呂布は李岳の家から歩いて一刻のところに住んでいた。より一層山奥で森も深く、人が立ち入ることのないようなところだが、周りには動物たちもたくさんおり居心地は良いくらいだった。木で組み上げ皮を貼り合わせた住まいは岳に作ってもらったものだったが、元々夜露を凌ぐことさえ出来れば構わないと思っている呂布は上等に過ぎると始めは戸惑った。
李岳の近くに住まなかったのは彼らが動物を獲り肉を食うからだった。友達と呼べるほどの生き物たちは李岳の家のそばには近づかず、血の匂いを嫌った。呂布も干し肉などをもらえれば食べる。だが自ら狩りをする気にどうしてもなれず、動物たちに木の実の在り処を聞いてそれを食べたり、川の魚を獲っては食べた。あとは山羊の乳などを好んだ。だが常に腹を空かしていたので、よく岳に穀を引いて蒸したものなどを分けてもらった。
呂布は食欲旺盛健啖極まり、岳の持ってきた食べ物をぺろりといつも平らげてしまったが、特に時折岳の作る独特な香りの黄色い鍋が気に入っていた。三日三晩毎食その鍋でも良いと思えるほどであったが、普段でさえ乏しい食料を李家から分けてもらっているので、生まれて始めて呂布は遠慮という感情にとらわれてあまりねだることが出来なかった。
幸い山の幸、川の幸が豊かで、友人とした動物たちは思い思いに食料を求め、食べ、暮らすことができていた。自然の掟は厳しく、時に食べられてしまう友達もいたが――呂布は叶う限り友を守り、友を襲おうとした動物とも友になろうと努めていた。矛盾する行いであることはぼんやりとはいえ理解していたが、呂布にはそうする他なく、李岳から分けてもらった自分のための食料まで与えてしまうこともしばしばだった。
岳の家に居る山羊の点を恋は大層気に入っていた。おとなしく気を遣う質だがおしゃべりで、李岳や彼の父の李弁の話をよく聞かせてくれた。点はまだ自分が乳を出せないことを悔しく思っており、早くそうなるよう毎日悩んでは恋に方策を尋ねるも、恋もまたそれを知りたいと思っていると返しては一人と一匹でよく悩んだ。
ある時から岳は旅へと出た。恋と二人で掘った塩を売りに行くのだと言って、多くの馬たちと一緒に東へ向かった。恋は馬たちと旅に出ることを羨ましく思い、自分も一緒に連れていけと言ったがあえなく袖にされた。
――何が起こるかわからないから。
と申し開きをしていたが、とにかく呂布は不愉快になった。なので呂布は岳がいない間に目一杯、点と遊ぼうと毎日李岳の家へと通った。李岳が戻れどそっぽを向いて自分との仲の良さを見せつけてやろうという魂胆だった。計画は順調である。
李岳には弁という父がおり、ほとんど話しもしなかったが呂布は彼が嫌いではなかった。呂布はすぐに腹が減る。たくさん食べたいと思っても李岳がいないので耐えていたのだが、弁が見兼ねたように酪(作者注:ヨーグルトに類する飲み物)を分けてくれたので、呂布は弁が良い人だと思った。
呂布ははじめ弁と岳があまり似ていないと思ったが、ふとした拍子に同じ仕草を見せることがあり、それを見つける度に妙に面映い気分になった。頷く様子に食事の仕草、顔立ちは特に鼻が似ている。弁は寡黙で岳はおしゃべりだったが、呂布には些細な違いにしか思えなかった。弁と話す日々が続いた。話すと言っても口やかましく言葉を交わすことではなく、わずかな仕草や表情の移り変わり、いやただ同じ時を過ごすだけで何を考えているのかはお互いに大抵わかった。そういうところも岳とそっくりであった。
一方弁も呂布のことを気に入った。一目で生半ではない武術の腕前を有していると見ぬいたが、同時に心優しい性根をしているとも思った。呂布の周りにはいつも動物たちがおり、逃げない。動物を友とし、同情のため狩りも満足に出来ずいつも腹を空かせていたが、優しさという美徳の前においては些細な欠点など霞んで見えない。点もよく懐いている。岳の嫁になればよい、と弁は思ったが口に出すことはなかった。真名を桂という女との間に岳をもうけたが、結局添い遂げることもなく別々に暮らしている己に何を言う資格もないと思ったからだった。
岳が旅に出て十日も経った頃か、ある日珍しく弁は酒を飲んでいた。呂布はこの頃毎日そうしていたように夕飯を共にしていたが、弁に献を差し出されそのまま酌を共にした。その晩、弁は饒舌であった。弁は鍛冶師である。鉄を熱し打ち鍛える技の妙を呂布に語って聞かせたが、彼女にはよくわからなかったのが本当のところだ。呂布は一向に酔わなかったが、弁は四杯五杯のあたりですっかり酔ってしまいふとした拍子で倒れこんでしまった。
呂布は驚き体を支えようとしたが、そのとき初めて弁の異変に気づいた。呂布は思わず声に出して言った。
「……目が」
弁は首を振って、恥ずかしくてたまらないという風に苦笑いを浮かべた。
目がぼやけると感じたのはいつからか、すでに三年は経ったように思える。いつでも全く盲いてしまうというわけではなく、見えにくいというだけで済むのがほとんどであったが、目の白濁は進みゆく一方で時に全く闇に包まれてしまうことがある。弁の異変は岳にすぐに気づかれてしまい、気づいたその日から彼が家事の一切を担うようになった。狩り、獲物の絞めからなる食料の調達、生活における細々としたもの……弁の打ち鍛えた武器も全て岳が運んでは一つずつ売って暮らしの足しにした。今回の旅の前にも十分な程の食料をわかりやすい場所に置いていくという用意周到ぶりだった。弁は一時も傍らから離さない馴染みの杖を手にして外に出た。
弁にできることは武器を打ち鍛えることだけだった。家の裏の竈に火をくべ、その熱を手のひらで持って測る。鉄の熱さも柔らかさも目が見えずとも問題などなかった。鎚で叩いた感触により仕上がりも重々理解できた。
そのような弁の状態をわかった呂布は岳に怒った。放っておいて旅に出るなどどういうことかと内心に怒りを覚えたが、それを先回りするように弁は答えた。
「私のためだ」
李岳はいつでも町に行こうと弁に言っていた。弁には岳の考えがわからないことがよくあったが、その言葉の裏に自分への配慮があることは容易く理解できた。冬は手がかじかみ、雪がつもれば身動きさえ取ることができかねなくなる。長城の北は生きるには過酷だ。目を病んでからは一層岳は頑なに、町へ行こう、町で住もうと言ったが、弁は常に首を振り続けた。
この度李岳が旅に出た理由も弁は聞き伝えられていたし、岳の目的というのもわかっていた。戦乱を避けること、人の多い町で生き何不自由ない暮らしを送ること――弁はそれをありがたいと思ったが、同時に自分がこの地を移り住む気がただの一つもなく、それを岳に十分に伝えられないままでいることを心苦しく思っていた。そして親孝行に気を使わせてばかりの己のことを不甲斐ないとも感じていた。
――普段李岳にすら言わない自らの気持ちを、酒精のせいにして弁は訥々と語った。
弁の父は尚と言い、やはりこの地に住んでいた。尚は自らが漢人であることを強く認識し、匈奴から離れ中原へ戻ろうと常々企てていた。それは悪しきことでも裏切りでもないのだが、時に匈奴と漢とでいくつもの小競り合いが頻発していた時期であることが災いした。尚は漢の町に入ることすら叶わず、匈奴の者からも阻害され、失意のうちに死んだ。母もその後、後を追うように天に召された。
それからというもの自らの出自を意識しない日はない。だが弁には名を馳せた英雄、飛将軍李広よりも、李陵という人が常に脳裏にあった。戦に敗れ囚われて、匈奴か漢人であるかを悩み続け、そして住む地に根付くことを選んだ男――弁には彼の気持ちが痛いほどわかった。
――漢人でも匈奴でもない。どちらでもないこと。それが弁にとっての誰かであることとなった。だが、果たしてその生き様を岳にも押し付けてよいのだろうか、と。岳と己は全く違う人間と言えた、親子は似て非なるものだ、己が李陵であるのなら、あるいは岳は李広の先祖帰りではないだろうか――
呂布は決して饒舌ではない弁の語りに、黙って耳を傾けていた。人の話を聞くことは嫌いではない。弁は普段何も言わない。その人がこうして気持ちを言う。呂布にはわからないことも多くあったが、何度も頷いてはしきりに続きを急かし、弁もその相槌が心地よくついつい話を弾ませた。
どれほど話したか、かめの酒もおおよそ干してしまった頃、弁は呂布を外に誘った。春を迎え夜でも冷え切ることはなくなったが、二人の息は宙で白く濁り鼻を濡らした。山の斜面を行くと木立ちを抜けた先に眩いばかりの満月が見えた。真っ白い真円の月が見渡す限りの平原を青白く照らしている。一斉に産声を上げるように、大地では新芽が顔を出し始めている。夜に水を吸い、朝には吐くだろう。ここしばらくは朝には濃い霧があたりを覆っていた。
弁はさらに歩き続け、呂布を切り立った崖の先に誘った。目の不自由な弁があるいは転落するのではないかと呂布は心配したが、不思議なことに弁は一向に躊躇することなく軽快に道を進んだ。弁が連れてきたのは山の南端であり、遠くには見上げんばかりの山々がその荒れた地肌を晒して月の光を反射している。
その淵に立ち、弁はしばらく黙っていた。
「なにを見てる?」
呂布の言葉にも答えることなく弁は立ち尽くしていたが、やがて腕を伸ばして真っ直ぐ南を指さした。その方向には全てを避け、拒絶してしまうような長城があり、切り立った崖に挟まれた雁門山が見えた。両側からせり上がったような山峰が、わずかに許したような隘路を残して屹立している。二羽の雁が翼を並べて羽ばたいているかのように見えるその様――麓には雁門関という関所があり、長城のうち最も手荒く漢と北方を分け隔てた要衝の一つであった。
弁は黙って雁門を見ていた。厳かであった。弁は一向に説明することも何かを促すこともせずにただ立ち尽くしており、その様子に呂布も口を挟むことが出来なかった。ふと弁の顔を見た恋は、なぜか切なさに襲われ、胸が苦しくなり、彼の顔を見ることをやめて背を向けた。深く刻まれたしわに言い知れぬ心が滲んでいた。どうしてこんなにも寂しくなるのだろうと思ったが、呂布には言葉が思い浮かばず、ただ東の方へ向き直るばかりだった。
この先には岳がいる。岳は東へ向かったので、きっと今は同じ月を見上げているだろう。全てを照らすような淡く鈍い青白さ――呂布の胸に巣食った切なさが、にわかに和らぎ温かいものへと変わっていった。
女は并州の生まれである。
代々しがない武官の家系で父母共早くに亡くしたが、民を守るため賊との戦に二人して赴き誇り高く戦死したと祖父に言われた。では己がその敵を取ろうと七つの時に思い込み、その頃から武官を志した。祖父は女を戦場には出さぬよう着物や楽器をあてがい、どうか平凡に嫁にでも行ってくれればこれ以上の幸せはないと常々言い聞かせていたが、その願いを天邪鬼に捉えたかのように女は暴れまわった。
寒門の生まれであることや、親の早世を馬鹿にする者はどんな名士の子であれども容赦無く叩きのめした。幼い頃から膂力に恵まれ対等の喧嘩では一度も負けたことがなく、多対一であっても半数は蹴散らしてしまう程の力自慢、次第に暴れん坊の男どもを束ねては盗んだ馬で平原を駆けまわり周囲から遠ざけられるようになった。
匈奴と付き合うことを好み、よく胡服を着ては弓矢の腕を競った。馬の呼吸を読むのが達者で、立射では負けることはあれど騎射では頭角を現した。どのような荒くれのじゃじゃ馬でもすぐに乗りこなすことができ「私は将軍になる」と言って憚らなかったが、十七を超えたあたりから笑うものは誰もいなくなった。
しかしある時、旅の武芸者に戦いを挑み散々に叩き伏せられることがあった。それ以来女は暴れることをやめ、わずかに伝えられた剣の技を磨くため山にこもった。月に一度だけ祖父の元に戻っては孝行をしたが、その祖父が間もなく流行り病でこの世を去ると女は家を売り払いそれきり町に戻ることをやめた。
山ごもりの最中、とある匈奴の男と知り合いになった。見た目は粗末な胡服でありながら話を聞くだに古に名を上げた武者の末裔だという。だが女にはどうでもよく鼻を鳴らすだけだったので、男も女を好いた。女は漢の町で暮らそうと言うと、男は匈奴の村で暮らすと首を振った。月に一度、どちらかが長城を越えて逢瀬をすることが自然と定められた。
二十を過ぎた辺りから女はどのような武芸者にも負けることがなくなった。そして晋陽の町に出向き、私より強いものはいるかと州軍の営所の前で言い放った。
偶然居合わせた
やがて県の令になり自らの兵を養うようになると、よく暴れる賊や地を侵す外敵の討伐命令を受けるようになった。引き連れた部隊は負け知らずで女は常にその先頭を駆けた。黄巾をまとった賊を相手に南を行けば、日の内に郡をまたいで東の鮮卑を討ちもした。
女はやがていくつもの大きな戦にも出征するようになったが、どのような敵と対する時でも先頭を駆け、時に大将首を挙げた。その功を以っていよいよ并州刺史へと推挙されたが、政は能ある官吏に全て任せ依然として武辺者で在り続けた。
并州は北に匈奴と国境を分かつ最前線を抱えながらも南は司隷の守りもつとめなければならない要害として、本来軍権を持たない刺史であるにも関わらず動員令を発することを許されていた。
女は匈奴と戦をしたが、されど時折ふらりと長城を越えては匈奴の男と会っていた。月に一度の約束は守れないことが多く、だがその度に切なさは募った。付き合いはもう数年に及んでいたが子の気配は一向になく、望みはないと諦めはじめていたが、冬の最も長い夜に一筋の流星をその身に受けるととうとう身篭った。兆しが訪れ臨月が近づいても女は顔色一つ変えることなく戦場にも訪れたが、幅のある甲冑のために誰もそのことには気づかなかった。
やがて生まれた子は小さく軽かったが元気な男ですくすくと育った。女は軍務の傍らに子を育てる自信がなく、匈奴の村人と交流の深い男の方が適任だろうと考えた。多忙を極める刺史の身の上、暇が出来れば会いに行ったがその回数も年に何度かというところで、会うたび会うたび子は確かに大きくなっており、その都度女は面映くもあり寂しくもあった。
匈奴の者として育つ子に、時には匈奴の者さえ討つ我が身を知られたくないと思い、連れ合いの男と相談した。子には二十を迎えるまで母の身分を伏せようと取り決めた。また同時に男の血筋、流れ星のことなども元服を待とうと決めた。
子が齢を重ねるにつれ、女は母として接することが出来なかったことを恥じ、せめて何か伝えたいとして剣を習わせた。身を守る術を仕込むが親の役目と割り切り修行は苛烈を極めたが、子は真面目で飲み込みもよく、足繁く通えぬ母の教えを余すことなく身につけていった。
剣に関してもう教えることがなくなり始めた頃、中華の地に動乱の気配が色濃く漂い始めた。軍務につきっきりになり頻繁に尋ねることができなくなったまま数年が経ち今に至る。女の武名は動乱を増すことに人々の口の端に上り、とうとう中央より招聘されることが内々に定められた。
――女の姓名は
春の日の夕暮れ、丁原は刺史としての最低限の裁可を終えると、楼台立ち並ぶ晋陽の城壁に登った。西日の照りが顔の左側を染める。三方を岩山に囲まれた町は、古来は国の都として栄えた。彼方に雄大な汾河の流れが見える。時は雄大である。
しばらく眺めを見ていた。丁原の目は近くになく、遠く、山を越えてさらに遠くを見るかのように細められていた。まるで誰かを見るように、誰かを探し求めるかのように。晋陽は太原郡にあり国境までは五十里を超える。されども丁原の目はさらにその垣根を越えて、北を見据えていた。頭の中には言葉になることすらない漠々とした焦燥が募り、心を曇らせる。どれほどそうしていたか、日が没し平原が闇に没し始めた頃、丁原に声をかけるものがいた。
「何見てますん?」
丁原は一息大きなため息を吐くと、振り返り自らの部下に向き直った。無粋を働かれたということで不機嫌であったが、声をかけてきた者はそのようなこと一向に気にする気配もなかった。
「ぼんやりしてはりましたな」
「覗き見か?」
「いやいやいや! そんな凄まんとってください! 別に普通に居合わせただけですやんか!」
「……そういうことにしといてやろう。いつ戻った」
「いまさっきっすわ」
紫がかった長髪をざっくりとまとめ上げ、さらしに上着を肩から羽織るだけの傾いた服装、鉄篭手に偃月刀を担いだ女は戦帰りの疲れを微塵も見せずに笑っている。
――張遼という名の武芸者で、馬の扱いも武器のさばきも目を見張るものがあり、丁原はすぐに部隊を率いる長として取り立てた。平時においてはのらりくらりと昼行灯ではあるが、一度戦場に立てば機を見るに敏の素質甚だしく、自らの得物である大刀を小脇に携え敵の急所を見極め食い破るのはひと度ではなかった。
一個の武芸者としてもその速度においては丁原を凌駕し、いつか全てにおいて上回りいくだろうと目算している。ただの一個人に置いておくのは惜しく、先日の西涼における動乱には援兵の要望に名代として赴かせ、董卓麾下一個師団の元で戦果を挙げて帰ってきた。
「董卓はどうだった」
「……なーんか、予想と違っとった。とても涼州でのし上がった豪族の雄とは思えへんかったなあ。戦場なんかちっとも似合わへんちーっちゃい女の子やったもん」
丁原は董卓の姿を思い浮かべた。何を間違って戦場に立っているのか、と思える程に華奢で幼い。心細さを隠し通せないような脆さもあるが、弱きを見捨てることも出来ない気丈さも併せ持つ。その健気さがどうにも捨ておけず、お節介ではあるが丁原は助太刀したく思い、張遼を向かわせた。
「危ないところもありましたけども、まぁなんつーか、烏合の衆の悲しいところっつーんかなあ。終わってみればあっけないもんでしたわ。あと、押し通ろうとしたのに味方が邪魔で邪魔で……結局誰とも一騎打ちでけへんかった。くっそ! もったいない……」
「馬の一族も出て来なかったようだしな」
「そう! 馬超ともやりおうてみたかった!」
「『錦馬超』か。馬家に伝わる一子相伝の十文字槍……自在に操ると聞く」
「ま、またいつか機会があるはず」
そう言って張遼は丁原の隣に立つと、同じように目を細めて北を見た。
「私の生まれもあっちです」
張遼の声は不意に切ないものへと変わっていた。
「どこだ」
「雁門のすぐ近くですわ。ひどいド田舎でうんざりしてましたけど、今はちょっとくらい……うん。懐かしいかも」
雁門の生まれとは初めて聞いた。ふとした拍子に情けないことを尋ねてしまいそうになったが、丁原は土壇場で押しとどまった。まさか部下に自分の連れ合いの話など、出来るわけがない。
「何か悩み事で」
「どうしてそう思う」
「人って誰でも、どうしようもないとき……故郷を見てまいますやん。まぁウチかてそういう時あるし」
「慰めているつもりか?」
「……にゃはは!」
無骨なところばかり見せるが、意外に繊細な一面もあるのかもしれない。丁原と張遼は親と娘ほどの歳が離れている。仮に娘がおればこのように育ったかもしれない――そのとき初めて、丁原は自らの胸の内に巣食った感情が、寂寥であることを知った。
――いっそ雁になれたらいつでも羽ばたき会いにいけるというのに。
丁原は身の内から生じた弱さを恥じた。二人でさんざ話し合い、とうに生き方は決めた。誰かを顧みることのないまま生きることになれど、決めたことなのだ――と自分に言い聞かせ、振り払うように胸にしまっていた一枚の書状を出した。
「不穏な気配が漂っている。これを見てみろ」
目を走らせた張遼は驚きに声を上げた。
「これは……! 勅任の書!」
「……執金吾になれとのことだ」
執金吾とは都――皇帝の龍体を守護するための近衛『禁軍』を統帥し、軍務における独立した命令権を持ち、徴兵を募るための動員令を独自に発することが許された高官であった。装備も充実、訓練を怠らぬ常備軍として執金吾以下の軍勢は中華最強として名高かった。
「うわー、大出世ですやん。夢の都住まい!」
「代わってやろうか?」
張遼は束の間考えたあと、口をへの字に曲げて首を振った。
「……やっぱ遠慮しときます。宮仕えなんてできっこない」
「私もだ」
二人の笑い声が城壁の一角で響いた。大草原を舞台に馬を駆る方がどれほど楽しく気兼ねないだろう。
ひとしきり笑ったあと、丁原は声音を正して続けた。
「だが話はそう単純でもない……最近、出撃が増えているとは思わんか」
「確かに増えてますけど……」
「幽州では
さらにもう一枚の紙を張遼に見せた。彼女はあからさまに怪訝な表情を見せた。
「ハァ!? なんやこれ?」
「書いてある通りだ」
「……『匈奴の軍勢を引き入れる』て」
朝廷からの正式な書類であることを示す印字の入った文書――丁原へは事後報告として通達が届いたまでで、肝心要の要請書はとうに匈奴の地へたどり着いているだろう。丁原の口調は自然苦々しいものとなった。
「黄巾の乱が収まらんから匈奴の兵を引き入れて使役する。去年もその前も匈奴は大人しくしていたが、今年も同じようになるとは思えん。そして時期を見計らったかのように私を并州から引き剥がして都に押しこもうとしている」
「……策略ってこと?」
「わからん。だが落ち着かん」
策略であるとして、自分に一体何が出来るのか。仄暗い朝廷の闇の中、跳梁跋扈する陰謀の真意を一武官である自分にわかるわけがない。ただ一振りの剣として戦場を駆け回る他に一体何ができるのだろう――丁原は去来した不安を取り除く方法が見つからず、もどかしさに呻いた。
(枝鶴……冬至……)
父と母は賊に殺され、志した仇討ちもかなったかどうかわからない。ただ一つこれしかないと打ち込んだ武の道。愛した男の側に駆け寄ることもできず、粗略なばかりで子にも厳しく当たることしか出来なかったが、それでもいま隣に二人がいてくれればどれほど簡単に迷いを明断できたことだろう。
それは叶わぬ。だから今回も、今までそうしてきたように迷いは振り払う術は――
「張文遠。表へ出ろ。久しぶりに揉んでやる」
その言葉に、張遼は満面の笑みを浮かべて飛び跳ねた。
「あはは! いつまでも揉まれっぱなしとちゃいまっせ。そろそろ揉み返したりますわ」
「それは楽しみだ」
振り返った晋陽の町には明かりが灯り、煌々と夜の営みを知らせる。練兵場、軍営はいつでも緊急出動が可能なようにいくつもの常夜燈を設けてある。今宵は夜っぴて剣戟に興じよう。いざという時、決して遅れを取らないように。