真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第一話 北の地にて

 秋風吹き荒び草莽枯れ行く。

 そんな言葉が頭の中を行き交った。言葉はとうとう現れた獲物の前にあてどもなく消え去り、やはり彼の頭からはすぐに消えさってしまった。

 見渡すかぎりの大草原も、川沿いにたどれば山も森もある。数えで十五になる少年は、大陸に住む多くの人とは違い獣の毛や皮をまとっている。その姿は、多くの土地を支配する漢人から蛮族のそしりを免れ得ないものであったが、日々の糧を得ることにのみ注力する彼は、余人の風評など歯牙にかけたことすらなかった。

 大地に身を伏せ、まるで巌か骸のように紛れて一刻が経った。左手で弓を握り、右手で矢を掴む。乾いた風が頬を撫でた。雨はもう一月も降らない。風に乗せられて土埃が宙を舞ったが、どんなにむせ返りそうでも咳こむわけにはいかなかった。

 その心意気をよしとしたのか、獲物は不意に草むらから飛び出してきた。茶色い毛並みの野うさぎは、転がっているどんぐりを一つ二つと拾っては頬張り、時折立ち上がってあたりを警戒する。ひくつく鼻は影に潜む人影を見つけることは出来なかった。そのつぶらな両目も、泥で輝きを曇らせたやじりを捉えることは叶わなかった。

 男は静かに矢を引くと、たった一つの気の張りを見せることもなく放つ。解き放たれた矢は一直線に突き進み、狙いを違うことなく野うさぎのこめかみを貫き通し、その命を奪い去った。

「……うん」

 二射目は必要なかった。射手は獲物に出会えた幸運に感謝し、両手を合わせた。野うさぎはこれで二羽目、雉は三羽だ。一日の狩りにしては十分な成果といえる。青年は獲物を腰に結わえながら、どうにも苦笑せざるを得なかった。こういった生活にすっかり馴染み、なんの違和感もなくこなしていることが滑稽に思え、運命のいたずらに呆れ驚いてしまうのだ。

 ――姓は李、名は岳、字は信達。

 漢の天下の最北端、匈奴が治める大草原に暮らす、ひとよりわずかに故ある少年。

 その故とは……

(こんな生活、テレビのバラエティでしか見たことなかったよ)

 前世や生まれ変わりといった現象が現実に起こりうるとは、実際に身に降りかかるまで思いもしなかった。

 この漢の天下より千数百年も光陰が過ぎ去りし彼方の時代が、生前――という表現が正しいかどうか――岳の生きた時代であった。当時の名前を、岳はもう思い出すことができない。気づいたときには大昔、異国、異世界に生まれつき、日々生きることに全精力を傾けてきた。今では生まれ変わる前、日本の地での生活のほうこそ夢ではなかったのかと思えてしまう。

(胡蝶の夢、か……)

 幼少時代、自らが息をするこの時代と場所を正確に把握した瞬間、胸に染み渡ったあの感慨を岳は忘れられない。

 三国志。

 日本で生きるのなら、一度は誰もが目に見て耳に聞く有名な物語。その前夜の時代に岳は生まれ変わったのだった。

(群雄割拠の戦国時代、ね……)

 とはいえ生きることこそまずは先決。李信達は、日々を狩りとわずかな農作、そして自らを練磨することだけで細々とこなしていた。いずれ訪れる動乱の嵐に対してどう生き、どう立ち向かうのか、その答えすら出すことはなく――并州の北端の地、長城は雁門関を臨む野山の小屋――その小さな納屋で、自らの鬱屈を自覚することもなく、ただ、生きていた。

 

 

 

 

 

 

 山道を伝って徒歩で一刻半、岩肌険しい山の中腹に佇む粗末な小屋が彼の目指す目的地であり、生まれ変わってこの方住み続けている家でもあった。

「ただいま」

 返事はない、父は静かに目配せするだけだった。親子二人の暮らしである。

 父の名は弁。匈奴の生まれ育ちだが漢人との混血で、母は桂という、こちらは生粋の漢人だった。

 口数の少ない弁と闊達で笑顔の絶えない桂は、岳の目からもよい連れ合いに見えたが、桂は月に十日も家に居れば良い方で、ある日を境にとんと姿を現すことなく行方をくらませた。弁はそのことについて何も言わず、岳もそんなものだろうと思うだけだった。最後に会ってから二年が経つ。

 岳は父に馴染み、猟師としての技をよく学んだ。息を潜めて野山に隠れる技、獣の後を追い続ける術、弓矢の扱い……弁は弓を扱わせれば匈奴一の誉れも高く、馬上で騎射をさせれば天下に名だたるものと言えたが、岳もよくその血を継ぎ狙った的を外すことは百ぺんに一度もなかった。

 それは李岳の身体が宿した天性の才と言えた。思う様体が動く――それは生半な膂力よりもなお優れた力だと言える。

 前世では特に秀でた運動能力を有さなかった岳には、これは嬉しい誤算であった。むくつけき時代において、それは生き延びる術としては第一に求められる才であったから。英雄英傑に比肩しうるほどの膂力は持てなかったが、岳はそもそも名を成そうとは思っておらず、己が身を守ることができるのならそれで満足と考えていた。

 岳の扱う撃剣は母、桂の教えであった。碌な思い出もなかったが、数少ない絆とも言えるのが剣捌きであった。一つ教わっては二月会わず、一つ習っては季節が変わった。だがその会わない間に、岳は母より教え諭された技は全て身に染み込ませた。その懸命さと一つも漏らすことなく教えを吸いあげる岳の頑なさに、修業は次第に苛烈となり、だがよく岳も応えた。やがて十四を迎えたころ、峻烈な桂を以って

「皆伝である」

 と言わしめる程にまで成長した。

 父の弁は子から見ても驚くほど寡黙であり、用事がなければ話すこともなく、親子二人で顔を合わせながら一日声をかけないままでいることなども珍しくなかった。しかし岳は不思議とそんな父を疎ましいとは思わなかった。母が消えてからも荒れることはなく、ただ寂寥を胸に秘めたまま静かに日々を暮らす。この男が父で誇らしく思った。年季の入った分厚い手で、時折頭を撫でてくれる。それだけで十分に気持ちが伝わるのだった。

「もう昼間……そろそろ匈奴の旦那方が来ちゃうかな」

 獲物の血抜きを手早く済ませると、岳は父の弁が手ずから打ち鍛えたやじり――それも百や二百では済まない数――の入った籠を背負った。

「じゃあ行ってくるよ」

 弁は静かに頷くだけだった。

 えっちらおっちらと斜面を登り、そびえ立つ恒山を横目に斜面を下ると、見渡す限りの大平原に出る。吹き下ろしの風に背中を押されながら、岳は約束の沼地のそばへと向かった。視界の端、地平線の手前で土埃が立ち上がっているのが見える。馬上の彼らと徒歩の自分、落ち合うのはちょうど同じくらいだろうと、ぼやぼやとあたりをつけながら岳は急ぐともなく、やじりの転がる音に耳を傾けながら歩を進めた。

 見立ては正しかった。双方同時に相まみえると、岳は荷物を置き、相手は馬上からひらりと降り立った。

「久しいな、兄弟」

 豊かなひげを蓄えた巨躯の男は遠慮することもなく岳を抱き上げると、その六尺五寸の身の丈にそぐわぬ明るい笑顔を見せた。卒羅宇(ソラウ)という名で単于の信頼厚く、匈奴の中でも指折りの猛者だった。そして岳の父の古い友人でもある。

「また重くなった。報元も喜んでいるだろう」

 報元は岳の父、弁の字である。

「ありがとうございます……叔父上もご健勝そうで」

「健勝か……フフフ。相変わらず年に似合わん言葉を使う」

 こればっかりは、と岳はごまかすように頬をかきながら、自分を抱き下ろす偉丈夫を見上げた。

「報元は人付き合いは悪いがいい男だ。鍛冶師としても」

「父も喜びます」

「堅苦しく、酒も満足に飲まんが。全く、長く匈奴の生まれ育ちだというのに漢人の血はまだ絶えんようだな」

 無礼な言葉だったが、そこにはひねくれた友情が垣間見え、岳はちっとも嫌な気持ちにならなかった。

 岳の持ってきた籠の中身をあらためながら、卒羅宇は満足気に首肯した。弁の鍛えたやじり、そのどれもが彼の眼鏡に適ったようだ。弁の鍛冶屋としての腕はあまねく知られており、漢の町は州都・晋陽の大都市をはじめ、雁門から太原、上党に至るまで并州のいずこでも求めるものがいた。同時に偏屈でも知られており、噂を聞きつけてはるばるやってきた一見を睨みつけて追い返すこともしばしばであることから、本人の意図しないところで希少価値が付いてもいる。

 商談はすぐに済んだ。岳はいつも通りの代金を受け取ったが、山積みの干し肉や毛皮、さらに山羊も一頭譲り渡された。

「去年生まれた山羊だ。母に似ればいい乳を出すだろう」

「ちょっともらいすぎな気が」

「遠慮はいいの! これは家族の分なんですから」

 そう言って岳を抱きしめたのは、付き添いでやってきた大柄の女性だった。卒羅宇の妻で岳とも馴染みだ。母を失った不幸、父子二人だけで暮らす悲しみ、その苦労を涙ながらに嘆いては、愚痴ひとつこぼさない岳の心性を褒め称え、きっと大地の神が遣わした心優しい化身なのだと何度も何度も言った。

「いつでもいらっしゃいね。住む所も食べるものもなんだって用意しますからね!」

「……はい」

 卒羅宇も続いた。

「冗談やおためごかしではないぞ、岳。俺の部族で剣を振るわんか」

「いや、僕は」

 岳は返答に困り、癖の強い黒い髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。叔父の瞳は冗談のかけらさえ含んでいなかった。

「お前の父を悪く言うつもりはない。だがその年で隠居もないだろう。漢の町で暮らすか? つらい目に会うぞ」

 叔母が何度も、そうそれがいい、そうしたほうがいい、と声を上げながらたくましい腕で岳を抱いた。岳は苦笑交じりにそれに抗いながら、くすぐったくて仕方がなかった。卒羅宇はしきりに岳のことを誇らしいと笑いながら――卒羅宇はすぐさま後悔するのだが――言った。

「単于も喜ぶだろう」

 岳の表情は固く険しい物になり、卒羅宇の手をやんわりと――しかし頑なに解いた。

「単于は喜びませんよ」

「李信達」

 岳は幼い頃に当時の単于と対面したことがある。そのときは漢人が匈奴の地で生きていることを散々に罵倒された。彼自身不愉快に思ったが、あの朴訥たる父親が悔しさに唇を噛み拳を握りしめていたことを忘れることはできない。父への侮辱を岳は許すことはできないと思ったのだ。

 あたりを気まずい空気が漂い、居心地の悪さに叔母が再び岳を褒めちぎり始めた。それさえややめんどくさく感じられ、岳は話を変えるように聞いた。 

「ところで何か変事でも? 今日は随分と大勢だ」

 岳は夫婦の後ろをちらりとのぞいた。常なら多くて五人程度のはずが、今日は三十人を超す大所帯になっている。戦でもあるのか、とでも思ったが噂に聞いたこともない。

「虎だ」

 卒羅宇は眉間に険しい皺を寄せ、悩ましげに髭を撫でた。

「とんでもない人食いが山を越えてこのあたりにやってきた。足は丸太より太い。爪と牙は岩をも砕くだろう」

 虎だ、虎だ。後ろに控えた屈強な男たちも声を揃えて言った。恐怖にひきつった表情にただならぬものを岳は感じ取った。

(……こういう噂ってのはだいたい大げさになるもんだけど)

 半信半疑であることをおくびにも出すまいとこらえながら詳しい話を聴きだして、岳は別れの口上を述べた。

「気をつけろ」

「用心します」

「……ところで、例の遠出の件だが」

「ああ、またですか。いいですよ、種まきが終わった頃であれば」

 卒羅宇は鷹揚に頷き、岳の肩を叩いた。

「便りを出す。また会おう、兄弟」

 力任せの乱暴な抱擁を受けて息も絶え絶え、岳は手を振って卒羅宇たちを見送った。叔母は何度もこちらを振り返っては手を振っている。夕焼けが目に痛い。冷たいやまおろしが吹きすさぶ前に家に帰ろう、岳は仔山羊を引いて家路を急いだ。

 




 はじめまして、こんにちは、ボンジョルノ、ブエノスディアス。ぽーと申します。にじファン閉鎖に伴いこちらでお世話になろうと転がり込んできました。チンケな物書きです。よろしくお願いします。作る人に最大限の感謝を。

 改定とかチェックとか終えた順に投稿させて頂きます。ぼちぼちゆっくりで。まいどおおきにです。

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