好になっている。

 天意は黄巾とともにあり!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――奇襲など生まれて初めて、人を襲うことさえしたことのない寄せ集めが、軍を襲うことなど出来はしない。だが考えうる限り全ての条件が彼らに味方した。

 雨は強さを増し、風は追い風で矢を鋭くする。稲妻が敵の姿をあらわにし、雷鳴が全ての音を隠した。

 接近はたやすく、稚拙な襲撃は簡単に成功した。

 彼らは思う様、矢を放った。

 矢は降り注いだ。襲われた劉備軍の対応は、雨のために緩慢であった。悲鳴もかき消され、視界は塞ぎ先を往く本体は気づかない。矢は降り注いだ。大して狙ってもいないのに、矢はよく当たった。

 そして矢はやがて、馬上で指揮官のように振舞っていた人影目指して降り注ぎ始めたのである。

 

 

 

 

「小雲雀!」

 李岳は絶叫すると、馬の尻を叩いた。唖然とし、体を硬くしていた鳳統が手綱を手放して落馬する。その小さな体を受け止め、李岳は荷車の陰に滑り込んだ。そうしていなければ、矢は鳳統の体に突き立っていただろう。

 敵襲であった。突然雨が豪雨に変わったと思ったら矢が降ってきた。敵はこの雨を読んでいたというのか? いや、これこそ太平要術の書の先読みに他ならない。やはり田疇は暗殺を仕組んでいた、それも劉備ではなく鳳統の、である。

「じょ、徐原さん……!」

「しっ!」

 雷鳴の最中に悲鳴が響いているが、部隊先頭まで聞こえることはないだろう。包囲されてるのは間違いない。それに足元は既に泥濘である。走って逃げることは難しい。

 予感も気配もなく、天候まで操ったかのように襲撃が始まった。これが太平要術の書の力か、と李岳は内心呟いた。予感が的中した喜びなど無論ない。李岳の目からも十分に奇襲を警戒していた進軍である。それに対し突然の雨、さらには予定のない進路変更を読んでいたかのような配備、斥候も見つけられない隠密。鳳雛の万全の構えさえ嘲笑うように、一転死地だった。

「鳳統殿、このままでは死にます」

「あ、あ……」

 そんなことは言われなくてもわかっているだろう。聡さは時に慰めさえ全て喝破してしまう無情さの表裏である。

「桃香さまが」

「今はご自分の身だけを考えてください」

 矢が収まった。豪雨は続いており、時折劉備兵の悲鳴だけが続く。襲撃者は抜刀し、こちらに向かっているということだ。剣で一人ずつ始末をつけている。射手も弓を緩めてないだろう。ここまで来るのに間はない。そして見つかれば命はない。彼らの選択は皆殺しにして物資を奪うこと以外にない。

「鳳統殿、この俺を信じますか」

「あ、あ」

 理知が死を確信させているのだろう。涙を流し恐怖に震える少女の頬を優しく撫で、視線を合わせて男は微笑んだ。

「私の本当の名は李岳。そう、反董卓連合を打ち破った李岳です。様々な理由があって今ここにいますが、それはまた今度。死ぬような思いはこれまで何度もしてきましたが、今回は過去最悪です。よほど天に嫌われているようだ。だったらなおのこと、まだまだこの李岳は苦しみにまみれた人生を送るに違いない。きっとまだまだ……鳳士元殿、貴方はこの李岳の悪運に賭けますか」

 これは夢か幻か、鳳統は目の前の少年が何を言ってるのか検討がつかなかった。李岳? 一体何を。しかし兎にも角にも死ぬのは怖かった。まだやれることがあるはずだった。孔明の顔が、仲間みんなの顔が浮かんだ。

 気付いた時、鳳統は頷いていた。

「よし、決して離れてはいけませんよ」

 李岳と名乗った少年は、上着を脱ぐと鳳統に正面から抱きつけと言った。初めて見る男の裸だったが、死の淵では何の感慨もなくただ言われることに従った。李岳は肌着を引き裂いてそれで鳳統との体を密着するようにきつく縛った。そして上着を掴む。

「……行くぞ!」

 李岳は上着を放り投げると、逆の方向に向かって飛び出した。濡れた上着は枝にひっかかりバタバタと翻った。次の瞬間には幾本もの矢が上着めがけて殺到した。

 一拍を置いたのち、鳳統を抱えて逃げる李岳に矢が注いだ。ぬかるみに足を取られ、よろけながら進むのが功を奏し、矢は狙いを捉えきれない。鳳統はただしがみつき、風切り音に震えるのみ。

 追い立てられた李岳は、やがて崖下の川に面した。逡巡はなかった。李岳は鳳統の頭をしっかり抱えると、自分の背中から激流に身を投げた。増水し、勢いを増した流れは、李岳と鳳統の体をすぐに飲み込み、下流へと押し流していった。

 

 

 

 

 

 

 無残に殺された兵たちの骸の前で、劉備は悄然とうなだれていた。まるで信じられない。なぜこんなことが起こるのか、全く理解が出来ない。なぜ自分たちが襲われるのか?

 なぜこの人たちが殺されなくてはならないのか? なぜ、鳳統が難に遭わなくてはならないのか!

「桃香さま」

 泥だらけで戻ってきた関羽に、劉備はしがみつくように問いただした。

「愛紗ちゃん! 雛里ちゃんは、雛里ちゃんは見つかった!?」

「いえ、川から落ちたとの話でしたが、流れが早く、見つかりません……」

 鳳統が見つからない。この場に亡骸がないことは救いだが、しかしだとしたら残された可能性は荷と共に攫われたか、あるいは崖下の激流に飲まれたか……

 そのどちらにしても、生存の可能性が極めて低いことは明白であった。

「どうして、こんなことに……!」

 絶望が劉備の心を暗く塗りたくる。その力強さは抗いなど許さないほど。劉備は泥沼の地面に膝をついたまま、頭をかきむしった。

「愛紗! 逃げたやつをひっ捕えたのだ!」

 張飛が駆け戻ってきた。その頬には返り血がある。抵抗されたのだろうが、それでも一人は生け捕りにしたことは大きい。

「大半は逃したのだ。でもこいつは捕まえたのだ」

「雛里ちゃんはどこ!?」

 すがりつくような劉備に、男は嘲笑うように首をかしげた。

「知らんね。俺たちは、さらってなんかない。殺して、荷を奪っただけだ。あんた達と同じにな! どんな気分だ、奪われる気持ちは!」

「何があったかは知りません……けど、私たちは関係ない!」

「俺たちの村が漢民族に襲われた時も、そう思ったさ!」

「そんな、そんな……憎しみに、憎しみで返すことが……」

「だったら今まさに、貴様が憎しみを忘れる番だな!」

「――黙れ」

 関羽がその首を掴み持ち上げ、腹に一撃を加えるまで、男は絶叫をやめなかった。

 だが男の一言は、劉備の心を思う様うちのめしていた。まさか、自分の甘さが鳳統遭難のきっかけになったのでは、と。

 襲撃した一味は北に逃れたという。関羽が調べた結果、烏桓族の野営地に向かって逃げたとのことだった。

 劉備は泥だらけの手で、涙を拭って捜索の続行と、使者の手配を命じた。諸葛亮宛と、護烏桓校尉・公孫賛の元にであった。

 


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