10月第3週目。
この日から秋季大会も地方球場から、シャイニング・バスターズが使用している横浜シャインスタジアムへ戦いの舞台を移している。
プロ野球でも使用されている大型の球場なだけあって緊張感もより大きくなり、人の入りも多くなってくる。
「あ、今日は遅刻しなかったね」
「ちょっ! いつも遅刻する人みたいに呼ばないでほしいッスー!」
「ごめんごめん、冗談だよー」
ふぅ、と一息吐いて川星ほむらは観客席に座る。
今日は待ちに待った聖タチバナ対帝王実業の準々決勝だ。ここで勝ったチームが次に試合を控えている海堂とベスト4で当たり、更に勝ち進めばその時点で甲子園出場が確定する。
悲願の甲子園へ向け、なんとしてでも今日の試合は絶対に落とせない、それは緊張した面持ちで試合を待つ、八木沼愛美も嫌なほど分かっていた。
「タチバナが勝ってほしいッスけど相手は前の夏で一度敗れてる相手ッスからね……一筋縄で勝たせてはもらえないッス」
「うん……」
兄である八木沼隼人も昨日の夜はあまり言葉を発さずにすぐ寝てしまったし、少なからず不安と緊張感はあるのだろう。
なんせ当事者でない一観客の自分が既に心臓バクバクなのだから、本人なら尚更の事だ。
「あ〜……勝てるかなぁ、お兄ちゃん達ぃ」
「私達がそんな弱気でどうするッスか! 逆に一度負けてるんだから開き直って戦える分、メンタル有利ッス!! 」
「それって励ましてるって捉えて良いのかな……?」
「そんな事どうでもいいッスよ! 要は試合前から諦めムードを見せるなって話ッス。しかも相手の応援団はやかましいことで有名なんスから、私たちも今日はタチバナの応援に紛れて声を出すッスよ〜!」
「!……そうだね」
大丈夫。
川瀬先輩達ならきっとやってくれる。
論理的根拠はないけれど、先輩達が純粋に野球を楽しみながら試合をしている姿を見てると、どんな逆境に立たされたとしてもそれを乗り越えて逆転に変えるんじゃないかと、そんな気にさせてくれる。
『私たち、勝って必ず甲子園に行くから!』
「先輩……」
少女の気持ちは揺れていた。
野球自体は好きなのに、兄や川瀬のように思う活躍が全くできず、自分はずっと苛立っていた。何度も野球を辞めようか悩み、その度に野球の楽しさを思い出して踏みとどまり、ずっとこの繰り返しだった。
(先輩が私を試合に誘った理由って……)
もしかしたら私が忘れかけていた野球の……スポーツそのものをする上で最も大切な気持ちを思い出させるために−–−–−
⭐︎
「大地」
「はい六道さん」
「本当にこのオーダーでいくのか? 冗談ではないんだな?」
「冗談じゃないです。マジのマジで行くぞ」
あの……試合前なのにこのやり取り何度目なんすか?
帝王戦を控え、俺は先程スターティングオーダーを発表したのだが、普段は俺の決めたオーダーに文句を垂れる人はいないのだが、今日だけは何度も確認のコメントを送られて参っていた。
聖タチバナ オーダー
1番 ショート 友沢
2番 キャッチャー 六道
3番 サード 大島
4番 ファースト 一ノ瀬
5番 セカンド 今宮
6番 センター 八木沼
7番 レフト 原
8番 ライト 笠原
9番 ピッチャー 橘
帝王実業オーダー
1番 ファースト 坂本
2番 ライト 猫神
3番 セカンド 蛇島
4番 キャッチャー 唐沢
5番 レフト 猛田
6番 ショート 海野
7番 センター 後藤
8番 サード 早瀬
9番 ピッチャー 山口
うん、明らかにいつもと打順がズレているのはすぐ分かるな。
まず友沢が4番から1番に変わり、大島は3番に上げ、八木沼が6番に回っている。そしてピッチャーも涼子の代わりにみずきちゃんを起用し、マスクも聖ちゃんに託している。
一言で言い表すなら、俺なりの『対帝王実業攻略オーダー』だ。
そもそもあの香取と山口を攻略できるバッターはそういない。ウチのチームでまともに打てる選手を挙げるとすると、友沢くらいだな。あとは読みが当たればかろうじで俺、聖ちゃん、八木沼、今宮がギリ打てるかもしれないレベルで、運要素も絡んでくるから安定しない。
そうなれば1番打率を残せる男にできる限り打席を張らせ、ソロホームランでもなんでもいいからとにかく点をもぎ取るしかないのだ。
それともう一つ鍵を握る選手がいるとすれば、大島だ。
大島も例の変化球打ちを掴めてきており、急成長を遂げている最中だ。無駄な力を一切使わず、脱力ながらも綺麗なスイングであの高速スライダーとフォークを攻略できれば、友沢が打ち、聖ちゃんが繋ぎ、大島がランナーを返せる、俺が掲げる理想の攻撃を実現してくれるかもしれないんだ。
だが相手は超高校級の変化球を決め球に持つエース2人。
大島の成長力が著しくても、2人の力がそれを上回れば打てる見込みはないだろう。
(……だが俺は信じてるさ)
どのみち、ここから先を勝ち進むには下級生の力も必要になってくる。東出がナックルを習得してパワフル高校を下したように、大島にも試合を通じて大きく進化してもらいたいんだ。
選手が1番大きく変われる時とは、練習ではなく、実践の試合であると、俺はそうずっと考えてきたからな。
「もう一度説明するぜ。今日の試合、俺はかなりの接戦になると予想している。夏と比較して俺たちの戦力は変わっちゃいないが、向こうは真島さんや他の三年生が抜けた事で戦力はどちらかと言えばダウンしている。戦い易さなら今回の方が間違いなく上だ。1つだけ除くなら−–−–−」
「ピッチャー、でしょ?」
おっと、みずきちゃんに先に言われちゃったか。
「そう、相手のピッチャーは夏と同じく山口・香取の2人で攻めてくる。これまでの秋季大会での様子を見ると、唐沢は山口のフォークを殆ど後逸していないから前みたく、追い込まれてからヤマを張る戦法は使えない。守りが楽になった分、打つ方がさらに厳しくなった印象だ」
そうなると考えられる試合展開は、失点の少ない投手戦だろう。
ウチの投手陣も涼子、みずきちゃん、東出、宇津と、他校に行っても十分にエースとして張れる投手陣が揃っている。涼子はできるだけ今日の試合では登板させないとして、先発のみずきちゃんがどこまでイニング引っ張り、少ない失点で抑えるかが重用だ。
みずきちゃんも大会後から課題のスタミナを克服するために下半身の強化、主に体幹を鍛え続けてきた。後半にバテてコントロールと球威が落ちないよう、終盤にも強い体を目指して、とにかく自分をイジメぬいたのだ。
「みずきちゃんを始めのする投手陣がどれだけ抑え、上位打線の面々、特に友沢と大島でどれだけ点を取れるか、この2つが勝敗を大きく左右している。3人は当然だけど、他の面々も夏で苦渋を飲まされた借りを今日でキッチリ返してやろうぜ」
「おうよ!」
「うむ!」
「そうだな」
「……うん」
最終的には皆が納得し、良いコンディションで試合へ挑めそうだな。
心なしかみずきちゃんだけ表情が優れていないのが気になるが、そこは今日の女房がなんとかしてくれるはずだ。
(さてと……行くか!!)
午前9時半。
審判団に呼ばれて互いに挨拶を交わし、準々決勝・1試合目の戦いが遂に始まった。
蛇島−–−–−今度はぜってぇ勝ってリベンジしてやるからな!!
帝王実業高等学校。
開校から65年の歴史を持ち、海堂と同様、様々な部活で好成績をおさめているスポーツの名門校だ。特に近年は野球部が力を付けると、ここ10年の大会成績は甲子園出場が7回、そして7回のうち、ベスト8以上までの成績が5回、更には2年前の春、一ノ瀬達が入学する直前のセンバツ大会では初の準優勝果たし、まさに今が黄金期真っ只中のチームであった。
「今日の相手は知っての通り、聖タチバナ学園だ。相手は若干2年目の新設チームだが、面子は粒揃いの曲者だ。いいか、今回は前回のように油断せず、初回から全力でねじ伏せろ。帝王の名に恥じない、圧倒的な力で格の違いを見せつけろ、いいな!」
『はい!!!』
帝王実業の監督は守木という、元帝王実業野球部のOB。
この男の代に帝王は初めて甲子園へ出場し、神奈川屈指の強豪校への足がかりを作った男だ。
(クックック……また来たか、友沢)
その隣に座って不気味な笑みを浮かべる男は、秋から副キャプテンに就任した蛇島だ。
チームでもNo.1の守備力、それでいてパンチのある打撃に走塁面も良い、まさに三拍子揃ったスーパーオールラウンダーである。
後輩への面倒見も良く、帝王内ではキャプテンを務める唐沢と同等かそれ以上に信頼されている、が−–−–−
(やっぱりもう少し強く叩き潰すべきか……ふん、まあいい。また目障りになるようなりアイツを消せばウチが負けることは無くなるからね)
彼の本性を一言で表すなら、『狡猾』が1番適切だろう。
己の目的の為なら例えチームメイトであっても容赦なく潰そうとする外道な男なのだ。
「蛇島、今日も頼むぞ」
「任せてくれ。山口君もピッチングの方、しっかりとね」
「無論だ。前回は本気で投げていないだけだからな。今日はハナから全力で飛ばすさ」
「……期待しているよ」
男の瞳に映るのは遊撃に座る金髪の男。
彼にとっては昔からの憎き相手で、最も潰したい選手だ。
彼がここまで友沢に執着する理由、それは−–−–−
「あれ?今日は川瀬先輩投げないんスか?」
マウンドには水色の髪をした女性選手、橘みずきさんがマウンドに上がっていた。
私もてっきり川瀬先輩が先発に入り、継投で他の投手陣が投げれるとおもってたんだけど……。
「うーん……多分だけど、連投回避のためじゃないかな? ここまでほとんどの試合で先発してるし、仮に帝王実業に勝てたとしても、そこから海堂やパワフルとの試合も控えてるから温存って線もあるかも」
「なるほどッス。ただ相手はあの帝王ッスから温存できる所まで行ければいいんスけど……」
投球練習を投げ終え、後は主審のコールを待つのみ。
前回の試合からまだ数ヶ月程度しか経っていないが、この数ヶ月は私にとってはかなりの長い期間に感じた。
『ぐっ……ぅ、くぅ……』
目を閉じれば、"あの時"の光景が未だに蘇ってくる。
アイツが苦しそうに足を押さえて倒れ込む、悪夢のような映像が。
(はぁ……ふぅ……)
珍しいな……緊張してるのかな、私。
ボールを握る左手は気がつくと強く握られ、心臓の鼓動がいつもより一段階早い。
それもそうだ。やっと……やっとあの日のリベンジを果たせるんだから。アイツに怪我をさせた憎き蛇島のチームを……私が絶対に−–−–−!
『プレイボール!』
(よし……いくぞみずき!)
ロジンを入念に付け、第1球目を投げ込む。
バシッ!と乾いた音が響く。ボールは聖の構えていた外角低めにストレートがきっちりと届く。
『ットーライクッ!!』
ふぅ……大丈夫……球は走ってる。
2球目のサインは内角低めに落ちていくスクリュー。左腕を大きく振り、ボールに回転をかける。
(っ、コースが甘い!?)
(!、甘いぜ!)
カキィィィィンッ!!
が、コースは構えたところより真ん中寄りに入り、坂本は思いっきり三遊間方向へ引っ張った。
(しまった!!)
打球は凄まじい速さのライナーで友沢と大島君の横を抜けるが、運良くレフトを守る原くんが一歩も動かずに捕球し、アウトになった。
「くそっ。もう少し打ち上げてればホームランだったのに……」
(………………)
あ、危なかった……。
角度が少しでも上向だったらスタンドインされてた……。
大丈夫、大丈夫……とりあえずワンナウト取れたんだからこの調子で一つずつ取っていけばいい。
『2番ライト、猫神君』
「よっしゃ。いっちょ行きますか」
意気揚々とバットを肩に掛けながらボックスへ向かう猫神。
確か一ノ瀬くんの情報だと本職はキャッチャーだけど、守備範囲の広さと高い走塁技術を買われ、今大会から外野のポジションに就いているらしい。
(今大会だけで盗塁数は8個。しかも次は蛇島と唐沢、猛田が控えている。みずき。ここは出し惜しみ無し、全力で抑えるぞ)
サインに頷き、振りかぶる。
ボールは左打者のから外へ大きく逃げるように変化する−–−–−クレッセントムーンだ。
『ボーッ!』
(っ、ボールか……)
入ったと思ったんだけど……ダメか。審判は僅かに外れたと判定。
2球目はストレートが高めに外れ、3球目はスクリューがワンバウンドし、カウントは最悪の3ボール・ノーストライクだ。
(っ〜、入んない……っ!)
(落ち着けみずき。相手は長距離打者じゃない。多少甘くコースに入ってもいいから1番得意なボールを私に投げて来い)
聖のサインは真ん中低めへ逃げるクレッセントムーン。
私が最も得意とするコースで、一番の決め球だ。
(今度こそ……)
相棒のサインを信じ、渾身のウイニングショットを投じる。
ボールはほぼ聖の構えていたミットに投げ込まれるも、審判は手を挙げなかった。
『ボーッ、フォア!』
「いよっしゃ!」
「ナイセン猫〜!」
どうなってるのよ今日の審判! 今のはどう見てもストライクでしょうが!!
くっそ〜……足の速い猫神をランナーに出して次の打者が−–−–−
『3番セカンド、蛇島君』
気持ち悪いほどの不適な笑みを浮かべながら、蛇島がバッターボックスに入る。
審判には「お願いします」と礼儀正しくしているが、私達へは嘲笑うかのような眼を向けていた。
無性に腹が立ってきた−–−–−。
お前のせいでアイツは……肩を壊し、危うく足も壊れかけたのに……っ!
(絶対に……抑えてやる!!)
(所詮は女も集めたおままごとの野球だ。そんな意識の低いお前らがこの僕に勝てると思うなよ!)
ランナーは気にしない。
今の私はアイツを抑えることしか頭にないからだ。
「っらぁっ!!」
初球は蛇島の胸元を抉るようなインコースのストレート。主審もようやく手を挙げ、判定はストライクになった。
(!、このボールは……)
「?……聖、早く返してよ!!」
「あ、ああ……すまない」
どうしたんだろ聖、ボーっとしちゃって。
気にせずに2球目は外角のストライクゾーンに迫るクレッセントムーンを投じる。蛇島は上手くおっつけて当てるも、打球は一ノ瀬君の左を転がり、ファール。
「クックック……変化量は良いけどそれだけだね。この程度のボールなら次で終わりだ」
(!?、やはりこのボール……いつものみずきのボールじゃ–−–−)
これで決める−–−–−。
3球勝負。最後はクロスファイヤーを生かしたインローへ落ちるクレッセントで三振に切って落とす!
「ッ、ランナー走ったぞ!!」
私が振りかぶったのと同時に猫神もスタートを切った。
大丈夫。コースも完璧、回転もしっかり掛けれてる。これならいくら蛇島でも絶対に打てないはずよ!!
(所詮は女のボールだな!)
−–−–−カァァァンッ!
「っ!?」
なぜかボールはミットに収まらず、金属音と共に颯爽と私の足を抜けていく。
「おらあっ!!」
今宮君のダイビングも虚しく、打球は八木沼君の前へ落ちる。しかもこれはランナーもスタートを切っているランエンドヒット。案の定、猫神は自慢の快速を靡かせ、三塁を狙う。
「八木沼っ、サード!!」
聖が指示を出すも時すでに遅し。猫神は悠々セーフで三塁に到達し、僅か10球程でワンナウト1・3塁になった。
(どうしてっ……なんでよっ!!)
今のスイングは完全に見てから当てていた。
あのコースのクレッセントは練習で友沢に打たれた以外、誰にも捉えられていない最強のボールなのに……。
『4番キャッチャー、唐澤君』
「すみません、タイムを」
聖がマスクを外してマウンドに駆け寄る。
なによもう。まだ初回で点も取られてないんだから心配しすぎよ。
「みずき、緊張してるのか?」
「……少しはしてるけど大丈夫よ、気にしないで」
「嘘をつくな。いつものみずきのボールじゃなかった。棒球でキレが全くない、ダメな時のみずきだ」
「っ!! 大丈夫だって言ってるでしょ!? 余計なお世話よ! ほら行った行った!!」
「まっ、待てみずきっ……」
強引に聖を追いやり、試合を再開させた。
全く……昔から少しでも気になればすぐタイムを取るんだから聖は。そこまで神経質になってたら帝王は絶対に倒せないわよ。
−–−–−いつものみずきのボールじゃなかった。
「……うるさい」
聖のバカ……私はいつも通りに投げてるんだから余計なことは言わない、で……。
「……変えた方がいいかもしれないわ」
「えっ?」
みずき、明らかに力が入りすぎてる。いつもならもっと繊細にクールに、それでいて熱い所もあるのに、今のみずきはただカッとなって投げてるだけにしか見えない。
私も同じピッチャーだから分かる。
抑えたい、勝ちたい、切り抜けたい。
こうした想いが悪い方へ強くなりすぎると、つい腕に変な力を入れて投げてしまう。自分では本気で投げてるつもりでも、それは練習で培った本来のピッチングからは程遠く、バッターからすればなんの脅威も感じない。
「でもまだ初回ですよ? 蛇島がたまたまクレッセントをうまく合わせだけですって!」
「東出君、宇津君とキャッチボールしてきて。 あとで大地には私が伝えるから」
「……川瀬先輩」
聖も大地も気付いているはずなんだけど、聖は様子を見に行ってたからまだしも、大地は表情一つ変えないで見守っているだけだ。
(大地……早く手を打たないと取り返しのつかない事態になるかもしれないわよ……)
「おやおや、たかだかお得意のスクリューを弾き返しただけでもう相談タイムですか」
「…………」
「リベンジを果たすとか思ってるつもりでしょうが、君達では僕ら帝王は絶対に倒せませんよ。君達は所詮、お遊び程度でしか野球をやっていないんですから」
……お遊び程度、か。
「試合に集中しろ、蛇島。くだらない挑発は俺たちが勝った後にいくらでも聞いてやるならな」
「ふん。その言葉、そっくりお返しするよ」
『4番キャッチャー、唐沢君』
分かっているさ。
今日のみずきちゃんは明らかに気持ちが先行しすぎてボールのキレが悪いことくらい。
けどな、そう易々と変えても事態が良くなるとは限らんし、何より宇津と東出は長いイニングを実践でほぼ経験していない。そうなると涼子を出すのが最善かもしれないが−–−–−
−–−–−カキィィィィィンッ!!!!
「……ふふっ。お前達はもう、終わりだ」
唐沢の打球は高々とセンター方向へ上がり、失速することなくスタンドへ入っていった。
「スリーラン……ホームラン……」
蛇島が見下すように笑い、走り去って行く。
みずきちゃんは打たれた方向を茫然と眺めているだけだった。
「ナイバッチ唐沢ーっ!!!」
「うっふん。やるわね、唐沢のやつ。これは私の出番どころか山口君も短いイニングで済みそうね」
盛り上がる帝王ベンチに対し、タチバナサイドは最悪のムードだ。
今宮は悔しさを顔に滲ませ、大島はプルプルと震えながら拳を握りしめている。
他のメンツも悔しさと、帝王の強さにただ驚愕していた。
「……………」
「…………」
金髪の男と、今日の女房を覗いて−–−–−。
『ボーッ、フォア!!』
ホームランの後に単打と二者連続のフォアボール。
これでワンナウト・ランナー満塁だ。
「あわあわ……これはもしかしなくてもマズいッスよ……」
どうしよう……まだ一回の表なのに完全に帝王のペースだよ……。
次は8番の下位打線とはいえ、帝王実業の打線に下位なんて文字は存在しない。
とにかく最小失点で早めに切り上げないと、最悪の場合、コールドゲームだってあり得る。
「試合前の予想だと五分五分だったんだけどなぁ」
「やっぱり帝王実業か。流石のタチバナも本物の強豪校には勝てないよ」
「今まで勝てたのもマグレかくじ運が良かっただけかもな」
私とほむらちゃんの前でそんな声が聞こえてきた。
……悔しい。
自分の試合じゃないのに、お兄ちゃん達のチームがここまで言われると言い返したくなるくらいの思いになる。
(お兄ちゃん……川瀬先輩っ……!)
聖タチバナはたまらずまたタイムを取り、今度は内野陣全員がマウンドへ集まる。
「あちゃ〜、流石に交代ッスかねー……」
タチバナの投手陣は後ろにあと3人も控えている。
まだ初回ではあるものの頭数は揃っているため、リリーフを出しても問題ないだろう。
−–−–−しかし、試合の流れとしては最悪だ。
このピンチを火消しするのも難しいし、これ以上点を奪われるということは、あの山口賢から最低でも4点以上は取らないと負けを意味してしまうからだ。
やっぱり帝王実業には勝てないのかな……。
一瞬、心に流れてきた諦めの一言。
私の心が折れかけたその時だった−–−–−
「えっ……?」
「えっ、ちょっ!?」
私達だけじゃない。
他の観客や両校の応援席からも驚きの声がちらほらと聞こえてきた。
だってこんなの見せつけられたら……驚くに決まってるもん。
六道さんが橘さんの頬を思いっきりつねってるんだから−–−–−。
まさか初回で2度もタイムを取る羽目になるとは考えてもいなかった。
だが、みずきの体たらくっぷりに私もそろそろ限界だった。
何が大丈夫だ。その結果がスリーランから満塁のピンチなのか? いつものみずきなら点は取られても内容はここまで酷くはない。
バッテリーとして、今度は思ってることを全部言わせてもらうぞ。
「どうすんだよ一ノ瀬。この調子じゃ追加点濃厚だぞ」
「俺は変えたほうがいいと思うっす。今日のみずきさん……明らかに調子悪そうですし……」
「………………」
みずきは無言で俯いたまま。
誰の目を見ても分かる、完全に集中力の糸が切れている状態だ。気分屋のみずきが集中力という生命線を欠けてしまってはもう抑えることはできないだろう。
大島が継投を提案するのも無理はなかった。
「……聖ちゃんはどう思う?」
大地はあくまでも私に決めてほしそうだった。
今日のみずきの相棒は私で、この中でみずきのことを1番知っているのも私だからだ。
セオリーならここで交代か、これ以上点を取られたら交代の、どちらにせよ交代するのが通説だが、私は−–−–−
「みずき、私は失望したぞ」
「…………」
「あれだけ大口を叩いてこの有様か? 普段ならもっと我儘で自分本位なみずきが、格上相手だと借りてきた猫なようだな。 情けない」
「っ……」
「ちょっと聖ちゃん、いくらなんでも言い過ぎじゃ−–−–−」
「今宮、ちょっと待て」
−–−–−ありがとう、大地。
「みずき……っ!!、なんとか言ったらどうなんだ! 目を覚ませ!!」
「はぐっ!?、いたたたた! つつつへらないでほー!!!」
「はぁ!?」
「ぷっ……くくっ」
「……マジかよ」
私の奇行に、他の内野陣は三者三様の反応を見せた。
後々になって振り返ると、この時の私は気が付いていたら先に手が出ていたと思ってる。
でも−–−–−試合中にみずきの頬をつねったのは、実はこれが2度目だった。
1度目は私たちがまだリトルリーグで野球をしていた頃。
忘れもしない、私とみずきが初めてバッテリーを組んだ試合だ。
『うるさいなー! 聖のサイン通り投げたら打たれたんだからもうい・や・だ!』
私が要求したコースを弾き返されて連打を浴び、初回から4失点を喫してしまったのだ。
確かに全て私の出したサインだったから文句を言われても言い返せないが、私にも言い分はあった。
『……みずきも途中で二連続四球に暴投で失点もあった。一概に私だけのせいでは−–−–−』
『うるさいっ! 私は悪くないもん!! ぜーんぶ的外れなサインを出す聖が悪いの!!』
ブチッ−–−–−と頭の中で何かが切れた。
そして気づけば私はミットを地面に置き、両手でみずきの頬を−–−–−
『痛い痛い痛いー!!』
『ちょっと2人とも!! なにやってるの!!』
その後、監督に罰として交代されると試合後はこってりと絞られ、最悪なデビュー戦として今でも私の脳に最悪な思い出として刻まれていた。
『みずき−–−–−』
『バカ聖。 もうあなたとは絶対に組まないから』
あの試合以降、しばらくの間、みずきは私とのバッテリーを拒み続けた。先に手を出したのは私だったからあれから何度も謝ってはいたものの、みずきの強情っぷりにはとてもかなわなかった。
『つねったりして本当にすまないと思ってる。 でもみずき、困ったときこそ私を信じてほしい。 みずきは私が一方的にリードを決めてると思い込んでいるがそれは違う。私は私でみずきの投げるボールを信頼して決めてるんだ。私ももっと相手を研究していれば抑えられていたかもしれないし、みずきももっと熱くならず、いつもの自分のピッチングがあできていれば結果はまた変わっていたかもしれないぞ』
『………………』
『約束する。私ももっとキャッチャーとして強くなる。だからみずきも自分を見失わない強さをもってほしい。どんな辛い状況でも、私が構えたミットを信じて投げ込んでくれ』
『聖……』
「みずき。前にもあったな、こんなことが」
「あ……」
「帝王に勝ちたいのはみずきだけじゃない。私も、友沢も、大地も、今宮も、大島も、涼子も、東出も、他の皆だって同じなんだ。だから……もっと味方を信じて、リラックスして投げ込んでこい」
「でも唐沢にホームラン打たれちゃって……満塁のピンチなんだよ? 変えたほうが−–−–−」
「それはいつものみずきじゃなかったからだ。大丈夫。今度打たれたら全部私に責任をなすりつけてくれていい。だから−–−–−私がみずきを信じてるように、みずきも私を信じてくれ」
「!!」
『あのー、そろそろいいですか? それに今、キャッチャーの子が頬をつねってたように見えたんですが……』
「あっ、あー大丈夫ですよ!! これはただのスキンシップで決して暴力なんかじゃないですからー!」
『?、そうですか……とにかくもう戻って下さい』
気づけば帝王ベンチは少し苛立ちながらマウンドを睨んでいた。
そろそろ戻らないと文句も飛び出してくる。とりあえず言うことは言った。あとはみずきを信じて戻ろう。
「大地、続投でもいいか?」
「構わんよ。みずきちゃん、いけるな?」
「……うん」
結論を出し、それぞれのポジションに戻っていく。
「聖っ」
「?、どうした?」
みずきに呼び止められ、くるりと振り向く。
するとみずきは優しく笑いながら、こう言った。
「−–−–−ありがとう。やっぱり最高のパートナーだよ、聖は」
「!!……私もだ。この試合、絶対に勝とう」
全く……私の相棒は世話のかかる奴だ。
『ットーライッ! バッターアウトォ! チェンジ!』
豹変、とはまさにこのことだろう。
あれからみずきちゃんは快刀乱麻のピッチングを披露。8番の早瀬は全球クレッセントで三振、続く山口は内角のストレートを完全に詰まらせ、キャッチャーフライ。そして1番の坂本は緩急を生かした投球術でタイミングをずらし、なんと三球三振だ。
「ナイピッチみずきちゃん!」
「全く。エンジンのかかりが遅すぎるんだよ。初めからこれをやれ」
「うぐ〜、ムカつくけど何も言い返せない……!」
完璧な事実だからいくら友沢のセリフでも言い返せないでいた。
とりあえず満塁のピンチは切り抜けられたが、3対0と離されてしまっている。しかも先発はお化けフォークの異名を持つ、山口賢だ。
「友沢、頼むぞ。なんとか塁に出て後続に繋げるんだ」
「一ノ瀬、なんとかじゃダメだろ。絶対、だ」
「ふ、そうだな。頼むぜ主砲!」
『一回の表、聖タチバナの攻撃。1番ショート、友沢君」
軽く一礼し、左打席に友沢が入る。
大きく右足を振り上げるマサカリ投法から、142キロのストレートが低めに決まった。
「ナイボー!」
ワンストライクからの2球目はさっそく代名詞であるフォークが飛び出してきた。ボールはストン、と手元で急激に落ち、友沢のバットの下を通過していく。
「っとぉ!」
唐沢はうまくワンバウンド処理して捕球する。
やっぱりフォークの捕球は自分のモノにしてやがるな。友沢クラスでも山口のフォークを一打席で打つのは難しいか……。
3球目は見せ球のフォークを使い、これはボールに。
依然追い込まれたまま迎えた4球目−–−–−。
「っ!!」
追い込まれてから使う" 三振を取る "フォークだ。
友沢もなんとかバットに当て、打球はショートとレフトの間をフライで飛んでいく。
「まて、これは面白い当たりだ!」
「ワンチャンテキサスになる、走れ友沢!」
予感は的中。
打ち取ったあたりではあるも、打球はショートのグラブのを通過し、地面に落ちた。
「よしっ! ランナー出た!!」
「ナイスです友沢先輩!!」
友沢は全く嬉しくなさそうに塁上でバッティンググローブを外していた。まぁ今のはアイツの当たりとは言えないからな。悔しがるのも無理ない。
続く聖ちゃんには送りバントのサインを出し、手堅く三塁方向へ転がし、ワンナウト・ランナー2塁になった。
『3番サード、大島君』
さあて、次は期待のバッターのご登壇だぜ。
俺の掲げる勝ち筋は友沢の出塁から聖ちゃんが繋ぎ、大島が打って点を取る。そして俺や今宮、八木沼が打てる限り打つという構図だ。
その1番の鍵を握る男−–−–−それが覚醒の兆しを見せている大島だってわけだ。
(山口、コイツは前の試合で一度も変化球を当てれていなかった。とりあえずフォークを投げ込んでいれば打たれる心配はまずない)
(……了解した)
セットアップから山口が投じたのはフォークだ。
初球はピクリとも動かないで見送った。
『ットーライクッ!』
いつものオープンスタンスの構えでなく、力の全く入っていない棒立ちの構え。知らない人間からすればやる気のないように見えるが、これが大島なりの最も集中した構えなのだ。
(なんだコイツ……打つ気が全く感じられんな。山口、3球勝負でとっとと終わらせるぞ)
山口がサインに頷き、振りかぶる。
外角低めに落ちる決め球のフォーク。山口が全力投球でねじ伏せにしている証拠だ。
(来たボールを確実に当てるだけ−–−–−)
キィイィンッ!!
「何っ!?」
「っ!?」
逆らわず、お手本のように流し打った打球はライトのポール際へと伸びていく。まさか……入るのか!?
「頼むっ、行ってくれ!」
が、打球はわずかにライトのポールから右にそれ、塁審はファールの判定をした。
「今の打ち方は……」
「ああ。アイツ、友沢でさえ見てからだとテキサスヒットがやっとだってのに、今の打ち方はちゃんと見た後で完璧に捉えていた」
つまりこれで証明された。
大島は変化球は不得意でなく、思考や狙いを変えることによって自在にあらゆるボールに対応できるバッティング力をを持っている。
そう、友沢と同じ−–−–−紛れもない打撃の天才だ。
が、続く3球目はフォークをまた当てるもレフトフライに終わり、俺もフルカウントまで粘るが、最後はショートゴロに倒れてチェンジとなった。
「……友沢。これは有るな」
「だろ? 次の打席が……本当の意味で勝負になりそうだ」
大島は打ち取られたにもかかわらず、冷静だ。
何も語らず、グラブを着けてサードへの守備へと就いていった。
いつもの騒がしい雰囲気とは打って変わって、その静けさは不気味にさえ感じてしまうほどだ。
「みずき、この回もきっちり抑えるぞ」
「うん! みずきもリードお願いね!」
こちらもすっかり立ち直り、2番の猫神はスクリューを引っ掛け、ファーストゴロ。
そして次は早くも2度目となる因縁の相手−–−–−蛇島だ。
(マグレが続いてるからっていい気になるなよ。今度こそ息の根を止めてやる)
蛇島への初球−–−–−外角低めへのストレート。
初球から果敢に振りに行くも、振り遅れて弱々しく一塁側ファールゾーンを転がっていく
『ファール!』
「ちっ……!」
やはり最初とは明らかに球のキレも球威も違う。表情も迷いが完全に吹っ切れ、自信を持って投げ込めている。
2球目はスクリューが低めに外れてボール、3球目はインハイのストレートを振り抜くが、今度は三塁ファールゾーンへのゴロだ。
(なぜだ……さっきより球の質が違う。芯の近くを捉えているのに打球が飛ばない……!)
4球目−–−–−。
一打席目と同じインローへのクレッセントムーン。が、今度は一打席目と変わり、投じられたボールは聖ちゃんのミットに寸分の狂いもなく吸い込まれた。
『ットーライッ! バッターアウト!!』
「いよしっ!」
「ナイスピッチみずきーっ!!」
すげぇな……あの蛇島が全く手を出せていなかったぜ。
聖ちゃんの説教一つでここまで人って変われるのかよ、参ったぜこりゃ。
ツーアウトから次のバッターは前にホームランを打たれている唐沢だが、3ボール・2ストライクからの7球目だ。
「任せろっ!!」
鋭いゴロが一・二塁感を襲うが今宮の守備取りが上手く、滑り込んでこれを捕球、素早いスローイングで唐沢を見事に刺した。
『アウトォ!!』
リズムの良いピッチングが他の守備陣にも良い影響を与えている。
2回表はバッテリーの活躍でクリーンナップを3人で打ち取り、チェンジに。
このままの流れで点を取りたいが、次の回は山口のフォークに歯が立たず、なんと三者連続三振で終わった。
それでもバッテリーは腐らず、3回も三振を挟んで3人で終わらせてみせた。
「いい調子だな、2人とも」
「うむ。みずきのボールが良いからだ」
「やめてよ聖〜、アンタのリードがあっての私なんだからっ」
「それは……素直に嬉しいな」
この2人のためにも、そろそろ一点でもいいから返してやりたいな。
この回は少なくとも友沢に2打席目が回ってくる。
チャンスを仕掛けるなら……ここだ!