Glory of battery   作:グレイスターリング

15 / 48
第十四話 vs海堂学園高校

 五月第一週目の日曜日。

 この日は聖タチバナ野球部の初試合だ。

 今日までの約三週間、特に笠原・岩本を中心に基礎トレーニングをやってやってやりまくった。野球の『や』の字も分からない初心者でも、どうにかして試合に出れるまでのレベルに上げたつもりだから、後は二人の頑張り次第だな。

 今日はみずきちゃんのお爺さんも直接グラウンドに来て試合観戦をする。あの人曰く、『野球に価値があるかを証明しろ』って事だけど、俺は野球に価値観を付けるつもりはないけどな。楽しいか楽しくないかは人それぞれなんだし、少なくとも俺や皆、みずきちゃんは野球が大好きなんだ。今日は俺達が野球をしたいんだって意志を、お爺さんにも分からせてやるぜ。

 

「あ、もしかしてあのバス!?」

「……いよいよ来たか」

 

 グラウンドすぐそばの駐車場に一台の大型バスが停まり、次々とユニフォームを着た選手が降りてくる。

 海堂高校の二軍だ──。

 が、そのほとんどは一年生で構成されている。早い話、向こう側としてはただの調整試合にしか考えてないだろう。それにしても一年生だけとは随分舐められたもんだぜ。

 二十代の若い女性がバスから降り、聖名子先生の元へと歩いて挨拶を交わす。

 

「海堂高校野球部、二軍監督の“早乙女静香”です。練習試合、ありがとうございます」

「こちらこそ遠い所をわざわざお越しいただき、ありがとうございます。ベンチは三塁側が空いてますのでそこをお使いください」

 

 ふーん、あの人が海堂二軍の監督か。

 ああやって綺麗な女性二人が話してる絵を見ると、何だか別の意味で緊張しちまうな。

 黒髪ロングヘアーに緑と青を混ぜた感じのおさげは年頃の男子高校生ならだいたいが虜になる組合せじゃないか?

 さて、そろそろ試合モードに切り替えていくとしよう。今は目の前の試合に集中だ。

 

「ふん。気合いは充分そうだな」

「あ!お爺ちゃん!?」

 

 甲高い声を挙げてみずきちゃんが反応する。

 やっぱり怖そうな雰囲気を漂わせてるなぁ。近より難い存在だぜ。

 

「わしはただベンチに座っているのみ。大事な会議を蹴ってまで観に来てやったんじゃからな。情けない試合をしたら…」

「分かってますよ。でも約束は守ってもらいますからね?」

「わしは言った約束は破らん男じゃ。後はお前さん達の努力次第じゃな」

 

 勝負前だってのにこの二人(友沢とお爺さん)はもう決戦の火花を散らしてるぞ。対抗心持つのは良いけど、相手が違うからな。気を付けろよ。

 

「それじゃあ皆集まれー!」

 

 ピリピリとした雰囲気を変えるため、俺は全員を呼んでミーティングをすることにした。

 友沢以外にもみずきちゃんは顔が死んでるし、笠原と岩本だって緊張してるのがバレパレだ。これじゃあ体が固くなってベストパフォーマンスが発揮されないからかなりまずい。

 

「少し早いけど、今からオーダーを発表する。するんだけどさ……全体的に皆暗いぞ?特にそこの三人はムンクの叫びみたいな顔してるからスマイルな。友沢も大丈夫とは思うけど切り替えをしっかりしろよ。」

「みずき、大地の言う通りだぞ。お爺さんがいるのを理由に萎縮してしまったらそれこそいけない。いい加減腹を括って試合に集中しよう」

「う…分かったわよ……」

 

 やっぱ長年バッテリーを組んでいた事はあるな。

 そして今日のオーダーも、その二人が試合の命運を握る存在かもしれないぜ。

 

「では発表するぞ。一番センター八木沼」

「俺は一番か。了解」

 

 八木沼はミート力と機動力に長けてるから一番にするのは当然だな。

 

「二番キャッチャー六道」

「む。私がキャッチャーか……分かったぞ」

 

 俺をキャッチャーから外した理由はまた後で説明するとして、

 

「三番ショート友沢」

「ああ」

「四番サード俺、五番セカンド今宮」

「おう!必ず打ってやるぜ~」

 

 コイツ一人だけはテンションが異常に高いな。ま、悪いことじゃないけど…。

 

「六番ファースト大京」

「分かりました」

「七番ライト岩本」

「皆の足を引っ張らないように頑張るよ」

「八番レフト原」

「出塁したらかき回したる!」

「最後に九番ピッチャー橘」

「っ…うんっ!!」

「以上が今日のオーダーだから各自打順とか間違えるなよ。涼子と宇津はリリーフスタートだけどいつでも登板出来るよう、しっかり肩を温めておくように。それじゃあ質問がある奴は…八木沼」

「昨日、エースナンバーの川瀬に投げさせてもらうと言ってたのに、どうして橘を先発にしたんだ?それにお前がサードに行くって……なんか策でもあるのか?」

「色々と試合前に悩んだんだけどね……第一にお爺さんが来てるならみずきちゃんが先発で投げてる所を観せ、アピールするのがクリアへの近道じゃないかな?第二は夏を想定しての配慮──ウチの投手三人の中で一番先発に向いてるのがスタミナもあって球種が豊富な涼子だと考えた。でもこの暑く登板期間が多くなる夏を一人で先発させては負担も倍増する。そこで左利きのサイドスロー、すなわち変則派のみずきちゃんにも先発の経験を積ませれば成長にもなるし、別タイプの二本柱を完成させ、ワンポイントやセーブ場面を宇津で締めて勝ちをもぎ取る“タチバナ必勝リレー”を造り上げる、その目的も兼ねて、今日の試合を投げさせたいんだ」

 

 そしてバッテリー経験の多い聖ちゃんと組ませることによって、精密に考え込まれた配給と高次元の制球力が合わさってより投球に精度が増す。

 精神面でも付き合いの長さが功を奏するはずだ。

 聖ちゃんは頭が良いからその辺は理解してもらえるだろう。

 

『各校の代表者はホーム前に集まってください』

「てな事だから後は八木沼に任せる。聖ちゃんは投球練習に付き合ってあげて」

 

 皆を残し、ホーム前へ俺が向かう。

 海堂の代表者も遅れて来たが、ソイツが意外な人物であった──

 

「お前…一ノ瀬大地じゃないか?」

「ん?どうして俺の名前を…あれ?お前は確かリトルの時に戦った──」

「薬師寺祐介だ。久しぶりだな、一ノ瀬」

「おおっ!あの時、おてんばピンキーズでキャプテンをしてた奴か!?」

「覚えてくれてたとは光栄だ。お前の活躍も聞いてる。あの猪狩が認めた捕手がまさかここにいたとは驚いた」

「ま、色々俺にも都合ってもんがあるからな……」

「ではお喋りはここまでにして、先攻後攻は聖タチバナが決めろ」

「じゃんけんはしないのか?」

「すまないが誰の目から見ても力に歴然の差があるんだ。いくらお前がいたとしても海堂の勝ちは変わらない」 

「久しぶりなのに手厳しい一言だな。じゃあ先攻を貰おうか」

「それと監督命令なんだが、七点差がついたらそこで打ち切りにしてとの事だ。そうなっては練習にならないからせめて五回までは楽しませてくれよ」

「随分と言ってくれるな。必ず舐めてかかってきたこと、後悔させてやるよ」

 

 ふ、と鼻で笑い、薬師寺はベンチに帰っていった。

 常勝海堂かなんか知らないけど、こっちはいろんな物を背負ってんだ。

 負けたらみずきちゃんを失い、チームにも勢いがつかなくなる──。

 この初戦を絶対勝って、お前らをギャフンと言わせてやるよ!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 両校とも試合前のノックが終わり、いよいよ試合が始まろうとする。

 海堂高校のスターティングオーダーは、

 

一番ライト 矢尾板

二番セカンド 渡嘉敷

三番サード 薬師寺

四番ファースト 大場

五番レフト 石松

六番キャッチャー 米倉

七番センター 原田

八番ショート 西城

九番ピッチャー 市原

 

 全員が全国で名の知れた選手だ。

 特に薬師寺と米倉はリトル時代にも戦った経歴もあり、市原は右の軟投派として紹介されるほどの実力を持つピッチャー。

 恐らく現時点で打てる見込みがあるのは友沢・俺・聖ちゃん・八木沼・今宮の五人だけで、正直他はレベルが違いすぎて完璧に捉えるのはかなり厳しいと思う。

 勝敗を握るのはバッテリーの二人。

 いかにして点を与えないか──そこが今日のターニングポイントになりそうだ。

 

 

 

『これより聖タチバナ学園高校対海堂学園高校の練習試合を始めます!相互に礼!!』

『お願いしまーす!!!!』

 

 挨拶をして、俺達はベンチに戻る。

 発足したばかりの野球部とは言えどもさすがはお金持ち高校の聖タチバナ。練習試合でも本番と同じ、ウグイス嬢が名前を読み上げていく。

 

『一回の表。聖タチバナ学園の攻撃は、一番センター八木沼君』

 

 バットを左手で持ち、八木沼がバッターボックスへと向かう。

 市原がロジンバッグを地面に落とし、セットアップで振りかぶる。

 投げられたボールは米倉の構えた所へピンポイントへ収まった。

 

『ストライッ!!』

 

 速いな。

 だいたい百三十中半ってところだが、球のキレがやたらに良い。

 その上何球種もの変化球を混ぜてくるとなれば、狙い球を絞るのは困難になるぞ。

 

(本格派でないと聞いたが球威はそれなりにあるな。まだどの変化球を持っているか分からないからまずは持ち球を探りだしてみるか……)

 

 二球目は真ん中から外へ逃げるスライダー。

 これはゾーンから僅かに外れてボールとなる。

 今のは良く選んだな。焦らずじっくりと見ている証拠だ。

 次に放たれたのはインローのシュート。

 スイングするも当たった場所はバットの根っ子。

 ボテボテの当たりはサード線を弱々しく転がるが、サード塁審が手を挙げてファールになった。

 

「あ~…今のフェアだったら内野安打になったかもしれないのに…」

 

 隣に座る涼子が残念そうに呟く。

 八木沼は右打者ながらもスタートダッシュが速いので、ゴロな限り内野正面でもヒットにさせる脚力があるから一番にした。

 そんな期待を持つも、五球目のカーブを引っ掻けてしまい、セカンドフライ。

 渡嘉敷が手を広げてキャッチし、ワンアウトになる。

 

「八木沼、どうだった?」

「ストレート・カーブ・スライダー・シュートとも一年生とは思えないほどの切れ味だったな。多分山を張らなきゃ打つのは難しいと思う」

「そうか。貴重なデータ回収ありがとな」

 

 まだ一巡目だとしても、巧打の八木沼がこうも簡単に打ち取られるとは、伊達に“常勝海堂”って呼ばれるだけの事はあるな。

 

『二番キャッチャー、六道さん』

「聖ーっ!何としてでも打つのよー!!」

 

 みずきちゃんの声援に軽く手を挙げて応え、ゆったりとして構えで立つ。

 米倉と市原が帽子越しでほくそ笑んでいるのが見える。女性選手だからって舐めたら困るぜ、バッテリーさんよ。

 対する初球は低めギリギリのスライダー。

 バットを短く持ち、くさいコースながらも食らい付いてカットする。

 

『ファール!』

 

 うん、よく当てに行ったな。

 冷静にボールを見ながらも打っていこうと言う強気な姿勢がこっちにも伝わってくるぜ。

 二球目は高めにストレートが外れてボールになり、三球目──

 

 

  ッギィインッ!!!

 

 

 アウトコースのカーブを逆らわず右に流し打ちし、ライナー性の打球がライト方向を襲う。

 金属音が後から聞こえた瞬間、ベンチ一帯に座っていたメンバーがピクッと反応し、飛んでいく方向へ目を向けた。

 あまりにも完璧な当たりだったから俺も「ヒットだ!」と心で決め付けていたが、運悪く落下地点はライト定位置。

 

『アウトォ!』

 

 矢尾板が両手でがっちりと掴んでライトライナーに終わった。

 腕を畳んで綺麗に運んだんだがなぁ。弾道が逆に良すぎて捕られちまったか。

 悔しそうな表情をしながら聖ちゃんが戻って来る。

 

「すまない皆。出塁できなかった…」

「いや、あれはヒット以上に価値があるバッティングだよ。初打席であそこまで飛ばせるなんて、聖ちゃんは凄いよ」

「すっ、凄い、か?大地がそう言うなら私は………」

 

 あれ?さっきまでの落ち込みから一転、今度は嬉しそうな顔をしてにやけてるぞ?俺の言葉を真撃に受けて止めてくれるのは良いけど、普段笑わない聖ちゃんが笑うと可愛くて照れるな…。

 

「…ほらほら!試合に集中する!!今度は友沢君が打席だし、大地君だってネクストでしょ!」

「ん、ああ。悪い悪い」

 

 聖ちゃんと涼子が顔を見合わせながら俺の方をチラチラ見てるけどなんだこりゃ?

 意味分からんけど、二人も試合に集中しろよ。

 

『三番ショート、友沢君』

「……お願いします」

 

 ──雰囲気が変わったな。

 強打者特有の、この人なら必ず打ってくれるって気持ちにさせるっつうか、少なくとも一年近く野球辞めた人間が出せるオーラじゃないぞこれは。

 練習でも見せたことの無いその秘めた力。

 市原・米倉も察知したのか、一球目はアウトコース低めに外れるスライダーから行った。

 

『ボーッ!』

 

 友沢相手にはいきなり厳しいコースを要求してきたな。

 高レベルなアベレージヒッター相手には一寸でも甘いコースに入ると容赦なく初球から叩いてくるからまずはボール球で出方を見てきたわけだ。

 二球目──

 左打席に立つ友沢にしてみれば外側に逃げてくシュート。

 海堂にしては甘い配球でも、友沢はそれを見逃さずフルスイングする。

 ガアッンッ!!と凄まじい轟音と共に、ボールは左中間を抜けた。

 石松がクッションボールを上手く処理するが、悠々セーフで二塁打となった。

 

「ナイバッチ友沢ー!!!」

「ナイスバッティングだよー!」

「ほう……少しはやるようじゃな」

 

 見てるか友沢。今みずきちゃんのお爺さんが見直してたぞ。

 せっかく繋げてくれたんだから、俺もそれに応えてみせる!

 

『四番サード、一ノ瀬君』

 

 うーしっ!ここは単打でも友沢を帰すことを優先し、先制点を奪って重圧をかけてやるぜ。

 ヤル気満々の状態で打席に立って市原を迎え撃つ。

 ──が、その意気込みは無情にも届かなかった。

 

 

 

    米倉がその場を立ち、右手を横にする。

 

 

 

(!!)

 

 

 

 ボールは左打席上、右打者のバットが届かない所を通過していく。

 正直こうなることも予想はできていた。しかし本当に勝負を避けられるとは驚きを隠せない。

 

「ふざけんな!初回でもう敬遠するなんて…お前らそれでも海堂高校かよ!!!」

「落ち着け今宮!これだって一つの戦術だろ」

 

 一塁ベンチから今宮の怒声が鋭く耳に入った。

 それでもバッテリー何食わぬ顔で敬遠を続ける。

 ここで敬遠球を打つ荒手もあるが、それで点を取ってもチームに勢いは乗らないだろう。あくまで打つ体勢と表情は一切変えないで構える。それが四番を背負う者の意志だ。

 

『ボールフォア!!』

 

 結局一度も振らずに一塁へ歩かされ、五番の今宮が気に食わない顔で打席に入った。

 

「舐めやがって…絶対打つからな!」

(ふん、何度でも言ってろ。友沢と一ノ瀬さえマークすれば百パーセントウチが勝つからな)

 

 今宮のフォームは完全なるオープンスタンス。

 友沢から聞いた話では、元々今宮は打撃が上手な選手ではなかったらしい。それが帝王でクリーンナップを張るまでに成長できたのは、このオープンスタンスが始まりだと言う。

 

 

  アイツは六道と反対な選手──

 

 

 

 選球眼が皆無に等しく、打つ瞬間も体を直ぐ開いてしまう欠点を持っていたらしい。パワーやミートがあってもバットに当たらない。当たっても外野へ飛ばない。基本充実なスタンダード打法なのにその難癖は一行に直らず、中二の夏まで二軍のベンチにさえ入れなかったほどだ。

 今宮自身、野球部を辞めようかと考えていた時、転機は訪れた──

 

 

「なぁ今宮。お前、オープンスタンスで打ってみたらどうだ?」

 

 

 そう提案したのは友沢。

 ほんの気休め程度の嘘で言ったつもりが、今宮は本気で受けてしまい、翌日から直ぐ様オープンでの打法に変えて練習に参加。

 それが奇跡的にマッチしたのか、その日から今宮の打撃成績は一転する。

 十打席で一本打てるかどうかの打率がなんと四割越えをマーク。四球も劇的に増えて出塁率も大幅に向上し、気付けば一軍で六番を打つまでに成長していた。

 その過去を教えてもらった後、雑誌でオープンスタンスの特集を取り上げていた記事を見つけ、読んでみた。するとそこにはまだ俺も知らなかった面白い話が書かれていた。

 

 ・オープンスタンスはボールを見極めやすい構えであり、体の開きも最小限に抑えられる。

 

 ぷっ、まんまその通りじゃんと思ったが、オープンに切り替えたお陰で著しく良い成長を遂げたし、こうして俺達とタチバナ野球部でプレーができるんだ。そう考えれば運命の恐ろしさってやつを改めて実感させた、特別なフォームだ。

 

 

  カキィイン!!

 

 

 その日もオープンスタンスは冴え渡り、四球目のカーブを強引に引っ張り、レフト左横を抜けるタイムリーツーベースヒット。

 二対0となり、この試合初の得点が入った。

 

「っしゃっ!!」

 

 喜びのあまり塁上でガッツボーズをする今宮。

 コースだってそれほど甘くなかった。それでも長打にできたのは紛れもなくアイツの実力だ。

 アホだけど素直に認めよう。アイツはチームで一番野球を心から好きでいて、良きムードメーカーかもしれないな。

 

「いまみーナイバッチ!」

「続けよ大京ー!」

 

 ベンチに戻ると、みずきちゃん達が投球練習を既に始めていた。

 横で様子を伺う限り、やはり球威は劣ってしまう分、コントロールはいつにも増して冴え渡っている。

 特にみずきちゃんの武器である“二種類のスクリューボール”がどこまで海堂打線に通用するかも注目だ。

 その一分後、大京は空振り三振に終わって帰ってくる。

 

「すいません。不甲斐ない結果で……」

「ドンマイドンマイ!まだ一打席目なんだし、今度は守備を頑張ろーぜ!」

 

 今宮が大京の背中を叩いてやる。

 あれがアイツなりの慰め方なんだろうな。

 

「行くぞみずき」

「ええ!」

 

 二点を取り、幸先の良いスタートが切れた。

 守備でもまずは初回を無失点に抑え、試合の主導権を握ればこっちのもんだ!

 

 

 

「ふーん。中々やるじゃん、バナ学園」

「市原がいきなり二失点とはな。しかしサービスはここまでだ…!」

 

 

 

 

 

『一回の裏、海堂学園高校の攻撃は、一番ライト矢尾板君』

 

 矢尾板が左打席に立つ。

 確か関東大会で見たことがある奴だ。

 八木沼と同じ一番打者タイプで、パワーは無いものの、盗塁成功率百パーセントを誇る俊足が売りの厄介な打者だったはず。

 

(このバッターはゴロでも禁物だ。セーフティも視野に入れながら投球するぞ)

 

 みずきちゃんが頷き、上半身と左腕を大きく後ろへ回し、真横のまま腕を振ってリリースする。

 ボールはアウトローに構えていたミットに狂いもなく投げ込まれた。

 

『ストライッ!』

「みずき、ナイスボールだぞ!」

「うん!」

 

 ニッコリと笑いながらボールを受け取る。

 横手からリリースされるこのフォーム──サイドスロー。

 でもみずきちゃんのサイドスローはそれにオリジナルを加えたフォームに改造されている。

 通常のサイドスローはセットアップなり、ワインドアップをして投球の前に溜めを作るのか基本動作なのだが、みずきちゃんのはそのどちらでもない。

 

 

 スバンッ!

 

『ストライクツー!』

 

 初期動作が無い。すなわち振りかぶらないのだ。

 セットのまま左足一本だげで体重を支え、体をおもいっきり捻りながら投げる。

 世界で見てもこんな投げ方をするピッチャーは誰一人としていないだろう。片足だけでバランスを維持し、急激な捻り作用を加えるのだがら、それを実現させるには強靭な足腰と体幹が必要となってくる。

 涼子がVスライダーをマスターした時のように、みずきちゃんも自分なりに投手として濃密な時間を過ごし、沢山の努力をしてようやく手に入れた──自分だけの武器だ。

 

 

『ストラックアウト!』

「ナイスピッチだみずきー!」

「ふふっ、とーぜんよ!!」

 

 矢尾板の懐を抉るかのように切れ込むスクリューがインローに決まって見逃し三振。

 このボールも『変化量が多いスクリュー』と『変化量が少ないスクリュー』の両方を巧みに使い分け、打者を翻弄している。

 出所の読めないサイドスローと二種類に操るスクリュー。

 とても十六歳の少女が投げれる芸当ではないぜ。

 

 

「どうだ?」

「お前の言う通り、良いピッチャーだな。特にあの出所の分からんサイドスローが非常に厄介だし、その習性を利用してクロスファイヤーも使いこなしてやがる。女じゃなかったら特待生枠でウチに入学できるほどだぜ、あれはよ」

「そうか……でも気持ち良く投げれるのも三回までだ。橘には投手として“重大な欠点”がある」

 

 

 続く二番の渡嘉敷もみずきちゃんのボールについていくのがやっと。

 八球の末、低めのストレートを打ち損じてショートゴロ。友沢が華麗なスローイングを魅せ、ファーストの大京が余裕でキャッチする。

 

『アウト!』

 

 うん、落ち着いてきてるな。

 お爺さんが観てるから多少ナーバスになってると思ったが固さも無く、腕もしっかりと振れている。

 

 

『三番サード、薬師寺君』

 

 俺の経験では薬師寺の苦手コースはインコース高めで得意コースは外角と低め全般だったはず。なら決め球をインハイにし、低め以外の場所に配球しながらカウントを稼ぐのがセオリー。それは間違いなく俺がキャッチャーをしていてもやってるリードだが、果たして聖ちゃんはどうするんだ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「六道。久しぶりだな」

 

 私の方を向いて喋るのはかつてのチームメイト。

 大地が貰ったオーダー表を目に通したときはまさかと疑ったが、ウグイス嬢のコールを聞いてそれが真実だと今更知った。

 

「一つ聞いても良いか?」

「…何だ?」

「早川や小山…矢部、そして一ノ瀬大地。どうして強豪校からの推薦を蹴ってまで新設野球部へ入ったんだ?俺にはお前らのやりたいことが全く理解できない」

 

 薬師寺は私がパワフル高校から推薦が来ていたことを知ってたのか…?

 確かに私は神奈川県の公立校ではNo.1の実力を誇る『パワプロ高等学校』の監督から何度も入部の催促を受けたことがあった。そこには中学最強スラッガーの異名を持つ東絛小次郎や同じシニアで活躍していた元相棒の『鈴本大輔』など、次世代を見据えた補強をしていた。その中に私の実力も認められ、正直嬉しかった。

 

 

『また聖とバッテリーが組めて僕は嬉しいよ』

 

 

 笑いながら祝福してくれたその男は今、一年生ながらもエース候補としてどんどん進化していくだろう。

 

 

『嬉しいが…私は他の高校で野球がしたいんだ。みずきや大地もそこで甲子園目指して動き出そうとしてるんだ。すまないが私は断る』

『そっか…。じゃあ次会う時は敵同士になるけど情けはかけないよ!聖も一ノ瀬も、僕が全力で倒す!!』

『ふふっ。それは私もだ!絶対パワフル高校を倒して日本一になる!!』

 

 

 それにひきかえ私は無名高校の捕手。

 今は知名度・実力、両方とも負けてると思う。

 

 

 

「──でもこれで良いんだ。なぜなら私が選んで決めた事だからな」

 

 

 たった三年間しかない高校野球。

 一から全てを創り、そこから這い上がって並みいるライバル達を倒す。

 それだって面白い事じゃないか?

 

 

「そうか…それを聞いて安心した」

 

 笑いながらバットを構え直す。

 元おてんばピンキーズの四番バッターで海堂高校所属の薬師寺祐介。

 私のリードがどこまで通用するか…勝負だ!

 

(まずはインコースのストレート。手の内を知られている以上、小細工は通用しないから定石通りに攻める)

 

 みずきがゆっくりと頷いて投球動作へ入る。

 回転の掛かったキレの良いストレートが丁度私の構えたいた所へ寸分の誤差もなく制球された。

 

『ストライッ!』

 

 薬師寺はピクリともせず見送る。

 推測上だが、海堂側の狙いはみずきのスタミナを削る事だろう。二番を打っていた八重歯男の粘りは意図的に実行した作戦で、それを指示したのも薬師寺のはず。

 なら相方の私ができることは、

 

(少ない球数で打者を抑えるしかない。見せ球も使いたいが、ここは三球勝負だ)

 

 二球目は同じコースに“第二のスクリュー”を要求。

 三番打者相手にこれは不用意かもしれないが、薬師寺はインコースに来た時の打率が二割飛んで三厘しかないのだ。

 それなら意表をついて外角を投げるより、データに基づいて組み立てた方が確率は高いし、大地もきっとそう選択する。

 間髪入れず直ぐ様左腕を振り、一切乱れの無いフォームで投じる。

 

「あまり調子に乗るなよ!!」

 

 

  

  ッキィィン!!!

 

 

(なっ!?)

 

 

 苦手ながらも瞬時にオープンスタンスへスイッチして無理矢理引っ張った。

 快音を残しながら打球はライトフェンスへ大きな当たりだ。あの角度は確実にフェンスを越える。頼む…ポールを切れてくれ!!!

 

 

 

 

 

『ファ、ファール!!!』

「なっ!?マジかよ…っ!!!」

 

 ふぅー…どうにか念が通じたか。

 薬師寺が悔しそうにベースへバットを叩きつけている。

 左足を外へ大きくステップし、自分から外角に変えて打ったのだ。打たれたショックより、らしくない強引なやり手でヒッティングされたという事実を知った時の驚きの方が強かった。

 

「みずき大丈夫だ!私を信じて投げろ!!」

「ええ!私も聖を信じて投げるわよ!」

 

 よし、動揺はしてなさそうでなによりだ。

 みずきは自分の置かれる状況が変わると、気持ちも良し悪し関係なく変化が激しい所謂ムラッ気である。

 こうして僅かな変化も見落とさないよう常に状態を確認しておかないと、周りを見失う事態にもあり得る。

 

(最後はインハイのストレートでとどめを……ん、違うのか?ならスクリューを……なっ!?)

 

 みずきにサインを送っても了承が来ない。

 何故だ?ついさっき私を信じて投げると言ってなかったか?他に投げれる変化球なんてもう── 

 

 

 

(まさかあの球を使うのか!?でも私がまだ捕球できるかどうか分からないぞ。それでも良いのか?)

 

 ええ良いわよ!と言わんばかりにみずきが大きく頷いた。

 私を信じると言ったのはキャッチングの事だったのか。

 ストレートでもスクリューでもない。普段のサイドスローよりも更に上半身の筋肉を捻り、人差し指と中指でボールに特殊回転を掛ける。

 

(血迷って外角に投げたな!今度こそスタンドインだ!!)

 

 ストレートとほとんど速さは変わらない。

 だが変化量は“第一のスクリュー”より二倍以上もの変化をして曲がる。

 

「くあっ!!?」

 

 相手バッターの死角へ消えてくその変化球は──クレッセントムーン。

 それはみずきの愛称で、私はこれをお化けスクリューと呼んでいる。

 なぜお化けなのか?それはこの変化量のせいで私でさえも捕球することが困難だからだ。

 面が邪魔でボールを見失い、仕方無くプロテクターで止めに入った。

 

 

 ドスッ

 

 

 鈍い音が私の腹部へ突き刺さるが、防具のお陰でそれほど痛みは無かった。

 前へ止めたボールを急いで捕り、薬師寺へそのままタッチをする。

 

 

『バッターアウッ!スリーアウトチェンジ!!』

 

 

 皆からおおっー!と歓声を受けながらベンチに戻るが、薬師寺は数十秒間時が止まったかのように棒立ちでバウンド地点を見つめる。

 少しして仲間の声掛けでやっと戻り、守備へと就いた。

 

「凄いよみずきちゃん!!ベンチから見ても変化してるのが見えたわ!」

「ふふっ!今のが私の秘密兵器、その名“もクレッセントムーン”よ!!」

「クレッセントムーン?何だそれ??」

「簡単に言えば通常のスクリューよりもスラーブ回転が多いスクリューよ。回転数が増えるからより斜めへ深く落ち、三振を狙いやすいボールでもあるの。ただ、変化が凄すぎて聖でさえしっかりキャッチングするのは難しくのよね。コレ自体は入学前にほぼ完成してたんだけど、まだ止めるのが精一杯だから多投は禁物なの」

 

 バッターの死角へ消えるとは、裏を返せばキャッチャーの死角へも消える。

 ましてや面をしているから普通のスクリューでさえも捕球は大変だ。今のように体を張って止めるのが現時点での得策だが、いずれは余裕でキャッチできるまでに特訓しなければならないな。

 

「でも立ち上がりの流れは完全にウチだ!この勢いを落とさないまま、どんどん突き放していこう!!」

『オォーッ!!!!!』

 

 薬師寺、見ていたか?これが聖タチバナの野球だ。

 まだ全ての選手が躍動しきってないが、私だって頑張ればお前を三振にすることだってできるんだ。

 きっとあおいや雅、矢部だってそうだ。

 強豪に入れたからって必ずしても勝てると思ったら間違いだぞ、薬師寺。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「君はどうして推薦を断ったのかしら?」

 

 試合を終えてグラウンド整備も完了した直後、早乙女と言う監督が突然俺にそう質問してきた。

 

「今日の試合はタチバナさんがここまでやりあうとは考えもしなかったわ。その原因は選手がまだマニュアル通りに動けなかったこともある。けれど一番の魂胆は…一ノ瀬大地君、君です」

 

 

 試合は二点リードのまま迎えた四回。二順目に入った薬師寺がセンター方向へ特大アーチを放って一点差に詰め寄ると、続く大場・石松・米倉が立て続けにヒットを打って二対三と逆転に成功。ここでピッチャーを涼子と交代し、二死二塁のピンチを何とか切り抜けた。

 俺と友沢はそのまま敬遠をされ続けて中々勝負をさせてもらえなかったが、七回に八木沼がライト前ヒットを放つと、聖ちゃんも左中間を破るツーベースヒットで一死二・三塁のチャンスを作る。

 ここで海堂は先発だった市原を下げ、阿久津を登板させた。球速はそれほどでもないが、奴の得意球である“ナックルボール”に翻弄され、友沢が内野フライで倒れた。

 

「そして君に打席が回り、ここを打ち取れば私達の勝利はほぼ確定と思っていた。でも結果は──」

 

 

 走者一掃の適時打を放ち、四対三と再び一点差に戻したのだ。

 阿久津のナックルを初見で打つのはまずあり得ない。それは誰もが思ってた事なのに、目の前に立つ少年だけは予想を百八十度行く結果を出した。しかも打った球種がナックルというオマケ付きで。

 最終的に九回の裏に抑えで入った宇津がど真ん中に失投してしまい、サヨナラツーランで逆転負け。

 結果は四対五で海堂高校が勝った。

 

「試合の中で成長していくその適応力と非凡な野球センスを買って、大貫さんが君に電話や手紙で推薦の話を進めてくれたはずよ。入学していれば甲子園どころかプロへの道だって約束されたはずなのに……なぜこのチームにこだわっ」

「約束したんです」

 

 拳をギュッと握りしめ、決意の瞳をしながらこう続けた。

 

 

 

「先月までボールさえも無かった弱小部を俺達だけで創り、そして海堂のような強豪を倒して甲子園へ行こうって。確かに海堂や帝王に行ってれば俺の力はここより遥かに個人としては劇的に向上すると思います。だけどそれじゃあつまんなくないですか?」

「つまらない…ですって?」

「人に敷かれたレールをただ進み、ロボットのようにあれこれ言われただけの事しかできない野球なんて俺は嫌です。どんなに弱くても、こうして信じ合える仲間と共に同じ分だけの苦労や厳しさを味わい、多くの経験を通じて絆を深める。精神論で古くさいかもしれませんが、俺はここにいるメンバーがそれを実行してくれると感じたからここへ入学したんです」

 

 自分の道は自分で切り開け──

 いつしか猪狩が俺に向けて言ったセリフだ。

 人にあれこれ言われてやるくらいなら、自分のやりたいようにやったらどうだ?だから僕は君をあかつき中へ誘い、仮に高校が別でも引き留めはしない。

 今でもその言葉は鮮明に記憶として残っている。

 

「そう…兄さんみたいな考えの人もここにいるのね……」

「ん、何か言いました?」

「ううん、なんでもないわ」

 

 くるっと後ろを振り向き、低い声で言った。

 

「私はその考えを否定するわよ。それで人が死んだら君だって辛いでしょ」

 

 どういう意味ですか?と聞こうとするが、早乙女さんはそそくさと早歩きでバスへと向かってしまった。

 人が死ぬってどういう意味だ?もしかして早乙女さんの過去と何か関係しているのか?

 色々考えるも答えなど出るわけもなく、腑に落ちないまま俺は皆の元へと戻った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 試合終了後、私と友沢はお爺ちゃんから来るようにと言われ、なぜか理事長室まで呼び出された。

 用件は分かっている。今日の試合の感想と、私が野球部への入部を認めてくれるかどうかの答えだ。

 理事長室へ向かうまでの足取りはとても重かった。だって試合には負けてしまい、挙げ句の果てに私自身も目立った活躍をしていない。本来なら価値どころか逆鱗に触れる内容であるため、心の中では諦めモード全開だった。

 

「心の準備はできたか?」

「うん…」

「泣くのは部屋を出てからにしろ。またどうなるか分かんないからな。んじゃ、入るぞ」

 

 コンコンコンとノックをし、友沢が先陣を切って入室した。

 

「失礼します、友沢です」

「失礼します、橘です」

「よく来たな。まぁそこへ座れ」

 

 思ったより機嫌が悪くないことに怖がりながら、指示された客用のソファへ腰を掛けた。

 

「今日わしは生まれて初めて野球の試合を見せてもらった。率直な感想を言うとわしは──

 

 

 

  もう…ダメだ…………

 

 

 

 

 

 

 

    みずきの入部を許可する」

 

 

 

「お願いお爺ちゃん!!次こそは勝つからもう一度チャンスを……って今なんて言いました?」

「何って…お前のに入部を許可してやると言ったんじゃ」

「え………ええ……えっ、

 

 

 

 

 

    ええええぇーーーつ!!!!!??」

 

 

 驚き、いや驚愕のあまり、私は普段出さないような狂った声を上げてしまった

 

「どど、どうしてなの!?だって試合には負けちゃったし、私は四回三失点で全然ダメなピッチングだったんだよ?!それなのになんで……」

「言っただろ?わしは価値のあるスポーツかどうかを示せと。試合には負けてしまったが、それでもお前さん達の頑張りや根性は評価させてもらった。荒削りだが、まぁ合格点じゃろう」

 

 ええー…てっきり負けたらもう終わりだってずっと考えてたからこんなにも胸が痛かったのに~!

 

「本当に良いの?私が野球をしてても」

「ただし今度は勉強を疎かにしてたら容赦なく退部させるから覚悟しておくことじゃな。ガッハッハッハッハー!」

 

 もう何がなんだか分からないわ…。

 入部が認められたのは嬉しいけど、改めてお爺ちゃんの考えている事が理解できないと感じたわね。

 

「それと友沢!」

「…何でしょうか?」

 

 すぅーっと息を吸い、一呼吸置いてとんでもない一言を放った。

 

 

 

 

「みずきの事、よろしく頼んだぞ。もし甲子園で優勝したらお前の嫁にやっても良いぞ」

 

 

「………え?」

 

 

 えっ、今お爺ちゃん何で言ったの?え、嫁にやってもって私がアイツと結婚して、アイツは私の婿になるってことなの?いや待ってあり得ないわよ!!!

 

「それだけは嫌です!!こんな自己中男と一緒に暮らすくらいなら貧乏と結婚した方がマシです!!」

「お前っ!?いくらなんでもそれは言い過ぎだろ!第一お爺さん、自分は貧乏な上に橘…じゃやくてみずきさんと暮らすなんて無理です!」

 

 あらら。お爺ちゃんがいる手前、私の名前を呼び捨てしなかったわね。友沢が悔しそうに私の方を睨むけど、軽く屈辱を浴びて私はせいせいしたわよ

 

「ガッハッハ!半分本当で半分嘘の話じゃから気にせんで良いわい!さてわしからは以上だ。ご苦労、帰って宜しいぞ」

 

 帰って良いと言われて私が席を立つが、友沢は全然立とうとしない。

 堪らず私が右腕を引っ張ってやり、理事長室を後にした。

 

 

 

 

「アンタどうしたのよ?さっきから様子が変よ?」

「別に…ちょっと考え事をしてただけだ」

「…まさかさっきの結婚話を本気で考えてたんじゃないでしょーね!?」

「はぁ!?そんなことを俺が考えるわけないだろ!全然違う事だこのアホ!」

「あ、そうなの…」

 

 私は少し考えてたなんて口が裂けても言えないわね。  そんなストレートに言われると本気でないにしろ私も少しショックを受けた感じがするわ。

 

「俺は嬉しいよ。お前が野球部に来てくれてれば投手層にも厚みができるし、実力だって俺が認めるくらいのぴだ。だから自信を持ってマウンドに立て。それで苦しくなったら真っ先に俺が助けてやるよ」

「友沢……」

 

 だから私は友沢が嫌いなんだ。

 ギザで嫌みったらしい普段が、いざという時は一番に私のことを考えてくれるのだから。本当は嫌いになのに、優しい部分が私の心をつつくと好きに変わっていくような……アンタはホント罪深い人間だよ。

 

「しょうがないわね!今日は特別に私と手を握って部室に戻る権利を与えるわ!感謝しなさいよ!!」

「そんな権利いらないけど…ま、貧乏人だから貰える物は貰っとくよ」

 

 相変わらずの嫌みったらしい喋り方。

 ムカッとしながらも、私はそっと友沢の左手を握ってみた。

 

(思ったより綺麗な手をしてるわね…)

 

 練習好きの友沢は言うまでもなく、手の平に数ヵ所ものマメが膨れていた。

 その不思議な感触と大事な物を慎重に扱うかのような温もりと優しさを肌で感じながら、私達は頬を緩ませて夕方の廊下を歩いていった。

 

 

 

 


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。