イレーネの住むマンションでささやかな食事会が開かれる。そしてそれにユリエルも招待されていた。
何でもプリシラが綾斗に助けられたため、そのお礼がしたいらしい。
義妹が世話になったのだから、おもてなしをするのが礼儀というものだろう。彼はそう考えて寮から出ていく。
綾斗は既にマンションに着いているらしく、何故かユリスまで来ているということをイレーネから携帯端末で聞いている。イレーネはどことなく不満そうな声を出していたが、次に戦う相手の家に招待されているのだ。パートナーが心配するのも無理はないだろう。
事実、イレーネは一回彼らを襲おうとしていたのだから警戒されないほうがおかしいのだ。しかもどこかの店ではなく、マンションに誘っているのだからなおさらのこと罠だと疑われる筈だ。
それを考慮せずに愚痴ってくるイレーネに対して思わず彼は溜息を吐いてしまったが、何やかんやで義理堅い彼女のことだ、丸く収まるだろう。
そんなことを思いながら歩いていると、ユリエルはマンションに着いていた。
「はーい。おかえりなさい、お兄ちゃん」
「ああ、ただいま」
ユリエルがインターホンを鳴らすと、プリシラがエプロン姿で出迎える。花の開いたような笑顔で迎えるプリシラに彼は薄い笑みを浮かべた。彼に自覚はないがそれは確かにプリシラの脳裏に焼き付いた。
プリシラもまた最近のユリエルのいい意味での変化に喜んでいたが、笑みを見たのは初めてだった。イレーネの無茶に怒ったことも少し前の連絡で感じていた。だが笑みを、喜びを表したところを見るのは今回が初めてであった。
ユリエルの所有物になってから彼のことを常に見てきたが、表情どころか眉一つ動かさないような人物だった。そんな彼プリシラは言わずもがな、イレーネも恐れを覚えていた。何とか彼の人柄を知ることが出来たが、共に生きて三年以上の期間を要した。その合間も、その後も彼は感情を表に出すことがなかった。
たまに受ける依頼、その時にだけ少し雰囲気が変わるとプリシラは感じていたし、それが転機になると信じていた。だからこそ彼女は新しい依頼が舞い込んだことに心底喜んでいた。そしてその依頼が確かにユリエルの転機になっていることは、もはや間違いようがない。
最もそれがシルヴィアの護衛とは驚いたが。
「? どうしたプリシラ?」
「あ、ううん、なんでもないよ。お兄ちゃんは先に座ってて、もうちょっと作るものあるから!」
プリシラはそう言ってユリエルの後ろに回って、俯きながらの背中を押した。彼女はその少し赤らんだ顔を見られるのを無性に嫌がった。どうにも彼にだけは見られたくなかったのだ。
そしてユリエルが困惑しながらリビングに進む。黙り込んだプリシラが急に自分をせかしたのだから驚かないわけがなかった。突拍子のない行為はイレーネを叱るときにしか起こさない彼女だ。自分が何かしただろうかと考えを巡らせながら、彼はイレーネたちの待つテーブルに向かった。
「行ったよね……」
プリシラはリビングに向かったユリエルを見届けて息をついた。彼女の胸は凄まじい鼓動を立てて、締め付けるような痛みが彼女を襲った。それに彼女はエプロン大きな皺が出来る程に両手を握りしめる。彼女の目は涙で潤み切っている。
「苦しい、悔しいなぁ……」
だけど確かに彼女は笑みを浮かべていた。儚げだが美しい笑みを浮かべていた。
だがそれでも胸の痛みは誤魔化せない。
プリシラは悔しかったのだ。自分ではなく他の誰かが彼に感情を与えられたことに嫉妬していた。それは嬉しいことだったけれど、それでも彼女が成し遂げたかったことだった。
品行方正な彼女だって疚しい気持ち位抱くだろう。なにせ彼女は女の子なのだから。
相手はシルヴィア・リューネハイム、少年に情景を、青年に勇気を、壮年に気力を、老年に希望を魅せる至高の歌姫だ。
他の人が比べれば仕方ないと言うだろうが、それでもプリシラは認めたくないのだ。自分と姉が何年も彼と接してきたのに、立ったの数カ月で彼の感情を引き出されたことが悔しくてたまらない。
遂にプリシラの瞳から涙が零れ落ちた。
「ごめんね、お兄ちゃん……」
自分の不甲斐なさにプリシラは唇を強くかんだ。嗚咽を必死にこらえ、涙を呑もうとしていた。
ここから直ぐ近くの部屋には恩人と最愛の人たちが待っているのだから、泣き腫らした顔では顔向けができない。
そう考えたプリシラは指で涙を払いのける。彼女は戦う力はまるでないが、それでも心は強かで芯の通った少女だ。再生能力者であっても痛みは怖いが、窮地においても冷静さを損なわない。そして何より負けず嫌いだった。
プリシラは自分の頬を叩いた。ユリエルたちには気付かれないように、それでも自分に喝が入るように強めに叩いた。乾いた音が少し響いたが、ユリエルたちには聞こえていないようだ。
そしてプリシラはリビングに向かって歩いて行った。感情を引き出すという点ではシルヴィアに負けた。ならばもっとユリエルに笑顔を増やしてみせようとプリシラは誓ったのだ。
ユリエルが来る少し前にイレーネ、ユリス、綾斗はプリシラの料理を食べながら談笑していた。
彼らのつまむ料理はどうやらサラダなどの前菜だ。
小皿に盛り付けられれたそれらは決して高級料理だとかではないものの、家庭的でどこか安心できる味だった。また、一工夫加えられているのが分かり、プリシラが持て成そうとしてくれていることがしっかり感じられる。
少し前まで罠かもしれないと疑っていたユリスは、ここまでしてくれることに罪悪感を感じ始めている始末だ。
イレーネはプリシラの作る料理がそれほどまでに好きなのか、頬張ってそれこそ幸せそうな顔で食べている。
「へぇ、そうなんだ」
「兄への憧れか」
「うるせぇ、別にそんなんじゃねぇよ」
イレーネは照れたように視線を迷わせる。頬にはうっすらと赤みが差していた。その姿を見た綾斗とユリスは、自分より年上であるイレーネに愛らしさを感じていた。
イレーネ、ユリス、綾斗はピリピリした空気もなく、少し前に争った時の禍根も残っていないかのようにゆったりとしている。というかユリエルとプリシラに毒気を抜かれて有耶無耶になっただけだった。
「あ、兄貴はあたしよりも強いからな。そりゃあ目標にもしたくなるだろ?」
しどろもどろになりながらイレーネはそう答えた。何気に重要なことを話していることに彼女は気付いていないのか、そのまま口を滑らせる。
それを聞いている綾斗やユリスはぽかんとした表情でイレーネの顔を見ているが、それでも彼女は気付かない。
「あたしが全力で闘っても片手間で一蹴されるんだ。それにプリシラの護身術は天霧も見ただろ、あれを仕込んだのは兄貴だぜ?」
急に名指しされた綾斗は驚いたが、その言葉にプリシラが不良に襲われているときのことを思い出した。
複数いた不良に押さえ付けられようとしていたプリシラに駆け付けた綾斗は、何人かの不良が近くでのされているのを見かけたが、もしかするとそれのことだろう。
イレーネは恨みを買いやすいからという、ユリエルからの配慮だろうと綾斗は思った。それは前回のいざこざを考えれば当然の帰結であった。
「《覇潰の血鎌》の能力だってすぐに抜けられちまうし、兄貴は普通の煌式武装を使っているってのに歯牙にもかけないからね。兄貴には恩もあるし、働いて返したいんだよ」
淡々と口を滑らせていくイレーネにユリスと綾斗は理解が追い付かない。いつかのいざこざと同じく、この兄妹は人の頭を滅茶苦茶にするのがよほど得意らしい。
ユリスは頭を抱えながらイレーネの話に割って入った。こうでもしないと話が進まない。
「いやまて、突っ込みどころが多すぎるが、ユリエル先輩がお前より強いとはどういうことだ?」
「はぁ? 何言ってんだよ、当たり前だろ? あたしなんかが兄貴に勝てるわけないだろ?」
ユリスの言葉に怪訝そうな顔でイレーネはそう返した。まさしく「何言ってんだコイツ」とでも言わんばかりの表情にユリスは顔を覆った。
話がかみ合っていないことに綾斗も苦笑いだ。
イレーネはレヴォルフの《冒頭の十二人》に入っているし、その中でも三位に着く実力者だ。それを片手間で相手をしてみせるユリエルは、ユリスにとって想定外の言葉だった。
だがイレーネはそれが当たり前だと思っているからか、ユリエルの序列を完全に失念していた。
「そこまでにしておこうよユリス、ユリエル先輩は《鳳凰星武祭》には出ないんだしさ」
「確かにそうだが……」
ユリスが納得いかなさそうに顔を顰めた。
前の試合では、レスターとその取り巻きであるランディとの戦いで圧倒して見せたイレーネが易々と負けるとは思えない。たとえレスターが《魔術師》や《魔女》のような能力持ちに弱いとはいえ、実質二対一の状況で返り討ちにした実力者だ。
それにユリエルが純星煌式武装を持っていないとなると、何の能力も持たずにイレーネを圧倒したということになる。ユリスも綾斗もにわかには信じがたい話だった。
「すまない、遅れたな」
「おせぇよ、兄貴」
「お邪魔してます、ユリエル先輩」
扉の開く音と共に無機質な声が部屋に響いた。機械かと疑いたくなるよな声だが、それに聞き覚えのあるイレーネは笑顔を浮かべて彼を出迎えた。それに続くようにユリスと綾斗も挨拶を交わす。
イレーネの放つ言葉は憎まれ口だが、その表情は待ちわびたと言わんばかりの笑顔だ。妹の料理の反応といい、本当に家族を大切にしていることの伝わるいい姉だと二人は感心するばかりだ。とても自分たちに斬りかかってきた時の同一人物とは思えない。
「すいません、先に頂いてしまって」
「いや、お前たちに礼をするために開いたんだ、遅れてきた俺に非がある」
ユリエルは挨拶を済ませると、すぐに席に着いた。それに続いて綾斗が謝ろうとするがユリエルは気にしていない。
それにユリエルが言ったことにもあるように、飽くまで持て成すのはユリエルたちなのだから謝りたいと感じていたのはユリエルの方だった。
「そうそう。あんたらは気にすんなって」
「黙れ。もとはお前の連絡が遅れたせいでこうなったんだ」
イレーネが調子に乗ってそう言うと、ユリエルからの厳しい指摘が鋭い視線と共に飛んできた。それにはイレーネも一瞬竦み上がる。
実際遅れてきたのはイレーネの連絡が遅れたせいだ。しかも連絡してきたのは当日であり、これはプリシラにもしっかり怒られている。
「いや、悪かったって!」
イレーネが手と顔を振りながら必死に謝罪するが、周りの綾斗の苦笑いやユリスのジト目に逃げ道を塞がれていた。流石に思う所があるのか二人は助けを出そうとしない。
イレーネがそんな二人に恨めしそうな目線御向けていると、ふとユリエルが手で口を押えながらクスリと笑った。無機質な声が嘘のような緩い笑みだ。
「冗談だ」
「え? ちょっ、兄貴ィ!」
イレーネが若干涙目で抗議に移る。割とシャレにならないレベルで恐かったのだからこれくらい許されるだろう。だがそれでもイレーネが連絡を怠ったのが原因なだけに攻められない。
放置されている客人二人も微笑ましそうにその様子を見ていた。
「あんたらも笑ってんじゃねー!」
微笑ましく見守る綾斗とユリスの目線に、居心地の悪さを感じたイレーネが頬を薄く染めながら睨みつける。それは迫力に欠けていて、二人の笑みを深めることになる。
だがふいにユリスの脳裏にユリエルに似た存在が浮かんだ。統合企業財体の傀儡国家であるリーゼルタニア王国の王。それがユリスの兄である。
ユリスの兄はユリスを思っているが故に統合企業財体の傀儡となった。幸いと言えるのは彼がその立場を満喫していることだが、それでも兄がユリスのためを思ってその立場になったのは間違いはない。
彼はユリスの自由の為に我儘で憎めない王として振る舞っている。それがとても心苦しいと感じていた。
「ユリス?」
「いや、何でもない」
「お待たせしましたー。シーフードとキノコのパエリアです」
ユリスが少し暗い考えになりかけた時、プリシラの声がリビングにいた全員に届いた。どうやらメインディッシュの到着のようだ。
イレーネは待ってましたと言わんばかりに目を輝かせ、ユリエルもどこか嬉しそうに見える。流石に食べ物でユリエルの表情が緩むとは思っていなかったのか、ユリスと綾斗は目を丸くした。
「ふふん、プリシラのパエリアは特に絶品だからな。心して食えよ」
「だからお前が作ったわけではないだろう……」
イレーネがプリシラの料理を自分のことのように自慢する。前菜を食した時にも同じようなことを言っていたイレーネをユリスは呆れた目で見ていた。ユリエルも無表情のまま軽くため息をつき、綾斗はそれに苦笑いを浮かべる。
プリシラは嬉しそうに笑みを浮かべながらユリエルとイレーネを急かし始めた。
「ほらほら、お姉ちゃんとお兄ちゃんは早く取り分けて」
プリシライレーネを姉と呼び慕う姿は。綾斗に眩しいものを見たように感じさせる。
綾斗は生死すら掴めぬ姉の姿を思う。
綾斗の姉は彼に封印をかけてどこかに消えた。
まだ幼かった綾斗は姉を守ると誓っていたが、その姉に力を封印された。今も何故彼女がそのようなことをしたのかは分からない。
少し前までは気にも留めていないと思いこんでいた綾斗であったが、ユリエルとイレーネの笑いあう姿を見ていると胸がジクリと痛む。もうすでに過去のものと思っていたのに、なぜこんな気持ちになるのか綾斗は困惑していた。